奇兵隊(長州藩)

登録日:2025/09/08 Mon 14:40:09
更新日:2025/09/22 Mon 17:35:55
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奇兵隊(きへいたい)






概要

会津の白虎隊が日本で有名な少年兵の集団なら、長州の奇兵隊は新選組と並んで日本で有名な志願兵の集団かも知れない。
西南戦争で西郷軍が奇兵隊を組織している為、一応、ごっちゃにならない様に、奇兵隊(長州藩)とした。

背景

ペリー来航より20年以上前、天保2年(1831)の防長大一揆が長州毛利家の幕末の始まりだった。

長州毛利家の産物会所による、安く買い上げて高く売るをヤリ過ぎた結果、この一揆の参加人員132100人は長州毛利家領内の成人男性175000人の約75%にのぼる。*1
この後も散発的に農民一揆が発生し、長州毛利家は行政改革断行を余儀なくされた。

村田(むらた)清風(せいふう)周布(すふ)政之助(まさのすけ)に連なる派閥と坪井(つぼい)九右衛門(きゅうえもん)椋梨(むくなし)藤太(とうた)に連なる派閥が対抗しつつも交錯して改革を進めた。

行政改革に並行して嘉永年間より軍制改革が開始されたが、「神器陣(しんきじん)」と呼ばれる従来の陣法が上級武士により支持されて改革が進まず、万延元年(1860)に「入込稽古(いりこみけいこ)」という形で仕事の合間に武士が銃陣や小隊運動の訓練を受ける事が始まった。

周布政之助は万延元年(1860)閏3月5日付、宍戸(ししど)九郎兵衛(くろうべい)宛の手紙に
「もはや軍事は歴代の上級武士だけの問題ではない。下級武士、足軽、農民まで動員するべきであり、領地を持つ武士は石高に応じて銃隊を編成し、それに併せて城下の武士を土着させれば、武士の土着、失業者救済、贅沢な暮らしを抑えて質実剛健と一石三鳥の改革が出来る」
と記している。

更に周布は文久3年(1863)2月10日付、息子・市太郎(いちたろう)宛の手紙には、小銃局の開設に際して、
「毛利家の要衝に大砲・小銃が充満すれば、外国を圧倒する手段になる。人民は半年も訓練すれば、立派な兵隊になるが、武器が無ければ訓練は出来ない。今どき、竹槍を与えて黒船を沈めろと命令するのは、慈悲に欠けるというものだ。小銃を購入ないし製造して武器を充分準備し、長州毛利家の人民約70万、うち婦女子が35万、老人と子供で17万5千、残りの17万5千が戦える人間として、彼らが戦えるだけの大砲・小銃を整えておく事が、この上なく大切な事だと思う」
と民衆の武装化と武器の調達、整備を明言している。後に奇兵隊やそれと同じ様な性格の部隊(=諸隊と呼ばれた)が続々と作られる発想の源流である。

少し戻り幕政に目を向けると、安政6年(1859)、大老・井伊(いい)直弼(なおすけ)により、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家家臣・吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家家臣・梅田(うめだ)雲浜(ひんぴん)、将軍後継争いで暗躍した福井松平家家臣・橋本左内を処刑する安政の大獄が起こる。
しかし在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。

文久元年(1861)2月3日、ロシア帝国海軍は軍艦ポサドニック号が対馬に来航。これは強引に対馬宗家に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。
同年8月15日、ポサドニック号は対馬から退去したが、これは「対馬はイギリスも狙っていたため、クリミア戦争の二の舞*2となる事を恐れた」ロシアが手を引いたと言われている。(対馬事件/ポサドニック号事件)

対馬・宗家とは漁民の保護などを通じて仲が良かった長州毛利家は事の一部始終を聞き、海上交通の要衝である関門海峡を有する事、自領の近くに竹島があり、そこが外国に領有化される事に危機感を抱き、対馬事件で徳川幕府が解決策に土地や要衝の直轄化を打ち出した事から、自分達も否定されるのではと危機感を抱いた。

これに関連して文久3年(1863)4月に長州毛利家は村の長たちを集めて、外圧を強く主張し、若い者は農業の合間に訓練をし、裕福な者は刀・槍・弓矢・鉄砲を準備していつでも使える様にと通達した。

攘夷思想が強く、取り巻きの公卿達の勧めで当時在位していた孝明(こうめい)天皇(てんのう)の勅使派遣は文久2年(1862)に入ってから2度目。

1度目は6月に薩摩島津家の国父*3島津(しまづ)久光(ひさみつ)が勅使・大原(おおはら)重徳(しげとみ)を擁して江戸に着き、幕府人事へ介入し、安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主・一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)田安(たやす)慶頼(よしより)に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主・松平(まつだいら)慶永(よしなが)を政事総裁職に就任させる体制を実現した。
島津久光は帰りの道中で生麦事件に遭遇した。
久光は亡き兄・斉彬(なりあきら)がやりたかった幕政改革を実現したが、長州毛利家と土佐山内家の攘夷派は久光に
没!企画が弱い!
キャラが立ってない!
と酷評し、
オレたちが本当の勅使を見せてやる!
三条(さんじょう)実美(さねとみ)姉小路(あねのこうじ)公知(きんとも)が攘夷を催促する勅使になった。

幕府の政治に関与出来ない長州毛利家は朝廷工作に軸を置き、当初は長井(ながい)雅楽(うた)の『航海遠略策』で京都デビューを果たす筈だったが、久坂(くさか)玄瑞(げんずい)が『企画が弱い』と難癖を付けて取り下げさせ、長井に詰め腹を切らせた。

文久2年(1862)12月12日、品川御殿山に完成間近のイギリス公使館を焼き打ちしたのは赤根(あかね)武人(たけと)井上(いのうえ)(かおる)、高杉晋作、久坂、伊藤(いとう)博文(ひろぶみ)だった。


