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なかなかイングランドのパスが、二つ三つと続くことがありません。
行くか!……マラドーナ!
マラドーナ!!
マラドーナ!!!
キタァァァァァ! マラドーナァァァァァ!!!!!
1986年メキシコW杯、NHKアナウンサー、山本浩氏のイングランド戦実況より
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、
アルゼンチン出身のサッカー選手。
ペレ、
ヨハン・クライフ、
フランツ・ベッケンバウアーなどと共に、
20世紀最高のサッカー選手に数えられる、史上最も偉大な選手の一人である。
フィジカル、スピード、洞察力、得点力など、求められる要素がどれも極めて高く、多くの名プレーがほぼ左足一本で生み出された。
そのテクニックの凄さを知りたければ、とりあえずリフティング動画を見てみるといいだろう。
もはや蹴れるものなら何でもできるというレベルで、ボールはまるで意思があるかのように彼にくっついている。
その一方で、そこらの悪童タイプの選手がかわいく見えるほどのトラブルメーカーでもあり、その異様に濃すぎるキャラクターから、多くのファンの腹筋を破壊し続けてきた。
神聖にして俗悪、英雄にしてネタキャラ。
これほど毀誉褒貶が激しかった選手はいないし、おそらくこれからも現れることはないだろう。
しかし彼ほど人々から愛された選手もいなかった。そしてサッカーとも生涯両思いであり続けた。
はたして、あまりにも極端な二面性を持った男が駆け抜けた60年の人生とは、一体どういうものだったのであろうか?
それはまさに、波乱万丈にして笑いあり涙ありの人生であった……
生い立ちとクラブ経歴
・少年時代~アルヘンティノスまで
それは、1960年10月30日の朝のことだった。
その日は日曜日。ミサとサッカーの試合が行われる日。
首都ブエノスアイレス郊外にある病院で、彼は8人兄弟の5番目として“足で蹴る”ようにして、この世に生まれてきた。
母親にとって、その子は初めての男の子。
彼こそが、後にサッカー界最大のレジェンドとなる存在、ディエゴ・マラドーナである。
育ちはビジャ・フィオリートと呼ばれるスラム街。
ゴミが散らばる道端、うろつく野良犬、響き渡る銃声……
いつ悪の道に堕ちてもおかしくない環境だったが、3歳の誕生日に叔父から与えられたプレゼント───サッカーボール───が、彼の人生を決定づけた。
小さいころから友達とサッカーに明け暮れ、学校やおつかいへ行くときも、常にオレンジなど丸いものを転がしながら出かけた。
毎日がサバイバルであったフィオリートでの日々。そんな中で、サッカーは唯一の楽しみであり、貧困から抜け出すための鍵でもあった。
父ドン・ディエゴは先住民系(グアラニ人)の血を、母トタはイタリアとクロアチアの血を引き、さらに母方の祖母サルバドーラはナポリ出身だった。
「マラドーナ」という名前は長らくルーツがはっきりしていなかったが、近年の研究でスペイン・ガリシア州にあることが判明している。
アルゼンチンと言えば、南米最大の白人国家。先住民系と貧しいイタリア移民の両親はメジャーな民族とはいえ被差別階級もいい所であった。
両親はパラグアイ国境近くの町エスキーナの生まれで、父の仕事の荷役ははタダ働き同然、職にあぶれれば近くの山や農園、川で野生動物や魚を狩って暮らしていたという。
50年に母が、遅れて父がブエノスアイレスへと出稼ぎにやって来た。
当時は、聖女と呼ばれるファーストレディ、エビータことエバ・ペロンが活躍した時代。
彼女は貧しい私生児からファーストレディにまで成り上がり、(手段はともかく)貧しい人々を救う基金を設立し、労働者階級から圧倒的な支持を得た。
さらにペロン政権は国民の団結心をもたらすため、サッカーの普及に力を入れていた。
母は自分と同じ境遇だったエビータに憧れて、首都へ出稼ぎに行く決意をしたのだ。
しかしそれでも一家の生活は生きるだけで精一杯で、家は掘っ立て小屋、父の職場の粉骨工場は安全確保?健康管理?なにそれおいしいの?レベルの環境。
病気の動物だろうが、人間の骨だろうがお構いなしで、多くの労働者が肺病で倒れるほどの悲惨な状態だったという。
息子の活躍がなければ、この家族の運命はどうなっていたかは言うまでもないだろう……
つまり彼らは、息子ディエゴによって命を救われたのだ。
8歳の頃、その才能はすでに近所の噂になるほどで、一足先にそこに入団した親友の推薦で1部リーグ、AAアルヘンティノス・ジュニオルスのジュニアチームに入団。
「ロス・セボジータス」と名付けられたこのチームはその後130試合を超える無敗記録を樹立。
連勝記録が136試合とも、151試合とも、はたまた200試合とも言われるほどの伝説のチームとなった。
あまりにも大差がついて話にならないので、試合中にチームメイトと共にシュートで鳥の巣を落とす競争を始めたとの逸話も残っている(当然試合後こっぴどく叱られた)。
バーに当ててたら怒られるどころか盛り上がったのに……
10歳の頃、ある試合のハーフタイムのショーにディエゴが出演、曲芸のようなリフティングとドリブルを披露した。
観客はその素晴らしいテクに見とれてしまい、その直前の前半戦が凡戦だったのもあって、「あの子をピッチに残せ!」というコールを繰り広げた。
71年9月28日、アルゼンチンの大衆紙『クラリン』にてその天才ぶりが紹介された。後の大スターの、これが記念すべきメディア初登場である。
誤植で「カラドーナ」になっていたけど
16歳の誕生日を迎える10日前の1976年10月20日、ついにアルヘンティノスの一員としてプロデビュー。
これはアルゼンチンリーグ史上最年少の記録である。
デビュー戦は0-1で敗れたものの、ファーストタッチで、いきなり華麗な股抜きを披露。
このプレーは、アルヘンティノスのサポーターにとって語り草となっている。
アルヘンティノスでは167試合に出場し、115ゴールを記録。1978~80年までの間に5回リーグ得点王に輝いた。
このクラブには4年半と、キャリアの中で2番目に長く在籍しており、自伝の中で「アルヘンティノスとの長く、美しく、そして忘れられない物語」と語るほど、思い出深い時代だった。
・ボカ時代
1981年2月、国内最大の名門の一つ、ボカ・ジュニオルスにレンタル移籍したマラドーナ。
しかし、その裏には偉大な才能をめぐる攻防戦があった。
彼が12歳の頃には、もう一つの名門リーベル・プレート───ボカの永遠のライバル───がすでに目をつけていたとされる。
当時のリーベルは潤沢な資金力を誇り、78年自国のW杯での優勝メンバーを多く揃えていたが、このクラブは彼らすら上回るほどの給料の支払いを約束していた。
……まだタイトルも取ったことがないのに、凄まじい金額が動いていたことがうかがえる。それだけ彼の才能はずば抜けていたのである。
一方のボカは財政難。一体どのようにして彼を獲得したのか?
実はマラドーナ一家自体、全員ボケンセ(ボカのファン)であり、どれだけリーベルに金を積まれようとも、全くなびかなかったのである。
そのためリーベルと代理人との間で交渉が大詰めを迎えていた時点にも関わらず、彼はメディアに「ボカからもオファーがあったよ」と嘘を流した。
当然、新聞各紙はマラドーナのボカ行きを一斉に報じたため、慌てたボカの幹部がすぐさま彼との交渉を開始。1年間の期限付きレンタルという形で移籍が決まったのだ。
かくして、愛するクラブへの移籍を果たしたマラドーナ。
同年4月10日、代表選手を多く擁するリーベルとの
スーペルクラシコにおいて、ボカの全3得点を挙げる大活躍。瞬く間にクラブのアイドルとなった。
そのシーズン、マラドーナは33試合に出場して20ゴールを記録。メトロポリターノ優勝を果たした。
しかし、ボカでのタイトル、ひいてはアルゼンチン国内でのタイトルは意外にもこれのみ。
ボカは彼を獲得するために莫大な移籍金をはたいており、財政難がさらに悪化。これ以上彼を抱えることができなくなったボカは、やむなくアルヘンティノスに返却したのだ。
そしてボカはその後、主力を次々とリーベルへ引き抜かれるなど、長い低迷期を迎えることとなった……
・バルサ時代
1982年6月4日、
FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた。
70年代に活躍したクライフが去って以降のバルサは
レアル・マドリーの後塵を拝しており、チームの改革を目指し選手を大量に獲得していた。その目玉の一人がマラドーナだったのだ。
82-83シーズン開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決め、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決めるなど、幸先の良いスタートを切る。
チームメイトとの関係も良く、ある親善試合で他の選手の報奨金が低いことを知った時は、自分と同額にしなければ試合に出ないと抗議し受け入れさせるなど、リーダーシップも見せていた。
……しかしこのバルサ時代はまさに、
不幸続きかつ
荒れ放題のものだった。
バルサが首位に立ったタイミングで彼はウイルス性肝炎に罹患。3カ月の離脱を強いられた。
マラドーナの邸宅の周りには家族はもちろん、代理人の関係者、友人、そのまた友人が入れ代わり立ち代わり押し寄せ、毎日パーティーが開かれていた。
取り巻きが邸宅ににいないときは、ほぼ間違いなく市内のナイトクラブやディスコに一味が集まっていた。
連日続くパーティー、女、アルコール……誰がどう見ても、その原因が荒れ放題の生活から来ているのは明らかだった。
しかし、マラドーナはそれ以上の禁忌にも手を出していた───コカインである。
怪しい取り巻きに囲まれ続けているうちに、彼は自分の人生をコントロールできなくなってしまったのだ。
彼と家族、取り巻きのあまりの浪費っぷり、代理人の立ち上げた事業が行き詰まったおかげで、家計は火の車だったという。
ピッチの上でも、彼は不幸に見舞われた。
83-84シーズン、9月24日のアスレチック・ビルバオ戦。当時のビルバオは良く言えば闘志あふれるプレー、悪く言えば暴力的なプレーで悪名高かった。
57分、それはやって来た。
ボールを持ったマラドーナに対し、後ろからアンドニ・ゴイコエチェアの暴力的なタックルが襲いかかる。───「折られた」と、彼は直感した。
マラドーナは担架で運ばれ、左足腓骨の骨折と内側側副靭帯損傷の重傷と診断された。
このプレーによりゴイコエチェアは「ビルバオの屠殺人」という仇名を付けられることとなった。
恐ろしいことにこの選手、前シーズンではバルサの主力の一人ベルント・シュスターにも大怪我を負わせており、この試合前には「マラドーナの脚を折ってやる」とまで豪語していた。
さらにその処分も、当初は18試合の出場停止だったのが6試合に軽減される……という甘々なもの。
今なら大炎上レベルの案件だが、当時はそういうことがまかり通っていた時代なのである。
これだけの惨劇に見舞われ、一時は再起不能説まで流れたマラドーナだが、奇跡的にも回復は早く、2カ月後には練習に合流できるまでになっていた。
しかしその後遺症は重く、慢性的な腰痛を現役引退まで抱え続けることになった。
チームの調子も上向かず、批判の矛先は真っ先に彼に向けられた。そして精神はさらに不安定になっていった。
カップウィナーズカップのマンチェスター・ユナイテッド戦も鎮痛剤を打って無理やり出場したが、試合開始から数分経つと副作用が現れ始め、まともにプレーができなくなってしまう。
結局前半終了間際に交代させられ、チームは敗退。ますます強まる非難……
「こんな仕打ちにあってまで、負傷を押して出場する価値があるのか!」
交代後、ロッカールームへ続く階段を上りながらこう叫んだマラドーナはこの瞬間にバルサを出ていくことを決意したと言われている。
そして彼の退団が決定的になるのは、それから2カ月後であった。
それは、国王杯決勝のこと。相手は再び因縁のビルバオ。前述の件もあって、試合の前から丁々発止の舌戦が繰り広げられた。
試合はもはやサッカーというより、暴力集団のぶつかり合いのようなありさまだった。
結果は0-1の敗戦。そして事件は起こった。
ビルバオのミゲル・ソラが悲観に暮れている自分に挑発の仕草をしたのを、マラドーナは見逃さなかった。
これにより、ため込んでいた怒りがついに爆発。
相手選手に襲いかかると、顔面に見事なシャイニングウィザードをブチかまし、それが口火となって両軍入り乱れての大乱闘に。
しかもこの試合、カルロス国王が観戦に訪れていた。日本で言えばまさに天皇杯決勝、しかも天覧試合で起きたに等しい大事件である。
国王杯の歴史に大きな汚点を残した彼は、当然会長はじめクラブ上層部の大半から見限られた。副会長の慰留も虚しく同年の夏、最も高い金額を提示したSSCナポリへの移籍が決定した。
その金額は、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルだった。
