陸遜

登録日:2017/05/18 Thu 19:41:33
更新日:2024/04/16 Tue 01:19:13
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陸遜(りく-そん)(183~245)
字は伯言。実は元々陸議と言う名前だったのだが、後に遜と改名した。
揚州、呉の人。


三国志」に登場する三国のうちの一つ、呉の放火魔将軍。

【精製】

揚州の呉郡で生まれる。今で言えば東洋のヴェネツィアと称される蘇州市のあたりである。おしゃれ!
生家の陸家は土地でも有数の名門で、光武帝の頃から既に政府高官として活躍していた。別に料理界は牛耳らない。陸遜自身も父、祖父共に後漢朝の官僚であり、曽祖父までさかのぼると陸家本家につながるというなかなかのエリート。

幼くして父を亡くしたため、一族の本家である廬江太守陸康の元で育つことになった。
しかし陸康は当時寿春にいた袁術への協力を拒否したため、当時その傘下にいた破壊兵器孫策を送り込まれてしまう。
陸康は籠城の末にズタボロにされて降伏したが、一族共々地位も財産も失い放り出され、心労のあまり間もなく亡くなってしまった。

しかし陸遜は他の一族の子供たちと共に疎開に出されていたため無事であり、以後は疎開組の中で最も年長だった陸遜が一族を取り仕切ることになったという。

ちなみにこの時陸遜は12~13歳。幼くして苦労しすぎである。


【充填】

成人した陸遜は203年ごろになると、暗殺された孫策の後を継いでいた孫権に仕える。
しかし陸家からは既に陸康の子である陸績が仕えていたため、陸遜は曹令史(人事部の下っ端役人)といういまいちパッとしない職でスタートすることになった。

しかし陸遜は県令としての治政や飢饉対策、大規模な反乱の討伐などの任務を次々とこなして実力を示し、自力で立場をじわじわと上げていく。
孫権もまたこの若き才能を認め、兄孫策が遺した娘を娶らせて関係を強化した。

陸遜はこの後も孫権の命を受け、10年以上にわたって異民族や賊などを度々討伐し、その度に自分の部曲(私兵)に組み込んで兵力を強大化させていった。


【着火】

この頃孫権が支配する呉は劉備軍と同盟を結んでおり、共に曹操勢力に当たっていた。

しかしこの同盟は荊州の領有を巡り最初っから険悪な状態であり、215年にはついに軍事衝突にまで発展するなど、既に決裂一歩手前の状態になっていた。
この時は呉の魯粛の尽力により、領土の一部割譲という線でなんとか手打ちになったものの、その後も呉国内では「劉備と事を構えてでも、荊州全土を実力で奪い取るべきだ」という声が止まなかった。
更に217年に孫権が曹操に降伏し両軍が停戦すると、北の圧力から一時的に解放された呉ではなおさらこの声が大きくなる。

そうした意見の急先鋒が魯粛没後に漢昌太守*1に就任した呂蒙、そして当時まだそれほど目立った存在ではなかった陸遜だった。

219年ごろ、陸遜は病気で首都に帰って来ていた呂蒙に面会し、「荊州を守る蜀の関羽は傲慢な性格で脇が甘く、隙があります。あなたが病であることを逆用してさらに油断させれば、これを始末できるはずです」と述べた。
呂蒙は「いや、関羽をなめてはいかんぞ」と答えながらも、その後孫権と面会した時は「私の後任は陸遜がよいでしょう。意見は私と一致しているし、また名前が知られていないため関羽を油断させるのにぴったりです」と進言している。
孫権はこの進言を受け入れ陸遜を偏将軍に任じ、呂蒙と交代で荊州へと送り込んだ。

