登録日:2016/07/05 (火) 18:25:07
更新日:2024/04/05 Fri 18:01:38
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PKよりFKの方が簡単だ。
なぜなら、壁が蹴る瞬間をGKからさえぎってくれるからね。
ジャンフランコ・ゾラ(Gianfranco Zola)は、イタリア出身の元サッカー選手で、90年代から00年代前半を代表するファンタジスタの一人である。
身長168cmと小柄ながら高い個人技と精度の高いキックを武器とし、特にFKは急激な曲がり方をし、もはや鋭利という表現がふさわしいほどの技術を持っていた。
経歴
チェルシー以前
1966年7月5日、イタリア半島西方に浮かぶ地中海の島サルデーニャの小村オリエーナに生まれる。
彼が幼い頃、サルデーニャ全土は歴史的偉業に沸いていた。
70年4月12日、島最大のクラブ
カリアリが、
セリエA初昇格からわずか6年でインテル、ユベントス、ミランといった名だたる強豪を押さえて優勝したのだ。
この優勝は
スクデットが本土を離れた唯一の出来事であり、それまで流刑地として忌み嫌われていたサルデーニャ島がイタリアに認められるきっかけとなった。
さらにこのクラブのレジェンド、ルイジ・リーヴァの活躍は
羊飼いたちにトランジスタラジオを買わせ、島の近代化に貢献したという。
まさに島全土を結束、一体化させた勝利であった。
彼は家族や親戚から、その時の感動を聞かされながら育ったのである。
84年、18才で当時セリエC2のヌオレーゼでキャリアをスタート。
86年にセリエCのトーレスへ移籍した。
そこでプレーしていた頃、会長はある男にゾラを推薦していた。「セリエCでプレーする器じゃない」と。
彼はすぐにゾラのプレーを見るべく駆けつけた。一目見て、会長の言葉に偽りはないと確信した。
体格にはけっして恵まれていないが、ボールタッチの一つ一つに才能を感じさせた。
次のゲームも見に行ったが、その日のプレーはいまいちだった。そこには他のスカウトもいたが、彼らのお眼鏡にはかなわなかった。
しかし彼の決断は揺るがず、すぐさまゾラと契約を結ぶことにした。
───男の名は
ルチアーノ・モッジ。
ナポリのスポーツディレクター。
後にユベントスの凄腕
GMとしてイタリアサッカー界を繁栄させ、そしてカルチョスキャンダルでイタリアサッカー界全土を揺るがすことになる存在である。
89年に移籍したナポリ。そこでゾラはスクデットを経験するだけでなく、偉大な選手たちと邂逅を果たした。
カレカ、アレモン、チーロ・フェラーラ……
そして、『神の子』
ディエゴ・マラドーナ。ご存知サッカー界最大のレジェンドの一人である。
初めて会った時、
「やっと俺より小さい奴を見つけたぜ!」と、大いに喜ばれたとか。
二人はすぐに打ち解け、共に練習に練習を重ね……
正確無比なパス、速い流れの中で勢いを殺さずボールを扱う術、スピーディかつ繊細なドリブル、そしてFK。
彼の技術の数々はナポリ時代に
マラドーナから直々に授かったものなのだ。
そこからつけられたニックネームは
『マラゾーラ』。
ナポリに所属していた経験を持つタレント、パンツェッタ・ジローラモ氏は練習後二人が裸足でオレンジなどをリフティングして遊ぶ姿をたびたび目撃したという。
また、コッパ・イタリアのピサ戦ではトレードマークであった背番号10をゾラに託した。
若くて経験不足という理由でレッチェに放出されそうになった時には、
「才能はあるし一生懸命やってんだから残してやってくれよ!」とモッジに懇願した。
それだけマラドーナは、ゾラの才能に惚れ込んでいた。
こうした背景から、マラドーナとゾラのプレースタイルはよく似ているわけだが、決定的に違う所があった。
マラドーナの人格は非常にアクが強く、現在ではお騒がせなトラブルメーカーという印象が強い。