結局、バルサ在籍時に獲得できたタイトルは、82-83シーズンの国王杯のみ。期待を大きく裏切る結果だった。
この時代はバルサにとってもマラドーナにとっても不幸なものとなってしまった。
確かにここでもマラドーナは後に世界一の選手となるにふさわしい才能を発揮していたが、不運を抜きにしても素行が悪すぎたため、クラブの象徴となることはできなかった。
事実、バルサが本格的な復活を遂げるのは、クライフが監督として帰還してからのことになる。
そして、マラドーナがクラブの象徴となる場所は───
・ナポリ時代
1984年7月5日。ナポリのホームスタジアム、サン・パオロ。
その姿を拝むべく駆けつけたサポーターの数は8万人。
彼はその地に、ヘリコプターで舞い降りてきた。まるで、救世主や神の御使いが降臨するかのように……
───この瞬間から、彼とこの町との、決して忘れがたい物語が始まった。
イタリア南部を代表する都市であるナポリは、この国の格差問題を象徴する場所でもある。
南部は経済的に北部と大きく差をつけられている上、地震や火山の噴火など、災害の頻発する地域。
北部の人が払っている高額な税金は南部にほとんど回されることになるので、お荷物のような扱いをされている。
そもそもイタリアという国自体、西ローマ帝国の滅亡以降、1861年に統一されるまで独自の文化と歴史を持つ都市国家の集まりだったため、現在も地域への意識が根強い。
さらにナポリはローマ人、ゴート人、ビザンツ人、ノルマン人、フランス人、スペイン人と、植民都市として多くの国の支配にさらされてきた歴史を持っている。
事実、このクラブが北部のチームの遠征に行くと、こんな横断幕で出迎えられる。
「イタリアへようこそ」、「石鹸も使わない汚い奴ら」「臭えと思ったらナポリ人だ。犬も逃げ出すナポリ人」……
つまり、北部には南部を同じイタリアとして見なさないという差別と偏見が根深く存在している。
こうした中で、このクラブは北部への対抗心の象徴でもあり、貧しい人々の心のよりどころでもあった。
今でこそ強豪の仲間入りをしたナポリであるが、彼が来る前は良くて中堅クラスで、この前シーズンでは勝ち点1の差という、首の差で残留したレベルだった。
そんなクラブに、世界一の選手が移籍してきたわけである。まるで、おとぎ話のような展開である。
なお、マラドーナはこの事実を知らずに移籍しており、契約書にサインした後に知ったそうな
ナポリは彼を迎えたことにより、シーズンチケットは爆売れ。莫大な移籍金や給料を差し引いてもなお、財政は潤った。
入団した84-85シーズン、前半戦は勝ち点9しか上げられなかったが、後半戦は一気に巻き返し、8位になった。
ちなみに後半戦の勝ち点だけ見れば、そのシーズン優勝したエラス・ヴェローナ(!)より上だったりする。
マラドーナもファン、そして町全体からの強烈な熱狂に後押しされ、水を得た魚のように生き生きとしたプレーを披露。
2年目の85-86シーズン、大幅な補強を敢行したナポリは3位に。マラドーナ自身も11ゴールを挙げ、その年入団したブルーノ・ジョルダーノの10得点の大半をアシスト。
ほんの2年前まで残留争いをしていたクラブが、優勝争いできるほどの強豪に進歩した。
さらに当時のセリエAは“将軍”ミシェル・プラティニ(
ユベントス)、“Mr.ヨーロッパ”カール=ハインツ・ルンメニゲ(
インテル)、
82年W杯イタリア大会の「黄金のカルテット」のジーコ(ウディネーゼ)、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ(
ローマ)、ソクラテス(フィオレンティーナ)……
綺羅星のごとくスター選手がひしめいていた。ナポリが置かれていた境遇込みで考えると、この躍進がいかに大きなものだったことか。
86-87シーズン、ついにこのクラブの歴史が大きく動く時がやってきた。
このシーズン、ホームのサン・パオロでは無敗(8勝7分)。さらに……
86年11月9日の敵地でのユベントス戦。1対1の同点に追いついたその瞬間、突然スタジアムが喜びに沸いた!
しかも歓声は2点目、3点目と決まるごとに大きくなっていった。アウェイだというのに、一体何が起きたのか?
……それは、スタジアムが南部の労働者で埋め尽くされていたからだった。もはやナポリの行く先々がホーム状態だったのだ。
稀代の天才を得て大躍進したナポリの姿を見て、他の強豪も大きな恐れを抱くようになっていたが、差別的な横断幕やブーイングも、ナポリの選手やファンの心に火をつけるだけだった。
そしてメキシコW杯でマラドーナが栄冠を手にしてから10カ月後の87年5月10日、ついにナポリはリーグ初優勝。
南部のクラブとしては数少ないスクデットという偉業を成し遂げた。
しかもコッパ・イタリアと合わせて、当時北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していなかった国内2冠達成というオマケつきだった。
初のスクデット獲得により、ナポリ市内は文字通り狂乱の坩堝と化した。まさに町全体の栄冠だった。
この歴史的瞬間を目の当たりにした地元の人は、当時のナポリ市内の様子をこう語っている。
初優勝の後、スパッカ・ナポリをはじめ町全体がまさに無法地帯と化したんだよ。
町のありとあらゆる通りが青い旗やイタリアの三色旗で埋め尽くされたんだ。
朝夜関係なく車やスクーターのクラクションが鳴り響いていたな。
しかも、そんな状態が1カ月くらい続いたんだ。
良かったのは、家の近所の肉屋が大のナポリ・ファンだったこと。
優勝した翌日から、オヤジが『全部タダだ。持ってけ!』ってなっちゃって……(笑)近所中で大喜びしていたよ。
さらに市営墓地には、こんな落書きまであったという。
「お前たちは、本当に大事な瞬間を見逃した!」
社会の底辺から才能一つでのし上がり、不変と思われた北部との上下関係さえひっくり返してみせたマラドーナ。
その姿にナポリっ子は深いシンパシーを感じ、彼はこの町にとっての「神」だけでなく、すべてのナポリっ子にとっての「愛息子」でもあった。
「Ti amo piu che ai miei figli!(自分の息子たちよりも愛しているよ!)」と言われるほど、徹底的に愛されたのだ。
おおらかで情熱的で愛情深いナポリの風土は、奔放で反骨精神にあふれるマラドーナのキャラとぴったりマッチしていた。
87-88シーズン、ナポリは圧倒的な強さで首位を走り続けたのにもかかわらず、終盤に大失速。
ミランの首位攻防戦に敗れると、残り2試合も連敗し、スクデット争いはミランに引導を渡される形となってしまった。
ミランのアリゴ・サッキ監督はマラドーナの獲得を熱望していたが、結局かなうことがなかった。そこで、打倒マラドーナのための策を編み出していたのだ。
「奴にボールを渡すな、奴の視界からボールを消せ」───つまり、一対一では到底歯が立たないので、チームとして連動し潰しに行くというわけである。
そこから生まれたのが「ゾーンディフェンス」「プレスディフェンス」、「オフサイドトラップ」を組み合わせた新たな戦術、ゾーンプレス。
この守備戦術はやがて世界中が模倣し、今に至るまで普及していった。マラドーナの存在は、はからずもディフェンス論の進化をも促したのだ。
とはいえその後もナポリは快進撃を続け、88-89シーズンにはUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)を獲得、89-90シーズンには2度目のスクデット獲得を果たした。
特にジョルダーノ、87-88シーズンに加入したカレカとのトリオは、それぞれの頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれた。
……しかし、光あれば影もあるもの。そして、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
世界一の選手ということは、(バルサ時代からそうだったが)必然的に怪しい輩も群がってくることになる。
ナポリの場合、イタリア4大マフィアの一角にして最大の犯罪組織と言われるカモッラが接触してきていたのだ。
彼らは初め、マラドーナを王様のように扱い、やがて「親切な贈り物」に支払いを求めるようになった。
元カモッラのボスは、「私はマラドーナのコカイン提供者だった。マラドーナはパーティ、ドラッグ、売春婦に明け暮れる生活をしていた」と明かしている。
マラドーナもこの時のことを、こう述懐する。
「マフィアは俺をすごく気に入っていた。ドラッグは至るところにあって、俺にはトレーに載せて勧めてきたのさ」
事実、家族と一緒にいる時ですら、ドラッグを勧める輩がいたという……
裏社会の干渉を抜きにしても、マルセイユへの移籍を希望し、
UEFAカップで優勝したら行ってもいいとフェルライーノ会長と約束を取りつけたにもかかわらず、約束を反故にされるなど、会長との関係も悪化。
マラドーナはもはや、クラブの象徴を超えた存在であったため、何としてでも手放すわけにはいかなかったのだ。
しかし、決定的な破局はやがて訪れる。
後述のように地元イタリアで開催された90年W杯準決勝にて、何の因果かアルゼンチンとイタリアが激突。アルゼンチンがイタリアを破ってしまったのである。
これにより、イタリアほぼ全体を敵に回す羽目になったマラドーナ。
年貢の納め時と言わんばかりにコカイン使用やマフィアとの関わりなど、あらゆるスキャンダルの集中砲火が襲った。
91年3月17日、バーリ戦後のドーピング検査でコカインの陽性反応を出して15カ月間の出場停止処分。
さらに同年4月、アルゼンチン帰国中に麻薬所持の現行犯で逮捕された(その後2万ドルで釈放)。
こうして、神の座から真っ逆さまに転落したマラドーナは、イタリアを追われるようにして去っていったのだった……
マラドーナが去った後のナポリは凋落の一途をたどり、97-98シーズン、年間わずか2勝というダントツの最下位で降格。以降セリエBの常連となってしまう。
さらにこのクラブを苦しめたのは借金苦だった。20年以上にわたりクラブを支えたフェルライーノ会長が去ると、04年夏、ついに破産。
セリエC1(3部)からの出直しを余儀なくされるが、イタリア屈指の映画プロデューサー、アウレリオ・デ・ラウレンティスが会長になると昇格を重ね、07年にセリエAに復帰。
現在は再び上位の常連となり、ヨーロッパの舞台にも顔を見せる強豪の立場に戻ることができた。
そして22-23シーズン、33年ぶりのスクデット獲得を果たしている。
それでも、マラドーナのいた時代は伝説として今でも語り継がれており、背番号10は
永久欠番となっている。
彼がどんなに罪にまみれようとも、決して見捨てなかったナポリっ子たち。
コカイン検出による追放劇はイタリアサッカー連盟の陰謀と、本気で信じている者も混じっているくらいである。
2005年6月9日、元チームメイトのチーロ・フェラーラの引退試合に参加するため約15年ぶりにナポリに戻ってきた時には万雷の歓声で出迎えられ、
22年にアルゼンチンがW杯優勝を果たせば、まるで
出場すらしていない自国が優勝したかのように、そして
この優勝の「主役」にして本人公認の後継者のこともさておき、マラドーナの加護だと喜んだ。
唯一無二の英雄にして神たるマラドーナとこの町の絆は、永遠のものなのである。
・選手時代晩年
ナポリ退団後のマラドーナはというと、1992年にセビージャFCに移籍。
この移籍は、間近に控えたアメリカW杯───サッカー不毛の地に市場を広げるべく決められた大会───のため、FIFAも米大陸発のスター選手復活のために手を貸したという経緯があった。
しかし、26試合に出場してわずか5得点。おまけに荒んだ生活や怠慢な練習態度なども加わり、わずか1年で退団。
結局程度の差こそあれ、バルサ時代を想起させるような結末。スペインの水は彼には合わなかったようである。
ちなみに
Jリーグ創設前の91年、名古屋グランパスへの移籍がほぼ内定していたが、薬物問題が原因でお流れとなった。
他にも、PJMフューチャーズ(サガン鳥栖の前身)も獲得を目指していたが、同じ理由で結局来たのはあらかじめ獲得した弟のウーゴのみだった。
監督の桑原勝義氏は本人と直談判するため、わざわざイタリアまで行ったのに……
弟の名誉のために言っておくと、ここでは中心選手として「ウーゴのフューチャーズ、フューチャーズのウーゴ」と呼ばれるほどの活躍をしている。
セビージャを後にしたマラドーナは1993年、ニューウェルス・オールドボーイズに移籍。
11年ぶりのアルゼンチン復帰に、クラブもサポーターも大喜び。
しかしこのチームにいたのはわずか5カ月。出場試合は親善試合も入れてたった7試合。
クラブから契約解除を言い渡されたマラドーナは、信じがたい事件を起こした。
1994年2月2日。ブエノスアイレスにある別荘に、契約解除問題の取材のためおよそ200人のマスコミが押し寄せていた。
マラドーナはメルセデスの車の後ろに身を潜めながら、そして……
マ ス コ ミ に 向 か っ て エ ア ガ ン 乱 射 !