着任した陸遜は密かに戦の準備を進めながらも、関羽に対しては
いやぁ関羽さん強いっす!
マジもう最強ってゆうかもう神っす。
いやぶっちゃけ強いっていう枠組み超えてるっす。
強いとかっても
「顔良20人ぶんくらい?」
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろ軍神。さすが!なんかもうね、張遼とか許チョとかを超越してる。軍神だし超強い。
とひたすらへりくだった書簡を送り、その油断を誘った。
このため呉への警戒を厳としていた関羽も、要警戒人物の呂蒙の帰国、そしてそれの代打が無名の陸遜、そしてこのへりくだった手紙などからすっかり警戒を解き、呉の国境線の戦力をいくらか抽出して前線に向かわせてしまう。

そしてこの機を待ちに待っていた陸遜は、満を持して荊州になだれ込む。
呉軍は電光石火の速度で進撃し、呂蒙が関羽の本拠地である南郡を抑え、陸遜はそこからさらに北進して房陵方面の抑えにあたった。
本拠地を一瞬で失った関羽はなすすべもなく捕えられて殺され、呉は荊州南部を完全にその勢力下においた。219年10月のことである。

呂蒙はその後まもなくして本格的に病に倒れたため、陸遜が荊州の戦後処理を行うことになり、硬軟取り混ぜた対応で見事にこれを果たした。


【炎上】

だが劉備は呉のだまし討ちによって関羽と荊州を失ったことを決して忘れてはいなかった。呉と陸遜への復讐を誓った劉備は222年、呉側からの和平打診を蹴り、ついに荊州に進撃する(夷陵の戦い)。
孫権は陸遜を大都督(軍事総司令官)に任じ、対劉備戦の総責任者としてその幕閣に呉軍の主力を編入した。

だが陸遜は先に関羽討伐と言う大功を立てたものの、それ以前は国内に対して手腕を振るってきた武将であり、対曹操戦線を担当していた彼らにはあまり知られていない存在だった。
年齢もまだ39歳で、若すぎるとまでは言わないが、歴戦の将軍とも言えない、なんとも微妙な感じだった。

さらに言えば、そもそも呉という国自体「重職にあるものは護衛なしで絶対に外を出歩くな(いつ死体になっても不思議じゃないから)」と孫権がわざわざ命令せねばならないほどの修羅の国であり、武将たちも総じて気が荒く、態度もでかい。

このため陸遜は当初部下たちにナメられきっており、なかなかその命令も行き届かなかった。
さらに陸遜は一応歴戦の武将である劉備とその精兵を警戒し、正面からぶつかろうとせず戦力を温存したまま後退するという戦術を取ったため、なおさら部下からの不満は大きくなった。

しかし相次ぐ後退で夷陵に到達した時、ついに陸遜は「劉備に奇策はなく、ただこちらの後退に引きずられただけだ」と確信。
一度攻撃を行って劉備軍の布陣を観察すると、その弱点を見抜き、全軍に火種を持たせてこれを火攻めにした。これから毎日陣を焼こうぜ?
この攻撃に劉備軍はなすすべもなく壊滅し、劉備は戦力の大半を失って命からがら自国に逃げ帰ることになった。

その後しばらく陸遜は荊州に留まり蜀漢に備えていたが、228年になると再び交戦状態に戻っていた魏への対策のため本国へと帰還する。
当時の呉軍は魏の対呉戦線総司令官曹休に手こずらされており、直接戦えば敗北し、戦わずにいても巧みに国内の異民族を扇動されて損害を重ね、責任を恐れた将軍達の投降も相次ぐという惨状にあった。

しかし孫権はこの情勢を逆用し、忠実な武将の偽装投降から曹休を罠にかける作戦を考案。再び陸遜を大都督に任じて、作戦の総指揮を執ることを命じたのである(石亭の戦い)。

将軍周魴によって行われたこの偽装投降作戦は見事に成功し、曹休は部隊を率いて呉領深く誘い出されてきた。
曹休も途中でこれが罠であることに気付いたのだが、しかし歴戦の将軍である自負故か、罠と知りつつそのまま進んで会戦に打って出ようとした。

