世良修蔵

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更新日:2025/05/22 Thu 23:00:25
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世良(せら)修蔵(しゅうぞう)(1835〜1868年)

長州系維新志士。
幼名が鶴吉(つるきち)、通称が修蔵、諱は砥徳(きよのり)、号は周陽(しゅうよう)周東(しゅうとう)侘山(たさん)

重富(しげとみ)戸倉(とくら)大野(おおの)木谷(きたに)世良(せら)とよく改姓した。


世良修蔵の肖像。
画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%89%AF%E4%BF%AE%E8%94%B5 ウィキペディア「世良修蔵」より抜粋

目次


誕生

天保6年(1835)7月14日、長州毛利家領内、周防国大島郡椋野村*1の庄屋・中司(なかつかさ)八郎右衛門(はちろうえもん)の三男として生まれる。

(注:ころころ苗字の代わる人ですが、本項目では世良で通します)

安政元年(1854)、大畠村の西本願寺派妙円寺の住職・月性(げっしょう)に弟子入りし、月性の私塾・時習館で最も大きな影響を受け、熱烈な海防論と尊皇攘夷の思想を身に付けた。

その後、江戸に出て儒学者・安井(やすい)息軒(そっけん)三計塾(さんけいじゅく)に学び、塾頭になる。

羽倉(はくら)簡堂(かんどう)藤森(ふじもり)弘庵(こうあん)ら著名な儒学者に弟子入りし、加藤(かとう)桜老(おうろう)に会いに常陸国笠間城下まで足を運ぶ事もあり、一度やる気スイッチが入ると、脇目も振らずに目標に向かって一直線という勉強熱心な青年だった。

その頃、地元の長州毛利家の重臣・(うら)靱負(ゆきえ)が開設した私塾・克己堂(かっきどう)が講師を募集していたので、これに応募し無事採用。

この頃の彼は大野修蔵と名乗り、採用された後、浦家の家臣・木谷家の養子に入り浦家の家臣(陪臣)…いわば下っ端ながら一応裕福な農民の息子から武士となった。

奇兵隊へ

文久三年(1863)10月、高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)が創設した奇兵隊に同郷・同門の赤根(あかね)武人(たけと)の招きを受けて入隊し、奇兵隊書記となる。

書記と言いながら、平時は奇兵隊士に儒学や尊皇攘夷思想、算盤や読み書きなど学問を教えるのが主な仕事で、奇兵隊の山県(やまがた)有朋(ありとも)は後に世良を思い出しては
「世良は偉いんだよ、なかなかの学者だよね〜」
と学識を高く評価していた。

慶應元年(1865)1月、軍資金不足などで活動不能に陥っていた大島郡の真武隊(しんぶたい)白井(しらい)小助(こすけ)*2、世良が中心となってこの真武隊を再興、他の数隊が合流する形で部隊が編成された。

結成地である周防地方が長州毛利家領の南東部に位置するため、北西部の長門地方で結成された奇兵隊との対称で、南奇兵隊と称された。

初代総督は白井、軍監には世良が就いた。

同年3月、諸隊を毛利家正規軍として公認することに伴って整理統合され、第二奇兵隊と改称、奇兵隊総督の山内(やまうち)梅三郎(うめさぶろう)が第二奇兵隊総督も兼務、白井・世良が軍監となり、隊員数は100人に削減(後に125人)。

この後、赤根武人*3が徳川幕府の密偵として潜入、和平工作をするも空振りに終わり、慶應2年(1866)1月、山口の鰐石(わにいし)で処刑された。

世良は赤根の縁故採用で入隊した為、関与を疑われ謹慎処分となった。

だが同年4月に、立石(たていし)孫一郎(まごいちろう)を首謀者に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件が発生*4
立石率いる脱走者達が幕府の代官所がある倉敷や備中浅尾蒔田家の陣屋を襲撃した事件で、当時長州毛利家を仕切っていた木戸孝允は、この時点で幕府とは交戦したく無い為、全て立石の責任と断罪し近隣諸侯に謝罪(主犯の立石は長州側で始末)、世良は隊内の安定のため復職している。

この際、浦家の家臣である世良家に養子になり、世良性を名乗る。

第二次長州征伐では高杉晋作が指揮する海軍と連携して、同年6月の大島口において伊予松山松平家を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。