しかしゾラは正反対の、ファンや選手たち、さらには相手クラブのファンからも敬意を持たれるほど、誰からも愛される真面目で心やさしく誠実な男だった。
91年、マラドーナは薬物の常用、乱れきった私生活、カモッラとの癒着など数え切れないトラブルの果てに代表を、ナポリを追われてしまった。
マラドーナはすぐさま、「ナポリに俺の代わりを置いてきた」と、ゾラを自らの後継者に指名した。
後にマラドーナはゾラについてこう振りかえっている。
「俺たちはほんとにたくさん練習したよな。あいつは最終的にほとんど俺と同じくらいFKがうまくなった。……〝ほとんど〟だけどな!」
しかしこの頃からナポリは財政難が深刻になり始め、ゾラは93年にパルマに売却された。
パルマは豊富な資金力を武器に飛ぶ鳥を落とす勢いの大躍進を遂げていた。
91-92シーズンにはコッパ・イタリアを、92-93シーズンにはカップウィナーズカップを獲得。
ゾラの在籍時も94-95シーズンに、ファウスティーノ・アスプリージャやディノ・バッジョらを擁し、UEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)を獲得している。
ところが96年、監督業を始めたばかりだったカルロ・アンチェロッティによって左サイドを強要されたことから、パルマを後にせざるをえなくなる。
守備貢献が低く、プレスの荒波に耐えうるフィジカルも無く、閃きという不確定要素を武器とするファンタジスタは、易々と生き残れる時代ではなくなっていたのだ。
イタリアに居場所がなくなりつつあるのを感じ取ったゾラは、ある大きな決断を下す。
チェルシー移籍後
彼が次の新天地に定めたのは
イングランドプレミアリーグの
チェルシー。
プレイングマネージャーに就任したルート・フリットはイタリア時代のコネを活かし、
他にもジャンルカ・ヴィアッリ、ロベルト・ディ・マッテオといったイタリア人選手を獲得していた。
当時セリエAこそ世界最高リーグと評されており、プレミアリーグはまだまだ発展途上。
どれだけ発展途上かというと、
選手食堂にはジャンクフードが溢れかえり、試合前にも飲酒していた選手も珍しくなかったほど。
英国の食文化はアレだってはっきりわかんだね
さらにイタリア人選手で国外で活躍した選手はおろか、所属していた選手ですら数えるほどしかおらず、
ゾラ自身もすでに30歳と、すでにピークを過ぎたと言われてもおかしくないような年齢だった。
しかし、ここから彼の
真の活躍が始まると行っても過言ではない。
後にアンチェロッティは、この放出について間違いを認めている。
私が彼を移籍させたのは間違っていた。
だが、あのときはセリエAで初の(指揮官としての)経験だったし、まだ自分のプレーシステムを変えられる段階になかったんだ。
私は4-4-2で戦いたかったし、適切なポジションに選手たちを配置した。だが彼は、ストライカーをやりたがったんだ。
私にもっと経験があれば、おそらくはもっと良い解決策を見つけることができただろう。
だが、あのときはチェルシーから良い契約のオファーが届き、彼は出て行くことを決めたんだ。
当初はフィジカルが弱く見えたため、ロングボールを駆使し、激しく体がぶつかり合う試合の多いイングランドでは活躍できないだろうと懐疑的に見られていたが、
ゾラが加入した後、それまでリーグで低迷していたチェルシーは着実にレベルアップ。
『神の子』から授かったテクニックと創造性を武器に、一回り以上も大きなDFたちを翻弄。
このプレースタイルにより、ゾラは
『マジックボックス』の愛称で呼ばれるようになった。
リバプール戦のこの動画がわかりやすいだろう。
96-97、99-00シーズンには
FAカップ制覇、98-99シーズンは終盤まで優勝争いを繰り広げ3位に入り、
チャンピオンズリーグ出場権を初めて勝ち取った。
自身も97年にリーグ最優秀選手に選ばれ、当時中堅クラブだったチェルシーに数多くのタイトルをもたらした。