しかし陸遜は3方向からの挟撃によってこれを打ち破り、さらに後退した曹休軍に抜かりなく夜襲を敢行して壊滅的な損害を与えた。

これら対蜀・対魏の2度にもわたる大勝利によって、呉内における陸遜の名声は決定的なものになる。
229年に孫権が皇帝として即位すると、46歳の陸遜は軍部のトップとして上大将軍に任じられ、名実ともに孫呉軍部の最重鎮として認められた。


【延焼】

その後も陸遜は基本的に荊州に常駐していたが、孫権は重要事項に関しては政治・軍事問わずしばしば陸遜の意見を求めている。

さらに陸遜は度々対魏作戦の陣頭指揮もとったが、この頃になると既に三国間の趨勢は魏の優位が決定的になっており、さしたる戦果は上げることができなかった。

そしてこの頃の陸遜、というか呉という国そのものに暗い影を落としたのが、孫権の後継者を巡った権力闘争、即ち二宮の変である。
この事件に関しては現代の歴史家の間でも様々な見方があるが、陸遜の行動が非常に大きな影響を及ぼしたことに関して疑う者はいない。

当時の陸遜は244年から丞相の地位についており、またこの件では太子である孫和派に属していた。
陸遜は荊州にいながらも、首都の孫権に対して「既に正当な太子を立てられたのですから、その立場を陛下ご自身がはっきりさせて下さらねば皆に不安が広がります」と上奏文を提出する。

これは確かに正論ではあったが、しかし後継者選定と言うデリケートな問題に対する干渉としてはあまりに直接的に過ぎたとも言える。
さらに陸遜はこの上奏を3、4回も繰り返しただけではなく、孫権がそれを受け入れないと見るや「ならば私自身が直接お話したく存じます」と言って首都への帰国許可を願い出た。

ここに至って、孫権は陸遜に対し明確に怒りを表明する。
陸遜の帰国申請は却下され、それだけではなく孫和に仕えていた陸遜の親戚の3人が「孫和の下で太子の座を巡る工作活動を行っていた」ことをとがめられ、流刑に処された。

さらに孫権は陸遜に対して何度も詰問の使者を送ったため、両者の間の緊張は最高状態に達する。
だがしかし、その緊張が具体的な形に発火してしまうことはついになかった。

245年3月19日、憤りのあまり病を発していた陸遜は、ついに再び孫権に会う事なく病没した。享年62歳。

しかしこの一連の騒動は、陸遜の痛ましい死をもって鎮火したわけでは全くなかった。
むしろ「大功臣である丞相陸遜が、皇太子選定を巡る問題で憤死した」ことが公になったことで、それまでは「暗闘」だった後継者争いを公然化させてしまう結果になった。

以降の呉内ではこの問題にからむ臣下からの上奏が激増し、両者の誹謗中傷、讒言合戦が繰り広げられるようになり、本格的に国内を割る権力闘争へと延焼していく。


【子供たち】


陸抗
三国志ジャンルを離れると父親より有名な次男(ちなみにその息子はさらに有名)。長男の陸延は早世していたため、20歳にして陸遜の跡を継いだ。
父と孫権が不穏な状態で死別したため、彼もまた嫌疑を受けた立場のまま首都に帰ることになったが、孫権に対して立派に父を弁護してのけ、その嫌疑を解くことに成功。
孫権は陸抗に対して自らの過ちを認め、泣きながら謝罪したという。

成長すると父譲りの優れた将才を発揮し、最前線となった荊州で魏、また後には晋と戦い、斜陽の呉を支えつづけた。
晋将羊祜と互いの領土で善政を布きあいながら互いに信頼してやり取りをしていたエピソードも有名。*2
しかし二宮の変に端を発する国内の分裂と抗争はもはや呉にとって致命的な傷になっており、いくら陸抗が奮戦して国境を守り続けても、呉自体の衰亡は止められなかった。
彼の死から間もなくして、最後の柱石を失った孫呉もまた滅び去ることになる。

