桐野利秋/中村半次郎

登録日:2025/01/20 Mon 19:12:20
更新日:2025/04/09 Wed 11:21:20
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(きり)()利秋(としあき)(1838〜1877年)

旧姓は中村。
通称が半次郎(はんじろう)、のちに晋作(しんさく)、諱は利秋。
号は鴨溟(かもめい)


概説

薩摩系維新志士。
人斬り半次郎の二つ名があるが、後世の創作とも。
護衛、密偵、暗殺といった裏方の仕事をキチンとこなすエージェント。
維新後は軍人に転進したが、軍官僚というより誰かの指揮下で働くと絶大な破壊力を示す最前線の軍人という感じに収まった。


誕生

天保9年(1838)12月2日、薩摩国鹿児島城下に薩摩島津家家臣・中村(なかむら)与右衛(ようえ)(もん)の次男として生まれた。

中村家の身分はの広敷(ひろしき)()と呼ばれる大名家当主や世継ぎ、親族などが住む場所で身の回りの雑用をこなす、下級役人だった。
家禄は10石。

10歳の頃、父が仕事を失い、島流しに合い、家禄を半分失う*1

上の兄が家督を継いだが、この兄も亡くなり、彼が家督を継ぎ、一家の大黒柱になった。
18歳の頃である。

読み書きは(べっ)()()(ろう)(へい)()*2に学び、剣術は()()(げん)(りゅう)薬丸(やくまる)()(げん)(りゅう)を学んだと言われる。

家計を支える為に農作業を行ったが、四書五経などの学問までは手が回らなかったと、本人は述べている。

青年時代

文久2年(1862)3月に行われた薩摩島津家国父・(しま)()久光(ひさみつ)*3の率兵上京に参加する。
西郷隆盛が久光を「地ごろ」(田舎者)と酷評したり、島津家内部の有村新七ら過激攘夷派とそれを止めようする大山格之介(綱良)ら家臣団の間で発生した内ゲバ*4などはこの時のイベント。
彼はここで中川宮(なかがわのみや)*5の家臣に貸し出され、しばらく京都にとどまり、様々な人と交わり、人脈や見識を広める。
学識は足りない処があるが、地頭は良く、性格も素直で、間違えても誤りを直ぐ正すので、敵を作るより味方をする奴が増えるというナイスガイだった。
この頃の薩摩人にしては長州系維新志士の間にコネがあり、京都の長州屋敷に出入りして情報を集めては家老・()(まつ)帯刀(たてわき)や要人・西郷隆盛(おお)久保(くぼ)利通(としみち)に報告している。
水戸天狗党が武装蜂起して上洛を目指した際も美濃国で接触して、首領・(たけ)()耕雲斎(こううんさい)らに面会していたと、京都守護職を務める陸奥会津松平家が記録を残している。

私生活では京都四条にある「村田煙管店」の娘・サトと恋中でツーショット写真が残っている。

画像出典∶wikipedia「桐野利秋」より抜粋


しかし、この二人は夫婦にはならず、彼はその後サトとは再会しなかったのだが、サトが明治になって彼に会いに鹿児島を訪ねたら、彼にフサという妻がいた事を知り、そのまま京都に戻った。
その後は同志社に入り、キリスト教に入信して新島襄(にいじまじょう)夫妻と仲良くなったと言われて、生涯独身だった。

王政復古から討幕へ

この後、基本的に他の大名家家臣に対する応接役、道案内、護衛役が主な仕事で、公式に人を斬ったのは慶應3年(1867)9月3日に洋学者・赤松(あかまつ)()三郎(さぶろう)の件だけで、しかも薩摩島津家での契約満了の後、会津松平家に雇われてイギリス式訓練を教えると聞かされた島津家側が軍事機密漏洩防止と会津武士にイギリス式を教えたら薩摩武士と対等の戦力になり、討幕がやりにくくなるという、それなりの理由は存在する。

戊辰戦争当時の薩摩島津家は基本の部隊単位を中隊規模の人数で小隊と呼んで運用していた。
当時の薩摩島津家の1個小隊は120人。
指揮系統は小隊長を頭として、半小隊長、分隊長、小頭。後は銃兵。

慶應4年(1868)1月3日に鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた戦いでは伏見側の島津軍に配置になって武勲を立てる。
東征軍が編成され西郷隆盛が東海道先鋒総督府参謀に任命されると、従軍する島津軍の城下一番小隊長に任命、同年5月15日の上野戦争まで西郷と行動を共にする。
この戦いの後、同僚・(かわ)()()(ろう)左衛(ざえ)(もん)と江戸市内の湯屋からの帰り、三人組の刺客に襲われ、一人は殺したが、彼は左手の指を失った。*6

