西郷隆盛

登録日:2024/06/10 Mon 14:19:10
更新日:2025/04/24 Thu 21:46:21NEW!
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西郷隆盛(さいごうたかもり)(1827~77)とは、幕末から明治初期にかけて活躍した人物である。薩摩(鹿児島県)出身。
明治維新において多大な働きをした人物で、大久保利通木戸孝允と並ぶ「維新の三傑」と称されることも。
幕末~明治を題材とする作品ではしばしば取り上げられ、大柄な体躯に着流しの坊主頭(総髪の場合もあり)、愛犬を引き連れているイメージが多い。

西郷のイメージのモチーフとなっている上野の西郷隆盛銅像。高村光雲(詩人・高村光太郎の父)作成。除幕式でイト夫人がこの銅像を目にして「宿んしは、こげなお人ではなか!」と不満をこぼしたことはあまりにも有名。makinomantaro撮影。

▽目次


生涯


青春時代

鹿児島城下最下級の御小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれる。はじめ小吉と名乗り、やがて吉之助に改名した。
大久保利通(通称は正助、のち一蔵)とは家が隣同士で、小吉の方が3歳年上であったが、両者はよき親友であった。
また、海軍大将の川村純義や陸軍大将の大山巌(弥助)は西郷からみて従兄弟にあたる。
藩校造士館に学んで、1844年(弘化元)年には郡方書役助、後に書役に命ぜられ、迫田利済から教えを受けて10年間農政を指導する中、
藩の上層部の腐敗を目の当たりにし、藩政改革の必要性を痛感し、藩主・島津斉彬藩政改革の建白書を提出した。
ちなみにこの頃(1852年~1854年)、伊集院須賀なる女性と最初の結婚をしていたが、わずか2年で別れてしまっている。


1854年(安政元年)には先の建白書がもとで、江戸で斉彬の知遇を受けて御庭方役に就任し国事に奔走する。
当初西郷は藩主に意見したことで「最悪斬首されるのではないか?」と思い、内心びくびくしながら斉彬の御前にまみえたが、
斉彬は「西郷とやら。藩政改革のために、おぬしのような若者の忌憚のない意見が聞きたかったのだ。これから私を支えてくれ」と西郷に命じた。
以降西郷は斉彬に心酔し、斉彬もまた西郷を信頼し、師匠として西郷に武家の慣習や藩の機密情報を教えた。
このさなか、京にて福井藩士・橋本左内と知り合い、友好関係を結んだ。
当初西郷は橋本を「女ンごつなよなよしちょっ」とやや見下していたが、
実際に顔を合わせ、議論を深めていくうちに「橋本さァは、これからの日本になくてはならんお方じゃっど」と思うようになった。
また、これと近い時期に水戸藩の重鎮である藤田東湖や戸田忠太夫(蓬軒)と面会し、その人格と学識に感銘を受け、江戸滞在時は盛んに藤田や戸田のもとを訪れ交流している。
両名とも、西郷の飾らない素直な人柄を高く評価していた。

やがて、「ときの将軍・徳川家定の後継者を誰にするか」という政治上の問題が浮上した。
家定は20年前なら将軍の器に相応しかったが、今風に言えばコミュ障*1で、激動期の指導者としては問題があった*2
しかも正室・篤姫(斉彬の養女)との間に子供もいなかったので、
後継者は水戸藩主・徳川斉昭の7男の一橋慶喜と、紀伊出身の徳川慶福(家茂)の両方が期待されていたのである。
斉彬は、福井藩主・松平春嶽土佐藩主・山内容堂などの慶喜擁立派に同調する立場であった。
斉彬の掲げる公武合体策と一橋慶喜の将軍擁立計画を実行する為、盟友・橋本左内や清水寺の僧侶・月照と共に朝廷工作に奔走した西郷だったが、公武合体策は過激な尊攘志士達に、
一橋慶喜の将軍擁立計画は大老・井伊直弼の懐刀であった長野主膳や主膳の息のかかった中山家侍従の青侍*3である島田左近*4、同じく主膳の息のかかった目明しの(ましら)の文吉*5
そして何より、将軍・家定自身に後継者を徳川慶福と決められてしまい*6、阻まれてしまう。
……そりゃ将軍が後継者を決める権限を持つのに、その将軍の悪口を言い触らす松平春嶽とかいるのだから、勝つ気があるのか?と問い正したい。
更に井伊は勅許を得ずに条約調印を強行し、これに異を唱えた徳川斉昭・一橋慶喜父子を筆頭とした多くの人々を徹底的に弾圧する。
これが世にいう安政の大獄であり(詳細はリンク先参照)、これに対して島津斉彬は井伊の排除のため挙兵の決意を固め、京都に派兵する計画を立て始めた。


ところが、1858年(安政4年)に斉彬が突然病死したことで、出兵計画は立ち消えとなった。
現在、斉彬の死因はコレラ説が根強いが、当時は斉彬の藩主就任前のお家騒動(お由羅騒動)の影響から、
「斉彬の父・斉興とその側室・お由羅、斉興とお由羅の子の島津久光の3人による暗殺」という噂も流れた。
西郷はこの噂を信じており、これが後述する終生の西郷久光の不仲につながるのである*7

西郷はしばし絶望にひたり自殺を図ろうとするが、月照の説得で思いとどまる。
後に「安政の大獄」の手が月照に迫る*8と、西郷はなんとかして月照の身柄を保護しようとしたが、長野主膳一派により計画がすでに幕府に漏れており、
しかも薩摩藩も月照の保護を拒絶し「日向送りにせよ」との仰せを出した*9ため絶望し、錦江湾で月照と入水自殺を図る

一度目の流刑

結局、月照は入水前に「末期の酒」とばかりに酒を何杯も飲んだ状態で入水したためそのままこと切れていたが、西郷は引き上げられてから数日後に蘇生し、体調がいくらか安定してきた頃を見計らって奄美大島に流された。
これは西郷が表向きは「安政の大獄に関与した罪人」であるとされていたが、それはあくまでも藩として西郷の身柄を守るための処置であり、
扶持米も届けられ、大久保一蔵ら同志との手紙のやり取りも許可されていたという。
このころの西郷は月照を救えなかったことで自暴自棄になり、自らを「土中の死骨」「死にぞこないの豚」と自虐して荒れていた。
自身に食事を運んでくる給仕係に八つ当たりしたことすらあったという。
そうした中で、大老・井伊直弼の主導で進められた安政の大獄による親友・橋本左内の死を知り、さらに意気消沈するが、
ほどなくして桜田門外の変で井伊が討ち取られたことを知るや、庭のガジュマルに刀で斬りつける真似をして狂喜乱舞したという。
奄美大島で潜伏生活を送る中、島の酋長・龍佐民の姪の愛加那を妻とし、長子の菊次郎と長女の菊草を設けた。
また、当初は大柄な体格と鬱状態で暗くなった性格によって恐れられていたが、島の子供たちに学問を教えはじめて人の心の温かさに触れたことで、次第に持ち前の明るさを取り戻していき、島民から親しまれた。

しかし、藩の掟で奄美大島の島民を本土に連れ帰ることはできなかったため、やむなく妻子をおいて1862年(文久2年)、藩の命令で帰国した。
明治に改元されてから妻子は鹿児島に行くことができるようになったが、菊次郎と菊草は鹿児島の西郷家に引き取られ、愛加那は島に残ることを選んだ。
その後愛加那は西郷と顔を合わせることは、西郷が徳之島に流された際の数日間しかなかった(愛加那が長女の菊草とともに西郷を訪ねた)が、
再婚もせず、西南戦争後は寡婦として自宅の畑で野菜を育て続ける生涯を送ったという。

なお、あまり知られていないが、実は西郷は若き日の重野安繹(しげのやすつぐ)*10と出会っている。
これもあまり知られていないことなのだが、実は重野は西郷と同じ薩摩藩士で、しかも西郷と同世代である。1857年に同僚との金銭トラブルを発端とする裁判に敗訴して、現代からすると重野が相手取った人物の方に非があるのは明らかだったが、理由は不明ながらも自身が同僚の罪を被せられる形で奄美大島に流されていたのである。
ある日、すっかり気落ちしてしまった西郷と出会い、
「あんたがこの島に流されることになったのは、あんたのせいじゃない。時代が悪かったんだよ」
と慰めたという。
不本意ながらも大島に流されてしまった西郷の心情を、重野は自分の心情に重ねたのだろう。

二度目の流刑

斉彬亡き後、藩の実権を握っていたのは異母弟の島津久光*11であったが、久光と西郷は終生反りが合わなかった
というのも、西郷は、斉彬や斉彬の子女の急逝は久光や彼を押す「お由羅派」が深く関わっていると考えていたためである。
とはいえ、「斉彬の子女や斉彬が立て続けに死亡した」という事態は「お由羅派」の関与を疑うのも無理からぬ話ではあるが。

例えば、西郷は帰国した後、久光から上洛のための準備の手伝いを要請されるが、久光は上洛のためのノウハウを何も知らなかったため、
これに呆れた西郷が久光に面と向かって「地ごろ」*12呼ばわりした。
この発言に久光はプライドをいたく傷付けられ、激しい怒りに襲われたが、どうにか気持ちを抑え「わかった。そちの思うようにするがよい」とその場を収めたという。

しかし、久光から「下関に滞在しておれ」という命令を受けた西郷が、久光の公武合体の目的を誤解していた過激派の暴発を抑えるために彼らを説得しに行った際には、
以前から反りが合わなかったことが災いして、久光にはその行動を感謝されるどころか「命令違反」と受け取られ、
「わしがいつそんなことをしろと言ったのだ?勝手なふるまいをしおって!」と怒りを買ってしまった西郷は、一時切腹を宣告されてしまう。
ただ、久光の「お気に入り」*13であった大久保一蔵の必死のとりなしで久光も矛を収め、
切腹を免れた西郷は、最初は徳之島に、ほどなくして沖永良部島に配流となった。
なお、徳之島に配流中、愛加那と長女・菊草(菊子)と再会しているが、愛加那とはこれが最後の再会となっている。