これにより、4名が負傷。
娘のために取材をやめさせようとしたというのが本人の弁だが、もうどこからツッコんでいいのかわからない……
アメリカW杯でのドーピング事件により再び15カ月間の出場停止処分を受けた後、彼は14年ぶりに古巣ボカに復帰。
この頃になると、5回連続でPKを外したり、本人も「才能のある年寄り」という自虐を見せたりするほど、かつての輝きを失っていた。
薬物問題も相変わらずで、治療のためにスイスに渡ったりしたものの、その後もドーピング検査で陽性を出す始末。
そして97年、37歳の誕生日に現役引退を発表。01年には引退試合が行われた。
その時残した言葉がこれである。
「俺は多くの過ちを犯したが、一度たりともボールを汚したことはない」
───あらゆる栄光と辛酸を味わった英雄は、確かに何度も道を踏み外し、多くの罪や過ちにまみれていたのかもしれない。
しかし彼は、最後までサッカーへの情熱を失わず、矜持を守り続けたのだ。
代表経歴
プロデビューから間もなく、代表に招集されるようになった神童マラドーナ。
アルゼンチンでのプロデビュー最年少記録だけでなく、A代表の最年少フル出場記録も持っているのである。
地元アルゼンチン開催の78年W杯の最終メンバーにも選ばれるものだと、彼は思っていた。
そしてセサル・ルイス・メノッティ監督が選んだ最終選考のリストに彼の名は───入っていなかった。
人生で初めて味わった大きな挫折。それは彼の人生に永遠に残る決定的な、一番の失望となった。
あたり構わず大声で泣きじゃくり、荒れ狂い……やがて、悔しさが一番の燃料になることを悟る。
当時アルゼンチンは軍事独裁政権下にあった。
もし優勝できなかったら身の保証はなかったため、メノッティは経験豊富で確実な選手を使うことにしたのだ。
それに、まだ若き逸材を莫大なプレッシャーのかかる大舞台で潰さないようにするという意図もあった。
事実、それでW杯初優勝を果たしたのだから、彼の選択は間違っていなかったと言えるだろう。
サッカー史に残る栄光を刻んだ彼と代表の物語は、「すれ違い」から始まったのである。
・ワールドユース1979日本大会
彼が地元開催のW杯の雪辱を果たす舞台にして、世界の檜舞台に立った初めての場所。それは何とわが国日本だった。
とはいえ当時の日本は、サッカーのプロリーグなど夢のまた夢という時代。そんな時代に、後に世界一となる選手が初お披露目。
日本のサッカーファンにとって、何と喜ばしい歴史であろうか。その後彼が薬物問題で何度も入国拒否され続けたことも考えると、貴重な経験だったと言える。
アルゼンチンと日本が戦うことはなかったものの、日本サッカー界のレジェンドの一人、水沼貴史氏はマラドーナの姿を見た時の衝撃をこう振り返っている。
今でも鮮明に覚えているのは、宿泊先のホテルで目撃した“太もも”。
年齢などを確認するパスポートチェックの際、日本代表の後に順番を待っていたのがアルゼンチン代表でした。
通路の出窓のようなところに短パン姿のマラドーナが腰掛けていたんですが、そのムキっと盛り上がる足が目に飛び込んできた。
「これはモノが違うぞ……」と、愕然としましたよ。
私たちも世界で戦うためにトレーニングを積んで、それぞれ体重を増やして臨んでいたんです。
それでもすぐに到底、敵わないだろうと思ってしまう佇まい……プレーよりも足のインパクトがいまだに残っています(笑)。
マラドーナは6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献。MVPに選出された。
日本人とよく似た体つきで、身長わずか165㎝という超小柄な体格でありながら、八面六臂の大活躍。
そして子供がそのまま大きくなったような、目いっぱいの感情表現。
そこに当時の日本人のサッカーファンも親近感を覚え、憧れたのだ。
ちなみに、この大会の決勝戦を見に来ていた川平慈英氏はある偉業を成し遂げている。
試合終了と同時に、優勝を喜びラモン・ディアスと抱き合うマラドーナに向かって……何と抱き着いたのである!
曰く、
「体がめちゃくちゃ分厚かった!ビア樽のような体」とのこと。
当時のNHKの放送では試合終了と同時にカメラが切り替わったため、抱き合っている様子が映し出されなかった。
が、試合終了後もピッチの様子が放送されていたブエノスアイレスで観戦していたという方から後日、「ある少年がマラドーナに抱きつく姿を見ていました」と、裏付けをもらったという。
世界中どこへ行っても自慢の種になる、一生ものの勲章を得た慈英氏。
後に
国産サッカーゲームの実況で名を上げる兄のジョン・カビラ氏も
「もともと自慢の弟だったんだけど、これは僕にとっても宝。嬉しい!」と、誇らしげに振り返っている。
マラドーナの存在は、日本サッカー界にも多くの種を播いていたのである。
・W杯スペイン大会
念願かなってようやくW杯の舞台に立ったマラドーナ。
一次リーグのハンガリー戦では、W杯初ゴールを含む2得点を挙げた。
……しかしここでは残念ながら、本領を発揮できたとは言いがたい。
アルゼンチンは二次リーグで、よりによってイタリア、ブラジルと同組になってしまった。
前者は優勝候補大本命のブラジルを破って優勝するチームであり、そのブラジルもサッカー史に残る中盤「黄金のカルテット」を擁していた。
イタリア戦で立ちはだかったのはクラウディオ・ジェンティーレ。「Gentile(親切な)」という名前に似つかわしくない徹底的なマンマークだった。
その試合、イタリアはゾーン・ディフェンスを敷いていましたが、途中ゾーンが甘くなってしまい、ジェンティーレが、マラドーナに張り付くようにしてマークしていたのです。
そのコーナーキックの時です。ジェンティーレとマラドーナは、ゴールポストの近くでニコニコ何やら話をしています。
「お前は、ほんとにすごいな」「いや、それほどでも」とか、
「いつイタリアに来るんだね」「オファーがあればいつでも行くよ」「お前なら、いまだっていくらでもオファーがあるだろうによ」
とかと、何を話していたんだか知りませんが、とにかく言葉を交わしていたとき、マラドーナは、ふとゴールポストに手を置くんです。
ちょうどそのときにコーナーキックが蹴られて、マラドーナがボールに向かおうとしたが、動こうにも動けない。
ジェンティーレが、何気ない顔をして、ゴールポストに置かれたマラドーナの手の上に自分の手を重ねて、押さえつけていたのです。
それでボールが蹴られたときにも離さなかった。それどころか、ぎゅっと力を入れて押さえつけたんでしょう。
マラドーナは、飛ぶことも動くこともできなかったというわけです。もちろんレフェリーも見てなくて、PKにはなりません。
ジェンティーレもそんなことは計算済みだったはずです。
これには本当に感動しました。マラドーナも天才には違いないが、ジェンティーレもまさに天才だと思いました。
これを汚いプレーというのは間違っている、これこそ素晴らしい技術だと感銘を受けました。
確かに技術そのものはすでに完成の域にあったが、人間的にはまだ未熟なところがあった。
その未熟さは続くブラジル戦で、さらに現れてしまった。
相手の度重なる挑発に耐えかねて、報復で相手のバティスタの腹を蹴飛ばし一発退場。
結局2戦共に敗れたアルゼンチンはこの時点で死の組に埋もれてしまった。
マラドーナが真の意味でのマリーシア(ずる賢さ、抜け目なさ)を身につけるのは、次の大会でのことになる。
・W杯メキシコ大会
スペイン大会での屈辱から4年。ナポリで大活躍し、代表のキャプテンに選ばれるほどに成熟した彼はW杯の舞台に戻ってきた。
チームもまた、78年組の選手たちから、マラドーナと同世代の選手たち中心に入れ替わっていた。
83年に代表監督に就任したカルロス・ビラルドは、チームの中心をマラドーナにすると決め、他はマラドーナに忠実で、彼を活かせるタイプの選手たち中心で固めていた。
攻撃はすべてマラドーナ任せ、他の選手たちは守備に気を配らせる。
早い話、とにかく大エースのマラドーナを活かすことに特化したチーム作りを行ったのである。
しかしそのスタイルは攻撃的で創造性を重んじるメノッティ時代とは対照的な、相手の良さを徹底的に潰すタイプのものでもあり、批判の対象となっていた。
チームの成績も就任してから34試合中13勝と芳しいものではなく、当時は「史上最弱」(?!)と酷評されていたほどだった。
ところが、蓋を開けてみると……
グループリーグで
マラドーナはチャンスメーカーに徹し、韓国戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。
ベスト16の
ウルグアイ戦。ラプラタ川を隔てた国同士のダービーマッチ。
マラドーナのゴールが取り消されたものの、試合は1-0で競り勝った。
彼によるとウルグアイ戦は、
「このW杯の中で、それまでの所俺にとっては最高の試合」だったという。
俺と接触したやせっぽちの
エンツォ・フランチェスコリがこう言ってたな。
「頼むから、あいつを止めてくれよ!シャツを引っぱってでも!」って。
でも結局、誰も俺を止められなかった。
1対1でも負けなかったし、前に立ちはだかったウルグアイ人には尽く勝って見せたぜ!
