登録日:2024/06/30(日) 21:15:00
更新日:2025/04/28 Mon 21:23:20
所要時間:約 18 分で読めます
白虎隊とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、陸奥会津松平家によって組織された軍事組織。
日本で最も有名な少年兵集団と言っても過言ではないだろう。
「飯盛山での自刃」が有名だが、これは士中二番隊…つまり白虎隊のうち一部隊の隊員達によるもの。
当項目では「白虎隊」そのものについて解説していく。
前夜
慶應4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた陸奥会津松平家。
当主が夜逃げ、戦場にいる部下を見捨てるという前代未聞の事態をやらかした松平容保は家臣団に頭が上がらなくなってしまい、更に慶應4年(1868)1月20日、徳川慶喜は負傷者が収容されている陸奥会津松平家中屋敷に来訪して夜逃げの顛末を話し、夜逃げを謝罪したのだが、高津仲三郎という負傷した武士が
「どの面下げてここに来た?」
「夜逃げの言い訳なんか要らないんだよ!」
「降参するなら、なんで大坂城で降参しなかった?」
「なんで大坂城の大広間でオレ達の戦意を煽る発言をした?」
「そもそも何の為の謝罪だ?」
「負けた事?夜逃げした事?」
「要するに謝罪している姿勢を見せているだけでしょう?
心が籠もっていないの、ミエミエだから!
要らないよ、そんな謝罪!カエレ!カエレ!」
と言いたい放題。
また、
徳川慶喜も全てやらかした後なので、ぐうの音も出ない、しかも、高津は戦場で命を賭けて戦い死にかけた後で、憤懣やる方ないといった様子。
一応、陸奥会津松平家には徳川宗家当主に忠節を尽くせ!という家訓はあるのだが、すでに
リミッターは解除されている模様である。
高津が
徳川慶喜を公開処刑した後、会津武士たちから
「カエレ!」
の大合唱、慶喜は逃げ出した。
家訓に基づき忠節を尽くすなら慶喜の夜逃げを赦して、認めなければならないが、陸奥会津松平家は宗家当主・慶喜に罵声を浴びせて退散させ、徳川宗家への忠節を切り捨てた。
家臣団に対して、慶喜に夜逃げを説いたとして
神保修理に詰め腹を切らせ、容保が夜逃げの一件で
不倫がバレた有責配偶者の様に土下座謝罪をする事で家臣団も
「次はないからな!覚悟しとけよ!」
と憤懣を収めてくれた。
※ちなみに神保が慶喜に説いたのは、『
戦闘を停止し、大坂城まで全軍撤退させ、恭順の方針を全軍に伝えてから、大坂城を退いて江戸に戻る』という策だったのだが、現実に慶喜がしたのは
煽りと夜逃げなので、神保もあ然としていた。
創設
負けた要因は、武器の差、武器に合わせた戦い方とその熟練度の差など様々あるが、ひとまず、年齢別に再編成して、農民、町人を集めて洋式軍隊にする事にした。
以前は長沼流軍学で編成されていたが、禁門の変で長州毛利家に苦戦させられたので、やり方を改めたいと京都詰の家臣から提案は有った。
国許や江戸からは今もそのやり方で勝っているから、やり方は変えません!と断られ、京都の連中が金食い虫だから軍備は変えられないよ!ともイヤミを言われた。
家訓を逆手に取り将軍の圧力を使い、慶應3年(1867)の3月から会津に徳川陸軍から歩兵指図役頭取・
畠山五郎七郎、砲兵指図役・
布施七郎、騎兵指図役・
梅津金弥の
3人を招いてフランス式の軍隊にする予定が、慶喜の都合で延期になり今年にずれ込んだ。
山本覚馬の斡旋で9月には
赤松小三郎を京都に招いてイギリス式の訓練を施して洋式軍隊にする予定が薩摩島津家のテロで赤松が暗殺され有耶無耶にされたりで、第一歩すら踏めなかったのが会津である。
前置きが長くなったが、年齢別に再編成した結果、
15〜17歳→白虎隊:士中1番37名、士中2番37名。寄合1番98名、寄合2番65名、足軽71名は組織されたが各地に生じた負傷兵を補う補充兵として充てがわれ、流れ解散
18〜34歳→朱雀隊:士中4隊、寄合4隊、足軽4隊の合計12隊。1隊は各100名編成で総勢1200名
35〜49歳→青龍隊:士中3隊、寄合2隊、足軽4隊の合計9隊。1隊は各100名編成で総勢900名
50歳以上→玄武隊:士中1隊、寄合1隊、足軽2隊の合計4隊。1隊は各100名編成で総勢400名
となった。
会津松平家の洋式軍隊は、
- 一隊100名の中隊として組織。
- 一中隊は二小隊(50名)に分かれて小隊頭(=小隊長)二人の指揮下で動く。
- 小隊は二つの半隊(25名)に分かれて一つは小隊頭が、残りの半隊を半隊頭(=半隊長)の指揮下で動く。
- 指揮官は中隊頭(=中隊長)✕1 小隊頭(=小隊長)✕2 半隊頭(=半隊長)✕2
会津松平家は家柄に応じて上級武士の士中、中級武士の寄合、下級の足軽と存在するので、そこで分けた。
御家存亡の危機に身分別とは?というツッコミがあるが、会津松平家は京都守護職就任から鳥羽伏見の戦いで敗れるまで、公用局という松平容保の頭脳集団が身分、年齢、学歴にとらわれる事なく、実力本位で選ばれた人たちが、胸ぐらをつかむくらいの本音むき出しの討論を積み重ねて政治、軍事、外交、財政を切り盛りしていた。