沖永良部島には罪人として配流されたため、牢内の環境は劣悪で、風土病のフィラリアにかかってしまい、
骨と皮ばかりに痩せこけ、髭は伸び放題とさながら落ち武者のような風体となり、一時は生死の境をさまよったが、島役人の土持政照とその母・ツルが必死に看病に当たり、一命をとりとめた。
また、ここで西郷は詩人・川口雪篷*14と出会って意気投合し、交流を深めている。
西郷は川口よりも先に流刑を解かれて本土へ戻っており、川口が赦免されて本土に戻ったのはその一年後であったが、
川口は親戚の家を転々とした後に西郷家に現れると、そのまま居候となった。
以降川口と西郷、そしてその家族の交流は文字通り死ぬまで続き、川口は西郷家と苦楽を共にしたという。

江戸幕府、滅ぶ

やがて、大久保一蔵や小松帯刀のとりなしで、西郷は再び召喚を受け、薩摩に帰国する。
この西郷の召喚には、久光は当初は不快感*15を示していたが、大久保や小松帯刀のとりなしでやむなく西郷を召喚する運びとなった。
相当悔しかったのであろうか、その時久光は、咥えていたキセルの吸い口を歯型が残るまで強く噛んだという。

召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。この後、勝海舟に面会して幕府の現状について語り合い、幕臣である勝の「もう幕府なんざ見限るこった」という意見を聞いたことで、藩の思想を公武合体から討幕へと転換させる。
また1865年には、同じ藩の女性岩山イト(糸子)と再婚。寅太郎*16・午次郎・酉三と三人の息子に恵まれた。

1866年には土佐脱藩浪士・坂本龍馬や中岡慎太郎の仲立ちで、長州の桂小五郎薩長連合を結んだ。
当初は西郷も桂もそれまでの遺恨*17や文久政変、禁門の変などでなかなか連合に踏み切れなかったが、薩摩は長州の生産する米を求め*18
長州は徳川幕府に明確に敵対し安政の五か国条約で定められた正規の政府(=徳川幕府)以外への販売禁止に抵触し、直接長崎や横浜で武器の購入が禁止されていた*19
薩摩は明確に徳川幕府と敵対する関係をこの段階では見せなかったので、長崎や横浜で堂々と武器を購入していた。
長州からしたら薩摩の要領の良さに腹を立てながらも、薩摩が買った分を横流ししろ!という感じかもしれない。
こうした利益の一致を経て薩長連合が成った。

薩長同盟からしばらくしたのち、坂本龍馬が寺田屋で幕吏の襲撃を受けて負傷する事件が起こった。
この際、西郷は負傷した龍馬を藩邸で庇護し、やがて龍馬とその妻・おりょうの結婚を取り仕切った。
西郷や大久保ら薩摩藩は江戸幕府を武力で潰そうと考え、慶応3年(1867年)に倒幕の密勅を降下*20するも、
先手を打たれる形で徳川慶喜による大政奉還がなされてしまった。これは、武力討幕の大義名分が消滅したことを意味していた。
その間、龍馬と中岡が「近江屋」にて誰とも知れぬ者に襲撃を受け、33歳の生涯を閉じる。
大政奉還を提言したのが龍馬であることから、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕をもくろむ西郷ら薩摩藩の首脳部であるという意見があり、
フィクションではこの説がしばしば採用されるものの、歴史学会ではこの説はほぼ無視されている。詳細は「逸話」の項に譲ることとする。

西郷達は慶応4年(1868年)1月に御所を藩兵で取り囲んで王政復古の大号令を発布。こうして、薩長は武力討幕の大義名分を復活させた。
さらに西郷達は部下の益満休之助や浪人たちを使って江戸市中で騒擾活動をさせて徳川方を挑発市中取り締まりを担っていた庄内酒井家が江戸薩摩屋敷を襲撃*21


戊辰戦争の際には東征軍参謀に任ぜられた。
革命的民衆の抵抗に対する警戒やイギリスの駐日英国公使のハリー・パークスからの圧力をかけられ、徳川家陸軍総裁の勝海舟江戸城無血開城の会談を行った。
当初は西郷はこの会談には猛反対し、「こん合戦のすべての元凶である将軍・徳川慶喜は斬首すら生ぬるか」と息巻いていたが*22
勝の使者として西郷のもとにやってきた山岡鐵太郎*23の嘆願を聞き入れ、意見を変えた。

「西郷先生、もし先生の仕えなさっていた(さき)のお殿様・斉彬様が今生きておいでであるとして、斉彬様が斬首を宣告されればあなたは何としますか。それでも先生は敬愛されている斉彬様の斬首の宣告を何らの抵抗もなく受け入れなさるのですか!お答えくだされ!」

これにより、西郷は慶喜の助命、ならびに徳川家存続の条件をのんで江戸城無血開城に踏み切った。
勝との会談が終わったのち、彰義隊の攻撃の指揮を大村益次郎に任せ、鹿児島に一度戻ってから北越に転戦するが、実戦には間に合わなかった。
翌年の1869年にも箱館に遠征するが、間に合わず帰国している。

戊辰戦争が一応の終結をみると、西郷は薩摩に戻り、次兄の吉二郎*24が行っていた西郷家当主として日々の俗事を過し、吉二郎の菩提を弔いながら生活を送った。
1869年には鹿児島藩の参政に就任*25、軍制改革を行い禄高の平均化を行った。
その翌年には大久保利通の要請を受けて上京し、1871年には参議となり、木戸孝允らと共に廃藩置県に着手する。
この時、ほとんどの藩主からの抵抗はなかった*26が、藩主忠義の背後で実権を握っていた久光はこの政策に腹を立て、夜通し花火を打ち上げることでうっぷんを晴らしたという。

新政府成立/征韓論問題

廃藩置県直後には岩倉具視が木戸や大久保と共に欧米諸国に赴いて不平等条約改正に奔走する中、「留守政府」の頂点として政府内の引き締めに努力した。
このころには陸軍大輔の旧長州藩士・山縣有朋山城屋事件*27という汚職事件を起こし、一時は政府からの永久追放の危機に追い込まれたが、西郷の寛大な処置で事なきを得ている。

そのさなかに西郷は板垣退助や後藤象二郎、江藤新平や副島種臣を味方につけて征韓論を唱えていた。

朝鮮王国は幕末以来鎖国政策を取っており、外国との国交を断絶していた。
明治改元以降、日本は幾度となく使者を送って開国を要請したが、そのたびに「あなたたちの交渉に対する態度では、到底国交を結びたいとは思わない」と拒絶されていた。
日本はこの朝鮮の態度に業を煮やしており、政府は友好的な外交から軍事的支配への方針転換をはかった。
そうして、留守政府は西郷を使節として朝鮮に派遣して交渉させた上で、それでもなお国交要求が受け入れられなければ、
次に朝鮮に日本の軍隊を投入して威圧し、開国を何としてでも実現させようと踏んでいたのである。

岩倉らの帰国後、西郷は征韓論を主張し、ついには明治天皇から朝鮮半島行きの勅許が与えられた。*28
だが、大久保や岩倉らの策謀により計画は中止され、腹を立てた西郷は政府を辞し、再び鹿児島に帰った。

このころ、幕末より西郷の部下として行動を共にしていた陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹
そして同じく幕末時代からの西郷の仲間で、岩倉使節団に随行した村田新八も政府を辞し、鹿児島に帰っている*29

不平士族の鬱屈

この頃、士族達の多くは新政府に不平不満をため、不平士族と言われていた。

政府は戸籍を整えて人口や年齢を把握し、地租改正でコメではなくカネで税金を集め、徴兵令を実施し、国民皆兵制を採用した。
軍の近代化のためには、個人的な武術頼みの軍ではなく、内政を整えて、徴兵出来る人員を確保すると共に、
キチンと税金を一定額徴収して安定した収入を確保し、統率の取れた兵の数と装備の質が重要という理解があったからである。

これに伴い、政府は士族の「武力による貢献」を特別視する必要がなくなったことから、財政をひっ迫していた秩禄支給*30は一時金となる公債を渡して打ち切り。
武士の魂とまで言われた刀に対しても携行を禁止する廃刀令が出された。
中には、この一時金を元手に商売を始める士族も多くいたが、不慣れな商売に失敗する者が少なからずおり、「士族の商法」などと揶揄されたりもした。

本来明治維新の実現にも、士族の力は非常に重要な役割を果たしていたのに、これでは恩を仇で返されたと考えるのは無理もなかった。
また、精強な士族たちにとっては、「一般人でも訓練すれば精兵になる」という明治政府の方針も、
「訓練したところで、ただの一般人が戦にどう役立つというのか」としか思えず、ひいては政府そのものに不信感を抱いてもおかしくない状況であった。

結果として、特に明治維新において中核となった西日本各地で、士族達の反乱が連続発生することになった。

1874年、佐賀県の士族団体「憂国党」に担がれて江藤新平と島義勇が挙兵。「佐賀の乱」である。
1876年には熊本県で国学者で過激な尊王派・太田黒伴雄(おおたぐろともお)加屋(かや)霽堅(はるかた)ら「敬神党」が「廃刀令」に反対の意を示したことに端を発する「敬神党の乱」(「神風連の乱」とも呼ばれる)、それに呼応した福岡県で秋月藩士・宮崎車之助(みやざきくるまのすけ)とその弟・今村百八郎を中心とする「秋月の乱」、
山口県で元参議・前原一誠(長州藩士)や奥平謙輔(同じく長州藩士)による「萩の乱」が勃発した。
いずれも近代的な装備の政府軍によって鎮圧されたが、政府にとって士族反乱は大量の軍事費投入を余儀なくされることとなるため、重大な頭痛のタネとなってしまった。