02-03シーズン、チームタイトルこそ無冠に終わったものの、37歳のゾラはプレミア挑戦以来最多となる14ゴールを挙げた。
ゾラの獲得を機に、チェルシーは数多くの外国人選手を獲得し、プレミアリーグ国際化の先駆けとなった。
つまり彼は、
現在世界最高峰とされるプレミアリーグの成長の最初の段階を経験したことになる。
加えて、けっして奢らないつつましい態度に、積極的にファンと交流する姿勢、そして人懐こく天真爛漫な
笑顔。これで愛されないはずがない。
辛口で知られるイングランドの記者たちも、試合後のスタンフォード・ブリッジのロッカーでゾラを歌って出迎えたこともあったという。
彼がチェルシーでのベストマッチに挙げるのは、97-98シーズンのカップウィナーズカップ決勝シュツットガルト戦。
ゾラは鼠径部の怪我を抱えてベンチスタートだったが、69分にピッチに送り出された。
試合が動いたのは、それからわずか数秒後だった。
デニス・ワイズの浮き球パスに反応したゾラは、見事なドライブシュートを枠の角に突き刺し、70-71シーズン以来の優勝に導いた。
加えて、怪我を抱えたままの選手が文字通り交代直後に結果を出したのもあって、なおさら印象的なものとなった。
「たったの5秒で一生分の仕事をしたような気分だったよ」と、ゾラは振りかえる。
彼の挙げてきた珠玉のゴールの数々の中でも、特に印象的なものの一つは、02年1月16日のFAカップ、ノーウィッチ・シティ戦で見せたこのゴールだろう。
もはや何が起きたのか分からないレベルのバックヒール。タイミングといいコースといい、何もかもが完璧だった。
「あれはなんていうか、ケーキの上のさくらんぼのようなものだ。イタリア式に言うとね。とてもいいゴールだ。もう一度やろうとしてもできないよ」
この魔法のようなゴールを振りかえって、ゾラは笑う。
ついでに興奮のあまりスタンドから転落した男性を助け起こし、抱擁を交わしている。ゾラやさしいよゾラ。
実はその2週間ほど前に、彼はある約束を交わしていた。
約束の相手は8歳のマシュー・アシュトン君。
ゾラの大ファンだった彼は末期の脳腫瘍を患っており、もはや手の施しようがなかった。
息子の最後の願いを叶えたかった両親からの希望をクラブを通して聞き入れ、彼の入院しているホスピスにやって来たのだ。
病室に憧れの人がいきなり現れるという、まさかの展開。喜びや驚きを通り越して、マシュー君はすっかり気が動転してしまった。
それでも、ゾラのユニフォームとチェルシー全員のサインが入った写真がプレゼントされると満面の笑みを見せ、
およそ20分間にわたって憧れのヒーローとフットボール談義を楽しんだ。
長くつらい闘病生活を続けてきたマシュー君にとって、この出会いは何にも代えがたいくらい幸福で、素晴らしいものだっただろう。
そして最後に、「素敵な笑顔のお礼に、何か特別なプレゼントをするよ」と、約束を交わしたのだった。
こうして伝説のゴールが決まったのだが……試合後のゾラはどこか悲しげな表情を浮かべていた。
その理由は試合直後のインタビューで明らかにされた。
このゴールは、私の友達とその家族のためのものです。
友達の名前はマシュー・アシュトン君。二週間前にとあるホスピスで出会った8歳の男の子です。
病気に大変苦しんでいるようでした。しかし、そんな中でも非常に素敵な笑顔を見せてくれました。
その笑顔のお礼に「何か特別なプレゼントをしよう」と約束したのですが……
約束を果たすことは出来ませんでした。マシュー君は私と会った2日後、亡くなったのです。
本当に残念で仕方ありません。特に、私の娘と同年代でしたから……。
今の彼がどこにいようとも、今日の試合を観ていてくれたことを切に願います。マシュー君、ありがとう。
無情にも、このゴールは間に合わなかった。
この話は一部の関係者にしか知られておらず、このインタビューで一連のエピソードが明らかになったのである。
『負けるな、ロビー!』という児童文学には事故で昏睡状態に陥った少年を訪ねる姿が描かれているが、このエピソードを知ればより胸に来るものがあるだろう。
