登録日:2016/02/12 (金) 20:30:38
更新日:2024/12/29 Sun 05:20:02
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すべての時代を通じてのベストプレーヤーと言えば、
ディエゴ・マラドーナやミシェル・プラティニになるだろうね。
ただ、僕のナンバーワンは永遠にエンツォ・フランチェスコリだよ。
歴代ベストプレーヤーのトップ5に入らないかもしれないけど
僕にとっては最も偉大な選手だし、インスピレーションを与えてくれたんだ。
エンツォ・フランチェスコリ・ウリアルテ(Enzo Francescoli Uriarte、1961年11月12日生まれ)は、ウルグアイ出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。
すらりとした細身の体に、流れるように優雅なボールさばき、そしてアクロバティックなゴールの数々が特徴の、80~90年代を代表するファンタジスタの一人である。
経歴
第1次リーベル時代
1961年、首都モンテビデオのカプーロ地区にて貿易会社の会計士の父と専業主婦の母との間に生まれる。
幼い頃から才能の片鱗を見せており、国内の名門であり憧れのクラブ・ペニャロールのトライアルの一次選考に通っていたものの、
サレジオ会学校のチームで駆け出しのキャリアを続けることを選択した。
本人曰く、選考に通っていたにもかかわらずやめた理由は、当時6千人もの子供が受けており、午後からずっと待たされてうんざりしたから……らしい。
14歳の頃、古豪モンテビデオ・ワンダラーズの下部組織にいた幼なじみが監督に推薦したことにより、そこに入団。
ワンダラーズは決して華やかなチームではなく、人手不足からしばしば異なるポジションでプレーしなければならなかった。
さらに彼自身まだ学生だったので、土曜日に授業があり、試合に遅れて来ることもあった。
それでも彼はチームにとって重要な存在であり、コーチたちは彼が到着してすぐに試合に参加できるよう、10人で試合を開始したほど。
ワンダラーズのユースチームの戦術は、奪ったボールをエンツォに渡す。以上!という「戦術エンツォ」状態だった。
それだけ、あり余る才能を持っていたのである。
19歳でトップチームデビューを果たすと、ワンダラーズはほぼ半世紀ぶりの好シーズンを過ごし、リーグ準優勝を果たしている。
これだけの才能が小さなクラブの器に収まることはなく、83年にはアルゼンチンの名門
リーベル・プレート(以下リーベル)に移籍金36万ドルで引き抜かれた。
ワンダラーズのソシオ(クラブ会員)達は、何としてでもエンツォを残そうと資金をかき集めて、移籍を阻止しようとしたという。
この頃から、彼はファンに愛されていたのだ。
さらに「
マラカナッソ」で活躍した、ウルグアイの英雄ファン・アルベルト・スキアフィーノというよしみもあって
ACミランも動いたことから、リーベルは彼の獲得に難航したという。
初年度は怪我と多大なプレッシャーに苦しみ、リーベルも19チーム中18位という惨憺たる結果に終わった。
当時のリーベルは過渡期で、ベト・アロンソ、ダニエル・パサレラ、ラモン・ディアス、マリオ・ケンペスといった偉大な選手たちが去っていた。
さらにリーベルは財政的な問題を抱えており、給料未払いまで起こっていたためベテラン選手たちは試合のボイコットを宣言、ファンがそれに反発という悪循環に陥っていた。
リーベルに入団して間もなく、エンツォはいみじくも語っている。
私について色々と報道されていましたが、多くの人が私のことを救世主のように思っていました。
でもそれは違います。リーベルには一流の選手がたくさんいて、自分はその中の一人に過ぎないのです。
日曜日にしなければならないのは、自分だけが注目されると思わないこと。
もっとも、世界最高のクラブの一つにたどり着いた以上、引き下がるつもりはありませんが。
彼の真価が発揮されたのは翌シーズンからだった。
84年、リーベルはリーグ準優勝。エンツォは得点王とリーグ最優秀選手に輝き、さらにウルグアイ人初の南米年間最優秀選手賞を受賞するという栄誉にも輝いた。
85-86シーズンには念願のリーグ優勝を果たし、再び得点王の座に。
中でも86年、ポーランド代表との親善試合で決めたバイシクルシュートは語り草となっている。
