孫策

登録日:2010/03/05 Fri 16:49:15
更新日:2020/04/03 Fri 01:42:44
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孫 策(そん さく)とは「三国志」の英傑の一人である。字は伯符。


孫堅の息子で孫権孫尚香の兄、伯父には呉景(孫堅の妻・孫策の母の弟)など。
子は孫紹に娘が三人、妻としては大橋(喬)が著名だが、正妻の可能性は低い(演義では正妻)。
ぶっちゃけレイプされて連れてかれたワケで、しかも妾生活数ヶ月で一生貞操守らなきゃならなかった大橋の内心は憎悪しかなかったと思われる。
まあ、乱世だと当たり前。むしろ普通。
彼女が孫策の死後、愛人を作ったかも定かではない。

ちなみに周瑜はきっちりと正当な手段で貰ってるため、小橋は正妻。



【経歴】

◇前歴

175年生まれ。
盧江の名門貴公子・周瑜とは生まれが一月しか違わず、しかも幼なじみであったため、両者は寝起きを共にし、兄弟のように過ごしたという。
190年の「反董卓連合」では周瑜を伴って父の軍に参加。ただ、当時15歳の少年に何ができるわけでもなかっただろう。

191年、父の孫堅が劉表に返り討ちに遭うと、孫策は父の爵位「烏程侯」を引き継いだ。
しかし当時、孫家軍団の指揮権を握ったのは孫賁(孫堅の兄の子。孫策には従兄になる)であり、16歳の孫策は神輿にもならなかった。
孫賁はその後、劉表と和睦して孫堅の遺体も取り返し、一族を率いて袁術に合流する。
孫策も、一時は孫賁麾下から離れて徐州の広陵郡・江都県に移り住んだが、在地の名士・張紘の助言を得て再起を志し、193年に袁術のもとに所属。
すでに孫家軍団は孫賁が引き継いでおり、孫策の直属は呂範・孫河などわずかしかいなかった。

それでも袁術の勧めで、呉景と孫賁が攻略中だった丹陽方面で募兵を開始するが、在地豪族・祖郎に襲撃されて壊滅、孫策は命からがら逃げきった。
(その後孫策は呉景の支援を受けて孫河・呂範と連携し、祖郎を破る)


袁術麾下からは、孫策は好かれてはいた。張勳・橋蕤の両大将は年下の孫策を大いに尊敬し、袁術も「わしの息子にもこれぐらいの才能があれば」と嘆き、彼に「懐義校尉」の官職を手配している。
ただし「九江太守や廬江太守にしてやる*1」という約束は反故にしており、孫策は不満を抱いたとされる。
……ただし袁術は当時孫家当主だった孫賁を郡太守どころか予州刺史に任命するなど、孫家軍団に対してはしっかり礼遇しており、
そもそも仕官して間もない、二十歳になるかならんかの孫策が郡の太守になれるはずがないことを考えると、この話自体が創作か孫策がとんでもない世間知らずと考えられるが。


◇揚州攻略

194年、揚州刺史・劉繇が、曲阿を拠点、長江を境界として、張英・樊能・于糜の三将が防衛線を敷き、呉景・孫賁の攻撃を圧倒していた。
ここで孫策は袁術に進言し、呉景・孫賁の援軍として劉繇討伐に向かうから兵を貸してくれと頼む。
袁術が返してくれた*2のはわずか一千の兵と殄寇将軍・折衝校尉の官位であった。

ちなみに袁術としては、孫策が野心を持っているのは悟っていたが、劉繇のほかにも江南には強敵が多く、それらすべてを平らげてかつ自分の敵になるとは思えなかった(むしろ協力する余地があると見た)とのこと。

ただ、「わずか」といっても程普・韓当・黄蓋・朱治といった故・孫堅の幕僚がいたことは重要である。
孫静*3徐琨*4ら親族が支持してくれたり、呂範や周瑜ら中小豪族が行く先々で合流してくれたりして、
孫策隊が前線につくころには兵力が六千ほどにも増加
さらに周瑜の補佐と口利きもあって、地方名士の張昭・張紘ら、水賊出身の周泰・蒋欽・陳武・凌操・宋謙らを麾下に収め、人材層も厚くなった。

勢力を充実させた孫策は、堂々と長江を渡ると、まずは牛渚の劉繇軍兵站拠点を制圧して大量の物資を鹵獲
それを足掛かりに、孫賁らの進撃を阻んできた張英・樊能・于糜らの防衛線や、劉繇と組む笮融・薛礼らの軍、さらに曲阿の劉繇本隊をもことごとく撃破