創設


長州毛利家は久坂らが士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、光明寺党の結成を認めた。

光明寺党は、他家の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は大名家の単位を超脱していた。

同年1月27日に京都で毛利家は諸大名の家臣と会合し、同年2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府はヤル気が無い為、久坂玄瑞が朝廷に建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。

また、京都御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州毛利家が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が諸侯に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

長州は自国の海域を通行する外国船に同年5月10日、砲撃を行うも、同年6月1日、アメリカ軍艦・ワイオミング号は報復攻撃を開始、長州海軍を壊滅させ、同年6月5日、フランス東洋艦隊・セミラミス号とタンクレード号が報復攻撃を開始、砲台も完璧に粉砕した。

長州毛利家は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決め、同年6月6日、高杉を呼び出して馬関防御を命じ、翌7日、光明寺党を叩き台に高杉が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。

山口に移転した毛利家に提出した奇兵隊の綱領には、
一、奇兵隊は有志の集まりで身分を問わない実力主義の集団です。
二、手紙を出したら直ぐに殿様に届く様に改めて欲しい。
三、奇兵隊には色んな奴が入るけど、拒まず受け入れますよ。
四、これから証拠として日記を付けて、毛利家に提出するから、賞罰の命令は身分に関わらず速やかに実施して欲しい。
五、奇兵隊の決まりは和流西洋流に関わらず、それぞれの武器で戦う。
と記し、同時に法令五か条を作った。
一、隊員−伍長−惣督の指揮系統の下、一隊一和が肝要です。
二、陣中勝手な外出をしないこと。
三、酒宴・遊興・淫乱・高声の禁止。
四、喧嘩口論の禁止及び「計謀策略」の意見は伍長を通して惣督へ申し出る事。
五、陣中敵味方強弱批判の禁止。
と定め、同年6月8日付で高杉から毛利家重臣・前田(まえだ)孫右衛門(まごえもん)宛の手紙に、ひとまず金が無いから、馬関の豪商・白石(しらいし)孫一郎(まごいちろう)や萩の商人・山下(やました)七之允(しちのじょう)へ負担して貰っています、と伝えている。

奇兵隊の「奇兵」の由来は高杉によると、
「正兵」が「正面から敵を引き受ける」のに対し、「奇兵」は「少ない兵や奇策で敵をかき回し、神出鬼没の動きで敵を悩ます」のを目的にする、とあり、ゲリラ戦力なのである。

活動

文久3年(1863 )6月12日、奇兵隊は赤根武人、宮城(みやぎ)彦助(ひこすけ)坂本(さかもと)力二(りきじ)、の3人を豊前小倉小笠原家に向かわせた。

現実に攘夷をすると長州毛利家の大砲の飛距離では不十分だった。

対岸の豊前小倉小笠原家からも砲撃し、はさみ撃ちにして、戦果を挙げることが可能だった。

3人は小笠原家に対し、朝廷からの命令と主張し、関門海峡を航行する外国船への挟撃を求めた。

3人より前に、長州毛利家とその一門では豊前小倉小笠原家に対して文久3年(1863)4月27日と同月29日に共同作戦で攘夷をしようと申し入れをしているが、小笠原家は

「幕府からは、外国船が攻撃してきた場合に限って打ち払うよう命じられている。
攻撃してこない、ただ航行する外国船を砲撃することはできない」

という主張だった。

小笠原家は、朝廷から政務を委任されている幕府の命令を順守すべきという方針を採った。

これに毛利家は、朝廷の命令を(ないがし)ろにし、攘夷を行わない小笠原家は厳罰に処せられるべきだと主張した。

文久3年(1863)6月14日、長州毛利家の朝廷工作により*4、監察使・正親町(おおぎまち)公董(きんただ)が御親兵60人を引き連れ、長州毛利家へ派遣する事を決め、同月16日に出立。


と、同年6月20日、奇兵隊110余人と大工・日雇いの者40人が大砲持参で田野浦に入り、砲台を築き、近くの山から勝手に、杉の木を伐採し始めた。

同月24日には更に追加で300人が田野浦に上陸、陣地や宿舎を設置し、小笠原家の領地を侵食した。

更に高杉らは正親町に対して、小笠原家に対する弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。

幕府は長州毛利家の行為に危機感を抱き、詰問使・中根(なかね)一之丞(いちのじょう)を軍艦・朝陽丸(ちょうようまる)に乗せて派遣したが、逆に長州毛利家は朝陽丸に砲撃、停泊した朝陽丸を奇兵隊が拿捕、中根らを殺害。

小笠原家は朝陽丸に事情を説明するべく家臣を乗せていたが、切腹に追い込まれ、もう一つの手段である幕府特に京都守護職・松平(まつだいら)容保(かたもり)に訴え、容保が中川宮・薩摩島津家とともに長州毛利家を朝廷から追い出す為のクーデターを実行した。(八月十八日の政変)

この文久3年(1868)八月十八日の政変は、奇兵隊に影響を与えた。

高杉は同年9月10日政務座役に就任、同月12日に奇兵隊惣督を辞職して、河上(かわかみ)弥市(やいち)(たき)弥太郎(やたろう)の二人が奇兵隊惣督に就任した。

政変を受けて長州毛利家に落ち延びてきた尊攘派公卿・三条実美ら七卿は三田尻の招賢閣(しょうけんかく)に滞在する事になり、同年9月25日、その護衛を奇兵隊が行う事になった。

七卿の一人、(さわ)宜嘉(のぶよし)は、平野(ひらの)国臣(くにおみ)のすすめに応じて、但馬生野で挙兵したのだが、それに河上らが従った。

『奇兵隊日記』文久3年(1863)10月2日の項目に
「今夜、沢公卿脱走。河上弥市、白石(しらいし)廉作(れんさく)伊藤(いとう)百合五郎(ゆりごろう)長野(ながの)熊之丞(くまのじょう)和田(わだ)小伝二(こでんじ)小田村(おだむら)信之進(しんのしん)下瀬(しもせ)熊之進(くまのしん)井関(いせき)英太郎(えいたろう)、以上八人がお供で脱走した」
とある。