本人も「もし公式戦であれば、間違いなく歴史に残るゴール」と断言するほどのゴラッソ(スーパーゴール)なので必見。
これらの活躍により、彼は「王子様」の異名で呼ばれるようになる。
端正でどこか憂いをたたえたルックスや、まるで舞うように美しいプレー。まさにこの呼び名にふさわしい。
彼と同郷のコメンテーターであるビクトル・ウーゴ・モラレス氏によると、名前の由来はこうである。
私がいつもタンゴの歌〝Príncipe〟を口ずさんでいたから、その名前が付いたんだ。
彼がゴールを決めた時、この部分を繰り返した。
「私は王子、ゴールこそわが愛」
さらにエンツォは、憂いを帯びて悲しげでありながらも、王子様らしい気品に満ちていて、このニックネームがぴったりだった。
しかしメキシコW杯終了後、アルゼンチンの経済悪化のあおりを受けて、ヨーロッパに移籍せざるを得なくなる。
南米出身選手の多くは言葉が通じる(あるいは近い)スペインかイタリアに渡るが、彼は珍しいことにフランスリーグに移籍した。
……その数ヵ月後、リーベルはコパ・リベルタドーレスを初制覇する。もちろん、その出場権獲得に貢献した彼の功績を忘れる者などいなかった。
ヨーロッパ時代
移籍先のラシン・パリは当時、自動車会社の「マトラ」がスポンサーとなり、「マトラ・ラシン」と名を変えていた。
30年代から40年代にかけて黄金期を謳歌したこのクラブは64年に2部に降格して以来、下部リーグで低迷していた。
強力なスポンサーを得たラシンは捲土重来とばかりに20年ぶりに1部リーグ昇格、エンツォの他にもピエール・リトバルスキーなど大物を獲得していた。
ある意味、選手集めには金に糸目をつけない現在のビッグクラブを先取りしていたと言ってもいいだろう。
ところが大方の予想に反し、ラシンは苦戦。リーグ戦でも降格圏内に沈み込んだ。
エンツォ自身は所属した3シーズンで合計32ゴールを記録したにもかかわらず、である。
そして、これに業を煮やしたマトラが88-89シーズン終了後スポンサーから下りたことでラシンは破産、4部リーグからの出直しを余儀なくされた。
このシーズン終了後、エンツォはオリンピック・マルセイユへと移籍する。
当時のマルセイユにはジャン=ピエール・パパン、アベディ・ペレ、クリス・ワドル、ディディエ・デシャンなど中盤から前線にかけて名選手がひしめいていた。
「あれはおかしな一時期だった」とワドルは振りかえる。
ただでさえ前線の選手が豊富だった所に、ベルナール・タピ会長は最後の1ピースとして、彼らに匹敵するアタッカーをさらに欲したのである。
86年にこのクラブを買収した実業家のタピは92年から93年にフランソワ・ミッテラン内閣の都市問題担当大臣を務めるなど、
サッカー界以外でも知名度や人気を博する時代の寵児だった。
低迷していたマルセイユはたちまち、91-92シーズンまで4連覇を達成するなどクラブの黄金期を築きあげた。
また、ワドルはエンツォについてこう述懐している。
エンツォは気のおけないナイスガイだった。
マラドーナと並ぶ南米のスーパースターだったというのに、気取ったところがなく、親切で、他の選手全員から好かれていた。
南米の人間の常で、おかしなタバコを吸っていたがね。
能力はもちろん、素晴らしいものだった。
世界一速い選手ってわけじゃないが、いいバランスと、いいビジョンを持ち、偉大な選手が皆そうであるようにサッカーをよく知っていた。
ある選手のどちら側にパスを出せばいいかが、彼にはちゃんとわかっていたんだ。
彼が育った環境では、サッカーは狭い空き地で行われていた。
近距離のワンツーをたくさん交換しながらね。
イングランド人の選手ならきっと、『縮こまってないでピッチを広く使え』と言うだろう。
でも彼は、自分のスキルを駆使してその密集から抜け出したいんだ。
私は彼とのプレーを楽しんだよ。なぜなら私自身、そういうプレーが好きだからね。
それと南米人の多くがそうであるように、彼はピッチで自分を抑えることができた。
誰かにちょっと乱暴なことをされても、彼はじっとこらえる術を持っていたんだ。
そんな風にして、彼は育ってきたんだろう。
しかし、リーグ優勝し、ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手賞を受賞したとはいえ、チームに噛み合っていたかというと別になってくる。
