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大村益次郎(1824〜1869年)
幼名は惣太郎、諱は永敏。
旧名は村田蔵六、村田良庵
概説
近代日本陸軍の父。
戊辰戦争では上野の彰義隊討伐で活躍、その後、太政官側の兵站を完璧に運営する。
他にも、原書主義を改め、分かり易い教え方と理解しやすい翻訳で、長州征伐まで時間が無い中、学習革命を起こして大量に質の良い軍人を量産するチート教育者でもある。
誕生
長州毛利家(36万9千石)領内、周防国吉敷郡鋳銭寺村字大村に、
父・孝益、母・梅子の間に長男として生まれる。
大村の家は苗字を村田と言い、代々、代官付の医者を務めていた。
まず、父の下で漢方医の修行を行い、天保13年(1843)、三田尻の蘭方医・梅田幽斎に弟子入りした。
いざ、授業をすると梅田から大村は漢学が弱いからと、豊後日田にある儒学者・
広瀬淡窓が主宰する
咸宜園を勧められ、入塾し、
儒学を学んだ。
咸宜園での学習期間は天保14年(1843)4月〜弘化元年(1844)6月28日まで続いた。
再び梅田の元でオランダ学やオランダ医学を学び、弘化3年(1846)、大坂の緒方洪庵が主宰する適塾に入門した。
すぐに緒方の勧めで長崎に移動して、蘭方医・奥山静叔に弟子入り、2年ほど見習い医師として働き、医療現場の現実を学んだ。
嘉永元年(1848)、再び大坂に戻ると、適塾の塾頭に駆け上がった。
大村は西洋事情や西洋軍事に着目し、独学で兵制、築城、砲術から数学、理化学に医学、特に解剖学に興味を持ち、犬猫をよく解剖していた。
適塾は逸材の宝庫と後世呼ばれるだけあり、多士済々であった。
大村の前に塾頭を務めていた久坂玄機は久坂玄瑞の兄である。
安政の大獄で処刑された
橋本左内、
五稜郭を設計した
武田斐三郎、軍人、外交官として活躍した
大鳥圭介、慶應義塾の創立者・
福沢諭吉、衛生行政を確立した
長与専斎、初代日本赤十字社社長・
佐野常民、漫画家・
手塚治虫の曾祖父・
手塚良仙などである。
嘉永3年(1850)、大村は適塾を去り故郷に戻り、医師として開業したが、適塾の学究生活がそうさせたのか、人付き合いも
「夏は暑いのが当たり前です」
「寒中とはこういうものです」
とお世辞も言えなくなるほど壊滅的に下手になり、機嫌がよいときでさえ「そうです」とコミュ障な性格に変わり、治療も上手でなく村人から評判は悪かった。
嘉永4年(1851)、同じ村の高樹半兵衛の娘・琴を迎えて結婚した。琴は18歳である。大村が武士になってから、村から出るのを嫌がり、かなりの確率で大村は単身赴任を余儀なくされる。琴にすれば慣れない武家の付き合いより、平凡な村医者人生を望んだのかもしれない。
宇和島から江戸へ
優れた蘭学者という評判が大坂では流れていて、伊予宇和島伊達家(10万石)当主・伊達宗城に招かれ、嘉永5年(1852)9月29日、宇和島に赴く。
宇和島では前任者の高野長英は蘭学の教育と砲台を残したが、大村はそれを引き継ぎ、軍制改革や蒸気船の開発、蒸気船操縦を学ぶ為に長崎に赴くなど忙しい日々であった。
大村の後見人を務め、シーボルトの弟子・二宮敬作からシーボルトの娘・イネを紹介された。イネ本人は蘭学や医学が出来る素晴らしい女性だったが、余り親しくすると、不倫関係になると釘を差され、一定の距離を置いた。