同月4日、河上に代わり赤根武人が惣督になった。

同月10日、毛利家は奇兵隊に対して隊長、伍長など役職を定め、隊員の二男・三男・隠居の別や出身地、奇兵隊への入隊月日などを詳しく届け出る様に命じた。

同月14日には殿様との拝謁が相談された。

同月26日、沢を除いた六卿の三田尻から山口への移転に際しては、奇兵隊が護衛したが、警備の任は解かれた。

代わりに三田尻で他の大名家の応接や海岸警備を命じられた。

これは但馬生野の挙兵事件からくる反省である。

もう一人長州毛利家に亡命してきた中山忠光*5の話が来ると奇兵隊で保護しようとしたが、毛利家が分家筋の長府毛利家が預かる事になった。

後に中山は長州毛利家が徳川幕府寄りの政権になると厄介者になり、長府毛利家の手で元治元年(1864)12月8日に殺害された。

文久3年(1863)12月23日、奇兵隊は馬関警備を選鋒隊*6と交代した。
翌日、薩摩島津家船籍の長崎丸(ながさきまる)に砲撃して撃沈、28人が死亡。
毛利家から島津家に謝罪があった。

翌文久4年(1864)2月12日、薩摩島津家の商人・大谷(おおたに)仲之進(なかのしん)とその持ち船・加徳丸(かとくまる)が襲われ、大谷は殺害、加徳丸は炎上した。

八月十八日の政変への仕返しとも言えるし、奇兵隊には薩摩島津家が薩英戦争で攘夷を行い、その後、海外貿易で利益を出しているのが気に入らないという対抗心みたいのがあった。

こうしたなか、文久3年(1863)12月末から文久4年(1864)1月にかけて、一橋慶喜、松平容保、松平慶永、島津久光、山内(やまうち)豊信(とよしげ)伊達(だて)宗城(むねなり)らが「参預(さんよ)」に任命され、「参預会議」として国政の重要課題を討議する制度が発足したものの、横浜鎖港の是非と長州毛利家の処分を巡り、意見がまとまらず、元治元年(1864)3月、解体した。*7

他方、毛利家領内は外国艦隊の報復や朝陽丸事件で旗本を殺され、勝手に譜代大名の領地を没収しようとした事に怒り心頭な徳川幕府が追討令を発令するという話があり、異様な緊張感が支配していた。

奇兵隊にもそれは伝わり、『奇兵隊日記』文久4年(1864)2月16日の項目に山口の毛利家から「紀律を保つのが一番」と命令が下り、同年3月〜4月に掛けて三条実美ら六卿が馬関など毛利家の要衝を視察し、命令が徹底されているかの確認があった。
この視察途中で錦小路(にしきこうじ)頼徳(よりのり)は病死、七卿は二人を失い、五卿になった。

この頃、長州毛利家内部で軍勢を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。

首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島(きじま)又兵衛(またべえ)、久坂玄瑞、浪人の真木(まき)和泉(いずみ)など。

周布政之助や高杉晋作は外国艦隊の襲来も予想されるから、今は内側を固めるのが先決と反対すると、来島から
「やーい、権力の犬www。犬らしく尻尾でも振っとけwww」
と高杉が政務役という役職に就いている事を嘲笑うと、高杉がブチギレてしまい、このまま出奔。

元治元年(1864)2月2日大坂に到着し、島津久光暗殺計画に身を投じるも、毛利家から呼び戻され、同年3月29日、牢屋に入った。

牢屋の外から周布が
「ここで3年我慢して勉強するんだなwww
これくらい我慢できなきゃ、将来、大望を成す事など出来んぞ!」
と馬に乗り、酒を飲み、刀を抜いて大声で叫んだら周布は失脚し、同年9月26日、腹を切らされた。

元治元年(1864)3月27日には常陸水戸徳川家の天狗党が筑波山で武装蜂起。

天狗党は長州毛利家の攘夷派と丙辰丸の盟約を交わした盟友。

元治元年(1864)6月20日、奇兵隊の定員は500名と通達が来た。

この頃、京都の政局は長州毛利家に有利に働いていた。幕府側は横浜鎖港問題で内部対立が激しく、物価が開国前より3倍に跳ね上がり、これに手を拱いていたので死に体になっていた。

会津松平家の公用局が報告書の中で
「世間では長州待望論が流行している、なんて事だ!世も末だ!」
と、記している。

長州毛利家の京都留守居役・乃美(のみ)織江(おりえ)や京都で朝廷工作をしていた桂小五郎は、在京の諸大名も八月十八日の政変の頃より長州毛利家に好意的になっている。このまま長州に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて会津松平家を追い出して行けば、失地回復も現実になると読んでいた。

読みとしては当たっていた。
後に徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が王政復古の大号令後、徳川に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて薩摩を追い出していけば、失地回復も現実になるのと同じである。

まぁ、慶喜も桂も頭の回転は優れているが、人の感情を無視する部分があり、それが足をすくわれる原因となるが。

慶喜にとっては江戸薩摩屋敷の焼討事件で在坂の徳川方の憤懣に火が付いたが、桂には池田屋事件がそれだった。

志士達は、会津やその配下の新選組による警備態勢が敷かれている京都へ潜り込み各地の尊攘志士達と連絡を取り合って失地回復を計画。

この流れを変えるには強硬手段しかないと考え、御所に潜入して放火騒ぎを起こした隙に孝明天皇を拉致、騒ぎに駆けつけた中川宮(なかがわのみや)*8、京都守護職・松平容保を暗殺する計画をたてた。