当時のクラブの戦術は、まずデシャンかもう一人のMFがワドルにボールを入れ、それをパパンかペレに繋ぐというものだった。
そのため、本人は思うようにボールに触れることができなかったようだ。
決定的だったのは、UEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)準決勝ベンフィカ戦の1stレグ。
マルセイユは2ndレグ1-0で破れ敗退。彼は何度もミスをし、戦犯の一人となってしまった。
結局エンツォは、1年でマルセイユを離れることとなる。
……だが、その活躍を見るため、マルセイユのベロドローム・スタジアムに足しげく通っていた当時17歳の少年がいた。
───少年の名前はジネディーヌ・ジダン。
後にフランス代表をW杯初優勝に導き、主要タイトル・個人タイトルを総なめにすることになる男である。
その後イタリアへ移籍したエンツォ。
カリアリでは2年連続で降格の危機にさらされ続けたが、3シーズン目でようやく上昇気流に乗り、6位に。UEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)出場を決めた。
ファンからも愛されていて、後のファン投票ではカリアリの歴代ベスト11に選ばれている。
事実、カリアリ最高の外国籍選手の一人とも言われ、初スクデットに導いたルイジ・リーヴァや地元サルデーニャの英雄
ジャンフランコ・ゾラに次ぐとの声も。
93-94シーズンには、セリエA屈指の名物会長マッシモ・チェリーノとそりが合わずトリノに移籍するが、24試合3得点と期待を大きく裏切る結果に。
すでに33歳となっていたエンツォは94年、ヨーロッパから古巣であるリーベルへの帰還を決断する。
第2次リーベル時代
かつて活躍したクラブへの復帰。それはえてして不本意な結果に終わりがちだ。
絶頂期の輝きが大きければ大きいほど、そのギャップは大きくなり、名声を地に落とすことになりかねない。
ところが彼の場合、その反対という希有なケースとなった。
それは、輝かしいキャリアの締めくくりにふさわしい美しきものだった。
彼がいなくなった8年の間に、アルゼンチンリーグは2シーズン制に移行していた。
引退までに過ごした3年半で、前期・後期リーグ合わせて4度リーグ優勝。2度目の得点王に輝き、95年には2度目の南米年間最優秀選手を獲得。
96年には念願のコパ・リベルタドーレス制覇。クラブ世界一の座をかけて、トヨタカップ(現FIFAクラブW杯)に臨むことになる。
相手は
ユベントス。そこには……
成長して選手となったジダンがいた。
選手とファンとしてでなく、共に選手として再会し、さらに敵味方に分かれてピッチに立つ。
なんという見事な運命のめぐりあわせであろうか。
出典:ワールドサッカーマガジン2004年5月20日号70P
試合は81分、コーナーキックをジダンが頭でつなぐと、
アレッサンドロ・デルピエロが右足で決め、ユベントスが1-0で勝利を収めた。
だがそれ以上に、ジダンにとってこの試合は何にも代えがたい、幸福で素晴らしいものだっただろう。
少年時代のあこがれの人と、ピッチ上で競演することができたのだから。
試合終了後、ジダンは真っ先にユニフォーム交換を申し出た。そして、
息子に「エンツォ」と名付けたことも話した。
───自分を目標としてくれた選手が、子供に自分の名前を付けてくれた。これほど選手冥利に尽きることはないだろう。
エンツォは次代を担うファンタジスタに「幸運を祈ります。息子さんによろしく」と礼を述べた。
この時交換した背番号9のユニフォームは、生涯の宝だとジダンは言う。
98年2月、エンツォは引退を表明する。
99年8月1日に行われた引退試合で対戦相手に指名したのは、ペニャロール───少年時代の憧れのクラブだ。
試合にはリーベルのチームメイトはもちろん、かつての仲間たちが多数参戦し、
モヌメンタル・スタジアムの客席にはアルゼンチンのカルロス・メネム大統領やウルグアイのフリオ・マリア・サンギネッティ大統領の姿も見られた。
「ウールグアージョ!ウールグアージョ!」というおなじみのチャントがモヌメンタルに響き渡り、8万の観客たちは偉大なる選手との別れを惜しんだ。
86年にリーベルを去る直前、エンツォはこう語っている。
サッカーは私を見放さないし、何もせず座っているわけにはいかないんです。
分かるかい?
