アレッサンドロ・デルピエロ

登録日:2011/05/19 Thu 00:48:08
更新日:2024/11/09 Sat 23:01:03
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アレッサンドロ・デルピエロはイタリアのサッカー選手。
かつてイタリアの名門ユベントスで長きにわたって10番を背負ったファンタジスタ。
現在はインドのデリー・ディナモスFCの10番。
90~00年代初頭を代表するスター選手の一人であり、親日家でもある。
そのため日本にもファンが多い。


また、任天堂信者でアニヲタでウイイレヘビーユーザーで新日プロレスのファンという限りなく俺達に近い存在でもある。
ファミ通の表紙を飾った事もあり、巻末のインタビューで任天堂信者である事を語っていた。

世界中で最も知名度のある選手の一人だろう。
90年代セリエA全盛期から現在までに、数多くのタイトルを獲得し、世界中にその名を轟かせた。
また、その紳士的振る舞いやファンを大切にする姿勢も評価されている。



プレースタイル

右利きで有りながら、試合中は左サイドに流れてボールを貰い、そこから崩しとフィニッシュに絡む。
ドリブル、パス、シュートの全ての技術が高く、そこに閃きとセンスでアクセントを加え、誰にもマネできないプレーを連発する。
所謂ファンタジスタと呼ばれる人種である。
また左斜め45度から変態ゴールを量産したため、後にこのエリアは「デルピエロゾーン」と名付けられ、彼の代名詞となった。


セリエA、Aリーグでの活躍


92年に当時セリエBのパトヴァからユベントスに移籍。
94年にバッジョの怪我をキッカケにチャンスを掴むと、周囲の予想を遥かに超えるプレーを見せ、主力として活躍。
これが首脳陣にバッジョ放出を決断させ、以後デルピエロは長きに渡りユベントスのシンボルとして君臨する。

それから彼は多くのタイトルを勝ち取った。
スクデット、ビッグイヤー、インターコンチネンタルカップ……
特に96年のトヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)で決めたゴールは、当時のサッカー少年達を虜にした。




しかし、そんな彼に試練が訪れる。98-99シーズンのウディネーゼ戦で大怪我を負い、約一年間を治療とリハビリに費やした。
そしてその一年間で、彼はスピードを失った。
ピッチにいたのは、ドリブルのキレを失い、不様なまでにDFに止められる惨めな彼だった。
そしてファンも、マスコミも、彼をバッシングする。

「もう終わった選手」
「PKばかりで点を稼いでいる」

そんな批判が一年以上続く。




しかし







試練は乗り越えられない人に襲いかかりはしない






01-02シーズンに16ゴールを決めて完全復活。チームもスクデットを獲得し、ラツィオ、ローマに奪われた覇権を奪い返す。
翌02-03シーズンも16ゴールを上げチームのスクデット連覇に貢献。チャンピオンズリーグも決勝まで駒を進める(ミランにPK戦で敗退)。

03-04シーズンは、出だしこそ好調だったものの、第6節で負傷し調子を崩してしまう。
その後自身もチームも低空飛行を続け、チャンピオンズリーグ早期敗退、国内はミラン、ローマに完膚無きまでに敗れるなど、満足のいくシーズンではなかった。

04-05シーズンは再び試練の年となる。
長身変態DQNズラタン・イブラヒモビッチの加入で出番が激減。
カペッロは、デルピエロを3トップの左やトップ下で起用するも、どちらかと言えばスーパーサブ的な采配が多く、
起用法に納得のいかないデルピエロとカペッロの間に確執が生まれてしまった。