この計画は新選組に知られ、池田屋で会談中に襲撃され、宮部(みやべ)鼎蔵(ていぞう)松田(まつだ)重助(じゅうすけ)吉田(よしだ)稔麿(としまろ)杉山(すぎやま)松助(まつすけ)北添(きたぞえ)佶麿(きつま)らが死亡。

奇兵隊は上洛を願い出たが、下関海峡の警護が重要であるとして、毛利家から差し止められた。

元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。

禁門の変である。

国司(くにし)信濃(しなの)福原(ふくはら)越後(えちご)益田(ますだ)右衛(うえ)門介(もんのすけ)の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、伊勢桑名松平家などの兵と激戦。

指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。

上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。

国内では孝明天皇が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。

元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。

後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。

狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。

この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。

連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。

イギリス留学中の伊藤博文、井上馨らが慌てて帰国して、同月3日に伊藤と松島(まつしま)剛蔵(ごうぞう)が、翌日には前田孫右衛門と井上が四ヶ国連合艦隊に
「天皇と将軍に言われて攘夷した。長州悪くない!けど、お情けで外国船が関門海峡を通航するのは認めてやるよwww」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めず、下関に陣取る奇兵隊らに攘夷の行なうべきでない事を説いたが、皆、頑なに攘夷を貫いた。

連合艦隊を迎え撃つ長州の布陣は2000名の人員と70門の大砲を前田、壇ノ浦、洲崎、弟子待の四か所の砲台に配置したが、大砲は規格、射程、性能がバラバラ、人員もヤル気のある奇兵隊や膺懲隊とヤル気の無い正規の武士団などバラバラで、数だけ合わせました的な感じ。

元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。

翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側が2600名の陸戦隊を上陸、武器もエンフィールド銃で武装され、ゲベール銃や火縄銃、槍や弓矢で武装された長州側と交戦。

損害はイギリス側が本国に送った報告でイギリス軍が戦死8、負傷51、フランス軍が戦死4、負傷5となっている。

長州軍は戦死13(奇兵隊6、膺懲隊7)、負傷27(奇兵隊16、膺懲隊11)。

長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。

フランス海軍士官アルフレッド・ヴィクトル・ルサンの『フランス士官の下関海戦記』*9によると、
「大砲を船に積み込むのに日本人等は我々の手伝いをしてくれた。彼らは軍人が見てない処では戦争の中止を満面の笑みで受け入れた。我々の砲弾の爆発する音を声で真似しながら、彼らは戦争なんか大嫌いだ!と大声で話していた。」
と長州の民衆が武士に愛想を尽かしていた事が理解出来る。

四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉が表舞台に立ち、行われた。

当時、山口滞在の五卿や、長州に亡命していた攘夷派浪士たちは、
『そもそも「尊王」は「攘夷」を目的とした。今、外国と話しているのは「大攘夷の成功」の為に「嘘も方便」というのは理解するが、この戦は「百戦百敗」しても屈しないのが大事であり、理由をキチンと説明しないと後世に示しが付かないよ!』
と高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目に。

それでも高杉はなんとか同年8月14日に内容として関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す、という講和を纏めた。

賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。

毛利家は「天皇と将軍に(ry」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派の日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。
この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州毛利家を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えて、長州毛利家領内から島の一つを占領する計画があった。
オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
幕府に変わってお仕置きよ
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州毛利家は賠償金を免除される。

幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。


この戦いで政権が椋梨藤太(むくなしとうた)の現状維持派に傾いてしまった長州毛利家。

征討軍を揃えた幕府に、毛利家では三家老*10、四参謀*11を処断、謝罪して第一次長州征伐は終了。

高杉晋作、井上馨ら残りの尊皇攘夷派は毛利家から命を狙われるようになり*12、筑前平尾山荘の野村(のむら)望東尼(もとに)のところに潜伏したが、逃げ回って死ぬくらいなら、一か八かで勝負を挑んで戦った方が男子の本懐と高杉は下関の功山寺で武装蜂起。

赤根武人や山県は反乱が時期尚早と考えていたため同調しなかった。

翌元治2年(1865)1月2日、赤根が奇兵隊を脱走し、山県が奇兵隊を掌握、1月5日には高杉を支援することを決め、高杉軍が椋梨軍を打ち破り、毛利家の主導権は高杉らによって占められた。

(長州の軍制改革は大村益次郎の項参照)

その後、慶応2年(1866年)に世良修蔵らが軍監を務めていた「第二奇兵隊」の一部が集団脱走して当時幕府直轄地だった倉敷や総社浅尾藩の陣屋を襲撃した「倉敷浅尾騒動」が起こり、すぐ長州藩が自ら脱走者の長を討伐するというハプニングもありつつ*13
幕府側が本格的に襲来した第二次長州征伐や、明治維新の中核たる戊辰戦争で主力として活躍した。

戊辰戦争

慶應4年(1868)3月17日、山県指揮下の奇兵隊が海路、大坂に派遣された。

大坂で一旦江戸行きの命令を受けて、陸路で赴いたが直ぐにとんぼ返りで再び海路、薩摩島津家の蒸気船で大坂に戻った。

慶應4年(1868)4月19日、政情不安な越後を平定する為に山県は薩摩島津家の黒田清隆(くろだきよたか)と共に北陸道鎮撫総督府参謀に就任した。

同年閏4月7日、京都で木戸孝允に面会し「内外の事」を論じている。
民衆の対応に困ったら取り敢えず、
「年貢半減令」
を布告して民衆の機嫌を取る、実施を聞かれたら
「まだ、もう少し待ってねwww、準備が掛かるの」
と先延ばしして、有耶無耶にする。
それでも食い下がるなら、鉛弾をお見舞いしたれ!とか、太政官に従わない大名家は全て敵。
言い分があるなら、実力で示せ!と煽れ。
大抵の奴は錦の御旗にビビって、そこで頭を下げるが、通用しない奴がいたら、大名家の民衆に味方するなら年貢半減令を適用すると布告して大名家と分断しろ。
それでも勝てないなら、数に頼んだゴリ押しだとか、必勝の策を授けた。

