ジンギスカン(音楽グループ)

登録日:2019/08/18 Sun 23:43:37
更新日:2025/04/20 Sun 10:55:11
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『ジンギスカン(独:Dschinghis Khan)』は西ドイツの音楽グループ。(日本では英語表記のGenghis Khanで紹介されていた。)
デビュー時は1979年から1985年にかけて活動していた。
デビュー曲であり、グループ名ともなった『ジンギスカン』や、セカンドシングル『めざせモスクワ』は日本でもヒットを飛ばし、ふざけた日本語版が全国の小学校の運動会で使われたり『ポンキッキーズ』で使われたりする等していた。
ジンギスカンはチンギス・ハーン独語読み……説明するまでも無いが。

日本では、それ以降の活動が不明であった為に一発屋的な扱いをする言もあったが、実際にはデビューから数年に渡って活動して確かな足跡を残しており、公式サイトではドイツ出身で最も成功したグループであり、世界中で成功を収めた。としている。
実際、全盛期には来日は叶わなかったもののドイツだけでなく20の国での表彰、2000万枚以上のレコードの売上、240を超えるTV番組への出演を記録している。
日本国内において彼らの歌より有名なドイツ語の歌を思いつくのは中々難しい。
ジンギスカンは人気者であり続け、解散も唐突なものであったという。
一説によると、リーダー格であったスティーブが1981年に脱退して以降はヒット作に恵まれなかったことや*1、ヴォルフガングとヘンリエッテ夫妻の不仲が深刻化したこと等が上げられる。

また、インターネット世代に於いては余りにも特徴的な楽曲から空耳が付けられたり強烈なパフォーマンスに注目が集まる等、ネタ的な扱いをされつつも直撃世代以外にも存在が知られるようになっている。
後述の様に、タイミング良く本人達も活動再開をしており、復活後の活動期間は10年を越える。

オリジナルメンバーはルイス(ルイ)・ヘンドリック・ポトギター、エディナ・ポップ、ヘンリエッテ・パオリーネ・シュトローベル、スティーヴ・ベンダー、ヴォルフガング・ハイヒェル、レスリー・マンドキで、メンバーの詳細については後述。
また、現在では本名以外の通称がネット上で広まり通用している。

1979年~1985年にかけて活動した後に解散するも、2005年にスティーブの呼び掛けにより復活
しかし、ここでルイが10年も前に逝去していたことが解った。
その後、06年にスティーヴが逝去し、07年からマンドキを除く3人により正式に活動が再開され、追加メンバーを加えて活動している。
一方、2014年に引退を宣言していたヴォルフガングが2018年から別のDschinghis Khanを率いて活動しているともされ、2019年のデビュー40周年のツアーを予定しているとも伝えられるが、公式サイトではその件について関知も関与もしていないとのこと。


【結成】

1979年に西ドイツの音楽プロデューサーのラルフ・ジーゲルと経済学者のベルント・マイヌンガーが発起人となり、当時ドイツ国内のみならず世界的に人気を獲得していた『ボニーM』の二匹目の鯲沼を狙い、ボニーMの大ヒット曲『怪僧ラスプーチン』に対して『ジンギスカン』を作曲して歌えるメンバーを集めてヨーロッパのポップ・ミュージックの登竜門である『ユーロビジョン・ソング・コンテスト』での入賞を目論んだ。

メンバーはオーディションで集められたが、南アフリカ出身のプロダンサーであるルイのみはグループの核として据えることが決まっていたので他のメンバーが選ばれることになった。
こうして、既に歌手として活動していたエディナ、スティーヴ、ヴォルフガング、見た目のインパクトもありレスリーと、ヴォルフガングの提案によりヴォルフガングの妻のヘンリエッテが加入することになった。