正論を重んじて君主の権威をあんまり尊重してあげないという点でも父譲りだったが、あそこまで世渡り下手ではなく、孫権より遥かにデスパレートな君主ともそれなりの関係を維持していた。


【人物】

正史「三国志」において、陸遜は1人で(正確には息子の陸抗も含めて)丸々1つの巻を占有するという破格の待遇を受けている。
君主以外でこれと同じ扱いを受けたのは、蜀志におけるかの諸葛亮のみであり、その存在の大きさがわかる。

……のだが、なぜか編纂者である陳寿による評価では
「陸遜の知謀も見事だったと思うけど、その才能を知って使いこなした孫権も見事だよね?」
「社稷の臣*3にとても近かった人である(社稷の臣そのものとはいってない)」
などと、微妙にひっかかる物言いをされている。

また「国を憂うあまりに身を滅ぼした」と忠誠心こそ評価されてはいるが、能力面での評価はほとんどない。
180字も使って称賛の嵐を浴びられている諸葛亮、あるいは歴史上の名臣たちに例えて絶賛された荀攸賈詡に比べると微妙に違和感がある。

東晋の時代に註をつけた裴松之に至っては、
「(石陽の戦いで)無辜の民を大量に殺傷した腐れ外道」
「マッチポンプでいいことした気になってる偽善者」
孫の代で家が絶えたのも残当
「小物相手に小細工でダメージを与えた程度でドヤ顔とか笑止」
などとこれ以上ないほどボロクソに罵っている。

この石陽の戦いというのは陸遜がさしたる戦果を挙げられなくなった頃に起きたことである。
諸葛亮の北伐に呼応して軍事行動を行うも孫権はいつものように合肥で敗れ、陸遜と諸葛謹も荊州の襄陽を攻めきれず撤退した。
陸遜はこのままでは帰れないと突如江夏にある石陽という都市を急襲しようとし、突然戦が始まると知った住民たちは大パニックになって我先に逃げようと城門に殺到した。
このままでは城門を閉じられず呉の軍勢を素通しすることになるため、石陽の守将は住民を大量に殺戮して混乱を鎮めなんとか閉じた。
すると陸遜は急襲を諦めて逃げてきた住民を手厚く扱って帰したため、住民たちは呉に帰属したという。
……どうだろう、なんだかモヤっとしないだろうか。陳寿も裴松之も、これを問題視しているわけである。

まあこうした評価もあるにはあるが、現代的な目で見てみればその実績を疑う者もいないだろう。
関羽、劉備、曹休と名だたる将帥達を打ち倒したその戦術的手腕、各地でみられる適切で寛容な占領地行政など、文武共に国家の重鎮たるに相応しい能力を持っていたと言える。
人徳者でもあり、特に会稽太守である淳于式絡みのやり取りは、孫権でなくても感心せずにはいられないだろう。
淳于式「陸遜の野郎は考えもなしに民衆を徴発し、混乱させてやがる!」
陸遜「(孫権から↑の話を振られた後、孫権に対して)淳于式は真面目に職務をしていて、民心の安定に心を砕いているからそういう言葉が出て来るのです。それに、私が今彼の悪口を言っても、何の役にも立たないですよ」
孫権「ああ…これこそ賢者の言うことだなぁ…(感心)」

現に唐の徳宗帝以降、中国の歴代王朝では太公望を筆頭に過去の王朝の名将たちを祀った「武廟」を建造することが流行ったが、陸遜もほとんどの武廟で「名将たちの一人」として祭祀対象に入っている。