ただ一つ望むのは、“その日”が来たら、みんながこう言ってくれること。
「素晴らしい選手だった、でもそれ以上に素晴らしい人だった!」
ベト・アロンソが彼の子供たちに、「私はフランチェスコリと一緒にプレーしたんだ。彼がどれだけ素晴らしい奴だったか君たちには分からないだろう」と言ってくれたら嬉しい。
30年後にアメリコ・ガジェゴやネリー・プンピードと再会したとき、彼らを抱きしめて挨拶できるような関係でありたい。
結局の所、本当に大切なのは子供たちに残せるサッカーのイメージや教えよりも、人としての振る舞いです。
サッカーだけが人生ではありません。助言を与えられるように心を整え、良き人であるために魂を磨くことが大切なのです。
その言葉を実現させた彼は、ファンたちの大きな愛情に包まれながら、リーベルのレジェンドとなったのだ。
代表での活躍
それは、自宅で両親とゆっくりマテ茶を飲んでくつろいでいた時のこと。
ふいに電話の呼び出し音が鳴り響いたが、状況が状況だったため、誰も対応できなかった。
しばらくして自宅に警察官がやって来て、こう告げた。
「サッカー協会の関係者が警察署に来た。君のことを探している」と。
かくして両親と共に署に出向く羽目になったエンツォ。果たしてその運命は……
何を言っているのかわからないと思うが、実際本人も移動中まったく状況が呑み込めなかったらしい。
が、その旨を告げられた途端、喜びのあまり思わずその場にいた警察官と熱き抱擁を交わした。
こうして彼の代表歴は始まったのである。
81年にエクアドルで開催された南米U-20選手権では、ライバルのブラジルと
アルゼンチンを相手にゴールを決め、ウルグアイの優勝に貢献。得点王・大会最優秀選手に輝いた。
83年のコパ・アメリカ。ウルグアイは最初の2試合に勝利しながらもチリにまくられ、最後のベネズエラ戦で薄氷の勝利。ギリギリでグループリーグを突破した。
この不甲斐なさから、オマール・ボラス監督はチームに若さを取り入れることを決め、準決勝ペルー戦にてエンツォを先発させた。
この選択は実を結び、ウルグアイは2試合の合計2-1で勝利。
決勝のブラジル戦ではA代表初ゴールとなる先制点を決めて優勝の立役者となり、ここでも大会最優秀選手を受賞した。
しかし、満を持して臨んだメキシコW杯では大きな挫折を味わうことになる。
グループリーグ初戦の西ドイツ戦で引き分けたものの、デンマーク相手に
1-6の大敗。
このことは彼にとってトラウマになっており、「私が求めるのは、全てのウルグアイ人に許しを乞うことだけです」と発言している。
2分け1敗の3位で辛くも予選を突破するも、決勝トーナメント1回戦でかのマラドーナ擁するアルゼンチンと当たり、0-1で惜敗。ベスト16に終わる。
だが、試合終了直後のマラドーナは明らかに不満そうだった。この試合では彼のゴールが取り消されていたのだ。
「俺は得点王になれないんだろうか……?」と、わざわざエンツォに問いかけてきたという。
事実、この取り消された1点が響き、得点王の座は
イングランド代表のゲーリー・リネカーに譲る形になってしまった。
ちなみにアルゼンチンの次の相手はイングランド。そう、あの「神の手」、「五人抜き」ゴールが生まれたサッカー史に残る伝説の試合である。
87年のコパ・アメリカ準決勝では開催国のアルゼンチンと対戦。アントニオ・アルサメンディの決勝ゴールをアシストして勝利し、前年W杯の雪辱を果たした。
が、決勝戦、対戦相手のチリは悪質なファールの集中砲火を浴びせ続け、しびれを切らした彼は相手に
頭突きをかましており、前半26分に退場。
ジダンはいらん所まで似てしまったようである
ウルグアイは優勝したが、結局この決勝戦は二人ずつ退場者を出すという荒れまくった試合となった。
90年のイタリアW杯には主将として出場。
