全日本プロレス四天王

登録日:2009/07/15(水) 14:09:22
更新日:2025/03/05 Wed 05:59:36
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90年代の黄金期の全日本プロレス所属のプロレスラー、三沢光晴川田利明小橋健太田上明ら四人の総称。

本来であれば全日本には当時鶴田天龍という二枚看板が激しい戦いを繰り広げていたのだが、1990年に天龍がSWSに移籍し退団。
更に1992年、圧倒的エースとして全日本に君臨していたジャンボ鶴田がB型肝炎により長期離脱を余儀なくされた。
その為、社長であったジャイアント馬場が三沢光晴を始めとした若手世代の新エース確立の為に名付けた。

後に活躍した秋山準を加えて五強と呼ばれることも。

彼らの筆舌に尽くし難いその壮絶な試合は“四天王プロレス”と呼ばれ、90年代後半から00年にかけて常に全日本の興行に於いてのメインイベント、ビッグカードとして存在し、連日満員となるほどの人気を誇った。

特に全日本プロレスが90年代に入り始めてから掲げていたスローガンである「明るく、楽しく、激しいプロレス」の「激しさ」の部分を象徴していたともいえ、もう一方の「明るく、楽しい」面は馬場とラッシャー木村らのファミリー軍団と渕正信・永源遙・大熊元司の「悪役商会」によるコミカルなムーブややり取りを繰り広げる、通称「ファミ悪決戦」が休憩前のメインイベントとしてその役目を担い、
そして休憩後は彼ら四天王らや、スタン・ハンセンなどの外国人エース達による激しいプロレスが繰り広げられていた。
明るく楽しいコミカルなプロレスと、激しくシリアスなガチンコのプロレス、両極端の路線の試合を前後のメインに据え置く事により、団体のスローガンのイメージを強く押し出していたのである。

また、四天王内部でも三沢、小橋の“超世代軍”、川田、田上の“聖鬼軍”と分かれておりタッグ戦でも壮絶な争いを繰り広げた。
※後に小橋が三沢と並ぶ選手に成長した後は、小橋は秋山と“バーニング”を結成。
三沢も不動のJr王者であった小川良成と“アンタッチャブル”を結成している。



メンバー
※詳しくは該当項目を参照

三沢光晴
入場曲:スパルタンX
主体打撃:エルボー
当時の全日本のエースであり、抜群の身体能力を武器に常に四天王の中でも最強であり続けた。
他の四天王は三沢を倒し下克上を果たすことを目標としていた。

川田利明
入場曲:Holly War
主体打撃:キック
三沢の高校時代の後輩であり、生涯のライバルと呼べる存在。強い者への反骨心がむき出しのハードなファイトスタイルで支持を集めた。
特に三沢との戦いは、どちらかが完全KOとなるか、勝利と引き換えに大怪我を負うか…というほどの壮絶なものとなった。

田上明
入場曲:ECLIPSE
主体打撃:チョップ
ジャイアント馬場に体型からファイトスタイル、果ては顔まで似ている。
体格に恵まれ、ナチュラルな才能は一番だが性格が大らか過ぎて、なかなか期待に応えてはくれないのが玉に瑕。
しかし、大一番や怒った時の暴れぶりは物凄く、田上火山と呼ばれる。現在は主流になった断崖式、雪崩式の技の創始者でもある。

小橋健太
入場曲:SNIPER、GRAND SWORD
主体打撃:逆水平チョップ
四天王の中で最年少であり、プロレスの技術も低いが、感情的かつ情熱的なファイトで若者に熱狂的な人気を誇った。
類い稀な努力家で、過酷な練習で鍛え抜かれた肉体の持ち主である。
得意技の剛腕ラリアットは、文字通り一撃必殺の威力がある。


【四天王プロレス】
彼らの壮絶な戦いは四天王プロレスと呼ばれた。
ハードヒットする打撃、カウント2.9からの逆転劇、脳天直下の大技、全てが圧倒的迫力を持っている。

