大いなる眠り

登録日:2019/10/09 Wed 4:47:54
更新日:2024/12/05 Thu 20:39:57
所要時間:約 24分で読めます






私立探偵フィリップ・マーロウ

三十三歳。独身。


ロサンジェルス地方検事局元捜査員。

部屋半のオフィスをダウンタウンに構え、

命令への不服従にはいささか

実績のある男






THE BIG SLEEP(大いなる眠り)




【概要】


大いなる眠り』とは1939年に出版された探偵小説。著者はレイモンド・チャンドラー
チャンドラーの代表作とも言えるフィリップ・マーロウシリーズの記念すべき第一作である。
そしてサム・スペードやリュウ・アーチャーに並ぶ世界三大ハードボイルド探偵の1人であるフィリップ・マーロウの初登場作品。

20世紀前期のアメリカを舞台に私立探偵フィリップ・マーロウが裏社会に立ち向かっていくストーリー。
金、女、酒、暴力、ドラッグと退廃的な作風が特徴。
まあハードボイルドってそういうものだけど。

マーロウのハードボイルドに徹したキャラクター性は評価が高く、現在に至るまで世界中で高い人気を誇る。
ある意味シャーロック・ホームズと対をなす探偵小説と言える。

ちなみに「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだぜ」はこの作品が元ネタ。……一応(後述)。


【あらすじ】


十月半ばのある日、ほどなく雨の降りだしそうな正午前、マーロウはスターンウッド将軍の邸宅に訪れた。将軍は、娘のカーメンが非合法の賭場でつくった借金をネタに、ガイガーなる男に金を要求されていたのだ。
マーロウは話をつけると約束して、さっそくガイガーの経営する書店を調べ始める。「稀覯本や特装本」販売との看板とは裏腹に、何やらいかがわしいビジネスが行われている様子だ。やがて姿を現したガイガーを尾行し、その自宅を突き止めたものの、マーロウが周囲を調べている間に、屋敷に三発の銃声が轟いた――
(早川書房版『大いなる眠り』より引用)


【登場人物】


◆フィリップ・マーロウ
本作の主人公。某魔少年の名前の元ネタにして、おやっさん曰く「男の中の男」。
元は地方検事局で捜査官をしていたが、命令違反で免職となりロサンゼルスで私立探偵を開業した。
トレンチコートと帽子がトレードマークの長身イケメンであるらしい。

金や女に流されず常に自分のポリシーを貫こうとし、悪には屈しないというダンディな正義漢。さらに女性には紳士的でどんな事態にも動じない落ち着いた姿勢から、作品内外多くの人間から高い人気を博している。
というかマーロウシリーズの人気の9割は彼によるもの
何気にハイスペックでありかなり文武両道。特に運動能力が高く、不意打ちでも食らわない限り喧嘩では負け知らず。この頭脳ではなく肉体で事件を解決する彼の姿勢はハードボイルド探偵の元祖となった(正確にはサム・スペードが先だが)。
片付けだけは苦手でありいつも散らかっている。本人曰く「海辺のテント暮らしよりはマシだろう」とのこと。

今作のマーロウは意外と茶目っ気があったり、美女の生足を眺めて喜んでいたりと次作以降のマーロウと比べるとやややんちゃで若々しい。
鳴海荘吉のようなクールガイよりかは冴羽リョウコブラのような気さくなおじさまという感じ。

◆ガイ・スターンウッド
依頼人。通称将軍。
昔は名のある将軍であったが現在はもう老いぼれたおじいさんである。もう寿命があとわずかであることも自覚しているらしい。
2人のやんちゃな娘の行く末だけが心残り。

◆ヴィヴィアン
将軍の娘。ヒロインその1。
マーロウシリーズおなじみのお嬢様ヒロイン。妹に比べるとまだマトモだが、彼女も彼女で大のギャンブル好きだったり、裏社会と繋がっていたりとかなりやんちゃな娘である。

