ディエゴ・マラドーナ

登録日:2021/01/21 (木) 22:00:55
更新日:2021/02/26 Fri 19:36:02
所要時間:約 70 分で読めます


タグ一覧
10 FW W杯 おっさん かわいい アホの子 アルゼンチン カリスマ サッカー サッカー選手 スポーツ スーパーゴール スーパースター ダークヒーロー チート ツッコミどころ満載 トラブルメーカー トリックスター ナポリ ネタの宝庫 ネタキャラ ネタ選手 バルセロナ ファンタジスタ フリーダム ボカ・ジュニオルス マスコット リアクション芸 リアルチート レジェンド ワールドカップ 五人抜き 名言製造機 唯一無二 唯我独尊 問題児 圧倒的存在感 天才 天衣無縫 左利き 庶民派 愛されキャラ 愛すべきバカ 憎めない奴 所要時間30分以上の項目 所要時間60分以上の項目 故人 救世主 暴れん坊 最強 有言実行 毒を以て毒を制す 永久欠番 波乱万丈 濃すぎるキャラクター性 監督 破天荒 神の手 腹筋崩壊 自由奔放 英雄 規格外 迷将 追悼項目 顔芸



なかなかイングランドのパスが、二つ三つと続くことがありません。


行くか!……マラドーナ!



マラドーナ!!





マラドーナ!!!





キタァァァァァ! マラドーナァァァァァ!!!!!


1986年メキシコW杯、NHKアナウンサー、山本浩氏のイングランド戦実況より




ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、アルゼンチン出身のサッカー選手。
ペレ、ヨハン・クライフ、フランツ・ベッケンバウアーなどと共に、20世紀最高のサッカー選手に数えられる、史上最も偉大な選手の一人である。
その一方で、そこらの悪童タイプの選手がかわいく見えるほどのトラブルメーカーでもあり、その異様に濃すぎるキャラクターから、多くのファンの腹筋を破壊し続けてきた。
神聖にして俗悪英雄にしてネタキャラ
これほど毀誉褒貶が激しかった選手はいないし、おそらくこれからも現れることはないだろう。
しかし彼ほど人々から愛された選手もいなかった。そしてサッカーとも生涯両思いであり続けた。
はたして、あまりにも極端な二面性を持った男が駆け抜けた60年の人生とは、一体どういうものだったのであろうか?
それはまさに、波乱万丈にして笑いあり涙ありの人生であった……




生い立ちとクラブ経歴



・少年時代~アルヘンティノスまで


それは、1960年10月30日の朝のことだった。
その日は日曜日。ミサとサッカーの試合が行われる日。
首都ブエノスアイレス郊外にある病院で、彼は8人兄弟の5番目として“足で蹴る”ようにして、この世に生まれてきた。
母親にとって、その子は初めての男の子。嬉しさのあまり、ゴーーーーーーール!と歓喜の叫びを上げたのだった。
彼こそが、後にサッカー界最大のレジェンドとなる存在、ディエゴ・マラドーナである。

育ちはビジャ・フィオリートと呼ばれるスラム街。
ゴミが散らばる道端、うろつく野良犬、響き渡る銃声……
いつ悪の道に堕ちてもおかしくない環境だったが、3歳の誕生日に叔父から与えられたプレゼント───サッカーボール───が、彼の人生を決定づけた。
小さいころから友達とサッカーに明け暮れ、学校やおつかいへ行くときも、常にオレンジなど丸いものを転がしながら出かけた。
毎日がサバイバルであったフィオリートでの日々。そんな中で、サッカーは唯一の楽しみであり、貧困から抜け出すための鍵でもあった。


8歳の頃、その才能はすでに近所の噂になるほどで、1部リーグ、アルヘンティノス・ジュニオルスのジュニアチーム、「ロス・セボジータス*2」に入団。
10歳の頃、ある試合のハーフタイムのショーにディエゴが出演、曲芸のようなリフティングとドリブルを披露した。
観客はそのあまりの見事さに見とれてしまい、その直前の前半戦が凡戦だったのもあって、「あの子をピッチに残せ!」というコールを繰り広げた。
71年9月28日、アルゼンチンの大衆紙『クラリン』にてその天才ぶりが紹介された。後の大スターの、これが記念すべきメディア初登場である。
誤植で「ラドーナ」になっていたけど

16歳の誕生日を迎える10日前の76年10月20日、ついにアルヘンティノスの一員としてプロデビュー。
これはアルゼンチンリーグ史上最年少の記録である。
デビュー戦は0-1で敗れたものの、ファーストタッチで、いきなり華麗な股抜きを披露。
このプレーは、アルヘンティノスのサポーターにとって語り草となっている。
アルヘンティノスでは166試合に出場し、116ゴールを記録。78年~80年までの間に5回リーグ得点王に輝いた。*3
このクラブには4年半と、キャリアの中で2番目に長く在籍しており、自伝の中で「アルヘンティノスとの長く、美しく、そして忘れられない物語」と語るほど、思い出深い時代だった。

・ボカ時代


81年2月、国内最大の名門の一つ、ボカ・ジュニオルスにレンタル移籍したマラドーナ。
しかし、その裏には偉大な才能をめぐる攻防戦があった。
彼が12歳の頃には、もう一つの名門リーベル・プレート───ボカの永遠のライバル───がすでに目をつけていたとされる。
当時のリーベルは潤沢な資金力を誇り、78年自国のW杯での優勝メンバーを多く揃えていたが、このクラブは彼らすら上回るほどの給料の支払いを約束していた。
……まだタイトルも取ったことがないのに、凄まじい金額が動いていたことがうかがえる。それだけ彼の才能はずば抜けていたのである。
一方のボカは財政難。一体どのようにして彼を獲得したのか?
実はマラドーナ一家自体、全員ボケンセ(ボカのファン)であり、どれだけリーベルに金を積まれようとも、全くなびかなかったのである。
さらにリーベルと代理人との間で交渉が大詰めを迎えていたにもかかわらず、彼はメディアに「ボカからもオファーがあったよ」と嘘を流した。
当然、新聞各紙はマラドーナのボカ行きを一斉に報じたため、慌てたボカの幹部がすぐさま彼との交渉を開始。1年間の期限付きレンタルという形で移籍が決まったのだ。

かくして、愛するクラブへの移籍を果たしたマラドーナ。
同年4月10日、代表選手を多く擁するリーベルとのスーペルクラシコにおいて、ボカの全3得点を挙げる大活躍。瞬く間にクラブのアイドルとなった。
そのシーズン、マラドーナは33試合に出場して20ゴールを記録。リーグ優勝を果たした。
しかし、ボカでのタイトル、ひいてはアルゼンチン国内でのタイトルは意外にもこれのみ。
ボカは彼を獲得するために莫大な移籍金をはたいており、財政難がさらに悪化。これ以上彼を抱えることができなくなったボカは、やむなくアルヘンティノスに返却したのだ。
そしてここからボカは、主力がリーベルへ移籍してしまうなど、長い低迷期を迎えることとなった……

・バルサ時代


82年6月4日、FCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた。
70年代に活躍したクライフが去って以降のバルサはレアル・マドリーの後塵を拝しており、チームの改革を目指し選手を大量に獲得していた。その目玉の一人がマラドーナだったのだ。
82-83シーズン開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決め、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決めるなど、幸先の良いスタートを切る。
チームメイトとの関係も良く、ある親善試合で他の選手の報奨金が低いことを知った時は、自分と同額にしなければ試合に出ないと抗議し受け入れさせるなど、リーダーシップも見せていた。
……しかしこのバルサ時代はまさに、不幸続きかつ荒れ放題のものだった。

バルサが首位に立ったタイミングで彼はウイルス性肝炎に罹患。3か月の離脱を強いられた。
マラドーナの邸宅の周りには家族はもちろん、代理人の関係者、友人、そのまた友人が入れ代わり立ち代わり押し寄せ、毎日パーティーが開かれていた。
取り巻きが邸宅ににいないときは、ほぼ間違いなく市内のナイトクラブやディスコに一味が集まっていた。
連日続くパーティー、女、アルコール……誰がどう見ても、その原因が荒れ放題の生活から来ているのは明らかだった。
しかし、マラドーナはそれ以上の禁忌にも手を出していた───コカインである。
怪しい取り巻きに囲まれ続けているうちに、彼は自分の人生をコントロールできなくなってしまったのだ。
彼と家族、取り巻きのあまりの浪費っぷり、代理人の立ち上げた事業が行き詰まったおかげで、家計は火の車だったという。