笮融との戦いで太股に矢傷を負ったり*5、偵察中だった太史慈と鉢合わせして、史書にも珍しい激しい一騎打ちを繰り広げたりもしている。

劉繇本隊の駆逐後は江南一帯のさらなる平定に乗り出し、呉郡太守・許貢、会稽太守・王朗太史慈が束ねる劉繇軍残党、山越などの異民族、厳白虎など地方勢力を撃破。
呉郡、会稽郡、丹陽郡などを平定し、太史慈など旧敵対兵力をも傘下に加えて、江南に強固な基盤も作っていった。


◇袁術との対立

一方、そうした孫策の飛躍を苦々しく、あるいは痛しかゆしで眺めていたのが袁術である。
孫策は「借りた兵を返す」と称して呉景・孫賁とその部隊を送り返して彼との対立回避を図ったが、
これはある意味で「孫堅亡き後の孫家軍団の棟梁」であった呉景・孫賁を孫家軍団から切り離し、かつ江南の孫家勢力を完全に自分のものにするための策略でもあっただろう。
あるいは袁術のことだから、孫賁を焚き付けて孫策を抑えさせようとしたかもしれない。少なくとも孫一族の孫香を派遣して攪乱しようとは狙っていたようだ*6

しかし孫策は孫賁を「返し」、さらに袁術が「丹陽太守に」と派遣した重鎮・袁胤をも、力ずくで駆逐
ここに至り、袁術と孫策は完全な敵対関係に入った。

この対立関係を背景として、一時袁術の元に戻っていた呉景や孫賁、それに周瑜らも袁術を見限り孫策の下に再合流。
また魯粛・諸葛瑾・呂蒙・虞翻なども配下に加えている。


◇自立へ

袁術との対立は、とりもなおさず江南から中原への進出をも意味する。
また孫策は、西進して父の仇でもある劉表を討ち、荊州も制圧しようと狙っていた。

その一環として、まずは国内の反乱分子の粛清から着手。
もと呉郡太守で孫策に敗れた許貢が「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上表しようとしたのを知ると、劉邦を始祖とする漢朝に対する讒訴と判断して処刑するなどして、内部を固めようとした。
また、かつて孫策を破った祖郎が、袁術の支援で再び孫策の背後を突くと、激闘の果てについにこれを撃破、祖郎を傘下に加えた。


197年には袁術が皇帝を称する
孫策は袁術の対抗も兼ねて、献帝を擁立して漢朝の正統性を掲げる曹操に接近。袁術討伐戦で兵站支援をしたことで、討逆将軍の官位と呉侯の爵位をもらっている。
しかし、いずれも野心家同士の同盟関係は噛み合うはずもなく、199年の袁術死後はその残存兵力を巡って、引き込み工作で争ったりしている。

結局、袁胤を初めとする汝南袁氏勢力はほとんど孫策が併合し、その人脈を含めて、孫策の勢力はいよいよ増強された。
200年には総力を結集して荊州方面へと進撃し、劉表軍の前線司令官・黄祖の軍を壊滅させた。
この戦いぶりはすさまじく、劉表の援軍まで迎えた黄祖軍は全部隊が壊滅、兵士数万が戦死、軍船六千が鹵獲、黄祖は妻子まで捕えられるなか、身一つで逃げ延びたという。
戦況を聞き調べた曹操をして「獅子の子とは戦わんほうがいい」とまで言わせたほどの完勝であった。


◇転落

一方孫策は、西の劉表戦とは別に、北上して曹操や陳登を打破しようと狙っていた。
特に陳登とは因縁があり、かつて二度にわたって撃破されている。

折しも西暦200年、河北の雄・袁紹が曹操と決戦していた「官渡の戦い」の時期である。
孫策は袁紹と密かに連携し、曹操が北の戦線に主力を差し向けている時期に、許昌か徐州かを制圧しようとしていた。

しかしその準備中、仮のさなかに一人になったところを、亡き許貢の残党が放った刺客に襲撃される
彼らの放った矢は孫策の顔を貫き、何とか逃げ帰ったものの致命傷となった。
死を悟った孫策は、後任には幼い息子ではなく弟の孫権を指名し、後事を張昭らに託して亡くなった。享年わずかに26歳。


【評価】

史書に記されるぐらいのイケメンで、闊達に笑う親しみやすい性格だった。それで多くの人から好かれたという。
あの袁術でさえ「こ奴がわしの子であれば、死んでも悔いはないものを!」とまで言い切った。

ただし、支配者としては苛烈な一面もあり、敵対勢力や在地豪族を殺しまくったという。
それで多くの人士が荊州や交州へと逃亡したり、遺族が恨んで刺客を放ったりしており、特に後者が死因にもつながった。
陳登や陶謙も彼を憎んでおり、特に陳登は孫策暗殺の黒幕ともいわれている。

その苛烈さのおかげで、軍人としては極めて優秀
孫賁が破れなかった劉繇の防衛線をあっさり大破し、江南各地をあっさり平定し、黄祖の軍を全滅させ、その勢いはあの曹操からも恐れられている。
機を見ること自体が敏感であり、袁術残党の奪い合いでは、巧みな謀略を素早く巡らす一面もある。