地元の地の利を活かした世良は遊撃戦で敵を翻弄した、とある。

第二次長州征伐後、短期間、海軍局で勤務し、その後、薩摩島津家との折衝を行ったが、討幕の密勅が降ると長州毛利家は京都への出兵を決断し、世良はその遠征軍の指揮官に選ばれた。

慶應4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いでは第二中隊(元第二奇兵隊)や第六中隊(元遊撃隊)を指揮して1月6日の八幡山の戦いで勝利に貢献している。

転機

慶應4年(1868)2月26日、太政官は左大臣•九条(くじょう)道孝(みちたか)を奥羽鎮撫総督に任命、副総督に(さわ)為量(ためかず)、参謀は醍醐(だいご)忠敬(ただゆき)、薩摩の黒田(くろだ)清隆(きよたか)、長州の品川(しながわ)弥二郎(やじろう)がそれぞれ任命された。

仙台伊達家が単独で朝敵になった会津松平家を討つという話になり、京都詰の重臣•三好(みよし)監物(けんもつ)(諱は清房(きよふさ))が挨拶がてら黒田と品川に面会し、以下の様な話になった。

三好
「伊達家が討つ前に会津が3人の家老と4人の重臣と4人の参謀の生首を松平(まつだいら)容保(かたもり)が持参して、土下座謝罪をしたら、かつての長州毛利家みたく帝の住まいに直接砲弾をブチ込んでいないから、寛大な処遇を受ける理由になると思うが、いかがか?」

黒田
「それじゃ困るんだよね。
討幕の密勅を作り松平容保を殺戮せよと書いて、王政復古の大号令を発令して幕府を否定をし、挑発して戦争する意味が無くなる。
会津には是非とも王政復古を邪魔する敵役として派手に滅亡して、日本が変わったという事を世界中にアピールする為の生け贄になって貰わないと。
長州と同じことしても無意味、何が何でも理由を創り出しても、戦争するから」

三好
「もしそうなら、諸侯は全国から兵を挙げて奥羽全体を敵に回す覚悟がある。
諸侯にしてこの覚悟があるなら、会津征討は何も議論は有りません。
ただし、そうなったら天下平定の日は何時になるか分かりませんけど、その覚悟は決まっているんですよね?」

と返されると黒田、品川は無言で沈黙した。

この後、参謀に変更があり、黒田、品川は辞退して、同年2月30日に下参謀として薩摩から大山(おおやま)格之助(かくのすけ)、3月1日に世良が任命されている。

一説には、世良を推薦したのは大村益次郎という説がある。

奥羽鎮撫総督府軍が海路仙台伊達家領、東名浜(とうなはま)に上陸したのは同年3月23日。

総勢で400人なので、現地の大名家に助力を頼みながら、会津松平家を討伐という、ナイトメアレベルのミッションである。

奥羽の諸大名は幕末期、西日本の大名家みたいに京都に人を派遣したりして情報は集めていた。

まぁ、得た情報が距離が離れている分、時間とともに変化しているので、その情報を鵜呑みにして良いのか判断に迷う処もあり、情報の裏を取る頃には新しい情報が来るというのも日常茶飯事だった。

京都で天皇、関白、摂政、武家伝奏、議奏、或いは他の大名家と間接的、直接的に接する様になった者と京都から遠く離れ、冷静に第三者的な視点で政局の動向を眺めていた者との温度差と状況判断の差が、ここではモロに噴き出した。

世良や大山が眼尻を挙げて金切り声で会津討伐を叫べば叫ぶ程、奥羽の諸大名や家臣、民衆の心は離れていった。

民衆も世良ら総督府に御一新の期待を抱いたが、戦争催促ばかりで呆れてしまい、菅野(かんの)八郎(はちろう)という奥羽で影響力のある民衆運動の指導者ですら、
「奥羽の諸侯がやろうとしている同盟は、薪を背負って泥の船で大海を渡る様なモノだ。
しかし、太政官も綱の上に片足で立って首に繩を括りつけられている藻掻いているという感じで絶望的だ。
自分の身は自分で守る為に自衛しかない」
と諦めの境地にいた。