会津松平家の公用局は当主・松平容保の頭脳集団として京都守護職として上洛してから2週間で新設。
身分にこだわらず、活力が有り、学問と仕事の出来る人材をかき集めた。
創設当時から公用局を引っ張ったのは野村左兵衛(慶應3年6月22日病死)、外島機兵衛(慶應4年3月30日病死)、小森久太郎(明治4年病死)の三人。
主な仕事は当主の諮問を受けた事柄に関して評議を行い、そこで出た結論を京都詰の家老に申し上げ、家老と一緒に当主の面前で報告する。
但し、対応を急ぐ場合、当主の面前で討議がなされた。
この後、江戸や国許へ急ぐ場合、京都のみで決定し、江戸、国許には事後承諾という形が取られた。
当主や家老が公用局の意見に反対する事はまずなく、場合によっては公用局が容保の意見に反論し、容保がその意見を受け入れた事例もある。
公用局の意見=会津松平家の公式見解だった。
公武合体のつなぎ役として朝廷側で孝明天皇、中川宮、二条関白からの相談、幕府側で老中、京都所司代、京都町奉行からの相談や通知を当主に取り次いだり、相手に提出する意見書の草案を作成したり、会津側の意見を相手に伝えた。
浪士組や他の大名家とのトラブルにも駆り出され、解決に奔走したり、中川宮家に家臣を貸すなどして連帯を強化するなども。
公用局で働いていた広沢富次郎の記録では、評議の内容は連帯責任で徹底して話し合うのが普通で徹夜で議論しても話がまとまらず、胸ぐらをつかむ、闘論になるなども日常茶飯事。
それでも評議の内容が定まると、当主に言上、承諾を得た。
連帯責任を証言しているのは他にも柴秀治、手代木直右衛門も自伝で認めている。
独創性は無いが事務処理能力が高い人達が揃っており、朝廷、幕府の双方から重宝された。
文久政変は孝明天皇から中川宮を経て、薩摩島津家の高崎左太郎と会津松平家公用局員の秋月悌次郎を中心に行われた。
高崎が同家家臣の重野安繹から江戸の昌平黌に在籍していた時、重野と秋月が仲良しだった事を聞き、そのツテで秋月を訪ねたのが文久政変の始まりだった。
実力主義から門閥主義へ逆噴射してしまった。
課題
さて、洋式軍隊を作ると言っても、会津松平家は公用局に優秀な人材を全集中してしまい、更に軍事面の人材も山本覚馬が行方不明、林権助は戦死、この二人が籍を置いていた砲兵隊が残り少ない優秀な人材を独占。
会津松平家に助っ人で参加した奥医師・松本良順は回想録で
「鳥羽伏見の戦いで亡くなった140人の会津武士は珠玉の逸品という逸材ばかり。武士の中の武士と呼ぶに相応しい逸材だった。で、国許に行くと、武芸と
儒学は成績優秀だけど、競争ばかりしてきたから、自己主張だけが強い、協調性がない、他責思考、視野が狭い、とこれが本当に京都で会った会津武士と同じ生き物なのか?と疑った」
と人材の落差に驚いている。
徳川宗家を離れたフランス陸軍軍人や徳川陸軍の軍人を招いて、促成栽培でフランス式軍隊や軍人を育成した。
結果は敵として戦った板垣退助が
「最初の方は動きがバラバラで、全然統一感がなく、号令を聞いてから次に動くまで動きに迷いの有る奴がいたから潰すのは余裕だったが、途中から西洋式の戦いに慣れて、号令にすぐ反応するくらい動きが機敏で統一感があり、多少の武器の性能差を地形を利用する事で相殺して接近戦を挑むくらいに上手くなり、最初みたく武器の性能差と西洋式の戦い方に不慣れな部分を突付いてゴリ押ししたら勝てる相手ではなくなった」
と記している。
白虎隊士は鶴ヶ城三の丸にて午前9時〜午後4時までフランス式軍事教練を受けた。
会津でフランス式軍事教練を担当していた
沼間守一は
「子供たちが素直で一番成長が速い」
とベタ褒め。
大人たちについては、
「
使えないな」
と酷評。
儒学、家訓、掟、心得などの固定観念が邪魔して新しい物事を受け入れるのを邪魔していると、批評していた。
会津松平家開祖・保科正之が定めた会津松平家の憲法みたいなヤツ。
- 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
- 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
- 兄を敬い弟を愛すべし。
- 婦人女子の言、一切聞くべからず。
- 主を重んじ法を畏るべし。
- 家中風義を励むべし。
- 賄を行い媚を求むべからず。
- 面々、依怙贔屓すべからず。
- 士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
- 政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
- 法を犯す者は宥すべからず。
- 社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。
- 若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり、という代物で守らない当主に忠節を尽くす義務は無いと断言している。
会津松平家の子弟は、6歳になると「什」と呼ばれるグループに入る。