また生家の陸家は代々謹直な家風でも知られており、育ての親である陸康などは地方税制について思いっきり過激な表現を使って上奏したため、不敬罪をくらってブチ込まれたことがあるほど
(この際はのちに兗州刺史となる劉岱が弁護してくれて助かった)
陸遜もまたこの家風と無縁ではなく、君主孫権にも直言をはばからない所があった。
この家風は子孫にも受け継がれているが、それ故に陸抗の上の子二人は孫呉最後の戦いで討ち死にし、下の子三人は八王の乱の最中に三族皆殺しにされてしまった。
他の陸遜の子孫については何の記載もなく、直系の消息は途絶えている。

【創作作品における陸遜】

現代日本における陸遜の扱いから考えると意外かもしれないが、伝統的な三国志創作(三国故事)における陸遜は一言で言えば「空気」である。

それも空気と言っても「登場はするけど空気なキャラ」ではなく、「そもそも出番自体が少ないキャラ」という方向性。

なぜかというと、まず「呉所属である」という点が最大の原因。
「三国故事」と呼ばれてこそいるものの、実際には「主人公の蜀と悪役の魏」という構図がその基本であり、主人公(蜀)にとって敵とも味方とも言い難い呉は、はっきり言って影が薄いのである。

さらにもう1つは、「実質的な主人公である張飛・関羽・孔明との接点が殆どない」こと。
呉の中で例外的な存在感を持っていたのは、孔明の引き立て役である周瑜、そして関羽を殺した呂蒙だが、陸遜にはこれに該当する蜀サイドのキャラがいなかった。
無論史実の関羽討伐には陸遜も関わってはいるのだが、やはり主犯である呂蒙の方が存在感が大きく、陸遜はほとんどスルーされていた。

「でも陸遜だって夷陵で劉備をやったじゃん?」と思われるかもしれないが、三国故事における劉備ははっきり言って小物であり、勝ったところでへーくらいでで済まされるような存在にすぎないのである。

現代のような広い人気を持ち始めたのはごく最近、ぶっちゃけるとコーエーの「三國無双(Dynasty Warriors)」以降の話である。

<唐~宋までの陸遜>

議論の余地なく、完全に果てしなく空気な時代。
まあこの時期に既にキャラとして認識されていた呉の人物と言えば周瑜・小喬、あと君主の孫権ぐらいであり、やむを得ないところか。

<元ぐらいの陸遜>

講談や戯曲などを経て、三国故事が進化し、登場人物も増えてきた時代。
赤壁を中心として呉の存在感もだいぶ大きくなり、陸遜も魯粛、呂蒙、黄蓋らと共にようやく名前が出てくるようになった。

……が、やっぱりまだまだ影は薄かったと言わざるを得ない。
この頃、後の演義のご先祖様にあたる「三国志平話」が誕生しているが、夷陵の戦いの主将は関羽討伐から引き続き呂蒙(寿命が延びたらしい)であり、陸遜は登場こそするもののオマケに近い。

<三国志演義の陸遜>

明代になってついに三国故事の決定版、「三国志演義」が完成。
ここで陸遜のキャラ設定も一気に飛躍し、やっとまともな個性を獲得することができた。

とは言っても陸遜の場合、周瑜や呂蒙、孫夫人のような大幅な脚色によるキャラづけはほとんど見られない。
というのも、演義における脚色というのは講談や戯曲のそれを移入したものが殆どなので、それまで目立たなかった陸遜には脚色に使うべき「元ネタ」が殆ど存在しなかったからである。

このため陸遜のキャラづけや役割はほとんど正史のそれと変わりないが、それ故に周瑜や魯粛のように孔明のかませ犬になることを免れたとも言える
せいぜい「劉備を追撃しようとしたら、孔明の作った仕掛け(八陣図)に迷わされて閉じ込められた」ぐらいのもので、正史通りの呉の名将としての立場を保つことが出来ている。

