征夷大将軍(江戸幕府)

登録日:2016/09/12 Mon 11:20:36
更新日:2025/03/26 Wed 11:32:54
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征夷大将軍とは、奈良時代に制定され、鎌倉時代以降は「武家の総大将」として位置づけられるようになった官職。

この項目では、江戸時代徳川家康が初代となり15代続いた徳川家の将軍について説明する。
なお家康が拓いた幕府は彼が城を置き息子秀忠に託した街から、後世では「江戸幕府」と呼ばれている。

鎌倉幕府はこちら→征夷大将軍(鎌倉幕府)
室町幕府はこちら→征夷大将軍(室町幕府)

◆概要

徳川家の将軍は日本の実質的代表として、また関東各所や大阪・佐渡等ざっと約400万石と言われる領土を治める日本最大の大名としてその権力を振るっていた。

ちなみにこの時期の将軍は「公方様」、「大樹公」の尊称で呼ばれていたという。

前時代の足利家の将軍との最も大きな違いは、継承権順位が厳密に定められていたため致命的な争いが起こらなかったことである。
家康・秀忠の時代に「徳川宗家(秀忠直系の家系)が絶えた場合、家康の子らが初代となった御三家の尾張藩主か紀州藩主が継ぐ*1」と制定され、実際に直系が絶え紀州徳川家の吉宗が8代将軍となった後、すでに宗家との親等が大きく離れていたことから自身の血統で固めていくために江戸に吉宗・家重の子が初代の「御三卿」(屋敷の所在地から俗に一橋・田安・清水家と呼ばれた)が制定された。
…まあ14代将軍決定時のごたごたなど「後継者候補および周りの連中による争い」はあったし、江戸時代後半では徳川一族同士で養子の出し合いになっていたようだが。
それでも室町時代の「応仁の乱」クラスの争いが起こらなかっただけ、十分平和であったと思う。
余談だが、徳川宗家前当主である徳川恒孝氏は会津松平家の分家出身(ただし、男系血筋は水戸系(=家系図で実父のみを辿ると頼房に行きつく))のため江戸期の継承ルールに従えば、宗家の継承権は無い。

最高権力者である徳川家の将軍の「諱の漢字」は「偏諱」・「賜諱」とも言われる慣例の一環として*2、徳川・松平一門や「松平」の名誉姓を授けられた一部大名(および世継ぎ)に授けられていた。
このため寿命が長かった家斉の時代には「斉~」が付く大名が多数現れたり(島津家・鳥取池田家では3代続けて「斉~」な藩主が続いた)、家茂から「茂」の字を授かった者の中で官軍側となった島津・鍋島両当主が「茂」の字を維新後取りやめたりした。

また家康や吉宗といった「絶対的権力者」として振舞う将軍がいた一方、家治や家定のように老中達やその時々の寵臣に政治のメインを任せていた(ないし歳の若さや病弱さにより任せざるを得なかった)将軍もいた。

●目次

◆将軍総覧


・初代将軍:徳川 家康(いえやす)

在位:1603年~1605年
詳細は該当項目を参照。
言わずと知れた江戸幕府開祖にして、豊臣を滅ぼし日本を制した狸親父。
1600年の関ヶ原での勝利により天下人となり、3年後朝廷から将軍に任じられた*3のだが、わずか2年後に徳川家による将軍位の世襲化を世に示すため、三男の秀忠に地位を譲り、以降は「大御所」として幕府の指揮を執っていた。
そのため歴代徳川将軍の中で在任期間の短さ(それと寿命の長さ)は末代将軍となる慶喜に次いでいる。

・2代将軍:徳川 秀忠(ひでただ)

在位:1605年~1623年
長兄・信康が粛清され、次兄・秀康が秀吉の所に追いやられた(?)ため後継者となり、幕府創始から2年後に父から将軍位を譲られて将軍となった家康の3男。
父親が偉大すぎて影に隠れたり、真田家絡みだとかませ犬になったりと良い話が少ないが、彼の治世で「幕府制度」の土台が確定したことは確か。
家康も武勇に優れ血気に逸る他の息子ではなく、治世の安定のために比較的温厚な人柄の秀忠を選んだとも言われる。
ただし、旧豊臣家サイド等の「外様大名」に対しては厳格に接し、身内や功臣でも駄目な時は容赦なく改易する等、決して手緩い真似はしなかった。

ちなみに恐妻家だったらしく、正室の「江(小督(おごう)、お江与の方、崇源院)」に隠して唯一浮気して生まれたのが後の会津松平家開祖「保科正之」だったという。
ただし、さすがに最高位の武士である将軍程の人物が側室を置かなかったというのは考えにくく(本人達が嫌がっても周囲が認めないだろう)、後世の創作ではないかとも言われる。
遺骨が調査されている将軍の一人であり、背は高くないが筋肉質複数箇所の銃創の痕跡が見つかっている事から自ら最前線に出て指揮を執る勇敢な一面を持っていたと推測されている。


・3代将軍:徳川 家光(いえみつ)

在位:1623年~1651年
江戸幕府で唯一「将軍の正妻」から生まれ、乳母「春日局」(稲葉家夫人)に可愛がられた3代将軍。
そのため家康と春日局の間に出来た子供だ、などと言われることもあるが俗説に過ぎない。
また「両親は弟・忠長のほうを次期将軍にしようとしていたため、春日局が家康に直談判して家光を後継者に定めてもらった」という有名な逸話があるが、これはあくまで後世の創作である*4
両親からは次期将軍には厳しいと思われていたのは確かだが、これは生まれつき体が病弱だったため。
この頃までは「長男が家督を継ぐ」という概念がまだ確立していなかったのも原因である。