ルイとヘンリエッテ以外はプロの歌手であったが、ジンギスカンの路線がボニーM同様のダンスや演劇的表現を含むパフォーマンスも兼ねたものだったので、反対にダンサーであるルイとフィギュアスケートの経験があるヘンリエッテ以外の4人はダンスパフォーマンスの習得に朝から晩まで費やすことになったという。
また、メンバーは夫婦であるヴォルフガングとヘンリエッテ以外は初対面で、出身国の遠いルイは言葉もたどたどしいといった面もあったために、エディナの提案で休憩時間にはメンバー全員で行動して遊びに行く等して親交を深めたという。

本番ではドイツ国内の予選ではトップとなるも本選で4位に終わり入賞は逃すが、これを機にドイツ国内外への活躍の場を広げていくことになるのであった。


【初代メンバー】

ネットなんかでもお馴染みの初代6人。
それぞれに番号と『めざせモスクワ』では色が振り分けられており、カラーリングは他の楽曲では守られていないものの、ネット上での通称として用いられている。


ルイス・ヘンドリック・ポトギター

No.1 Louis Hendrik Potgieter
1951年4月4日生まれ。
メンバーでも一際目立つ長身と筋肉質の肉体の持ち主で、トランプの絵札の様な姿も相まって強烈なインパクトを放つ。
『ジンギスカン』の歌わないセンターとして有名で、名前の読みについては独語に近いルイ・ヘンリック・ポンジェターとしている場合もあり、ドイツ国内の番組でもドイツ流にルイと呼ばれている。
南アフリカのプレトリア出身のドイツ系ブール人で、ヨハネスブルグでバレエとグラフィックアートを学んだ後に1975年に渡欧、ミュンヘンでプロのソロダンサーとして活躍していた所を誘われた。
南アフリカ出身なので実はドイツ語が苦手で、かなり英語訛りが強かったとされる。

前述の様にルイのみは最初から決定していたメンバーであり、グループのシンボル的な存在である。
『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』では、自らは歌わないのにメンバーの間を巨体を走らせて縦横無尽に動き回る姿から魔王の通称を付けられたりしているが、実はコーラスには普通に参加しているし、81年のスティーヴの脱退後はスティーヴパートを担当して普通に歌っている。
また、スティーヴの脱退前の楽曲で、ネットにも出回っている『ロッキング・サン』では後半にソロパートが存在し、そこでは非常に低音ボイスであることが確認出来る。
グループが解散した後はヘンリエッテ、レスリー、更に新メンバーのユルゲン・グーンホルツ、クリスティン・ザーゲント=ブラント、マイク・トゥールの新メンバーを加えたジンギスカン・ファミリーを結成してキーボードを弾いていたものの短期間の活動に終わり(それでも3年程はやっていたらしい)、帰国後はホテルの支配人を務めていたとされる。
しかし、94年(93年説もある)にエイズから来る合併症でかつての肉体美からは想像出来ない程にガリガリに痩せ細り、当時80代になっていた母親に看取られながら死亡していたことが05年に再結成の為に連絡を取ったスティーヴに知らされることになった。
後の復活での追加メンバーにもルイの立ち位置の人間はいるものの、動きのキレやパフォーマンスまでを引き継いだ人物は出てきていない。

因みに、ジンギスカンはステージでは全員が共通して濃いメイクと派手な衣装に身を包んでいるが、その中でもルイは扮装といった意味合いが強いために、プライベートでも他のメンバーより身バレすることが少なく、本人も助かったと発言している。

ネット上での通称は魔王、王様、白


エディナ・ポップ

No.2 Edina Pop
1941年2月4日生まれ。
ハンガリーのブダペスト出身で、現在はドイツ国籍を取得している。
本名はケーシュマールキ・マリカ
ジンギスカン結成より遥か以前の1970年より歌手として活動しており、独語版『カチューシャ』なんかのレコードを出していた。
また、近視の為に昔は眼鏡っ子で売っていたようである……ジャケットがなかなかに可愛い。
ジンギスカンでは裸眼だが、激しい動きのパフォーマンスの中でも周りのメンバーが気を使って怪我をしないように助けてくれていたそうである。
ヘンリエッテと並ぶ美女枠だが、実はメンバー最年長のベテランで、グループ参加前の1977年には早くに夫を亡くしているという。