什とは、町内の6歳~9歳の子供たちが、 9歳の什長を中心に10人前後集まって構成される集団。
什は毎日午後から当番の家に集まり集団で活動、最後に什長が「什の掟」を話しながら 「ならぬことはならぬものです」で締めくくる。
- 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
- 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
- ウソをいう事はなりませぬ
- 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
- 弱い者をいぢめてはなりませぬ
- 戸外で物を食べてはなりませぬ
- 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
会津松平家の士中と呼ばれる上級武士の子弟は10歳になると「日新館」に入学。
日新館は会津松平家の学問所で、授業は朝の8時から始まり、論語、大学などの四書五経、孝経、小学を加えた計11冊の中国の古典を教科書とした。
入学した子弟たちは、これらの教科書を素読するのが日課。
各家庭で入学する前の6歳頃から寺子屋に通わせて、これらの古典を素読させていた。
日新館では、低学年のときに「日新館の心得」を勉強させるが、この心得をしっかり学習することで、会津武士としての心構えや誇りを植え付けていた。
- 毎朝、早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝のご挨拶をしなさい。そして、年齢に応じて部屋の掃除をし、いつお客様がお出でになってもよいようにしなさい。
- 父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません。理由があって、どうしても早く食べなければならない時は、 その理由を言って許しを得てから食事をしなさい。
- 父母が家の玄関を出入りなさったり、あるいは目上の方がお客様として玄関にみえられた時、お帰りになる時は、 送り迎えをしなければいけません。
- 外出するときは、父母に行き先を告げ、家に帰ったならば只今戻りましたと、挨拶をしなさい。すべて何事もまず父母にお伺いをし、自分勝手なことをすることは許されません。
- 父母、目上の方と話をする場合は、立ちながらものを言ったり、聞いたりしてはなりません。また、いくら寒いからといって自分のふところの中に手を入れたり、暑いからといって扇を使ったり、衣服を脱いだり、衣服の裾をたぐり上げたり、そのほか汚れたものを父母の目につく所に置くようなことをしてはいけません。
- 父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、つつしんでその用件をうけたまわり、そのことを怠らないでやりなさい。自分を呼んでおられる時は、速やかに返事をしてかけつけなさい。どのようなことがあっても、その命令に背いたり、親を親とも思わないような返事をしてはいけません。
- 父母が寒さを心配して、衣服を着るようにおすすめになったら、自分では寒くないと思っても衣服を身につけなさい。なお、新たに衣服を用意してくださった時は、自分では気に入らないと思っても、つつしんでいただきなさい。
- 父母が常におられる畳の上には、ほんのちょっとしたことでも上がってはいけません。また、道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、殿様や家老がお通りになる門はなおさらのことです。
- 先生または父母と付き合いがある人と途中で出会った時は、道の端に控えて礼をしなさい。 決して軽々しく行き先などを聞いてはいけません。もし、一緒に歩かなければならない時は、後ろについて歩きなさい。
- 他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んではいけません。
- すべて、まず学ぶことから始めなさい。そして、学習に際しては姿勢を正し、素直な気持ちになり、相手を心から尊敬して教わりなさい。
- 服装や姿かたちというものは、その人となりを示すものであるから、武士であるか、町人であるかがすぐわかるように、武士は武士らしく衣服を正しく整えなさい。決して他人から非難されるようなことのないようにしなさい。もちろん、どのように親しい間柄であっても、言葉づかいを崩してはいけません。また、他の武家の人たちに通じないような、下品な言葉づかいをしてはいけません。
- 自分が人に贈り物をする時でも、父がよろしく申しておりました、と言いそえ、また、贈り物をいただいた場合は、丁寧にお礼を述べながら父母もさぞかし喜びますと言いそえるようにしなければなりません。すべてに対して父母をまず表に立てて、子が勝手に処理するのではないことを、相手にわかってもらえるようにしなければなりません。
- もしも、父母の手伝いをする時は、少しでも力を出すのを惜しんではいけません。まめに働きなさい。