ピッチの上でも、彼は不幸に見舞われた。
83-84シーズン、9月24日のアスレチック・ビルバオ戦。当時のビルバオは良く言えば闘志あふれるプレー、悪く言えば暴力的なプレーで有名だった。
57分、それはやって来た。
ボールを持ったマラドーナに対し、後ろからアンドニ・ゴイコエチェアの暴力的なタックルが襲いかかる。───「折られた」と、彼は直感した。
マラドーナは担架で運ばれ、左足腓骨の骨折と内側側副靭帯損傷の重傷と診断された。
このプレーによりゴイコエチェアは「ビルバオの屠殺人」という異名で呼ばれることになった。
恐ろしいことにこの選手、前シーズンではバルサの主力の一人ベルント・シュスターに大怪我を負わせており、この試合前には「マラドーナの脚を折ってやる」とまで豪語していた。
さらにその処分も、当初は18試合の出場停止だったのが6試合に軽減される……という甘々なもの。
今なら大炎上レベルの案件だが、当時はそういうことがまかり通っていた時代なのである。

これだけの惨劇に見舞われ、一時は再起不能説まで流れたマラドーナだが、奇跡的にも回復は早く、2か月後には練習に合流できるまでになっていた。
しかしその後遺症は重く、慢性的な腰痛を現役引退まで抱え続けることになった。
チームの調子も上向かず、批判の矛先は真っ先に彼に向けられた。そして精神はさらに不安定になっていった。
カップウィナーズカップのマンチェスター・ユナイテッド戦も鎮痛剤を打って無理やり出場したが、試合開始から数分経つと副作用が現れ始め、まともにプレーができなくなってしまう。
結局前半終了間際に交代させられ、チームは敗退。ますます強まる非難……
「こんな仕打ちにあってまで、負傷を押して出場する価値があるのか!」
交代後、ロッカールームへ続く階段を上りながらこう叫んだマラドーナはこの瞬間にバルサを出ていくことを決意したと言われている。
そして彼の退団が決定的になるのは、それから2か月後であった。

それは、国王杯決勝のこと。相手は再び因縁のビルバオ。前述の件もあって、試合の前から丁々発止の舌戦が繰り広げられた。
試合はもはやサッカーというより、暴力集団のぶつかり合いのようなありさまだった。
結果は0-1の敗戦。そして事件は起こった。
ビルバオのミゲル・ソラが悲観に暮れている自分に挑発の仕草をしたのを、マラドーナは見逃さなかった。
これにより、ため込んでいた怒りがついに爆発。
相手選手に襲いかかると、顔面に見事なシャイニングウィザードをブチかまし、それが口火となって両軍入り乱れての大乱闘に。


しかもこの試合、カルロス国王が観戦に訪れていた。日本で言えば、天覧試合で起きたに等しい大事件である。
国王杯の歴史に大きな汚点を残した彼は、当然クラブ上層部の大半から見限られ、同年の夏、最も高い金額を提示したSSCナポリへの移籍が決定した。
その金額は、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルだった。

結局、バルサ在籍時に獲得できたタイトルは、82-83シーズンの国王杯のみ。期待を大きく裏切る結果である。
この時代はバルサにとってもマラドーナにとっても不幸なものとなってしまった。
確かにここでもマラドーナは後に世界一の選手となるにふさわしい才能を発揮していたが、不運を抜きにしても素行が悪すぎたため、クラブの象徴となることはできなかった。
事実、バルサが本格的な復活を遂げるのは、クライフが監督として帰還してからのことになる。
そして、マラドーナがクラブの象徴となる場所は───

・ナポリ時代


84年7月5日。ナポリのホームスタジアム、サン・パオロ。
その姿を拝むべく駆けつけたサポーターの数は8万人。
彼はその地に、ヘリコプターで舞い降りてきた。まるで、救世主や神の御使いが降臨するかのように……
───この瞬間から、彼とこの町との、けっして忘れがたい物語が始まった。


今でこそ強豪の仲間入りをしたナポリであるが、彼が来る前は良くて中堅クラスで、この前シーズンでは勝ち点1の差という、首の差で残留したレベルだった。
そんなクラブに、世界一の選手が移籍してきたわけである。まるで、おとぎ話のような展開である。
なお、マラドーナはこの事実を知らずに移籍しており、契約書にサインした後にその事実を知ったそうな

ナポリは彼を迎えたことにより、シーズンチケットは爆売れ。莫大な移籍金や給料を差し引いてもなお、財政は潤った。
入団した84-85シーズン、前半戦は勝ち点9しか上げられなかったが、後半戦は一気に巻き返し、8位になった。
ちなみに後半戦の勝ち点だけ見れば、そのシーズン優勝したエラス・ヴェローナ(!)より上だったりする。
マラドーナもファン、そして町全体からの強烈な熱狂に後押しされ、水を得た魚のように生き生きとしたプレーを披露。
2年目の85-86シーズン、大幅な補強を敢行したナポリは3位に。マラドーナ自身も11ゴールを挙げ、その年入団したブルーノ・ジョルダーノ*5の10得点の大半をアシスト。
ほんの2年前まで残留争いをしていたクラブが、優勝争いできるほどの強豪に進歩した。
さらに当時のセリエAは“将軍”ミシェル・プラティニ(ユベントス)、“Mr.ヨーロッパ”カール=ハインツ・ルンメニゲ(インテル)、
82年W杯イタリア大会の「黄金のカルテット」のジーコ(ウディネーゼ)、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ(ローマ)、ソクラテス(フィオレンティーナ)……
綺羅星のごとくスター選手がひしめいていた。ナポリが置かれていた境遇込みで考えると、この躍進がいかに大きなものだったことか。

86-87シーズン、ついにこのクラブの歴史が大きく動く時がやってきた。
このシーズン、ホームのサン・パオロでは無敗(8勝7分け)。さらに……
86年11月9日の敵地でのユベントス戦。1対1の同点に追いついたその時、突然スタジアムが喜びに沸いた!
しかも歓声は2点目、3点目と決まるごとに大きくなっていった。アウェイだというのに、一体何が起きたのか?
……それは、スタジアムが南部の労働者で埋め尽くされていたからだった。もはやナポリの行く先々がホーム状態だったのだ。
稀代の天才を得て大躍進したナポリの姿を見て、他の強豪も大きな恐れを抱くようになっていたが、差別的な横断幕やブーイングも、ナポリの選手やファンの心に火をつけるだけだった。
そしてメキシコW杯でマラドーナが栄冠を手にしてから10か月後の87年5月10日、ついにナポリはリーグ初優勝。
南部のクラブとしては数少ないスクデットという偉業を成し遂げた。*6
しかもコッパ・イタリアと合わせて、当時北部の2チーム(トリノ、ユベントス)しか達成していなかった国内2冠達成というオマケつきだった。

初のスクデット獲得により、ナポリ市内は文字通り狂乱の坩堝と化した。まさに町全体の栄冠だった。
この歴史的瞬間を目の当たりにした地元の人は、当時のナポリ市内の様子をこう語っている。*7

初優勝の後、スパッカ・ナポリ*8をはじめ町全体がまさに無法地帯と化したんだよ。
町のありとあらゆる通りが青い旗やイタリアの三色旗で埋め尽くされたんだ。
朝夜関係なく車やスクーターのクラクションが鳴り響いていたな。
しかも、そんな状態が1カ月くらい続いたんだ。
良かったのは、家の近所の肉屋が大のナポリ・ファンだったこと。
優勝した翌日から、オヤジが『全部タダだ。持ってけ!』ってなっちゃって……(笑)近所中で大喜びしていたよ。

さらに市営墓地には、こんな落書きまであったという。
「お前たちは、本当に大事な瞬間を見逃した!」

社会の底辺から才能一つでこの世界でのし上がり、不変と思われた北部との上下関係さえひっくり返してみせたマラドーナ。
その姿にナポリっ子は深いシンパシーを感じ、彼はこの町にとっての「神」だけでなく、すべてのナポリっ子にとっての「愛息子」でもあった。
「Ti amo piu che ai miei figli!(自分の息子たちよりも愛しているよ!)」と言われるほど、徹底的に愛されたのだ。
おおらかで情熱的で愛情深いナポリの風土は、奔放で反骨精神にあふれるマラドーナのキャラとぴったりマッチしていた。

87-88シーズン、ナポリは圧倒的な強さで首位を走り続けたのにもかかわらず、終盤に大失速。
ミランの首位攻防戦に敗れると、残り2試合も連敗し、スクデット争いはミランに引導を渡される形となってしまった。
ミランのアリゴ・サッキ監督はマラドーナの獲得を熱望していたが、結局かなうことがなかった。そこで、打倒マラドーナのための策を編み出した。
「奴にボールを渡すな、奴の視界からボールを消せ」───
「ゾーンディフェンス」*9「プレスディフェンス」*10、「オフサイドトラップ」*11を組み合わせた新たな戦術、ゾーンプレスである。
この戦術はやがて世界中が模倣して普及していった。マラドーナの存在は、新たな戦術を生み出すきっかけになったのだ。
とはいえその後もナポリは快進撃を続け、88-89シーズンにはUEFAカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)を獲得、89-90シーズンには2度目のスクデット獲得を果たした。
特にジョルダーノ、87-88シーズンに加入したカレカ*12とのトリオは、それぞれの頭文字からマジカ(Ma・Gi・Ca、魔法)と呼ばれた。