◆カーメン
将軍の娘。ヒロインその2。
マーロウシリーズおなじみの(ry。ある意味今回の元凶。精神年齢がやたらと低く、子供のような無邪気な言動が目立つ女性。その癖出会った男性をすぐ誘惑しようと考えるセックス大好きのビッチでもある。
そして本作を代表する屈指のキ〇ガイでもある。

◆ラスティ・リーガン
ヴィヴィアンの夫。現在は失踪していて行方がつかめていない。元酒の密売者*1

◆エディ・マーズ
ヤクザ。違法カジノを取り仕切っているその筋の人。

◆ガイガー
将軍を強請る手紙を送っていた張本人。普段は書店を経営している。

◆キャロル・ランドグレン
ガイガーの同居人。ゲイ。

◆オーエン・テイラー
スターンウッド家お抱えの運転手。海辺で変死体として見つかる。
ある意味本作で最も謎な人。

◆ジョー・ブロディー
マーズの子分のひとり。強請りのプロフェッショナルであり、以前にも将軍を強請っていた。

◆ハリー・ジョーンズ
マーズの子分。一応それなりの役割はあるのだが登場時間が短すぎて登場人物欄に載れなかった人。

◆モナ
エディー・マーズの妻。現在失踪中。

◆ラッシュ・カニーノ
マーズの用心棒兼殺し屋。ある意味本作のラスボス

◆バーニー・オールズ
マーロウの元上司。規則を無視する元部下に手を焼く、検事局所属のベテラン刑事。
優秀な警官だが社会の腐敗ぶりには思うところがあるようで、警官としての規律と正義感との狭間で葛藤する本シリーズの名脇役。そんな彼にとってマーロウは、厄介者には違いないものの憎みきれない存在であるらしく、丁々発止のやりとりを繰り広げつつもなんだかんだで協力しあっている。
続編において身元保証人を引き受けているあたりからも、彼のマーロウに対して抱いた複雑な感情が窺える。
続編『さらば愛しき女よ』『高い窓』に名前のみ登場した後、シリーズ最高傑作と名高い『長いお別れ』(=『ロング・グッドバイ』)にて満を持して再登場。その際にはロス警察の殺人課に出向していた。
他、ロバート・B・パーカーがチャンドラー没後に引き継いだシリーズ第八作『プードル・スプリングス物語』にも登場。


【ストーリー】


10月のある日、マーロウはガイ・スターンウッドという資産家に呼び出された。
最近次女であるカーメンが賭場で借金をしてしまったらしい。それについての請求書が届いた。違法ギャンブルなので当然払う必要はないのだが、スターンウッド家としては表ざたにしたくない。
そこで何とか秘密裏に解決するために彼に白羽の矢が立ったのだった。マーロウは1日25ドルの契約金で了承する*2


話が終わり、屋敷から出ようとするとマーロウは2人の娘に出会った。
1人目は話題の人物であるカーメン。彼女はマーロウにからかうような誘惑するような話し方をし、挙句の果てに抱き着こうとしてくるという変わった娘だった。
2人目は長女のヴィヴィアン。最近夫のリーガンが失踪してしまい、彼女だけでなく将軍も心配しているらしい。
マーロウはリーガンの失踪に僅かな疑問を抱きながらも屋敷を後にする。


マーロウがまず向かったのはカーメンを強請っているというガイガーの経営する書店だった。しかしガイガー本人はちょうど不在だった。
しかしマーロウはその書店が「稀覯本や特装本」の専門店であるにもかかわらず、店員が存在しないはずの書籍を必死に探す姿を見て、裏に何かがあることを確信する。
……そして調査の結果その書店は高級猥褻本の貸し出し図書館、つまり裏社会につながりがあるかもしれない店であるらしい。


その夜、ガイガーの隠れ家を見つけたマーロウは周辺を探っていた。
するとそこになんとカーメンが現れ、ガイガーの家の中に入って行った。そしてその直後、閃光が走り、さらに銃声が轟いた。
マーロウが急いで部屋に入ると、絶命したガイガーと、麻薬の影響か明らかに正気を失ったカーメンが全裸で佇んでいた*3