最期


世良たちの戦争指導は行き詰まりを迎えていた。

仙台伊達家の人望家である玉虫(たまむし)左太夫(さだゆう)を政治見識の違いだけで酷評したり、伊達家当主•伊達(だて)慶邦(よしくに)を罵倒したり、相方の大山も薩摩島津家の江戸屋敷を砲撃したというだけで庄内酒井家を朝敵にしたりと、凶犬みたいな感じで奥羽の諸大名がドン引きしていた*5

討伐対象の会津松平家は仙台伊達家や米沢上杉家から提案された和平交渉を太政官と交渉出来るなら、こいつら江戸で挑発目的のテロを行わないし、王政復古の大号令なんかヤラないし、討幕の密勅で松平容保を名指して殺せ!とか書かないよと、交渉の席に座る気も無かったし、醒めた眼で見ていた。

その中で、奥羽の諸大名も世良の戦争指導に嫌気が指し、総督の九条に訴えるが、窓口は世良なんで、彼に聞いてねと回答。

仙台伊達家を中心に、窓口の担当者を交代させましょう、物理的にという声が出てきた。

世良は世良で笛吹けど踊らずの現地の状況に嫌気が指し、最初に大村益次郎に手紙を送り、増援を依頼したが「無理」「自力でなんとかしろ」と拒絶され、次に庄内酒井家討伐の為、出羽新庄城下にいる大山格之助へ
「江戸にいる東征大総督府参謀西郷吉之助殿にお願いして、江戸から軍隊を北上させた方が早い。ですから、私が江戸に向かいます」
て手紙を送ったが、途中で仙台伊達家の家臣に奪われ、その手紙を読んだ伊達家の家臣達がブチ切れてしまい、慶應4年(1868)閏4月20日午前2時、世良が江戸に向かう途中の福島の金沢屋という旅館で襲撃。

合計24〜25名に襲われ、2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負ったとも、伊達家の家臣に生け捕りにされたとも。

捕縛された世良は、同日朝、部下のの勝見(かつみ)善太郎(ぜんたろう)と共に阿武隈川河原で斬首され、遺体は阿武隈川へ投げ捨てられた。

享年34歳。

首は翌日、白石城に運ばれたが、罵倒された玉虫左太夫が世良の首を見て、
「その首ちょうだい、厠に持っていき、糞壺に投げ込むわ!(意訳)」
と話していたとされる。
玉虫は仙台伊達家の中でアメリカ渡航歴*6があり、蝦夷地や薩摩に入国した事もあり、天誅組や幕臣にも友達がいて、高橋(たかはし)是清(これきよ)*7が尊敬する行動派の知識人でも、世良に怒りを顕わにした。

仙台伊達家の側も玉虫左太夫や伊達慶邦を罵倒されて、話が出来ないと断定され、日に日に殺意マシマシになった結果が世良の殺害である。

その後、仙台伊達家は世良の死によって戦争に突入、敗戦後太政官に恭順。仙台藩と名を改めた攘夷派の藩政府は戦後処理に失敗。反太政官派が政権を握ると攘夷派は東京の太政官に内政干渉を依頼、反太政官派を逮捕、投獄し、処刑したのは別の話。上述の高橋是清もアメリカ留学が嫌われてお尋ね者になり、アメリカで知り合った鹿児島藩の(もり)有礼(あれのり)にお願いして、鹿児島藩に移籍している。

戊辰戦争で仙台伊達家が降伏する際、太政官に対して押収した世良修蔵の名で書かれた慶応4年(1868)閏4月19日付けの大山格之助下参謀宛の手紙は、会津松平家が作成した偽手紙であったと述べているが、それを読んで判断するのは仙台伊達家である。

手紙の内容も捕まえた世良から聞けば偽か本物か判断できるのだが、それを世良に問い質した形跡はない。

明らかに手紙の件は会津松平家に責任を擦り付ける他責思考の産物である。

手紙が偽というなら、作った会津松平家がプロイセン王国の首相・ビスマルクが行ったエムス電報事件*8並に巧妙だったと言う話で、日本でも文久年間に長州毛利家の攘夷派と取り巻きの公卿たちが孝明天皇の勅許を捏造していたし、討幕の密勅も薩摩島津家や長州毛利家の戦争反対派を黙らせる為の捏造した手紙である。

