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【目次】
奇兵隊
概要
会津の
白虎隊が日本で有名な少年兵の集団なら、長州の奇兵隊は
新選組と並んで日本で有名な志願兵の集団かも知れない。
西南戦争で西郷軍が奇兵隊を組織している為、一応、ごっちゃにならない様に、奇兵隊(長州藩)とした。
背景
天保2年(1831)の防長大一揆が長州毛利家の幕末の始まりだった。
長州毛利家の産物会所による、安く買い上げて高く売るをヤリ過ぎた結果、参加人員132100人は長州毛利家領内の成人男性175000人の約75%にのぼる。
この後も散発的に農民一揆が発生し、長州毛利家は行政改革を断行。
村田清風→周布政之助に連なる派閥と坪井九右衛門→椋梨藤太に連なる派閥が対抗しつつも交錯して改革を進めた。
行政改革に並行して嘉永年間より軍制改革が開始されたが、「神器陣」と呼ばれる従来の陣法が上級武士により支持されて改革が進まず、万延元年(1860)に「入込稽古」という形で仕事の合間に武士が銃陣や小隊運動の訓練を受ける事が始まった。
周布政之助は万延元年(1860)閏3月5日付、宍戸九郎兵衛宛の手紙に
「もはや軍事は歴代の上級武士だけの問題ではない。下級武士、足軽、農民まで動員するべきであり、領地を持つ武士は石高に応じて銃隊を編成し、それに併せて城下の武士を土着させれば、武士の土着、失業者救済、贅沢な暮らしを抑えて質実剛健と一石三鳥の改革が出来る」
と記している。
更に周布は文久3年(1863)2月10日付、息子・市太郎宛の手紙には、小銃局の開設に際して、
「毛利家の要衝に大砲・小銃が充満すれば、外国を圧倒する手段になる。人民は半年も訓練すれば、立派な兵隊になるが、武器が無ければ訓練は出来ない。今どき、竹槍を与えて黒船を沈めろと命令するのは、慈悲に欠けるというものだ。小銃を購入ないし製造して武器を充分準備し、長州毛利家の人民約70万、うち婦女子が35万、老人と子供で17万5千、残りの17万5千が戦える人間として、彼らが戦えるだけの大砲・小銃を整えておく事が、この上なく大切な事だと思う」
と民衆の武装化と武器の調達、整備を明言している。
少し戻ると安政6年(1859)、大老・
井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家家臣・
吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家家臣・
梅田雲浜、将軍後継争いで暗躍した福井松平家家臣・
橋本左内を処刑する安政の大獄が起こる。
在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。
文久元年(1861)2月3日、ロシア帝国海軍は軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、強引に対馬宗家に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。
文久元年(1861)8月15日、ポサドニック号は対馬から退去したが、対馬はイギリスも狙っていて、イギリスとクリミア戦争の二の舞を演じる事を恐れたロシアが手を引いたと言われている。(対馬事件)
対馬・宗家と仲が良かった長州毛利家は事の一部始終を聞き、海上交通の要衝である関門海峡を有する事、自領の近くに竹島があり、そこが外国に領有化される事に危機感を抱き、対馬事件で徳川幕府が解決策に土地や要衝の直轄化を打ち出した事から、自分達も否定されるのではと危機感を抱いた。
これに関連して文久3年(1863 )4 月に長州毛利家は村の長たちを集めて、外圧を強く主張し、若い者は農業の合間に訓練をし、裕福な者は刀・槍・弓矢・鉄砲を準備していつでも使える様にと通達した。
攘夷思想が強く、取り巻きの公卿達の勧めで当時在位していた孝明天皇の勅使派遣は文久2年(1862)に入ってから2度目。
1度目は6月に薩摩島津家の国父・
島津久光が勅使・
大原重徳を擁して江戸に着き、幕府人事へ介入し、
安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主・
一橋慶喜を
田安慶頼に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主・
松平慶永を政事総裁職に就任させる体制を実現した。
島津久光は帰りの道中で生麦事件に遭遇した。
久光は亡き兄・
斉彬がやりたかった幕政改革を実現したが、長州毛利家と土佐山内家の攘夷派は久光に