1勝1分け1敗と最低限の成績でグループリーグを突破するものの、決勝トーナメント1回戦で開催国イタリアに破れる。
エンツォも4試合無得点と、本来の力を出し切れないままだった。
その後、ウルグアイ代表はさらなる迷走状態となる。
というのも、当時のルイス・クビージャ監督は「イタリアでウルグアイの試合を見ていたら眠くなった」と礼節のかけらもない言葉を言い放った挙句……
海外組を「祖国に貢献しない傭兵」呼ばわりし、召集すらしなくなったのだ。
そのため、冷遇された選手たちは代表をボイコットせざるを得なくなった。
事件の背景には、エンツォら多くの有力選手を抱え、代表にさらなる影響力を持とうとしていた大物代理人パコ・カサルとウルグアイサッカー協会の、国内リーグの放映権をめぐる対立があった。
こうしてチームは分裂、国民やマスコミ関係者から敵対視され、結果を残せなくなってしまった。
91年のコパ・アメリカはグループリーグ敗退。
アメリカW杯の南米予選敗退が決まった時は監督から「あの売国奴のパスポートを取り上げろ!」と罵られ、彼は
スタジアムの片隅で涙していたという……
そこからW杯での代表は02年の日韓大会出場、そして10年の
南アフリカ大会ベスト4まで長い雌伏の時を過ごすことになる。
しかし95年、地元開催となったコパ・アメリカでは監督が代わったこともあり大車輪の活躍。
グループリーグで2得点を挙げて1位突破に大きく貢献すると、決勝トーナメントも順調に勝ち上がり、3大会ぶりの決勝へ。
決勝のブラジル戦はPK戦にもつれ込み、ブラジルは3人目のトゥーリオが失敗。
後攻のウルグアイは1人目のエンツォを始め5人全員成功し、4大会ぶりの優勝を果たした。
そして彼自身にとっては、コパ・アメリカにおいて3度目の栄冠に輝いたのである。
その他のエピソード
- 名前はスペイン語読みだと「エンソ・フランセスコリ」になる。日本語表記も「エンソ」「エンゾ」と揺れている。
また、元々「ヴィチェンツォ」と名付けられるはずだったが、苗字の時点で長いので「エンツォ」と縮められた。
- 「王子様」のニックネームで呼ばれる以前は「Flaco(やせっぽち)」「Carretilla(手押し車)」と呼ばれていた。
後者の由来は顎が長いことから付けられたという。
- 好きな言葉は、フォルクローレの巨匠アタウアルパ・ユパンキの「外にあるものは借りものだから、内側にあるものを大切にしなければならない」。
内面を重んじる彼らしいチョイスである。
- 04年、サッカーの王様ペレが選出する『偉大なサッカー選手100名』に選出された。
- 95年から03年まで、ウルグアイのユニセフ親善大使を務めていた。
ここでも彼は謙虚な姿勢を貫いており、インタビューでこのように答えている。
Q.あなたはユニセフの親善大使で、病気の人々を気にかけ、ファン一人ひとりに立ち止まることができる。
イメージを保つためにそれをしているのですか?
A.私は私。聖人でも狂人でもありません。
そんな感じで、あまり多くは語っていないのです……
時々、人々は私が素晴らしいアドバイザーだと思うようですが、例えば20歳の若者に近づいて「これをやるべきだ」とか「こうしなければならない」とか言うのは好きではありません。
もしかしたら「ちょっと待って、落ち着いて!」と思われるかもしれないから。
Q.人々があなたについてどう思うか気にしていますか?
A.誰も他人に悪く思われたくないと思います。
人々が何を言ってくるか気にしないなんて、馬鹿げているでしょう。
結局のところ、気にする度合いは人それぞれですが、みんな少なからず気にしています。
私は、素晴らしいサッカー選手として覚えてもらいたいですし、その上で「いい人だった」と言われるなら、それは素晴らしいことです。
Q.でも、なぜ人々はあなたを聖人のように見るのでしょうか?
A.私は聖人でも天使でもありません!