他方、西郷は旧友で鹿児島県県令の大山綱吉(格之助)の資金援助を得て、士族のための学校「私学校」を建設し、若き士族の教育に勤めていた。
西郷としては、仕事にあぶれた士族らをきちんと教育して定職に就かせるべく日本のための人材を育てたいという意識であり、反乱を考えていたというわけではなかった
多くの不平士族らは西郷に期待を寄せており、逃げてきた江藤新平から逗留していた鰻が池温泉を訪ねられるなど、士族の反乱の度に決起と合流を求められていたが、西郷は全て断っていた。
西郷は江藤の援軍を「おいのいう通りになさらんと、当てが違いもす」と拒絶し、激昂した江藤が西郷につかみかかるが、巨体の西郷にかなうはずもなく、すごすごと引き下がった。

だが、政府としてはこの私学校と西郷の存在を「鹿児島県が今や独立国家状態になっている」と危惧していた。
というのも、鹿児島県では士族が廃刀令を無視して相変わらず帯刀しており、しかも政府の未払いの税の督促を無視していたからである。
その上、県令の大山は精忠組時代から親交の深い西郷&私学校にベッタリであり、費用を持つどころか公務員の多くを私学校出身者から採用する始末。
例え西郷自身にそのつもりがなくても、周囲からぐいぐい持ち上げ続けられれば、西郷とて抑えきれないだろう。
ましてや、先に反乱した江藤新平は初代司法卿で元参議、前原一誠は最初の参議の一人、と政府トップ層の経験者であり、西郷とは似ている点も多かった。
いずれ最大の士族反乱が鹿児島から起きるのではないか、と言う新政府の懸念は無理もなかった。

こういった事情もあり、薩摩出身の邏卒(ポリス)川路利良が部下の中原尚雄を密偵として放つが、やがてそれが露見してしまう。
中原は捕縛され、私学校の生徒たち数名による拷問の末に「西郷先生をシサツするため」という自身のスパイ活動の目的を吐かされるが、
私学校の生徒たちは中原の言う「シサツ」を、「視察」ではなく「刺殺」と勘違いして激昂し、政府の弾薬庫を襲撃するという暴挙に出る。
この知らせを聞いた西郷は「おはんさぁらは、何チことをしてくれたとじゃ!」と生徒たちを叱ったが、
最早叱ってどうにかなるような状況ではなかったため、「おはんさぁらの体は、この(オイ)が預かりもそ!」と決起を決意した。
そうして、1877年2月に「政府に尋問のこれあり」「新政厚徳」をスローガンとして挙兵した。西南戦争の火ぶたが切られた。


当初、政府の大久保利通は西郷の挙兵の報を聞いても、フェイクニュースと決めつけてこれを相手にしなかったという。というより、信じたくなかったのだろう。
しかし、挙兵が事実であると知るや、半ば放心状態になり、「そうか、そうか」と言いながら静かに涙をこぼしたという。
向かえば確実に西郷軍の兵士に殺されるであろうにもかかわらず、自ら西郷に直談判をしようとして伊藤博文らに止められたという話もある。
進発の前に、県令・大山綱良が西郷の名で熊本鎮台司令長官・谷干城に充てた通達書である。少し長いが引用する。

拙者儀 今般政府へ尋問の廉これあり 明十七日発程 陸軍少将桐野利秋 篠原国幹 及び旧兵隊の者共 随行いたし候間 其の台下通行の節は 兵隊整列指揮を受けるべく この段 照会に及び候なり 明治十年二月十五日 陸軍大将 西郷隆盛

この通達書を送られた谷は当然激怒し、西郷はこの通達書を一度は撤回しようとしたが、もはや間に合わなかった。


西南戦争 -日本最後の内乱-

かくして始まった西南戦争では、南国鹿児島に50年ぶりの大雪が降ったという。当初西郷軍は熊本城を包囲し、攻撃を開始した
しかし城はよく持ちこたえ、なかなか落とすことができない。
そもそも西郷軍の戦略的な見通しは甘い面が否めず、軍艦が少なかったとはいえ「長崎を抑えて海上を進軍する」という案が却下され、「陸軍大将なのだから堂々と陸路を歩くべきだ」という案が採用された。
また同郷の樺山資紀や川村純義の内通を期待していたのだが、熊本城を守る谷干城将軍*31は言わずもがな、樺山も川村も「一私人が兵隊を率いるべきでない」「一度面談に来たはずだ」と相手にせず、政府軍を率いた。
さらにこの反乱の大義名分は、先の暴動・士族の乱が掲げた貧民救済・士族救済などではなく『西郷暗殺の真意を問いただす』という、第三者から見れば私怨によるもの。板垣もこれには士族救済を上げて立ちあがった以前の反乱の指導者、江藤や前原らと比較して批判したという。

やがて政府軍からの援軍が来ると、西郷軍は熊本城を包囲したまま転戦を余儀なくされる。
徴兵によって集められた兵達の質は、優れた銃器で統率の取れた戦いをすることで、戊辰戦争を経験した歴戦の士族達にも引けを取らないものになっていた。むろん、西南戦争以前の士族反乱が新政府軍の経験値として生きた面も大きかったであろう*32
「徴兵した一般人なんか役に立つのか?笑えない冗談だ」という不平士族の疑問は、皮肉にも不平士族自ら起こした反乱の中で答えを出されることとなったのである。
西郷軍の得意は刀による接近白兵戦で、実際これに持ち込んだことによる局地戦レベルの勝利はあったものの、
桐野・篠原両名が指揮した高瀬(今の熊本県玉名市)での野戦で敗北し、西郷の末弟の小兵衛が戦死するなど、大局的に見れば西郷軍は押されていった*33

最大の激戦は、田原坂(現在の熊本市)で行われた。
新政府軍の有利を導いた最新の砲を博多から熊本に通行させられるのは、田原坂しかなかった。
逆に言えばここを突破すれば、政府軍有利な戦いがずっと継続することになる。
西郷軍は山の木を切り倒して坂道をふさいで政府軍の大砲の侵攻を阻止し、
さらに森に隠れることで得意の白兵戦に持ち込むことで新政府軍に甚大な損害を与え続けたが、政府軍も抜刀隊を組織してこれに対抗。
衝突した銃弾(かちあい弾)が何発も見つかるほどの激戦の末、遂に田原坂は突破された。

予想通り、これ以降の西郷軍は敗北を重ね、熊本城の包囲も解かざるを得なくなった*34
従軍していた長男・菊次郎が右足を喪い投降したほか、西郷自らが逃がした、西郷の幼少期以来の従僕・永田熊吉など離脱者も続出*35。最終的に鹿児島市内の城山に僅か数百の兵で包囲されるまでになる。
同年9月24日、西郷が潜伏していた洞窟から出たところ、銃弾が西郷の腹部と脚を貫いた。
己の死を悟った西郷は別府晋介を呼んだ。そうして、「晋どん、もうここらでよか」とつぶやき、己の腹に深く脇差を刺した。
そして、別府が「ごめんなったもんし!(お許しください!)」と叫び、恩師の頸を刎ねた。

西郷隆盛、享年50歳。
精忠組時代からの西郷の腹心の村田は銃弾飛び交う中、誰の手も借りずに割腹して果て、
桐野や別府も西郷の後を追うかのように敵陣に単身で突っ込み、官軍の降らせた鉄の雨を浴びて壮絶死した。
城山の戦いをもって、総勢1万4000人もの戦死者を出して、西南戦争は終結した
この一連の戦いでは西郷や村田、桐野をはじめ、西郷の弟・小兵衛*36や篠原国幹*37辺見十郎太(へんみじゅうろうた)や桂久武、山野田一輔(やまのだいっぽ)、小倉荘九郎*38淵辺郡平(ふちのべぐんぺい)、貴島清、池上四郎、島津啓次郎*39など西郷に殉じた多くの人物が命を落とした。

「西郷戦死」の報が届いた大久保利通は、かつての盟友の死に号泣し、時に鴨居に頭をぶつけながら家中をぐるぐる歩き回ったという。
この際、「おはんの死とともに、新しか日本ば生まれる。強か日本が…」と呟き続けていたと伝わる。

西南戦争の終結・西郷の死と共に、連綿と続いていた旧士族の反乱は途絶えた。
否、西南戦争以降、国内の日本人同士における大規模な軍事衝突は現代に至るまで発生していない。
西郷の真意はどうあれ、西郷が日本国内における不平士族という不満分子をまとめ上げたことで、政府はそれを一掃することができたのは確かだっただろう。
政府に対する不満や批判は、武力による流血ではなく、自由民権運動のような思想や言論で戦われるようになったのである。

大久保は西南戦争終結からおよそ8か月後、紀尾井町清水谷にて島田一郎、長連豪(ちょうつらひで)、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤(あさいひさあつ)、杉本乙菊ら旧加賀藩士族6名に襲撃されて落命するが、懐には血の付いた西郷からの手紙が残されていた

なお、西郷は西南戦争を起こしたことで、長く「政府に弓引いた逆賊」とされていたが、
1889年の大日本帝国憲法発布の際に恩赦が下され、正三位がおくられた。

1922年、西郷隆盛とその仲間達が埋葬された『南洲墓地』に南洲神社が建立された。

余談だが、上述した川口雪篷は西郷の死後も西郷家に家令(執事)として残り、西郷家のために心を砕いていたとされるが、
西郷に恩赦が下され、彼の名誉回復が行われたことに安心したのか、その翌年にすべての心配事から解き放たれたような穏やかな様子で亡くなったとされる。
享年73歳。その遺体は長年苦楽を共にしてきた西郷家の墓地に葬られたという。


逸話


  • 幼少期、上級武士の子供といさかいになった際、激高した上級武士の子供が西郷の右腕を鞘に刀が収まっている状態で叩いたため、鞘が割れて右腕の腱が切れてしまった。
    西郷は「家族に心配をかけてはならん」とばかりにそのことを家族に隠していたが、数日後に高熱を発して倒れてしまう。
    これによって負傷が家族の知るところとなったが、もはや手の施しようがなくなっていたのであった。
    こうして適切な処置が遅れてしまったことで、西郷は生涯思い通りに刀を握れなくなってしまった。