この件で彼は軍から離れ負傷者リスト入りし、横浜の軍病院で約3ヶ月程、療養する事になる。
その後同年8月21日に東征軍大総督府日光口軍監に任命され軍務に復帰、明治元年(1868)9月22日に陸奥会津松平家が降伏すると、城受け取りの責任者を担当する。
周りが心配する中、彼は大任を終えたが、ネタばらしに「以前、寄席で忠臣蔵の話を聞いた際、赤穂城引き渡しの場面を思い出しながら、演じきった。人生で一番疲れたわwww」と話した。
別の視点では戦国時代に豊臣秀吉に降伏した時の島津義久を思い出して泣いたとも。
陸奥会津松平家前当主・(まつ)(だいら)容保(かたもり)から「お主は良い奴だな」という理由でお礼に金銀造りの大小を人づてに貰う。

慶應3年12月下旬まで島津家内部では武力討幕とそれに反発する勢力の駆け引きが激しかった。
江戸屋敷の焼き討ちや京都の戦争でなし崩し的に戦争に突入。当時の島津家は資金繰りが厳しく、イギリス商人から借金返済の催促を受けて蒸気船を借金のカタに売却された。
戦争推進派は睨み合いをしたら財政的に持たないので、余力のある内に戦争を仕掛けて短期間に勝ちを掴む方向に活路を見出した。
戦争に勝ったが、戦地で戦った指揮官や兵卒たちは戦争に反対した家臣たちを粛清すると意気盛ん。
殿様の忠義*7が隠れ住む西郷を訪ねて事態の沈静化を依頼し、西郷は参政への就任を条件に全権委任を求めてそれを認めさせ、軍制改革を行い禄高の平均化を行った。

新国家建設へ


明治初年の桐野利秋の写真。髷を落とし、うっすらと髭を生やしている。画像出典∶wikipedia「桐野利秋」より抜粋


この頃から彼は名前を桐野利秋と改めている。
大昔は桐野の本家と母方の中村に分かれていたのがいつしか再統一された。桐野という苗字は功績のある由緒正しいモノだからとか。
鹿児島に帰郷した彼は軍制改革で一番大隊長に任命、戊辰戦争の功績で賞典禄を200石を賜り、東京と鹿児島のつなぎ役として奔走した。
明治4年(1871)の廃藩置県に備えて西郷隆盛が東京に来た際、鹿児島からの兵を従えて、そのまま御親兵に編入、兵部省出仕・陸軍少将に任命される。
鎮西鎮台司令長官、組織改編で改まった熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所所長を歴任した。

維新後には学問の欠乏に苦しみ、その欠点を自認していた為に書籍を読んでいたとも記述されている。
川畑新兵衛という人物が彼を訪ねた際、彼の談話が高尚であるのに驚き、
「君は学者となったな」
そう声を掛けると彼は笑って、
「君は知らないのかい?時代は便利だよ。翻訳書が世の中に出版されている。それを読みあさっている」
と返答した。

鹿児島へ

明治6年(1873)10月の征韓論に端を発した明治六年政変では、上述のポストに就いていた関係上、東アジア情勢に敏感で、情勢の安定化を望んでいたとも。
西郷隆盛が敗れて辞職、鹿児島に帰郷すると聞くと、辞表を提出、一緒に戻り、薩摩士族の指導者として、私学校、吉野開墾社で手腕を奮ったり、薩摩士族の表の顔として、他所から来た士族と面会する。
明治10年(1877)の西南戦争では実質的な総司令官として采配を振るい、南九州各地で太政官と激戦を繰り広げる。
同年9月24日、鹿児島城山にて戦死。

創作との比較

後世には「幕末四大人斬り」や「人斬り四天王」だの呼ばれ、粗暴な人柄のようにささやかれるが、同時代人の大隈重信、勝海舟、土方久元には「ナイスガイ」、「ファッションセンス抜群」、「桐野しか勝たん」と絶賛され、同郷の中井弘、高島鞆之助、市来四郎らは
一般に言われているような西郷隆盛の子分でも粗野ばかりの男でもない。彼は立派な一人の統領である」
と人物、見識を評価されていた。
逆に言うと当時から「一般には粗野なばかりの西郷隆盛の子分」として見られていたのであろうが、
さらに昭和時代の池波正太郎氏や司馬遼太郎氏の作品で剣の腕や放言の部分だけが独り歩きし、残念なイケメン扱いされてしまった感じが強い。