『
没!企画が弱い!』
『
キャラが立ってない!』
と酷評し、
『
オレたちが本当の勅使を見せてやる!』
と
三条実美、
姉小路公知が攘夷を催促する勅使になった。
幕府の政治に関与出来ない長州毛利家は朝廷工作に軸を置き、当初は長井雅楽の『航海遠略策』で京都デビューを果たす筈だったが、久坂玄瑞が『企画が弱い』と難癖を付けて取り下げさせ、長井に詰め腹を切らせた。
文久2年(1862)12月12日、品川御殿山に完成間近のイギリス公使館を焼き打ちしたのは赤根武人、井上馨、高杉晋作、久坂、伊藤博文だった。
創設
長州毛利家は久坂らが士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、光明寺党の結成を認めた。
光明寺党は、他家の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は大名家の単位を超脱していた。
同年1月27日に京都で毛利家は諸大名の家臣と会合し、同年2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府はヤル気が無い為、久坂玄瑞が朝廷に建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。
また、京都御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州毛利家が握ることとなった。
幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が諸侯に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。
長州も自国の海域を通行する外国船に同年5月10日、砲撃を行い、久坂は
その後、文久3年(1863)6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号は報復攻撃を開始、長州海軍を壊滅させ、同年6月5日、フランス東洋艦隊・セミラミス号とタンクレード号が報復攻撃を開始、砲台も完璧に粉砕した。
長州毛利家は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、同年6月6日、高杉を呼び出して馬関防御を命じ、翌7日、光明寺党を叩き台に高杉が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。
山口に移転した毛利家に提出した奇兵隊の綱領には、
一、奇兵隊は有志の集まりで身分を問わない実力主義の集団です。
二、手紙を出したら直ぐに殿様に届く様に改めて欲しい。
三、奇兵隊には色んな奴が入るけど、拒まず受け入れますよ。
四、これから証拠として日記を付けて、毛利家に提出するから、賞罰の命令は身分に関わらず速やかに実施して欲しい。
五、奇兵隊の決まりは和流西洋流に関わらず、それぞれの武器で戦う。
と記し、同時に法令五か条を作った。
一、隊員−伍長−惣督の指揮系統の下、一隊一和が肝要です。
二、陣中勝手な外出をしないこと。
三、酒宴・遊興・淫乱・高声の禁止。
四、喧嘩口論の禁止及び「計謀策略」の意見は伍長を通して惣督へ申し出る事。
五、陣中敵味方強弱批判の禁止。
と定め、同年6月8日付で高杉から毛利家重臣・前田孫右衛門宛の手紙に、ひとまず金が無いから、馬関の豪商・白石孫一郎や萩の商人・山下七之允へ負担して貰っています、と伝えている。
奇兵隊の「奇兵」の由来は高杉によると、
「正兵」が「正面から敵を引き受ける」のに対し、「奇兵」は「少ない兵や奇策で敵をかき回し、神出鬼没の動きで敵を悩ます」のを目的にする、とあり、ゲリラ戦力なのである。
活動
文久3年(1863 )6月12日、奇兵隊は赤根武人、宮城彦助、坂本力二、の3人を豊前小倉小笠原家に向かわせた。
現実に攘夷をすると長州毛利家の大砲の飛距離では不十分だった。
対岸の豊前小倉小笠原家からも砲撃し、はさみ撃ちにして、戦果を挙げることが可能だった。
3人は小笠原家に対し、朝廷からの命令と主張し、関門海峡を航行する外国船への挟撃を求めた。
3人より前に、長州毛利家とその一門では豊前小倉小笠原家に対して文久3年(1863)4月27日と同月29日に共同作戦で攘夷をしようと申し入れをしているが、小笠原家は
「幕府からは、外国船が攻撃してきた場合に限って打ち払うよう命じられている。
攻撃してこない、ただ航行する外国船を砲撃することはできない」
という主張だった。