安政3年(1856)3月11日、宇和島伊達家の参勤交代に随行し、江戸に赴く。
江戸で適塾時代の旧友と親交を温める反面、仕事のし過ぎで視神経に支障をきたし、大槻俊斎から治療を受けながら、同年11月1日、念願である塾・鳩居堂を開設し、蘭学、特に兵学・医学を教える事になった。
助手にイネが手伝いに来てくれた。
この頃の大村は宇和島伊達家蘭学教授、兵書翻訳お雇、年100石支給、勤務手当て月6俵という肩書だった。
同年11月16日、幕府が海外事情を分析する為に蕃書調所を開設。ここの教授方手伝(要は准教授である)として月20人扶持、年間20両の条件で雇われ、オープニングスタッフとして働く事になる。
安政4年(1858)1月18日、蕃書調所はオープンし、開講当初は幕臣の子弟のみ入学を許可されたが、同年7月3日、諸大名の家臣の入学は選抜試験を受けてから許した。
同年11月11日、大村は講武所に転役となる。
講武所はざっくり言えば陸軍を担う部署で、大村は西洋兵書の翻訳を手掛けた。
出来映えが良く、幕府から銀15枚の報奨金を頂いた。
長州へ
万延元年(1860)4月26日、大村は地元・長州毛利家の士分に採用され、身分は馬廻り(親衛隊)、年間25俵の扶持米を支給された。
大村を長州に招く様に尽力したのは同じ長州毛利家で蘭学者・
青木周弼。殿様の奥医師として100石を貰い、
蘭学、
儒学に精通し、長崎で
宇田川玄真に蘭学を学び、緒方洪庵とは同窓の親友であり、シーボルトから西洋医学を学んだ。
大村とは同じ周防の生まれで蘭学界の大先輩で師匠の大親友であり、挨拶を欠かさずに訪問して顔馴染みになり、当時の当主・毛利敬親が主宰した蘭書会読会には、青木の紹介で参加し、蕃書調所の同僚・東堂英庵、手塚律蔵と共に参加している。
私塾・鳩居堂は最初番町にあったが、毛利家に籍を置く事になり、塾の場所を麻布にある中屋敷の一室に移転した。
学究意欲は益々盛んで、これからは英語の時代と開港されたばかりの横浜に赴き、同僚の原田吾一と共にアメリカ人宣教師のヘボンから英語を学ぶ。
安政6年(1859)から2年間、騎馬で江戸と横浜の往復50kmを通った。
万延2年(1861)1月18日、大村は長州に戻り、同月28日、29日に御手廻組、博習堂御用掛の命を受けた。優秀な洋学生の育成を任せられた。
同年2月24日、上役の山田宇右衛門と一緒に領内各所にある海防の要所を見て回る。
同年3月1日には、博習堂の規則を改め、原書主義を捨てて、翻訳書による講義を行う事にした。これは、原書主義が今でいうタイパとコスパが悪い事に気が付き、日本語で要点を学び、他の時間に他の事を学ぼうという学習革命である。
この頃、長州毛利家は
長井雅楽の開国和親政策(航海遠略策)から久坂玄瑞や
桂小五郎らの破約攘夷論に転換した。
久坂の遺構には長井や幕府の開国論は戦争を避けたいの一点張りで、これではダメだ。外国に追い付き追い越すには実際に外国の実力を知らなければ成らない。その為には戦争で実力を知り、日本人に攘夷が厳しいという事を理解させる。そうした上で留学生を送ったり、西洋文明を受け入れ、外国との条約もこの状況で行うべきと記している。兄貴はあんなに出来が良かったのに、弟はなんでこうなった?
