孫邵

登録日:2024/01/27 Sat 23:17:42
更新日:2024/08/23 Fri 19:30:27
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孫邵とは、三国志における孫呉の初代丞相である。字は長諸。
呉の武将である孫韶とは読みが同じだが別人。

彼は青州北海郡の生まれで、まず孔子の子孫と言われる孔融に功曹(人事部長)として取り立てられた。儒教を盲信するあの孔融にだ。それだけ徳があったのだろう。
次に劉繇に従って江東へ下り、後に孫権に仕えた。劉繇が孫策に倒されて孫権に仕えるまでの間何をしていたのだろう。
そして孫権が皇帝に就いた際、あの張昭を押しのけ後の初代丞相となった。丞相と言えば政治の最高位だ。それだけ呉で功があったのだろう。
一時張温(韓遂征伐に行った後漢末期の人物とは別人)と彼が抜擢した曁艶という人物に讒言され辞意を表明したが、陸遜や朱拠など優れた人物らの後押しもあり孫権に許され復職した。それほどまでに人望もあったのだろう。
そして生涯現役で、63歳で没し粛侯という諱が送られた。丞相という位を戴いた人物なのだから当然だろう。

ちなみに孫邵を讒言した張温という人物は、何をやらせても卒なくこなすが頭の回らない小器用な人物であった。
だが曁艶という人物は自尊心だけが人並み以上の愚物であり、徐彪と共に人事を私物化していた。
曁艶は自分を抜擢してくれた張温の愚鈍さを見抜いて共に讒言をしたのだろう。だが後に彼らは張温含め自滅し失脚した。


で、その孫邵はどういった人となりで孫呉において何をしたのか?












は?




出世して外交政策を提言した、とかあるが本当に何もわからないのだ。こんなに偉い立場なのに。
その理由は呉書の編纂に当たっていたが孫皓の怒りを買って殺された韋昭と、その意を汲んだ丸パクリしたとも言う陳寿にある。
大体279年12月に呉が滅亡したのに翌年に陳寿が三国志を完成させてるのがはっきり言っておかしいのだ。

史家は限りなく中立に物事を書くべきだが、陳寿は同じ史家として無念のうちに亡くなった韋昭に対して何か思うところがあったのだろう。殆どそのままで世に出すべきだと判断したのかもしれない。
だが陳寿がそう思ったように史家も人間だ、完全な中立ではない。韋昭は張温の派閥に属していたので、対立する孫邵のことをあえてまとめていなかった。それも世に出したのだ。
陳寿はあえて韋昭の欠点を炙り出すためにやったのかも知れないが、肝腎の孫邵自身に対するフォローがほぼない。
つまり犠牲になったのだ。三国志という史書には欠点や謎と暗示が秘められていることを後世に示すための、その犠牲にな……


しかし陳寿はそれで満足したのかもしれないが、後世に生きる我々にとっては大問題だ。

史家が歴史を書き残さなかったら、1800年も前の出来事を我々はどうやって知れば良いのだ!?

次代以降の孫呉の丞相の事績はしっかりと書かれている。特に最初の方は顧雍・陸遜・歩隲と素晴らしい面子だ。その後孫峻孫綝とダメンズが続くんだけど
だがそんな中で孫呉の初代丞相は、謎の人物として終わっている。
木簡や書簡か、あるいはそれに近い記録か何かでも出土しない限りは、これからもずっと謎のままだろう……


  • 孫邵が登場する創作
無い!そんなものは無い!
……いや、無くはないが、演義には出ない、正史の経歴も定かでないという彼を扱っている作品は滅多に存在しないのも確か。

【コーエー三國志シリーズ】
初登場はなんと『14』から。元号が令和になってからやっと現れたのである。
その『14』では土地占領範囲が大幅に上がる「名声」の個性を持つ優秀な内政官といったところ。
一方で同じ丞相の陸遜や歩隲と違って戦場では弱い。人材不足の孔融や劉繇プレイでは痛い欠点である。
また、姓こそ同じだが呉の孫氏では無いので、本作特有の強烈な一族補正の恩恵は受けられない。
英雄集結」では孔融軍に属する。






追記・修正は孫邵に何か新たな発見があってからお願いします。

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最終更新:2024年08月23日 19:30