……しかし、光あれば影もあるもの。そして、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。





世界一の選手ということは、(バルサ時代からそうだったが)必然的に怪しい輩も群がってくることになる。
ナポリの場合、イタリア4大マフィアの一角にして最大の犯罪組織と言われるカモッラが接触してきた。*13
彼らは初め、マラドーナを王様のように扱い、やがて「親切な贈り物」に支払いを求めるようになった。
元カモッラのボスは、「私はマラドーナのコカイン提供者だった。マラドーナはパーティ、ドラッグ、売春婦に明け暮れる生活をしていた」と明かしている。
マラドーナもこの時のことを、こう述懐する。
「マフィアは俺をすごく気に入っていた。ドラッグは至るところにあって、俺にはトレーに載せて勧めてきたのさ」
事実、家族と一緒にいる時ですら、ドラッグを勧める輩がいたという……

他にも、マルセイユへの移籍を希望し*14、UEFAカップで優勝したら行ってもいいとフェルライーノ会長と約束を取りつけたにもかかわらず、約束を反故にされるなど、会長との関係も悪化。
マラドーナはもはや、クラブの象徴を超えた存在であったため、何としてでも手放すわけにはいかなかったのだ。
しかし、決定的な破局はやがて訪れる。
地元イタリアで開催された90年W杯準決勝にて、何の因果かアルゼンチンとイタリアが激突。アルゼンチンがイタリアを破ってしまったのである。
これにより、イタリア全体を敵に回す羽目になったマラドーナ。
年貢の納め時と言わんばかりにコカイン使用やマフィアとの関わりなど、あらゆるスキャンダルの集中砲火が襲った。
91年3月17日、バーリ戦後のドーピング検査でコカインの陽性反応を出して15カ月間の出場停止処分。
さらに同年4月、アルゼンチン帰国中に麻薬所持の現行犯で逮捕された(その後2万ドルで釈放)。
こうして、神のごとき存在から真っ逆さまに転落したマラドーナは、イタリアを追われるようにして去っていったのだった……*15


・選手時代晩年


ナポリ退団後のマラドーナはというと、92年にセビージャに移籍。
この移籍は、間近に控えたアメリカW杯───サッカー不毛の地に市場を広げるべく決められた大会───のため、FIFAも復活のために手を貸したのだ。
しかし、26試合に出場してわずか5得点。おまけに荒んだ生活や怠慢な練習態度なども加わり、わずか1年で退団。
結局程度の差こそあれ、バルサ時代を想起させるような結末。スペインの水は彼には合わなかったようである。

ちなみにJリーグ創設前の91年、名古屋グランパスへの移籍がほぼ内定していたが、薬物問題が原因でお流れとなった。
他にも、PJMフューチャーズ(サガン鳥栖の前身)も獲得を目指していたが、前述の通り薬物問題があったので、結局来たのはあらかじめ獲得した弟のウーゴのみだった。
監督の桑原勝義氏は本人と直談判するため、わざわざイタリアまで行ったのに……
弟の名誉のために言っておくと、ここでは中心選手として「ウーゴのフューチャーズ、フューチャーズのウーゴ」と呼ばれるほどの活躍をしている。

セビージャを後にしたマラドーナは93年ニューウェルス・オールドボーイズに移籍。
11年ぶりのアルゼンチン復帰に、クラブもサポーターも大喜び。
しかしこのチームにいたのはわずか5カ月。出場試合は親善試合も入れてたった7試合。
クラブから契約解除を言い渡されたマラドーナは、信じがたい事件を起こした。

94年2月2日。ブエノスアイレスにある別荘に、契約解除問題の取材のためおよそ200人のマスコミが押し寄せていた。
マラドーナはメルセデスの車の後ろに身を潜めながら、そして……



マ ス コ ミ に 向 か っ て エ ア ガ ン 乱 射 !



これにより、4名が負傷。
娘のために取材をやめさせようとしたというのが本人の弁だが、もうどこからツッコんでいいのかわからない……

アメリカW杯でのドーピング事件により再び15カ月間の出場停止処分を受けた後、彼は14年ぶりに古巣ボカに復帰。
この頃になると、5回連続でPKを外したり、本人も「才能のある年寄り」という自虐を見せたりするほど、かつての輝きを失っていた。
薬物問題も相変わらずで、治療のためにスイスに渡ったりしたものの、その後もドーピング検査で陽性を出す始末。
そして97年、37歳の誕生日に現役引退を発表。01年には引退試合が行われた。
その時残した言葉がこれである。


「俺は多くの過ちを犯したが、一度たりともボールを汚したことはない」


───あらゆる栄光と辛酸を味わった英雄は、確かに何度も道を踏み外し、多くの罪や過ちにまみれていたのかもしれない。
しかし彼は、最後までサッカーへの情熱を失わず、矜持を守り続けたのだ。

代表経歴



プロデビューから間もなく、代表に招集されるようになった神童マラドーナ。
アルゼンチンでのプロデビュー最年少記録だけでなく、フル代表の最年少出場記録も持っているのである。
地元アルゼンチン開催の78年W杯の最終メンバーにも選ばれるものだと、彼は思っていた。
そしてセサル・ルイス・メノッティ監督が選んだ最終選考のリストに彼の名は───入っていなかった。

人生で初めて味わった大きな挫折。それは彼の人生に永遠に残る決定的な、一番の失望となった。
あたり構わず大声で泣きじゃくり、荒れ狂い……やがて、悔しさが一番の燃料になることを悟る。
当時アルゼンチンは軍事独裁政権下にあった。
もし優勝できなかったら身の保証はなかったため、メノッティは経験豊富で確実な選手を使うことにしたのだ。
それに、まだ若き逸材を莫大なプレッシャーのかかる大舞台で潰さないようにするという意図もあった。
事実、それでW杯初優勝を果たしたのだから、彼の選択は間違っていなかったと言えるだろう。*17

サッカー史に残る栄光を刻んだ彼と代表の物語は、「すれ違い」から始まったのである。


・ワールドユース1979日本大会


彼が地元開催のW杯の雪辱を果たす舞台にして、世界の檜舞台に立った初めての場所。それは何とわが国日本だった。
当時の日本は、サッカーのプロリーグなど夢のまた夢という時代。そんな時代に、後に世界一となる選手が初お披露目。
日本のサッカーファンにとって、何と喜ばしい歴史であろうか。その後彼が薬物問題で何度も入国拒否され続けたことも考えると、貴重な経験だったと言える。*18
アルゼンチンと日本が戦うことはなかったものの、日本サッカー界のレジェンドの一人、水沼貴史氏はマラドーナの姿を見た時の衝撃をこう振り返っている。*19

今でも鮮明に覚えているのは、宿泊先のホテルで目撃した“太もも”。
年齢などを確認するパスポートチェックの際、日本代表の後に順番を待っていたのがアルゼンチン代表でした。
通路の出窓のようなところに短パン姿のマラドーナが腰掛けていたんですが、そのムキっと盛り上がる足が目に飛び込んできた。
「これはモノが違うぞ……」と、愕然としましたよ。
私たちも世界で戦うためにトレーニングを積んで、それぞれ体重を増やして臨んでいたんです。
それでもすぐに到底、敵わないだろうと思ってしまう佇まい……プレーよりも足のインパクトがいまだに残っています(笑)。

マラドーナは6試合中5試合で6ゴールを決め、ワールドユース初優勝に貢献。MVPに選出された。
日本人とよく似た体つきで、身長わずか165㎝という超小柄な体格でありながら、八面六臂の大活躍。
そして子供がそのまま大きくなったような、目いっぱいの感情表現。
そこに当時の日本人のサッカーファンも親近感を覚え、憧れたのだ。

ちなみに、この大会の決勝戦を見に来ていた川平慈英氏はある偉業を成し遂げている。*20
試合終了と同時に、優勝を喜びラモン・ディアス*21と抱き合うマラドーナに向かって……何と抱き着いたのである!
曰く、「体がめちゃくちゃ分厚かった!ビア樽のような体」とのこと。
当時のNHKの放送では試合終了と同時にカメラが切り替わったため、抱き合っている様子が映し出されなかった。
が、試合終了後もピッチの様子が放送されていたブエノスアイレスで観戦していたという方から後日、「ある少年がマラドーナに抱きつく姿を見ていました」と、裏付けをもらったという。
世界中どこへ行っても自慢の種になる、一生ものの勲章を得た慈英氏。
兄のジョン・カビラ氏も「もともと自慢の弟だったんだけど、これは僕にとっても宝。嬉しい!」と、誇らしげに振り返っている。