文久元年(1861)12月22日、江戸詰になる。
文久3年(1863)6月の緒方洪庵の葬儀では
「福沢『どうだえ、馬関では大変なことをやったじゃないか。
あきれ返った話じゃないか』と言うと、
村田が眼に角を立て『なんだと、やったらどうだ。
長州ではちゃんと国是が決まっている。
あんな奴原にわがままをされてたまるものか。
これを打ち払うのが当然だ。
もう防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。
どこまでもやるのだ。』
と言うその剣幕は以前の村田ではない。」
と大村が過激な攘夷論を吐いたことに驚き、
「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、または長州に行って、どうせ毒をなめれば皿までというようなわけで、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」
と評している。
この後、人に任せていた私塾を閉鎖し、地元に戻った。
元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。
国司信濃、福原越後、益田右衛門介の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、伊勢桑名松平家などの兵と激戦。
指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。
上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。
国内では孝明天皇が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると、
「御所に
おめーの席ねぇから!www」
と懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。
元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。
後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。
狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。
この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。
連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。
イギリス留学中の伊藤博文、井上馨らが慌てて帰国して、同月3日に伊藤と松島剛蔵が、翌日には前田孫右衛門と井上が四ヶ国連合艦隊に
「天皇と将軍に言われて攘夷した。長州悪くない!けど、お情けで外国船が関門海峡を通航するのは認めてやるよwww」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めず、下関に陣取る奇兵隊らに攘夷の行なうべきでない事を説いたが、皆、頑なに攘夷を貫いた。
連合艦隊を迎え撃つ長州の布陣は2000名の人員と70門の大砲を前田、壇ノ浦、洲崎、弟子待の四か所の砲台に配置したが、大砲は規格、射程、性能がバラバラ、人員もヤル気のある奇兵隊や膺懲隊とヤル気の無い正規の武士団などバラバラで、数だけ合わせました的な感じ。
元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。
翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側が2600名の陸戦隊を上陸、武器もエンフィールド銃で武装され、ゲベール銃や火縄銃、槍や弓矢で武装された長州側と交戦。
損害はイギリス側が本国に送った報告でイギリス軍が戦死8、負傷51、フランス軍が戦死4、負傷5となっている。
長州軍は戦死13(奇兵隊6、膺懲隊7)、負傷27(奇兵隊16、膺懲隊11)。
長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。
フランス海軍士官アルフレッド・ヴィクトル・ルサンの『フランス士官の下関海戦記』によると、
「大砲を船に積み込むのに日本人等は我々の手伝いをしてくれた。彼らは軍人が見てない処では戦争の中止を満面の笑みで受け入れた。我々の砲弾の爆発する音を声で真似しながら、彼らは戦争なんか大嫌いだ!と大声で話していた。」
と長州の民衆が武士に愛想を尽かしていた事が理解出来る。