ちなみにマラドーナとフランチェスコリ、代表でもクラブでもライバルかつ性格も真逆ながら、大変仲が良かったことで知られている。
……と、下馬評はあまり高くないながらも、ベスト8に進出したアルゼンチン。
次の相手は───
イングランド。
この時代のアルゼンチンは、軍事独裁を終わらせた
フォークランド(マルビナス)紛争敗戦の傷も癒えぬ頃。
「試合前にいくらサッカーがマルビナス紛争と関係ないと言っても、あそこで大勢のアルゼンチンの若者を小鳥を殺すように殺していたことは知っていた。だからあれは復讐だったんだ」
マラドーナらすべてのアルゼンチン人が復讐に燃える中、86年6月22日、アステカスタジアムにてついに運命の試合のキックオフの笛が鳴らされた。
前半をスコアレスで折り返すと、50分、サッカー史上、最も物議を呼んだゴールが生まれた。
それがこれである。
ぱっと見はヘディングをしているように見えるが、角度を変えると……
あれ、あれれ?!
そう、思いっきり手でボールを叩いて押し込んでいるのだ。サッカーに触れたことがない人でも、ハンドが反則なことは誰でも知っているだろう。
当然イングランドの選手たちは猛抗議したが、判定は覆らなかった。
試合後の会見で彼が「ゴールはマラドーナの頭が少しと、神の手(思し召し)が少しのおかげだ」と語ったことから、ハンドでゴールを決めること、ないし決定的な場面でのハンドは「神の手」と呼ばれるようになった。
なお、後年マラドーナはこのゴールについてこう語っている。
「何が神の手だ!あれは俺の手だ!」
「イギリス人の財布を盗んでやった気分だぜ」
「ガキの頃からハンドでいつもゴールしていた。セボジータスでも、アルヘンティノスでも、ボカでも、ナポリでも!」
「10万人以上の観客の前で同じことをしただけさ。みんなゴールだって叫んでたんなら、誰も疑ってなかったってことだろ?」
……あまりにも素直すぎる。
さらにチームメイトのホルヘ・バルダーノはこのゴールについて、
「主審にあれはゴールじゃなかったですとわざわざ言うアルゼンチン人はいない。私たちは厚かましさとずる賢さが称賛される世界で育ってきた」
とまで言い切っている。
しかし、この神の手ゴールから4分後、マラドーナはサッカー史上、最も偉大といわれるスーパーゴールを叩き出した。
それがこれである。
わずか10秒ほどの間に起きた、史上最大の奇跡。マラドーナは走るというより、もはや飛ぶようにして、GK含むイングランド選手を次々に抜き去っていった。
冒頭に挙げた山本浩氏の名実況も心地よい、伝説の「5人抜きゴール」である。
サッカーを知らない人でも、TVや解説番組あたりでこのシーンを見たことがあるかもしれない。
それくらい、歴史的なゴラッソだったのである。
この世紀の場面は、ご当地のスペイン語圏でどのように実況されていたのか?
『ラディオ・アルヘンティーノ』のビクトル・ウーゴ・モラレス氏の実況が、伝説として語り継がれている。
日本語訳は下記の通り。
マラドーナがボールを持った。2人がマークにつく、が、マラドーナがボールを持って右から突き進んでいく。世界のフットボールの天才だ。
3人目もかわした。ここからブルチャガの出番なのか――いや、やっぱりマラドーナだ!
天才だ!天才だ!天才!タ・タ・タ・タ・タ・タ……
ゴーーーーールッ!! ゴーーール!!!
私は泣きたい! おぉ神よ!フットボール万歳!
ゴラッソーーーーーッ!! ディエゴーーール……マラドーナッ!!
すみません、泣かせてください…! マラドーナの忘れ難い走破、全歴史に残るプレー!
宇宙の凧よ、一体どの惑星からやって来たと言うんだ!?あれだけのイギリス人たちを置き去りにして!アルゼンチン中が握りしめた拳を突き上げている!
アルゼンチン2点、イングランド0点!
ディエゴ! ディエゴ! ディエゴ・アルマンド・マラドーナ……
ありがとう、神様。サッカーのため、マラドーナのため、この涙のために。
アルゼンチン対イングランド、2-0。
すさまじい、としか言いようがない。
山本浩氏のシンプルで小気味よい実況と対照的な、圧倒的なボキャブラリー。どれだけ感情がこみ上げているのかよく伝わってくる名実況である。
南米ではたいてい誰もがこの実況を聞いたことがあるようで、これを諳んじて言えるリアタイ世代の方々も少なくないらしい。
こうして、サッカー史に永遠に残る迷ゴールと名ゴールを瞬く間に刻みつけたマラドーナ。
一つはマリーシアから、もう一つは神から授かった圧倒的な才能から。
この二つはまさに、光と闇の狭間の存在だったマラドーナにふさわしいゴールと言えるだろう。
試合は2-1でアルゼンチンの逃げ切り勝利。
復讐、完了。マラドーナ率いるアルゼンチン代表は優勝への道を突き進む。
ベスト4の
ベルギー戦は彼曰く、(多少の恐れはあったとはいえ)
「かわいそうに、単なるステップに過ぎなかった」。
マラドーナは2得点を挙げ、ベルギーを一蹴。
ちなみにこの試合でもマラドーナは、
林立するベルギーディフェンス陣をスイスイかわし、しれっと4人抜きをやってのけている。
イングランド戦のインパクトがあまりにも強すぎるものの、これも大変なスーパーゴールである。
迎えた決勝西ドイツ戦。
試合前、マラドーナはキャプテンとしてどう振る舞っていたのかというと……
「おふくろ、助けて!怖くてしょうがないよ(´;ω;`)」
……これだけ見たら本当にキャプテンか?!と言いたくなるが、それは偽らざる本音だった。
周りの選手たちはこれを見て、「ディエゴでさえこんなに怖がっているのだから、自分たちが怖いと感じるのは恥ずかしいことでない」と思った。
一見情けない振る舞いだが、それは最大の大舞台へ向かうチームメイトたちのプレッシャーを和らげるものだった。
そういう意味で彼は、心理面でもしっかりとキャプテンの役目を果たしていたのである。
そして試合はというと。
この試合でマラドーナをマークしたのはローター・マテウス。彼が「俺が対峙した選手の中で最高の選手だ」と称賛するほどの名手だった。
しかしマテウスは攻撃の要でもあり、彼をマンマークに回したことで西ドイツは受け身にならざるを得なくなった。
21分に得たコーナーキックをホセ・ルイス・ブラウンがヘディングで決め、アルゼンチン先制。
さらに55分、バルダーノの30m独走からの追加点。2点差に突き放す。
しかしここはゲルマン魂か。74分、80分と失点し追いつかれる。
西ドイツの恐るべき粘り。しかしこのピンチを打ち破ったのはやはり───マラドーナだった。
83分、西ドイツが前がかりになったことで前方にスペースが空いたことに気づいたマラドーナは、センターサークル付近からホルヘ・ブルチャガへスルーパスを送る。
そこからブルチャガは独走、値千金の勝ち越し3ゴール目を挙げたのだ。
そして、試合終了のホイッスルが鳴らされた───
アルゼンチン、2度目のW杯優勝。W杯最優秀選手に選ばれたのはもちろんマラドーナだった。
こうして、
「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」は幕を閉じた。
一人の大スターを活かすことに特化したチームが優勝、そしてその主役がしっかりMVPを掴み取るというロマン。偉業中の偉業である。
その後、アルゼンチン代表は最大の後継者と呼ばれたリオネル・メッシの時代に移っても、カタール大会まで優勝に見放されていた。
伝統国のアルゼンチンですら再度の優勝まで36年もの間が空いたことを考えると、それだけW杯での優勝は大偉業なのである。
さらに試合後、
「ビラルドごめんなさい、そしてありがとう」という横断幕をサポーターたちが掲げるという、
24年後のどっかの代表みたいなことになったそうである。
そしてこの栄光により、長い軍事独裁政権や紛争で多くの犠牲を出し傷ついていたアルゼンチンに、忘れることのない喜びがもたらされた。
───マラドーナは正真正銘、サッカーという枠組みすら超越した神になったのだ。
・W杯イタリア大会
前回王者として臨んだイタリア大会だったが、この大会は心身ともにとても苦しいものとなった。
この頃になると、マラドーナはナポリでタイトルを取りまくったことなどの理由で、イタリア各地でヘイトを稼ぐようになっていた。
さらに盟友バルダーノが外され、マラドーナも、他の選手たちも満身創痍の状態だった。
グループリーグも、初戦のカメルーン戦でまさかの敗戦。その後も1勝1分けで辛くもグループリーグを3位通過。
……ちなみにマラドーナはソ連戦で、神の手ゴールならぬ神の手セーブを披露している。しかもここでも反則を取られることがなかった。
ベスト16の相手はブラジル。こんなに早い段階で最大のライバルと激突。グループリーグの結果もあって、圧倒的に不利と予想されていた。
事実、この試合でアルゼンチンは苦しみ、マラドーナも沈黙を余儀なくされていた。
……だが、ここはやはりマラドーナ。たった一度のプレーで、すべてをひっくり返す。
試合も終盤に入る81分、相手4人に囲まれながらも右足で、新しく代表に入った弟分、クラウディオ・カニージャに針の穴を通すかのようなスルーパスを送った。
まったくのノーマークだったカニージャは見事にこれを決め、ブラジルを撃破。アルゼンチンが、W杯の舞台でブラジルを初めて破ったのである。
ちなみに後年、マラドーナはこの試合について、「睡眠薬入りのドリンクを相手に飲ませてやったんだ! おかげでフラフラになってたぜ」と暴露。
この事件は物的証拠がないものの、ブラジルの左SBを務めるブランコが「アルゼンチンの選手から手渡されたボトルの水を飲んでから体調がおかしくなった」と発言していることを考えると……
本当にどこまでも食えない人である。
ベスト8のユーゴスラビア戦(このユーゴを率いたのは、後に日本でもジェフU千葉や
代表を率いたイビチャ・オシム監督)。
試合は0-0のままPK戦にまでもつれたが、アルゼンチンはどうにか3-2でユーゴを撃破、ベスト4に進出。
次の相手は───開催国イタリア。しかも試合会場は、よりによってナポリのサン・パオロ。
ただでさえクラブ選手としてヘイトを買っていたところに、歴史的にもアルゼンチンと浅からぬ関係で結ばれているイタリアの代表チームをクラブとしてのホーム地で迎え撃つ展開。
メキシコ大会のイングランドといい、なぜこうも絶妙なタイミングで歴史的因縁の相手ばかり引き寄せるのだろうか……
アルゼンチンには19世紀後半以降、イタリアで産業革命の恩恵を受けられなかった地域の貧しい人々が富を求めて渡って来たという歴史がある。
前述の通り、マラドーナの母方の血筋もイタリア系。
この辺の歴史は、『
母をたずねて三千里』でも触れられている。
かつては
「20世紀はアルゼンチンの世紀になる」と言われたほど栄えており、事実、
20世紀初頭は世界で5位に入るほどの先進国だった。
しかし、その栄華も長くは続かず、80年代に入るとアルゼンチンからイタリアに移民が流入するようになった。
イタリアから見れば、アルゼンチンは「南」。つまり、南北問題はイタリア国内のみならず、国と国との関係にも当てはまるようになる。
ナポリとアルゼンチンという二つの「南」を背負って立つマラドーナ。この二国が激突するということは、
図らずもイタリアが抱えていた矛盾が暴かれることも意味していた。
この試合前、マラドーナはインタビューでこう語っている。
ナポリの人たちがイタリアを応援するのは間違いないさ。
俺たちのアルゼンチン代表にも、敬意を払ってくれるだろうけどね。
ただ一つ残念なのは、ナポリの人たちがイタリア人として振る舞うように周りから強要されていることだね。
ナポリはずっと、「地震の被災者」だの「テッローネ(Terrone)」だの、差別的なことを言われ続けていたんだ。
散々蔑んできたくせに、今さらマラドーナじゃなくてイタリアを応援しろだなんて、おかしくね?