カーメンを屋敷に送り、ガイガーの家に戻ってきたマーロウ。しかし何故かガイガーの死体は消えていた。その夜、事務所に調査員時代からの友人であるバーニーが訪れる。海辺で死体が見つかったのだが、なんと被害者であるオーエン・テイラーはスターンウッド家お抱えの運転手であるらしい。
スターンウッド家を強請っていたガイガーと、スターンウッド家の運転手の死にマーロウは何とも言えない違和感を感じ取るのだった。


翌朝、事務所に出勤したマーロウを待っていたのはヴィヴィアンだった。今度は彼女のもとに脅迫状が届いたらしい。ガイガーの家でのカーメンの裸体は隠しカメラによって撮影されており、
公表されたくなければ5000ドルを払うように言われたとのこと。マーロウは片手間にだがその件も調査することを約束する。


三度ガイガーの家に訪れ、調査をしているとそこに明らかにガラの悪そうな男たちが現れる。リーダー格の名はエディー・マーズ。ガイガーの上司であり、カーメンが脅迫されることになった違法カジノの経営者であるらしい。
ガイガーが行方不明という状況に一触即発の事態になりかけるが、マーロウの話術で何とか場をしのぐ。そしてカーメンの裸体のフィルムの所有者かもしれない強請り屋である、ジョー・ブロディーの存在を知る。


ブロディーと対面するマーロウだが当然のようにしらばっくれられてしまう。
マーロウは挑発の意味も込め、彼なりにあの夜何があったのかを推理する。
まずガイガーを殺害したのはテイラーである。写真を撮影しようともくろんだのはガイガー。そしてマーズの関係者であるブロディーがドサクサにまぎれて写真を奪いヴィヴィアンを脅迫したのである。マーロウはそう推理した。ただ、今のところ死体を誰が隠したのかは分からない。


根負けしたのかブロディーは暗に自分が脅迫犯であると認め、写真を返そうとアパートの中に入る。しかしマーロウが玄関で待っていると中から銃声が聞こえてきた。
マーロウが駆け付けた時にはもうブロディーは死んでいた人死に過ぎである。……しかし今回はガイガーの時とは違うものがあった。
まだ犯人が残っていたのである。
犯人の青年はキャロル・ランドグレン。ガイガーの同居人であり、恋人(どうも彼らはゲイらしい)。ブロディーがガイガーを殺したと思い込んでおり、敵討ちに彼を射殺したのだった。
……そしてガイガーの遺体を隠したのも彼の仕業だった。


最初の脅迫者ガイガーは昨日死んで、新たな脅迫者ブロディーが今日死んだ。事件は終わったと小切手を渡すヴィヴィアンにマーロウは納得していない。
彼は2人の脅迫者を殺した黒幕はマーズと睨んでおり、事件を決着させたいスターンウッド家が地方検事にかけた圧力をかわし、マーズとカジノで会う約束を取り付ける。


カジノでの2人の会話はどこか噛み合わなかった。話していくうちにマーロウはその理由を理解する。マーズはマーロウの調査内容を、リーガンが駆け落ちした相手を探しているものであると思い込んでいたのだ。マーロウにとっては駆け落ちの話はほぼ初耳である。
エディはせっかくだから遊んで行けと言う。カジノにはヴィヴィアンが来ているという。ヴィヴィアンはエディのカジノの上客だ。賭け事は断ったものの、マーロウは賭場に足を踏み入れる。そこには無謀な賭け方でルーレットに興じるヴィヴィアンがいた。
カジノを去ろうとするマーロウだったが、エディの手下がヴィヴィアンから先ほど儲けた金を脅し取る場面に遭遇し、ヴィヴィアンを助ける。彼女はマーズに何か弱みを握られているらしい。
屋敷へ送り届ける道で、マーロウはヴィヴィアンから事情を聞き出そうとする。ヴィヴィアンははぐらかすためにマーロウを誘惑するが、彼は軽いキスだけで済まし「私はそういうことをするために雇われたのではない」と切り捨てるのだった。