四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉晋作が表舞台に立ち、行われた。
当時、山口滞在の五卿や、長州に亡命していた攘夷派浪士たちは、
『そもそも「尊王」は「攘夷」を目的とした。今、外国と話しているのは「大攘夷の成功」の為に「嘘も方便」というのは理解するが、この戦は「百戦百敗」しても屈しないのが大事であり、理由をキチンと説明しないと後世に示しが付かないよ!』
と高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目に。
それでも高杉はなんとか同年8月14日に講和をまとめた。同じ日、大村は夷艦応接掛を拝命している。要は高杉の日本語を通訳した。
内容的に関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す。
賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。
毛利家は「天皇と将軍に(ry」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。
この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州毛利家を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えて、長州毛利家領内から島の一つを占領する計画があった。
オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
「
幕府に変わってお仕置きよ」
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州毛利家は賠償金を免除される。
幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。
この戦いで政権が椋梨藤太の現状維持派に傾いてしまった長州毛利家。
征討軍を揃えた幕府に、毛利家では三家老、四参謀を処断、謝罪して第一次長州征伐は終了。
シン・長州
高杉晋作、井上馨ら残りの尊皇攘夷派は毛利家から命を狙われるようになり、筑前平尾山荘の野村望東尼のところに潜伏したが、逃げ回って死ぬくらいなら、一か八かで勝負を挑んで戦った方が男子の本懐と高杉は元治2年(1865)1月2日、下関の功山寺で武装蜂起。
高杉軍が椋梨軍を打ち破り、毛利家の主導権は高杉らによって占められた。
高杉のクーデターが成功し、政権を奪取すると、同年2月7日、桂と手紙のやり取りをしていた大村は桂の帰国を促す。
桂が長州に戻ると、慶応元年(1865)5月27日、用所役軍政専務に異動し、閏5月6日、馬廻士譜代の班列となり、100石を支給され、6月6日、新式具方用掛を兼帯。
慶応元年(1865)12月22日、村田蔵六を毛利家の命令で大村益次郎に改める。「大村」は故郷の地名から、「益次郎」は父親の「孝益」の「益」をそれぞれとっている。同時に火吹き達磨というあだ名も付いた。
高杉らが勝利し、抵抗勢力が無くなったので、軍制、軍役、兵器、兵学教育の各方面に於いて、全集中な改革が断行された。
軍制と軍役は足軽、仲間を中心とする軽卒、家禄160石〜1050石の家臣から石高に応じて軍役として徴収した家臣を供出させ、家臣から家老の家臣などの陪臣を、元の支配系統ごとに銃隊に編成し、これを合併•再編して長州毛利家が直接管理。
既に存在している奇兵隊などの諸隊や庶民兵も長州毛利家の支配下に組み込み、解体•合併•再編した。
員数合わせの老弱者を供出するのを厳禁にし、出せない家臣は兵卒一人に付き、5石4斗の米を軍役として納入する様に命じた。
長州毛利家は領内の軍隊を同一の規格で掌握した。
指揮官養成として山口と萩に三兵学科塾、歩兵塾、騎兵塾、砲兵塾が設置され、後に海軍局も併設された。
大村印の小隊指揮官を大量に育成し、育成した指揮官により分隊、小隊単位での西洋式調練や分隊、小隊単位による連携攻撃や防御を演習で学び、西洋式の戦い方に対する熟練度を高めた。
大砲を扱う指揮官は1年掛けて育成していたので、時間が掛かった。
学科に関する教育制度は慶応2年(1866)1月の「三兵学科塾規則」によれば、第一級〜第六級までにそれぞれ築城学、三兵戦術、測量学、海岸防禦法、日本地理、世界地理、世界史、算術の科目を割り当て、試験によって一級ずつ進級させる事になっている。
孝明天皇や徳川幕府は謝罪と反省が足りないと、第二次長州征伐を敢行した。
大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面で徳川幕府の征討軍と対峙。