山県は陸路を追い掛けて越後高田城で追い付き、海沿いと内陸部の二つから敵対する会津松平家の武器補給の拠点・新潟港を目指して進撃した。

信濃から進軍した東山道総督府軍を吸収し、会津軍や桑名軍、徳川脱走軍と交戦、晩年の山県が第一次世界大戦のベルギー、オランダな立ち位置と評した越後長岡牧野家とも交戦。

長岡牧野家の領民は太政官から味方になるなら年貢半減令を適用すると布告されて その気 になり、長岡牧野家へは城を落とされた殿様が領主顔するなと反発して一揆になった。
長岡牧野家は一揆を鎮圧したが、領民と家臣団に不信感が芽生え、実力は半減。

それでも、出羽米沢上杉家や出羽庄内酒井家が増援を繰り出し、奥羽越列藩同盟*14となって5千前後の数になり、太政官側は木戸孝允
「賊に負けたら外国人の物笑いのネタにされる。山県の増援は言い値で丸呑みしろ!」
と山県の増援要請を受け入れ、最終的に4万まで膨れ上がった。

一度奪った長岡城を同盟軍を指揮する河井継之助に再奪取された。

この時、西園寺公望(さいおんじきんもち)前原一誠(まえはらいっせい)と長岡城で寛いでいた山県たち。

前原が長岡城の先で見える戦火を見ると、西園寺は手を叩いてはしゃいでいたが、山県は予定時刻より早い事に不信感を抱き、斥候を出すと、敵襲の報告だった。

西園寺や前原と錦の御旗を抱えて一目散に逃げて、味方の陣地に駆け込んだ。*15

河井が戦況視察で流れ弾に当たり重傷を負い、同盟軍は指揮系統が混乱し、追撃出来なかった。

長岡城を失った際、現地の太政官幹部の中には薩摩の吉井友実が半べそかいて三国峠に撤退しようと主張した、と山県が記しているから、心理的に効果はあったが、山県が奇兵隊を中心に軍を率いて奪い返し、8月には越後を平定した。

この戦いで山県は親友の時山直八を失い、西郷隆盛は実弟の吉二郎(きちじろう)、軍事面での懐刀である中原猶介(なかはらゆうすけ)と公私の重要人物を失った。

山県は
「仇守る 砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ 越の山風」
「会津山 西吹く風の 先にあだも この葉も たまりかねつつ」
と歌を詠んでいる。

苦戦した理由は同盟側に戦上手が揃っていたし*16、新潟港から陸揚げされたエンフィールド銃やシャープス銃が前線に投入されて効率的に補給が行われていた。

太政官側は山県と黒田で考えに食い違いが出たり、他の大名家から供出された軍隊は練度、編成、給与体系、弾薬、糧食、指揮命令系統などが大名家単位であり、それを一つにまとめるなど不可能。

作戦の主導権を握れたのは薩摩島津家、長州毛利家の軍が多数を占めていたから。

もう一つは民衆が徳川体制に飽きていて、年貢半減令と併せて太政官に政権を任せてみたいという期待が有ったのが大きい。

1993年の日本新党や2009年の民主党、2025年の参議院選挙みたいに政権与党にお灸を据えたい、政権交代を果たしたいという雰囲気である。

まぁ、その後、年貢半減令を反故にして、廃仏毀釈政策で仏教徒が多い越後の民衆は太政官に対する失望感を
「思ってたんと違う!」
と顕わにし、明治5年(1872)に会津士族の渡辺悌輔(わたなべていすけ)が首謀者になり戊辰戦争後の戦後行政や廃仏毀釈運動に対する反発から1万人が参加し一揆になった。
一揆は直ぐに鎮圧され、渡辺らは処刑されたが県知事は更迭され、新潟県は政府批判を繰り広げる自由民権運動の拠点の一つになった。

山県指揮の奇兵隊は明治元年(1868)9月22日の会津松平家の降伏を現地で見届けた後、陸路、甲府、東京、京都を経て12月に帰国した。


末路


しかし、ここから奇兵隊は転機を迎える。

明治元年(1868)12月に木戸孝允が「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型を提案し、その戦力に奇兵隊などを使う予定だった。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうとしている。

結局、金がない、箱館にまだ敵がいるからという理由で立ち消えになった。

明治2年(1869)11月には長州毛利家改めて山口藩が戊辰戦争から凱旋した奇兵隊や遊撃隊を藩治職制*17に基づき軍隊の精錬という名でリストラすると宣言。

しかもそのリストラの実態は旧武士階級を温存し、旧農民や町人を除隊、中には幹部連中の不正な使い込みを内部告発した人間を除隊者に入れるなど今の日本企業も真っ青のやり方。
この当時に北海道の屯田兵構想を思いついてりゃ手っ取り早く再就職先をやれたのになあ…*18

リストラされた兵士達は隊の公金で贅沢に遊び戦死者の遺族に支払われる一時金を着服した幹部達を告発・厳罰を求めたり、東京にいる高官は賞典禄で贅沢に暮らしているのに、命がけで戦った自分たちは無一文で路頭に迷わせるのか、と賞罰の不公平感に反発した。

歴史家は不平士族とバッサリ切るが、それは酷な気もする。
今も昔もやり方は変わらないのな…

これに長州の民衆の中に御一新が
「思ってたんと違う!」
「長州は徳川以下のクソ政権!」
と抱く人達や、大楽(だいらく)源太郎(げんたろう)みたく、
「攘夷をいつやるの?今でしょ!」
と攘夷を煽る人もいて、3つの力が一つになって明治3年(1870)1月に武装蜂起、脱退騒動と呼ばれた。

