津山事件

登録日:2010/05/21 Fri 01:44:37
更新日:2025/09/20 Sat 09:51:02
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この項目では実際に起こった殺人事件を取り扱っています。
閲覧の際はご注意ください。









本事件は1938年(昭和13年)5月21日未明に、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両部落で発生した大量殺人事件。
1時間半ほどの短時間にたった1人の犯人によって30人が殺害され、3人が重軽傷を負うという日本の事件史でも類を見ない凶悪事件となった。

犠牲者の数から、津山三十人殺害事件、津山三十三人殺傷事件等とも呼ばれる。

なお上記のように現場は津山ではない為、津山事件との呼び方にはやや語弊があるが、現在は2005年の市町村合併によって津山市に編入されている。

犯人は村に住む青年の都井(とい) (むつ)()(21)*1であり、犯行後に自殺をしている。
資料によっては22歳と書かれているものもあるが、これは当時一般的な数え年が使われている為である。

ちなみに
  • 短時間
  • 単独犯
  • 銃以外で大量殺戮を容易に可能にする手段(爆弾や放火等)の不使用
に限った場合、日本ではワースト1位。世界でも2017年のデータでワースト7位。
これ以上ない最悪の条件が重なった事件な為、日本ワースト1位は絶対に更新される事はないだろう。
というか、更新されてたまるか。


【事件のあらまし】


事件前日の午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断し、貝尾部落のみを全面的に停電させる。
村人たちは不審に思って騒いだものの*2、電力が不安定な戦時中の田舎という事もあり、誰もが電力会社へ通報する事なく、いつもより早く就寝についた。

翌21日午前1時40分頃、都井は自室としていた屋根裏部屋で詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭には鉢巻を締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。
首からは自転車用のナショナルランプ(電池式のヘッドライト)を提げ、腰には日本刀一振りと匕首(合口のような短刀)を二振り、手には5連発を9連発に改造したブローニング猟銃(ダムダム弾を装填)を持った。

なお犯人像として映画『八つ墓村』の影響からか、懐中電灯を角のように鉢巻に垂直にぶっ差している絵がよく描かれるが、実際にこれをすると頭上を照らすだけで当人の視界確保には何の意味もないので間違いである。
映画「丑三つの村」のDVDパッケージにあるように、懐中電灯は正面を向くように取り付けられていた。

そして、手始めに階下で寝ていた祖母の首をで切断して殺害。
その後、闇に乗じて、鍵をかける習慣のなかった近隣の家に次々と押し入り、住民を次々と殺害していった。

その結果、僅か約1時間半で、
  • 刺殺・斬殺: 4人(1人は斧、3人は日本刀による)
  • 射殺: 26人
  • 重傷: 1人(胸を撃たれるも一命を取り留めた)
  • 軽傷: 2人(脚等を撃たれた)
  • 侵入軒数: 11軒
  • 一家全滅: 3軒
という凄惨なものとなった。
仮に裁判に掛けられていたなら、殺人・殺人未遂・銃刀法違反等で極刑相当である。


結果だけを見ると手当たり次第に家に押し入り、そこの住民を殺し回ったような印象を受けるが、
  • ターゲットは特定の人物並びにその縁者に限られている事*3
  • 通常なら無差別殺人事件では死者と共に大勢出るのが一般的な負傷者が、本事件の重軽傷者としては3人とかなり少ない事
  • とある家では「お前は自分の悪口を言わなかったから」と老人を見逃していた事
などから、都井は計画的、かつ冷静に着実に、そして迅速に犯行を進めていた事が窺える。

その後、隣の部落の一軒家に押し入り、以前から知り合いだった子供から鉛筆と雑記帳を拝借して立ち去る。

翌朝、山狩りによって3.5km離れた荒坂峠の山頂にて、猟銃で自殺した都井が発見された。
遺体の側には借りた雑記帳に書いた遺書が残されており、さらに事件前に書いたと見られる遺書が自宅からも2通発見されている。

遺書には、主に、
  • 自身が犯行へ至る動機となった病への不安
  • 病による住民の迫害への恨み
  • 関係を持ちながら離れていった女性達及び不仲だった男達への憎しみ
  • 残される不憫を思いやむなく殺害した祖母及び残された姉*4への謝罪
  • そして「うつべきをうたずうたいでもよいものをうった*5」無念
が記されていた。

都井の姉は弟を丁重に葬りたがったが、夫や親族の反対により、近くの川から持ってきた人の頭ほどの大きさの何の変哲もない石が彼の墓標代わりとなっていた。
しかし現在は竹林の侵食によってその面影すらも確認できなくなっており、近所の人間ですら憐れんでいるという。