  • 西郷はよく竹の鞭(杖?)を持ち歩いていたとされ、後述する「フルベッキ群像写真」中の「西郷隆盛」とされる男性は、そうした身体的特徴からも西郷であると断定されている。

  • 隆盛」は本来は父親の吉兵衛の名前で、本名は「隆永」であった。
    しかし王政復古が一段落してから役所に改名の申請をする際、同じ薩摩藩出身で幼馴染の吉井友実が誤って「隆盛」で登録してしまい、西郷本人もそれを気にせず以降は「隆盛」で通した。弟の従道も本来は「隆興(りゅうこう)」と名乗るはずであったのだが、役所が「じゅうどう」と聞き間違えてしまい、以降は「従道(じゅうどう)」と名乗った。

  • 配流先の徳之島、沖永良部島でフィラリア症に罹患し、睾丸がスイカのように肥大化していた。これにより、馬にも乗れず常にガニ股であった。
    西南戦争後、政府軍が西郷軍側の遺体を確認する際、総大将である西郷の遺体を本人とする決め手*40となったのはこの巨大な睾丸であった。

  • 西郷は西南戦争で戦死したが、「判官びいき」の精神や前述の遺体の状況からか、「西郷隆盛生存説が流れた。
    後に最後のロシア皇帝となったニコライ二世(当時は皇太子)が来日した時には、「西郷も行方不明になった艦船・畝傍に乗って帰ってくる」という噂が広まった。
    明治天皇もこの噂を耳にしたが、「もしそうなら、西南戦争で功を立てた人物の褒章は回収しなければなるまいね」と笑って相手にしなかった。
    しかし、ニコライ二世の警備担当である津田三蔵がこの噂を真に受けてしまった。
    津田は西南戦争で出世した人物だったため、自身の褒章がはく奪されることを恐れ、ニコライ皇太子に洋剣で斬りつける事件を起こした。
    これが世にいう「大津事件」である。この結果、恐れた通りに褒章がはく奪された

  • 西南戦争で戦死した西郷を悼み、民間には「西郷星」の噂が流れた。
    これは西南戦争が終結するころ、地球に火星が接近していたのだが、当時民間に天文学がそれほど浸透していなかったため、
    「急に現われた異様に明るい星の赤い光の中に、陸軍大将の正装をした西郷隆盛の姿が見えた」という噂が流れ、いつしかそれを題材にした浮世絵が飛ぶように売れた。
    なおこの時期、土星も地球に急接近しており、そちらは西郷の部下の桐野利秋にちなんで「桐野星」と呼ばれた。

  • 狩猟や漁を好み、山野を猟犬を連れてよく野山を駆けた。
    これは、晩年の西郷が病的な肥満だったため、これを心配した明治天皇が西郷にドイツ人医師・ホフマンを手配して食事指導やダイエット方法についての教授を行わせたことによる。
    ちなみに、西郷の体重を示す記録が、明治4年1月に西郷が土佐の豪商・竹村家に宿泊したときの日記の古文書に残っている。
「隆盛殿大丈夫成る御方にて、セエ(背)の高さ五尺八、九寸計り(中略)、目方廿六、七〆(貫目)はこれある様見受け申し候」(桐野作人「さつま人国誌 幕末・明治編3」より抜粋)
  現行のメートル法に直せば、身長およそ176~179cm、体重が97.5㎏~101㎏といったところであろうか。

  • 西郷は戊辰戦争終結時、庄内酒井家の占領統治を任され、占領軍による略奪暴行の厳禁と、酒井家家臣団に帯刀を認めさせて謹慎させた。
    当時としては異例で薩摩内部でも黒田清隆*41は敗者に寛大すぎると反発したが、西郷は逆らうなら再度叩き潰すだけと断言。
    その後の庄内酒井家は太政官から会津若松、次いで磐城平への国替え命令が公式に布告されたが反対運動*42を起こして断念、撤回させた。
    長州系の大村益次郎は負けた大名家が余力を残して存続とかあり得ないと、厳罰を与えて解体と一番乗り気だったが、攘夷派浪士に襲われて死去。
    大久保利通、黒田清隆、大隈重信らが厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安*43を起こしては身も蓋も無い。
    太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、本来ならば斬首すると宣言した前会津松平家当主・松平容保や庄内酒井家当主・酒井忠篤の命を救うという寛大な措置に留めた。
    このことで庄内地方の人々からは西郷は慕われており、酒田市には西郷を祀る南洲神社が鹿児島から分社され建立されている。
    前述の処置に恩義を感じてか、多くの庄内人が西郷軍に従軍しようとしたが、太政官の監視が厳しく、断念せざるを得なかった。
    結局、伴兼之(ばんかねゆき)榊原正治(さかきばらまさじ)という二人の庄内士族が西郷軍に従軍し、いずれも戦死している。彼らはフランス留学の話が出ていたのだが、それを蹴っての従軍であった。
    伴には12歳年の離れた鱸成信(すずきしげのぶ)という兄がいるのだが、そちらは太政官に与し、兄弟に分かれて争うこととなり、鱸成信も戦死している。

  • 坂本龍馬の人柄にほれ込んだ西郷は、龍馬を鹿児島の自邸に招いたことがあった。
    龍馬は自身の服装には無頓着で、着た物を破けるまで着続ける癖があり、それを見かねた西郷の妻・糸夫人が夫のお古を差し出した。
    その様子を見た西郷が珍しく「こんお方は日本の将来のために動いておられるお方じゃっど。今すぐ新しか着物と取り換えて差し上げい」と糸夫人を叱った。
    糸夫人は、普段温厚な西郷がこの時ばかりは激しく怒ったことに驚き、急いで新しいものと取り換えたという。
    龍馬が近江屋にて凶刃に斃れた際には激怒して土佐藩邸に殴り込み、管理人の後藤象二郎を、
    「なぜおはんさぁらは龍馬さぁをここでかくまってやらんかったとじゃ! あげなお人は土州や薩州のどこをさがしてもおらんど。おはんら土佐者は薄情者ん集まりじゃっど!」
    と怒鳴りつけた後、激しく号泣したという。

  • 坂本龍馬の暗殺の黒幕は、西郷隆盛・大久保利通ら薩摩の首脳部であるという説がある。
    これは「箱館戦争に従軍した龍馬の暗殺犯の一人である今井信郎が戦争終結後、西郷をはじめとした新政府首脳部に助命されて維新後も生き延びている」という事実を基に語られており、
    フィクションではしばしば採用されるが、歴史学会ではほぼ否定されている。
    というのも、創作では龍馬はしばしば平和主義者の立場で、武力討幕には反対の立場を表明しているが、史実の龍馬はゴリゴリの武力討幕派であったからである。
    そもそも、龍馬は「土佐藩は薩摩藩・長州藩と同調して討幕を推し進めるべきである」と考えていた
    また、フィクションでは龍馬本人の前では何食わぬ顔をしているが、心中では龍馬の思想を不快に感じているとされがちな大久保利通ですら、龍馬の大政奉還案に理解を示し、高く評価していたのである。
    薩摩藩は長州藩・芸州(広島)藩との武力討幕推進策を推進しており、土佐藩の大政奉還建白案は幕府に対する「最後通牒」であるとみなしていた節がある。
    西郷は、幕府が大政奉還の建白を拒否することを見越して、そうなった場合は薩・長・芸・土の4藩で武力討幕を実行することを計画していたのである。
    この薩摩の動きは、大政奉還、王政復古に反対する会津藩士に知れ渡ることとなり、会津藩士はこの討幕計画の主導者である薩摩藩の首脳の西郷・大久保・小松帯刀を狙っていた。
    その情報を耳にした公卿・岩倉具視は西郷ら3名に帰国するよう提言し、3名とも岩倉の指示に従う。
    一方、大政奉還の発案者として龍馬の命も狙われており、薩摩藩士で西郷のもとで活動していた龍馬の友人である吉井友実(幸輔)は西郷とともに帰国する前、龍馬に土佐に帰国するよう助言するが、
    龍馬は「それでは倒幕のため命がけで戦っている土佐藩の仲間に『イヤミ』になる」として助言を拒否した。
    そうして、龍馬は同志の中岡慎太郎とともに「近江屋」にて凶刃に斃れることになるわけだが、これは「龍馬と中岡は西郷・大久保・小松の身代わりになった」と考えることができる。

  • 地元である鹿児島では「西郷(せご)どん」、「うどさぁ」(偉大なる人)、「南州翁」等と呼び慕われ、絶大な人気を誇る。
    一方、同じく鹿児島出身の大久保利通は、明治維新後に西郷と対立したことから「西郷の敵」とみなされ、長く人気がなかったとされる。


西郷の「写真」について


現在教科書や参考書に記載されている西郷隆盛の画像は、実は写真ではなく肖像画である。
製作者は大蔵省紙幣局で様々な紙幣や切手、証券を作っていた お雇い外国人のキヨソネ である。
政府の依頼を受けて制作されることになったが、1875年に来日したキヨソネは既に政府を辞して鹿児島に帰っていた西郷との面識がなかったので、
政府要人の口伝を参考にしたうえで顔の上半分は弟の従道、下半分はいとこの大山巌の顔をもとに作成した。
やがて、キヨソネによる肖像画を元にした銅像が製作され(本ページ冒頭に銅像の写真を掲載)、その除幕式にはイト夫人も参列したというが、
イトはその銅像を見て「アラヨウ、宿んしは、こげなお人じゃなかったこてえ!」(んまあ!ウチの旦那はこんな人じゃないわよ!)と叫んだと伝わる。*44
西郷は、 写真が苦手で生涯一度も写真を撮らなかった という。
その写真嫌いっぷりは徹底していて、明治天皇からの直々の写真提出の要請も断っており*45
また1871年に岩倉使節団に随行した大久保利通からの写真付きの手紙を見て以下の内容の手紙を送っているほどだ。