- 身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません。それにお客様の前では、身分の低い人はもとより、犬猫にいたるまで決してしかり飛ばしてはいけません。また、目上の人の前で、ものを吐いたり、しゃっくりやげっぷ、くしゃみやあくび、わき見、背伸び、物に寄りかかるなど、失礼な態度に見えるような仕草をしてはいけません。
- 年上の人から何かを聞かれたならば、自分から先に答えないで、その場におられる方を見回して、どなたか適当な方がお出でになっていたら、その方に答えてもらいなさい。自分から先に、知ったかぶりをして答えてはいけません。
- みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出かけるのを楽しみにしてはいけません。特に男子は、年が若い頃は女子と二人だけで遊びたい本能をおさえることは、なかなか難しいとされています。だからといってそのような遊びを経験し、癖ともなれば、それこそ一生を誤り、大変不名誉な人生を送ることになりかねません。だから、幼い頃から男と女の区別をしっかりし、女子と遊ぶ話などしないことが大切です。あるいは、下品な言葉を発して回りの人を笑わせたり、軽はずみな行いをしてはいけません。なお、喧嘩は自分で我慢ができないから起こるものであって、何事も辛抱強く我慢して喧嘩をしないように、いつも心掛けなさい。
武器は山本覚馬と長崎にいるカール・レーマン(プロイセン商人)がドライゼ撃針銃4300挺を慶應3年(1867)5月11日に購入契約締結となったが、代金引換で現物はプロイセン本国からの取り寄せになるので、入荷は一年先になるというモノだった。
山本覚馬が行方不明になると、兵器購入ルートが途絶えてしまい、最終的に越後長岡牧野家の
河井継之助の斡旋で自称オランダ人の
シュネル兄弟から武器を購入した。
短期間に大量の統一された規格の武器を揃えるというのは、スネル兄弟のみならず、長崎のグラバーでも無理だと思う。
その為、武器に関しては数も質も足らず、新型の元込め銃は会津松平家が数が少ないレアアイテムだからか出し惜しむ傾向にあった。
当時の標準的な小銃である先込め施条式の椎の実弾を使うミニエー銃、エンフィールド銃はあったが、絶対数が足らず、朱雀隊や砲兵隊に優先的に配備された。
他の部隊には一世代前の先込め滑空式の丸弾を使うゲベール銃、
火縄銃まで投入していたが、武器の差は厳しく、補給がアテにならないと敵の死体や補給部隊から武器や弾薬を鹵獲して自分の武装を更新する兵士も出ていた。
戊辰戦争中盤からの陸奥会津松平家は武器の性能差も縮まり、西洋式の戦いにも慣れ、
太政官側に同数の損害を与えるようになったが、指揮官の価値観が前の時代のままなので、最前線に出ては銃撃を浴びて戦死がザラで、指揮官や指揮系統の再編が日常茶飯事だった。
大砲に関しては当時の日本の道路事情が貧弱で、重い大砲では前に進まない為、四斤山砲など軽量で分解可能な山砲が、山がちで輓曳用道路の整備も不十分な地理事情、軍馬不足という軍備状況に適合していた。
分解すれば馬2頭に駄載することが可能で、山岳地帯での運用に適していた。
一方、野砲では馬8頭が牽引に必要だった。
青銅砲なので、材料も国内調達が容易で鉄製砲よりも技術的に製造が容易だった。
発射速度を除けば最新式の後装砲にも劣らない性能だった。
この大砲は陸奥会津松平家も数多く保有していたので後れを取らなかった。
戊辰戦争後半は補給が途絶えがちで弾薬の調達に苦労した。
寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津最大の百姓一揆が勃発した。
首謀者の処刑と入牢などを行ない鎮圧したが、農民達は徳川幕府に申し出て、寛延4年7月(1751年)に幕府より国目付が派遣され年貢減免などの緩和策が取られ、一度財政破綻寸前まで追い込まれた。
天明5年(1785年)から財政再建を行い成功したが、幕府から余裕あるよね〜って樺太、三浦半島、房総半島、お台場、蝦夷地と警備を割り振られ、負担は重かった。
トドメが京都守護職の約1000人派遣である。
会津松平家を支持する孝明天皇、中川宮、関白・二条斉敬のご機嫌を取るために生活費を援助したのもあるが、薩摩、長州、土佐、水戸などの有力大名家が京都に来て、家臣や志士をロビイストにして政治活動するモノだから、人が増えて物価が急上昇。
家臣団に物価高対策手当を増やして対応し、徳川幕府に財政支援を願い出て、文久2年(1862)〜慶應3年(1867)までの6年間で総額1232621両を支給、都合20万石分の領地を与え、都合43万石の収入にはなったが、焼け石に水。
新規領地は山城国、播磨国、越後国と分散されて、それぞれに役人や兵隊を派遣しなければならず行政効率が悪かった。
慶應3年(1867)には駿河に43万石のまとまった領地を与えろ!と要望を出したが拒否された。
身なりは京都の民衆から、
薩摩・長州・土佐など→絹の着物、白足袋。
会津→麻、木綿の着物、黒足袋。
と見て分かるくらい。
金使いも