前述の様にプライベートでの交流を主導する等していたようで、ベテランというだけでなく思いやりのある性格。
1995年にはスティーヴ、レスリーと共に来日して特番で歌っている。
04年に癌が発覚して05年の再結成で調子が悪そうなのを見ていた晩年のスティーヴを気遣っていたそうで、スティーヴの娘からは感謝されている。
他のメンバーからは電話病と言われる程に話好きらしく、電話代が嵩むのでスティーヴがEメールを指南したらしい。

日本版レコードでは何故かDEINAと誤記されている。

ネット上での主な通称は黄色、エディナ姐さん


ヘンリエッテ・パオリーネ・シュトローベル(旧:ハイヒェル)

No.3 Henriette Pauline Strobel-Heichel
1953年11月13日生まれ。
オランダのアムステルダム出身で、前職はマヌカンだった。
また、実家が歯科医で歯科助手の経験もある。
過去にフィギュアスケートの経験があるが、不注意から大怪我を負い、回復後にまたもや怪我を負ったことで止めてしまっている。

1976年にヴォルフガングと結婚しており、ルイの他に4人が決定した所でもう一人女性が欲しいという話となり夫の推薦でグループに加入することになった。
当初は本人も断っており、自身の歌唱は酷いと思っていたとのことだがヴォルフガングは上手いと思っており、テストでも高評価であった。

非常にスタイルが良い華やかな美人で、ステージでは身体にピッタリとしたズボンルックやレオタード姿で歌うことが多かった。
グループが解散した1986年にヴォルフガングと離婚。
ルイ、レスリーと共に新バンドを結成したが短期間の活動に終わり、その後は引退して友人と共にスペインのマヨルカ島で再びファッション関係の仕事に就いていたという。

復活した後は離婚したことからシュトローベル姓で活動。

ネット上での通称はキャサリン、赤


スティーヴ・ベンダー

No.4 Steve Bender
1942年11月2日生まれ。
旧西ドイツのマインツ出身。
1946年生まれと記載されている場合もあるが、これは本人の自称とのこと。
本名はカール=ハインツ・ベンダー
スキンヘッドに特徴的な歯並びと、メンバー中でも特に魁偉な風貌をしている。
グループに加入する前は2年間の渡米経験があり、複数のバンドでギタリスト、ボーカルをしていたという。
その経験を活かして複数の楽曲の作曲や歌詞の英訳を担当している。
また、在籍当時はリーダーだったとも言われる。

メンバーでは最もダンスが苦手だったようで、動きが遅れたり段取りを忘れた様な場面が散見される。

スキンヘッドになったのは彼がハゲヅラを被って撮ったジャケット(日本の仏像モチーフだったらしい)がメンバーを探しに所属事務所にやって来たプロデューサーの目に留まったからで、グループの加入と共に本当に剃る羽目になったのだという。
インタビューでは坊主頭の維持の為に一日に2回も剃らねばならなかったと語っているが、脱退が近くなってきた頃にはちょっと髪を伸ばした状態が多かった。
また、最初に剃った時には余りにも自分の姿が怖くて泣きたくなり、4週間も自宅に籠ったそうである。(繊細!)
とはいえ、スキンヘッドはスティーヴのトレードマークとなり、国内ではGlatze(ハゲ頭)として親しまれた。

しかし、兼ねてからの腰痛(ヘルニア)持ちであり、激しい動きを要求されるジンギスカンの活動についてドクターストップが掛かってしまい1981年に惜しまれつつも脱退*2
その後はソロ活動と主にプロデューサーとして活動していた。(髪も生えた)
1995年にはエディナ、レスリーと共に来日して懐かしのあの人を探す特番で『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を披露している。

