徳川家定

登録日:2024/08/26 Mon 11:30:09
更新日:2025/01/14 Tue 18:19:20
所要時間:約6分で読めます





徳川(とくがわ)家定(いえさだ)
文政7年(1824)4月7日〜-安政5年(1858)7月6日。
幼名は政之助(まさのすけ)、初名は家祥(いえさち)


概要

幕末期に在位した徳川将軍家•第13代征夷大将軍
平和な時代なら、充分に将軍としての役割を全う出来たであろう人物、と渋沢栄一(しぶさわえいいち)の「徳川慶喜公伝」に記されている。
しかし•••••

来歴

生誕

文政7年(1824)4月8日、第12代征夷大将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の四男として江戸城で生まれる。
母は幕臣・跡部正賢(あとべまさかた)の娘・堅子(かたこ)。第11代征夷大将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)は祖父。
家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。

しかし家定は幼少の頃から病弱*1で、幼少の頃に患った痘瘡のため、目の辺りに痣が残り、人前に出ることを極端に嫌った。

今風に言えばコミュ障気味の人であった。

鷹司任子(たかつかさあつこ)と文政11年(1828)11月15日に納采し、天保2年(1831)9月15日に江戸城本丸へ入輿。

天保12年(1841)11月6日に西御丸へ移り、同年11月21日に婚儀が行われて、以後「御簾中様(ごれんじゅう)」と呼ばれた。

天保12年(1841)に大御所*3・徳川家斉の死後、第12代将軍・家慶の世嗣となる。


正妻・任子が嘉永元年(1848)6月10日、疱瘡のため26歳で死去。増上寺に葬られた。

次に一条秀子(いちじょうひでこ)と同年中に納采。
翌嘉永2年(1849)11月22日に婚姻し、以後「御簾中様」と呼ばれた。

嘉永3年(1850)5月27日に病に倒れ、6月6日に死去、享年26歳。

幕府は6月24日にその死を発表し寛永寺に葬られた。

その間、家慶は
「家定より慶喜の方が美形であったから」
と武家の棟梁として見た場合、コミュ障気味でブサイクな我が子よりイケメンの御三卿・一橋家の一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を将軍継嗣にしようと考えたほどである。

だが、老中・阿部正弘(あべまさひろ)らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。

黒船来航の19日後にあたる嘉永6年(1853)6月22日、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。

家定は初め家祥(いえさち、またはいえさき)と名乗っていたが将軍就任に際して家定に改名している。

これは名に偏のついた江戸幕府の将軍(家綱・綱吉・家継・家治)には実子がないか、いても早世したため縁起が悪いとされたためだという。

武家の棟梁として

嘉永7年(1854)1月16日、ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は同年3月3日、日米和親条約に調印した。

安政3年(1856)、薩摩島津家から篤子(あつこ)が右大臣・近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、その年の11月に家定の正室となった。

将軍家が島津家に縁組みを持ちかけた理由として、家定自身が虚弱で子女は一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在であったことから、島津家出身の御台所•広大院(こうだいいん)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。

また、島津家側の理由としては、広大院没後の家格の低下や琉球との密貿易問題などを将軍家との姻戚関係を復活させることで解消しようとした。

安政の大地震やコレラに見舞われながらも、国政を任せられると言う人物に託し、責任は引き受けるという姿勢をみせた。

初期は備後福山阿部家当主で老中首座を務めた阿部正弘に全権を任せていたが、安政4年(1857)閏5月13日正弘の容態が悪くなると病気療養を最優先して登城を控えることを許可する内意を与えた。

その正弘が安政4年(1857)6月17日に亡くなると、下総佐倉堀田家当主で老中首座を務める堀田正睦(ほったまさよし)に全権を任せながらも、家定は開国を決断し、堀田に開国、貿易の方法を調べさせたと勝海舟(かつかいしゅう)は記している。

安政4年(1857)10月21日に米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。

家定はハリスに対して
「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」
と告げ、将軍らしい態度も見せたという。


暗闘

家定には敵が居た、それも御一門*4にである。

最大の天敵は御三卿•田安家出身で現在は家門大名で越前福井松平家当主の松平慶永(まつだいらよしなが)
「凡庸の中でも最も下等」
と酷評、江戸城中などで大名仲間に触れ回ったと本人は明治以降、『逸事史補』に記している。

篤姫の実家から薩摩の名産である黒糖が送られてきたので、黒糖を使ってカステラを作り、篤姫に食べさせた話を聞いた慶永は女々しい奴と家定を断罪し、饅頭、煮豆、ふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞った家定の話を聞いた慶永は「イモ公方」と蔑み、将軍失格と内外にネガキャンを展開し、次期将軍には一橋慶喜が相応しいと触れ回ったと、『逸事史補』に記している。