大島口は最初、幕府海軍と伊予松山松平家(15万石)や幕府陸軍が上陸、占領したが、高杉晋作率いる長州海軍と
世良修蔵率いる長州陸軍が反撃、島を奪還した。
芸州口は安芸広島浅野家(42万6千石)が不参加を決めたので、先鋒の近江彦根井伊家(25万石)と越後高田榊原家(15万石)の
徳川四天王の二家が攻め込んだが、
勝海舟が言う
「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」
長州陸軍の動きに対応不能、大惨敗を喫した。
出羽庄内酒井家「奴らは四天王最弱www」
この後、幕府は洋式歩兵を投入し、戦線は膠着した。
石州口は石見津和野亀井家(4万3千石)と交渉がまとまり、無傷で通過、大村率いる長州陸軍が石見浜田松平家(5万1千石)に侵攻、浜田城を攻め落とした。
小倉口は関門海峡の制海権を幕府海軍が掌握していたが、信号艦(旗艦)の富士山が応戦中、主砲が暴発して、他の大砲にも不具合がないか調べる為に応戦不能、ただの輸送艦に成り下がり後退、制海権を取った長州軍は赤坂海岸に上陸、激戦の末、豊前小倉小笠原家(15万石)の小倉城を攻め落とした。
14代将軍・
徳川家茂が亡くなった為、幕府軍は撤退、長州征伐は長州の勝利に終わり、天皇と将軍の面子丸つぶれ。
その後、孝明天皇が崩御、睦仁親王が即位して明治天皇に踐祚。
慶応3年(1867)8〜9月の長州毛利家による『諸家評論』という動向調査では、
「復古勤王」…薩摩島津家、長州毛利家。
「佐幕勤王」…越前福井松平家、尾張徳川家、因幡鳥取松平家、備前岡山池田家、肥後熊本細川家、阿波徳島蜂須賀家、伊予宇和島伊達家など。
「待変蚕食」…肥前佐賀鍋島家、土佐山内家。
「佐幕」…常陸水戸徳川家、紀州徳川家、陸奥会津松平家、伊勢桑名松平家、讃岐高松松平家、近江彦根井伊家、播磨姫路酒井家、伊予松山松平家など、
「日和見」…加賀前田家、陸奥仙台伊達家、出羽久保田佐竹家、出羽米沢上杉家など。
と色分けされている。
長州は山県有朋らを中心に積極的に京都•大坂に兵を繰り出す出兵派と大村を中心に「失機改図」という割拠派に分かれた。
割拠派の言い分も真っ当なモノで、他の大名家と連携しなきゃ勝てないのに、単独で全力疾走しても禁門の変の二の舞いだよ、と言われたらその通りだし、指揮官の層が薄く、死傷者が出たら補充出来るか怪しいので、もう少し層を厚くしたいというのもあった。
孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家とその同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
この密勅は両家の内部に存在する出兵反対派を黙らせる為の魔法の合言葉であった。
長州毛利家では密勅を受けて同年10月28日に出兵を決定。
同年11月17日には薩摩島津家の軍隊3000人と4隻の蒸気船が長州領三田尻に到着、同船していた
西郷隆盛や
島津伊勢と具体的な出兵策を決めた。
全軍の総督は毛利元功、長州毛利家の総司令官は毛利内匠で実質的な総司令官は山田顕義だった。
1200人の軍隊を3隻の蒸気船、4隻の帆船に分乗させ、同月29日に芦屋に上陸、翌日、西宮に到着、待機した。
第二陣1300人は陸路、尾道まで進んだ。
その間に同年12月9日に薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家の4家によるクーデターで御所を占拠、王政復古の大号令を宣言。
御所を守備していた京都守護職の会津松平家(28万石)は禁門の変の再現になる事を恐れて撤退した。
西宮に待機していた長州軍は御所を守備する様に勅命を受けて上洛した。
慶応3年(1867)12月25日、薩摩島津家が江戸市中でテロに関与した証拠を握った江戸市中取締役の出羽庄内酒井家(17万石)当主・酒井忠篤は大政奉還・王政復古後も治安維持権限は徳川家にあることを理由にテロリストの引渡しを要求するも拒絶され、薩摩島津家屋敷、その分家・佐土原島津家屋敷を焼き討ちし、捕縛浪士57人、首5を挙げた。
戊辰戦争
慶応4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊が宿敵・会津松平家を完膚なきまでに叩きのめした。
大坂城にいた徳川宗家当・徳川慶喜が会津松平家当主・松平容保、桑名松平家当主・松平定敬、備中松山板倉家当主・板倉勝静ら僅かの供を連れて軍艦•開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした。