また、ネット時代になるとファンサイトにも顔を出すようになり、外国からのファンレターやメールにもついても高性能な翻訳機を使いながら丁寧に返信しており、ファンからも人柄を讃えられている。
04年頃に肺癌が発覚したがそのことは伏せて05年にジンギスカンを再結成。
06年5月に逝去。
復活時のインタビューでは昔と変わらぬタバコを片手にした姿で応じていた。
癌のことは死亡する2ヶ月前まで事務所に隠しており、数ヶ月程前からは各国のファンサイトに様々な言語でコメントを残していたという。
そして、スティーヴの死の翌年の07年からジンギスカンは本格復活を果たすことになる。

娘のメラニー・ベンダーもミュージシャンで、CDは日本でもリリースされている。

ネット上での通称はイムホ、青、ヴォルデモート


ヴォルフガング・ハイヒェル

No.5 Wolfgang Heichel
1950年11月4日生まれ。
旧東ドイツのマイセン生まれでベルリン育ち。
実は魔王(ルイ)より長身。
自ら完璧主義者を自称する程の努力家で、学生時代はガリ勉野郎ながらスポーツもこなしたと語っている。
しかし、かつて歯科学を学んでいながら自業自得で物理学を落として挫折したことがあるそうである。

グループに加わる以前はシンガーソングライター、プロデューサーとして活動していたが、行きつけのディスコで派手なパフォーマンスに挑んだ所、マイクに顔をぶつけて歯を折ってしまい、ディスコの支配人が同じく通っていたヘンリエッテが歯科助手であったことから話を通し、彼女が実家の歯科医に予約を取ってくれたことが縁で交際が始まり、結婚まで漕ぎ着けることになった。
グループ在籍中は幾つかの作曲もしている。

1986年にグループの解散と共にヘンリエッテと離婚。
端正なルックスの持ち主であり、グループ在籍中絶大な人気を誇り、男連中で一番モテていたとのこと。
解散後は同じくジーゲルがプロデュースするThat's Lifeに参加するが、1986年のユーロビジョンではヘンリエッテの参加したジンギスカンファミリーが2位になったのに対して最下位に終わっている。

その後は引退してスイスに移っていたが06年の再結成に参加。
貫禄が付き、かつてとは大きく風貌が変わっていたのでファンからも戸惑いの声が上がった。
07年からはエディナ、ヘンリエッテと共に活動を続けていたが14年に引退。
しかし、2018年に問題を起こして追放されていた追加メンバーのシュテファン側と合流して別にジンギスカンを名乗って活動する等、グループを分裂させてしまっている。

ネット上での通称は嶋、黒


レスリー・マンドキ

No.6 Leslie Mandoki
1953年1月7日生まれ。
ハンガリーのブダペスト出身で、現在はドイツ国籍を取得している。
ハンガリーでは姓と名の順になるので、本来の呼び名はマーンドキ・ラースロー
元々はジャズを学んでおり、ドラムとパーカッションを修得。
ジャズバンドを率いて活動していたが、当時のハンガリーでは共産主義政権による学生運動弾圧が横行していたので、1975年にイラストレーターのガーボル・チュポー等と共にミュンヘンへと逃れてきた。

ミュンヘンでは貧しい暮らしをしながら酒場のバンドマンとして活動しジャズシンガーになるのを夢見ていた所をグループに参加することになった。
長髪に髭面、四角い顔と非常に特徴的な見た目をしているが実はメンバー最年少であった。
当初はジンギスカンでの活動について疑問も感じていたとのことだが、後には近くて遠い故郷ハンガリーを題材とした楽曲を作ったりしている。
尚、ドイツに移ってきた頃は戻れば処刑されるかもしれないと言っていたが、80年代からはソ連のペレストロイカから始まる各国の社会主義政権の終焉と共に急速に国家体制が変わったことで懸案は解消された。