因みに家定が黒糖を使ってカステラ、さつま芋やカボチャの煮物、饅頭を作ったという話は数寄屋坊主*5野村休成(のむらきゅうせい)が安政2年(1855)5月に譜代大名筆頭で近江彦根井伊家当主・井伊直弼(いいなおすけ)に宛てた手紙に書かれている。

一橋慶喜の父親で御三家•常陸水戸徳川家前当主・徳川斉昭(とくがわなりあき)もまた、外戚として幕政に関与すべく、老中の人事に口を挟んだり、家定から慶喜への相続を露骨に進めていた。

嫁の父親も敵であった。

篤子の実家・外様大名で薩摩島津家当主の島津斉彬(しまづなりあきら)は支配下にある琉球王国を介したフランスとの交易を画策し、それを行うには旧来の幕閣では都合が悪く*6、慶喜に相続して貰った方がやりやすかった。

他にも国政に関心がある外様大名は大体、松平慶永のネガキャンを真に受けて一橋慶喜を支持し、これが「一橋派」と呼ばれる様になる。


反対に
「危機の時だからこそ、原点、原理に戻ろう」
という声も出て来て、こちらは血筋が近い紀州徳川家当主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推し、南紀派と呼ばれる様になる。

後述するが当初、一橋派だった井伊直弼が転向して先頭に立ち、陸奥会津松平家などの家門大名、親藩大名、譜代大名や大奥が推した。

これは大奥が、一橋慶喜の父・徳川斉昭が倹約家かつ色好みとして知られていたので大奥では不人気であり、その一方徳川慶福が大変な美少年で大奥で人気だったことが大奥が南紀派に付いた大きな要因であるという。

当の家定は
「自分は三十代で男子誕生の可能性もあるのに『養子を決めろ、早く決めろ、時局柄年長で英明な将軍が望まれる』
などと一橋派が騒ぐのは
『今の将軍は暗愚で病弱で短命で子作り能力がない』というのも同然ではないか、まして福井や正室の実家の薩摩などがそういうことを言うのはけしからぬ、仮に今養子を決めるとしても慶喜は自分と年が近すぎる」
と血筋的に父の弟の子である慶福の方を推していた。

政治的には、外国との通商条約を締結するのに、従来通りの幕府専断か、天皇の許可や諸大名の意見を聞き入れて合意を得た方が国政をやりやすく出来るかで対立した。


安政5年(1858年)4月21日、孝明天皇(こうめいてんのう)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、堀田は松平慶永を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定が
「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」
と発言。
急遽、安政5年(1858)4月23日に井伊直弼が大老に就任。
動乱の事態を彼なりに収拾すべく井伊はこの後安政の大獄を引き起こすこととなる。

同年6月19日に勅許を諦めて、日米修好通商条約に調印。

同年6月24日、正規の登城日に登城した一橋慶喜とは別に松平慶永、徳川斉昭と息子で水戸徳川家当主・徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張徳川家当主・徳川慶恕(とくがわよしくみ)*7が江戸城に押しかけ登城した。

斉昭らは幕府の違勅調印を非難し、事態収拾のため一橋慶喜を将軍継嗣とすることと松平慶永の大老就任を要求したが、元が一橋派の井伊に手の内を読まれ、徳川幕府の格式を利用して*8個別に対応して論破し、容れられなかった。
家定は安政5年(1858)6月25日、諸大名を招集して従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年(1858)7月5日に斉昭ら4名と一橋慶喜に隠居、謹慎、登城停止などの処罰を行った。


安政5年(1858)7月6日、薨去(こうきょ)
享年35。
通説では持病の脚気が悪化したためとも、その頃流行していたコレラによるものとも言われている。
養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ。


評価

家定を凡庸で暗愚と酷評しているのは、越前福井松平家当主の松平慶永とその家臣達である。

徳川斉昭は
「外国船事情のことなど何も知らないただのお坊ちゃま」
と酷評していたが、家定に言わせたら斉昭こそ
「家来のことなど何も知らないただの老害」
と内ゲバに明け暮れる水戸を観て酷評するだろう。

家定の小姓を務めた朝比奈昌広(あさひなまさひろ)は、
「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」
と弁護し、
「単に自分より慶喜の方が美形であったから」
という理由から慶喜を嫌ったとも渋沢栄一の「徳川慶喜公伝」に記している。