小笠原家は、朝廷から政務を委任されている幕府の命令を順守すべきという方針を採った。
これに毛利家は、朝廷の命令を蔑ろにし、攘夷を行わない小笠原家は厳罰に処せられるべきだと主張した。
文久3年(1863)6月14日、長州毛利家の朝廷工作により、監察使・正親町公董が御親兵60人を引き連れ、長州毛利家へ派遣する事を決め、同月16日に出立。
と、同年6月20日、奇兵隊110余人と大工・日雇いの者40人が大砲持参で田野浦に入り、砲台を築き、近くの山から勝手に、杉の木を伐採し始めた。
同月24日には更に追加で300人が田野浦に上陸、陣地や宿舎を設置し、小笠原家の領地を侵食した。
更に高杉らは正親町に対して、小笠原家に対する弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。
幕府は長州毛利家の行為に危機感を抱き、詰問使・中根一之丞を軍艦・朝陽丸に乗せて派遣したが、逆に長州毛利家は朝陽丸に砲撃、停泊した朝陽丸を奇兵隊が拿捕、中根らを殺害。
小笠原家は朝陽丸に事情を説明するべく家臣を乗せていたが、切腹に追い込まれ、もう一つの手段である幕府特に京都守護職・松平容保に訴え、容保が中川宮・薩摩島津家とともに長州毛利家を朝廷から追い出す為のクーデターを実行した。(八月十八日の政変)
この文久3年(1868)八月十八日の政変は、奇兵隊に影響を与えた。
高杉は同年9月10日政務座役に就任、同月12日に奇兵隊惣督を辞職して、河上弥市と滝弥太郎の二人が奇兵隊惣督に就任した。
政変を受けて長州毛利家に落ち延びてきた尊攘派公卿・三条実美ら七卿は三田尻の招賢閣に滞在する事になり、同年9月25日、その護衛を奇兵隊が行う事になった。
七卿の一人、沢宜嘉は、平野国臣のすすめに応じて、但馬生野で挙兵したのだが、それに河上らが従った。
『奇兵隊日記』文久3年(1863)10月2日の項目に
「今夜、沢公卿脱走。河上弥市、白石廉作、伊藤百合五郎、長野熊之丞、和田小伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎、以上八人がお供で脱走した」
とある。
同月4日、河上に代わり赤根武人が惣督になった。
同月10日、毛利家は奇兵隊に対して隊長、伍長など役職を定め、隊員の二男・三男・隠居の別や出身地、奇兵隊への入隊月日などを詳しく届け出る様に命じた。
同月14日には殿様との拝謁が相談された。
同月26日、沢を除いた六卿の三田尻から山口への移転に際しては、奇兵隊が護衛したが、警備の任は解かれた。
代わりに三田尻で他の大名家の応接や海岸警備を命じられた。
これは但馬生野の挙兵事件からくる反省である。
もう一人長州毛利家に亡命してきた中山忠光の話が来ると奇兵隊で保護しようとしたが、毛利家が分家筋の長府毛利家が預かる事になった。
後に中山は長州毛利家が徳川幕府寄りの政権になると厄介者になり、長府毛利家の手で元治元年(1864)12月8日に殺害された。
文久3年(1863)12月23日、奇兵隊は馬関警備を選鋒隊と交代した。
翌日、薩摩島津家船籍の長崎丸に砲撃して撃沈、28人が死亡。
毛利家から島津家に謝罪があった。
翌文久4年(1864)2月12日、薩摩島津家の商人・大谷仲之進とその持ち船・加徳丸が襲われ、大谷は殺害、加徳丸は炎上した。
八月十八日の政変への仕返しとも言えるし、奇兵隊には薩摩島津家が薩英戦争で攘夷を行い、その後、海外貿易で利益を出しているのが気に入らないという対抗心みたいのがあった。
こうしたなか、文久3年(1863)12月末から文久4年(1864)1月にかけて、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、島津久光、山内豊信、伊達宗城らが「参預」に任命され、「参預会議」として国政の重要課題を討議する制度が発足したものの、横浜鎖港の是非と長州毛利家の処分を巡り、意見がまとまらず、元治元年(1864)3月、解体した。
他方、毛利家領内は外国艦隊の報復や朝陽丸事件で旗本を殺され、勝手に譜代大名の領地を没収しようとした事に怒り心頭な徳川幕府が追討令を発令するという話があり、異様な緊張感が支配していた。
奇兵隊にもそれは伝わり、『奇兵隊日記』文久4年(1864)2月16日の項目に山口の毛利家から「紀律を保つのが一番」と命令が下り、同年3月〜4月に掛けて三条実美ら六卿が馬関など毛利家の要衝を視察し、命令が徹底されているかの確認があった。
この視察途中で錦小路頼徳は病死、七卿は二人を失い、五卿になった。