「尚々貴兄の写真参り候処、如何にも醜態を極めた候間。もはや写真取り(原文ママ)は御取り止め下さるべく候。誠に氣の毒千万に御座候」
(明治五年二月十五日の大久保あての書簡)

にもかかわらず、巷では西郷写真としていくつかの写真が論争を呼んでいる。

西郷の写真「もどき」

画像出典:石黒敬章「化け物と西郷の写真無し」(『英傑たちの肖像写真-幕末明治の真実-』渡辺出版、2010年)より抜粋;

明治時代のアルバムや土産物写真に、大礼服を着用した無精ひげの西郷隆盛の写真らしきものがみられることはあるが、それはリトグラフを撮影したもので、真影ではない。
リトグラフを複数回写真に撮影すると、いくらか線がぼやけてきて、あたかも本物の写真のように見えることがある。しかも、江戸末期~明治初期の写真技術には「ネガフィルム」という概念が存在しなかったため、複写する場合には「写真の写真を撮影する」といった手法で複写するしかなかった。それによりますます輪郭線がぼやけてくるのである。戦前の全国の小学校(国民学校)に配布された明治天皇の「御真影」がよく知られる例で、キヨソーネが手掛けた明治天皇の肖像画の写真を複製したものである。
これ以外にも、ジャケットを羽織り蝶ネクタイを締めた西郷の画像(こちらも「西郷の写真」という触れ込みで土産物として出回ったことがある)もあるが、それは薩摩出身の画家・床次正精(とこなみまさよし)の肖像画*46を写真撮影したものである。
床次は、陸軍服姿の西郷の画像も作成しており、床次の手掛けた西郷の画像はいずれも、西郷の特徴的な顔をよく表している。
また、こうした肖像画を撮影した写真の中には、作者不明ながらも床次の作成した画像と構図がよく似ているものもある。しかし、そちらは特徴的な顔の構図を示したいがために、やや耳の部分がデフォルメされている。

永山西郷

画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%BC%A5%E4%B8%80%E9%83%8E ウィキペディア「永山弥一郎」の記事より引用

 洋装の恰幅のいい男性が、片手に帽子を持ち、台に寄りかかっている写真がしばしば西郷のそれではないかとされる。
しかし、この写真の被写体もまた、西郷ではなく、西郷の影武者を務めたといわれる永山弥一郎であることがわかっている。
この永山の写真は、西南戦争の際に「西郷の写真」という触れ込みで、台紙に「カゴシマ 西郷隆盛君」などと焼き付けたうえで土産物店や写真屋でかなりの枚数が印刷され、販売されたという。
 「永山が西郷の影武者を務めた」という説が流布したことで、この写真が飛ぶように売れたといわれるが、
これは戊辰戦争の折、東征軍参謀の西郷の代理として永山が東北諸藩の処遇にあたったことで、「永山=西郷の影武者」という誤解が生じたためであるという。
なお、永山は当初は西郷の挙兵には反対だったが、西郷の意志の強さに折れて西郷軍に従軍し、戦局が悪化すると村の老婆から一件の家を買い取り、そこに火を放って燃え盛る炎の中、自害を遂げている。

尾崎西郷


画像出典:刑部芳則『明治をつくった人びと 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵写真』(吉川弘文館、2017年)より引用

秋田県角館市の旧家・青柳家の蔵に公卿を含めた明治政府の高官や皇族、明治の文化人の写った古写真が複数枚保存されていたが、
その中の初老の大礼服姿の男性の写真だけ、何故か写真の裏の名前が書かれていたと思われる部分が削られていたことから「西郷隆盛の写真ではないか?」と話題になったことがあった。この写真は2004年1月25日、日本テレビで放送された「特命リサーチ二〇〇X」で紹介され、一部の好事家の話題を読んだ。

しかし、この写真は西郷の写真ではなく、旧土佐藩士で坂本龍馬とも親交のあった司法卿・尾崎忠治(おざきただはる)の写真であることが判明している。尾崎は複数写真を残しており、司法卿就任当時に江藤新平(佐賀出身)や玉乃世履(岩国出身)など司法卿の人員で撮影した集合写真や最晩年の写真と比較した結果であった。
また、陸軍の大礼服と文官の大礼服は紋章のデザインが異なり、当初西郷とされた男性(=尾崎)の着用している大礼服は明らかに文官のもの、それも非役有位四以上大礼服であった。そもそも西郷は明治10年2月の西南戦争の勃発まで陸軍大将の階級を得ており公式儀礼の場では陸軍正服を着ることになっている。
大礼服の制度が開始された当初は「デザインがあまり統一されていなかった」という証言もあるにはあるが、陸軍大将の西郷が文官の大礼服を着用するような畑違いはまずありえない
なお、この尾崎の写真は明治天皇に提出するため撮影されたものである。

フルベッキ群像写真

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Verbeck_picture.jpg ウィキメディア・コモンズ 著作権:Public Domain

西郷の写真を語るうえで欠かせないのが、 フルベッキ群像写真 (以下、「フルベッキ写真」)と呼ばれるものである。
これは、アメリカ系オランダ人宣教師のグイド・フリドリン・ヘルマン・フルベッキとその子供*47が44人の若い武士たちと写っている写真で、
その44人の武士に西郷や坂本龍馬桂小五郎、勝海舟や高杉晋作などの名前を当てて「幕末の志士が一堂に会した写真」として喧伝されてきたが、
最新の研究で、被写体は龍馬などの幕末の志士ではなく、佐賀藩の学校・致遠館の学生と講師たちであることが明らかになった。

撮影年代も、当初は1865年とされていたが、2013年にフルベッキ群像写真に写っている武士44人のうちの5人とフルベッキが写っている写真が発見され、
その写真と佐賀藩家老・伊東次兵衛*48の著した『幕末伊東次兵衛出張日記』の記事と照合したところ、1868年の秋であるという結論が出されている。
となると、その写真に写っているとされる龍馬や中岡慎太郎、高杉晋作は撮影前年に暗殺や病死などで亡くなっているため、幕末の志士説は容易に粉砕される*49
フルベッキ写真に写る男性の中で、最後列の中心にいる黒いマントを羽織った総髪のいかめしい顔つきの男性が西郷であるとされているが、現在ではその男性が誰であるかは不明とされている。

ただ、『禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者』*50の著者・斎藤充功氏は、
同著にて「フルベッキ写真の被写体=幕末の志士説」を否定しながらも、
フルベッキ写真が撮影された時期の西郷の行動(不自然にも、フルベッキ写真が撮影されたとされる期間の西郷の記録がないため、この間西郷がどこで何をしていたのかが不透明である)と照らし合わせ、その黒マントの男性を西郷ではないかと推測している。
余談だが、最前列の面長の肌の浅黒い少年が「少年時代の明治天皇=大室寅之祐」と比定され、
この写真が「明治天皇すり替えの証拠」*51として陰謀論者の間でしばしば話題となるが、
法歯学*52を応用した写真鑑定の結果、「明治天皇とは別人である」という結果が出ている。

薩摩殿の13人

画像出典: 斎藤充功『禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者』二見書房、2020年

こちらは、小説家・加治将一(かじまさかず)氏により、小説『西郷の(かお)』(祥伝社文庫)にて、
「新発見の写真」かつ「これまでの西郷を描いた肖像画が全てでたらめである証拠を示す写真」として紹介された古写真である。

加治氏は、前述の「フルベッキ群像写真」に写る黒いマントを羽織った男性を、
『西郷の貌』以前に執筆した小説『幕末 維新の暗号』(祥伝社文庫)にて「西郷隆盛」と比定したことを前提に、
本写真の右端の大男を黒マントの男と同一視し、その右端の大男を「西郷隆盛」として結論付けている。
さらに、加治氏は西郷以外の人物を「のちの薩摩出身の陸軍・海軍の重鎮」と推定して、確定や不確定を織り交ぜながらも、
西郷従道や樺山資紀(かばやますけのり)*53、川村純義*54、東郷平八郎、仁礼景範(にれかげのり)(平助)などに比定している。

結論から言うと、この写真にも 西郷は写っていない 。加治氏が「西郷」と断定した写真右端の大男は、 「床次正義」 という薩摩藩士である。
この写真は、1865年に薩摩藩主島津忠義の名代で、忠義の兄弟である久治(ひさはる)(久光次男)と珍彦(うずひこ)(久光4男)が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、
長崎の写真師・上野彦馬のスタジオで撮影された写真である。
この時、護衛として複数の薩摩藩士が同行したが、同行した薩摩藩士を記した名簿の中には仁礼以外の名は記載されていないのである。
「講和修交交使トシテ英艦ヲ訪問スヘキノ命ヲ拝シ且、其他ノ視察ヲ帯ヒテ鹿児島ヲ発ス床次正義伊集院彦助共ニ之ニ随フ而シテ伊地知壮之丞*55仁禮平助平田平六等既ニ長崎ニ在リ」(『島津図書久治及先世事歴』)

加治氏は両写真の「西郷」とみなした人物が同一人物であるということを力説したいがために、
「フルベッキ群像写真」の撮影年代を1865年と仮定したうえで、本写真の撮影年代と照らし合わせて本写真の右端の男を「西郷隆盛」と結論付けたが、
加治氏が用いたものは解像度が悪いやや不鮮明な画像で、仁礼以外の人物の比定もまた、十分な根拠のもと行われているといえるものではない。
解像度のよい原版とフルベッキ群像写真を丁寧に比較すれば、両者は明らかに異なることがわかる。