【事件が起きるまで】


犯人の都井睦雄は1917年3月5日に岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市加茂町倉見)に生まれた。
3歳までに両親を相次いで結核で亡くし*6、姉と共に祖母に引き取られる。
6歳の時に祖母の生まれ故郷の貝尾部落に引っ越した。

見知らぬ土地というのもあったせいか、幼少期の都井の遊び相手は近所の子供達ではなくもっぱら姉で、引きこもりがちな子供だった。
また、都井の祖母は過保護なところがあり、病気を理由に小学校入学を1年遅らせた*7他、入学後も度々都井を休ませたりしていたという。

しかし休みが多い事、やや内向的な事を除けば、成績も態度も悪くないごく普通の真面目な子供であり、成績自体はむしろ上位であったらしく、級長に選ばれる事もあった。

高等小学校卒業時には教師から進学を勧められ、都井は祖母に岡山市内の中学校へ進学したい事を相談するも、彼を手元に置きたがった祖母の反対により、断念している。
ちなみに当時の義務教育は小学校までであり、最終学歴が小学校というのは珍しくなかった。
逆に言うと中学校への進学を勧められるくらいには、都井は頭が良かったのだろう。

さらに高等小学校卒業後には都井の心の拠り所であった姉が結婚し、家を出る事となる。
都井は姉が家からいなくなった事でそれまで真面目に取り組んでいた勉強にも消極的になり、ますます引きこもりがちになっていくが、同年代とは関わらない代わりに近所の子供達とは仲良くしており、当時の少年向け雑誌に掲載されていた小説を子供向けにアレンジして読み聞かせたり、紙芝居を読んでやったりしていた。
実際に都井が自殺前に遺書を書く為に雑記帳を借りたのも、仲良くしていた子供の一人だった。

そして20歳頃から都井は女に興味を持つようになる。
当初は娼婦を買っていたが、やがて当時田舎の村では一般的だった夜這いの習慣に倣い、村の女達に手をつけるようになっていった。

しかし事件の前年の1937年に徴兵検査を受けた際に、結核を理由に事実上の不合格である丙種合格とされた
当時の徴兵検査は一種のステータスであり、兵役を免れたといえば聞こえはいいが、これに落ちるという事は相当な恥であった。
この情報はすぐに広まり、これまで関係を持った女性達は「お前は徴兵をハネられたんやないか!」と関係を拒絶するようになった。
都井は躍起になり、都井家の土地を切り売りして金品を出して迫るも、拒む女性達は増える一方だった*8

この頃から都井は狩猟免許を取り、猟銃や日本刀を買い集めて猟銃をぶら下げて徘徊したり、射撃練習をしたりした。
これは村人が悪口を言わないよう脅したり、女性達を言いなりにさせたりするのが当初の目的だったと推測されるが、それがやがては村人への殺意に変わっていったようである。
そんな都井を不審に思った村人から通報を受けた警察に家宅捜索され、武器はすべて没収されるが、本人は懲りる事なく、むしろこれで周りの人間は油断したと考えて再び武器を秘密裡に買い集めたようだ。

そして特に懇意にしていたが、都井を振って他の男と結婚した女性2人が里帰りしてきたタイミングで事件は発生した*9

しかしこれは遺書と数少ない証言や証拠と状況証拠による推測であり、当然確実さには欠ける。
生存者達も事件について語る事は少なく、語ったとしても夜這いや村八分等の村の暗部については否定しており、信頼性は低い。
一方で90年近くを経た現在では、ぽつぽつと語られる内容の中には夜這いや村八分を認めるものも含まれている。


近年、あるTV番組で津山事件が特集された際に、事件直前に電話線を切って回っていた都井とすれ違い、言葉を交わしたという女性が証言をした。
彼女は「彼は見るからに好青年で、その時も別れ際に『気をつけて帰れよ』と言ってくれた」と語った後、「私達がもう少し優しくしていれば、あんな事にはならなかったのじゃないか」と声を震わせていた。

事件当日に都井に雑記帳と鉛筆を貸した、以前から彼と顔見知りだったという子供も、自身の家族が都井の異様な風体に怯えて動けなくなる中、別に「貸さないと殺す」と脅されたわけでもないのに、素直に都井が所望した物を渡しているところを見るに、普段交流していた近所の子供達からは、都井は純粋に慕われていた事が窺える。
なお、都井はこの子供とその家族を傷付けることなく、「いっぱい勉強して偉い人になれよ」と言って立ち去ったという。



【その後】


貝尾部落は事件によって世帯が大きく減り衰退したが、現在でも人は住んでいる。
都井家は空き地となっている。
姉はその後、津山市街にて家族でうどん屋を経営し、そして90年代後半に亡くなった。

また前述の生き残った女性は2008年まで存命である事が確認されている。
ちなみに事件直後に妊娠した為、「都井の子ではないか」と親族から離縁を迫られたが、ご主人は「あの都井が執着したほどの女を手放すわけにはいかない」と豪胆にも断ったとかなんとか。