もし彼が暗殺されなければ、確かに曹操は袁紹・孫策に挟撃されて、滅亡したかもしれない。
すると袁紹VS孫策で一足早く南北朝時代が訪れただろうか。

しかし結果を考えると、軍人としては懸絶していても、政治家・支配者としての素質には欠けていたといえる。
ある意味では許貢が言ったとおり、項羽とよく似ていたといえる。


なお、後継者の孫権はのちに皇帝となった際、孫策には皇帝位を追贈せず、「長沙桓王」とした。
しかも彼の子孫はその王位すら継承されず「上虞侯」である。王でも公爵でもなく侯爵だ。
陳寿によると、建国の君主に対しては常軌を逸した追贈形式(むろん悪い意味で)であったらしい。

内心は不明だが、どうやら孫権は兄・孫策を嫌っていたようだ。
考えられる可能性としては、孫策の子を建てずに君主になった孫権を「簒奪者」としてけなす勢力が一定以上いて(あるいは孫策の遺児を「正当な後継者」とて担ごうという勢力がいて)、それが孫権の内心のしこりになっていたのかもしれない。
また孫権は軍人としての能力・成果に欠けていたため、それで周囲から比較されて、コンプレックスを募らせていたとも考えられる。


余談ながら、孫策の孫は孫皓に殺害されており、家は絶えている。


【各作品での孫策】


●横山三国志
アニメと原作で違う。
アニメだと劉備らと出会う描写があるが、呉郡平定が描かれて居ない。

蒼天航路
「乱世を打ち砕くのはこのたぎる心ではないか!」
何故か満州族の髪型をしている。
董卓討伐の時から父親の軍に周瑜と従軍し、長江からダイブしたり、色々と忙しい。
が、やはり曹操の背中を突こうとした所で刺客から受けた毒で死亡。
呂蒙に伝わる血噴き芸を披露した。

●三国志大戦
自爆付き超絶強化の『小覇王の蛮勇』、色々豪華だけど結局自爆する『小覇王の快進撃』、(笑)扱いだったが現在は屈指の強カードの『雄飛の時』の三枚、いずれも超絶強化で、勇猛と魅力の特技を持つ。
単独で自爆するので大喬よりも小喬との相性が良く、散々不倫デッキと言われネタになってる。
3.1で追加された蒼天LEは蛮勇で「周瑜、俺達の時代が来たのだ!(計略)」→「俺は天命に追い付かれたよ(撤退)」とこちらもネタに。
3.59で特技によって付加効果の『究極の大号令』が追加された。もちろんカードイラストはどっかの新聞記者、故に勇猛はない。
また、娘も参戦した。娘との相性は良好である。
リブート後は『究極の大号令』以外の3枚が続投と安定感を見せている。しかし雄飛の方は3コストにまで上げられたため、こちらは大きく使用率を落とした。
そして1.5コストの方も追加されたが、カードイラストが項羽。小じゃねえじゃねえか!

●無双シリーズ
爽やかかつ暑苦しいアゴ鬚アニキ。得物はトンファー。
イントネーションが変なセリフがあり、戦国無双でセルフパロディされたずぇ!

●白井式三国志
初登場シーンですでに幽霊、生前の初登場は死にかけという薄幸キャラ。
玉璽掘り当てネタでよく登場する。

●一騎当千
主人公で爆乳。史実を上回るアホな戦闘マシンのメスゴリラ。周瑜くんとは従姉弟関係。
主人公として時たま成長していったりするが、最近、寝てるか空気になりやすい。アニメ2期では主役を関羽さんに取られた。
ハヤテのごとく!』では中の人が同じ朝風理沙から「主人公の影が薄い方」「見てて面白い」などと言われていた

●恋姫無双
『真・恋姫無双』より登場。真名は雪蓮(しぇれん)。
奔放で人好きのする君主という面と、冷酷で容赦をしない君主という面を持つ。
戦闘狂の気質もあり、かなり複雑な性格をしている。ちなみに素は自由奔放な方。
呉ルート中盤で戦死するが、そのシーンは呉ルート屈指の燃えシーンと名高い。

●天地を喰らう
いたようないなかったような…

●ブレイド三国志
呉編の主人公。
持ち前の声と度胸で難敵を退いている。
彼の歌声はジャイアンにも匹敵する程である。
途中覚醒する覇王モードはもはや主人公補正。
劉備とか…曹操にもあるのだろうか?

BB戦士三国伝
孫策サイサリスとして登場。
三国無双リスペクトか、アトミックバズーカがモチーフのトンファーを獲物とする偉丈夫。




追記、修正宜しくお願いいたします

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