とは言え、脚色が完全に皆無なわけでもない。

△「若い書生」
主役として活躍する夷陵の戦いでは、「若い(儒教を学ぶ)書生」として登場し、顧雍張昭に不安がられる。
実際史実においてもこの時まだ39歳と(高級将校としては)若く、実際部下にも反抗されているため、若さをより強調してこれに説得力を出したものとみられる。
書生と言う設定は「書生に戦いなんかできんの?」と言う構成上の「タメ」だと思われるが、実は既に関羽討伐時にさらっと武将として出てきているのであまり意味がない。

△「イケメン」
「身長八尺、顔は美しい玉のごとし」とされている。丸顔って意味じゃないぞ。
史書においては陸遜の容姿に触れた資料はなく(ご先祖様には有名な美形がいるが)、これは執筆サイドの単純なアッパー補正と思われる。

と一目見てわかる通り、蜀の味方でもない(むしろ敵役の)魏や呉の将としては破格と言うべきプラス補正をもらっている。
なんでこんな好意的な評価を受けたのかと言うと、これは執筆陣の価値観が反映された結果だと考えられている。

演義の執筆(というか編纂というか)に当たった人々は、厳密な意味での士大夫*4ではないが、それでも充分な教養を持った文人層ではあった。
そして講談や戯曲を愛してきた庶民たちと違い、教養のある層にとっては陸遜は非常に「ひいきしたくなる」人物だったのである。

その第一の理由は「陸士衡(陸機)の祖父だから」というもの。陸機というのは陸抗の子、つまり陸遜にとっては孫にあたる人物で、西晋時代の文筆家・書家・政治家である。(なお弟陸雲も文学者として滅茶苦茶評価が高い)
彼は六朝時代を代表する文学者としてその後も長く士大夫層に尊敬され続けた人物であり、その尊敬が祖父である陸遜にも反映されたというわけ。

また第二の理由として、陸遜自身も「忠誠心があつく、多少無礼であっても直言をためらわない人物」という士大夫好みの武将だったため、この点も好感度を上げる結果になったと思われる。

とまあそんな具合に呉の武将にしては魅力的なキャラを与えられた陸遜だったが、それが読者人気につながった?と言われると微妙ではあった。
そもそも呉に対する人気は周瑜1人の絶対的寡占状態にあったし、やはり「張飛とも関羽とも孔明ともろくにからめない」というハンデがあまりも大きすぎたのだろう。


<清あたりの陸遜>

清の時代は、三国志創作にとっては「ビジュアルの時代」と呼べる。この時代に盛んになった商業演劇によって、主要キャラの外見的なキャラ付けが大きく発展したのである。

その代表的な存在である京劇においては、陸遜は(演義がそうなんだから当然というべきだが)イケメンという属性が強調されることになった。

京劇は演じるキャラによって語り・化粧・衣装などがある程度「役柄」がパターン分けされており、例えば張飛や曹操の場合だと、『浄』という役柄が担当する。
これは声はバリトン・顔は自顔を見せないフルペイントで、敵キャラあるいは個性的なサブキャラを担当する役柄。
同じように貂蝉や孫尚香などの女性役を『旦』、道化役を『丑』と呼ぶのだが、陸遜の役柄はイケメン主役キャラである『生』にあたる。

元々三国志演義とは軍記モノという性質上、ヒゲつきのおっさん・爺さんが殆どであり、『生』が担当するイケメンキャラは決して多くない。

しかも陸遜の役柄は、更に細かい分類をすると『生』の中の『小生』になる。
これは『生』の中でも特にイケメンさと若さを強調した役で、化粧は薄めで顔出し、ひげも決してつけることなく、発声も高めのカウンターテノールという、いわば「イケメンofイケメン」の役。
美しさを強調するため1つの演目には1人までしか登場せず、美人の女優が男性キャラを演じることすらあったりする、まさしく真正の美形役なのである。

伝統的な三国志系演目の中で純粋な『小生』は非常に珍しく、陸遜以外には呂布劉封関索ぐらいしかいない(美形キャラの代表格である周瑜は、演目によっては武生や老生で美青年・美中年が演じることがある)。