「スイカ西郷」

画像出典:筆者の蔵書「さつま人国誌 幕末・明治編4」より抜粋

画像出典:右から二番目の男性の部分を拡大したもの。筆者の蔵書「英傑たちの肖像写真」より抜粋

写真師・内田九一により明治2年から5年にかけて撮影された薩摩藩士6人の写真 (撮影地は浅草の写真館「九一堂万寿写真館」)である。
この写真には島津久光の子息・珍彦(うずひこ)(久光4男、右から3番目)や忠欽(ただたか)(久光3男、右から3番目)のほかに4名の武士*56が写っており、特に右から二番目の、髷を結った丸顔の肥満体の男性が西郷であるとされるが、
現在ではその丸顔の男性は西郷ではなく、薩摩藩医・小田原瑞哿(おだわらずいか)と見る向きが強い。
この写真を幼いころから目にしており、また小田原本人とも面識のあった重富島津家当主・珍彦の長女の明子の証言によれば、
小田原は肥満体で、顔も丸くて大きかったことからスイカとあだ名されていたようで、この写真は 「スイカ西郷」 の名称で呼ばれることもある。
この丸顔の男性を西郷とした根拠には、医者らしからぬ長い刀とでっぷりとした腹、明治4年1月に西郷が土佐の豪商・竹村家に宿泊したときの西郷の風貌を伝える古文書が用いられている。

「耳筋ほねみぞ(骨溝)これなし、ただもち(餅)を延べたる、此めづらしきみみ(耳)にて御座候」

確かに、西郷とされた男性(=小田原瑞哿)も特徴的な耳の形をしているのだが、
かつてこの人物を「西郷」と断定した人物は、少々「丸顔の男=西郷隆盛説」に拘泥しすぎたものと思われる。
また、福井藩主・松平春嶽の所蔵していたアルバムにも、この写真の「西郷」と「島津忠欽」が写っている部分を縦楕円形にトリミングして左右逆に焼き付けたものが収録されていて、写真の裏書には「島津 西吉之助」という書き込みがあり*57、西郷は春嶽と面識があったので、「春嶽が西郷の写真を持っていてもおかしくはない」という推論と、この裏書をもって「西郷隆盛はこの写真に写っている」と断定する意見もある。また、土産物では写真全体を複写したものがあるが、その裏には「サシウ 西郷隆盛 其の外ハ勇士」とかなりい加減に書き込まれている。

明治天皇行幸in大阪造幣局

画像出典: 斎藤充功『禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者』二見書房、2020年

2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の人気にあやかり、「西郷が写っているかもしれない写真がある」と噂になったのが、1872年に撮影された 大阪造幣局での行幸の際の集合写真 である。
この写真の撮影者も、前述の『スイカ西郷』と同じく内田九一である。
造幣局を前にずらりと並ぶ兵士たちのうち、最も左にいる、錦旗を持った兵士が西郷ではないかとされているのだ。
その根拠には、1921年に発行された「造幣局沿革誌」に写真とともに左端の旗を持つ人物が西郷隆盛だと記載されており、
1872年当時の新聞にも「西郷が錦旗を手に天皇を御先導した」という記述が見られることである。
ただし、左端の兵士の体格が小柄すぎるという指摘もあり、これは大柄な体躯であるという西郷の特徴に矛盾する。
当時の西郷は 身長およそ176~179cm、体重が97.5㎏~101㎏ で、左端の兵士はそれほど大柄にも肥満にも見えない。
ただ、西郷が写っていると唱える人の中には、「当時近衛兵といえば屈強な肉体の持ち主のそろい踏みだったから、西郷より身長が高かったり恰幅のよかったりする人物がいたとしてもそれほどおかしくはない」と述べる人もいる。
とはいえ、写真にリラックスした状態で写り込む洋犬に注目する意見もあり、その様子から西郷が洋犬の傍らにいつつも、レンズの死角となって写真に写らなくなる位置にいたという説もある。
西郷は犬好きで知られているため、この写真に西郷が写っているという説もあながち否定できない。
これ以外にも、西郷は1872年ごろには明治天皇の遣わしたドイツ人医師の食事指導やダイエット(ウサギ狩り)などが功を奏し、ウエストにくびれが出るまで痩せていたともいわれている。

『高貴写真』の「西郷隆盛」

長崎歴史文化博物館所蔵の『高貴写真09・西郷隆盛 外四氏写真』は、「現在最も鮮明な西郷の真影である可能性が高い」と言われる写真である。
写真自体はおそらく1873年かそれ以前に撮影されたものであろう。

西郷隆盛とされる男性は、一見すると髭から上は明治9年撮影の従道の写真にそっくりで、経年劣化かもしくは度重なる複写によるものかは不明だが、写像の服の部分はやや不鮮明ながらも、服装はゆったりした洋装であることが見て取れる。
また、西郷は煙管で左側頭部をぼりぼり掻く癖があり、結果としてその搔き続けた部分がハゲになってしまった*58のだが、写真をよく見ると、そのハゲた部分が写っていることがわかる。

その写真が西郷隆盛のものであるとされる根拠は、 顎の下のたるんだ皮膚で、二重顎のようになっている という点である。
撮影年を一番遅く見積もって1873年とすると、政変により政府を去る少し前に、西郷はダイエットに成功しており、
ダイエット後も突っ張っていた顔の皮膚がたるんで顎の部分にそのまま残っていたものであると推測できる。
従道は写真を多く残しており、壮年期や晩年に撮影された写真を比較しても、顎部分の皮膚のたるみという特徴は見当たらない。

また、この写真で「西郷隆盛」とされる男性は少し口ひげを生やしていることも見て取れるが、
西南戦争後に大量に印刷された西郷の錦絵や肖像画、フランスのル・モンド・イリュストレ紙の西南戦争を報道する記事に描かれた西郷も痩せ型の体型でひげを生やしており、
「髭のある西郷の絵」はこの写真をもとに描かれた可能性がある。
これ以外にも、長男の菊次郎や次男の寅太郎と比較して、顔つきが近いという意見もある。

次々と現れる『西郷写真』

 他にも『西郷写真』とされた写真は複数あり、例えば、フルベッキが長崎英語伝習所(明治初期に「広運館」と改名)を去る直前に同伝習所の24人の生徒たちと撮影した「広運館教師フルベッキ東京へ出帆ノ時ノ記念写真」という写真があり、その写真に写る左端の月代を剃った目の大きい武士が西郷といわれたことがある。しかし、世に知られる西郷の体格とはあまりにもかけ離れている体型(『西郷』とされた男性の背は決して高くはないし、特別肥満体であるわけでもない)であるため、現在ではほとんど顧みられることはない。余談だが、この24人の生徒たちとフルベッキが写っている写真は生徒や講師陣の名前がほぼ全員判明しており、「西郷」とされた男性の名は「徳見常人」という人物であるそうだ。

 また、お雇い外国人のジュリアス・ヘルムの子孫が持っていた、ヘルムと明治政府の役人が写っている写真(通称:「ヘルム写真」)にも西郷が写っているとされたことがある。
写真にはヘルムや西郷をはじめ、川村純義や勝海舟、山縣有朋や大山巌など錚々たる顔ぶれの人物が写っているといわれる。
撮影は1874年となっているが、「西郷はその前年に征韓論で敗れて下野し、鹿児島に帰っているので1874年にわざわざ東京を訪ねる可能性はほぼ低い」という指摘があり、1874年撮影説の根拠もほぼないに等しい。
写真に写っているほとんどの人物が陸軍の軍服を着ているが、川村と勝は海軍に所属しているため、陸軍の軍服を着ているのはあり得ない話である。
軍服のデザインが統制されたのは1875年のことで、勲章の形から1878年以降の写真だと推定される。
人物同定もいい加減で、「フルベッキ群像写真」のようにただ雰囲気が近い人物の名前を当てているに過ぎない。川村や勝、山縣や大山などはいずれも近い時期に撮影した写真*59が残っているが、これらと比較すると似ても似つかないことが分かっている。
西郷とされる人物は胸の部分に勲章をつけているが、そもそもこの勲章が西郷を破った西南戦争の勲功を表するために作られたもので、その勲章を西南戦争で賊軍として戦死した西郷が着けているというのはありえない。それに、勲章制度自体が確立されたのも1875年以降なので、この点からも1874年撮影説は粉砕される。
 以上のことから、「ヘルム写真」は「新手の西郷隆盛のニセ写真」と認識されている。


西郷隆盛が登場する作品


小説

  • 司馬遼太郎『翔ぶが如く』*60
  • 林真理子『西郷どん!』

漫画

  • みなもと太郎『風雲児たち
  • 小山ゆう『お~い!竜馬
  • 村上もとか『JIN-仁-』
  • 武田五三『シンパチ-西郷の右腕-』
  • 泰三子『だんドーン』
  • 手塚治虫『陽だまりの樹』
  • よしながふみ『大奥』
  • 増田こうすけ『ギャグマンガ日和』より『西郷隆盛でごわす』
  • 寺沢大介『ミスター味っ子幕末編
  • さいとう・たかを『幕末工作人からす』
  • 外薗昌也『幕末狂想曲RYOMA』『殺戮の鬼剣~鞍馬天狗(原作:大佛次郎)』
  • 諸星大二郎『マンハッタンの黒船』

映像作品

NHK大河ドラマ

  • 『三姉妹』(1967年、演:観世栄夫)
  • 『竜馬がゆく』(1968年、演:小林桂樹)
  • 『勝海舟』(1974年、演:5代目中村富十郎)
  • 『花神』(1977年、演:花柳喜章)
  • 『獅子の時代』(1980年、演:5代目中村富十郎)
  • 『翔ぶが如く』(1990年、演:西田敏行【主演】*61
  • 『徳川慶喜』(1998年、演:渡辺徹)
  • 『新選組!』(2004年、演:宇梶剛士)
  • 『篤姫』(2008年、演:小澤征悦)
  • 『龍馬伝』(2010年、演:高橋克実)
  • 『八重の桜』(2013年、演:吉川晃司)
  • 『花燃ゆ』(2015年、演:宅間孝行)
  • 『西郷どん』(2018年、演:鈴木亮平【主演】)
  • 『青天を衝け』(2021年、演:博多華丸)