薩摩・長州・土佐など→祇園や島原で打ち上げパーティ三昧。
会津→良くて旅宿、普段は守護職屋敷で部屋飲み。
とケチ臭くて評判が悪かった。
容保の頃には国内の大商人からはブラックリスト入りしており、借り入れが出来ないので、長崎の商人・足立家や庄内酒田の本間家から借り入れが出来た。
蝦夷地や会津領内の殖産興業や金山などの開発をしたかったが、大規模なお金は国内から借り入れが出来ないので、外資を導入しようと言う話になり、プロイセン王国に直接、蝦夷地にある会津預り地の開発権を担保に金を借りる申し出をしたが、プロイセン王国宰相のビスマルクから
「面積小さいし、リターン少ないし、維持費は掛かるし、デメリットしかないよね。
フランスと全集中して殴り合いするのに、極東の揉め事に俺達を巻き込むな!」
と全力で断られた。
会津に帰る際、徳川宗家の勘定方に相談して貨幣鋳造権と小判と銀貨の鋳造器を貰い受け、お金を作り続けて、支払いに宛てた。
出来映えはパッとせず、取り引きで受け取った外国商人からの評判は悪く、贋金扱いされた。
勝海舟が明治に新聞談話で西の福岡黒田家と東の会津松平家が贋金造りの両横綱とネタにしたくらいである。
太政官は武士と地元民が共同で贋金造りに励んでいると見た為、武士と民衆を引き離す為、戊辰戦争終了後、会津松平家は下北半島に流し、福岡黒田家は廃藩置県前に有栖川宮熾仁親王が新知藩事として福岡城内に入り、事実上廃藩となった。
服装
白虎隊士は元服前の男子なので前髪を残し中剃りする若衆髷を結い、韮山笠を戴き、上半身は紺ないし黒の詰襟服を身に纏い、下半身は義経袴、鷹匠足袋に草鞋履き、大小を佩び、黒革に弾薬胴乱を腰に巻いた。
永瀬雄次16歳の様に母・
くら子が
草色の詰襟服を作って貰い、出陣した人もいる。
白虎隊のドラマだと雄次が
草色の詰襟服を着たがらないのを聞いた母が雄次に
「山野で敵と戦う時、景色に姿を溶け込ませる。さすれば手柄首を取るのも容易になろう、その母のココロが分からぬか?」
と愉し、雄次が
「
戦がしたいです……」
と
感極まった泣き顔でのタメが入り、服を受け取り着替えて出陣する。
会津武士の大半は髷を切り落としたザンギリ頭に白虎隊士と同じ出で立ち。
下半身の義経袴が若い世代になると、ズボンに変化していた。
各隊の旗印と軍服の袖につける袖印が定められた。
縦長の四角形の真ん中に「日の丸」を描くのは両者共通。
白虎(白)、朱雀(赤)、青龍(青)、玄武(黒)の四隊の区別は「日の丸」の上下に引いた横線の色()の中に書かれてある色によって付けた。
「日の丸」の上と下とで横線の意味は全く違う。
上に書かれてある横線は士中隊=二本線、寄合隊=一本線、足軽隊=線なし。
下に書かれてある横線は士中隊=左右に短い線、寄合隊、足軽隊=
布幅一杯に引かれているが、その数によって何番隊を示すところは共通していた。
白虎隊のドラマだと、「白虎隊」と書かれた旗を掲げて行進する場面があるがあれはフィクションだと、白虎隊資料館の館長は明言。
旗印や袖印、詰襟服で出陣しても、相手も似たような出で立ちなので視聴者側が理解できない。
視聴者側が理解できる様にワザと太政官側が被り物に洋服、会津側は和装に胴具足を付ける事にした、と話している。
出陣
白虎隊最初の戦死者は、足軽隊に籍を置く森新太郎16歳。
6石2人扶持の軽輩である。
慶應4年(1868)6月13日戦死とある。
会津南方の大平口に所属する部隊から欠員が出たのでその補充として参加、白河城攻略戦に従軍して戦死。
同年7月10日には松平容保の後釜として当主の地位にいる喜徳の戦況視察として白虎士中一番、二番両隊が護衛の任に就いた。
同月15日、寄合一番、二番両隊が越後国境の増援として派遣された。
同月27日、視察から帰着した士中隊の内、一番隊が翌日、前当主・容保の護衛として越後国境に派遣。
同年8月10日、越後長岡牧野家の抵抗を排除し、奥羽越列藩同盟の補給線である新潟港を占領した太政官は本格的に陸奥会津松平家攻略の軍を進めた。
越後国境・左取村の戦いに投入された寄合二番隊は星勇八16歳、百瀬外次郎17歳、小松八太郎16歳が戦死。
同年8月14日、赤谷村の戦いに投入された寄合一番隊は佐々木新六郎16歳が戦死。
寄合の両隊は他の会津軍部隊と共に国境の要衝・津川に陣地を築き、防衛戦の準備をする。
同年8月20日には東側の要衝・母成峠が攻略され、家老たちが合議の結果、佐川官兵衛を総司令官に700人の兵を与え、戸ノ口原を守備、十六橋を破壊して時間を稼ぐ作戦に出たが橋の破壊に失敗。
700人の中に含まれていた白虎士中二番隊は出陣に際し、武器庫の担当を吊し上げて、温存されていたスイス製のマンソー銃を持ち出し、隊士一同
「
元込め銃…!」
「
いや…これさえあればあんなヤツらなんかに!」
とやる気を見せ、隊長の
日向内記がメシを探しに持ち場を離れるまでは大活躍した。
ちなみに戦いによる戦死者はいなかった。
後で飯盛山で自刃した19人もいたが、残りの16人は戦い続けた元込め銃を持ち歩いて、勝手に自刃するなら、俺達に寄越せ!→他の会津武士。
安達藤三郎
池上新太郎
石山虎之助
井深茂太郎
津川喜代美
