徳川四天王

登録日:2010/02/08(月) 22:28:30
更新日:2025/04/26 Sat 22:32:52
所要時間:約 7 分で読めます



徳川四天王とは、江戸幕府開祖・徳川家康の天下取りに特に大功のあった武闘派の大幹部四人衆の事である。
類似品として大久保忠世、服部半蔵らを加えた徳川十六神将。酒井忠次没後の徳川三傑などがある。


●酒井忠次

忠次「では、まずは四天王最古参のワシが。まずはここらで出会った縁を祝して海老掬いを一つ……そーれえび(ry」



四天王筆頭で、戦場では甕通(かめとおし)と呼ばれた槍を振るい、背中に目を持つと称された名将。

宴会の席では海老掬いという宴会芸を披露するひょうきんな面も。ただ、その詳細は伝わっていないので、ドラマやアニメで「海老掬い」と称して登場している踊りや歌謡は、すべてその作品の創作である。

家康の父、広忠の代から仕え、家康が今川へ人質に行った時からの最古参の将でほかの四天王とは親子ほどの年の差がある。
家康が独立すると石川数正と共に重用され、三河一向一揆討伐、吉田城攻めにて戦功を挙げ、吉田城主となる。

後も重用され、姉川、三方ヶ原と戦い抜き、長篠の戦いでは武田勝頼の背後を別働隊にて急襲、
勝頼の叔父を討ち取り、武田軍を前方に押し出し、鉄砲の掃射を浴びせるのに一役買う、という大功を上げる。


その功有って家康の信任厚かったが、ある時に家康の嫡男であった信康の素行についての弁明の使者として
大久保忠世と共に信長の元へ向かった際、信康を弁護し切れず、信康を切腹させてしまう。
家康はこの件は不問に帰したが、家康と忠次の間に小さくない溝が生まれてしまう。

以降も重用は続き、明智光秀討伐の兵を挙げた際に先鋒となり、天正壬午の乱、小牧・長久手を歴戦。
1585年の石川数正の出奔の後*1は家康の最重臣として仕える。

1590年の関東移封の2年前に隠居したが、移封後の嫡子家次の禄高が三万石(他の四天王は十万石前後)であった為に抗議したが、
「お前でも息子はかわいいのか」と、信康のことを引き合いに出された嫌味を言われ、何も言えなかったと言う。ただ、近年はこの逸話に関しては江戸時代の創作であるという見解が強く、大河ドラマ「どうする家康」ではそう言ったシーンは描写されなかった。本作では、家康が天下取りの意志を再燃させることとなったのは、病床の忠次を秀忠とともに見舞いに来た家康が、ふと吐露した本音に対しての忠次の「天下を、お取りなされ」という遺言であった…という設定がなされている。

関ヶ原の4年前、1596年に京都の自宅にて死去。享年70才。

忠次の末裔たる左衛門尉(さえもんのじょう)酒井家は幕末まで孫の代で転封された庄内藩とその支藩の2藩が残ることとなる。
庄内藩は改易された最上氏の所領のうち15万石なのだが、転封後いきなり負担を増やしたため最上回顧・賛美が起き隣の鳥居氏共々最上氏を偲ばせるものを破壊しまくるという行動に出た。鮭様カワイソス。
領民には「本間様*2には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とまで言われる程領民から好かれていなかったが、末期には本間氏の献策があったおかげで天明の飢饉の時に餓死者を抑えられたので慕われるようになった。
しかし大政奉還後薩摩藩を敵に回したせいで会津共々「官軍」のターゲットとされ(ちなみに他の四天王子孫はすぐ官軍に恭順)、井伊分家等と戦闘する羽目に…。

なお「家康の家臣だった酒井家」は他にも伊達騒動等に登場した「酒井忠清」らを輩出した「徳川二十将」酒井重忠の雅楽頭(うたのかみ)酒井家が存在するので混同に注意。
実際に庄内藩転封した頃辺りで酒井忠勝被りが起きており、しかも雅楽頭の方が大老だったため「大老の酒井忠勝のせいで最上氏の遺物が減った」という風評被害もある。



