ジャンボ鶴田

登録日:2012/09/09 (日) 16:54:08
更新日:2025/03/12 Wed 01:28:04
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「ジャンボ鶴田(- つるた)」は1951年3月25日生まれ、2000年5月13日に死去した日本の元プロレスラー。
本名、及び旧リングネームは鶴田友美(つるた ともみ)。


【概要及び経歴】


ジャイアント馬場の後継者として

  • PWF、インターナショナル、UNの各王座を統一し初代三冠ヘビー級王座獲得
  • 馬場の日本人初のNWA王座獲得に並ぶ快挙である日本人初のAWA世界ヘビー王座獲得
  • ジュニア級王座とアジアタッグを除く馬場時代の全日本の全タイトルを獲得
    (因みにライバルの天龍はジュニア級王座とインターナショナル王座以外の全王座を獲得している)

など名実共に全日本プロレスのエースと呼ばれていた。

80年代を代表する名レスラーであり、日本史上“最強”のプロレスラーと呼ばれている。

同世代の「鶴籐長天(鶴田、藤波長州天龍)」の中でも別格の評価を受けており、
196㎝もの巨躯という恵まれた肉体と無尽蔵のスタミナ、理知的な頭脳を持つ「怪物」と呼ばれていた。

その長州力が85年に電撃参戦を果たすと、その「怪物」ぶりを遺憾無く発揮し「格の違い」を見せつける事になった。

一方で、その強さとは裏腹にファンからは感情移入し難いと囁かれる面もあり、長州や天龍の参戦していた時代には人気面で彼らに水を空けられていた。

87年に長州の退団後は天龍源一郎との「天龍革命」を掲げて「鶴竜対決」を開始。

馬場が一線を退いた後は名実ともに全日本のエースとして活躍した。

しかし長年に渡り馬場と鶴田以外の選手との「収入格差」及び待遇への不満が引き金となって、
天龍以下の有力選手がメガネスーパーが設立した新団体SWSに移籍するという事態が起こる。

丁度、長州率いるジャパンプロレス勢が退団した後の新日本プロレスが若手であった闘魂三銃士を全面的に売り出した様に、
全日本プロレスも三沢光晴川田利明ら、当時の中堅、若手レスラーをメインイベンダーに抜擢する事で急激な世代の新陳代謝が起きる。
残された鶴田は絶対的な強さを誇る王者として所謂全日本プロレス四天王に立ちふさがる「大きな壁」のポジションに移行する。

これを機に全日本のスタイルは「四天王プロレス」という過激で過酷な試合を変化した。
しかし、この変化により限界を越えた攻撃に晒されながらも相手を完膚なきまで叩きのめすスタイルが大受けし、全日本は再び勢いを取り戻した。

その三沢が1990年に鶴田越えを果たした後は川田や田上といった次世代のスターの成長を見届けた直後、1992年にB型肝炎での長期欠場に追い込まれる。
一時は再起不能とまで言われたものの奇跡的に回復しレスラーとしても復帰を果たした。

しかし、常に肝臓に爆弾を抱える状態の為に一線には復帰できず、専ら馬場と組んでファミリー軍団に入り前座で「明るいプロレス」に専念する事になった。
そして馬場の死去直後の1999年2月20日に現役を引退。
復帰後から非常勤講師として大学で教鞭を振るっていた為、オレゴン州ポートランド州立大学に「客室研究員」として赴任し第2の人生を始めた矢先…

B型肝炎が肝臓癌へと悪化しており、フィリピン・マニラでの肝臓移植手術中に大量出血を起こしてしまいショック症状に陥り死去した。
(もともと一度出血するとなかなか止まらない体質だったらしい)

……「怪物」は全盛期の幻想をファンに残したまま、その生涯を閉じたのである……合掌。



【得意技】


●バックドロップ
最大の代名詞。
テーズ流の臍で投げるバックドロップを自分の長身に合わせて進化。
相手の受け身のレベルに応じて角度を手加減する技量を持っていた。
受け身に優れた三沢や川田には、えげつない角度で放つ。