将軍就任時、大名らに向けて「祖父の天下草創は、各の自力を以てなり、又父も昔は各の傍輩たり、(中略)、然るに、我代に及びては、生まれながらの天下にして、今まで二代の格式とは替わるべきなり(現代語訳:家康は諸君の力を借りて天下を取り、秀忠も諸君らの仲間だった。しかし自分は生まれながらの将軍である。よって今後は諸大名を家臣として従えて治世を行う)」と宣誓したという逸話でも有名。
彼の代で「鎖国」「参勤交代」など江戸時代の大きなルールが制定された。
また彼の代から「摂家から正室を貰う」と言う慣習が作られ、大奥に多くの側室が置かれるようになった。
どうも本人は正室と不仲だったらしく、そもそも若い頃は女性にあまり関心を示さなかったためか「家光ショタコン説」なるトンでも話もあったりする。
その正室の27歳年下の弟が姉を頼りに下向した際はえらく歓迎し、紀州家との縁を取り持った(鷹司松平家)。孫の代になって大名に列し、江戸時代唯一の「公家→大名」の転身となった。

なお、お忍びで市中を徘徊することも結構あったらしい。
はじめは刃傷沙汰や辻斬りもやらかしたことがあり、柳生宗矩が兵法と剣術の指南役となり家光を指導。柳生新陰流を開いた宗矩は自ら提唱した「活人剣」を教え、むやみに人を殺さず人を活かすよう覚えさせた。
そのため、彼を主役として扱った時代劇として『将軍家光忍び旅』がある。


・4代将軍:徳川 家綱(いえつな)

在位:1651年~1680年
父が早くに死んだため、わずか11歳で将軍となった家光の嫡子。
他人を気遣ったり、細かい事に気配りをしたりと心優しい人物であったらしい。また、釣りや絵画が趣味であった。
浪人の増加による治安悪化をきっかけとして先代までの武断政治から文治政治への政策切り替え、「寛永の大飢饉」と呼ばれる大不作が起こった反省から、農業の興隆政策や海運の興隆政策等が取られていた。

しかし大奥があっても男子が出来ず、最晩年に後継者争いが勃発。
中には鎌倉幕府に倣って「徳川家の血が入っている皇族を後継者に」なんて話も出たが、結局は弟の綱吉が継ぐことになった。


・5代将軍:徳川 綱吉(つなよし)

在位:1680年~1709年
春日局の養子「堀田正俊」*5に薦められ将軍となった家綱の弟(家光の四男)。
学問が好きで母親孝行で…とここまでは良かったのだが、「松之廊下刃傷事件の裁定*6」・「側用人柳沢吉保に対する極端な寵愛*7」など駄目話が目立ち、
行き過ぎたトンでも動物愛護法「生類憐みの令」のせいで「犬公方」等と後世で謗られるようになった。
更にフィクションでも『水戸黄門』のモデルと成った従叔父徳川光圀との対比や忠臣蔵絡みから、あまり良い扱いになっていなかった。
一方で彼の治世である『元禄時代』は文化・経済が興隆した時でもあり(同時代人は松尾芭蕉など)、近年では「学問好きなぶん平和的な政治をしたんじゃね?」等と褒める声も存在する。
実際に元禄4年と同5年に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは自著『日本誌』にて「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」と評価している。

また悪法と言われる生類憐みの令だが、戦国期以来のヒャッハーな風潮を糺すためだったという評価もある。
しばしば動物のためだけの狂った政策のように強調されて描かれて叩かれるが、その実は病人や子ども・老人といった弱い立場の人間の保護が含まれている。
生類憐みの令について「徳川実記」「折たく柴の記」によれば、家宣が廃止すると宣言し、吉保も廃止に賛同したとあるのだが、『楽只堂年録』によれば、家宣は「いずれもあひ守り、断絶なきやうにすべし」としながらも、罰則を無くして罪人が出たり経済的負担が増えたりしないようにしたとある。
ただしこれが原因で処刑されている人もいることや(更にそれを批判しただけでも改易や処刑コースという現代で見ると真っ黒な言論弾圧)、綱吉が亡くなったら即刻改変されたことからも清く正しい法と言い切ることは難しいだろう。
なお殺生である鷹狩りは、徳川吉宗が8代将軍になったのちまで復活することはなかった。

余談であるが綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もあるという指摘がある。
具体的には、
  • 元禄8年頃から始まる奥州の飢饉
  • 元禄11年の勅額大火
  • 元禄16年の元禄地震・火事
  • 宝永元年前後の浅間山噴火・諸国の洪水
  • 宝永4年の宝永地震・富士山噴火
  • 宝永5年の京都大火
などである。
当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っており*8
次政権の新井白石は、元禄8年以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評している。
これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰のためである。
実際には先述のように元禄期は文化・経済が栄えており、貨幣改鋳は当時の貨幣不足な社会状況の中で必要とされていた政策だったと見直す意見が出ている。
実際、当時の名目インフレ率は3%であり、商人の投資傾向の増加により貨幣流通量が増えたことから景気拡大政策としては成功していたと言える。*9

彼もまた子宝に恵まれず、生まれた男児も夭逝したため、甥(兄の綱重の息子)の家宣が後継者となった。
その死については異論があり、女絡みで刺殺されたと書く資料も存在するが、近年の研究では麻疹とも、餅を喉に詰まらせたことが原因の窒息死であるとも言われている。

なお、身長124cmだったという説も存在し、当時の成人男性の平均身長は155㎝で、これが事実なら笑い事にならないレベルのちっさいおっさんだったという事になる。
理由としては、愛知県岡崎市にある大樹寺に慶喜を除く将軍14人の位牌があり、家宣・家重・家慶・家茂の4人については位牌の大きさと東京都港区の増上寺にある遺体の実測身長が概ね一致していたため、他の10人も位牌の大きさ=身長ではないか? と推測したというものである。
だがこれも上記のケンペルが直接会ってるにもかかわらず立派な体格だったとしか書いてない*10ことや、当時これでもかと巷に溢れていた綱吉の各種悪口の中に身長の話が全く出ていないことからも、綱吉幼女説以上の話にはならないとされる。
そもそもこの説は後述の家継や吉宗の身長に関してもツッコミどころのあるトンデモ説である