一時は蜂起側が優勢となるも、国の乱を鎮めるため都から帰還した木戸は奇兵隊や遊撃隊の兵隊たちによる内部告発や民衆の御一新に対する失望感を、
「下っ端は大人しく上の言う事だけ聞け!口答えするな!」
ブラック企業の社長みたいな口調でバッサリと切り捨て、軍隊を率いて叩き潰した。

会津のヤーヤー一揆*19に匹敵する長州の脱退騒動がここに幕を閉じた。

諸隊が粛清されたのは一般的には「大楽ら攘夷思想組と諸隊と農民一揆が手を組み、維新後に邪魔だったから」だが、
木戸孝允が有耶無耶にしてごまかそうとしていた攘夷思想*20、年貢半減令や「幹部が隊を私物化して兵隊の給料を中抜きして懐に入れている事」を正確に指摘し証拠を突き出し、事実陳列罪という形で懐柔出来なくなったから、口封じの為に潰した可能性が大きかった。

流れ的に戊辰戦争終結→山口藩のリストラ宣言→諸隊が反発→今までの負担に耐えられないと長州農民による世直し一揆勃発→山口藩が諸隊にリストラを緩和するから農民一揆を止めさせてと懇願→諸隊が農民一揆と対話し、農民一揆の声を山口藩に伝える→山口藩、農民の要求を一部受け容れる→東京から木戸孝允が軍隊と共に来て、諸隊、農民一揆の粉砕を山口藩に伝える→諸隊、ブチギレて武装蜂起→太政官が返り討ちにする、という形。

太政官側は1800人程の軍隊を投入して、三方向からの分進合撃を行い、戦死者21人、負傷者64人を記録し、1回の戦闘で7万発の弾薬が費され、「今日の苦難は語り尽くすべからず」と木戸孝允は明治3年(1870)2月9日、日記に記している。

諸隊側は18箇所の砲台を構築、1800人を投入したが、戦力を分散させ、数の優位を活かせず、戦死者60人、負傷者73人を記録。

この後、残党狩りで捕まり、明確に処刑された数は93人、遠島、投獄、謹慎などが128人、残党狩りを逃れ、海賊や山賊になり抵抗するも鎮圧され、捕まり処刑されたのが35人にのぼる。

帰順した諸隊の生き残りも士族なら隠居、陪臣、卒族なら平民に落とす、それ以外の出身は「帰農」という形で100貫文の生活費を与えた。

口封じに成功した木戸孝允は功労金として250両を賞賜されているのと比べると、格差は激しいが。

諸隊側の敗因は指導者不在。政治的な黒幕として大楽源太郎などがいたが、途中で逃走して、殺害された。

諸隊側の中核になったのは戦闘経験の豊富な兵士や下士官であったが、これを活かす軍事的指導者が不在だった。

太政官側は政治的指導者に木戸孝允、井上馨、戊辰戦争を戦った指揮官も健在であり、この差は大きかった。

生き残りの人達は明治9年(1876)に自分達の働きに対しての陳情を毛利家に行ったが、のらりくらりと引き延ばして有耶無耶にされたので、明治20年(1887)、明治21年(1888)、明治27年(1894)、明治32年(1899)、明治33年(1900)と毛利公爵家に陳情したが毛利家や後見人の井上馨、品川弥二郎らは無視した。

明治34年(1901)3月、東京地方裁判所に民事訴訟で毛利家を訴えたが、同年6月15日、訴えは棄却され、控訴したが明治35年(1902)2月8日、判決が言い渡され敗れた。

明治37年(1904)11月1日、山口地方裁判所に民事訴訟で毛利家を訴えたが、明治38年(1905)3月20日、訴えは棄却され、控訴した同年5月2日、判決が言い渡され敗れた。

その間、井上馨が裁判に圧力を掛けたと独立新聞は記事にしている。それによれば、警察や憲兵、裏社会の住人まで駆使して、諸隊の生き残りが裁判に出廷させない様に圧力を掛けたと記事にあり、新聞の記事差し止めを求めたと書かれている。

諸隊側も法廷闘争という近代的な闘いをしたと言える。

諸隊側が法廷闘争に挑んだ背景には、帝国憲法や民法など法律が制定され、近代的な弁護士制度が整い、徳川時代よりは気軽に裁判を起す事が出来る様になったから。

江戸期の封建制下では、藩士や領民が、大名を訴える!なんて事はありえなかったろうが、明治政権下では、それが可能だっただけでも革命的だったのだなあとは思う。

毛利家側は大金を積んで勝てる弁護団を結成したし、諸隊側が結成した弁護団の弁護士の中には鳩山和夫氏が参加していた。

確かに諸隊側は裁判に負けはしましたが、毛利家側の、明治維新の後ろめたい部分を法廷闘争や記録に残した事は、覚えていて欲しい。

組織

奇兵隊は組織改編を頻繁に行い、最高司令官を惣督と呼び、副司令官として軍監が2人、作戦を作る参謀が4人、兵隊の教育担当である書記が3人、隊本部付として小荷駄方、作事方、会計方、斥候、器械掛、輜重方、読書掛などが参謀や書記を補佐する人員が34人。他に指揮官付の軍属として13〜15歳くらいの少年兵が26人配置されていた。

結成当時は槍隊、小銃隊、小隊、砲隊などで編制され、最小単位は伍と呼ばれ、5人からなる。伍が5つ集まり小隊となり、司令士、押伍*21が指揮を取る。都合27人で1個小隊となる。

砲隊は大砲1門につき司令官を付け、伍長1人、隊員6人からなる。

装備

結成当時は槍、弓、火縄銃、ゲベール銃などなんでもありだった。
戊辰戦争頃にはミニエー銃やエンフィールド銃で武装され、戊辰戦争後半にはスナイドル銃やアルビニー銃などミニエー式弾丸を使う元込め銃に切り替わっていった。

服装は勝海舟が「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」と評した様に筒袖にダンブクロと呼ばれるズボン履きに草鞋、陣笠。