●フライングボディシザースドロップ
空中胴絞め落とし。この技もテーズ直伝である。


●ジャンボラリアット
力まかせで、あまり上手くなかったと言われる。
しかし、受けた相手は派手に吹っ飛ぶ程の威力があった。
何故か打った後に腕を痛める(リアクションを取る)。


●ジャンピング・ニーバット
飛び膝蹴り。
圧倒的な跳躍力と巨体による破壊力を併せ持っていた。
この技を決めてから「オー!」を行うのが一つの流れ。


●各種スープレックス
鶴田の場合は、強烈な腰のバネを利用し一旦空中で止めてから投げるのが特徴。
ジャーマンのみは危険過ぎる為にバックドロップを身に付けてからは封印された。


●パワーボム
別名ジャンボリフト。
1989年の天龍との対戦で、激しいチョップ攻撃にエキサイトして掟破りで放ったが、
要領が分からず、真っ逆さまに落としてしまう。天龍は失神し、異変に気付いてフォールして試合を終わらせた。
その後も幾度か使用しているが、危険な角度で落とすことはなかった。


●ドロップキック
ここぞという時に放っており、持ち前の跳躍力を活かして打点がとても高かった。
若手時代、ジャイアント馬場とシングルマッチで対戦した際には、馬場の頭(209cm)に当てたことがある。


●オー!
右拳を上げる。
声援を受ける場合とブーイングを受ける場合の真っ二つに分かれる。
『オーはもういいよ!』 





【人物及び余談】


山梨県東山梨郡牧丘町(現山梨市)出身。実家はブドウ農家。中央大学法学部出身。
高校まではバスケットボールに打ち込んでいたが、バスケットではオリンピックに行けないとの思いからレスリングに転向を決意するも、
半端な気持ちで来て欲しくないと母校のレスリング部に入部を断られた為に、自ら自衛隊に出向きレスリングを学ぶ。
自衛隊のコーチは鶴田の持つ才能にいち早く気付き、一年半後にはフリースタイル、グレコローマンの両日本選手権を制する選手に成長する。
その実績から逆に中央大学レスリング部の勧誘を受け、ミュンヘン五輪のレスリング代表に選出される。
帰国後、全日本プロレスを設立したばかりのジャイアント馬場のスカウトを受け、恩師の勧めもあり入団を決意。
「全日本プロレスに就職します」という、プロレスらしからぬ表現により注目を集めた。

◯法学部出身という事やレスラーの経験を元に勉学に活かそうとした事からも分かるように理知的な人物である。
NHKの番組に出演した際には、良い意味でプロレスラーのイメージを覆す人柄によりスタッフに鶴田ファンを増やしたという。

◯全盛期だった80年代に比べると70年代の鶴田はどちらかというと「何か凄いけどパッとしない」という不遇な扱いを受けていた。
これには当時鶴田の格が外国人レスラーと比べても低く、NWAやAWAのタイトルマッチが組まれても(格下の扱い故に)時間切れ引き分けや両者リングアウト、
反則勝ちといった不透明決着が多く「善戦はするけど絶対に勝てない『善戦マン』」という屈辱的なニックネームをファンから付けられてしまう事になってしまった。

◯それに対し90年代の所謂「四天王プロレス」と原型となる三沢ら四天王と鶴田の試合は「戦ったら必ずどこか負傷する」という程の凄まじい戦いとなった。

例)
三沢や川田は急角度のバックドロップで脳天からマットに突き刺され、幾度もグロッキーにさせられる。
特にこの2人は試合で鶴田に激しく向かっていくため、怒った鶴田に本気に近い攻撃を受けていた。
菊池毅はコブラツイストを潰されるように掛けられ、ジャンピング・ニーバットで顎の骨を外し、それをラリアットで戻された。
鶴田も三沢から全力のエルボーを受けて失神、鼓膜を破る等の怪我を負った。