この頃、長州毛利家内部では奇兵隊やそれと同じ様な性格の部隊(=諸隊と呼ばれた)が続々と作られ、これらを率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。
首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島又兵衛、久坂玄瑞、浪人の真木和泉など。
周布政之助や高杉晋作は外国艦隊の襲来も予想されるから、今は内側を固めるのが先決と反対すると、来島から
「やーい、権力の犬www。犬らしく尻尾でも振っとけwww」
と高杉が政務役という役職に就いている事を嘲笑うと、高杉がブチギレてしまい、このまま出奔。
元治元年(1864)2月2日大坂に到着し、島津久光暗殺計画に身を投じるも、毛利家から呼び戻され、同年3月29日、牢屋に入った。
牢屋の外から周布が
「ここで3年我慢して勉強するんだなwww
これくらい我慢できなきゃ、将来、大望を成す事など出来んぞ!」
と馬に乗り、酒を飲み、刀を抜いて大声で叫んだら周布は失脚したwww
元治元年(1864)3月27日には常陸水戸徳川家の天狗党が筑波山で武装蜂起。
天狗党は長州毛利家の攘夷派と丙辰丸の盟約を交わした盟友。
元治元年(1864)6月20日、奇兵隊の定員は500名と通達が来た。
この頃、京都の政局は長州毛利家に有利に働いていた。幕府側は横浜鎖港問題で内部対立が激しく、物価が開国前より3倍に跳ね上がり、これに手を拱いていたので死に体になっていた。
会津松平家の公用局が報告書の中で
「世間では長州待望論が流行している、なんて事だ!世も末だ!」
と、記している。
長州毛利家の京都留守居役・
乃美織江や京都で朝廷工作をしていた
桂小五郎は、在京の諸大名も八月十八日の政変の頃より長州毛利家に好意的になっている。このまま長州に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて会津松平家を追い出して行けば、失地回復も現実になると読んでいた。
読みとしては当たっていた。
後に徳川慶喜が王政復古の大号令後、徳川に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて薩摩を追い出していけば、失地回復も現実になるのと同じである。
まぁ、慶喜も桂も頭の回転は優れているが、人の感情を無視する部分があり、それが足をすくわれる原因となるが。
慶喜にとっては江戸薩摩屋敷の焼討事件で在坂の徳川方の憤懣に火が付いたが、桂には池田屋事件がそれだった。
志士達は、会津やその配下の
新選組による警備態勢が敷かれている京都へ潜り込み各地の尊攘志士達と連絡を取り合って失地回復を計画。
この流れを変えるには強硬手段しかないと考え、御所に潜入して放火騒ぎを起こした隙に孝明天皇を拉致、騒ぎに駆けつけた中川宮、京都守護職・松平容保を暗殺する計画をたてた。
この計画は
新選組に知られ、池田屋で会談中に襲撃され、
宮部鼎蔵、
松田重助、
吉田稔麿、
杉山松助、
北添佶麿らが死亡。
奇兵隊は上洛を願い出たが、下関海峡の警護が重要であるとして、毛利家から差し止められた。
元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。
国司信濃、福原越後、益田右衛門介の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、伊勢桑名松平家などの兵と激戦。
指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。
上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。
国内では孝明天皇が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。
元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。
後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。
狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。
この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。
連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。
イギリス留学中の伊藤博文、井上馨らが慌てて帰国して、同月3日に伊藤と松島剛蔵が、翌日には前田孫右衛門と井上が四ヶ国連合艦隊に