この発言に、イタリアのマスコミは「マラドーナはナポリの人たちにアルゼンチンを応援させようとしている」と書き立てた。
しかしそれはまさしく、図星を突かれたことへの焦りの表れだった。
迎えたイタリア戦。
17分、この大会で一躍有名となったサルバドーレ・スキラッチのゴールにより、地元イタリアが先制。
しかし67分、カニージャのヘディングでアルゼンチンは同点に追いつく。
試合は再びPK戦にもつれ込み……結果は3-4。決勝へ駒を進めたのは、アルゼンチンだった。
しかも決着をつけたのは、アルゼンチン最後のキッカーを務めたマラドーナ。
イタリアにとって、地元開催の大会で一番目の敵にしていた相手にとどめを刺されるという、痛恨の敗戦だった。
そしてマラドーナにとってもこの勝利は、カルチョ界との関係が完全に崩壊する決定打となった。
結局この試合は、両者にとってあまりに悲しい結末となったのである……
決勝は再び西ドイツ戦。
大半のイタリア人たちは先の試合で敗れた恨みを、アルゼンチン国歌やマラドーナへのブーイングという形でぶつけた。
現実にもアルゼンチンは累積警告でカニージャなど主力が4人も出場停止となっており、もはや踏んだり蹴ったりの状態。
その状態にもかかわらず、西ドイツはなかなかアルゼンチンを崩しきれない。
後半に入るとアルゼンチンが2人の退場者を出すなど荒れた展開となり、85分、ついに西ドイツにPKを決められ万事休す。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、マラドーナは人目もはばからずに涙を流した……
結局この決勝戦は、「W杯史上において最も退屈で、荒んだ試合」「エンターテインメントとしては華やかさに欠けた」「酷い勝利、酷い敗戦、全く酷い試合」など、散々な酷評に晒された。
そしてここから上述通り、マラドーナの転落が本格的なものになっていくのだった……
・W杯アメリカ大会
イタリア大会以後、アルゼンチン代表は若返りを図り、91年コパ・アメリカで優勝するなど結果を出していた。
マラドーナはこの時薬物使用による出場停止処分を受けており、後輩たちの活躍をピッチの外で見つめることしかできなかった。
ところが代表は
南米予選、ホームのコロンビア戦で0-5の大敗。
まさかのプレーオフに回ることになるという緊急事態に追い込まれた。
そこでお鉢が回ってきたのは?
もちろんマラドーナである。
チームは瞬く間に息を吹き返し、本戦出場をつかんだ。
有望な若手に、生きるレジェンドのマラドーナを加えたアルゼンチンは、一気に優勝候補へと変貌した。
グループリーグ初戦のギリシャ戦。アルゼンチンは全員で攻撃に参加して、パスが繋がりまくる攻撃的なサッカーを披露した。
マラドーナも強烈なミドルシュートを突き刺し、ギリシャに4-0の圧勝。
続くナイジェリア戦もアシストを決め逆転勝利。マラドーナの復活を印象付けた。
───しかし、その直後に悲劇が待っていた。
天国から地獄へ真っ逆さまの、あまりにも残酷な宣告。さらに再検査でも陽性反応を示した。言い換えれば、W杯追放である。
「俺は両足を切られてしまった」
悲痛な叫びをあげるマラドーナ。チームも大黒柱を失ったショックのあまり、ベスト16で敗退。
検出された薬物は興奮剤のエフェドリン…しかしこれ自体は市販の風邪薬にも使用されている、ごく身近なもの。
果たしてこれは彼の故意か不注意か、それともダーティなイメージのマラドーナが活躍することを恐れたFIFAの陰謀か?
確かなのは、マラドーナの輝かしい代表キャリアが最悪の形で終わってしまったということだけである。
引退後
現役を引退した後も、お騒がせ男は話題を提供し続けた。
引退したことにより怠慢な生活はさらに悪化、あっという間に激太りした。
「俺ときたら、サッカーボールみたいになっちまった」
そんな自虐ネタもさることながら、最大では120kg以上にまで達していたという。
……身長165㎝でこの体重。近くで見たらさぞ物凄いインパクトだろう。
そもそもセボジータス時代から肉体改造の薬物やビタミン漬けだったマラドーナ。
さらに10代の頃に人工的な筋肉補強をし、その後は負傷するたびに痛み止めの注射を打って試合に出たため、怪我しやすく、太りやすい体質になってしまったのだ。
薬物のことはともかく、体質に関してはなるべくしてなったという部分もあるのかもしれない。
しかし、これだけ太っていたら当然体に大きな負担がかかる。おまけに重度の薬物中毒。
2000年、ウルグアイのリゾート地プンタ・デル・エステにて心臓発作を起こし入院。その心臓は38%しか機能していなかったという。
回復後は療養のため、カストロ議長を頼ってキューバの医療施設に入所し、以後何度もお世話になった。
……ん、今何かとんでもないビッグネームが見えたような……?!
実は自身の結婚式に招待するほど、カストロ議長とは深い友情を結んでいるのだ。
さらにキューバ大好きなマラドーナは、左脚にカストロ議長、右肩にチェ・ゲバラのタトゥーを掘っている。
2004年4月18日、ボカの試合観戦中に高血圧と拡張型心筋症でついに危篤に。
普通の国なら「やっぱりクスリをやめられなかったんだ」と思う所だろうが、アルゼンチンは別。
どんなに汚れようと、激太りしようと、長年の屈辱を打ち払い、喜びをもたらしてくれた英雄であることに変わりはないからだ。
アルゼンチン全土が彼の命が消えないように、ただひたすら祈り続けた。
そして国民の熱き思いは───天に届いた。
間もなく意識を取り戻したマラドーナは呼吸器も外し、ベッドから起き上がり、自力で歩けるまでになった。
さらに4月29日にはいきなり「退院」。もちろんドクターは、退院の許可など出していない。
周囲をアッと言わせることにかけては他に類をみないマラドーナ、はたしてその理由は……
「病院食はマズいんだよ!アサード食いてぇ!」
つくづく正直すぎる人である……
そしてその6日後に再び体調を崩し、病院に戻されたという。
2005年には胃の三分の二を摘出するバイパス手術を敢行。おかげでだいぶ痩せることに成功した。
退院後スペインへやって来ると、レアル・マドリーの練習場へ姿を現した。
練習を見終わった後、
「俺にマドリーの監督をやらせろ!」と発言。あなたさっきまで死にかけていたくせに!
当然実現しなかったが、銀河系どころかサッカー界の
外なる神たる彼が率いていたら、一体どうなっていたことやら……
まあ3年後に、ある意味それ以上の形で彼は監督キャリアにも大きな一歩を残すわけだが。
代表監督就任
2008年11月4日、サッカー界に驚きの一報がもたらされた。
当時のアルゼンチンはまたも南米予選で苦戦しており、アルフィオ・バシーレ監督辞任後の監督人事は難航していた。
そんな中で、こんな大役を任されたのが、よりによってマラドーナ。
確かに選手としての実績は偉大過ぎるほどだが、監督としての実績はほとんどなし。
それに加えて、ただでさえ極端すぎる人柄に、数年前にガチで死にかけるレベルの滅茶苦茶な生活ぶり。
この人事には当のアルゼンチン人も困惑し、国民の76%が反対したという……
彼が監督に就任した結果、アルゼンチン代表はさらに迷走。
テレビの深夜番組で、司令塔であり、ボカのアイコンの一人でもあったファン・ロマン・リケルメをクラブでの不振を理由にこき下ろし、その発言に怒ったリケルメが代表引退を表明してしまう。
さらに選手を手あたり次第代表に招集し、一貫性や継続性がないと批判された。彼が就任してから1年半で、招集した選手の数は100人以上にも上る。
公式戦における初陣となったホームのベネズエラ戦では4-0と快勝したが、続くアウェイ、標高3600mの首都ラパスで行われたボリビア戦で、1-6の歴史的大敗。
この南米予選開幕前、同じラパスで行われていたチャリティマッチに出場していたマラドーナは、高地でのW杯予選を禁止しようとするFIFA相手に啖呵を切っていた。
「君たちには、生まれた土地でプレーする権利がある!ブラッターにも、神様にも止める権利なんてないんだ!」
「これはサッカーをしたことのない連中が決めた、政治的でバカげた措置だ!」
「てめーらは地理も書き換えるつもりか?」
いくら高地でプレーする権利があると言っても、実際にそこでプレーするとなると、ただでさえ薄い酸素に、ボールの軌道も変わるなど、過酷を極める。
そこへ無策で挑んだ結果、発言がことごとくブーメランとなったのである。
さらにホームのブラジル戦。
アルゼンチン代表のホーム戦は普通リーベルの本拠地モヌメンタルで行われるが、マラドーナは「芝の状態が悪い。こんな所で試合をするのはメッシやテベスに失礼だ」と難癖をつけた。
そのため試合はロサリオのヒガンテ・デ・アロシートで行われたのだが……
結果は1-3の惨敗。ライバルクラブの英雄から嫌がらせを受けたリーベルの幹部が一斉に「結局どこでやっても一緒じゃねーか!」とツッコんだのは言うまでもない。
こうしてアルゼンチン代表は苦戦が続き、マラドーナ監督就任後は2勝4敗、残り2試合で順位は5位。プレーオフはおろか、予選敗退すらあり得る、まさに瀬戸際の状態だった。
ホームのペルー戦。互いに決め手を欠く中、48分、
パブロ・アイマールがスルーパスを前線に送ると、これに反応したゴンサロ・イグアインがシュートを確実に決めて、アルゼンチンが先制。
このまま試合のペースを握ると思われたアルゼンチンだが、次第にペルーに攻め込まれていく。89分には同点弾を決められ、いよいよ窮地に追い込まれた。
しかし、そこはやはりマラドーナの神通力なのか。
試合終了間際のロスタイムに、ボカの後輩にあたるマルティン・パレルモが混戦の中から勝ち越しゴールを決めた。
このドラマチックな勝利に、マラドーナも歓喜のあまり……
……あのー、まだアウェイのウルグアイ戦が残っていますよ?