藩閥政治的に見ると、薩摩閥の優秀な後継者世代が軒並み西南戦争で戦死してしまい、大久保利通、黒田清隆、松方正義の後、山本権兵衛が出るまでの間や山本の後に、薩摩閥は政界をリードする人材を輩出来なかった。
薩摩は純血主義が強く、長州閥みたく他所から人を受け入れた例が榎本(えのもと)武揚(たけあき)*19くらいで、樺山(かばやま)資紀(すけのり)みたく蛮勇演説*20で議会政治に上手く適応出来ない面を露呈させるなど、政治に対して柔軟性を欠いた。
山本の後の薩摩閥は目立つのが床次(とこなみ)竹二郎(たけじろう)くらいで、総理大臣の椅子を求めて彷徨う生き方に、後年、石橋(いしばし)湛山(たんざん)*21から「ガン(癌細胞のガン)」とか、松本(まつもと)清張(せいちょう)からは「彼はさしずめ『風見鶏』の元祖かもしれない」と評された。
陸軍では大山巌、上原勇作、黒木為楨以降、これという人材に恵まれず、海軍では最終的に東郷平八郎が頑張ったが、頑張り過ぎたともいえる。
薩摩閥的に西郷隆盛は神様なので、桐野に薩摩閥没落の全責任を被せたかったのかも知れない。

もっとも、薩摩閥が振るわず、長州閥が他藩出身者や旧幕臣、庶民を多く取り入れたことが、いわゆる「藩閥政治」が大正以降の自由民権運動・大正デモクラシーが理想とする「政党政治」へと取って代わられる遠因*22となったと言えるかもしれない。


桐野利秋/中村半次郎を主題とした作品

小説

  • 池波正太郎『人斬り半次郎』

映画

  • 五十嵐匠『半次郎』
2010年公開。主演の榎木孝明が、自ら13年をかけて企画し、監督など主要スタッフの人選や制作費の調達についても積極的に働きかけたが、2年前のリーマンショックで企業がお金を出せない時代だったので大手の配給会社からそっぽを向かれ、自分たちのプロダクションを配給元にして映画館と交渉し、ようやく上映にこぎつけたと取材に答えている。




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最終更新:2025年04月09日 11:21

*1 派閥抗争に巻き込まれたと言う説があるが、時期的にまだ先の話なので、別の件かも知れない

*2 別府晋介の祖父。母方の血縁。

*3 先代当主・斉彬の死後、家督を相続したのが久光の子・茂久。幼少という事で久光が後見人を務めていた。

*4 寺田屋事件

*5 皇族。孝明天皇の相談相手、政治顧問。「尹宮朝彦親王」「久邇宮朝彦親王」の名乗りでも知られる

*6 諸説あり、左手の人差し指だけ、というのと左手の中指、薬指の二つというのがある。

*7 茂久改め

*8 長州では珍しい上級武士出身。ドイツに留学した。ニコポンと言われるくらいの爽やかな笑顔を浮かべながら腹黒い策略と根回しを巡らすのが得意技。日露戦争時の総理大臣。

*9 明治42年(1909)10月26日、ハルピンで暗殺

*10 大正2年(1913)2月の倒閣運動

*11 大正2年(1913)10月10日死去

*12 長州出身。陸軍元帥

*13 寺内は大正8年(1919)11月3日、山縣は大正11年(1923)2月1日、それぞれ病没。

*14 長州出身。陸軍大将。昭和2年(1927)4月20日の総理大臣就任時は立憲政友会総裁・貴族院勅選議員。

*15 長州出身。2.26事件のパトロン。戦後公職追放。

*16 長州出身。外務大臣

*17 長州出身。戦後総理大臣。

*18 長州出身。戦後総理大臣。岸とは兄弟。岸が婿養子で来た父親の実家・岸家に養子に入った。

*19 旧幕臣。オランダ留学経験者で国際法に詳しい。戊辰戦争では徳川海軍を率いて箱館で戦った。降伏した後、赦免されて海軍中将、農商務大臣、外務大臣を歴任。

*20 明治24年(1891)、松方正義内閣下の海軍大臣だった樺山は第二回帝国議会で藩閥政治の正当性を主張。民党が発言にブチギレて、最終的に衆議院が解散総選挙になった。

*21 ジャーナリスト。戦後総理大臣

*22 一番の原因は大学などの教育制度が充実し、藩閥から学閥、学歴に代わり、教育水準の平均が高くなり、新聞やラジオなどで社会情勢を知るようになって政治意識が高くなったからとも言える。同時に大学等の高等教育を受けるには一定の金が掛かる為、貧富の差も出て来る様になった。選挙も今と違い全額自費負担の為、政治と金の問題も出て来るなど、矛盾も噴き出していた。