永瀬雄次
野村駒四郎
間瀬源七郎
簗瀬勝三郎
有賀織之助
石田和助
伊東悌次郎
伊藤俊彦
篠田儀三郎
鈴木源吉
西川勝太郎
林八十治
簗瀬武治
津田捨蔵
士中一番隊は同年8月23日に会津城下に雪崩込んだ太政官の軍隊を相手にしたが、苦戦続きだった。
西村四郎17歳、佐久間直記16歳が戦死。
活躍したのは山本八重だったり、水戸徳川脱走軍だったりする。
白虎足軽隊は補充要員として扱われていたが、23日に古川深松14歳は自刃、小浅安次郎17歳が戦死、高橋富太郎は同月29日に戦傷死。
士中一、二番隊は兵力消耗が著しいとの理由から同年8月25日に合併して「白虎士中隊」となり、総数は53名。
寄合の両隊は鶴ヶ城が襲われたとの報告を受け、同年8月24日に津川を撤退。
その際、高崎駒之助17歳が重傷、9月5日に戦傷死、藤森八太郎16歳は戦死。
同月29日、片門の戦いでは星八弥16歳、黒河内八十記17歳が戦死。
同年9月1日には朝立の戦いで鈴木平助17歳、山本太郎17歳が戦死。
同月5日には窪村の戦いで岸彦三郎17歳が戦死。
ここで鶴ヶ城の本営から兵力を求められ、寄合二番隊(中隊頭・太田小兵衛指揮)と寄合一番隊の14名(半隊頭・佐藤清七郎指揮)計71名を鶴ヶ城に送り、彼らは三の丸の守備に就く。
残りは寄合一番隊78名(中隊頭・原早太指揮)。
鶴ヶ城で籠城作戦を取り、奥羽越列藩同盟の出羽米沢上杉家から来援を待つ事にした陸奥会津松平家に太政官は城外に大砲50門を揃え、祝砲代わりに一日2500発の砲弾が浴びせた。
その最中に白虎足軽隊に籍を置く椎野恒四郎14歳、鈴木久五郎15歳が戦死。
同年9月14日、砲撃への対抗策として
山本八重と
川崎尚之助指揮の砲兵が砲撃を仕掛けて敵を引き付け、その隙に敵の砲台に三の丸守備の白虎寄合隊、西出丸を守備する白虎士中隊が
吶喊するという作戦が実施された。
攻撃は失敗、陣頭指揮の佐藤清七郎41歳、二番隊の青山重之助17歳、安恵助三郎16歳が戦死。
白虎士中隊に死傷者は無かった。
結果として、城内にいる白虎隊士はこれが最後の戦いになった。
唯一、城の外にいる白虎寄合一番隊は他の会津軍部隊と共に城下を包囲する敵と交戦、9月15日、17日の一ノ堰の戦いで勝利を納めたが、中隊頭の原早太37歳が戦死、若林八次郎16歳、鈴木五郎16歳、樋口勇四郎16歳、池田勇太郎17歳、好川滝三郎16歳、関原繁太郎17歳、木村次郎17歳、江川次郎八17歳も戦死し、78名中9名を失い、原の変わりに望月辰太郎が代行に就任した。
この白虎寄合一番隊は敵の武器を奪いながら武装を強化するという、
ゲームみたいな事をしており、指揮官が敵から奪ったスペンサー銃を携え乱発し、白虎隊士は敵から奪ったエンフィールド銃で武装して、敵の死体から弾薬や雷管を奪うといった強かな一面を見せている。
そんな抜け目ない一面を見せた彼らを会津松平家首脳陣は大絶賛、望月は代行から隊長に昇格、隊士の身分は上級武士に格上げ、隊名も白虎寄合一番隊改めて白虎士中二番隊とした。
城で籠城中の白虎士中隊は白虎士中一番隊になった。
終戦
会津松平家は明治元年(1868)9月22日に太政官に降伏。
城で籠城していた人は猪苗代の謹慎所、城の外で戦っていた人は塩川の謹慎所に収容された。
寄合一番隊の遠藤嘉竜二は謹慎所で体調が悪化し、10月7日に死去した。
明治二年(1869)に再編され、東京と越後高田藩に分けて送られた。
明治三年(1870)1月3日下北半島に斗南藩として復活した。
生き残った白虎隊士はそこで過す事になった。
白虎隊の生死は、
士中一番隊…37名中、戦死3名。
士中二番隊…37名中、戦死0名、自刃者19名。
寄合一番隊…98名中、戦死15名。
寄合二番隊…62名中、戦死7名。
白虎足軽隊…71名中、戦死5名、自刃者1名。
合計 305名中、戦死37名、自刃者20名。
会津松平家の民衆は戦後、孝明天皇の正義の為に働いた武士階級に一揆という形でしっぺ返しをしたが、太政官の戦後行政は民衆が望んだ形にならず、明治5年(1872)に旧会津武士の渡辺悌輔が越後で新政反対、廃仏毀釈反対、徳川恢復、逆賊征伐を謳い文句に1万人が参加する一揆の首謀者になった。一揆は直ぐに鎮圧され、渡辺らは処刑されたが県知事は更迭された。
武士階級が斗南藩から廃藩置県後、会津に戻り民衆と仲良くしていた事を考えると、孝明天皇の正義に誰も良い思いをした人はいなかったんだな、と考えてしまう。
その後
明治6年の政変で西郷派の官僚や軍人、警官が退職し、明治7年(1874)、警視庁創設に伴い初代大警視(現:警視総監)に就任した川路利良の警官採用の勧誘により採用された人は多い。
白虎隊の話はその後大日本帝國により、忠君愛国教育の鏡として使われる。
明治35年(1902)、唱歌の教科書として『白虎隊』が出版、明治36年(1903)には国定教科書の『尋常小学校史』などには白虎隊の飯盛山の自刃の場面が出て来る。
大正9年(1920)
イギリスでボーイスカウト第1回ジャンボリーが開催、34ヵ国6千人が参加し、日本代表の3人にボーイスカウト創立者の
ベーデン=パウエルは