「天皇と将軍に言われて攘夷した。長州悪くない!けど、お情けで外国船が関門海峡を通航するのは認めてやるよwww」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めず、下関に陣取る奇兵隊らに攘夷の行なうべきでない事を説いたが、皆、頑なに攘夷を貫いた。
連合艦隊を迎え撃つ長州の布陣は2000名の人員と70門の大砲を前田、壇ノ浦、洲崎、弟子待の四か所の砲台に配置したが、大砲は規格、射程、性能がバラバラ、人員もヤル気のある奇兵隊や膺懲隊とヤル気の無い正規の武士団などバラバラで、数だけ合わせました的な感じ。
元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。
翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側が2600名の陸戦隊を上陸、武器もエンフィールド銃で武装され、ゲベール銃や火縄銃、槍や弓矢で武装された長州側と交戦。
損害はイギリス側が本国に送った報告でイギリス軍が戦死8、負傷51、フランス軍が戦死4、負傷5となっている。
長州軍は戦死13(奇兵隊6、膺懲隊7)、負傷27(奇兵隊16、膺懲隊11)。
長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。
フランス海軍士官アルフレッド・ヴィクトル・ルサンの『フランス士官の下関海戦記』によると、
「大砲を船に積み込むのに日本人等は我々の手伝いをしてくれた。彼らは軍人が見てない処では戦争の中止を満面の笑みで受け入れた。我々の砲弾の爆発する音を声で真似しながら、彼らは戦争なんか大嫌いだ!と大声で話していた。」
と長州の民衆が武士に愛想を尽かしていた事が理解出来る。
四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉が表舞台に立ち、行われた。
当時、山口滞在の五卿や、長州に亡命していた攘夷派浪士たちは、
『そもそも「尊王」は「攘夷」を目的とした。今、外国と話しているのは「大攘夷の成功」の為に「嘘も方便」というのは理解するが、この戦は「百戦百敗」しても屈しないのが大事であり、理由をキチンと説明しないと後世に示しが付かないよ!』
と高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目に。
それでも高杉はなんとか同年8月14日に内容として関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す、という講和を纏めた。
賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。
毛利家は「天皇と将軍に(ry」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派の日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。
この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州毛利家を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えて、長州毛利家領内から島の一つを占領する計画があった。
オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
「
幕府に変わってお仕置きよ」
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州毛利家は賠償金を免除される。
幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。
この戦いで政権が椋梨藤太の現状維持派に傾いてしまった長州毛利家。
征討軍を揃えた幕府に、毛利家では三家老、四参謀を処断、謝罪して第一次長州征伐は終了。
高杉晋作}、井上馨ら残りの尊皇攘夷派は毛利家から命を狙われるようになり、筑前平尾山荘の野村望東尼のところに潜伏したが、逃げ回って死ぬくらいなら、一か八かで勝負を挑んで戦った方が男子の本懐と高杉は下関の功山寺で武装蜂起。
赤根武人や山県は反乱が時期尚早と考えていたため同調しなかった。
翌元治2年(1865)1月2日、赤根が奇兵隊を脱走し、山県が奇兵隊を掌握、1月5日には高杉を支援することを決め、高杉軍が椋梨軍を打ち破り、毛利家の主導権は高杉らによって占められた。