・6代将軍:徳川 家宣(いえのぶ)

在位:1709年~1712年
元甲府藩藩主で、綱豊と名乗っていた。
かつて家綱の後継者争いの時に、綱吉とともに将軍候補に挙がるも敗れたという過去を持つ。*11
家綱の弟で綱吉の兄である徳川綱重の子であり、先代の綱吉及び先々代の家綱どちらから見ても甥にあたる。
学者「新井白石」や、甲府時代の家臣から譜代大名に出世させ老中にした「間部詮房」を腹心として堅実な外交政策(朝鮮との交流など)や経済政策を行った。
しかしわずか3年で他界。幼子が後を継いだ。


・7代将軍:徳川 家継(いえつぐ)

在位:1712年~1716年
わずか5歳*12で将軍となった家宣の嫡子。新井白石を始めとした、父の遺臣が引き続き補佐をしていた。
しかし、彼もわずか3年で儚く命を落とした。

ここに徳川宗家は絶え*13、いよいよ「御三家」から後継者が選ばれる事になった。
ちなみに前述の綱吉の身長124cm説によれば、彼の身長は135cmだそうである。記録の残る明治35年の日本全国の身長測定結果では、彼と同じ6歳の男子平均身長は106.9cm。
この説を本気にするなら明治35年の12歳男子の平均身長133.7cmすら超えており、小学一年生にして中学一年生よりも身長が高いことになるのだが、彼がそんな巨人症だったなどという記録は残念ながらない。


・8代将軍:徳川 吉宗(よしむね)

在位:1716年~1745年
元々は紀州家の4男に生まれ、分家して松平頼方の名で越前国葛野藩主を務めていた。
しかし、親兄弟が次々に急死した事で急遽紀州家を継承、(親兄弟の葬儀代で)借金塗れの上、地震や津波の被害でガタガタだった紀州藩の財政を見事立て直す。
このときに5代将軍綱吉から「吉」の字を授かり「吉宗」と改名。その後将軍家が絶えた事で宗家の継承者となった幸運児*14

農政を重視し
  • 質素・節約生活を奨励した『享保の改革』
  • それに伴ってのサツマイモの全国普及方針
  • 「目安箱」「御庭番」の設立
など(家宣時代の政策否定でもあったが)さまざまな行動から「米将軍」「(幕府の)中興の祖」と敬われた。
幕府三大改革のうちの唯一の成功例とも言われる。
というのも年貢が米*15である以上、「世間の景気が良くなるとコメの価値が下がり、逆に武士は不景気になる」という事情から、三大改革はいずれもコメ対策・景気対策で頭を悩まされていたのだが*16
また、
  • 刑法ともいえる『公事方御定書』の制定
  • 『町火消し』の整備
  • 異学と呼ばれる西洋の学術書を宗教分野以外は緩和する
などの政策を行った。なお国防にもつながるはずの西洋学の取り扱いについては松平定信は正反対の方針をやらかしたため停滞し幕末の対応で大きく後れを取ることになる。

時代劇『暴れん坊将軍』のモデルな他、『大岡越前』もこの時代の話。
上の倹約の一環として、大奥から美女をクビにした(美女は再雇用先も多いという理由らしい)ということから、醜女マニア*17だったとも言われる。
6代将軍徳川家宣の定めた*18「正徳令」を破棄して、綱吉が定めた「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。
それらのことから、吉宗の施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いという指摘もある。
実際、吉宗は少年時代から目を掛けて厚遇してくれた綱吉を個人としても慕っていたらしく、「死んだら新しい墓所を作るより、綱吉様の横に葬ってくれ」と息子達に懇願する程だった。

ちなみに彼の身長は6尺(180cm)の大男という当時の記録があるのだが、前述の綱吉124cm説によれば吉宗は155cmのはずであり、当時の記録は吉宗政権のプロバガンダによる捏造だと訴えている。
身長は高い方が箔が付く!のためだけにわざわざ吉宗の太刀や鎧や履き物に至るまで身長6尺に合わせて作られ、本来の身長の記録はいかなる庶民の記録からも抹消されたとのことである。


・9代将軍:徳川 家重(いえしげ)

在位:1745年~1760年
吉宗の嫡子で、治世前半では父が「大御所」として君臨していた。
史料などの表現を割引いても「滑舌が極端に悪く」その上「頻尿」で「遊びすぎで病気がちだった」ため、「(御三卿の田安家開祖となった)弟・宗武を将軍にしたら」なんて案もあったとか…
滑舌の悪さや遺骨の研究から*19幼少期から脳性マヒを患っていた、という説もあるが、少なくとも将棋はできたため知性は健常だったとも言われている*20
しかしながら大岡忠光*21など良い部下に恵まれたおかげか治世は安定しており(『享保の改革』の反作用としての事件も多かったが)、それなりに長生きし子供を残している。
優秀な幕臣を抜擢している事から、人事能力面では寧ろ優秀だったのでは?と言う意見も有る。
ちなみにコント『志村けんのバカ殿さま』のモデルでもあるほか、何故か女性説が存在する。


・10代将軍:徳川 家治(いえはる)

在位:1760年~1786年
家重の嫡子。父親を差し置いて祖父から教えを授かった期待の子。しかし、就任後は父の時代を通じて側用人政治が復活しており、部下に政治を任せ、趣味に生きていたという*22。特に跡取り息子の家基死後は息子に先立たれた心労で政治から離れてしまった。
一代で譜代大名となった側用人「田沼意次」を引き立て老中にし、彼の代では田沼の政策から経済面・海外対策を大きくした政策が行われた*23
しかし、経済面を重視し過ぎた反作用で贈収賄が多くなったりするなど、負の面も現れ出していた。
彼も子に恵まれず*24、再び御三家・御三卿から継承者が選ばれた。