また次の日の朝。事務所に出勤したマーロウを待っていたのは全裸のカーメンだった。それにしても似たもの姉妹だな。
カーメンは何か用があって事務所に来たわけではない。ただマーロウを誘惑したくて、わざわざここまで来たのだった。本当に似た姉妹である。
だがマーロウがそれに応じるはずもなく、むしろ自身の聖地である事務所に全裸で待っていたカーメンにキレて追い出すのだった。

その後の調査中、ハリー・ジョーンズと名乗る男が事務所を訪れた。マーロウをここ数日尾行していた男だ。彼はガイガーのシノギを横取りしようとして死んだブロディーと、そのパートナーだったアグネスの仲間だった。彼はマーズがリーガンを殺した、そして重要な証人の居場所を金次第で教えると言う。
リーガンにはモナという恋人がいたが、マーズが金と暴力に物を言わせて無理矢理モナと結婚した。リーガンはモナと駆け落ちし、今は行方を眩ませている事になっているが、実際はエディの手下であるカニーノ一味に軟禁されているのだという。その居場所を、アグネスが知っている。
興味を持つと同時にハリーを気に入ったマーロウはスターンウッド将軍から支払われた報酬の一部をハリーに支払うことにした。

しかしハリーが指定した場所にやってきたマーロウは、ハリーがカニーノに消される所を目撃する。そして情報を持っているアグネスにも危険が迫っている事を知る。
マーロウはアグネスと接触し、ハリーに渡すはずだった金を渡す。そして逃げるように忠告した。

モナの居場所は山奥の工場。同時にカニーノたちのアジトだった。マーロウは旅人を装ってアジトに潜入するが、正体がバレていたらしく不意打ちを食らって気絶してしまう。

マーロウが目を覚ますと倉庫で縛られており、傍らには銀髪の女性がいた。彼女こそがモナであるらしい。マーロウは彼女のプラチナのかつらを見て「銀色の髪(シルバー・ウィグ)」と呼ぶ。
彼女は良心的な人物であるらしく、マーロウが逃げる手伝いをしてくれた。自分の手助けをした以上、いっしょに逃げないと危険だというマーロウだが、彼女は断り続けた。
彼女が言うには自分とマーズは愛し合っているので逃げる必要はないらしい。ドンマイリーガン。
マーロウは彼女の顔に柔らかくキスをすると、倉庫から出ていった。


その後生かしておいては危険であると、マーロウはカニーノとの再戦に臨む。実は彼はマーズ直属の殺し屋であるため、ただ戦ったのではではマーロウの方が分は悪い。
しかし自身のフェイクを用意するという奇策によってカニーノは銃殺されるのだった(初期とはいえかなり珍しいマーロウの発砲&殺害シーン)。


その次の日、マーロウは将軍に呼び出されていた。依頼もしていないリーガンの捜索を勝手にやっていたことに難色を示したのだった。
しかしマーロウは「自分も実はリーガンに騙されているかもしれない」という不安を抱いていた将軍の心中を当てることで信頼を得る。
結局リーガン捜索を正式な依頼として受け取るのだった。























将軍との話も終わり、帰ろうとしたマーロウは庭でカーメンと出会う。銃を取り上げたままであることを思い出し、返却するマーロウだがそこでカーメンはいきなり「銃の撃ち方を教えてほしい」と言い出した。渋るマーロウだが、カーメンは敷地内にちょうどいい油井があるとして強引に連れて行った。
油井で銃を手に取るカーメン。すると彼女は唐突に豹変する。