そして05-06シーズン。
世界を震撼させたカルチョスキャンダルの制裁によって、ユベントスはセリエBに降格。
2シーズン分のスクデットを剥奪され、数多くのビッグネームが移籍するなから、彼は真っ先に残留を決め、ファンの前で一年で必ずAリーグに戻ってくることを誓った。
そして有言実行、セリエBで点を取りまくって得点王となり、翌シーズンのセリエA復帰の原動力となった。
セリエA復帰シーズンも大いに暴れ、チームの優勝こそならなかったが得点王に輝き、史上二人目のセリエB・Aで連続得点王という記録を打ち立てる。
その後は加齢やセリエA全体の凋落、インテル黄金期などの要素により苦しむチームを奮い立たせようとするがパフォーマンスはなかなか向上せず。
ユベントス史上最多出場試合数を記録した2011-2012シーズン、
かつて共に強いユベントスの一員として戦ったアントニオ・コンテ監督のもと再び最強の位に登りつめたユベントスを見届けるかのように退団。
AリーグのシドニーFCへ移籍した。
Aリーグでは、日本の天才こと小野伸二と共にリーグを代表する選手という位置づけで、今も輝きを放っている。

代表キャリア

イタリア代表では、大きな大会では1996年のEURO96で初出場を遂げるが、緒戦で怪我を負い終了。
ユーベ時代と同じくバッジョとの兼ね合い、直前シーズンのCL決勝での負傷故に全開とは行かず、
初出場となったフランスW杯ではバッジョに出番を譲る形になった。

EURO2000では歴代屈指の強さを誇るユーベの同僚ジダン率いるフランスと決勝で死闘を繰り広げたが、
決定的チャンスを外してしまい、トレゼゲ(これまた同僚)の一撃で沈んでしまう。
このせいで世界一サッカーに小うるさいイタリアマスコミに囲んで棒で叩かれた。

2002年日本…日韓ワールドカップでは予選ではエースだったのだが戦術変更で出番を失うも、GL敗退の危機を救うゴールをぶち込み健在をアピールした。
ちなみに、イタリア代表がこのW杯でキャンプ地に選んだのが仙台で、
3.11後にチャリティ関連で精力的な動きを見せていたのは元からの親日家っぷりとこの縁が大きな要因である。
2012年にはチャリティマッチにも参戦。カシマスタジアムで堂々とプレーし得点を挙げて日本のファンを大喜びさせた。

EURO2004では予選こそ大エースであったが、本戦では彼が不振に陥ってしまい、大混戦のGLをで3位となり予選落ち。
イタリアマスコミ激おこぷんぷん丸。

2006年ドイツW杯ではリッピ監督との信頼関係で呼ばれて出場。
準決勝で地元開催優勝を狙ったドイツを無慈悲に突き落とす延長後半ロスタイム弾をデル・ピエロゾーンからぶち込んだ。
イタリアは決勝でもフランスにPK戦で勝ち優勝。ついにW杯チャンピオンの称号を得たのであった。

EURO2008ではリーグ戦での成績を買われて呼ばれたが、監督の戦術とマッチせず出番なし。代表からも引退。
結局、EURO優勝とは無縁の現役生活であった。


余談

親日家というかぶっちゃけ日本ヲタで、そうなったキッカケは彼が少年だった頃にイタリアで放映された日本のアニメにある。
デルピエロに限らずイタリア人選手には親日家が多いのもこれが理由。
スペインでクレヨンしんちゃん、アメリカでガンダム、攻殻、ビッグオー、マクロス(向こうではロボテック)が人気なように、
イタリアでは70年代のロボアニメやルパン三世が人気。
昔から日本のアニメや漫画は世界中に輸出されていたが、こんなところにその影響が出てたりする。
近年ではエスカフローネ、ONE PIECE鋼の錬金術師コードギアスが欧州では人気なんだとか。


あのデルピエロがアニヲタなんて感慨深いぜ……



こう考えると親近感が湧きはしないだろうか?

そしてちゃっかりテニミュの歌詞として登場している。
投コメできるニコ動を見れば、歌詞が一発でわかる。

ま、完全なテンプレ空耳ですけどね…






追記・修正は02-03シーズンのヒールキックシュートを見てからお願いします

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最終更新:2024年11月09日 23:01