順位こそ4位に上がったものの、5位ウルグアイとの勝ち点差は1のみ。しかも当時のアルゼンチンは、ウルグアイに33年もの間、アウェイで勝っていないというジンクスを抱えていた。
迎えたウルグアイとのアウェイ戦、互いにゴールの生まれないまま終盤を迎えたが、83分、ウルグアイのマルティン・カセレスが2枚目のイエローカードをもらい、痛恨の退場。
アルゼンチンはこれで得た右FKをメッシが中央のフアン・セバスティアン・ベロンに出し、ベロンのミドルを途中出場のマリオ・ボラッティが流し込み、値千金のゴール。
これが決勝点となった。
こうして、劇的な形でW杯への出場権を手にしたアルゼンチン。
しかし試合後の記者会見で、マラドーナはこれまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して鬱憤を爆発させた。
以下、マラドーナ怒涛のお怒りコメント
「俺をW杯に連れて行ってくれるチームに感謝したいし、ここまで応援に来てくれた人たちにも感謝したい。
けれど……感謝に値しない連中もいる。俺は記憶力がいいんでね。俺のチームを信じなかった連中、俺のことを役立たずと呼んだ連中のことは決して忘れないよ」
「この勝利はジャーナリストを除く、すべてのアルゼンチン国民のものだ」
「ジャーナリストは俺をゴミのように扱った。しかし俺たちは誇りを持って本大会の出場権を得た。
俺はこれをすべてのアルゼンチン国民と俺の家族に捧げる」
「だが、俺をゴミのように扱った連中はそれに値しない!」
「おめーらはチ×ポでもしゃぶってろ!!女性の方には失礼しました」
この発言の数々は当然FIFAから怒られ、練習参加などを含む2カ月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン(約220万円)の罰金処分を言い渡されたのだった。
まあマラドーナらしいっちゃらしいが。
迎えた
W杯南アフリカ大会本戦。監督としてW杯、ひいては表舞台に舞い戻ってきた彼に、誰もが注目した。
……というか、少なくともアルゼンチン代表関連の話題は、全部彼にかっさらわれたといっても過言ではないだろう。
以下、南アフリカでのマラドーナのリアクション集
もはや監督というより、「アルゼンチン代表マスコットキャラクター」状態である。
代表の結果はというと、南米予選での大苦戦が嘘のように、グループリーグは全勝で突破。
ベスト16のメキシコ戦も、アルゼンチンの先制点がオフサイドでありながら、誤審で認められてしまうという後味の悪い展開に後押しされつつも、3-1でベスト8進出を決めた。
しかしベスト8のドイツ戦は、4-0と大敗。
マラドーナが取ったアルゼンチンの攻守分担型のスタイルは「30年代のサッカー」と揶揄されるほど古臭いもので、他の戦術もあるわけでなかった。
つまり、劣勢時に立て直す術を持っていなかったのだ。
結局「監督マラドーナで優勝」という理想は、叶わないまま終わってしまった。
しかし、全身全霊で感情を表現したリアクションの数々は、見る者の腹筋を破壊すると同時に、サッカーの楽しさというものを再確認させてくれたことだろう。
まさに天性のエンターティナーの面目躍如であった。
また、大会中試合予想を(アルゼンチンの敗退も含めて)すべて的中させた
タコのパウル君に対してはその死後、
「この予言タコ野郎、死んでくれて嬉しいよ。W杯で負けたのはお前のせいだ!」
と、ツイッターに過激につぶやいたのだった。
その他のエピソード
ナポリ時代のマラドーナはプレーだけでなく、素行の面でも多くの伝説を残している。
新聞のコラムにて酷評されると、その記者が司会を務める番組に乱入。
「お前が書いたその滅茶苦茶な記事を食え!」
あろうことか、その記者の口をこじ開け、くだんの記事が掲載された新聞を丸めて突っ込んだのである。
もし彼の現役時代にSNSがあったら、一体どうなっていたことやら……
あまりにも滅茶苦茶な私生活で有名なマラドーナ。隠し子騒動は、薬物問題と並んでその最たるものの一つだろう。
おかげで家族構成は複雑怪奇なことになってしまった。
まず最初の妻クラウディア・ビジャファーニェさんとの間に、長女ダルマ(87年4月生まれ)、次女ジャンニーナ(89年5月生まれ)が誕生。
しかし実はダルマが生まれる前の86年9月、愛人だったクリスティーナ・シナグラさんとの間に長男ディエゴ・マラドーナ・ジュニア(!)が生まれていた。初っ端から不倫の子である。
この女性とは結婚も考えるほど親密な関係だったが、妊娠が発覚するや一転、中絶するよう懇願。
ジュニアが生まれると、その認知を巡って法廷で争うこととなった。マラドーナは自らの責任回避のため、法廷から要求されたDNA検査も拒否した。
だが、すべての証言、すべての証拠がマラドーナとジュニアの親子関係を明確に証明した。
ジュニアの父親がマラドーナであると判決した法廷は、マラドーナに対してジュニアが18歳になるまで養育費を支払い続けるよう命じたのだった。
結局、彼がジュニアを認知したのは07年のこと。17年には正式に和解。生まれてから約30年後のことだった。
自分の誕生を望まなかった父のことを、それまで一体どうやって受け止めていたのだろうか……
なお、ジュニアは01年にU-17イタリア代表に選ばれたが、その後ビーチサッカーに転向。
09年夏のビーチサッカーW杯では、キャプテンとして出場し準優勝している。多少形は違えど、父の才能を受け継いでいたのは確かである。
……しかしマラドーナはこれに懲りるどころか不貞を働きまくり、あちこちに子供を作っていた。
バレリア・サバレインさんという女性との交際を経て、96年4月に三女ファナが誕生。彼女も成人するまで認知されなかった。
13年2月、当時付き合っていたベロニカ・オヘダさんとの間に、次男ディエゴ・フェルナンドが誕生。マラドーナ52歳の時のことである。
ちなみに次女のジャンニーナは代表のFW、セルヒオ・アグエロと結婚し、09年2月に息子のベンハミンを生んでいる。
……つまりマラドーナは、孫より年下の息子を持っていることになる。
さらに19年、薬物依存症の治療でキューバを訪れた00年から03年、二人の女性の間にジョアナ、ルゥ、ハビエリートが生まれていたことが発覚。
隠し子ハットトリック。もはやぐうの音も出ない。
これにはジャンニーナも、「あと3人でサッカーチームを作れるね!」と、半ば呆れ気味のジョークをインスタグラムに投稿したのだった。
事実、他にも隠し子がいるらしく、現在では生涯に残した子供の数は11人いるとされる。
……娘の言葉が現実になってしまった。
そして相続人イレブンと化したおかげで、遺産争いが泥沼化しているらしい……
NOVAと言えば
駅前留学でおなじみの英会話学校のイメージが強いが、かつてはアサヒ飲料から同名の缶コーヒーも発売されていた。
そのCMは、ディエゴとラウル、ウーゴの
マラドーナ兄弟が出演しているという大変豪華なものだった。
当初はグランドキャニオンで撮影する予定だったが、マラドーナはアルゼンチンで撮影することを希望。
ラ・リオハ市近郊のタランパージャ国立公園で撮影された。
ちなみにタランパージャ行きのヘリを手配したのはラ・リオハ州知事カルロス・メネム。後のアルゼンチン大統領である。
……「!?」となった方も多いだろう。
彼の場合、ご当地の神格化が行きつくところまで行っており、熱狂的なファンたちは、その名もズバリ、「マラドーナ教」なる宗教まで立ち上げてしまった。
……何度見ても冗談としか思えないが、ちゃんと実在するのである。いやホント。
1998年10月30日、マラドーナの38歳の誕生日にロサリオで誕生し、01年に最初の会合が開かれた。現在は、世界60カ国以上に10万人を越える信徒がいるとされる。
戒律は、
1.ボールを汚さない
2.何よりもサッカーを愛する
3.マラドーナとサッカーに無償の愛を捧げる
4.アルゼンチンのユニフォームを守り、ファンを大切にする
5.マラドーナの奇跡を世界に伝える
6.聖なる衣装と聖堂に祈りをささげる
7.一つのクラブ選手として彼を語らない
8.マラドーナ教の教えを広める
9.息子に「ディエゴ」のミドルネームをつける
10.激昂しないこと。それは汝の歩みを亀の如くにする
の通り。
日本人の感覚だと、9番目が一番ハードルが高いと思われる。
信者の中には、双子の女の子を授かって「マラちゃん」と「ドーナちゃん」と名づける強者も存在する。
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双子にその名前がつくまで |
双子の父親ワルテル・ロトゥンドさんによると、W杯イタリア大会決勝でブーイングを浴びながらも反逆の精神で戦い続け、
敗れても決して媚びることのない彼の強い姿勢に自分との強烈なつながりを感じたのだという。
さらにその後のW杯アメリカ大会追放を乗り越えてボカに復帰した姿を見て、二人の女の子の父親となり、「マラちゃん」「ドーナちゃん」と名付けることを決意したのだった。
もっとも、この決意は周りから笑われた。男の子に「ディエゴ」とつけるのは分かるが、女の子にこんな名づけをするのは流石にアルゼンチンでも前代未聞だったから仕方ない。
しかし奇跡は起こるもので、11年7月、その熱き思いが天に届いてめでたく双子の女の子を授かったのだった。
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他にも、聖書として扱われるのは『マラドーナ自伝』、洗礼式は吊るされたサッカーボールを左手で叩いて「神の手ゴール」を再現すること、
マラドーナが生まれた年は「ディエゴ歴元年」、「神の手ゴール」が披露された6月22日はこの宗教のイースターに相当など、色々愉快な教義を持っている。
稀代のエンターティナー、マラドーナ。その影響力はサッカーだけに及ばない。
何と『10番の夜(La noche del 10)』という、自分が司会の番組を持っていたこともあるのだ。
本国では2005年8月15日~11月7日の全13回が放送された。
その内容は、歌ありトークありゲームありメロドラマありのごった煮だが、特筆すべきは自らの威光にものを言わせて次々と超大物を呼びつけるスタイル。
第一回放送のゲストは「サッカーの王様」ペレ、第十二回放送のゲストはカストロ議長だったのだから、そのヤバさがうかがえるだろう。
さらに実の家族も総出演するわのやりたい放題っぷりである。
アルゼンチンのみならず、南米全土、そしてヨーロッパ各国でも放送され、平均視聴率は25%超、最高視聴率34.9%を記録した。
日本でも2006年に動画配信サイトで日本語字幕付きで配信されていた。
ブラジルの飲料、ガラナのCMより。
ブラジル代表の国歌斉唱、選手たちが映される。
ロナウド、カカ、マラドーナ……マラドーナ?!