政治以外の面では書画に優れ、前述の趣味として父と同じく将棋を嗜んだ。
将棋に関しては、彼の物とされる棋譜集(碁・将棋の対局での手順を記録したもの)「御差将棋」が現存している。
その棋譜集には、彼自らが新たに考案した「いろは棋譜記号」が使用されている。
また、晩年には詰将棋の図式集「象棋考格」を記している。

歴代将軍では屈指の愛妻家であったことが知られる。


・11代将軍:徳川 家斉(いえなり)

在位:1787年~1837年
御三卿一橋家からの養子で、家治の従兄弟甥にあたる。
稀代のハーレム将軍。将軍在籍年も「征夷大将軍」として最長の50年だった。
大奥を最大限に活用して子作りに励み、生まれただけで計53人、成人人数で28人という将軍家史上最大の子供数を誇った絶倫将軍。家治の子供事情を見ていたらわからなくもないが……
あまりの子供の多さに養育費や持参金で幕府の財政が大幅に悪化した。

家慶以外の子供たちを片っ端から嫁や養子として親藩や有力外様に送ったが、養子先や嫁ぎ先で子宝に恵まれないケースが多く、家斉の子で現代まで子孫が残っているのは加賀前田家*25、今代での断絶が確定している阿波蜂須賀家の3家のみである。
なお正室は一橋時代からの婚約者だった島津家の「茂姫(篤姫、寧姫、寔子、広大院)」を近衛家経由で娶っており、この前例が後の13代将軍と「篤姫」の婚姻に繋がった。

治世の前半では田沼失脚後に従兄弟伯父でもある老中「松平定信」*26が吉宗時代及び白河藩統治経験を生かして農政重視の「寛政の改革」を敷くも(この時期が『鬼平犯科帳』の背景)、
行政のみならず政治面・対蘭学面でも極端な統制を行い、かつその割にメリットが少なかったことで遊び人の家斉に疎まれ、家斉が実父に「大御所」称号をプレゼントしようとするのを拒否された事等もあり定信は失脚。
その後は先代や定信時代の家臣が次々にいなくなったことから、緩いその場しのぎな政策*27が多くなり、
文化面では「化政時代」と称される華やかで芸術の発達した時代になったが、海外船の度重なる来訪、「大塩平八郎の乱」等で政治・経済共に傾きが始まってしまった。
ちなみに、大奥に籠り遊びまくっていたという印象が強いが、馬術に優れ、鷹狩りを熱心に行うなど、曾祖父である吉宗に似た一面もあり、将軍としてはそれなりの素質は持っていた人間であった。


・12代将軍:徳川 家慶(いえよし)

在位:1837年~1853年
家斉の嫡子。
治世序盤では父が大御所として君臨していたが、父の死後父親が遊んでいたせいで緩んでいた政治を引き締めるべく、老中として「水野忠邦」を取り立て、水野の考える「天保の改革」を薦める事で綱紀粛清・農政復興・収賄政治の廃止を目論んだ。
ちなみにこの時期が「遠山の金さん」こと遠山景元の活躍した時代。

だが蓋を開けると「寛政の改革」がぬるく見えるくらいの言論統制・監視・密告時代と化し、家斉の時代多少は楽になりつつあった蘭学者等が被害を蒙った。
また「享保」「寛政」時にはまだ効果があった節制政治も、田沼時代・化政時代を経て経済重視の流れが進んでくると意味が薄くなり、最終的に「上知令」なる大規模「幕府直轄地一元化計画」で幕府の力を強めようとしたら「土地を獲るな」という大名たちの反発で失敗し、水野は失脚*28
その後は落ち着いた政治が戻るも、アメリカからの黒船来航によって一気に海外問題が深刻化。
そのショックか、同時期に急死してしまった*29

ちなみに14代将軍家茂の紀州藩主時代の名「慶福」、15代将軍「慶喜」、越前藩主の松平「慶永」(春嶽)の名はいずれも彼から「慶」の字を「賜諱」としてもらっている。この3名の場合、「慶」の字を貰った際に縁起の良い字を合わせて諱としている(福・喜・永)*30
なお、父にはさすがに及ばないが彼にも27人の子供がいる。ただし、その中で20歳を超えたのは次代の家定ただ一人。
これは、当時の大奥の女達の化粧には白粉が多量に使われており、更にその白粉に鉛が含まれていた事から赤ん坊の身体に鉛中毒の影響を与えてしまい命を縮めてしまったためらしい。
また、慶喜を実の子である家定以上に気に入っていたらしく、一橋家との繋がりも薄いただの水戸家の七男坊だった慶喜が一橋家当主になれたのは家慶の力によるもの。
そのため、家定は慶喜を嫌っており、後の将軍継嗣問題にも影響を与えた。

焼き魚に添えられている生姜が好物だったという。しかし、天保の改革時に禁制品に指定されてしまい、食べられなくなったことを嘆いたという逸話がある。


・13代将軍:徳川 家定(いえさだ)

在位:1853年~1858年
黒船来航による鎖国制度の危機の時に将軍となった家慶の嫡子。
徳川幕府の将軍では珍しい個別項目持ち。

ものすごく病弱だったため、ほぼ飾り状態であり、黒船対策は父の代からの老中「阿部正弘」や「堀田正睦」が行っていた。
障害を持っていた可能性も示唆されており、上記の大奥の白粉の鉛の影響が少なからず彼の身体にも影響を与えていたと思われる。
また2度正室に先立たれ、「日米和親条約」が締結された後に島津家から近衛家経由で「敬子(篤姫、天璋院)」を娶るも、それでも子供は出来ず、
晩年には後継者として
  • 「(一橋家の)徳川慶喜」を推す島津家や水戸家
  • 「(紀伊家の)徳川慶福」を推す大老「井伊直弼」*31
の間で権力争いが勃発。最終的に家定は「徳川慶福」を後継者として指名。その直後に他界した。
なおハリスが残した謁見時の記録に、不随意運動と思しき「急に横を向いたり足を踏みならしたり」といった記述があり、彼も脳性マヒが疑われている。
また天然痘の後遺症で顔にあざが残っていたとも言われる。