先にあげた都井家の墓所だが、現在は天然の竹が侵食してきており、祖母の墓の隣にある都井睦雄の墓も埋まりつつある。
自業自得、と思うかもしれないが、さしもの地元民でも「流石にそれは可哀想」と墓所の荒れ具合を哀れんでいるとの事。
とはいえ竹林を切り開くのは容易ではなく、このまま侵食が進めば都井睦雄の墓があった痕跡も消えていくと思われる。

なお、30人もの犠牲者を出したこの津山事件は、長らく日本史上最悪の死者を出した殺人事件とされていたが、2019年にその最悪の記録が塗り替えられてしまった。
アニメ制作会社「京都アニメーション」の第一スタジオにて発生した放火殺人事件、通称「京アニ(放火)事件」で36人もの犠牲者が出てしまったからである
「大量殺戮を容易に行える手段を使用していない」、すなわち凶器殺人という点を加味すれば*10津山事件が未だ最悪であるが、この事件が単独犯が起こした殺人事件で起こった犠牲者数の国内ワースト1位を更新してしまう事となった。
両事件の犠牲者の冥福を祈ると共に、これ以上更新されるような事がないように願うばかりである。


【事件を扱った作品】


津山事件は大きく報道され*11、影響を受けた創作も作られた。

  • 事件に関する文献
「闇に駆ける猟銃」松本清張
「津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇」筑波昭

  • 小説
八つ墓村横溝正史:冒頭で描かれる過去の事件のモデルが本事件。
「龍臥亭事件」島田荘司:本事件が起こった村を舞台にし*12、この事件が「切っ掛け」等になって連続殺人が発生する。
「丑三つの村」西村望:古尾谷雅人主演で映画化もされた。
「夜啼きの森」岩井志麻子

  • 漫画
「負の暗示」山岸凉子
「夜見の国から~残虐村奇譚~」池辺かつみ
「サタノファニ」山田恵庸

SIREN」SCE:本事件をベースにしたと思しき「××村三十三人殺し」という都市伝説が、主人公の一人を物語の舞台に導く事となった*13

またこの事件をベースに杉沢村の都市伝説が作られたと見られる。
もっともこの事件も発生から80年が過ぎ、大きな証言が語られる事なく事件当時の生存者が全て亡くなった為、都市伝説の域になっている。


【注意】


興味本意での現地探訪はおすすめしない。
先に書くが特に何もない部落であり、狭いので部落の住人は互いに全員顔見知りと考えてよい為、よそ者がいるとすぐに事件目当てとバレる。

なお、2010年に現地を訪問し、住人のおばあさまから快く事件について話を聞く事ができたブログがあるが、これはブログ主のコミュ力と、そのおばあさまが事件後に嫁いできた為、事件を直接見ていなかったという事が大きい。
幸運がそう重なるとは限らないので、気安く真似しない方が賢明であり、どうしても現地探訪したいなら、地元の方に気を遣える人に限られるだろう。
YouTuber等、ライバーが足を運んでいる動画がアップされているが、その多くは事件地を探訪するのが目的での来訪ではあったが、地元の人に気を遣っての訪問をしている動画がほとんどである。
それによると近年は空き家が倒壊したり、空き地にソーラー発電施設が出来上がる等しており、衰退と開発の両面が見られる状況になっているようである。


被害者のみなさまの御冥福を心からお祈りします。
追記・修正お願いします。


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最終更新:2025年09月20日 09:51

*1 名前については当時の新聞等で「戸井」「睦夫」等、混乱が見られる。

*2 ちなみに生存者の証言では都井もその中にいたらしい。

*3 逃げてきた住民を匿った為、巻き添えになった家もあるが。

*4 既に結婚して家を出ていた。

*5復讐を完遂する事が出来ず、無関係な者(特に祖母)を殺害した」という意味である。

*6 父親の死亡時に家督も継いでいる。

*7 3月生まれな為、クラスで落ちこぼれる事を防ぐ為と思われる。

*8 もっとも自殺現場に選んだ荒坂峠は、いくら興奮状態にあったとはいえ、結核患者が楽に登れはしない急勾配であり、診断は誤診ではないかとの説もある。

*9 ただ、その女性達のうち1人は軽傷を負わせただけで取り逃がし、特に恨みを感じていた女性も当日に部落を出ており、結果、都井は遺書で名指ししていたターゲットを全員殺す事はできなかった。

*10 上述の通り、この「手段」に「放火」も該当する為。

*11 皮肉にも都井が愛読していた少年倶楽部でも特集された

*12 村の名前等は架空のものである。

*13 詳細は伏せるが、実はこの都市伝説も、このゲームのとあるテーマを象徴する要素の一つである事が最終盤で明かされている。