その他のテレビドラマ

  • 『命もいらず名もいらず~西郷隆盛伝~』(1977年、TBS、演:高橋英樹)
  • 『雲を翔びこせ』(1978年、TBS、演:金田龍之介)
  • 『若き血に燃ゆる〜福沢諭吉と明治の群像』(1984年、テレビ東京、演:ミッキー吉野)
  • 『白虎隊』(1986年、日本テレビ、演:杉山義法)
  • 『田原坂』(1987年、日本テレビ、演:里見浩太朗)
  • 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京、演:髙嶋政宏)
  • 『南洲翁異聞〜おいどんは、丸腰・平和使節で韓国へ行く〜』(2008年、フジテレビ、演:西郷輝彦)
  • 『JIN-仁- 完結編』(2011年、TBS、演:藤本隆宏)
  • 『黒書院の六兵衛』(2018年、WOWOW、演:竹内力)
  • 『明治開化 新十郎探偵帖』(2020年-2021年、NHK BS、演:鶴見辰吾)
  • 『大奥』(2023年、NHK、演:原田泰造)

映画

  • 『西郷隆盛西南戦争』(1911年、演:尾上松之助)
  • 『西郷隆盛一代記』(1912年、演:尾上松之助)
  • 『西郷隆盛』(1918年、演:尾上松之助)
  • 『維新の京洛 竜の巻・虎の巻』(1928年、浅岡信夫)
  • 『薩摩飛脚』(1938年、演:嵐徳三郎)
  • 『維新の曲』(1942年、演:片岡千恵蔵)
  • 『幕末てなもんや大騒動』(1967年、演:谷啓)
  • 『幕末』(1970年、演:小林桂樹)
  • 『狼よ落日を斬れ』(1974年、演:辰巳柳太郎)
  • 『カムイの剣』(1985年、演:石田太郎)
  • 『竜馬を斬った男』(1987年、演:結城貢)
  • るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』(1997年、演:なし*62
  • 『半次郎』(2010年、演:田中正次)
  • 『幕末高校生』(2014年、演:佐藤浩市)
  • ねこねこ日本史 ~龍馬のはちゃめちゃタイムトラベルぜよ!~』(2020年、演:大森日雅)
  • 『天外者』(2020年、宅間孝行)

ゲーム


参考文献


  • 石黒敬章「化け物と西郷の写真無し」(『英傑たちの肖像写真-幕末明治の真実-』渡辺出版、2010年より抜粋)
  • 加治将一『幕末 維新の暗号 群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか(上・下)』祥伝社文庫、2011年
  • 加治将一『西郷の貌 新発見の古写真が暴いた明治政府の偽造史』祥伝社文庫、2015年
  • 桐野作人『さつま人国誌 〈幕末・明治編〉2』南日本新聞社、2012年
  • 桐野作人『さつま人国誌 〈幕末・明治編〉3』南日本新聞社、2015年
  • 桐野作人『さつま人国誌 〈幕末・明治編〉4』南日本新聞社、201
  • 斎藤充功『禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者』二見書房、2020年




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最終更新:2025年04月24日 21:46

*1 当時の記録に記された家定の言動から、何らかの障害(脳性麻痺が有力視されている)があったと思われ、それも影響したと推測される。

*2 菓子作りを好み、自作のふかし芋や煮豆を家臣にも振る舞ったことから「芋公方」「豆公方」と松平慶永から揶揄されてもいたが、自ら調理をしたのは暗殺を警戒したためとも言われ、最低限の危機管理は出来ていた

*3 公卿の護衛を行う武士

*4 本名は正辰だが、同じ読み方の名前を持つ別人が存在するので、通称の左近で知られる。安政の大獄の黒幕ともいうべき人物。「幕末の四大人斬り」の一人である田中新兵衛により斬殺

*5 安政の大獄のもう一人の黒幕。娘(養女)を島田の妾とすることで、島田とのパイプを築いた。尊皇攘夷派からは激しく恨まれており、後に岡田以蔵に「男としてそれだけは勘弁願いたい」という方法で暗殺されることで有名な人。また民間人向けにも金貸しを行って日銭を稼いでいたが、暴利をむさぼっていたため、多くの民間人からも憎悪の対象であった

*6 家定の意向も「自分は三十代で男子誕生の可能性もあるのに『養子を決めろ、早く決めろ、時局柄年長で英明な将軍が望まれる』などと一橋派が騒ぐのは『今の将軍は暗愚で病弱で短命で子作り能力がない』というのも同然ではないか、まして福井藩や正室の実家の薩摩藩などがそういうことを言うのはけしからぬ、仮に今養子を決めるとしても慶喜は自分と年が近すぎる」と考え南紀派寄りであったという

*7 過去には斉彬の子供が病死したが西郷はこれをお由羅の陰謀と捉えて、彼女と久光を謀殺しようと仲間を集めて計画した。西郷は斉彬から呼び出しを受け、つまらない計画に血道を挙げるなら、違うことに血道を注げと計画の中止を諭された。斉彬の病死を受けて、あの時殺せば良かったと、後悔していた。

*8安政の大獄』で弟・信海が逮捕され、獄中の劣悪な環境がもとで病死

*9 当時「日向送り」とは遠回しに「『幕府の捜査の手が及びにくい日向に送る』と言いくるめて安心させ、護送する途中に船の中で殺してしまえ」という意味であった

*10 明治時代の歴史家。「実証主義」を提唱

*11 藩主には久光の長男である茂久(忠義)であったが、まだ若輩のため、実権は久光が握っていた。これは久光が斉彬の遺言に従った結果である

*12 薩摩弁で「田舎者」という意味。さすがに主君に対して「田舎者」呼ばわりはまずかろうに…

*13 一蔵は久光の趣味である囲碁を覚え、これがもとで久光に気に入られていた

*14 かつては藩の書庫を整理する係に任じられていたが、度を越した酒好きで、酒を買う金欲しさに久光の大切にしていた書物を叩き売ったせいで流刑となっていた。また川口は実際は真面目な人柄であったが、同僚との些細ないさかいの果てに、同僚の流言を久光が信じ込んでしまったことで島流しにされたとも言われる。

*15 文久3年(1863)八月十八日の政変の後、同年11月15日、薩英戦争の頑張りや文久政変の働きで孝明天皇の寵愛を独占していた島津久光に手紙で徳川体制の存続を会津松平家と共に頼むと依頼されたが、久光が会津は幕府の犬ですよね、と言って断ったので、孝明天皇は久光への寵愛が冷め、彼を遠ざけた。続いて会津に徳川体制の存続を依頼、会津側が一会桑権力という形で引き受け、当主・松平容保が孝明天皇の寵愛を独占した。危機感を抱いた島津家は朝廷との折衝を再構築する為に西郷を招いた

*16 ちなみに戸籍上この寅太郎が「西郷家の嫡男」とされており、先に生まれた異母兄菊次郎は(母が庶民、それも薩摩本土ではなく奄美の民という事もあってか)長男ではあるが妹共々「庶子」とされている。

*17 文久3年(1863)12月24日、薩摩島津家船籍(幕府から貸与)の洋式船「長崎丸」が、兵庫から長崎に向かう途中、長州の砲台が長崎丸に向けて一斉砲撃。長崎丸は炎上して沈没、乗組員68人は冬の海に投げ出され、島津斉彬に抜擢され、反射炉の開発に携わった宇宿彦右衛門を筆頭に28人が死亡、船内には繰綿600本、荏子油10挺、炭酸水酸化鉛22箱、酸化鉛二鉛2箱、御用金150両が積まれていたが、海の藻屑に。事件の顛末として毛利家が島津家に謝罪。文久4年(1864)2月12日、薩摩の商人である大谷仲之進が、田布施の船主・水田仲治郎の加徳丸を雇い、堺で荷を積んで薩摩に戻る途中、田布施別府浦に寄港。ここで毛利家の攘夷派5~6人が停泊中の加徳丸を襲撃。大谷は殺され、加徳丸は積荷ごと燃やされた。

*18 薩摩の土地は「シラス台地」と呼ばれる火山性土壌で、現在でこそ稲の品種改良が進められてそうした環境でも育つ品種が作出されているが、江戸時代当時は米の生産が難しかった

*19 長州も幕府と明確に敵対する前は堂々と長崎や横浜で武器や船舶を買い付けて軍備の増強をしていた。要するに幕府に敵対しない限り、国防の為に武器を購入する事自体は問題無かった。西日本の大名家が嫌ったのは武器や船舶の購入が幕府直轄領の長崎、横浜、箱館でしか認められていない、購入履歴を公表する、取引は幕府の役人が立ち合うという手続きがイヤで、自分達の領地で直接購入出来ないのが不満の種だった。慶応3年以降はイタリア、ベルギー、デンマークとの通商条約で正規の政府以外の地方政府=諸大名へ武器や船舶の販売が許可され、最恵国待遇によりイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアにも認められた。実際、長崎、横浜の貿易統計を見ても慶応3年以降は貿易品の中で武器や蒸気船の取扱額が3倍以上に増えている。

*20 大久保が主導して作成した「偽書」であるとする見方が強い

*21 慶應4年1月に庄内酒井家の京都留守居役が京都の薩摩屋敷を訪れ、島津家の京都留守居役に焼き討ちの話を伝えると、島津家としては酒井家の焼き討ちは正当な権利の行使であり遺恨は持たないと断言、酒井家に対して東征軍の中を通り抜け出来る通行手形を手渡した。酒井家が巻き込まれるのは2月9日に奥羽鎮撫総督が設置されると追討の対象に、閏4月5日に奥羽鎮撫総督府の参謀・大山綱良が焼き討ちの話を持ち出して、なし崩し的に朝敵として開戦。戊辰戦争後に西郷を派遣したのは、島津家が当初の方針である庄内酒井家を敵として扱わない事を再徹底させる為