趣味が料理という、当時としては珍しい料理男子。特にカステラなどのお菓子や煮豆・ふかし芋をよく作っていた。
「ガチョウが好きで城の庭でよく追い回していた」というのは旧水戸藩の内藤耻叟が『開国起原/安政紀事(明治21年6月15日出版)』に記していたが彼は徳川慶喜が幼少期の家庭教師で、戊辰戦争後は帝国大学文科大学教授で経学・日本史・支那歴史・支那哲学・漢文学・和漢古代法制などの科目を担当した人物。
多少は身びいきと言われてもおかしくない。
越前藩主の松平慶永からも『凡庸中のもっとも下等』と評されている。しかし、こちらも慶喜の将軍就任を主張する一橋派であるため、誹謗中傷の類である可能性が高い。幕臣の朝比奈昌広からの擁護も残されている。家定は学問に熱心で四書を若干14歳で修めているため、決して知性が劣悪だったとは考えにくい。

NHK大河ドラマ『篤姫』においては、キーキャラクターとして活躍する。


・14代将軍:徳川 家茂(いえもち)

在位:1858年~1866年
紀伊家当主(家斉の実子)の子で幼くして父の跡を継ぎ、13歳で将軍就任後に「慶福」から改名した若き将軍。
とても良い人で、勝海舟ら家臣たちに敬われ、政略結婚で結ばれた孝明天皇の妹「和宮親子内親王」とも仲睦まじかったという。*32
また和宮との結婚後朝廷へと挨拶するため家光以来となる京への「上洛」を敢行。新選組新徴組の原型となった浪士組結成理由となった。

しかし大老井伊直弼が討たれた「桜田門外の変」などの乱が絶えず*33、和宮との結婚後天皇に誓った「攘夷」も、大規模開港を延期させるくらいがやっとだった。
結局は「第2次長州征伐」*34のため、大坂まで向かった後に病に倒れ、わずか20歳で他界した。
遺言では後継者に田安家の亀之助(後の徳川家達)を指名したが、幼君を許すような情勢ではなく、一橋家の慶喜が継いだ。

大の甘党でもあり、遺体を研究した結果、虫歯が30本という、ある意味歴代将軍の中でも特に凄い記録を残している。
和宮親子内親王の墓の副葬品として束帯姿の青年の写ったガラス湿版写真が出土しており、この人物が誰であるかという調査がなされる予定であったが、発掘の翌日には画像が消滅し、ただのガラス板になっていた。この束帯姿の青年は家茂か、かつての親子内親王の許婚の有栖川宮熾仁親王であるとする見解がある。


・15代将軍:徳川 慶喜(よしのぶ)

在位:1866年~1867年
水戸藩主徳川斉昭の正室・登美宮吉子(とみのみやよしこ)女王から生まれた子の一人で、7男であった*35ことか当初は「七郎麿」と名乗った。幼少期は父・斉昭から厳しくも愛情をもって武家のしきたりを教え込まれ*36、文武両道に優れた英邁な児童に育ったという。その英邁さを12代将軍家慶に気に入られ、一橋家の養子となり継承権上位になるも、家定死去後の「安政の大獄」に巻き込まれ父親ともども逼塞させられる。
地位回復後はまだ若い家茂の「将軍後見職」等として扱われ、彼の死後、京に居ながら15代目として選ばれた歴史上最後の征夷大将軍
その活力・血筋(母が皇族「有栖川宮」の娘)などから期待されていた人材だったが、なぜか「徳川宗家」相続と「将軍就任」の間が空いていた。
孝明天皇が他界し跡を継いだ明治天皇の周囲を薩摩藩などが固めるなど、討幕の勢いが高まる中、土佐藩等から勧められた「大政奉還」を決意。実行することで幕府を解散させた

これについては
  • 戦争を避けたかった
  • 幕府を解散させても新政府が徳川家を重用すると思っていた*37
  • 尊皇を重んじる水戸学を学んでいたため、天皇への反逆を良しとしなかった
  • 水戸出身ゆえに幕府での政治基盤が弱いため、そもそも慶喜自体が幕府を一度壊し、新政府で新しい基盤を作ろうとしていた
などという説があり、「徳川家の政治力」温存を考えていたのは確かだろうが、いずれにしても、その後の
  • 王政復古の大号令
  • 徳川家のみに対する辞官納地(大名辞めて朝廷に領地を返せ)
等と朝廷(というか後の新政府勢)の無茶ぶりが続き、結局「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。
敗北するや会津藩・桑名藩主*38や老中達を連れ、速攻で江戸へ帰還*39
最終的に「徳川宗家」当主の座も家茂の最も近い血縁者である田安家の「徳川家達」(当時6歳)に譲り、謹慎・隠居の道を選んだ。

この時、天璋院なんかは「慶喜はどうなってもいい(≒死んでもいい)*40から徳川家を残してくれ(意訳)」という手紙を残しているので、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。
出身地水戸で起きた「天狗党の乱」を収める時実行者達にまったく温情を掛けず、会津藩等「戊辰戦争」で酷い目に遭った連中に対して何のフォローもせず、江戸開城時あてにした(?)幕臣の勝海舟もそれまでは邪険に扱っていたなど、無責任さが目立つなどと言われることもある。