しかし01年以降チェルシーはタイトルに恵まれておらず、補強に見合う結果を出せなくなったことなどから多額の負債を抱えるようになる。
そこに現れたのは石油王ロマン・アブラモビッチ。03年にチェルシーを買収し、クラブは一躍金満クラブへと変貌した。
今でこそオイルマネーで一気に強くなったクラブの話は珍しくないが、当時は非常に衝撃的なニュースだったのだ。
一方ゾラの元には、カリアリからオファーが届いていた。
生まれ故郷のクラブからのオファー。ゾラの心が動かされないはずがなかった。
ただ、チェルシーもまた彼にとって心のクラブ。胸の奥には相当な葛藤があったと思われる。
ゾラはひとまず全てのオファーへの返事を先送りにしていた。
が、新会長就任によるゴタゴタでチェルシーとの契約交渉が進まず、契約の切れる7月1日には、もうカリアリのオファーを放っておけなくなっていた。
チェルシーは2日にオファーをくれたが、残念ながら遅すぎた。
契約更新がちょうど悪い時期に重なってしまったということさ。
チェルシーの経営状態は危機的だったし、我々は合意に至らなかった。
だからといって、クラブを責めるつもりはない。私の契約更新より大事なことをやらなければならなかったんだから。
これを知って慌てたアブラモビッチはゾラに高額の年俸を保証することでチェルシー復帰を要請したが、
ゾラは
「クラブ全体を買収されたらチェルシーに戻りますが、そうでない限りカリアリに留まります」と発言し、カリアリでプレーすることを表明した。
それでも諦めきれないアブラモビッチは、
本当にカリアリごと買収しようとしたとか……
結局ゾラはサルデーニャに帰ることになるのだが、チェルシーを立て直した新会長にこんな言葉をかけている。
「チェルシーのためにいろんなことを実現してくれる会長が現れたことを、ただ純粋に嬉しく思っているよ」
そして04-05シーズンから
ジョゼ・モウリーニョ監督を招聘して半世紀ぶりのリーグ優勝を達成し、名実共にプレミア屈指の強豪になったのは、皆さんご存知の通り。
チェルシー移籍から7年。
ゾラはファンによる投票で全体の60%という圧倒的な得票数を集め、
チェルシー歴代最高の選手に選出された。
04年にはチェルシー史上最も愛された選手であることと、積極的に慈善活動を行ったことが評価され、
英国王室から大英帝国勲章を授与されるという栄誉にあずかる。
そして彼のつけていた背番号25は2023年にモイセス・カイセドが加入するまで、事実上の
永久欠番となっていた。
現役最後に「お金より大切なものがある」と移籍したカリアリ。
この移籍に、カリアリサポーターだけではなくチームメイト達も狂喜した。
セリエB中位でもがいていたカリアリは、イタリアを代表するファンタジスタにして地元の英雄の帰還を期に一致団結。
ゾラ自身40近くということで流石に全盛期を過ぎていたが、FKのチャンスにはほとんど衰えを見せない軌道を放ち、何度もネットを揺らした。
昇格のかかったフィオレンティーナ戦。
カリアリの選手たちは頭をクラブカラーの赤と青に染め、顔にもペイントを施した状態でプレーするという、奇怪な姿気合いの入り様だった。
もちろんそれは、ゾラも例外ではなかった。
試合は3-1で勝利し、見事目標を1年で達成した。カリアリ、セリエA昇格。
ゾラは03-04シーズン限りで引退するつもりだったが、サポーター達が引退撤回を求め自宅前に押しかけた。
この光景に心を打たれたゾラは1年だけの条件で現役続行を決断。
04-05シーズン、カリアリは昇格クラブでありながら10位に入るという大健闘を見せた。
最終節ユベントス戦は4-2で敗れたものの、ゾラは2ゴールを決め、有終の美を飾った。
シーズン終了からしばらく時間が経ってしまったけど、考える時間が必要だった。
簡単な決断ではなかった。でも、ここ数年軽んじてきたいろいろなことに専念する必要性をこれまで以上に強く感じていた。