マラドーナの存在は、日本サッカー界にも多くの種を播いていたのである。

・W杯スペイン大会


念願かなってようやくW杯の舞台に立ったマラドーナ。
一次リーグのハンガリー戦では、W杯初ゴールを含む2得点を挙げた。

……しかしここでは残念ながら、本領を発揮できたとは言いがたい。
アルゼンチンは二次リーグでよりによって、イタリアとブラジルと同組になってしまった。
前者は優勝候補大本命のブラジルを破って優勝するチームであり、そのブラジルもサッカー史に残る中盤「黄金のカルテット」を擁していた。
イタリア戦で立ちはだかったのはクラウディオ・ジェンティーレ。「Gentile(親切な)」という名前に似つかわしくない徹底的なマンマークだった。


確かに技術そのものはすでに完成の域にあったが、人間的にはまだ未熟なところがあった。
その未熟さは続くブラジル戦で、さらに現れてしまった。
相手の度重なる挑発に耐えかねて、報復で相手のバティスタの腹を蹴飛ばし一発退場。*23
2戦共に敗れたアルゼンチンはここで敗退。
マラドーナが真の意味でのマリーシア(ずる賢さ、抜け目なさ)を身につけるのは、次の大会でのことになる。

・W杯メキシコ大会


スペイン大会での屈辱から4年。代表のキャプテンに選ばれるほどに成熟して、彼はW杯の舞台に戻ってきた。
チームもまた、78年組の選手たちから、マラドーナと同世代の選手たち中心に入れ替わっていた。
83年に代表監督に就任したカルロス・ビラルドは、チームの中心をマラドーナにすると決め、他はマラドーナに忠実で、彼を活かせるタイプの選手たち中心で固めていた。
攻撃はすべてマラドーナ任せ、他の選手たちは守備に気を配らせる。
速い話、とにかく大エースのマラドーナを活かすことに特化したチーム作りを行ったのである。
しかしそのスタイルは攻撃的で創造性を重んじるメノッティ時代とは対照的な、相手の良さを徹底的に潰すタイプのものであり、批判の対象となっていた。
チームの成績も就任してから34試合中13勝と芳しいものではなく、後の功績からは信じられないことに、当時は「史上最弱」(?!)と酷評されていたほどだった。
ところが、蓋を開けてみると……

グループリーグでマラドーナはチャンスメーカーに徹し、韓国戦ではチームの3ゴールすべてをアシスト。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した。
ベスト16のウルグアイ戦。ラプラタ川を隔てた国同士のダービーマッチ。
マラドーナのゴールが取り消されたものの、試合は1-0で競り勝った。アルゼンチンがW杯でウルグアイに勝利したのは56年ぶりのことだった。

……と、下馬評はあまり高くないながらも、ベスト8に進出したアルゼンチン。
次の相手は───イングランド
この時代のアルゼンチンは、フォークランド(マルビナス)紛争敗戦の傷も癒えぬ頃。
「試合前にいくらサッカーがマルビナス紛争と関係ないと言っても、あそこで大勢のアルゼンチンの若者を小鳥を殺すように殺していたことは知っていた。だからあれは復讐だったんだ
マラドーナらすべてのアルゼンチン人が復讐に燃える中、86年6月22日、アステカスタジアムにてついに運命の試合のキックオフの笛が鳴らされた。

前半をスコアレスで折り返すと、50分、サッカー史上、最も物議を呼んだゴールが生まれた。
それがこれである。


ぱっと見はヘディングで決めたように見えるが、角度を変えて見ると……


あれ、あれれ?!
そう、思いっきり手でボールを叩いて押し込んでいるのだ。サッカーに触れたことがない人でも、ハンドが反則なことは誰でも知っているだろう。
当然イングランドの選手たちは猛抗議したが、判定は覆らなかった。*24
試合後の会見で彼が「ゴールはマラドーナの頭が少しと、神の手が少しのおかげだ」と語ったことから、ハンドでゴールを決めることは「神の手」と呼ばれるようになった。
なお、後年マラドーナはこのゴールについてこう語っている。*25

「何が神の手だ!あれは俺の手だ!

「イギリス人の財布を盗んでやった気分だぜwww」

……いったいどこまで食えない奴なんですかあなたは。
しかし、この神の手ゴールからわずか4分後、サッカー史上、最も偉大なゴールが生まれた。
それがこれである。




わずか10秒ほどの間に起きた、史上最大の奇跡。マラドーナは走るというより、もはや飛ぶようにして、相手を次々に抜き去っていった。
冒頭に挙げた山本浩氏の名実況も心地よい、伝説の「5人抜きゴール」である。
サッカーを知らない人でも、TVでこのシーンを見たことがある人は多いだろう。
それくらい、歴史的なゴールなのである。


こうして、1試合のうちにサッカー史に永遠に残る2ゴールを叩き出したマラドーナ。
一つはマリーシアから、もう一つは神から授かった圧倒的な才能から。
この二つはまさに、光と闇の狭間の存在だったマラドーナにふさわしいゴールと言えるだろう。
復讐、完了。マラドーナとアルゼンチンは優勝への道を突き進む。

ベスト4のベルギー戦は彼曰く、(多少の恐れはあったとはいえ)「かわいそうに、単なるステップに過ぎなかった」
マラドーナは2得点を挙げ、ベルギーを一蹴。
ちなみにこの試合でマラドーナは、林立するベルギーディフェンス陣をスイスイかわし、しれっと4人抜きをやってのけている。
イングランド戦のインパクトがあまりにも強すぎるものの、これも大変なスーパーゴールである。

迎えた決勝西ドイツ戦。
試合前、マラドーナはキャプテンとしてどう振る舞っていたのかというと……

「おふくろ、助けて!怖くてしょうがないよ(´;ω;`)」

……これだけ見たら本当にキャプテンか?!と言いたくなるが、それは偽らざる本音だった。
周りの選手たちはこれを見て、「ディエゴでさえこんなに怖がっているのだから、自分たちが怖いと感じるのは恥ずかしいことでない」と思った。
一見情けない振る舞いだが、それは最大の大舞台へ向かうチームメイトたちのプレッシャーを和らげるものだった。
そういう意味で彼は、心理面でもしっかりとキャプテンの役目を果たしていたのである。

そして試合はというと。
この試合でマラドーナをマークしたのはローター・マテウス。彼が「俺が対峙した選手の中で最高の選手だ」と称賛するほどの名手だ。
しかしマテウスは攻撃の要でもあり、彼をマークに回したことで西ドイツは受け身にならざるを得なくなった。
21分に得たコーナーキックをホセ・ルイス・ブラウンがヘディングで決め、アルゼンチン先制。
さらに55分、ホルヘ・バルダーノの30m独走からの追加点。2点差に突き放す。
しかしここはゲルマン魂か。74分、80分と失点し追いつかれる。
西ドイツの恐るべき粘り。しかしこのピンチを打ち破ったのはやはり───マラドーナだった。
83分、センターサークル付近からホルヘ・ブルチャガへスルーパスを送ると、そこからブルチャガは独走。値千金の3点目を挙げたのだ。
そして、試合終了のホイッスルが鳴らされた───
アルゼンチン、2度目のW杯優勝。W杯最優秀選手に選ばれたのはもちろんマラドーナだった。

こうして、「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」は幕を閉じた。
一人の大スターを活かすことに特化したチームが優勝するというロマン。
その後、最大の後継者と呼ばれたリオネル・メッシの時代に移っても、代表が何度も優勝を阻まれ続けていることを考えると、偉業中の偉業である。
さらに試合後、「ビラルドごめんなさい、そしてありがとう」という横断幕をサポーターたちが掲げるという、24年後のどっかの代表みたいなことになったそうである。
そしてこの栄光により、長い軍事独裁政権や紛争で多くの犠牲を出し傷ついていたアルゼンチンに、忘れることのない喜びがもたらされた。

───マラドーナは正真正銘、サッカーという枠組みすら超越した神になったのだ。

・W杯イタリア大会


前回王者として臨んだイタリア大会。しかしこの大会は、心身ともにとても苦しいものとなった。
この頃になると、マラドーナはナポリでタイトルを取りまくったことなどの理由で、イタリア各地でヘイトを稼ぐようになっていた。
さらに盟友バルダーノが外され、マラドーナも、他の選手たちも満身創痍の状態だった。
グループリーグも、初戦のカメルーン戦でまさかの敗戦。その後も1勝1分けで辛くもグループリーグを3位通過。*27