もっとも大政奉還により倒幕の口実を奪ったり、二条城から大坂城に移り、経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえつつ、新政府に圧力をかけたりと、慶喜自身は少なくとも当初は戦争ではなく政治で薩長をいなし倒したがっていたように見える。
特に王政復古の大号令に関しては、実際のところ新政府内でも土佐や越前など穏健派の反対が強く、辞官納地は骨抜き、資金が危うくなった朝廷が幕府に献金を求め、終いには慶喜の議定就任が確定するなど、政治的にはほぼ薩長を完封しており「家康の再来」の名に恥じない高度な政治手腕を見ることができる。*41
また「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した一番の要因は攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸が匿っていたために発生した江戸薩摩藩邸の焼討事件を切っ掛けに、勢いづく会津藩ら慶喜の周囲の諸藩兵を抑えきれなくなったためとされている。

俗説では江戸の浜離宮を慶応3年(1867)12月23日に徳川海軍の長鯨丸(ちょうけいまる)で出港した大目付・滝川具挙(たきがわともたか)と勘定奉行並・小野友五郎(おのともごろう)が25日に発生した江戸薩摩屋敷焼き討ちを聞いて、28日に大坂城に到着して徳川慶喜に報告とある。

ん、23日に船で海に出た人が25日に陸で発生した事件を知っているってツッコミどころ満載の話である。

木村喜毅(きむらよしたけ)によると、27日に神奈川を出帆した「外国郵便船」に托された御用状でなされ、これが大坂に届いたのが30日である、と日記に記している。

滝川らが知っているのは最大で江戸城二の丸放火までの話であり、この話まででも大坂城にいる徳川方の将兵の怒りに火が付いたと判断出来る。

しかし江戸薩摩屋敷焼き討ちはどこで聞いたのだろうか?
この時点で俗説は辻褄が合わないのだが、誰もツッコミを入れない。

という事は大坂と江戸のやり取りから話をねつ造ないし作り変えた人たちがいる、という話になる。

徳川慶喜の処分が少しでも軽くなる様に、鳥羽伏見の戦いの戦犯として小野は牢屋行き、滝川は屋敷で謹慎処分となるが、この処分に関わったのが勝海舟(かつかいしゅう)や越前福井松平家・前当主の松平慶永(まつだいらよしなが)

ツッコミどころ満載の俗説が定着したのは、慶喜が主導権を握る為に鳥羽伏見の戦いを起こした訳じゃないと、絶対恭順へ弁明する為の悪あがきかも知れない。


現代では、
  • 「戦うことを恐れた臆病者(幕臣の小栗忠順の案が採用されていれば戊辰戦争で旧幕府側が勝利できたとも言われる)」
  • 「天下を考えて平和的な手段を模索した智者」
といった評など、再評価の流れもあっておそらく江戸幕府の歴代将軍で最も評価が分かれる人物であると思われる。

慶應4年(1868)1月20日、徳川慶喜は負傷者が収容されている会津松平家中屋敷に来訪して夜逃げの顛末を話し、夜逃げを謝罪したのだが、高津(たかつ)仲三郎(ちゅうざぶろう)という負傷した武士が

「どの面下げてここに来た?言ってみ?」

「夜逃げの言い訳なんか聞かないからな!」

「夜逃げするのに、なんで大坂城の大広間でオレ達の戦意を煽る発言をした?」

「そもそも何の為に謝罪してんだ?」

「負けた事?夜逃げした事?」

「要するに謝罪している姿勢を見せているだけでしょう?
心が籠もっていないの、ミエミエだから!
要らないよ、そんな謝罪!カエレ!カエレ!」

と言いたい放題。
高津は戦場で命を賭けて戦い死にかけた後で、憤懣やる方ないといった様子。
また、徳川慶喜も全てやらかした後なので、ぐうの音も出ない。

慶喜に夜逃げを説いたとして言われた会津藩家老・神保(じんぼ)修理(しゅり)が慶喜に説いたのは、『戦闘を停止し、大坂城まで全軍撤退させ、恭順の方針を全軍に伝えてから、大坂城を退いて江戸に戻る』という策だったのだが、現実に慶喜がしたのは煽りと夜逃げなので、神保もあ然とした。
しかも会津武士は神保の策が煽りと夜逃げと聞かされたので詰め腹を切らせろと神保に詰め寄り、勝海舟は神保の身柄を徳川宗家で保護しようと介入したが、失敗し、逆に神保の立場が悪くなり、最終的に神保が藩命により切腹して自体は収集した。
じゃないと会津武士が江戸で市街戦をする程、怒りゲージが溜まっていたから、ガス抜きしないと

また、大政奉還と鳥羽・伏見の戦いばかり語られがちだが、政治面では
  • 事実上の内閣制度の導入
  • 近代軍備の整備
  • 横須賀製鉄所の設置
などやや急進的ながら時流に合った政策を実施しており、これらは『慶応の改革』と言われている。
特に横須賀製鉄所は明治維新後も数多くの軍艦を製造し近世日本の戦争勝利に貢献しており、慶喜の大きな功績の一つと言える。

後半生は隠居先の静岡で趣味に生きる生活を過ごし*42、将軍になる前に生まれた正室・一条美賀子とのあいだにできた子はすぐ他界したものの、維新後側室2人との間に21人もの子をもうけている。しかし、正室はそれほど健康体ではなかったし、正室との関係もうまくいっているとは到底いいがたいものであった。そもそも慶喜との婚約からして「代役」ということで急遽決められたものであったうえに、慶喜は彼から見て義祖母にあたる一橋慶壽未亡人・徳信院*43と大変に仲が良かったせいでそっちに入れ込んで、夫婦と2人で過ごす時間などほぼないに等しいせいであったためである。
旧幕臣との交流はあえて絶ったとされているが*44、渋沢栄一を始め一部の心を許した家臣とは深い関係を保ち続けたという*45
1886年6月には最後の自由民権運動の激化事件ともいえる「静岡事件」が発生し、その事件では慶喜を擁立して徳川幕府を再興する計画もあったようだが、勝や大久保から釘を刺されて趣味に生きる充実した生活を送っていて、幕府を再興する気など毛頭なかった慶喜からすれば、この計画は非常に迷惑なものであっただろう。
『海舟言行録』によると勝海舟(明治時代に慶喜の10男を養子にした)は、明治31年に慶喜が元江戸城だった皇居へ初めて参内した翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼしたという。