よって三国志の数少ない美形キャラとして人気が……出たかと言われると、これでも微妙だったと言わざるを得ない。
だっていくらイケメンになったところで、冒頭に挙げた2つの弱点に関してはなんの解決もされていないのである。

この時代にやはり三国志モノの主役は圧倒的に蜀であり、呉側を主人公サイドとした演目は周瑜・孫策関連のものがわずかにあるだけ。
人気キャラである劉備三兄弟と趙雲とろくに絡めないのも相変わらずであり、スポットライトが当たる機会そのものが限られていたという点は何も変わっていなかった。

とはいえ陸遜と言うキャラに対する好感度そのものはじわじわと高まってきており、小説などでは「呉の良心的存在」として好意的な扱いを受けることも多かった
京劇でも「白帝城」などの演目で孔明と戦う機会を設けたりしていたのだが、それでもこの時点ではまだマイナーキャラの域を脱することはできていなかった。

<現代の陸遜>

そんな陸遜がようやくブレイクに至ったのはごく近年、現代になってからのこと。

その最大の原因は、受け手の価値観の変化で三国志モノの勧善懲悪的側面が薄れ、歴史物語としての側面が浮上してきたことだろう。
これによって観客の魏や呉に対する見方も変化し、自然と作り手側も蜀以外のキャラにスポットライトを当てていくことになった。

そして「蜀こそ絶対正義、魏は悪役で、呉はどっちつかずのコウモリ野郎」という類型化を離れることができれば、文武両道、忠誠心が篤い人格者で、活動期間も長いという陸遜は見事に人気者の要素を揃えているのだ。
またこういう尖ったところの無い優等生キャラは、創作サイドからしても使いやすいものである。

また陸遜のブラッシュアップに関しては、日本の「コーエー式陸遜」が果たした役割も決して無視できない。
コーエー式陸遜は従来型の「若い青年」から一歩踏み込んで「少年」という属性を与えられており、これが現代エンタメにおける陸遜の個性を決定的に確立した。
さらに「呉の美形都督」という点でキャラ被りが密かに問題になっていた周瑜とも、「イケメン周瑜」「イケショタ陸遜」という形ではっきりと線引きが可能になった。

このコーエー式陸遜は無双によって中国への逆輸入は勿論、欧米にまで普及し、現代の三国志創作に深く影響を及ぼしている。


『横山三国志』

非常に珍しい、ヒゲありでおっさん、美形でもない陸遜。
横山光輝がデザイン・作画上の参考にした資料としては2種類の三国志連環画(絵本)が確認されているが、この陸遜はそのどちらにも当てはまらない。
当時は既に「美青年陸遜」のビジュアルがスタンダードとして普及している時期であり、何の資料を参考にしたのかはいまだに不明となっている。
ちなみに下記「適当にやっていればよろしい」の元ネタ。

蒼天航路

冷徹で知的な感じのイケメン。見た感じ呂蒙との年齢差があまり見て取れないが、実際この二人、史実では5歳しか差がない。さり気に原作再現である。
知略や弁舌はもちろん、蒼天キャラの必須技能とも言える武術も凄まじく、「量産型関羽1号機」こと関平を一騎打ちで倒している。


園田三国志


          川
        ミミ川川ツ
       ミミ:::::::::::::::::彡彡
      ミミ::::::::::::::::::::::::::彡彡
    ミミ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡彡
 ミミミミミ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡彡彡彡彡彡彡
ミミミミ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡
 ミミ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::彡
  ミミ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;彡
   ミ;;;;| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、;;;彡彡彡
    i`|( ,,,;;;;;;;;,,  ,,;;;;;;;;;,,, ) Y^ヽ彡彡
    ヽ! "ゝ-゚ イ⌒ゝ-゚-イ"   d/彡
     i´    ,;(´__);,,      Y彡
    l     ,;;,;;;;;;;;;;;;;;,;;;,,,      |
   ,ィ<ヘ   ,,,;;;`ー―‐'";;;,,    ノ>\_
  イ^ゝ ゝ、__,,,,;;;;;;,,,,,____,イ/ /  ``ヽ、_
           "'''''''""
これでは「顔は(ボーリングの)玉のごとし、髪型はカナダ国旗のごとし」ではなかろうか。