教育

訓練としては、朝6時〜8時まで文学稽古。8時〜12時まで射撃、砲術などの小隊訓練、射撃訓練。12時〜16時は剣術稽古、16時〜20時まで文学稽古。2日に1回は小隊合同の中隊、大隊訓練を行う。休みは1日、15日の月2回。
文学稽古は主に儒学を行うが、司令士クラスになると算術、三兵戦術、築城書、砲術理論などの学習が追加される。

構成、入隊条件

武士、農民、町人などでも、原則、次男三男の入隊を主に認め、長男の入隊は可能な限り、許さなかった。
武士なら家柄や身分に応じた役目を担う長男はお家存続の為に敬遠された。
農民だと長男まで兵隊に出ては、誰が年貢を納めるのか?という根本的な問題にぶち当たり、年貢を確保する為に長男は敬遠された。
人口比で武士が44%、農民が38%、町人、坊主、神主らが10%、その他の身分が10%。
武士も毛利家直参の武士より、家老や高禄の武士に仕える陪臣と呼ばれる人の次男三男が47%を占めた。
農民も貧農ではなく、村役人を務める富農層の次男三男が32%を占める。

関係者

高杉晋作(1839〜1867)
奇兵隊の初代惣督。
攘夷をするといって焼き討ちしたり、海外事情を知る為に上海に渡航したり*22、蒸気船を購入といって長崎の遊廓で一晩で使い切るなど、行動力の塊と言っていい。
しかし、周りがフグ鍋を食べている時でも、高杉と山縣有朋は鯛鍋を食べてフグの毒で食中毒になりたくないと公言するなど、一定の用心深さを兼ね備えている。
第二次長州征伐後、結核により慶応3年(1867)5月17日、惜しまれつつ病死。


河上弥市(1843〜1864)
奇兵隊の2代目惣督の1人。八組士と呼ばれる上級武士の出身。
惣督に就任した後、長州を抜け出し七卿の1人・沢宣嘉を担いで生野の変を起こし、敗れて敗死。

滝弥太郎(1842〜1906)
奇兵隊の2代目惣督の1人。松下村塾門下生で八組士と呼ばれる上級武士の出身。
河上が抜けた後、赤禰武人と奇兵隊を束ねていたが、途中で転属。
第二次長州征伐では石州口の総督として作戦参謀・大村益次郎を従えて活躍。
維新後、山口藩の役人として奇兵隊の反乱時に木戸孝允と面会しているのが、木戸の日記で明治3年(1870)1月4日に記載がある。
廃藩置県後は長崎、佐賀の地方裁判所判事、岡山地方裁判所長などを歴任。

赤禰武人(1838〜1866)
奇兵隊の3代目惣督。松下村塾門下生で周防の村医者の子。
滝の後を受けて奇兵隊を束ねる。
山縣有朋や世良修蔵を奇兵隊に引き込んだ。
高杉の功山寺挙兵には冷ややかな見方で、内ゲバをするくらいなら、大人しく幕府の圧力をやり過ごして、力を蓄えようと主張したが、支持を得られず、長州を脱出。
その後、幕府に捕まり、幕府が長州の事情に詳しい赤禰を密偵として長州に潜入させ、長州を切り崩す事に使い、赤禰は内戦を避けたい一心で幕府の提案に乗った。
内戦の非を説こうとしたが、二重スパイと断定され、処刑。

山内梅三郎(1849〜1879)
奇兵隊の4代目惣督。惣督就任時16歳と若く、お飾り扱いと任命した高杉は話している。上級武士の子。
第二次長州征伐では小倉口で奇兵隊を指揮し、戊辰戦争では長州でお留守番。廃藩置県後、アメリカに留学。
帰国後、将来を期待されたが病死した。

山縣有朋(1838〜1922)
奇兵隊の軍監。実は奇兵隊の惣督に就任していない。
赤禰武人の脱出後、実質的に奇兵隊を切り盛りしていた。
攘夷戦争、第二次長州征伐、戊辰戦争で活躍した後、太政官に入り外遊。
なので、脱退騒動には絡んでいない。
帰国後、大村益次郎亡きあとの陸軍を任された。
山城屋和助事件などのやらかしはあるが、面倒見が良く、多少の失敗なら擁護して、山縣が代わりに泥を被った事も。
政界、官界に長州閥を築く原動力となった。
2度の総理大臣経験者。

福田侠平(1829〜1868)
奇兵隊の軍監。奇兵隊の兄貴分。新選組なら井上源三郎的なポジである。
攘夷戦争、第二次長州征伐、戊辰戦争で活躍した後、故郷の長州に戻り酒を飲んでいたら、突然亡くなった。
大の酒豪であり*23、戦闘中も酒を常に携えて、戦況が不利になった時にも酒を飲みながら「騒ぐな、あせるな」と平然と指揮を続けたという。

時山直八(1838〜1868)
奇兵隊の参謀。松下村塾門下生で山縣有朋と同門の槍仲間。
江戸で久坂玄瑞とともに山田方谷や河井継之助と宴会をした仲で、社交的な面があり、京都の長州屋敷で応接掛を担当していた。
赤禰と仲が良く、一時期、奇兵隊で世良修蔵とともに冷遇されていた時期もある。
疑いが晴れた後、戊辰戦争では奇兵隊参謀として北越戦争に従軍。
朝日山の戦いで戦死。

山城屋和助(1836〜1872)
奇兵隊指揮官。奇兵隊時代は野村三千三(のむらみちぞう)の名乗り。
村医者の4男から僧侶に出され、奇兵隊創設を聞くと還俗して入隊。攘夷戦争、第二次長州征伐、戊辰戦争で活躍した後、大商人にオレはなると言って商人に転向。
木戸孝允や山縣有朋の引き立てで陸軍の装備品調達を一手に引き受けたり、陸軍の予備金を倍にしますよ、と陸軍の予備金を生糸相場に投資したが、溶かしてしまい、最終的に責任を感じて自刃した。後に山城屋和助事件となる*24