また、公爵となったことで貴族院議員に就任。
伊藤博文や大正天皇とも交友を深めるなど、敗軍の将としては破格の待遇を受けている。
幕末からの趣味の一つに当時日本に来たばかりだった「写真」があり*46、歴代将軍の中で唯一写真が現存し*47、また複数バリエーション(若いころの写真と老後の写真)が存在する。

そんな彼の最晩年に撮られた生涯最後の写真は、老け込んだ姿で産まれたばかりの赤ん坊の孫娘を抱き上げ笑顔を見せているものである。
歴史上最後の征夷大将軍の威厳や滅びた幕府の将軍の悲壮感は無く、一人の幸せな老人の姿がそこには残されている。

因みに江戸幕府将軍15代の中で、母親が正室なのは家康と家光、そしてこの慶喜の3人だけなのである。
そして、天才てれびくんのてれび戦士筧礼は、この徳川慶喜の子孫なのである(徳川慶喜の息子で勝海舟の家に海舟の孫を妻として養子入りした精の子孫。つまり彼女は勝海舟の子孫でもある)

明治維新後

この後は当然ながら将軍ではないので、徳川家当主に当たる人物をおまけ程度に記載する。

16代当主:徳川 家達(いえさと)

在位:1868年~1940年
田安徳川家に養子入りした家斉の弟の孫。慶喜から当主の座を譲られ、新政府から徳川家70万石の相続を許可された。
維新後の徳川氏は他の元大名と同様に華族となったが、高等教育を受けられる華族は貴族院議員や学者を多数輩出。
家達も帝国議会成立後は貴族院議員となり、31年にわたって議長を務めるなど政界の大物であった。
ただし徳川氏という立場故の遠慮もあり、東京市長(現東京知事)や総理大臣候補に挙がったにもかかわらず固辞している*48
最晩年には、東京五輪の組織委員会の委員長を務めるも、直後に日中戦争勃発による情勢悪化により、開催権は返上され、開催予定だった1940年に病死。
彼の死後、屋敷は国により買収、解体され、その跡地はやがて2020年の東京五輪の新国立競技場となった。

17代当主:徳川 家正(いえまさ)

在位:1940年~1963年
家達の長男。
現在の東大法学部を卒業すると外交官としての道を歩み、オーストラリアやトルコなどの公使となった。
当主を引き継ぐと父同様貴族院の議長を務め、憲法改正に伴い最後の貴族院議長となった。

18代当主:徳川 恒孝(つねなり)

在位:1963年~2022年
家正の子が早世したため、長女の次男を嫁ぎ先の会津松平家から養子として取られた。
日本郵船の副社長を務め、また徳川氏の保有する美術品や文書などを管理する記念財団を創設した実業界の大物。*49
実業方面で十分多忙なのに、歴代将軍の命日などの徳川家関連の式典に欠かさず出席(会社の有休の殆どがそれに費やされた)。元華族も楽じゃない。

19代当主:徳川 家広(いえひろ)

在位:2023年〜現在
恒孝の一人息子。恒孝が高齢になったため、2023年1月1日に当主を継いだ。
政治学や経済学の学位を有するインテリで、経済関係の著作もある。立憲民主党から選挙に出馬したことも(結果は落選)。
ベトナム人女性を妻に迎えたことで親ともめたりもした。



◆余談

メディアへの登場

各種創作作品に徳川家の将軍は無数に登場しているが、
  • 善悪いずれに捉えても使いやすい家康
  • 家康の付録なのが多めな秀忠
  • 春日局や活劇系の話によく出てくる家光
  • 忠臣蔵や水戸黄門絡みで出番の多い綱吉
  • 暴れん坊将軍』と大河で主演だし大岡越前の上司としても出番がある吉宗
  • 幕末を舞台にすると必ず出てくる家茂・慶喜
がメインで登場する機会が多く、4・6・7・9~13代は空気や背景キャラになりやすい。また家斉は時代劇自体への出番は多いものの、大河ドラマへの出演は第64作の『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』を待つことになる。
通史として江戸時代を扱う作品なら全員出番があるが、それでも家継・家重・家治の出番は少ない。





追記、修正は継承権順位を厳密に定められている方がお願いします。

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最終更新:2025年03月26日 11:32

*1 制定された頃は水戸家は紀州家の分家扱いで、御三家の地位にあったのは家光の弟である忠長の駿河家(一代限り)であった。官位の"あがり"も尾張・紀州が大納言であるのに対し、水戸は中納言止まり。

*2 この時代より前の例では鎌倉時代の摂家将軍・親王将軍が執権に、執権が御家人に与えたりなど。後醍醐天皇が足利高氏他2名に自らの諱「尊治」の一字を与えた(=天皇からの一字拝領)のは極めて希な事例。

*3 このため、江戸時代開始時として関ヶ原の戦いの1600年と将軍任命時の1603年の2説がある。

*4 まあ忠長は成人後の素行があまりにもアレなのだが

*5 綱吉即位後大老になるも、春日局が結婚していた稲葉家の人間によって殺された。

*6 後の忠臣蔵の発端となった

*7 老中格にする、家宣の治めていた甲府を与え大名にする、松平姓を与える等

*8 綱吉自身もこの事を気に病んでおり、「自分に徳が無いから」と嘆いたという逸話がある。

*9 貨幣改鋳はただ金の節約をしたかったと言うだけでなく「政府に信用があればたとえ紙切れでも石ころでも通過価値が保たれる。」という荻原重秀の建白のもと実施されている。いわゆる「国定信用貨幣論」を200年余りも先取りしており、当時は類を見ないアイデアだった。そのため荻原は日本史上の天才として名前が上がることもある。