カーメンはいきなりマーロウに対して発砲を始める。


銃弾は5発。しかしマーロウはそれを見越しており銃弾を全て空砲にしていた。
撃ち終えたカーメンは正気を取り戻すが、発砲中の記憶は全て抜け落ちていた


それから少ししてマーロウはヴィヴィアンに呼び出されていた。お互いカーメンについて話があった。
マーロウは残酷な真実を告げる。カーメンは心の病気を患っていると。精神が狂気に蝕まれており、銃を持つと人に向かって発砲したくなってしまうのだ。銃の撃ち方を教えようとしたときに唐突に豹変したのもそのためだった。


さらにマーロウはそれを踏まえて今回の事件の推理を始める。
まずすべての発端として、リーガンは失踪したのではなく、殺害された。そしてリーガンを殺したのはカーメンだった。カーメンはリーガンを誘惑していた。そして銃の撃ち方をカーメンに請われ、リーガンは油井で教えようとする。しかしマーロウの時と同じくカーメンは発狂する。そして狂気のままに発砲しリーガンを射殺し、油井に埋めた。
それにまず知ったのはヴィヴィアンだった。彼女はこの事実を隠蔽できないかとマーズに相談する。それをネタに将軍を脅迫できると考えたマーズは了承。手下のガイガーを使ってまずは将軍がどの程度真実を知っているか、というジャブをかけるつもりで脅迫状を送ったのだった(そして事件のことを一切知らない将軍はマーロウに相談した。これが冒頭の場面)。
さらにマーズは「リーガンはすでに死んでいる」と世間に考えさせないために、あえてモナを隠れ家に連れ込んだ。そうすることで「リーガンはモナと駆け落ちして雲隠れした」と思わせられる。


ヴィヴィアンがこの真実を隠蔽したがったのは死期の迫る父に伝えるわけにはいかないと考えたからだった。
マーロウはカーメンを3日以内にどこか遠くの土地に隔離するように説得する。それをやらないつもりであればすべての真実を警察に話すと。
そしてヴィヴィアンにマーズのことはこちらでなんとかする、そして将軍にはリーガンは見つからなかったと言うと約束し、スターンウッド邸を去った。


【解説】


◆執筆経緯


チャンドラーが小説執筆を始めたのは40代半ばのころ。中年に差し掛かった彼が創作を始めたのは単純に金が無かったからだった。大恐慌の影響や女性関係のイザコザのせいで安定した職もなく、明日も見えぬチャンドラーには小説でも書いて一発当てるくらいしか道は残されていなかった。

チャンドラーがまず手を出したのはパルプマガジンだった。パルプフィクションとも呼ばれ成田良悟とかでお馴染みのアレ。安物の合成紙を使った低額な雑誌である。
ほぼ素人でもデビューできるということもあり彼にはうってつけだった。
実際チャンドラーにはそれなりの才能があったのか、すぐに評判もよくパルプマガジンの花形作家になったらしい。

しかしチャンドラーは売れたら売れたでまた新しい問題に悩むことになる。
雑誌の仕組み上、小説家としての腕が上がり創作意欲が高まったとしても、それはパルプマガジンに受け入れられないため書くことが許されなかったのだ。

パルプマガジンは言ってしまえば当時の文学界のアングラであったため、小説家側にはかなりの制約が課せられた。
まず原稿料がとんでもなく安い。その上それなりに早いペースで書けない作家はすぐに打ち切りを食らってしまう。作家は前述の通りほぼ独学のアマチュアがほとんどだったため文句を言える立場でもない。
内容面でも制限がかけられていた。テーマはミステリー、SF、ホラーなど(当時としては)娯楽性の高いもののみに限定され、情景描写や心理描写など複雑なものは入れられず、結末も分かりやすくなければならない。要するに安易だが分かりやすいエンタメものしか書けなかった。さらに筋もテンプレなものが推奨され、あまりに外れたものは編集者から大幅な修正を強制される。
まあ現代で言うと某大手WEB小説サイトをさらに世紀末にしたようなものである。