薩摩や長州が手紙を捏造するのは良いが、会津が捏造するのはダメと言う話はないだろう。

むしろ、手紙を読み取るだけの知性が有りませんでした、と自らの間抜けさを明らかにしているだけである。

それに世良の暗殺は、閏4月14日には仙台伊達家の主席奉行・但木(ただき)土佐(とさ)らの承認を受けた、仙台伊達家の公式命令であり、手紙が有ろうが無かろうが、世良を殺すのは既定路線であった。

世良の方も仙台伊達家の太政官シンパから世良暗殺命令が出てるから気をつけろと忠告は再三再四あったが、世良は
「俺が殺されたら、奴らは会津と一緒に討伐されて朝敵だ!
奴らにそんな度胸はないよwww」
と馬鹿にしていた。

その意味で言えば、世良も不用心と言えなくもない。

徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)はその著書『近世日本国民史』の中で世良を
「彼には機略縦横、仙台伊達家、米沢上杉家の要人を操って、その意に従わせる手腕もなく、さりとて両者をして信愛、悦服(えっぷく)*9させるだけの人徳、人望も無かった。
彼は一意専心、会津討伐の為に努力し、その為に妥協する事は無かった。
彼には奥羽の波の様にざわめく人心、余所者を疑う様な眼で見る人情、手のひら返しと二枚舌が日常茶飯事の奥羽鎮撫の大任に耐えられるだけの政治の才能は欠けていたが、彼は学者として軍人として、目的に対して忠実、且つ熱心に仕事に励み、臆病や怠けるといった弱点は決して見せなかった。」
と評している。

妻・千恵(ちえ)が居て、一女があったが幼くして死去。

明治31年(1898)従四位を追贈された。

品川弥二郎が世良の遺族に位が与えられたので伝える為に山口県へ戻ったら、千恵は物乞いとして生活しており、見つけた時、既に失明していたという話がある。

長州系維新志士の中で自分の子を養子を入れて再興するという話も無く、世良家は消滅した。

総括

世良は長州系維新志士の中で、主流派が生まれ育った萩城下がある長門の国の出でも松下村塾出身では無く、周防の国生まれで、身分も士分では無く庄屋の三男、少年期に明倫館へ入学するには毛利家士分の育みという形を取らないと行けなかった傍流の出。

赤根武人の知り合いで奇兵隊には入隊したが、その赤根が幕府側に転向して世良の立つ瀬は無くなった。

その後の世良は第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦いと実力を周りに示して行かなければ、周りが認めてくれないのでは?というある種の強迫観念に付き纏われていた感じがある。

脇目も振らずに目標に向かって一直線という勉強熱心な青年だった、という話も裏返せば、視野が狭い、融通が効かないという話にもなり、強迫観念が加わり、現地の大名家から提案を受け入れたら、敵地で弱みを見せている、ナメられると考え、常に相手にマウントを取るような高圧的な姿勢になり、世良から冷静な判断力を奪い続けた。

世良修蔵は気の毒な人なのかも知れない。

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最終更新:2025年05月22日 23:00
添付ファイル

*1 現在の山口県久賀町

*2 世良と同郷の人。吉田松陰と佐久間象山の塾で同門。松陰が伝馬町牢屋敷へ入獄されたときは白井だけが金銭を差し入れるなど世話をしていた。維新後の長州系維新志士は世話話の件で頭が上がらない。

*3 長州毛利家の内乱時(高杉晋作派=攘夷派と椋梨藤太派=現状維持派)、奇兵隊の総督だったが参加を見送る。和平工作を行ったが不発に終わり、長州を出奔した

*4 ちなみに司馬遼太郎が短編『倉敷の若旦那』でこの事件を扱っている。

*5 その傲慢さは大河ドラマ八重の桜でのーみちのくに さくらがりして おもうかな はなちらぬまに いくさせばやとーという和歌に込められている

*6 万延元年の遣米使節団に正使•新見正興(しんみまさおき)の従者としてアメリカを含めた世界一周経験があり、「航米日録」として記している。また、この渡米の際に現地の写真館で複数の人物とともに写っている写真が現存する

*7 後の日銀総裁、総理大臣、大蔵大臣

*8 1870年7月13日、ビスマルクがフランスからプロイセン王国に宛てた電報を省略して編集して下品な言葉に翻訳して公表。フランス、プロイセン両方とも絶許という国民感情になった。

*9 心から喜び、従わせる事