*10 当然ケンペルが嘘を書かなきゃいけない理由もない

*11 敗れるも何も、家綱から見たら2親等の綱吉が3親等の綱豊より優先されただけであるが。

*12 現代の年齢では3歳と8ヶ月

*13 一応家宣の弟の清武が存命だったが、こちらも息子の代で断絶している

*14 表向きの理由は「他の後継者候補が家康の玄孫世代だった中唯一家康の曾孫世代だった」からと言われている。

*15兵糧攻め」のリスクや慣習上、銭による税は定着していない

*16 世間が少し不景気なことが武士の好景気を意味するため

*17 ただし当時の美人の基準は現代と異なる点に注意する必要がある

*18 実際には新井白石が改訂し、7代将軍家継が短命だった事もありそのまま用いられ続けた

*19 歯がすり減っており、脳性マヒのため不随意運動で歯ぎしりをしていたのではないかという説がある

*20 現在の医学でも、脳性麻痺を患いながらも知能は正常であるという例はみられる

*21 大岡出雲とも。大岡越前の遠縁の親戚。家重の言葉を聞き取る事ができた唯一の幕臣

*22 尤も、江戸幕府自体が将軍を定員5人の老中の合議が輔弼する体制であり、将軍が自分の意見を政策に反映させようとすると将軍と老中会議の調整・伝達役である側用人に頼る必要がある事には留意すべきである。

*23 頓挫したが大規模干拓という農地拡充政策も行い、後に水野忠邦が再開するもまた頓挫した

*24 1歳を迎えられたのは家基という息子のみであり、彼も18歳で怪しげな急死を遂げた

*25 東大の赤門は家斉の娘を嫁に迎えた際に建てられたもの)と津山松平家(結城秀康を祖とする越前松平の分家

*26 田安家出身ながら白河藩松平家の養子になり、次代で桑名藩に転封。余談だが彼の孫で備中松山城主を継いだ「板倉勝静」は家茂・慶喜に仕える老中となり、最終的には旧幕府軍とともに箱館まで行ったあと、先に降伏した家臣の説得で官軍側に降伏した。

*27 小判の金純度を減らして製造数を増加させインフレになった等

*28 一応海外問題発生時に少しだけ戻ってきたが

*29 そのせいでペリーから白旗を送られて、ビビッて急死したとかいう不名誉な死因説まで出てしまった。

*30 ちなみに「慶」をつけた大名の一人な長州藩主毛利「慶親」は、「禁門の変」等による長州藩暴走の罪によって名前の「慶」を取り上げられ「敬親」と改名している。

*31 「日米修好通商条約」を強行採決し「安政の大獄」を敷いた強権派で、「兄たちが次々と倒れ藩主に」という吉宗に似た経緯の持ち主だった。

*32 実は内親王(現代とは異なり、皇位継承権のある女性皇族)の方が征夷大将軍よりも地位が高く、和宮が江戸に下向しているが、皇室が家茂を婿に迎えた形となっている。これは内親王の地位を与えてからの結婚とすることが孝明天皇の出した条件の一つであったため。

*33 上洛も長期化から京での人質化を懸念して家臣が出兵する騒ぎに

*34 ちなみにこの戦争の結果、家宣の弟が開祖で慶喜の異母弟が治めていた「浜田藩」の大半が長州藩に獲られている。

*35 珍しく正室が子沢山な人で、かつ父が精力旺盛な人だったため、異母兄弟に大名家の養子となった人が複数いた。

*36 就寝時に枕の両側に剃刀を指した状態で寝かされ、「武士たる者は就寝時といえども油断してはならない」と教えられたほどであったという

*37 事実長年政権から離れていた朝廷に政治のノウハウなど存在しなかったため、この読み自体は正しかった。

*38 ちなみに2人はともに尾張家の分家「高須松平家」から養子に出された実の兄弟で、桑名藩主は前藩主の子(松平定信の玄孫)を養子にしていた。

*39 この時既に元将軍だったため、将軍として江戸にいなかった唯一の将軍となった

*40 元々、慶喜は家達が成人するまでの中継ぎ扱いなので徳川宗家としては死んでも問題なかった。むしろ、隠居後の扱いの難しさを考えると死んだ方がお家騒動などの懸念がなくなり好都合だったりする。水戸家や一橋家でも同様。

*41 実際王政復古の大号令の3日前に、越前の松平慶永を通してクーデターの情報は慶喜の耳に入っており、内輪揉めを見越してあえて手を出さずにいたとも言われている。

*42 晩年は徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を明治天皇から許され、分家の場合は男爵という内規があるにもかかわらず、本家と同格の公爵位まで授かり東京に再移住

*43 系図上は義祖母と義孫の関係にあたるが、慶喜との年齢差は7歳差しかなかったという。まさにリアル「おねショタ」である

*44 勝海舟やその上司にあたる大久保一翁による釘刺しと思われる。あるいは仕えるなら隠居の身の自分ではなく、当主である家達に対してすべきという考えからか

*45 将軍就任前の一橋時代からの関係というのもあるだろう

*46 明治時代には自ら撮影に挑戦していて、しばしば雑誌に頻繁に投稿していたというが、どうもプロ目線では「下手の横好き」だったらしい

*47 前述の註で触れたように、かつて家茂と思われるガラス湿版写真が親子内親王の墳墓から発見されているが、画像が焼失した現在では確かめるすべはほぼなくなっている

*48 いずれも旧幕臣の勝海舟や一族の反発が大きい

*49 日本郵船の社員時代の同僚に当時の前田家当主・利祐氏がおり、二人の上司であった副部長は「こんなこと(=徳川当主と前田当主を部下に持つ)が許されるのは太閤様以来だな」と、ご満悦だったらしい