◯無尽蔵のスタミナの持ち主と言われているが、後輩の小橋建太の様な「鬼の様なトレーニング」をしたわけではなく「天然」らしい…
三沢光晴が著書の中で

「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。」
「恐らく自分の好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたのだと思う」と述べており、
川田利明、仲野信一、秋山準など多くの後輩も同様に、鶴田が練習している所を見たことがないとインタビューで語っている。
川田曰く「(影で努力はしていたのかもしれないが)、生まれながらに全部揃っていたから努力をしなかったんだろう」とのことである。

◯高校へはバス通学も出来たが、乗り心地の悪さや時間が噛み合わなかった事もあり、3年間登校時は下り坂を、下校時は上り坂の舗装されていない砂利道を自転車で通学していた。
この経験が前述の無尽蔵のスタミナに繋がったとも。

◯友美の名前は、生まれたばかりの頃は女の子の様に小さかったからとの事だが、結果はご存知の通り(身長196cm・体重127kg)。
因みに、お兄さんも190cmを超える等、大柄な家系であるらしい。

◯名前の通りなのか穏やかな人柄の持ち主で、家では子煩悩な普通のお父さんだった。
また、後輩には「君」付けで呼び、干渉したり先輩風を吹かせたりするのは皆無だったという。
雑用を頼む時は「~君、これの洗濯を頼むよ」と、丁寧な頼み方をしていた。
この事は多くのレスラーに影響を及ぼしており、天龍は
「ジャンボのおかげでプロレス界にスッと入っていけた。
 もしあの時、元関取でもプロレスではそうはいかないぞ!みたいなムードを感じていたら
 その後のプロレスへの取り組み方は変わってしまっていたかもしれない」
と述べている。

小橋は入団当時、先輩に挨拶をしたら殆どシカトされたが、三沢と鶴田だけはきちんと一人前として扱ってくれたと自伝で述べている。

ファミリー軍団時代に面識のあった泉田が前座でのコミカルな扱いに悩んでいた時に「プロレスのスタイルに上も下もない」、
「泉田は泉田でいいじゃないか。秋山とかにないものを持っていてお客さんを沸かせられるのだから」と励ましてくれたと述べている。

その反面、天龍の様に『どんな後輩に対しても気前が良かったり、面倒見が良い』というわけでは決してなく、所謂「マイペースを貫く性格」だった。
そのため、彼に対する評価は接した人によってかなり分かれる傾向がある。
大仁田厚や三沢光晴のように可愛がられたことがあり「鶴田さんのことは好きだった」と公言する人もいるが、そうでない人もいる。

◯天龍も、先述の発言で鶴田を讃える一方、2016年に受けたインタビューで「(ジャンボは)リングの中で相手を見下したような試合をすることがあった」
「リングの外で、『プロレスラーの鶴田友美』であることを嫌がる様子を見せていた」
「試合後、リング脇から写真を撮ってる記者の前で、バテてる俺の頭を無造作に引き起こして『ほら、龍ちゃんいつまで寝てるんだよ!』と言い放たれた」
「だから、段々アイツと組むのは嫌になってきた。それが鶴龍コンビを解消した原因の一つだ」と述べている。

◯純粋な才能では武藤敬司と並び、今後も出てくる事は無いであろう「天才の中の天才」と評されている。

◯かつて中日に所属していた山本昌は、現役時代に東京の遊園地まで遊びに出かけた際に、
客の1人にジャンボ鶴田と間違われてサインをねだられたらしい。
山本昌は「東京の人たちにも、ようやく俺の名前が知れ渡ったんだな」とウキウキだったらしいが、客の勘違いだったと分かった途端に落ち込んでしまったそうだ。




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最終更新:2025年03月12日 01:28