忠次「……と言う事じゃ。では、最後にワシの知名度を更に上げるべくここで一つ、三方ヶ原の戦で見せた酒井の太鼓を……」

康政「おーっと小五郎*3さん、悪いが時間切れじゃ。」

直政「左様、ここは酒井殿の項目ではなく、我々四天王の項目ですぞ。」

忠次「む、無念…」

忠勝「では小平太*4、次は頼んだ。」


●榊原康政

康政「おう。無の旗印でお馴染みの榊原小平太康政じゃ。俺はかつて太閤を高札で扱き下ろし、首に十万石の懸賞金を懸けられた事があるんじゃぞ?」



知勇兼備且つ、筆も立ち、家康から度々代筆を任されていた将。

産まれは酒井氏の陪臣の子として。
幼少の時より家康に小姓として仕え、初陣は三河一向一揆討伐。
この時の活躍により「康」の字を与えられ、一揆に参加した兄を差し置き、榊原家の家督を次ぐ。

これ以降家康に同年の本多忠勝と共に旗本として家康に近事し、
姉川で別働隊を率い、徳川軍の倍近い朝倉軍を横から襲撃し、戦功を上げたのを始め、三方ヶ原、長篠でも活躍、高天神城攻めでは先鋒に抜擢される。

本能寺の変後も家康に近事、小牧長久手の戦いの折りには秀吉を罵倒する檄文である榊原状を自身の能筆の限りを尽くししたため、
それを各地に貼り付けると秀吉は激怒し、「この文を認めた者の首を取った者には十万石を与える!」と言ったが、
康政は堀秀正に一度敗れはしたが三好勢を壊滅に追い込み、森長可、池田恒興(勝入)を討ち取っている。

戦後は、その文で名を強烈に秀吉の脳裏に刻んでいた為に秀吉との使者としても活躍。

家康の関東移封時には十万石の所領を得、街道の整理と治水に力を注いだ。

関ヶ原時には秀忠の参謀役として中山道を進んで美濃を目指した。
道中、「真田は無視するべし」と秀忠に進言するも聞き入れられず、結果、関ヶ原の戦いには参戦出来ずに終わる。
秀忠は家康の怒りを買い、嫡男としての地位を失いそうになるが、康政の「もし秀忠様をお許しにならないのでしたら、ここで殿と一戦交えましょうか?」という脅し交じりの必死の弁護により事なきを得た。
……と言われているがこの説については大分怪しい。

康政、忠勝、直政の3人で戦後に酒を酌み交わした際、誰が関ヶ原の一番の功労者かという話題になった時、
戦功を挙げた忠勝と直政の2人は躊躇いもなく「一番の功は戦後家中の争乱の火種を産むのを防いだ康政こそ功労者である」と語ったという。

その後、武官の例に漏れず冷遇を食らうが、ひっきりなしに来ていた老中就任や、加増の話を蹴り、
「老臣が権力を争うのは、亡国の証拠だ」という立場を崩さず、家康から感状を貰うこととなる。
この感状を得たことが、後に榊原家の首を繋ぐことに繋がった。

榊原家は江戸時代大小さまざまなトラブルに襲われるも何とかしのぎ、最終的に大名1家・旗本2家が幕末まで続いている。


忠次「うわぁ……ワシもあの戦いには参加していたが、今聞いても肝が冷えるぞ。」

忠勝「小平太の活躍で真っ先に挙がるのが太閤を扱き下ろした事だからな。実際岡崎市にあるこ奴の石像はその場面を描いていると言う。」

直政「まあまあ、さっさと次行きましょう。次は某ですな?我が殿から言伝を受け取っているのでまずはそれから。」

●井伊直政

家康「万千代*5を初めて見た時…その…下品なんですが…フフ…勃起…しちゃいましてね…



勇猛果敢で容姿端麗、彼の率いた赤備えは戦国屈指の精鋭部隊であった。
また、政治・外交手腕にも類い希な才覚を有しており、「小身ながら天下を取れる器」と諸大名から噂されていたが、家康への忠義は篤かった。
が、新参者ということや年若いこと等から徳川家の家臣、特に他の徳川四天王からは常に厳しい目で見られ、
元々自分にも部下にも厳しい性格だった直政は奉公を重ねるにつれてさらに自他に厳しくなっていったことや、気性が激しかったことから、
忠勝の下に逃げる者や、家康に旗本に自ら降格を願う者が出るほど、部下からは恐れられていた。

また、いつも敵陣に突っ込み、多数の傷を負っていたため、戦場では武功を上げながらも傷を全く負わなかったとされる本多忠勝とよく比較され、
一方的にライバル視されて仲が悪かったとされるが、関東移封後は次第と仲が良くなっていったらしい。