その制約に苦しんだチャンドラーは結局、自身の作風そのままにのびのびと執筆を出来る文学界に飛び出すことになる*4

そうして1939年、チャンドラー51歳にしてマーロウシリーズの第一作「大いなる眠り」が発刊された。ちなみにチャンドラーはほぼ3か月で本作を完成させている。パルプマガジン時代の筆の速さがものを言ったというのもあるだろうが、実は「大いなる眠り」は彼が前から書いていた短編小説の筋を引用しているところが多々ある
過去作の組み合わせではあるが、それでいて今までのチャンドラー小説に無いものは奥行きだ。パルプマガジン時代には「制約」により書けなかったであろう、洒落た表現や何よりマーロウのハードボイルドさをはじめとした個性的なキャラクターがふんだんにえがかれている。
つまり「大いなる眠り」は、今まで書きたいものを書けなかったフラストレーションを存分に発散できた一作ということになる。
そりゃ楽しくて筆なんていくらでも進んだだろう。

このような経緯から生まれたのが世界でもっとも有名なハードボイルド小説の一角である「大いなる眠り」である。


◆本作の評価


筋の破綻や矛盾がそこそこあると言われている
これに関してはチャンドラー大好きの村上春樹含めた大体の読者が認めている。

筋は上で書いたように「入り組んでいる」と言えば聞こえがいいが、ただグダグダなだけであるとも言える。
特に言われているのは
  • 事件が絡み過ぎてどれが主軸であるのかわかりにくい。
  • ラストでまとめようとしているが事件同士の結びつきが薄く、とってつけたような印象がある
  • カーメンが狂人であることは早い段階から明かされていたが、それでも「銃を持つと撃ちたくなる」は唐突ではないか
  • 割と唐突にヒロインみたいなポジションになったモナ*5
  • マーズがラスボスっぽく振舞っているが、発端から見直していくとそこまで事件の中心人物というわけではない*6
  • 一応殺人犯であるはずのランドグレンと、殺人被害者であるテイラーが正直端役でしかない。
  • というかテイラーってなんで死んだの?

テイラーの死について本作の映画化にあたったハワード・ホークスがチャンドラー本人に電報を打ったところ「私は知らない」と帰ってきたという逸話がある。おいおい……
その映画で主演を務めたハンフリー・ボガートが公園でボートを漕いでいる時に「運転手はどうなったの?」と聞かれた際、誰に言うともなく「俺だって知らねえよ」と漏らしたとも言われる。

全体的にプロットの詰めが甘く、若干行き当たりばったりな所は否めない。

ではこの作品のどこに面白さがあるかと言われれば、言い回しのオサレさとマーロウのキャラクター性である。

まず本作は文体が面白い。文体は後述のハードボイルド小説をしっかりやっているわけでもないが、それでも淡々とした文体は評価が高い。描写も生き生きとしており、飾り気のない文体ながらも風景の奥行きが伝わる文章は読んでいて楽しいものがある。
また要所要所でのクスリと笑える洒落の利いた文章もあり、このオサレさを直に楽しみたいからとわざわざ英語を学ぶ者がいるくらいである

そしてもうひとつがマーロウのハードボイルドなキャラクター性である。
村上春樹曰く「ロサンジェルスのダークサイドを歩く、シニカルで優しい孤独の騎士」。
冷静沈着だが、困っている人間には手を差し伸べ、曲げることない正義のポリシーを持った男。このキャラクター性はアメリカのヒーロー、もしくは全く新しい探偵像として今なお世界中で人気を誇っている。
というかおやっさんや翔太郎も認める男の中の男である。
間違いなく本作の面白さはフィリップ・マーロウ自身によるところが大きいだろう。

つまり本作の評価としてはストーリーとしてはガバガバな部分が多いが、素晴らしい言い回しのオサレさとキャラクターの魅力という面白さが上回っているというところだろう。


◆ハードボイルド探偵として


さてこんな経緯で生まれたフィリップ・マーロウであるが彼はサム・スペードやリュウ・アーチャーに並ぶハードボイルド探偵の御三家と呼ばれることになる。

ここではハードボイルド探偵というジャンルについて解説しよう。
ちなみに「ハードボイルド」「ハードボイルド探偵」「ハードボイルド小説」は意味がかなり被っているが一応3つとも別の言葉である。