当時は暗殺や毒殺による陰険な派閥・実権争いも激しくなっており、将軍や後継者までも暗殺対象となっていたことから、家定自身はしっかりしていて、奇行を繰り返すことで敢えて''価値なし‘‘と見せ、自らの命を守っていた。
上述の話は勝海舟の明治に入ってからの新聞談話で他にも、
「慎みがあり、思慮深いが、本音を人には洩らさない人だから、臣下との意思疎通が十分ではなく、家定の意図と違う意見が出回ると苦しみになった」
と話している。
似たような話は旧幕臣で衆議院議員になった島田三郎(しまださぶろう)が開国始末に記しているし、元彦根藩士の谷鉄臣(たにてつおみ)は当時、井伊直弼は当初、一橋慶喜を支持していたが、
「家定公が病に掛り、直弼が呼び出されると後の事は全て任せる、と言われ、今までの事も含めて胸の内をさらけ出すと、直弼は全く家定公に絶対服従の姿勢を見せた」
と聞き取りに答えている。

家定自身も将軍就任以前に、誰かに毒を盛られた事があり、家定が大御所として西之丸で生活していた祖父・家斉を訪れた際、出された食事に毒が入っているかもしれないと考えて箸をつけなかったという逸話も残っており、特に食事の膳やお菓子などの食べ物に対する猜疑心が強まっていた。

家定は父親、義理の父親からも疎まれ、親戚筋の御三家、御三卿からも疎まれ、味方らしい味方がいない中で
「泣いて…良いのですよ。だから人は…泣けるのですから」
と家定は自分を想ってくれる人の膝で、悲しみや苦しみを吐き出す様に篤姫といる時だけが素顔に戻れる時間だった。

イケメンなり美少年なら、もう少し人生が変わったかもしれないが、家定はコミュ障でブサイクで陰キャなスイーツ男子である。
大奥で嫌われていないが、モテたとは聞かない。

次の家茂が幕臣全てから好かれていたのに比べたら*11、そこまでの人気は無かった。
っつーかこの漫画コイツの話はするんじゃねえぞ絶対に!

彼は出来る事は最大限した筈てある。

評価は誰がするか知らないが……


メディア作品

幕末序盤の重要人物なのか、演じている人はそれなりに。

ドラマ

『天璋院篤姫』(1985年、テレビ朝日、演:中村嘉葎雄)

『花の生涯 井伊大老と桜田門』(1988年、テレビ東京、演:山本學)

『名奉行 遠山の金さん(第2シリーズ)』(1989年、テレビ朝日、演:小野隆)※将軍世子として登場。

『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ 演:上杉祥三)

『名奉行 遠山の金さん(第3シリーズ)』(1991年、テレビ朝日、演:坂上忍)

『大奥』(2003年、フジテレビ、演:北村一輝)

『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:堺雅人)

『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ、演:小須田康人)

『八重の桜』(2013年、NHK大河ドラマ、演:ヨシダ朝)

『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:又吉直樹)

『青天を衝け』(2021年、NHK大河ドラマ、演:渡辺大知)

『大奥 season2』(2023年、NHKドラマ10、演:愛希れいか)※男女逆転設定


テレビアニメ


ねこねこ日本史』(Eテレ、CV島﨑信長)

銀魂』(テレビ東京、CV土師孝也)

漫画


『陽だまりの樹』(手塚治虫、小学館)

『大奥』(よしながふみ)※男女逆転設定

『大奥怨霊絵巻』(小林薫)

『毒を喰らわば皿までも?』(松阪)

銀魂』(空知英秋、集英社) … 個別記事参照

『風雲児たち』(みなもと太郎、リイド社)


追記、修正は男女逆転設定でブサイクでコミュ障でスイーツ好きの陰キャな方がお願いします。


この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 幕末
  • 日本史
  • 征夷大将軍
  • 徳川幕府
  • スイーツ男子
  • 陰キャ
  • コミュ障
  • ブサイク
  • 篤姫
  • 徳川家
  • 徳川家定
  • 病弱
最終更新:2025年01月14日 18:19

*1 当時の上流社会の女性は、顔から胸元まで白塗り化粧する風習があった。その白粉に含まれる水銀や鉛白粉を乳幼児が摂取すると、鉛中毒や神経麻痺を引き起こし死に至った。これらの子女は元服までに早世していた。これまで鎌倉時代より大正時代までの天皇家の正室にも男子継承者は一人もなく、すべて側室から生れている。発育には当然、良くない。

*2 御守殿様の住まい

*3 引退した将軍の呼び名

*4 御三家・御三卿・御家門の総称

*5 江戸城で茶の湯に関わる仕事を担当。将軍や大名の側近くに仕え、情報通である。

*6 亡くなった阿部正弘から内諾は貰っていたが、それだけである。

*7 後に慶勝と改名。

*8 官位や石高、御一門(御三家・御三卿・御家門)、譜代大名・外様大名と待機する場所は指定されていた

*9 官位が三位以上の人

*10 昔はしゅっきょと読ませた

*11 但し、皆、向いている方向がバラバラなのがミソ。団結出来ず、互いに足を引っ張るのである。