ベスト16の相手はブラジル。こんなに早い段階で最大のライバルと激突。グループリーグの結果もあって、圧倒的に不利と予想されていた。
事実、この試合でアルゼンチンは苦しみ、マラドーナも沈黙を余儀なくされていた。
……だが、ここはやはりマラドーナ。たった一度のプレーで、すべてをひっくり返す。
試合も終盤に入る81分、相手4人に囲まれながらも右足で、新しく代表に入った弟分、クラウディオ・カニージャ*28に針の穴を通すかのようなスルーパスを送った。
まったくのノーマークだったカニージャは見事にこれを決め、ブラジルを撃破。アルゼンチンにとって、W杯の舞台でブラジルに勝つのは初めてのことだった。
ちなみに後年、マラドーナはこの試合について、「睡眠薬入りのドリンクを相手に飲ませてやったんだ! おかげでフラフラになってたぜwww」と暴露。
この事件は物的証拠がないものの、ブラジルの左SBを務めるブランコが「アルゼンチンの選手から手渡されたボトルの水を飲んでから体調がおかしくなった」と発言していることを考えると……
いやまったく、本当にどこまでも食えないお方ですわ。

ベスト8のユーゴスラビア戦(このユーゴを率いたのは、後に日本でもジェフや代表を率いたイビチャ・オシム監督)。
試合は0-0のままPK戦にまでもつれたが、アルゼンチンはどうにか3-2でユーゴを撃破、ベスト4に進出。

次の相手は───イタリア。しかも試合会場は、よりによってナポリのサン・パオロ
ただでさえヘイトを買っていたところに、歴史的にもアルゼンチンと浅からぬ関係で結ばれているイタリア。
メキシコ大会のイングランドといい、なぜこうも絶妙なタイミングで歴史的因縁の相手ばかり引き寄せるのだろうか……


この試合前、マラドーナはインタビューでこう語っている。

ナポリの人たちがイタリアを応援するのは間違いないさ。
俺たちのアルゼンチン代表にも、敬意を払ってくれるだろうけどね。
ただ一つ残念なのは、ナポリの人たちがイタリア人として振る舞うように周りから強要されていることだね。
ナポリはずっと、「地震の被災者」だの「テッローネ(Terrone)*29」だの、差別的なことを言われ続けていた。
散々蔑んできたくせに、今さらマラドーナじゃなくてイタリアを応援しろだなんて、おかしくね?

この発言に、イタリアのマスコミは「マラドーナはナポリの人たちにアルゼンチンを応援させようとしている」と書き立てた。
しかしそれはまさしく、図星を突かれたことへの焦りの表れだった。

迎えたイタリア戦。
17分、この大会で一躍有名となったサルバドーレ・スキラッチのゴールにより、地元イタリアが先制。
しかし67分、カニージャのヘディングでアルゼンチンは同点に追いつく。
試合は再びPK戦にもつれ込み……決勝へ駒を進めたのは、アルゼンチンだった。しかも勝負を決めた最後のキッカーはマラドーナ。
イタリアにとって、地元開催の大会で一番目の敵にしていた相手に敗れるという、痛恨の敗戦だった。
そしてマラドーナにとっても、この勝利はイタリアとの関係が完全に崩壊する決定打となった。
結局この試合は、両者にとってあまりに悲しい結末となったのである……

決勝は再び西ドイツ戦。
イタリア人たちは先の試合で敗れた恨みを、アルゼンチン国歌やマラドーナへのブーイングという形でぶつけた。
さらにアルゼンチンは累積警告でカニージャなど主力が4人も出場停止となっており、もはや踏んだり蹴ったりの状態。
その状態にもかかわらず、西ドイツもなかなかアルゼンチンを崩しきれない。
後半に入るとアルゼンチンが2人の退場者を出すなど荒れた展開となり、85分、ついに西ドイツにPKを決められ万事休す。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、マラドーナは人目もはばからずに涙を流した……
結局この決勝戦は、「W杯史上において最も退屈で、荒んだ試合」「エンターテインメントとしては華やかさに欠けた」「酷い勝利、酷い敗戦、全く酷い試合」など、酷評に晒された。

そしてここから、マラドーナの転落が本格的なものになっていくのだった……

・W杯アメリカ大会


イタリア大会以後、アルゼンチン代表は若返りを図り、91年コパ・アメリカで優勝するなど結果を出していた。
マラドーナはこの時薬物使用による出場停止処分を受けており、後輩たちの活躍をピッチの外で見つめることしかできなかった。
ところが代表は南米予選で苦戦続き、まさかのプレーオフに回ることになるという緊急事態に。
そこでお鉢が回ってきたのは? もちろんマラドーナである。
チームは息を吹き返し、本選出場をつかんだ。
有望な若手に、生きるレジェンドのマラドーナを加えたアルゼンチンは、一気に優勝候補へと変貌した。

グループリーグ初戦のギリシャ戦。アルゼンチンは全員で攻撃に参加して、パスが繋がりまくる攻撃的なサッカーを披露した。
マラドーナも強烈なミドルシュートを突き刺し、ギリシャに4-0の圧勝。
続くナイジェリア戦もアシストを決め逆転勝利。マラドーナの復活を印象付けた。
───しかし、その直後に悲劇が待っていた。





マラドーナ、試合直後のドーピング検査で陽性反応





天国から地獄へ真っ逆さまの、あまりにも残酷な宣告。さらに再検査でも陽性反応を示した。言い換えれば、W杯追放である。
「俺は両足を切られてしまった」
悲痛な叫びをあげるマラドーナ。チームも大黒柱を失ったショックのあまり、ベスト16で敗退。
検出された薬物は興奮剤のエフェドリン。しかしこれ自体は市販の風邪薬にも使用されている、ごく身近なものだった。
果たしてこれは彼の故意か不注意か、それともダーティなイメージのマラドーナが活躍することを恐れたFIFAの陰謀か。
確かなのは、マラドーナの輝かしい代表キャリアが最悪の形で終わってしまったということだけである。

引退後



現役を引退した後も、お騒がせ男は話題を提供し続けた。
引退したことにより怠慢な生活はさらに悪化、あっという間に激太りした。
「俺ときたら、サッカーボールみたいになっちまった」
そんな自虐ネタもさることながら、最大では120kg以上にまで達していたという。
……身長165㎝でこの体重。近くで見たらさぞ物凄いインパクトだろう。
そもそもセボジータス時代から肉体改造の薬物やビタミン漬けだったマラドーナ。
さらに10代の頃に人工的な筋肉補強をし、その後は負傷するたびに痛み止めの注射を打って試合に出たため、怪我しやすく、太りやすい体質になってしまったのだ。
薬物のことはともかく、体質に関してはなるべくしてなったという部分もあるのかもしれない。

しかし、これだけ太っていたら当然体に大きな負担がかかる。おまけに重度の薬物中毒。
00年、ウルグアイのリゾート地プンタ・デル・エステにて心臓発作を起こし、入院。その心臓は38%しか機能していなかったという。
回復後は療養のため、カストロ議長を頼ってキューバの医療施設に入所し、以後何度もお世話になった。*30
……ん、今何かとんでもないビッグネームが見えたような……?!
実は自身の結婚式に招待するほど、カストロ議長とは深い友情を結んでいるのだ。
さらにキューバ大好きなマラドーナは、左脚にカストロ議長、右肩にチェ・ゲバラのタトゥーを掘っている。

04年4月18日、ボカの試合観戦中に高血圧と拡張型心筋症でついに危篤に。
普通の国なら「やっぱりクスリをやめられなかったんだ」と思う所だろうが、アルゼンチンは別。
どんなに汚れようと、激太りしようと、長年の屈辱を打ち払い、喜びをもたらしてくれた英雄であることに変わりはないからだ。
アルゼンチン全土が彼の命が消えないように、ただひたすら祈り続けた。
そして国民の熱き思いは───天に届いた。

間もなく意識を取り戻したマラドーナは呼吸器も外し、ベッドから起き上がり、自力で歩けるまでになった。
さらに4月29日にはいきなり「退院」。もちろんドクターは、退院の許可など出していない。
周囲をアッと言わせることにかけては他に類をみないマラドーナ、はたしてその理由は……
「病院食はマズいんだよ!アサード*31食いてぇ!」
……だから何度も死にかけるんだってば……
そしてその6日後に再び体調を崩し、病院に戻されたという。*32

05年には胃の三分の二を摘出するバイパス手術を敢行。おかげでだいぶ痩せることに成功した。
退院後スペインへやって来ると、レアル・マドリーの練習場へ姿を現した。
練習を見終わった後、「俺にマドリーの監督をやらせろ!」と発言。あなたさっきまで死にかけていたくせに!
当然実現しなかったが、銀河系どころかサッカー界の外なる神たる彼が率いていたら、一体どうなっていたことやら……
まあ3年後に、ある意味それ以上の形で監督となるのが実現してしまうのだが。