非常に申し訳ないが正に“筆舌に”尽くし難いプロレスであるので一度自分の目で見て欲しい。

四天王と当時のトップ圏内の全日本所属レスラー達は立体的なアメリカンスタイルを得意としていた師、ジャイアント馬場の流れを発展させた序盤から大技の飛び交う、
常にが隣り合わせにあるかの様な緊張感のある試合展開を見せていたのである。

同時代の新日本プロレスには蝶野正洋武藤敬司橋本真也ら“闘魂三銃士”が存在しており、
ジャイアント馬場アントニオ猪木から続くライバルストーリーの結実として、
続く“俺たちの世代”(※ジャンボ鶴田、藤波辰爾長州力、天龍源一郎=鶴藤長天とも)でも実現出来なかった対抗戦をファンから望まれていた。
結果的には、共に全盛期での団体を背負った形での対抗戦と云う形では対決は実現出来なかったものの、
特にプロレス界全体に目を向けていた蝶野正洋と三沢光晴の交流を契機に間口が広がり、対戦やのタッグの結成を現実の物と出来たのは僥倖であった。

……以降の世代では団体の枠を越えた対戦やタッグの結成は珍しいものでは無くなったが、
真の意味での一流、時代を象徴するレスラーは三銃士、四天王世代までとされる事もあり、名実共に90年代こそがプロレス黄金期の最終期であったとも言える。

一般への知名度的には矢張り三銃士と三沢が別格であったが、三沢と小橋、蝶野と武藤を後への影響も含めて時代を象徴するレスラーと見なす場合もある。



【代償】

このように、四天王プロレスはハードヒットを主体するスタイルなため、身体に負荷がかなりかかる。

三沢は長年首や肘にトラブルを抱えた結果、最期は首の爆弾が爆発した格好で急死してしまい、
若くスタミナのある内にレスラーを消耗品として利用した全日本プロレスの選手管理やマッチメイクに問題があったのも事実である。
(元々、NWAの傘下団体である全日本プロレスでは馬場、鶴田以外の日本人レスラーと海外招聘の外国人レスラーには伝統的に格差が存在していたとされる)
※三沢は動かない首で僅か数cmの角度で受け身を調整していたと云う。
川田も後年には、四天王プロレスの時代には片目が効かない状態で戦っていたと告白しており、1999年8月には両眼ブローアウト骨折で長期欠場している。
2009年の三沢の事故死後、2010年を境に川田がラーメン屋を始める為に休業し、小橋も2012年に引退、
四天王の中で最後まで現役だった田上が2013年に引退した事により、
2015年現在川田を残して全員現役引退済であり、その川田をしても2010年以降”事実上の引退状態”にあり、事実上四天王は全員引退した。
師であるジャイアント馬場(61歳まで生涯現役)や一世代上であるジャンボ鶴田(引退直後に病死、49歳)や天龍源一郎(引退時65歳)に比べてみても、
引退時最年長だった田上(引退時51歳)と比べて10歳以上も若く、いかに彼らが繰り広げた「四天王プロレス」が選手寿命を縮めたのかが分かる。

つまり、彼らが繰り広げた「激しい四天王プロレス」は既に「激し過ぎていた」と言っても過言では無い……。

一方、「明るく楽しい」面を担っていた「ファミ悪決戦」の方も2000年の全日本プロレス分裂後にノアに移籍した木村・百田がタッグを結成して「色男軍」と名称を変え、悪役商会も「男前軍」として改名し継続するが、木村が長期欠場(後2004年に引退)したころから両軍の軍団抗争は見られなくなり、残った百田が男前軍のリーダーであった永源とのシングルマッチを続けた。しかし永源も引退したために「ファミ悪決戦」およびそれを引き継ぐ戦いは観ることが出来なくなった。
全日本プロレスが90年代に展開した2つの路線のプロレスは馬場の死去と全日本の分裂、そしてその路線のレスラー達の引退により事実上、消滅し見ることが出来なくなった。
しかし、彼らが見せたプロレスは後の世代のファンやプロレス界に生きる者に多大なる影響を与えたのである。


四天王プロレスのごとく激しくアツい追記・修正、よろしくお願いします。

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