宿敵ブラジルの選手たちの中に、なぜか
カナリア色のユニフォームのマラドーナが紛れ込んでいるという衝撃的な展開。
……なのだが、もちろん
夢オチでなのでご安心を。
ちなみにこのCMの会社、アンタルチカは
ブラジル代表の公式スポンサー。それなのに、最大のライバルの国の英雄を出すとは……
何だかんだで、互いを認め合っているのだろう。
2015年3月、マラドーナは恋人のロシオ・オリバさんの要望で美容整形手術を受けた。
目の下のシワの除去、二重あごの補正、頬の脂肪吸引など……
そしてできた顔というのがこちら。
……どう見てもオネエです。本当にありがとうございました。
ドイツのビルト紙はその変わりぶりを、「ママドーナ」と表現した。
他にも、高須クリニックの高須院長はこれを見て、「まだ完成品ではありません。アルゼンチンに行ったとき主治医にアドバイスします」とコメントしている。
2018年W杯ロシア大会。アルゼンチン代表はグループリーグで大苦戦を強いられていた。
初出場のアイスランドにまさかの引き分け。さらにクロアチア戦は0-3の完敗。2戦目を終えた時点で1分け1敗の最下位という事態に陥った。
これにはマラドーナも、
「言葉がない。アルゼンチン代表のユニフォームを着た者がドイツでも、ブラジルでも、オランダでも、スペインでもなく、クロアチアに負けるなどあっちゃならない。それが真実だ」
「今のアルゼンチン代表に計画もなければ解決策もない。中盤も、攻撃も、守備でもだ。クロアチア代表相手に何もできなかった。ボールを持つこともね」
とおかんむり。
いよいよ後がなくなったナイジェリア戦。すると試合前に奇跡が起きた。
スタンドにマラドーナが現れると、
その場所だけ曇り空から日差しが差し込むという神秘的な光景が表れたのだ。
チームもそれに触発されたのか、ナイジェリアを撃破。無事にグループリーグを通過したのであった。
なお、アルゼンチンが決勝点を挙げた直後、興奮のあまり両手の中指を立てるという某サブカルクソ漫画とかを彷彿とさせるパフォーマンスも見せていた
しかしベスト16のフランス戦で敗戦。そして、この大会がW杯で見せた最後の勇姿となってしまった……
ここまでのエピソードを見ていると、サッカー以外はひたすら問題かネタばかりのイメージのマラドーナ。
しかし、生まれが社会の最下層だったこともあって、彼は常に選手や、弱い立場の者へ味方し続けてきた。
逆に権力に対しては、FIFAだろうが、アメリカ大統領だろうが、ローマ法王だろうが、真っ向からケンカを売る。
単純にタイトルの数で言えば、それ以上に取った選手はいる。
しかし彼の場合、メキシコW杯といいナポリでのタイトルといい、その意味合いが桁外れに重いのである。
チーム選びからして、徹底してその姿勢を貫いていた。
アルヘンティノス……元々はマルティレス・ディ・チカゴという名だった。これはアメリカで八時間労働を求めて戦って殺された社会主義者の名前が由来。
ボカ……このクラブの本拠地、ブエノスアイレスのボカ地区は貧しいイタリア移民が集まって作られた。リーベルとは逆に、今でもここを拠点にしているこのクラブは労働者階級の象徴とされている。
バルサ……スペイン国内でマイノリティであり弾圧にもさらされたカタルーニャ人にとってのアイデンティティであり、民族主義・独立運動の象徴。
ナポリ……前述の通り、裕福なイタリア北部からの差別意識に対する反骨精神を象徴するクラブ。
他にも、薬物による出場停止期間中、地方にある障碍児施設が資金難にあると知るや、即刻チャリティマッチを企画。
施設を助けたのはマラドーナだったが、プレーや得点する機会を与えてくれた子供たちや、小さな町で過ごしたときに知り合った一般の人々に感謝の意を表した。
また、ボカ復帰後、無断で自分の写真を使ったシャツを売っている業者の存在を知った時は、販売を許可した上にそのシャツを着て宣伝し、工場を倒産の危機から救ったというエピソードも。
こう見えても、情に厚く、困っている人を見つけたら助けずにはいられない性分なのである。
彼の素顔をもっと知りたければ、『ディエゴを探して』を一読することをおすすめする。
マイナス方面ばかり言われがちな彼であるが、その聖人ぶりもまた常人の想像を超えたレベルまで突き抜けていることが明らかにされている。
ちなみに『マラドーナ自伝』の原題は『Yo soy el Diego de la gente』。その意味は「俺は皆さんのディエゴ」。
彼が提案したこのタイトルは、まさにぴったりのものと言えるだろう。
なお、初刷では手違いがあったのか、タイトルが『Yo soy el Diego(俺はディエゴ)』と、真逆の意味になる誤植をされてしまい激怒したとか
神話学・文化人類学には「
トリックスター」という言葉がある。
ざっくり表現すると、
「策略を用いて狡猾に立ち回ったと思うと、いたずら好きな性格が災いして失敗を繰り返す道化的な英雄」という役回りのキャラクター。
さらに詳しく知りたければ、当該項目も参照のこと。
マラドーナの活躍と破滅ぶりを見ていると、この言葉がよく似合うことに気づくだろう。
神の手ゴールと5人抜きゴラッソは言わずもがな、イタリア大会の準決勝前には前述の通り、核心を突く発言をしている。
良くも悪くも正直かつ、物事の本質を理解している屈指のサッカー選手だったと言える。
彼がプレー、いや存在するだけで、彼の意図をよそに世の矛盾が暴かれ、常識がひっくり返る。
その一方でコカイン・アルコール中毒は言わずもがな、数えきれないほどの問題行動で何度も死にかけたり、名誉を失ったり……
本来理知的なはずなのに、信じがたい奇行を働くなど、矛盾をはらんだ存在。
彼はまさに、サッカー界に現れたトリックスターそのものだったのである。
名(迷)言集
・ぼくの夢は二つ。一つはW杯でプレーすること。もう一つは優勝することだ
───14歳の頃の発言。なお、この発言から約40年後に「このまま8軍(満15歳のカテゴリー)で優勝することだ」という続きがあったことが判明した。
・とりあえず、もう一枚パンツでも買うかな
───プロデビュー直後、初めての給料を間近に控えた時の発言。
・とにかくボールを預けてくれるだけでいい、あとは俺がなんとかするから
───この発言の通り、味方ならこれほど頼もしい人はいない。
・もうすぐ生まれる俺の子が、戦争も飢えもない良い世界にたどり着けるように願うだけさ。これはみんなへの願いさ。1989年おめでとう、アルゼンチン
───アルゼンチン国民へ向けたクリスマスメッセージ。
・シルトン、秘密を教えてあげよう。あれはハンドだったのさ
───神の手&5人抜きの犠牲者となったGK、ピーター・シルトンへの言葉。当然シルトンは今でも彼のことを許していない。
・5人抜きは、イングランドの選手が紳士的だったからできたのさ
───現代の視点だと、当時のイングランドのプレーは非常にハード。時代の違いである。
・ペレは上層部と仲良しだが、人々の投票で勝ったのは俺で、俺はいつも選手とサッカーの味方だ。ペレは哀れだな。母国の人気はセナの次だし、サッカーじゃ俺に次ぐ永遠の二番手さ
・あいつは人気でも俺に負けてるし、仕事もないからすぐ俺に噛み付いてくる。早く博物館に戻れよ。大体、セレソンの監督にもなれねえ奴が何だってんだ
───20世紀最優秀選手を選出するFIFA公式サイトのインターネット投票で1位となったが、FIFAの選考委員はペレを1位として、両者で賞を分け合うことになったときの発言。ものの見事に言いたい放題である。
・キムチばっかり食ってるとあんな馬鹿が出来上がるんだな
───2002年日韓W杯に於けるスペイン対韓国戦で韓国側に有利な誤審を繰り返した審判団に心底辟易して。
・無観客試合なんて、墓場の中でプレーするようなもんだぜ
───コロナ禍のサッカー界の状況を憂う発言。まさかこの後自分が墓場に入ることになろうとは。
・『神の手』がアルゼンチン人の法王を運んできた!
───史上初のアルゼンチン人ローマ教皇、フランシスコの選出に大喜びして。
・エムバペは多くの選手を超える。俺はペレス会長に"エムバペと契約しろ!"と言った。
───2017年、当時18歳のフランス代表FWキリアン・エムバペを絶賛し、レアル・マドリード会長のペレス氏に獲得を強く勧めた時の発言。
後に2018年ロシアW杯においてエムバペは世界にその名を轟かせ、そして2024年、7年の時を超えてエムバペはペレス会長の率いるマドリーへと移籍することになったのであった。
・もし死んだら、生き返ってサッカー選手になりたい。そしてまたディエゴ・アルマンド・マラドーナになりたい。俺は人々に喜びを与えた選手。それで十分さ
───ナポリを去った後の発言。いつかまた、どこかに同じ存在として再誕していることを祈ろう。
その最期~アルゼンチンよ泣きやがれ~
そんなこんなで2020年10月30日に還暦を迎えたマラドーナであったが、前述した通り長年の乱れに乱れた生活がたたり、その体はボロボロになっていた。
一人で歩くことや言葉を話すことすらままならず、心臓は通常の倍にあたる500gにまで肥大化していたという。
アルゼンチンサッカー協会から誕生日の祝福を受けるためにヒムナシアの試合会場に現れた時も、付き人に体を支えられ、明らかに体調がすぐれない様子だった。
同年11月2日、主治医の勧めもあり検査を受けたところ慢性の硬膜下血腫が見つかった。手術は成功し、国民やサッカーファンの誰もが胸をなでおろしながら、こう思ったことだろう。
「何度も死の淵から生還してきたディエゴのことだから、きっと今回も大丈夫だろう」と。
手術の後、自宅療養を続けていた彼はその日───11月25日───の朝も早起きし、散歩して、薬を飲んだりと、いつも通りの生活を続けていた。
一つ違っていたのは、朝10時ごろ、具合が悪いからまた横になると、ベッドに向かっていったことだった。
それから2時間後、部屋に入った看護師たちは世にも恐ろしい光景を目の当たりにすることとなった。
彼はすでに息をしていなかったのだ。
すぐさま何台もの救急車が呼ばれ、懸命な措置が施されたが、待っていたのは誰も聞きたくもないし、言いたくもない結末だった。
Murió Diego Armando Maradona(ディエゴ・アルマンド・マラドーナ死去)
この不世出のスーパースター逝去の一報に、アルゼンチン全土が、サッカー界が、そして世界中が涙し、打ちひしがれた。
アルゼンチンでは3日間の国喪が宣言され、国内のすべてのクラブは彼に敬意を表すため、夜10時からスタジアムで10分間、追悼照明を灯した。
……しかし消灯後も、ただ一つ明かりが灯っている場所があった。
そこは、ボカの本拠地ボンボネーラのマラドーナ専用のVIP席。
暗闇に閉ざされた街の中、彼がいつも愛するクラブに声援を送っていた場所に灯された光。
まるで、彼の魂がそこにいることを表すかのように……
翌日には通夜が行われ、遺体を収めた棺が大統領官邸に安置された。
新型コロナのロックダウン期間中であるにもかかわらず、実に100万人ともいわれる人々が、英雄へ最後の別れを伝えるためにそこへ集まってきた。
その中には、ボカのサポーターと、宿敵リーベルのサポーターが泣きながら抱き合う姿もあった。
本来なら憎み合い、決して分かり合うことのないはずのライバルチーム同士。世界一熱狂的と言われるスーペルクラシコでは暴力による事件が後を絶たない。
特に18年のコパ・リベルタドーレス決勝2Legでは、ボカの選手たちを乗せたバスがリーベルのサポーターによって襲撃され、選手たちが負傷する惨劇さえ起きている。
それが、互いの垣根を越えてその死を悲しんでいる……マラドーナの死の前では、クラブ同士のあまりにも根深い対立関係すら些細なこと。
彼は騒動をもたらすだけでなく、憎み合う者同士も結びつける力ももたらした。