代表監督就任


08年11月4日、サッカー界に驚きの一報がもたらされた。




マラドーナ、アルゼンチン代表監督就任





当時のアルゼンチンは南米予選で苦戦しており、アルフィオ・バシーレ監督辞任後の監督人事は難航していた。*33
そんな中で、こんな大役を任されたのが、よりによってマラドーナ。
確かに選手としての実績は偉大過ぎるほどだが、監督としての実績はほとんどなし。*34
それに加えて、ただでさえ極端すぎる人柄に、数年前にガチで死にかけるレベルの滅茶苦茶な生活ぶり。
この人事には当のアルゼンチン人も困惑し、国民の76%が反対したという……*35

彼が監督に就任した結果、アルゼンチン代表はさらに迷走
テレビの深夜番組で、司令塔であり、ボカのアイコンの一人でもあったファン・ロマン・リケルメをクラブでの不振を理由にこき下ろし、その発言に怒ったリケルメが代表引退を表明してしまう
さらに選手を手あたり次第代表に招集し、一貫性や継続性がないと批判された。彼が就任してから1年半で、招集した選手の数は100人以上にも上る。
公式戦における初陣となったホームのベネズエラ戦では4-0と快勝したが、続くアウェイのボリビア戦で、1-6の歴史的大敗
この南米予選開幕前、ボリビアの首都ラパスで行われていたチャリティマッチに出場していたマラドーナは、高地でのW杯予選を禁止しようとするFIFA相手に啖呵を切っていた。*36

「君たちには、生まれた土地でプレーする権利がある!ブラッターにも、神様にも止める権利なんてないんだ!」

「これはサッカーをしたことのない連中が決めた、政治的でバカげた措置だ!」

「てめーらは地理も書き換えるつもりか?」

いくら高地でプレーする権利があると言っても、実際にそこでプレーするとなると、ただでさえ薄い酸素に、ボールの軌道も変わるなど、過酷を極める。
そこへ無策で挑んだ結果、発言がことごとくブーメランとなったのである

その後も苦戦が続き、監督就任後は2勝4敗、残り2試合で順位は5位。プレーオフはおろか、予選敗退すらあり得る、まさに瀬戸際の状態だった。
ホームのペルー戦。互いに決め手を欠く中、48分、パブロ・アイマールがスルーパスを前線に送ると、これに反応したゴンサロ・イグアインがシュートを確実に決めて、アルゼンチンが先制。
このまま試合のペースを握ると思われたアルゼンチンだが、次第にペルーに攻め込まれていく。89分には同点弾を決められ、いよいよ窮地に追い込まれた。
しかし、そこはやはりマラドーナの神通力なのか。
試合終了間際のロスタイムに、ボカの後輩にあたるマルティン・パレルモが混戦の中から勝ち越しゴールを決めた。
このドラマチックな勝利に、マラドーナも歓喜のあまり……






画像出典(21/1/21閲覧): 不世出の男、本当のディエゴ・マラドーナとは。永遠に生き続ける伝説
豪 雨 の 中 で 全 力 ダ イ ブ




……あのー、まだアウェイのウルグアイ戦が残っていますよ?
順位こそ4位に上がったものの、5位ウルグアイとの勝ち点差は1のみ。しかも当時、敵地では33年間ウルグアイに勝っていないというジンクスがあった。
迎えたウルグアイ戦、互いにゴールの生まれないまま終盤を迎えたが、83分、ウルグアイのマルティン・カセレスが2枚目のイエローカードをもらい、痛恨の退場。
アルゼンチンはこれで得た右FKをメッシが中央のフアン・セバスティアン・ベロンに出し、ベロンのミドルを途中出場のマリオ・ボラッティが流し込み、値千金のゴール。
これが決勝点となった。

こうして、劇的な形でW杯への出場権を手にしたアルゼンチン。
しかし試合後の記者会見で、マラドーナはこれまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して鬱憤を爆発させた。


以下、マラドーナ怒涛のお怒りコメント

「俺をW杯に連れて行ってくれるチームに感謝したいし、ここまで応援に来てくれた人たちにも感謝したい。しかし……感謝に値しない連中もいる。俺は記憶力がいいんでね。俺のチームを信じなかった連中、俺のことを役立たずと呼んだ連中のことは決して忘れないよ」

「この勝利はジャーナリストを除く、すべてのアルゼンチン国民のものだ」

「ジャーナリストは俺をゴミのように扱った。しかし俺たちは誇りを持って本大会の出場権を得た。俺はこれをすべてのアルゼンチン国民と俺の家族に捧げる。しかし、俺をゴミのように扱った連中はそれに値しない!」


「おめーらはチ×ポでもしゃぶってろ!!女性の方には失礼しました


この発言の数々は当然FIFAから怒られ、練習参加などを含む2か月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン(約220万円)の罰金処分を言い渡されたのだった。
まあマラドーナらしいっちゃらしいが。

迎えたW杯南アフリカ大会。監督としてW杯に舞い戻ってきた彼に、誰もが注目した。
……というか、少なくともアルゼンチン代表関連の話題は、全部彼にかっさらわれたといっても過言ではないだろう。


以下、南アフリカでのマラドーナのリアクション集




画像出典(21/1/21閲覧): 【画像あり】正直マラドーナってギャグ要員でしかないだろ
国歌斉唱でチームスタッフと肩を組む。しかし背が低すぎて明らかに無理している。



画像出典(21/1/21閲覧): 【画像あり】正直マラドーナってギャグ要員でしかないだろ
試合中選手たちに全力で指示を出しまくるマラドーナ。挙げていない方の手も同じ形に。



画像出典(21/1/21閲覧): 【画像あり】正直マラドーナってギャグ要員でしかないだろ
あんまり夢中になりすぎて、ピッチに侵入。



画像出典(21/1/21閲覧):マラドーナさんを失った悲しみ…ジダン「大きな損失」シメオネ「今も昔も最高の選手」C・ロナウド「類を見ない魔術師」
エインセのゴールが決まると、なぜかゲッツのポーズで大喜び。



画像出典(21/1/21閲覧): 【画像あり】正直マラドーナってギャグ要員でしかないだろ
惜しいシーンにはこんなポーズ。靴裏にガムらしきものが……



画像出典(21/1/21閲覧): 【画像あり】正直マラドーナってギャグ要員でしかないだろ
何やら審判にアピール。「ちょっとだけじゃん、見逃してちょ☆」



もはや監督というより、「アルゼンチン代表マスコットキャラクター」状態である。


代表の結果はというと、南米予選での大苦戦が嘘のように、グループリーグは全勝で突破。
ベスト16のメキシコ戦も、アルゼンチンの先制点がオフサイドでありながら、誤審で認められてしまうという後味の悪い展開がありながらも、3-1でベスト8進出を決めた。
しかしベスト8のドイツ戦は、4-0と大敗。
アルゼンチンの攻守分担型のスタイルは「30年代のサッカー」と揶揄されるほど古臭いもので、さらに他の戦術もあるわけでなかったので、劣勢時に立て直す術を持っていなかった。
結局、「監督マラドーナで優勝」という理想は、叶わないまま終わってしまったのだった。
しかし、全身全霊で感情を表現したリアクションの数々は、見る者の腹筋を破壊すると同時に、サッカーの楽しさというものを再確認させてくれたことだろう。
まさに天性のエンターティナーの面目躍如であった。

また、大会中試合予想をすべて的中させ、アルゼンチンの敗退も予言したタコのパウル君に対しては死後、
「この予言タコ野郎、死んでくれて嬉しいよ。W杯で負けたのはお前のせいだ!」
と、ツイッターに過激につぶやいたのだった。

その他のエピソード













名(迷)言集



・ぼくの夢は二つ。一つはW杯でプレーすること。もう一つはW杯で優勝することだ

───10歳の頃の発言。有言実行の極みである。


・とりあえず、もう一枚パンツでも買うかな

───プロデビュー直後、初めての給料を間近に控えた時の発言。


・とにかくボールを預けてくれるだけでいい、あとは俺がなんとかするから

───この発言の通り、味方ならこれほど頼もしい人はいない。


・もうすぐ生まれる俺の子が、戦争も飢えもない良い世界にたどり着けるように願うだけさ。これはみんなへの願いさ。1989年おめでとう、アルゼンチン

───アルゼンチン国民へ向けたクリスマスメッセージ。


・シルトン、秘密を教えてあげよう。あれはハンドだったのさ

───神の手&五人抜きの犠牲者となったGK、ピーター・シルトンへの言葉。当然シルトンは今でも彼のことを許していない。


・5人抜きは、イングランドの選手が紳士的だったからできたのさ

───現代の視点だと、当時のイングランドのプレーは非常にハード。時代の違いである。


・ペレは上層部と仲良しだが、人々の投票で勝ったのは俺で、俺はいつも選手とサッカーの味方だ。ペレは哀れだな。母国の人気はセナの次だし、サッカーじゃ俺に次ぐ永遠の二番手さ