同年1月19日、長州軍主力と共に長州を出発、同年2月7日、京都入り、同月22日、軍防事務局判事加勢を命じられ、太政官に雇われる。
京都・大坂間を往復し、諸大名からかき集めた親兵の軍務を担当する。
同年4月27日、江戸に軍防事務局判事という肩書で赴いて、江戸徳川家で実権を握る
勝海舟の策謀を全て見抜き、彰義隊を1日で壊滅させ、勝が不在なのを確認して屋敷を襲い、片っ端から家財道具を壊して圧力をかけた。
勝の策謀とは、江戸で徳川有志の会・彰義隊がニラミを効かせて市中を抑え、江戸湾は海軍副総裁・
榎本武揚が指揮する艦隊がニラミを効かせて制海権を抑え、江戸周辺で歩兵奉行・大鳥圭介や
江原素六が指揮するそれぞれの陸軍部隊がゲリラ戦で政情不安を煽り、これを収めるには徳川慶喜を太政官に招き入れ、徳川家に江戸100万石を与えるべし、と東征大総督府参謀・
西郷隆盛に交渉し、他にも越前福井松平家、尾張徳川家にも手を回し、彼らからも根回しを行った。
大村がいなければ勝の策謀は成功していたかも知れない。
江戸の大総督府は金が無くて戦争出来ないと泣きが入ったが、外国事務局判事・大隈重信(肥前佐賀鍋島家家臣。)が10万両を工面して軍資金を調達し、西郷隆盛から指揮権を委ねられ、慶応4年(1868)5月15日、上野東叡山寛永寺に陣取る彰義隊を壊滅させた。
この後、徳川家は駿河70万石に移封となり、勝海舟も牙を抜かれて大人しくなり、太政官内部でも大村の株は爆上がりし、続いて東北、蝦夷地の戦いも全体指揮を執った。
土佐山内家の板垣退助は「戦場で対戦したら勝てるかも知れないが、大軍に金、食糧、銃砲弾薬、衣類などを与え、適切な場所に適量の人員を送り、強い軍隊や優秀な指揮官を育成するとなると、大村が一番。私には出来ない」と答えている。
会津松平家や庄内酒井家が降伏した後、太政官内部では朝敵藩の処分が話し合われていて、長州系の
木戸孝允が会津松平家や庄内酒井家に厳しい処置を、仙台伊達家や米沢上杉家は寛大な処置と主張。
軍務官副知事から後に兵部大輔に就任した大村は会津は成り行きであの位置にいるから処分は緩くても良いが、仙台は会津討伐を申し出て、手のひら返しで
参謀を殺して太政官と戦争をするから許せん、米沢もその同類と見なしていた。
大村は当初、
庄内は余力があるから厳罰で解体論だったが、庄内側が太政官に対して積極的に協力を申し出ている姿勢を見て態度が軟化、金があるなら、目一杯引き出して余力を残さない様にした。
ATMかな?
岩倉具視・
大久保利通、大隈重信らは厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安を起こしては身も蓋も無い。太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、藩治職制により、山口藩と名乗る。
本来ならば斬首すると宣言した松平容保や酒井忠篤の命を救うという寛大な措置に留めた。
この時、戊辰戦争の軍功により永世禄1500石を下賜された。
明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して政府から家禄の他に賞与として与えられたモノ。
大久保利通や木戸孝允はこれに反対したが、諸藩の強い要請から明治2年(1869)6月に太政官は功労のあった公家・大名・武士・兵隊などに賞典禄という恩賞を出すことを決定。
賞典禄には、家禄と同様に無期限に給付され、子孫への世襲が許された永世禄、本人1代のみの終身禄、期限が定められていた年限禄の3種類が存在した。
余談になるが、明治2年(1869)5月18日に箱館で抵抗していた徳川脱走軍が降伏し、指揮を執っていた山田顕義が東京に来る。大村は労を労おうと山田を食事に誘うと、豆腐2丁と冷酒が出て来た。
山田が寒い蝦夷地で戦った後に暖かい食事が欲しい時にこの扱いか?と怒りと不満を混じえた顔をみせると、大村は「豆腐は滋養に富み、身体に良い。豆腐を愚弄する者は贅沢を望み、国を滅ぼす」と返答した。言い方ぁ〜
最期
事実上の最高指揮官として大村は士族階級を解体して徴兵制度を導入しようとしたり、幕府が雇っていたフランス軍事顧問団の一部を再雇用して、教育機関の教官にしたり、幕府が設立したが直ぐに閉校した士官学校制度に着目し、大阪に兵学寮を創設して活かそうとするなど、様々な試みを行う。
まだ、兵站基地として大阪に注目し、造兵廠を創設、次の内乱は西から起きると断言した。
反面、戊辰戦争当初、太政官に協力した草莽崛起の志士たちは要職に入れず、自分達の献策も採用されず、実権は薩長土肥と呼ばれた藩閥の有司らに委ねられ、不満を募らせていた。今なら
やりがい搾取と云うべきところか?