「日本の白虎隊のココロこそ、我々ボーイスカウトの模範である」
と伝えた。
昭和3年(1928)にはイタリア政府から古代ローマ時代の石柱を贈られ、昭和10年(1935)にはドイツ政府の書記官・
エッツドルフが石碑を寄贈した。
イタリアとドイツはアメリカからイチャモンを付けられたが、ボーイスカウトはそうならなかった。
ドラマ化
過去に三作、映像化されている。
1986年12月30日・12月31日に日本テレビ系列で放送されたユニオン映画製作の時代劇。
『年末時代劇スペシャル』の第2作。
初日(前編)・2日目(後編)で放送された。
ある意味、白虎隊のテンプレみたいな作品である。
主演は
森繁久彌で白虎隊士は当時若手俳優の
坂上忍、
宮川一朗太、
高野浩和、
柳沢伸悟などが演じた。
中川翔子の父親・
中川勝彦が
新選組の
沖田総司を演じていた。
2007年1月6日と7日に
テレビ朝日系で放送された東映と
テレビ朝日が共同製作した新春スペシャルドラマ。
主演は
山下智久。
1993年に
酒井峰治の手記が発見され、峰治の目線から白虎隊を描く。
飯盛山の自刃はあるのだが、基本脇役扱い。
峰治はそこにいないから。
製作協力:
ジャニーズ事務所である。
2013年1月2日に新春ワイド時代劇『白虎隊〜敗れざる者たち』として放映された
テレビ東京のテレビドラマ。
主演は
北大路欣也演じる家老・
西郷頼母の視点から幕末の会津を描いた作品である。
ユニオン映画が当シリーズで初めて制作に関わっているが、同社は1986年の年末時代劇スペシャルのヒット作「白虎隊」(日本テレビ系)を制作した実績があった。
追記・修正をお願いします。
- 東大総長の一人でオカルト方面では福来友吉との千里眼論争でも有名な山川健次郎も元白虎隊士。 -- 名無しさん (2024-06-30 22:05:19)
- 自分は会津若松出身だけどさ、白虎隊のことばかり子供に教えて幕末会津藩の農民の窮乏やヤーヤー一揆のこと地元でもまるで教えないのどうかと思ってるよ。大概の市民は農民の子孫だろうに -- 名無しさん (2024-06-30 22:16:13)
- 最近日本史の項目建てが多いけど同じ人かな?白虎隊はやってる事は大体奇兵隊なんでまあ発想としては悪くないと思うがいかんせん訓練期間が足りなかったのかもな -- 名無しさん (2024-06-30 22:58:16)
- 最後のイタリアとドイツはアメリカからイチャモンを付けられたが、ボーイスカウトはそうならなかった。はどういう意味ですか? -- 名無しさん (2024-07-01 00:30:12)
- ↑イタリアとドイツは三国同盟のファシズム仲間。その視点でアメリカから石柱と石碑を撤去しろ!と求められた。石柱は撤去されたが、石碑は撤去を免れた。ボーイスカウトはイギリス陸軍中将であったベーデン=パウエルが1906年と1907年に少年向けの偵察・斥候術の本を著したのが起源。戦争につながると敗戦後の占領政策により活動禁止処分を受けた。旧子爵であった三島通陽、元新聞記者の村山有が中心にダグラス・マッカーサー元帥への請願によって活動の再開が許可。一般への普及が図られた。 -- 名無しさん (2024-07-01 01:30:02)
- 飯盛山での自決は白虎隊でかなり有名で悲しい事件だったんだけど、えらくサクッと書いてるね? -- 名無しさん (2024-07-01 01:57:19)
- ↑飯盛山の自刃した白虎隊士だけが全てではないし、白虎隊全体を見渡したら寄合の子弟が遥かに活躍しているから。 -- 名無しさん (2024-07-01 03:00:10)
- 年齢順にするなら玄冬→青春→朱夏→白秋ということで、最年少は玄武隊が妥当と思うのだが、なんで「白虎」だったんだろ -- 名無しさん (2024-07-01 10:34:18)
- 福島のご当地ちいかわに白虎隊のやつがある ちいかわ泣いちゃってる -- 名無しさん (2024-07-01 11:06:31)
- おお、ありゃ白虎隊の狼煙じゃねえか、あれがあいずだったんだな -- 名無しさん (2024-07-01 12:08:50)
- ちなみに会津藩では積極的に官軍に味方する農民もいたとか -- 名無しさん (2024-07-01 13:12:59)
- ↑太政官は戊辰戦争中、敵対関係にある大名家の民衆に年貢半減令を呼び掛けた。民衆は年貢半減令が美味しいと支配層に反発、非協力的になった。会津に非協力的→敵とみなして会津武士が焼き討ち→報復で太政官に協力→戊辰戦争後、会津武士が人誅でお返し。周りの人たちも襲われた農民が恩賞で贅沢な暮らしをしやがってと妬みの眼差しで見ているから、意外と人誅に協力的だった。恩賞を貰った農民も人誅の対象から外れるべく、質素な生活を振舞う事で逃げようとしたが、会津武士に嗅ぎ付けられ、人誅を達成した。中には福島事件など自由民権運動の時に人誅を行った粘り強い奴もいたから。自由民権運動ぐらいまで来ると会津は徳川時代も、その後の太政官の統治も五十歩百歩と醒めた目で見るからね。 -- 名無しさん (2024-07-01 15:11:48)