今後は少しでも長く家族と一緒に過ごしたい。
世界にはゴールや4-4-2やカルチョメルカートよりももっと大切なものがある。
故郷のクラブを昇格させただけでなく、その後10年にわたってセリエAに定着させるきっかけを作ったゾラ。
サルデーニャの魔法使いと呼ばれた、偉大な選手の美しい引き際だった。
その他のエピソード
どんなに優れていても、代表では不遇な選手というのはいつの時代も一定数いる。
ゾラもクラブでは素晴らしい実績を上げてきたが、代表ではこのケースに直撃レベルで当てはまってしまった。
同じ世代に不世出のファンタジスタ、ロベルト・バッジョが存在したというのもあるが、彼の場合チャンスをつかもうとするたびに悉く不幸な目に遭い続けた。
94年7月5日、アメリカW杯ナイジェリア戦。
途中出場でピッチに立ったゾラは悪質なファウルを受けた直後、素早い動きでボールを奪ったが、相手選手が倒れる。
主審のドリシオ・カルニールはそのプレイに対し退場処分を言い渡した。
スローで見ればまったくファウルではなかったにもかかわらずである。
出場時間わずか10分。誕生日に迎えた晴れの舞台のはずが、理不尽というレベルで済まされない結末を迎えたのである。
一方バッジョはこの試合で終了間際に劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを決めるという大活躍。あまりに残酷な対比だ。
もっとも、彼には決勝でサッカー史でも屈指の残酷な結末が待っていたわけだが……
その他にもEURO96でイタリアはロシア戦に快勝するものの、チェコ戦でゾラを含めた主力選手を温存したあげく敗戦。
ドイツ戦、開始数分でPKを得るものの、ゾラがまさかの失敗、スコアレスドロー。
得失点差ではチェコを上回ったものの、この大会から直接対決の結果優先になったため、イタリアは予選敗退となってしまった。
フランスW杯の予選ではイタリアを本選出場に導く活躍をしたにもかかわらず、結局本大会では選ばれることはなかった。
つまり、あの退場劇を迎えたアメリカW杯が最初で最後のW杯となってしまったのである……
現役引退を決め、雑誌の取材を受けていた時のこと。
ゾラは取材を受けているうちにそれまでのサッカー人生を思い出し、万感の思いから涙を流してしまった。
しばしの沈黙があった後、その取材をしていた若い記者が尋ねてきた。
「92年のチャリティーマッチの出来事を覚えていますか?」
実はその記者は幼い頃、そのチャリティーマッチで選手たちのサインをもらおうとしていたのだが、選手たちの前は黒山の人だかりで近づくことができなかった。
諦めて帰ろうとしたその時、ゾラが通りかかり、落ち込んでいた彼からノートを取ってわざわざ参加選手全員のサインをもらってきてくれたのだ。
そうして「なくしちゃダメだぞ」と、笑顔で頭を撫でてあげた。
その話を聞いたゾラは彼を見つめ、笑顔に戻り「大きくなったね!」と、自分より背が高くなった記者の頭をあの頃と同じように撫でてあげたのだった。
06年からU-21代表のアシスタントコーチとしてキャリアを始める。
08-09シーズンにウエストハムの監督に就任。
序盤は7試合未勝利など泥沼の展開が続くが、最終的に9位と上々の結果を残した。
さらに同じロンドンに所在するライバルでありながら、チェルシーのサポーターたちはスタンフォード・ブリッジにゾラを迎えた時チャントを歌って歓迎した。
しかし翌09-10シーズン、首の皮一枚で残留を決めながら解任されてしまった。
その後もワトフォード、故郷のカリアリ、中東のアル・アラビなどを率いたが、今の所目だった結果を残せていない。
ただ、ワトフォード時代のプレーオフ準決勝はあまりにも劇的な展開なので必見である(しかも相手はあのレスター!)。結局決勝で負けたが
いつかチェルシーの監督として戻って来ることを夢見ているゾラ。
はたしてその機会が訪れる日は来るのだろうか?