更に太政官内部でも弾正台などに在籍する攘夷派官僚などは横井小楠が暗殺された際の暗殺者の刑の執行に一旦、待ったを掛けるなど、持て余し気味になってきた。
明治2年(1869)9月4日、大村は同じ山口藩士で攘夷派の神代直人らに京都で襲われ、同年11月5日に死亡した。
神代の旧名は鷲津正作と言って小郡の出身で、三田尻で勤務する毛利家家臣の神代一平の養子に入り、直人と名乗り、長州の遊撃隊に属したとある。下関の戦争後、講和使節を務めた高杉晋作、井上馨、伊藤博文を斬り殺そうと狙ったとあるから、純粋な攘夷論者で戊辰戦争後は攘夷のハズが行われないのは大村が悪いと、信じていたのかも知れない。
また、神代は故郷に戻った処を山口藩の手で捕らえられて同年10月20日、処刑された。弾正台の海江田信義(有村俊斎)は、大村襲撃犯の生き残りに対して直前で刑の執行を止めており太政官から処分を受けた。
神代と海江田は元々付き合いがあったこともあり、海江田が神代を煽って暗殺させたという噂が流れた。
海江田自身は大久保にこの嫌疑を心配された時にこれを否定しているが、大村とは普段から意見が対立していがみあっていたこと、「殺してやりたい」と普段から周囲に吹聴していたこと、木戸孝允の書簡に名指しで「危険人物」扱いされていることなど、状況証拠はいやに積み重なっている。
墓は故郷の鋳銭寺村に設立されたが、脱退騒動時、大村の墓は破壊されていたと山口県の公式記録にある。諸隊の中には大村のやり方に嫌悪感を持つ者がいたのかも知れない。知らんけど。
その事を気に留めた岩倉具視や木戸孝允が明治5年(1872)3月10日、鋳銭寺村に大村神社を設立している。
夫人の琴は鋳銭寺村に住み、明治38年(1905)4月21日、72歳で亡くなっている。
大村リスペクトとして山田顕義が明治15年(1882)に大村の銅像建立を提案、採用された。
明治21年(1888)1月17日、大村の孫・
寛人に子爵号が授与された。
世良修蔵「いいなぁ。オレも大村も働いたのに、片方は華族、オレの妻は物乞い、家督を継ぐ養子もいないからなぁ〜」
明治26年(1893)6月、大村の銅像が完成し、靖国神社に設置された。
メディア
長州系の幕末作品で登場することが多い。
そして、なんと言っても
NHK大河ドラマの主人公である。
1977年に司馬遼太郎の小説を原作とする大河『花神』が 主演・中村梅之助で製作されている。
「火吹きだるま」と呼ばれた非常に特徴的な容貌の再現もさることながら、作品自体も原作者の司馬遼太郎に「傑作」と評され、大河ドラマを3作手掛けている三谷幸喜も評価している。
ただ、作品の保存状態が良くなく、現在残っているのは総集編と本編数話に留まっている。
なお、大河『花神』は群像劇の体裁を取っており、司馬の『世に棲む日日』や『十一番目の志士』、『峠』などの他の作品の要素も組み込んでるので、後半は
この人が主役じゃないか?とも言われてしまっている。
アニヲタ的に
池田秀一氏が
寺島忠三郎役で、
江原正士氏が
前原一誠役で、堀勝之祐氏が
御堀耕助役で、
島本須美氏がお龍役で、モブ役で
西村知道氏、
渡部猛氏、
大塚周夫氏が出演されている。
他の作品でも出てくることがあるが、やはり一番のネックは容姿であり、大河『花神』のように完全再現した作品は少ない。
変わり種では実際の加賀藩下級藩士の会計係・猪山直之がつけた家計簿を実写化した映画『武士の家計簿』において、直之の息子の成之が大村益次郎の会計係に選ばれたという史実から登場する。
また出番こそ少ないものの興味深い登場の仕方をしているのは漫画『陽だまりの樹』
同作の主人公は適塾出身の手塚良仙なのだが、良仙は終盤軍医となった事で殺し殺される戦にまた出すために戦傷者を治す仕事に「道を間違えたのでは」と亡き恩師へと後悔の念を吐露。
…だがクライマックスの舞台はもう一人の主人公伊武谷万二郎が参戦した「彰義隊の戦い」であり、そこでアームストロング砲突入を決断するのは…もちろん『花神』にもあるように大村である。