産まれは今川氏の家臣であった井伊家だが、父親の井伊直盛が謀反の疑いで義元の跡を継いだ今川氏真に誅殺され、
その嫡子であった直政も氏真に命を狙われることとなったが、父の跡を継いだ井伊直虎らの尽力でなんとか生き残る。
その後、徳川家の家臣・松下氏に再嫁した母親についていってその家の養子となり、家康に「ウホッ…いい男」と見初められて小姓に取り立てられた直政は、
松下氏ではなく本来の家である井伊家に復することを許され、井伊万千代(後に元服して直政)として出世していった。

男色を武将としては珍しく嫌った家康が一目惚れするほどの整った容姿を持ち、さらに礼儀作法にも通じていた美男子だったと言われ、
後に秀吉の妹である旭姫が家康に輿入れした際、彼女についてきた女中たちが直政に惚れ込んだという。

その後に家康とアッー!していた際に武田の忍者を討ち取ったり、高天神城攻めなど対武田戦にて主に活躍。
伊賀越えや後北条氏との交渉で活躍。武田氏旧領の甲斐・信濃を得ると山県昌景などの旧部隊を吸収して赤備えを復活させ、子飼いの部隊とする。

小牧長久手で活躍し、小田原城攻めでは唯一城内まで攻め寄せ、天下にその名を響かせる。

関東移封後は徳川軍最大の十二万石を与えられ、その政治手腕を振るう。

関ヶ原では軍規違反である抜け駆け(後に許される)を犯すが、活躍し、島津豊久を討ち取るなどするが銃弾を受けて落馬。
大怪我を負った直政だったが、休むことなく関ヶ原の戦後処理に尽力。
島津氏と和平交渉を進めて取り潰しを防ぎ、西軍総大将の毛利輝元の領土を安堵し、真田信之の嘆願を受けて真田昌幸・幸村親子の助命に奔走し…と辣腕を振るい、
家康からその功を称えると共に、西軍の抑えを期待されて石田三成の旧領を任されるが、関ヶ原の2年後、1602年に弾創から破傷風*6にかかって死去した。

井伊氏は彼の死後彦根三十五万石ら2家が幕末まで続き、幕府にて重きを成した。
そして幕末の直弼含む五人の大老を輩出するが、直弼が桜田門外にて暗殺されると一転冷遇されてしまうようになった。幕府「え?闘病の末の病死ですよ?何言ってるんですか?」
なおこれは偶然であろうが、直弼の首を刈ったのは薩摩藩士(有村次左衛門。その直後深手を負い自刃)だった…。

赤備えは幕末まで残り、色んな意味で活躍しているので、興味があれば調べてみよう。
ちなみに、彦根のゆるキャラである「ひこにゃん」は息子・直孝の逸話がモデルだが彼もモチーフになっている。


直政「……と言う訳だ。殿や某の事で妙な事を書いた輩は、この直政直々に手討ちにしてくれよう。
では本多殿、トリはお任せ致す。」


●本多忠勝

忠勝「…済まん。拙者は単独項目持ちだ。拙者の事績はここを見れば分かる。」

三人「はあああああぁぁぁぁぁ⁉︎」

本多家は大名家3藩・旗本1家が幕末まで続き、また本家は度重なる転封の果て何と家康の故郷岡崎に落ち着いた。




忠勝「では、アニオタWikiの家臣の面々、追記・修正は各々方にお頼み申す。」

三人「畜生・・・」

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国時代
  • 武将
  • 徳川軍
  • 赤備え
  • 能筆家
  • 背中に目
  • 四天王
  • 徳川四天王
  • 徳川三傑
  • 武将項目
  • 酒井忠次
  • 榊原康政
  • 井伊直政
  • 本多忠勝
  • どうする家康
  • 全員、武闘派
  • 大幹部
最終更新:2025年04月26日 22:32

*1 数正の出奔の理由は今もなおよくわかっていない。信康事件による不仲説や、数正が進んで豊臣・徳川両系の外交の『人柱』となった説など諸説ある

*2 江戸時代に圧倒的な財力を持ち、士分に取り立てられた酒田の豪商。戦中まで三井・住友に匹敵する大地主だったが財閥にはならずGHQに解体された

*3 酒井忠次の通称

*4 榊原康政の通称

*5 井伊直政の幼名

*6 過労による免疫力の低下に伴い、弾丸に含まれる鉛毒によって衰弱死したという説もある