───20世紀最優秀選手を選出するFIFA公式サイトのインターネット投票で1位となったが、FIFAの選考委員はペレを1位として、両者で賞を分け合うことになったときの発言。


・あいつは人気でも俺に負けてるし、仕事もないからすぐ俺に噛み付いてくる。早く博物館に戻れよ。大体、セレソンの監督にもなれねえ奴が何だってんだ

───ペレ関連でもう一つ。ものの見事に言いたい放題である。


・無観客試合なんて、墓場の中でプレーするようなもんだぜ

───コロナ禍のサッカー界の状況を憂う発言。まさかこの後自分が墓場に入ることになろうとは。


・もし死んだら、生き返ってサッカー選手になりたい。そしてまたディエゴ・アルマンド・マラドーナになりたい。俺は人々に喜びを与えた選手。それで十分さ

───ナポリを去った後の発言。いつかまた、どこかに同じ存在として再誕していることを祈ろう。

その最期~アルゼンチンよ泣きやがれ~


そんなこんなで20年10月30日、還暦を迎えたマラドーナであったが、前述した通り長年の乱れに乱れた生活がたたり、その体はボロボロになっていた。
一人で歩くことや、言葉を話すことすらままならず、心臓は通常の倍にあたる500gにまで肥大化していたという。
アルゼンチンサッカー協会から誕生日の祝福を受けるためにヒムナシアの試合会場に現れた時も、付き人に体を支えられ、明らかに体調がすぐれない様子だった。
11月2日、主治医の勧めもあり検査を受けたところ、慢性の硬膜下血腫が見つかった。手術は成功し、国民やサッカーファンの誰もが薄々心配しつつも、こう思ったことだろう。
「何度も死の淵から生還してきたディエゴのことだから、きっと今回も大丈夫だろう」と。

手術の後、自宅療養を続けていた彼はその日───11月25日───の朝も早起きし、散歩して、薬を飲んだりと、いつも通りの生活を続けていた。
一つ違っていたのは、朝10時ごろ、具合が悪いからまた横になると、ベッドに向かっていったことだった。
それから2時間後、部屋に入った看護師たちは世にも恐ろしい光景を目の当たりにすることとなった。
彼はすでに息をしていなかったのだ。
すぐさま何台もの救急車が呼ばれ、懸命な措置が施されたが、待っていたのは誰も聞きたくもないし、言いたくもない結末だった。





Murió Diego Armando Maradona(ディエゴ・アルマンド・マラドーナ死去)





この不世出のスーパースター逝去の一報に、アルゼンチン全土が、サッカー界が、そして世界中が涙し、打ちひしがれた。
アルゼンチンでは3日間の国喪が宣言され、国内のすべてのクラブは彼に敬意を表すため、夜10時からスタジアムで10分間の追悼の照明点灯を灯した。
……しかし消灯後も、ただ一つ明かりが灯っている場所があった。
そこは、ボカの本拠地ボンボネーラのマラドーナ専用のVIP席
暗闇に閉ざされた街の中、彼がいつも愛するクラブに声援を送っていた場所に灯された光。
まるで、彼の魂がそこにいることを表すかのように……









翌日には通夜が行われ、遺体を収めた棺が大統領官邸に安置された。
新型コロナの封鎖期間であるにもかかわらず、実に100万人ともいわれる人々が、英雄へ最後の別れを伝えるために、そこへ集まってきた。
その中には、ボカのサポーターと、宿敵リーベルのサポーターが泣きながら抱き合う姿もあった。
本来なら憎み合い、決して分かり合うことのないはずのライバルチーム同士。世界一熱狂的と言われるスーペルクラシコでは暴力による事件が後を絶たない。
特に18年のコパ・リベルタドーレス決勝2Legでは、ボカの選手たちを乗せたバスがリーベルのサポーターによって襲撃され、選手たちが負傷する惨劇さえ起きている。
それが、互いの垣根を越えてその死を悲しんでいる……マラドーナの死の前では、クラブ同士のあまりにも根深い対立関係すら些細なこと。
彼は騒動をもたらすだけでなく、憎み合う者同士も結びつける力もあったのだ。
やがて彼の棺はブエノスアイレス郊外の民営墓地へと運ばれ、埋葬された。
ミュージカル『エビータ』では『Don't Cry for me Argentina(アルゼンチンよ泣かないで)』と歌われたが、この時、確かにアルゼンチンは泣いたのだ……マラドーナのために。
なお、サポーターたちが警官隊の規制を振り切り大統領府に侵入したため一般参列が中止になったり、葬儀業者が遺体と記念撮影した写真がSNSに出回り大炎上したりといった騒動も起きたが
さらにあちこちに子供がいるせいで、遺族には泥沼の遺産相続バトルが待っている……

もう一つの故郷ナポリでもその死は海より深く悲しまれ、サン・パオロの周りには数えきれないほどのろうそくやマフラーが捧げられた。
12月4日、サン・パオロは所有権を持つナポリ市議会において改名が満場一致で決定、「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」となることが決まった。
いつもなら達成まで10年かかると揶揄されるほどやる気のないことで有名なイタリアのお役所仕事が、死後わずか9日で達成されるという異例の事態。
これもまた、彼の起こした奇跡なのである……


最後に、サッカー界の関係者のお別れコメントで、この項目を締めくくろう。


ペレ(元ブラジル代表、58年・62年・70年大会優勝メンバー)
なんて悲しいことなんだ……私は大事な友人を失い、サッカー界は伝説を失った。
彼についてもっと多くのことを語りたいが、まずは神様にマラドーナの家族にこの辛さを乗り越えられる力を与えられるようにお祈りしたい。
いつか天国で一緒にサッカーができるように……

ジーコ(元ブラジル代表)
水曜日はフリーキックの日。
今日11月25日は、我々の世代の偉大な一人に敬意を表したい。
彼はオールスターズのゲームを盛り上げてくれた大親友で、一緒にプレーする喜びを与えてくれた。
サッカーと、私たちの友情のためにしてくれたすべてのことに感謝している。

ミシェル・プラティニ(元フランス代表)
とても悲しい。我々がプレーした素晴らしい時代が懐かしい。マラドーナも私の人生に大きな影響を与えてくれた1人だ。
ヨハン・クライフ、アルフレッド・ディ・ステファノ、フェレンツ・プスカシュなど、若い私に影響を与えてくれた素晴らしい選手たちはすでにこの世を去っている。
我々の過去が消え去っていく……

クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル代表)
今日私は友達と別れ、世界中の人々もレジェンドとなった天才と別れの挨拶を告げなければならなかった。
マラドーナは最強である。真似のできない魔法使いだ。早すぎる死だったが、サッカー界に計りきれない財産、そして決して満たされることのない空虚感を残していった。
天才よ、安らかに眠ってください。あなたを決して忘れられることはない。

ジネディーヌ・ジダン(元フランス代表、98年大会優勝メンバー、サッカー指導者)
マラドーナが亡くなったのはサッカー界だけではなく、全世界にとってとても悲しい出来事だ。彼のことで最も記憶に残っているのは86年のワールドカップだ。
当時私は14歳で憧れの選手はエンツォ・フランチェスコリだったが、我々子供たちはマラドーナのプレーをずっと真似していた。
彼が素晴らしい選手だったことを直接伝えることができて良かった。

アントニオ・コンテ(元イタリア代表、サッカー指導者)
我々はサッカーの歴史を描いてきた、これからもずっと忘れることのない人の死を実感して涙を流している。
マラドーナと対戦してマークをしたことがあるが、彼のサッカーはアートだ。もうこの世にいないことが信じられない。まだ若かったのに……
非常に残念な出来事で心から悲しく思っている。

フランコ・バレージ(元イタリア代表)
私の心が泣いている。
あなたと対戦出来て光栄だった。
あなたは感動と喜びを与えてくれる魔法をこれからも永遠に使い続けるだろう。
チャオ、ディエゴ。

ロベルト・バッジョ(元イタリア代表)
人生はキャンバスのようなもので、その上に描くものは人それぞれだ。マラドーナは自分のキャンバスの上にサッカーそのものを描いた。
我々がルーヴル美術館に行ってレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザが拝見できるように、人々はこれからディエゴのサッカーを拝見して感動するだろう。
彼のサッカーは永遠に残る。彼とは多く対戦したが90年ワールドカップ準決勝はいまだに忘れられない。
良い旅を、ディエゴ。永遠なる穏やかな光の旅に、ボールを持っていくことを忘れないでくれ。