- 時流を読めないアホ集団のイメージしかない -- 名無しさん (2024-07-01 15:16:38)
- ↑イギリスのボーイスカウト「おっそうだな」 -- 名無しさん (2024-07-01 16:00:43)
- ↑2三島由紀夫と楯の会「呼んだか?」 -- 名無しさん (2024-07-01 17:44:57)
- ↑3成田空港建設反対派「何だか、私達バカにされているみたいなんですが?」 -- 名無しさん (2024-07-01 17:46:46)
- ↑4でも一時は政権の中枢とかになってたんだよ会津…それが藩ではなく情報機関としての会津だっただけで -- 名無しさん (2024-07-01 22:38:31)
- 恥ずかしながら歴史に無知なもんで、今まで「飯盛山での自決で全滅してしまった悲劇の集団」だと思ってたわ… -- 名無しさん (2024-07-02 02:25:09)
- 飯盛山は高校生の時に母と旅行で行ったんだけど、「アンタぐらいの年頃の子達がって考えるとクるものがある」って言われたよ -- 名無しさん (2024-07-02 06:07:34)
- シナプス艦長とアスランいて草 -- 名無しさん (2024-07-02 21:20:29)
- ↑シン・アスカもいますよ〜 -- 名無しさん (2024-07-02 21:38:04)
- 俺のコメント消すのは別にいいんだけどちゃんと荒らし報告とかコメント整理ページで申請出して許可取った?そういう手続きはちゃんとしなきゃだめよ -- 名無しさん (2024-07-03 02:31:36)
- 幕末モチーフのガンダムといえばセンチネル、でもコズミック・イラであの話はできるのかな? -- 名無しさん (2024-07-03 22:55:46)
- ↑鉄血のオルフェンズが幕末モチーフ。そもそも、センチネルの脚本家が「富野監督はΖで幕末をモデルにして幕末の話をしようと見えたから、センチネルは露骨に幕末の話にした」と語っている。逆シャアが西南戦争なら、ZZは二卿事件みたいな攘夷派の粛清劇になるのかな。 -- 名無しさん (2024-07-04 02:27:47)
- 白虎隊=自刃で全滅としか思ってなかったから意外と生き残っててびっくり -- 名無しさん (2024-07-04 17:41:36)
- 小学生の時の修学旅行の思い出だが・・・そこで演技見て全滅・・・というよりみな自害のイメージが -- 名無しさん (2024-07-05 09:27:06)
- とにかく、予算にも人材にも恵まれない状況の中なんとかして組織を運営して戦争をしなくちゃならないというのがどれだけ大変なのかということだけは分かった。 -- 名無しさん (2024-07-05 12:10:19)
- 徳川宗家の勝海舟が慶應4年(1868)の6月2日の日記で海軍副総裁•榎本武揚や陸軍副総裁•白戸石介に話しているけど、会津は慶喜に忠誠なんかしちゃいない。会津は徳川の社会秩序や体制に忠誠を誓っている(=孝明天皇が宸翰で守れと示した)だけだと。あいつ等の言う事を信じるとイタい目にあうぞと警告している。勝は友人の神保の身柄を徳川宗家で保護しようとして会津のせいで失敗し詰め腹を切らされていると信じているので、会津に辛口である。 -- 名無しさん (2024-07-06 21:52:02)
- 自分も白虎隊=勘違いで全員自殺のピエロなイメージしかなかったから、それを覆してくれるいい項目だった。ありがとうございます。 -- 名無しさん (2024-07-08 07:20:48)
- 白虎隊を不謹慎にもばっこ(注:会津弁でう〇こ)隊呼ばわりして喜ぶのは会津小学生男子が誰でも通る道 -- 名無しさん (2024-07-11 21:44:54)
- 西周が会津松平家が降伏した話を聞いたら、会津は殿様が安心して京都に集中出来る様に内政を見てくれる山田方谷の様な人がいないのが残念だと話していたな。門閥筆頭の西郷頼母はプライドだけが高いし、一番マトモな家老の横山主税は過労死(元治元年=1864=5月に病に倒れ、8月7日死去)するし、後を引き継いた首席家老の梶原平馬は大山巌とタメ年(1842)で発展途上、天保年代の世代が会津で目立ったのが佐川官兵衛や神保修理くらいで弱かったよな。アニヲタが好きな手代木は西郷隆盛、小栗忠順、河井継之助の一つ上。秋月、野村、外島、小森、南摩綱紀、倉沢右兵衛らは更に上の年代。 -- 名無しさん (2024-08-01 11:41:51)
- 何で磐梯山なんか見たことない新政府軍が道に迷わずに鶴ヶ城下まで来てんのに自分たちのホームグラウンドで戦って目的地にたどり着けんのだよ…会津に限らず保幕派の軍司令官たちは少し問題があるような。 -- 名無しさん (2025-04-28 20:58:03)
- ↑寄合の白虎隊がマトモに戦力になっていたが、彼らは日新館に通学しない分、仕事で会津領内を歩いているから、場所は憶えているが、士中は日新館と城下町と猪苗代湖くらいしか歩かないからな。 -- 名無しさん (2025-04-28 21:23:20)
最終更新:2025年04月28日 21:23