やがて彼の棺はブエノスアイレス郊外の民営墓地へと運ばれ、埋葬された。
ミュージカル『エビータ』では『Don't Cry for me Argentina(アルゼンチンよ泣かないで)』と歌われたが、この時、確かにアルゼンチンは泣いたのだ……マラドーナのために。
もう一つの故郷ナポリでもその死は海より深く悲しまれ、スタディオ・サン・パオロの周りには数えきれないほどのろうそくやマフラーが捧げられた。
12月4日、スタディオ・サン・パオロは所有権を持つナポリ市議会において改名が満場一致で決定、「スタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」となることが決まった。
いつもなら達成まで10年かかると揶揄されるほどやる気のないことで有名なイタリアのお役所仕事が、死後わずか9日で達成されるという異例の事態。
これもまた、彼の起こした奇跡なのである……
最後に、サッカー界の関係者のお別れコメントで、この項目を締めくくろう。
ペレ(元ブラジル代表、58年・62年・70年大会優勝メンバー)
なんて悲しいことなんだ……私は大事な友人を失い、サッカー界は伝説を失った。
彼についてもっと多くのことを語りたいが、まずは神様にマラドーナの家族にこの辛さを乗り越えられる力を与えられるようにお祈りしたい。
いつか天国で一緒にサッカーができるように……
ジーコ(元ブラジル代表選手、元日本代表監督)
水曜日はフリーキックの日。
今日11月25日は、我々の世代の偉大な一人に敬意を表したい。
彼はオールスターズのゲームを盛り上げてくれた大親友で、一緒にプレーする喜びを与えてくれた。
サッカーと、私たちの友情のためにしてくれたすべてのことに感謝している。
ミシェル・プラティニ(元フランス代表)
とても悲しい。我々がプレーした素晴らしい時代が懐かしい。マラドーナも私の人生に大きな影響を与えてくれた1人だ。
ヨハン・クライフ、アルフレッド・ディ・ステファノ、フェレンツ・プスカシュなど、若い私に影響を与えてくれた素晴らしい選手たちはすでにこの世を去っている。
我々の過去が消え去っていく……
ジネディーヌ・ジダン(元フランス代表、98年大会優勝メンバー、サッカー指導者)
マラドーナが亡くなったのはサッカー界だけではなく、全世界にとってとても悲しい出来事だ。彼のことで最も記憶に残っているのは86年のワールドカップだ。
当時私は14歳で憧れの選手はエンツォ・フランチェスコリだったが、我々子供たちはマラドーナのプレーをずっと真似していた。
彼が素晴らしい選手だったことを直接伝えることができて良かった。
エンツォ・フランチェスコリ(元ウルグアイ代表)
最近はあまり会えてなかったけれど、私たちには多くの共通点があり、常に異なるチームの色を着たライバルだったという事実を超えてサッカー人生を共に歩みました。
私には彼の素晴らしき寛大さ、特に友人たちに対してごく普通の人間だったというあり方が印象に残っています。
楽しみながら、さらなる高みを目指していた……そんな風に覚えていたい。
クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル代表)
今日私は友達と別れ、世界中の人々もレジェンドとなった天才と別れの挨拶を告げなければならなかった。
マラドーナは最強である。真似のできない魔法使いだ。早すぎる死だったが、サッカー界に計りきれない財産、そして決して満たされることのない空虚感を残していった。
天才よ、安らかに眠ってください。あなたを決して忘れられることはない。
アントニオ・コンテ(元イタリア代表、サッカー指導者)
我々はサッカーの歴史を描いてきた、これからもずっと忘れることのない人の死を実感して涙を流している。
マラドーナと対戦してマークをしたことがあるが、彼のサッカーはアートだ。もうこの世にいないことが信じられない。まだ若かったのに……
非常に残念な出来事で心から悲しく思っている。
フランコ・バレージ(元イタリア代表)
私の心が泣いている。
あなたと対戦出来て光栄だった。
あなたは感動と喜びを与えてくれる魔法をこれからも永遠に使い続けるだろう。
チャオ、ディエゴ。
ロベルト・バッジョ(元イタリア代表)
人生はキャンバスのようなもので、その上に描くものは人それぞれだ。マラドーナは自分のキャンバスの上にサッカーそのものを描いた。
我々がルーヴル美術館に行ってレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザが拝見できるように、人々はこれからディエゴのサッカーを拝見して感動するだろう。
彼のサッカーは永遠に残る。彼とは多く対戦したが90年ワールドカップ準決勝はいまだに忘れられない。
良い旅を、ディエゴ。永遠なる穏やかな光の旅に、ボールを持っていくことを忘れないでくれ。
ジョゼップ・グアルディオラ(元スペイン代表、サッカー指導者、カタルーニャ人)
アルゼンチンである横断幕を見かけたことある。”あなたが自分の人生にしてしまったことは関係ない。大事なのは我々のためにしてくれた多くのことだ”と書かれていた。
サッカーの歴史を変えた選手は数少ないが、マラドーナはその1人だ。
私の時代の人々にとって86年ワールドカップの彼のプレーはサッカー界を進歩させたものである。
ジョゼ・モウリーニョ(サッカー指導者、ポルトガル人)
ディエゴは困っている時いつもそこにいてくれた。
電話をくれるのは勝った時ではなく必ず敗戦のあと。そしていつも言ってくれた。『モウ、君が一番だってことを忘れるな』とね。
ディエゴが恋しいよ……
セサル・ルイス・メノッティ(元サッカー指導者)
信じられない。つらい。言葉もなく、ただ心が痛い。打ちひしがれている。
コッラード・フェルライーノ(元ナポリ会長)
彼は一選手ではなく、ナポリの魂だった。
カレカ(元ブラジル代表、ナポリのチームメイト)
言葉を失っている。ブラザー・ディエゴが旅立った。
神よ、どうか両手を広げて彼を歓迎してやってください。
彼は私たちにとって特別な存在でした。
そして、これからもずっと特別な存在です。
ジャンフランコ・ゾラ(元イタリア代表、ナポリのチームメイト)
さようなら、我が友よ。
あなたは誰よりも偉大だった。
いなくなると、寂しくなるよ……
クラウディオ・カニージャ(元アルゼンチン代表)
この知らせに打ちのめされているよ。
あなたは俺にとって、心の通じた、魂の兄弟だった……
分かってくれるよな? 今は言葉が見つからないよ。
ガブリエル・バティストゥータ(元アルゼンチン代表)
永遠の感謝を。涙が止まりません。
私はあなたの家族に寄り添います。
親愛なるディエゴよ、安らかに。
ファン・ロマン・リケルメ(元アルゼンチン代表、現ボカ会長)
誰も彼のようにプレーすることはできなかった。
彼のプレーは信じられないほど美しかった。
ありがとうディエゴ。
カルロス・テベス(元アルゼンチン代表、サッカー指導者)
あなたは不滅です。
俺の心の中でずっと生き続けます。
愛しています、王様の中の王様。
リオネル・メッシ(アルゼンチン代表)
僕らアルゼンチン人、そしてサッカー界全体にとって今日はとても悲しい日だ。
マラドーナは僕らから離れることとなったが、消えるわけじゃない。彼は永遠なのだから。
彼と過ごした記憶を大切にしたい。彼の家族と友人にお悔やみ申し上げます。
長女ダルマ・マラドーナ
人生なんて短いものだから、またすぐに会いましょう!
ソックスを飾るためにマーガレットの花を持って行くわ。
だからお願い、この写真に写っているみたいに、もう一度その愛で私を見つめて。
あなたのことをずっと愛しているわ!
- 熱が入ってるのは別にいいのだけど、動画を貼るのは遠慮してほしいな。 -- 名無しさん (2021-01-21 23:06:56)
- 動画リンクの記載は違反なので一応COしておきました。 -- 名無しさん (2021-01-21 23:43:18)
- うーん凄い、マラドーナという男の凄さがサッカー素人の俺にも分かった。 -- 名無しさん (2021-01-22 00:25:17)
- あらゆる意味で伝説の男。人が死ぬのは人に忘れられた時という定義に当てはめるなら彼は永遠に不滅の存在になるのだろう。編集者もお疲れ様でした -- 名無しさん (2021-01-22 08:45:51)
- 報告のあった荒らしコメントを削除。 -- 名無しさん (2021-01-22 13:42:58)
- こういう亡くなった時の外国人のコメントっていつもおしゃれよね -- 名無しさん (2021-01-22 14:08:22)
- 俺の●●をしゃぶれ!!の後に「女性の方には失礼したと言うのが妙に紳士的で好きw -- 名無しさん (2021-01-22 15:43:04)
- 逝去直後に行われた全試合で黙祷がささげられた時、Aマドリードの監督、シメオネが見せた姿が印象に残っている -- 名無しさん (2021-01-22 16:46:14)
- +にも-にも振り切れてる -- 名無しさん (2021-01-23 08:43:12)
- ちょっとタグが多すぎて実用的なタグが埋もれてるから、この記事にしか付いてないやつがっつり削っていいかな -- 名無しさん (2021-02-01 19:36:02)
- ↑なるべく個性的なものは少数残す形なら賛成です。 -- 名無しさん (2021-02-01 19:54:23)
- 項目の作成者さん、参考文献まで明記した上でこれだけ熱量がこめられた記事は本当に凄い。凄いんだけどちょっとタグが多すぎるの。 -- 名無しさん (2021-02-17 00:49:11)
- 一度削られたものをすべて差し戻すくらいだから、貴方にとって全てのタグが偉大な英雄を語る上で欠かせないものなんでしょう。けどその情熱は記事を読めば伝わるから。抑えるところは抑えないと、実用的なタグが埋もれて見にくくて仕方ないんよ。 -- 名無しさん (2021-02-17 00:52:24)
- タグの件、明らかにネタに走ったものなどはそのままにしましたが、主要な所属クラブ、使われてる項目があるタグを差し戻しました -- 建て主 (2021-02-17 06:16:09)
- 注釈26で解説されているはずの部分が本文から消えてる? -- 名無しさん (2021-03-06 11:28:07)
- ↑折り畳みの 【ちなみに、スペイン語での実況はどうだったのかというと……】部分の中にあるはずです -- 名無しさん (2021-03-06 11:38:51)
- この夏コパアメリカをアルゼンチンが獲って、EUROをイタリアが獲ったことが何かを感じさせる… -- 名無しさん (2021-07-13 22:04:55)
- 最後、長女のメッセージでちょっと泣いた -- 名無しさん (2021-08-07 09:00:32)
- ゴッドハンドと言ったらマラドーナか山中慎介さん。 -- 名無しさん (2021-10-11 09:17:35)
- 弟のウーゴ氏も心停止で亡くなったらしい…R.I.P -- 名無しさん (2021-12-29 08:25:47)
- ディエゴー!後輩たちがW杯優勝を勝ち取ったよー!! -- 名無しさん (2022-12-19 03:12:10)
- マラドーナとサッカーへの愛、ネタを追求するセンスに溢れた良記事。 -- 名無しさん (2023-01-12 20:37:00)
- ナポリがマラドーナ在籍時以来のスクデット! -- 名無しさん (2023-05-05 08:38:35)
- 何かの間違いで浦和レッズの監督やる事になったらどうなっていたか気になる人物だな -- 名無しさん (2024-07-15 23:11:05)
最終更新:2025年04月28日 00:07