ジョゼップ・グアルディオラ(元スペイン代表、サッカー指導者、カタルーニャ人)
アルゼンチンである横断幕を見かけたことある。”あなたが自分の人生にしてしまったことは関係ない。大事なのは我々のためにしてくれた多くのことだ”と書かれていた。
サッカーの歴史を変えた選手は数少ないが、マラドーナはその1人だ。
私の時代の人々にとって86年ワールドカップの彼のプレーはサッカー界を進歩させたものである。

ジョゼ・モウリーニョ(サッカー指導者、ポルトガル人)
ディエゴは困っている時いつもそこにいてくれた。
電話をくれるのは勝った時ではなく必ず敗戦のあと。そしていつも言ってくれた。『モウ、君が一番だってことを忘れるな』とね。
ディエゴが恋しいよ……

セサル・ルイス・メノッティ(元サッカー指導者)
信じられない。つらい。言葉もなく、ただ心が痛い。打ちひしがれている。

コッラード・フェルライーノ(元ナポリ会長)
彼は一選手ではなく、ナポリの魂だった。

カレカ(元ブラジル代表)
言葉を失っている。ブラザー・ディエゴが旅立った。
神よ、どうか両手を広げて彼を歓迎してやってください。
彼は私たちにとって特別な存在でした。
そして、これからもずっと特別な存在です。

ジャンフランコ・ゾラ(元イタリア代表)
さようなら、ぼくの友よ。
あなたはすべての中で最高でした。
ぼくらはあなたがいなくて寂しいです。

クラウディオ・カニージャ(元アルゼンチン代表)
この知らせに打ちのめされているよ。
あなたは俺にとって、心の通じた、魂の兄弟だった……
分かってくれるよな? 今は言葉が見つからないよ。

ガブリエル・バティストゥータ(元アルゼンチン代表)
永遠の感謝を。涙が止まりません。
私はあなたの家族に寄り添います。
親愛なるディエゴよ、安らかに。

ファン・ロマン・リケルメ(元アルゼンチン代表)
誰も彼のようにプレーすることはできなかった。
彼のプレーは信じられないほど美しかった。
ありがとうディエゴ。

カルロス・テベス(元アルゼンチン代表)
あなたは不滅です。
俺の心の中でずっと生き続けます。
愛しています、王様の中の王様。

リオネル・メッシ(アルゼンチン代表)
僕らアルゼンチン人、そしてサッカー界全体にとって今日はとても悲しい日だ。
マラドーナは僕らから離れることとなったが、消えるわけじゃない。彼は永遠なのだから。
彼と過ごした記憶を大切にしたい。彼の家族と友人にお悔やみ申し上げます。





長女ダルマ・マラドーナ
人生なんて短いものだから、またすぐに会いましょう!
ソックスを飾るためにマーガレットの花を持って行くわ。
だからお願い、この写真に写っているみたいに、もう一度その愛で私を見つめて。
あなたのことをずっと愛しているわ!






画像出典(21/1/21閲覧): dalmaradona





AD10S Diego.


この項目が面白かったなら……\ポチッと/

最終更新:2021年02月26日 19:36

*1 なお、南米で先住民系とされるのは鼻の幅が広い顔つきのタイプなので、マラドーナ自身は国内では純イタリア系として扱われている模様

*2 Cebollitaとは「小さな玉ねぎ」という意味

*3 アルゼンチンリーグは67年~85年まで、メトロポリターノとナシオナルという2つのリーグを1年で行う方式だった。マラドーナは78年ナシオナルリーグを除き、得点王に輝いた

*4 彼がナポリにやってくる前、80年にもイルピニア地震と呼ばれるM6.9の大震災があり、戦後でも最悪レベルの犠牲者を出していた

*5 マラドーナの勧めにより獲得した選手の一人で、78-79シーズンには得点王に輝いている

*6 それ以前で南部のクラブが優勝したのは69-70シーズンのカリアリ、73-74シーズンのラツィオ、41-42・82-83シーズンのローマのみ

*7 『サッカーとイタリア人』P175

*8 ナポリの旧市街を東西に貫く目抜き通り

*9 特定の相手選手に付かず、自陣の守備エリアを各ゾーンに分けて、それぞれディフェンスの選手が各ゾーンを受け持ち、自分の受け持つゾーンに侵入してきた相手選手に対して守備を行う戦術

*10 ディフェンスの選手が積極的にオフェンスの選手に寄って行き、プレッシャーをかけ、オフェンスの選手を相手の陣地へ押し込むようにしてボールを奪うディフェンス

*11 オフサイドのルールを利用した、守備側がディフェンスラインをコントロールして相手の攻撃を封じる戦術

*12 日本でも黎明期の柏レイソルに加入し、Jリーグ昇格に貢献した

*13 マラドーナの移籍金は莫大なものだったが、その移籍金を用立てしたのも彼らだと言われている

*14 ナポリでは大きな家がもらえなかったことと、フランスリーグの平穏さに惹かれたかららしい

*15 ついでに税金3700万ユーロの滞納も発覚しており、以降イタリアに行くたび、税務局から金品を没収され続けることになった

*16 叔父のディノ・デ・ラウレンティスは世界的な映画プロデューサーで、『道』や『カビリアの夜』、『キングコング』や『ハンニバル』シリーズなど、数多くの名作や超大作を手掛けている。ちなみにアウレリオの方はイタリア国内向けの作品が多く、日本で劇場公開された作品はそれほど多くない。代表作は『マカロニ』『スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー』

*17 メノッティ自身左翼だが、軍事政権下で左翼は弾圧、処刑される立場だった。メノッティは代表チームは政権のために戦うのではなく、民衆のために戦うと言い、優勝してからも軍事独裁政権のビデラ大統領との握手を拒否している

*18 一応、02年日韓W杯の際はアルゼンチン政府が「観光スポーツ庁長官特使」として要請し、特例として入国を認められている

*19 https://number.bunshun.jp/articles/-/846021

*20 https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160601/450160.html

*21 Jリーグ初代得点王

*22 『「タンポポの国」の中の私』P136-138

*23 マラドーナ曰く、本当はファルカン狙いだったらしい。どちらにしても反則行為に変わりないが

*24 このゴールにアルゼンチン側の選手も引いていたのか、誰も来ないので、マラドーナは「ハグしに来いよ、そうしなければ主審はゴールを認めないぞ!」と言ったのだという

*25 『マラドーナ自伝P186』

*26 「Barrilete cósmico」はマラドーナの愛称の一つ。日本語にするとかなり奇妙な表現だが、スペイン圏のスペイン語では「barrilete」は小さな樽という意味で、アルゼンチンでは凧の意味で使われている。つまり、体型と生き方とプレースタイルすべてがかかったトリプルミーニングということになる

*27 当時は各グループの1位と2位の12チームと、3位チームの中から成績が優秀な順に4チームの、合計16チームが決勝トーナメントに進出するというルールだった

*28 ジョホールバルの歓喜の立役者である岡野雅行氏が憧れた快速ウインガー。なお、母国語読みでは「カニーヒア」となるのでその表記が多いが、本人は「カニージャ」と発音してほしかったそうなので、こちら準拠とさせていただく

*29 「野蛮人」を意味する、南部出身者に使われる蔑称

*30 キューバはWHOも太鼓判を押すほどの医療大国であり、がん治療から心臓移植まで医療費はタダ。自国より安く、高度な治療を受けるため、キューバを訪れる外国人も多い。この医療大国ぶりは、映画『シッコ』などが詳しい

*31 牛肉の塊を炭火でじっくりと焼くアルゼンチンのバーベキュー

*32 http://www1.rionegro.com.ar/arch200405/06/v06j17.php

*33 ボカやベレスで数々のタイトルを獲得し、最有力と言われていたカルロス・ビアンチ監督はグロンドーナ会長と折り合いが悪く、98年と04年に監督就任を打診されたものの、断っていた経緯があった

*34 一応、選手時代晩年の94年から95年にかけて、マンディーユ・デ・コリエンテスとラシン・クラブの監督に就いていたことがある。結果はお察しください

*35 https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/200811070007-spnavi

*36 https://www.france24.com/en/20080317-morales-maradona-high-football-charity-match

*37 彼女とは89年に結婚、04年に離婚。その後マラドーナは18年、30歳年下(!)のロシオ・オリバさんと再婚

*38 なお、あまりにも移籍先について口出しばかりする義父に耐えかねたのか、12年に離婚。おかげで義父に恨まれ続けるハメになった

*39 『マラドーナ自伝P131-132』

*40 https://www.bild.de/sport/fussball/maradona/jetzt-mamadona-39988082.bild.html

*41 バチカンを訪れた時のことを、「貧しい子供を心配するなら、その高価な天井を売るとか何とかしろってんだ!」と、自伝内で述懐している