佐々木祥一郎(1843〜1870)
奇兵隊隊士。長州毛利家の家老・国司信濃の家臣、俗に言う陪臣。
将来を嘱望されており、陪臣ながら国司信濃の育み*25という形で萩の明倫館に入学し、文武両道で成績は良かった。
奇兵隊が創設されると、これに入隊する。
主君の国司信濃は第一次長州征伐の責任を取り処刑され、国司家は高田と苗字を改めて過ごす。*26
戊辰戦争後、上層部の行動や故郷の疲弊を見て、山口藩への不信感を募らせ、脱退騒動の首謀者に同じ奇兵隊士の内藤源吾とともに就任。戦いに敗れた後、捕縛され斬首された。

三浦梧楼(1847〜1926)
奇兵隊指揮官。陪臣の五十部吉平の五男に生まれ、毛利家家臣・三浦道庵の養子になって明倫館で学び、奇兵隊に入隊。
第二次長州征伐、戊辰戦争で活躍したが部下からの評価は最悪で、公金で贅沢に遊んだ幹部の1人として糾弾され、粛清リストの上位に記載されていた。三浦も自伝で隊の公金で遊んだ事、兵隊の手当金をピンパネしていた事を認めている。
木戸孝允や広沢真臣らと仲良しで、その辺りを有耶無耶にして陸軍に入り、陸軍大佐に任官している。
萩の乱や西南戦争で活躍したが、藩閥政治に批判的で山縣有朋と仲が悪く、事あるごとに対立し、予備役送りにされた。
日清戦争後に朝鮮公使に就任して閔妃殺害事件の中心人物に名を連ねたり、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任しながら、「藩閥打倒」を唱えて政界の黒幕としても大正末期まで活動した、良くも悪くもアクの強い人物である。


評価

長州の奇兵隊は右翼系の歴史家から日本陸軍の雛形と称えられ、左翼系の歴史家からフランス革命での義勇軍の日本版と呼ばれた。

2010年6月8日に第94代内閣総理大臣に就任した菅直人氏は自らの内閣を「奇兵隊内閣」と評した。8日の記者会見で
「勇猛果敢に戦ってもらいたいという期待を込めて、奇兵隊内閣とでも名付けてもらえればありがたい」
「高杉は逃げるときも攻めるときも速い。果断な行動をとって、明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した」と称賛し「今の日本は停滞を打ち破るために果断な行動が必要だ」と訴えた。

余談



  • 日本テレビ系列の年末時代劇スペシャルに於いて、1989年12月30日・12月31日に松平健主演で放送された。


追記・修正は法廷闘争で上官の不正を糾弾した方がお願いします。


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最終更新:2025年09月22日 17:35

*1 後述の周布政之助の手紙より

*2 ロシアの南下に反発したフランスとイギリスがオスマン帝国を支援して戦争となった

*3 殿様の父親という意味

*4 三条実美にお願いした。

*5 同年8月17日に大和国五条で発生した武装蜂起・天誅組の変の首謀者。攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて。土佐出奔の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、三河出奔の松本奎堂(まつもとけいどう)、備前出奔の藤本鉄石(ふじもとてっせき)らが主導。8月18日の政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した

*6 上級武士で編成された部隊

*7 改元は2月20日

*8 皇族。孝明天皇の相談相手、政治顧問。

*9 樋口裕一氏訳

*10 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*11 宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*12 井上馨は元治元年(1864)9月25日、刺客に襲われ、50針を縫う重傷を負い、九死に一生を得る

*13 長州藩としてはこれまでの失敗による教訓から、「幕府による武力制圧への正当防衛として応戦する被害者長州藩」なんて立ち位置をその後の第二次長州征伐で取る事を選んでおり、これ以上「先制攻撃による評判の低下」を防ぎたいという意向があったとされる。

*14 慶應4年(1868)5月3日に成立した反太政官の同盟。

*15 山県や西園寺が天皇から拝領した陣羽織は目立つので捨てていった

*16 河井継之助、立見尚文、佐川官兵衛、千坂高雅、古屋佐久左衛門、石原多門

*17 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*18 北海道開拓使の人選を見ると、当初は薩摩閥と土佐閥、後には旧幕臣が幅を利かせた為、長州閥の出番はあまり無かった

*19 戊辰戦争後に発生した会津松平家に対する農民一揆。御用金の自転車操業の取り止めや村役人の交代を訴えた。

*20 キリスト教の問題を含める

*21 副長

*22 この上海渡航の最中、薩摩藩士でのちの「政商」となる五代友厚や佐賀藩士・中牟田倉之助と知り合っている

*23 侠平が少年兵に大瓢箪の徳利から酒を注がせている写真からも、そのことがうかがえる

*24 陸軍省の御用商人で、横浜で貿易商をしていた山城屋和助が陸軍省の装備品調達で陸軍省の官僚と不正を働いたり、陸軍省の非常用の準備金で生糸相場に投資して失敗、公金が返済できなくなった事件。和助は陸軍省に顔パスで入り、陸軍省の公文書を長州系軍官僚の名義で偽造して公金を引き出すなど長州系も擁護できないと見放され自殺し、山縣は政府内の排斥運動の高まりに伴って陸軍大輔を辞職、高級官僚数人も辞職、軍を追放され、調達品で和助と直接関わった下級官吏は事件発覚前に既に退職したが、逮捕・死罪になるなどで事件は幕引きとなった。不正を見抜けなかった会計長官の陸軍少将・種田政明(薩摩閥)は熊本鎮台司令長官に異動、現地で愛人とイチャイチャしていた処を神風連に襲われて惨殺された。

*25 保証人みたいなモノ

*26 他の益田右衛門介、福原越後もそれぞれ、御神本、鈴尾と苗字を改める。戊辰戦争後、この三家は苗字を元に戻す