そして18-19シーズンより、古巣ナポリを率いていたマウリツィオ・サッリのチェルシー監督就任に伴い、ゾラもコーチとしてここに戻って来ることになった。
15年、ゾラはワイズ、ディ・マッテオ、そしてアンドリー・シェフチェンコと共にジェラートの店『UNICO gelato&cafe』をオープンさせた。
イングランドには美味しい店がなかったので自分で作ったのだとか。やっぱり英国の食文化はアレだってはっきりわかんだね
「ジェラートの恋人」とまで言い切ってしまうほどのジェラート好きのゾラ。
どれだけ好きなのかというと、ヘリを借りてボローニャからサルデーニャまでお気に入りのものを40キロ分輸送したことがあるほど。
(カロリーを消費するため、トレーニングの際は余分な距離を走っていたという)
この店もかなり本格的で、職人もエスプレッソの専門家も母国から呼んでいる。
場所はロンドン南東部のブロムリー。月イチで本人が来るらしいので、もしロンドンに行く機会があったら訪れてみてはいかがであろうか?
実際評価も非常に高く、地元の有名ブロガーから5つ星認定されている。
名言など
シンプルに考え、シンプルにプレーする。みんなサッカーを難しく考えすぎているんだ。
シンプルであることがより天才的だということが忘れられているんじゃないかな。
人間が二人いれば、どうしても対立は生まれる。
でも大切なのは、裏でこそこそと工作したり、その場しのぎをしたりしないで、誠実さを持って堂々と相手と向き合うことなんだ。
足下ぐらいにはたどりついたかもしれないけど、あの人(マラドーナ)より上なんてことはありえないよ。ただ、少しでも近づこうと努力している。
今は調子が良いから、ちょっとだけ近づいたかもね。
……寂しいことだよね。彼(マラドーナ)はいい奴なのに、周りにろくでもない人間が集まってしまう。
サルデーニャはぼくの土地、ぼくの国、ぼくの生まれた所だから、遅かれ早かれ必ずサルデーニャへ戻るんだ。
プレーするのに年齢は関係ないよ。年ごとにフィジカルは落ちていくけど、その代わりに多くの経験を得られる。
年齢がプレーに悪影響を与える時は、選手自身がそう考えた時だけなんだ。
カリアリと他のチームとの違い?他のチームでなら、そのチームのファンの期待を背負って戦えばいい。
しかし、カリアリは違う。島民全員の期待がぼくらの肩にのしかかってくるんだよ。
もちろん、この島出身のぼくにとって、それは大きな喜びでもあるけれど……
学習というのは、フットボールのみならず、人生で最も美しいものの一つだ。達人とともにいるとき、それはかけがえのない経験となる。
(「小さい頃はどんな子供でしたか?」と聞かれて )小さい頃も小さかったよ。
幼少時代よく隣で飼っているウサギを盗んだんだ。そうしていかに速く走るかを学んだんだよ。
ちなみに、冒頭の彼を代表する名言の本当の内容は、「PKの時もFKのように壁を用意してくれ」とのこと。
だが、そこからニュアンスがさらに昇華されるあたり、レジェンドたる証である。
追記・修正は壁を用意してからお願いします。
- 凄い濃い内容の記事だな -- ああ (2023-08-01 05:18:30)
最終更新:2024年04月05日 18:01