定義としては「ホームズのような思索を巡らせる探偵ではなく、行動し自らの肉体で事件を解決する探偵」というようなものである。
ストーリーを見れば分かる通りマーロウは基本的に殆ど推理をしない。自分の足で稼ぎ、時にはチンピラとの戦いに勝利し堅実に情報を集めていく。
そして集めた情報を基にして真実を導き出すだけである。
これがチャンドラーのつくった今までにない新たな探偵像だった。

要するにハードボイルド探偵というジャンルは複雑なトリックを解くのを楽しむというわけではなく、探偵役の派手なアクションやかっこいいキャラクター性を楽しむものであるということ。
飽くまで「ミステリー」というのは枠組みに過ぎず、フィリップ・マーロウのアクションによるかっこよさが「大いなる眠り」の醍醐味であり魅力なのである。

その上で「ハードボイルド」と「ハードボイルド小説」の意味やつながりを説明しよう。

「ハードボイルド」の意味は「感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的・肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格」である。つまりおやっさんとか次元みたいな人のことを指す。
そして前述の通り生き様を楽しむのがハードボイルド探偵だがこの時代のかっこよさとはやはりこのハードボイルドな男が主流であった。ちなみに源流は西部劇のガンマンらしい。

もうひとつ「ハードボイルド小説」の意味は「感情を交えず淡々とした文体をもつ小説」のこと。有名どころと言えばやはりアーネスト・ヘミングウェイの『殺し屋』だろう。この作品の地の文は誰かの視点に寄り添ったり考察的なことを述べたりせず、まるで物語内にあるカメラから撮った映像をそのまま文にしたかのように淡々としている。ようするにハードボイルドな文体ということ。
ハードボイルド探偵御三家の「マルタの鷹」はまるで報告書のように淡々とした文体である。

このように「ハードボイルド」「ハードボイルド探偵」「ハードボイルド小説」の3つの言葉は意味が被るところが多い、
と言うよりも「ハードボイルド探偵」から派生して2つの言葉が誕生したと言えるだろう(ハードボイルドとハードボイルド探偵は卵が先か鶏が先かなところがあるが)。

余談だがハードボイルド探偵は社会派ミステリーの先駆けではないかという考察がある。
社会派ミステリーというのは「トリックを使うなんてリアリティがない」というミステリーであればどうしても発生しうる問題に対して、動機や人間関係を主軸にして対処したタイプの作品のこと。
これに対しハードボイルド探偵というのは前述の通りトリックは重視されておらず、作品としても人間関係を扱ったものが多い。また探偵役の生き様を魅せる作品である以上トリックは複雑にしなくてもよく、簡易的なものであるためリアリティを保ちやすい。
またマーロウ自身「大いなる眠り」の中で以下のような発言をしている。

私はシャーロック・ホームズでもないし、ファイロ・ヴァンズでもありません。警察がすでに調べ終えた場所に行って、壊れたペン先を見つけて、そこから事件をするすると解決するなんて芸当はとてもできません。そんな具合に仕事をする探偵が職業として実在すると、もし考えておられるなら、それはあなたが警官のことをあまりよくご存じないからです。もし仮に警察が何かを見落とすとしても、その手のものは見落としません。本腰を入れて仕事をすることが許されるなら彼らが見落としをするようなことはそうそうないはずです。しかしもし彼らが見落としをするとなれば、それはもっとあいまいで、とらえどころのない物事についてです。

この「あいまいで、とらえどころのない物事」ことがマーロウたちの立ち向かうべき部分であり、それがハードボイルド探偵に出来ることなのである。


◆撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだぜ


ルルーシュ・ランペルージ鳴海荘吉で有名なこの台詞。これの元ネタはマーロウの言葉。

まずこの台詞がどこにあったかというと、上のストーリーで言えばマーロウがカーメンに銃を返したところでした忠告の言葉ということになる。

原文はこうなっている。
don't shoot it at people, unless you get to be a better shot. Remember?