私の子供たちにはそういう風に考えてほしいと思っています。それが私の目的なのだから。
アルゼンチンでの人々の愛情には常に感謝していますが、私たちはこの人生で、次の世代のために生きているのです。
この場合、私の子供たちのためであり、彼らが父親についてそう思えるように全力を尽くしています。
彼自身、「特別な才能を除けばごく普通の市民」と謙遜している。
が、今でもテクは錆びつかず、「アイデアが足元に届く頃には、ボールはもう蹴られています」と答えている辺り、本物の天才肌である。
- 引退後は家族と共にマイアミに移り住み、同郷のDFであったネルソン・グティエレスと共にTenfierd社資本のサッカー専門チャンネルであるGOL TV社を設立した。
ちなみにTenfierd社はウルグアイサッカー界のドンと言うべき存在であり、日本で言えば読売グループといったところだろうか。
- 13年リーベルの強化マネージャーに就任。14年彼から絶大な信頼と期待を寄せられて監督に抜擢されたのは、元アルゼンチン代表の頭脳派MFマルセロ・ガジャルド。
15年、エンツォの時代から実に19年ぶりにコパ・リベルタドーレスを制覇。リーベルはFIFAクラブW杯のために来日した。
エンツォも来ていたので、ひょっとしたら彼と遭遇された方もいるかもしれない。
- ブラジルW杯直前、左ひざ半月板を負傷したルイス・スアレスの手術を担当した医者はエンツォの兄(ルイス・フランチェスコリ氏)である。
- 偉大な選手だけあって『Inmenzo』というオマージュソングが作られている。
これはinmenso(広大な、途方もない)+Enzoの造語で、ニュアンス的には「途方もなきエンツォ」か。
- ウルグアイ代表やリーベルでレジェンドのエンツォ。
代表でもクラブでもマラドーナのライバル関係に当たり、何度も対戦している彼だが、二人は強い絆で結ばれていた。
95年11月26日に行われたリーベル対ボカの試合、二人は報道陣の眩いばかりのフラッシュの中、異例とも言えるほど長く抱擁をかわしていた。
アルゼンチンで最大のライバル関係にあるクラブの対決であることを考えると、その光景はとても崇高なものに感じられるはずだ。
また、一部のリーベルファンからエンツォが非難されていた時には、マラドーナは全力で擁護さえしている。
頭沸いてんのか?理解できねえ……
アルゼンチンが、いの一番に敬意を払わなきゃいけない奴じゃないか。
俺はあいつのことを腹の底から尊敬してるんだ。
リーベルの奴らには、エンツォのことを愛し続けてほしいね。
エンツォは偉大……本当に偉大なんだ!
それだけに、マラドーナが亡くなった時、エンツォはその死を悼む言葉を残している。
最近はあまり会えてなかったけれど、私たちには多くの共通点があり、常に異なるチームの色を着たライバルだったという事実を超えてサッカー人生を共に歩みました。
私には彼の素晴らしき寛大さ、特に友人たちに対してごく普通の人間だったというあり方が印象に残っています。
楽しみながら、さらなる高みを目指していた……そんな風に覚えていたい。
そして大統領官邸に弔問に訪れた彼は、遺族に直接哀悼の意を伝えている。
総括
彼は南米を中心に活躍したものの、結局時代の問題もあり、W杯には縁の無い選手だった。
しかし、挙げてきた重要かつ美しいゴールの数々、温和でつつましい性格、淡々と仕事をこなす姿にプロ意識を見出していたファンは多い。
実際、
リーベル最大のライバルであるボカのファンですら、彼に対しては敬意を持っていて、本拠地ボンボネーラでも拍手で迎えていたほどだった。
何より、彼の存在なくしてジダンの存在もなかったといっても過言ではない。
そしてジダンの他にも、彼の影響を受け、尊敬している選手はたくさんいる。
エルナン・クレスポ、
パブロ・アイマール、ハビエル・サビオラ、
アルバロ・レコバ、見た目もそっくりなディエゴ・ミリートなどなど……
星は星を生む。その輝きで人の人生を照らし、道標として大きな影響を与えるのが真のスターなのだ。
ラストゲームの後、あるリーベルファンはウェブサイトに彼への賛辞を書きこんだ。
水晶のようで、前向きで、姿勢正しく、正直で、無口。
彼の口から乱暴な言葉を聞いた者はいない。彼をスキャンダルに巻き込んだ者もいない。
夜遊びもしなかったし、暗黒街の住人と体面を汚すような写真を取られる事もなかった。虚勢とも無縁だった。
フランチェスコリは模範であり続ける。彼はサッカーの、そして人生の王子様だ。
追記・修正は、息子に「エンツォ」と名付けてからお願いします。
最終更新:2024年12月29日 05:20