*22 実はこの発言自体計算づく。この頃、大久保利通、木戸孝允と手紙をやり取りしているが、徳川慶喜は時間を与えると根回しや裏工作でこちらを切り崩して状況を有利に持って行くが、強気に出て間髪入れず追い込むと、その場しのぎの策でやり過ごすクセがある。しかもその策は思い付きのその場しのぎで誰も支持しないオマケ付き。部下の人望を自ら失い、黙っていても墓穴を掘ってくれる。慶喜は精神面で追い込むのが一番と返答している

*23 維新後に「鉄舟」と改名し、明治天皇の教育係に就任

*24 西郷は常に「自分が国家のために、ご奉公ができたのは、吉二郎が自分に代わって兄たる責務を果たしてくれたからの事で、自分は年齢の上からの兄で、実際の兄は吉二郎だ」と述懐していた。慶應4年(1868)8月14日、越後国三条で戦傷死

*25 慶應3年12月下旬まで島津家内部では武力討幕とそれに反発する勢力の駆け引きが激しかった。江戸屋敷の焼き討ちや京都の戦争でなし崩し的に戦争に突入。当時の島津家は資金繰りが厳しく、イギリス商人から借金返済の催促を受けて蒸気船を借金のカタに売却された。戦争推進派は睨み合いをしたら財政的に持たないので、余力のある内に戦争を仕掛けて短期間に勝ちを掴む方向に活路を見出した。戦争に勝ったが、戦地で戦った指揮官や兵卒たちは戦争に反対した家臣たちを粛清すると意気盛ん。殿様の忠義が隠れ住む西郷を訪ねて事態の沈静化を依頼し、西郷は参政への就任を条件に全権委任を求めてそれを認めさせた

*26 大体の藩主は江戸産まれであったし、ほとんどの藩が江戸時代を通して慢性的な財政難で、さらに戊辰戦争で疲弊していた藩も少なからずあったため

*27 陸軍省の御用商人で、横浜で貿易商をしていた山城屋和助が陸軍省の装備品調達で陸軍省の官僚と不正を働いたり、陸軍省の非常用の準備金で生糸相場に投資して失敗、公金が返済できなくなった事件。和助は陸軍省に顔パスで入り、陸軍省の公文書を長州系軍官僚の名義で偽造して公金を引き出すなど長州系も擁護できないと見放され自殺し、山縣は政府内の排斥運動の高まりに伴って陸軍大輔を辞職、高級官僚数人も辞職、軍を追放され、調達品で和助と直接関わった下級官吏は事件発覚前に既に退職したが、逮捕・死罪になるなどで事件は幕引きとなった。不正を見抜けなかった会計長官の陸軍少将・種田政明は熊本鎮台司令長官に異動、現地で愛人とイチャイチャしていた処を神風連に襲われて惨殺された。

*28 明治7年(1874)1月9日、酒田県士族・酒井了恒が鹿児島県を来訪し西郷隆盛と会見。酒井の手記が『近世日本国民史』第87巻に収められ、それによると、西郷が朝鮮との国交樹立を熱望したのは、ロシアの南下政策に対抗、清朝と日本と朝鮮でこれに備える為の一つだとしている。

*29 西郷派の軍人や官僚が辞職し、彼らの穴を補うべく採用されたのが、山川浩、佐川官兵衛(旧会津松平家)、立見尚文(旧桑名松平家)、三間正弘(旧長岡牧野家)、千坂高雅(旧米沢上杉家)などの反太政官陣営の戦上手たち。彼らは全て西南戦争で兵を率いて戦い、佐川は西南戦争で戦死したが、後に山川は陸軍少将、立見は陸軍大将、三間は初代憲兵司令官、石川県知事、千坂は岡山県知事、貴族院議員と才幹を奮っている

*30 全人口の5%の士族のために、国の予算の4割を支出していた。実務に就いている士族ならともかく、単に士族であるだけで受け取っていたのである。

*31 土佐藩出身。熊本城では西郷軍から挨拶を求められたので激怒したという。

*32 ちなみに既に鬼籍に入っていた大村益次郎は西郷と鹿児島を警戒していたといわれ、「九州から建武政権を倒した足利尊氏のようなやつが来て武家政権を設立するだろう(意訳)」と来るべき戦争に備えて大阪に軍事拠点を置くよう指示を出していた。彼の見通しのおかげで物資や兵士の輸送の基盤が整っていたことも政府軍を援護した

*33 廃藩置県前、ミニエー銃を改造したスナイドル銃や四斤山砲、それらを作る機械を大量に所持していた鹿児島藩は、廃藩置県で大半を太政官に献上し、旧式の銃で戦わざるを得なかったという説がある。皮肉にも実行者の一人が隆盛の下に残ろうとして隆盛から政府に出仕するよう命じられていた従弟の大山巌である。大山は西郷と敵対することになって以来、「二度と鹿児島には帰らない」と悲壮な覚悟を決めていたという

*34 熊本城に一番乗りを果たしたのは前述した会津の山川浩である。戊辰戦争で戦死した妻の敵討ちも兼ねたこの戦への執念を詠んだ「薩摩人 見よや東の 丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか」という和歌は必見。

*35 後に菊次郎は外務省に出仕し、京都市長を務めたほか、熊吉は従道の依頼で東京に上京し、彼に仕えた。

*36 高瀬の戦で敗死

*37 吉次越合戦で敗死

*38 東郷平八郎の兄。当時、海外に留学していた東郷自身も日本にいたら西郷に殉じるつもりだったことを後年明かしている

*39 佐土原藩出身

*40 首がないので顔での確認はできない。

*41 黒田清隆は太政官内部で敗者に甘いと叩かれるくらい寛大な人物だった

*42 庄内酒井家重臣・菅実秀や300万坪の地主で大富豪•本間家が暗躍して裏工作を展開した

*43 当時は新政反対一揆が多発し、大名家を解雇された家臣が浪人となり、一揆に加担して武装蜂起されたら直轄の軍事力が無く、金が乏しい太政官は危うかった

*44 実際には糸夫人のこのクレームの対象は、銅像の「着流し」という服装に対してで、ニュアンスとしては「そんなだらしない格好で出歩く人じゃない」という意味だったそうだ。

*45 しかもこのとき、明治天皇は自身の写真を西郷の邸宅に送っているのであるにもかかわらず、である

*46 弟の従道や西郷の親友の板垣退助が「生前の顔の特徴をよくとらえている」と太鼓判を押したほどの出来栄えといわれる

*47 「幕末の志士説」では長男のウィリアムとされるが、「佐賀藩学生説」では二女のエマとされる。現在はエマ説でほぼ確定

*48 写真の前列の左側に写っている白髪の武士

*49 「中岡慎太郎」や「高杉晋作」と比定されたそれぞれの人物がこのガラス原版に映っていることも証拠として大きい

*50 二見書房刊、学研刊行の『消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁断の歴史』の増補改訂版

*51 「実は本物の明治天皇(睦仁親王)はすでに殺害されており、長州藩士・伊藤博文が自らの率いる奇兵隊の隊士・大室寅之祐を新天皇として祭り上げた」とする陰謀論の一つだが、根拠とされる事物があまりに無理矢理なこじつけで、おまけにこの陰謀論の中には、多分に人種差別的要素を含んでいる場合がある

*52 人体の組織で最も残存性の高い歯によって個人の血液型や持病、体質などを識別する方法。わが国では1985年の日本航空123便墜落事故での死者の識別の際に用いられ、重要性が再認識されている

*53 海軍大将。白洲正子の父方の祖父

*54 海軍大将。白洲正子の母方の祖父。西郷隆盛から見て母方のいとこにあたる

*55 上に掲載した写真の被写体のうち、後列の左から三人目が「伊地知壮之丞」と比定されている。この人物は「伊地知貞馨」や「堀次郎」の名乗りでも知られている。西郷や大久保利通とともに『精忠組』を旗揚げし、他藩士との交渉に奔走。1862年の島津久光の出兵計画の準備の時間稼ぎのため、国元からの指示で江戸藩邸を自焼させ、これにより幕府から江戸出府の日取りの延期を許されたが、のちにこれが自作自演であることが幕府に露見すると、幕府をなだめるために藩命で江戸から鹿児島に檻送され、明治改元まで、薩摩藩とイギリス・オランダとの貿易の交渉以外は政治上の目立った動きはできなくなった。維新後に内務省に出資するが、琉球王国からの収賄の一件を大久保から厳しく咎められ、免職を言い渡された

*56 右端の男性を大久保利通とする説や、左から2人目の童顔の人物を公家侍の小野熊三郎とする説、左端を伊藤博文とする説があったが、現在は同定の結果、右端の人物は薩摩藩士の橋口半五郎、左から2人目の童顔の人物は島津忠済、左端の人物は「不詳」となっている

*57 当時は名前の漢字表記は「読みさえ合っていればいい」ということで現在ほど厳密ではなかった。例えば、幕末当時の文書に「坂本龍馬」と「坂本良馬」「坂下良馬」と表記しているものがある

*58 この禿げた部分は、キヨソネによる西郷の肖像画にも描かれている

*59 明治天皇が深く親愛する群臣の写真を自らの座右に備えようという目的を打ち立て、やがて天皇に提出するため撮影されたことから『御下命写真』と呼ばれる。多くの官僚や陸海軍の軍人、神官や僧侶、女官、皇族の写真が1880年ごろに各地の写真館で撮影され、印刷されたのちに天皇に提出された。この時撮影された写真が複製され、土産物として出回ることがあった

*60 原作では明治期の西郷と大久保を扱っているが、大河ドラマ化された際には「きつね馬」などの幕末を題材にした短編作品や「竜馬がゆく」の一部を原作として使用している

*61 大久保利通とW主人公

*62 背景キャラとして登場するのみで台詞がないため。

*63 西郷吉之助名義で登場

*64 2023年11月1日に稼働した『六極の煌剣』から参戦