その後は第二次長州征伐や戊辰戦争で主力として活躍した。
末路
しかし、ここから奇兵隊は転機を迎える。
長州毛利家改め山口藩は戊辰戦争後、藩治職制に基づき軍隊の精錬という名のリストラを断行したが、解雇されたのは農民や町人出身の兵隊らで、武士階級の兵隊や指揮官はそのままだった。
更に戊辰戦争後、奇兵隊や遊撃隊の下士官や兵卒達が隊長や幹部連が兵隊の給料を中抜きし、出張費という名目で私的に流用して、遊郭などで豪遊したのは公金横領ではないのか?と山口藩に内部告発した。
木戸孝允が「下っ端は黙って上の言う事を聞いて動け!逆らう奴はぶっ〇す」と発言。
ブチ切れた奇兵隊や遊撃隊の下士官たちは武装蜂起したが、木戸らに敗れ、賊徒として徹底的に弾圧された。
諸隊が粛清されたのは、木戸孝允が有耶無耶にしてごまかそうとしていた年貢半減令や幹部が隊を私物化して、兵隊の給料を中抜きして懐に入れている事を正確に指摘して、証拠を突き出し、事実陳列罪という形で懐柔出来なくなったから、口封じの為に潰した。
諸隊の生き残りは、海賊や山賊になり抵抗する者もいれば、明治9年(1876)に自分達の働きに対して陳情を毛利家に行ったが、のらりくらりと引き延ばして有耶無耶にされたので、明治20年(1887)、明治21年(1888)、明治27年(1894)、明治32年(1899)と毛利公爵家に陳情したが毛利家や後見人の井上馨、品川弥二郎らは無視した。
明治34年(1901)、民事訴訟で毛利家を訴えたが、訴えは棄却され、控訴したが敗れた。
明治37年(1904)、再び民事訴訟で毛利家を訴えたが、訴えは棄却され、控訴したが敗れた。
その間、井上馨が裁判に圧力を掛けたと独立新聞は記事にしている。
諸隊側も法廷闘争という近代的な闘いをしたと言える。
諸隊側が法廷闘争に挑んだ背景には、帝国憲法や民法など法律が制定され、近代的な弁護士制度が整い、徳川時代よりは気軽に裁判を起す事が出来る様になったから。
江戸期の封建制下では、藩士や領民が、大名を訴える!なんて事はありえなかったろうが、明治政権下では、それが可能だっただけでも革命的だったのだなあとは思う。
毛利家側は大金を積んで勝てる弁護団を結成したし、諸隊側が結成した弁護団の弁護士の中には鳩山和夫氏が参加していた。
確かに諸隊側は裁判に負けはしましたが、毛利家側の、明治維新の後ろめたい部分を法廷闘争や記録に残した事は、覚えていて欲しい。
組織
奇兵隊は組織改編を頻繁に行い、最高司令官を惣督と呼び、副司令官として軍監が2人、作戦を作る参謀が4人、兵隊の教育担当である書記が3人、隊本部付として小荷駄方、作事方、会計方、斥候、器械掛、輜重方、読書掛などが参謀や書記を補佐する人員が34人。他に指揮官付の軍属として13〜15歳くらいの少年兵が26人配置されていた。
結成当時は槍隊、小銃隊、小隊、砲隊などで編制され、最小単位は伍と呼ばれ、5人からなる。伍が5つ集まり小隊となり、司令士、押伍が指揮を取る。
砲隊は大砲1門につき司令官を付け、伍長1人、隊員6人からなる。
装備
結成当時は槍、弓、火縄銃、ゲベール銃などなんでもありだった。
戊辰戦争頃にはミニエー銃やエンフィールド銃で武装されていた。
教育
訓練としては、朝6時〜8時まで文学稽古。8時〜12時まで射撃、砲術などの小隊訓練、射撃訓練。12時〜16時は剣術稽古、16時〜20時まで文学稽古。2日に1回は小隊合同の中隊、大隊訓練を行う。休みは1日、15日の月2回。
文学稽古は主に
儒学を行うが、司令士クラスになると算術、三兵戦術、築城書、砲術理論などの学習が追加される。
構成、入隊条件
武士、農民、町人などでも、原則、次男三男の入隊を主に認め、長男の入隊は可能な限り、許さなかった。
武士なら家柄や身分に応じた役目を担う長男はお家存続の為に敬遠された。
農民だと長男まで兵隊に出ては、誰が年貢を納めるのか?という根本的な問題にぶち当たり、年貢を確保する為に長男は敬遠された。
人口比で武士が44%、農民が38%、町人、坊主、神主らが10%、その他の身分が10%。
武士も毛利家直参の武士より、家老や高禄の武士に仕える陪臣と呼ばれる人の次男三男が47%を占めた。
農民も貧農ではなく、村役人を務める富農層の次男三男が32%を占める。
- 長州ってこう、 -- 名無しさん (2025-09-08 15:01:19)
- 高杉さんも大変だな。 「あの少年、京に欲しい。」 -- 名無しさん (2025-09-08 18:44:01)
最終更新:2025年09月08日 18:44