さて、これを読んで勘の良いものは気が付いただろう。

原文と訳文、全く意味違くない?」と。

そう実は「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだぜ」という言葉は誤訳である(最大限好意的に解釈すればかなり意訳を含んだ言葉と言えなくもない、程度)。

ざっくり直訳すると「うまく撃てるようになるまでは人に向かって撃つな」ということになる。
実際に、双葉十三郎版では「もっと腕前が上がるまで、ひとさまに射っちゃいけないぜ。いいかい?」と訳され、
村上春樹版では「ただしもっと射撃がうまくなるまで、人を撃つのは控えた方がいい。それが忠告だ。覚えたかい?」と訳されている。
要するに原文では「技量」について言及していたのに対し、こちらは「覚悟」について言及している。
その上で「技量」と「覚悟」どちらが物語的に正しいかと言えば「技量」である。
というのも上述の通りこの後発狂したカーメンはマーロウに対して発砲するが、「技量」が無かったために渡された銃が全て空砲であることに気が付けなかった。
マーロウはこの事態を見越して皮肉として言っていたのでやっぱり「技量」が正しいことになる。

「撃っていいのは~」という訳が登場したと言われているのは「大いなる眠り」の初の映像化作品「三つ数えろ」の日本語版字幕であるという文章が長らく当wikiにも記載されていたが、実際は原作で該当するシーンが映画に存在しないため「三つ数えろ」にも当該訳は出てこず、出典ははっきりしていない。

当該訳がどこからきたものなのか、そして誤訳なのか、あるいはかなり強めの意訳なのかは今はもうわからないが、
良いか悪いかは置いておいて、オサレでかっこいい。それがこの言葉の全てだろう。撃たれる覚悟が無ければ撃ってはいけない台詞、かなりのセンスが無ければ思いつかない。とにかくかっこいいのだ。
そして何より訳としては他の翻訳家のものではなく「撃っていいのは~」が一番有名であるというのも事実である。







いったん死んでしまえば、自分がどこに横たわっていようが、気にすることはない。汚い沼の底であろうが、小高い丘に建つ大理石の塔の中であろうが、何の変わりがあるのだろう? 死者は大いなる眠りの中にいるわけだから、そんなこといちいち気に病む必要はない。石油や水も、死者にとっては空気や風と変わりない。ただ大いなる眠りに包まれているだけだ。

どんなに汚れた死に方をしようが、どんなに汚れたところに倒れていようが、知ったことではない。この私と言えば、今ではその汚れの一部となっている。ラスティー・リーガンよりももっと深く、その一部と化している。

しかしあの老人がそうなる必要はない。彼には天蓋付きベッドに、静かに横になっていてもらおう。その血の気のない両手はシーツの上で組まれ、ただ時が来るのを待っている。彼の心臓は短く不正確なつぶやきだ。彼の考えは灰のように色を失っている。ほどなく彼もまた、ラスティー・リーガンと同じ、大いなる眠り(THE BIG SLEEP)に包まれるだろう。


ダウンタウンに向かう途中、バーによってスコッチをダブルで飲んだ。酒は助けにならなかった。それはシルバーウィグのことを私に思い出させただけだった。そのあと彼女には一度も会っていない。



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最終更新:2024年12月05日 20:39

*1 当時のアメリカは禁酒法時代

*2 当時の円ドル相場は1ドル=約2.5円、当時の1円は現在の約2万円なので、約125万円ほどと思われる

*3 その後マーロウが適当に衣服だけ着せてあげた。下着は「自分がつけてあげる姿が想像できない」とか言って放置した

*4 少なくとも当時のチャンドラーは「ゲテモノ」な作風とされていた。実際評論誌に掲載されることはほとんどなかった。

*5 流石に無理があったのか『三つ数えろ』では彼女は登場せず、役割をヴィヴィアンが請け負っている』

*6 『三つ数えろ』では明確にラスボスポジになった