『コーエー三國志シリーズ』

美少年陸遜といえば無双のりっくんが有名だが、元祖はこちらの方である。顔グラが細分化された13の「老齢期Ver」を除き、ヒゲが生えたことは1度もない。
能力的には無論最強クラスで、武力以外の全ての数値が高い。また呉の武将の多くに共通するが水軍適性も最高クラスであり、この点では孔明や司馬懿も及ばない。
全体的に寿命が短い傾向がある呉の都督達の中にあって、ぶっちぎりの長寿を誇る点も高評価。
特に主力級が続々死んでいく後半を活動時期としている点が大きく、文字通り呉の大黒柱として活躍してくれる。


『三國無双シリーズ』

「今です!項目に火を放ちなさい!」
格ゲーであった初代から登場。「研鑽を積む(美)少年」枠のキャラクターで描かれる。
呉蜀終盤において常連ステージの夷陵の戦いにおける主役。ゲーム外では「放火魔」と愛好家に弄られることも。

三国志大戦

三国無双の後に出たゲームで、こちらでも基本的に美少年。…というかほぼ男の娘
ただし声は男性声優が務めている為、中性的と言ったほうが正しいか。
そのせいで既存武将のコンパチスペックであるLEとして横山陸遜が出てきた時には見なかったことにしようその場で破り捨てられたという話まである。
性能は、コストに対して武力は低めの傾向にあるが知力は高い文官ステータスだが、一騎討ちは普通にする
基本的に溜め計略*5持ちであることが多い。

しかし3後期には壮年期の渋い姿が登場したり、4にはイケメンを通り越したズカ系(CV:子安武人)なんかも登場した。
また息子の陸抗や孫の陸景、陸機も登場。大体が超イケメンである。
ちなみに義理の兄の陸績も登場しているが、そちらは袁術との蜜柑話くらいしか逸話が無いせいか、低レアの蜜柑を持った少年にされることが多い。
4だと完全に女の子にしか見えない。(CVもこの血族唯一の女性声優である。)

BB戦士三国伝

「陸遜ゼータプラス」として登場。演者はΖプラス、アニメ版でのCVは下野紘
元は身寄りのない孤児で、孫尚香ガーベラのお目付役という名のドレイを務める少年武将。
尚香のお供としての役割がメインのため活躍シーンは少ないが、周瑜ヒャクシキの弟子として期待される若手のホープ的なポジションになっている。
演者が可変機という都合でツバメ型の「燕迅形態」を貰ったため、火属性の火計キャラではなく風属性っぽい扱いになっている。

キットは轟(呉)勢力の特徴であるクリアパーツがあしらわれた華やかなデザイン。
可変機構の都合でつま先が可動式になっているため、空中戦のポージングが映えるキットに仕上がっている。


「これから追記:修正などまじめにやることはないぞ」
「は?」
「適当にやっていればよろしい」

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最終更新:2024年04月16日 01:19

*1 漢昌は劉備軍の支配する江陵に隣接した、対劉備最前線地帯

*2 三国志演義では、この行動が原因で疑われ左遷されているが、史実では詰問されたとあるだけでその後も昇進している。史実の詰問も周囲に示しをつけるためのパフォーマンスだったという説もある。

*3 国一番の重臣、というような意味

*4 科挙に合格した人

*5 計略とはこのゲームでいうアビリティ、条件を満たせば即座に発動できるが、溜め計略は発動までに時間がかかる。代わりに効果は非常に強力