グループの解散後はルイ、ヘンリエッテと共にジンギスカンファミリーに参加。
それも解散すると経営の道に進む傍らで音楽活動も続けていた。
1995年にはエディナ、スティーヴと共に来日して特番に参加しているものの、その後は議員を目指したこともあって05年には違法とされる広報活動と受け止められることを畏れて不参加。
以降も経営する会社の広報活動と受け止められ兼ねないという理由で復活以降のジンギスカンからは距離を置いている。

代表曲の一つ『ロッキング・サン』ではメインボーカルとドラムのパフォーマンスを見せていたが再結成以降は不在となったことで見られなくなり、05年時はスティーヴが代わりに歌っている。
レスリーの『ロッキング・サン』はファンから幻のパフォーマンスとして捉えられ、再び見られることを切望されている。

ネット上での通称は蛾次朗、緑


【05年からのメンバー】


■Rocking son of Dschinghis Khan


  • シュテファン・トラック
ルイの後継者だが、本来のメンバーと同等の扱いをする様に求めたり報道関係者への無礼を働く等、尊大なトラブルメーカーであった為に契約解除された。
07年にはロッキング・サンとして残る二人と共に活動するがフェードアウト。
しかし、2018年に復活すると共にヴォルフガングと組んでジンギスカンを分裂させる事態を引き起こしている。

  • ダニエル・ケスリンク

  • エプル・カーヤ
ロッキング・サンでは女性コーラスを一人でこなしていた。


【07年からのメンバー】


The Legacy of Genghis Khan

ロッキング・サンが独立したのに伴い新たに召集された。
個人名でなく役名が存在、欠けたメンバーの代理を務める形になっている。


  • クラウス・カプリート
ルイの後継者。ジンギスカンの長男。

  • コリーナ・グンツェル
戦斧を操るジンギスカンの長女。

  • ベンジャミン・スクーベル
ジンギスカンの次男。何故かジャック・スパロウ風メイクのイケメン
ルイには及ばないがステージの全てをパフォーマンスの範囲とする。

  • ターナ・ミューラー
  • エフィ・ヴァイガント
異国の王女。
ジンギスカンのお気に入り(寵妃)。
途中でエフィに交代となった。

  • トーマス・グラベル
  • シュテファン・ソーター
ジンギスカンの勇猛な戦士。
途中でシュテファンに交代となった。

  • アッティラ・マリオ・ディアロ
スティーヴの後継者。
ジンギスカンとの戦闘で捕虜になった後で友となり、今は共に戦う黒人の戦士。
ダンスは苦手なのでボーカル専門。

  • アンジェリカ・ニンバフ
の達人の勇猛な女戦士。
残念ながら08年にはフェードアウト。


【楽曲】


『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』に代表される様にドイツ以外の異国を舞台とした楽曲が多い。
何れも全員でウッ! ハッ!とやっているド派手で見た目にも楽しいパフォーマンスを含む。

『サムライ』の様に、如何にも外国から見た日本という間違った世界観で作られた楽曲もあるが歌詞は真面目で大河的で壮大で熱い内容の曲ばかりである。


【日本語版】


前述の様にジンギスカンとはチンギス・ハーンのことなのだが、かつての日本では食べ物のジンギスカンに掛けた飲めや歌えやの酷い日本語版がリリースされていた。
有名な曲だけに日本だけでも真面目なのからふざけたものまで非常に多くのアーティストにカバーされている。

2023年に、ファイターズガールがまともな歌詞のをリリースしたのが現在の所は日本での最後のカバーとなっている。





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最終更新:2025年04月20日 10:55

*1 スティーブの脱退以降はルイにもボーカルパートが与えられたり、衣装も奇抜なものから落ち着いた物へと変化するなど、派手な衣装やダンスで魅せるより、ボーカルで聴かせるグループへ移行しようとしていたようである。特に『ローレライ』はその傾向が顕著に出ている

*2 これは表向きの理由で、実際にはプロデューサーらとグループ内の将来性や給与面の意見の相違等があったともされる