同じ適塾の卒業生・医師出身ながら、「医師として医療の在り方や使われ方に悩む良仙」の知らない所で「元医師ながら軍属へと移行し破壊兵器投入を決断した大村」。作中で積極的に対比される訳ではないものの、何とも言えない皮肉な構図となっている。
- 『三姉妹』(1967年、演:加藤武)
- 『花神』(1977年、演:4代目中村梅之助【主演】)
- 『翔ぶが如く』(1990年、演:平田満)
- 『花燃ゆ』(2015年、演:一岡裕人)
- 『西郷どん』(2018年、9代目林家正蔵)
その他のTVドラマ
- 『幕末』(1964年、TBS、演:小松方正)
- 『アイウエオ』(1967年、NHK、演:山本健)
- 『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』(1982年、日本テレビ、演:ふとがね金太)
- 『遠雷と怒涛と』(1982年、NHK、演:米倉斉加年
- 『奇兵隊』(演:片岡鶴太郎、日本テレビ、1989年)
- 『竜馬におまかせ!』(1996年、日本テレビ、演:増田由紀夫)
- 『黒書院の六兵衛』(2018年、WOWOW、演:波岡一喜)
映画
- 『韋駄天吉次』(1927年、演:嵐璃左衛門)
- 『国民皆兵令』(1937年、演:河部五郎)
- 『鞍馬天狗捕はる』(1940年、演:四代目澤村國太郎)
- 『大村益次郎』(1942年、演:市川右太衛門【主演】)
- 『かくて自由の鐘は鳴る(1954年、演:二本柳寛)
- 『朱雀門』(1957年、演:原聖四郎)
- 『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年、演:三浦浩一)
- 『長州ファイブ』(2006年、演:原田大二郎)
- 『武士の家計簿』(2010年、演:嶋田久作)
ゲーム
- 『維新の嵐』シリーズ(コーエー(現:コーエーテクモホールディングス株式会社))
続編の「維新の嵐・幕末志士伝」で登場する。
学力は最高値200の中で193と作中No.2を誇る。一番は佐久間象山の198。
兵学は最高値100の中で100と作中No.1を誇る。二番は高島秋帆の94。
他にも洋学、語学、医学の数値が高く、海外事情に精通している。
反面、剣術は最低ランク、魅力も真ん中なのだが、登場時の大村は攘夷派であり、説得する必要がある。
追記、修正、お願いします。
- 医者としては超絶コミュ障だったけど蘭学の講義の時はすごい饒舌で面白い講義をしていたと聞いたことある。あと豆腐が好物で、こと豆腐に関しては並々ならぬ拘りがあってやたら語ったとか。現代で言うオタク気質だったのかも? -- 名無しさん (2025-04-23 03:43:51)
- 医者なのに造船やら参謀やらを無茶振りされて充分にこなした人 -- 名無しさん (2025-04-23 04:53:57)
- コミュ障なんだけど、ヨーロッパであれば大学教授であったろうと嘉蔵(後の前原巧山)を誉めてる -- 名無しさん (2025-04-23 17:36:58)
- 名無しさん (2025-04-23 17:36:58)それは小説の中での話だ -- 名無しさん (2025-04-23 19:07:12)
- ↑NHKの歴史番組で榎本武揚がオランダ留学で勉強していた化学のノートを解析したら、同時代のヨーロッパで工業高校の教師が出来るレベルと説明されていた。日本の近代化にはそうしたレベルの人間を揃えないと追い付けないということでは。 -- 名無しさん (2025-04-23 21:36:02)
- 漫画「風雲児たち」では頭のデカさを強調するため顔が下にキュッと寄ってピグモンみたいな顔になっていた -- 名無しさん (2025-04-24 09:54:25)
最終更新:2025年04月24日 09:54