白虎隊

登録日:2024/06/30(日) 21:15:00
更新日:2025/04/28 Mon 21:23:20
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白虎隊(びゃっこたい)とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、陸奥会津松平家によって組織された軍事組織。
日本で最も有名な少年兵集団と言っても過言ではないだろう。

飯盛山での自刃」が有名だが、これは士中二番隊…つまり白虎隊のうち一部隊の隊員達によるもの。
当項目では「白虎隊」そのものについて解説していく。




前夜

慶應4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた陸奥会津松平家。

大坂城にいた徳川宗家当主・徳川(とくかわ)慶喜(よしのぶ)*1が陸奥会津松平家当主・松平(まつだいら)容保(かたもり)*2、伊勢桑名松平家当主・松平(まつだいら)定敬(さだあき)*3、備中松山板倉家当主・板倉(いたくら)勝静(かつきよ)*4ら僅かの供を連れて軍艦・開陽*5に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした
ウィルヘルム・フォン・リッテンハイム3世「おお!同士よ!」
アーサー・リンチ「お前も同じだな。」

当主が夜逃げ、戦場にいる部下を見捨てるという前代未聞の事態をやらかした松平容保は家臣団に頭が上がらなくなってしまい、更に慶應4年(1868)1月20日、徳川慶喜は負傷者が収容されている陸奥会津松平家中屋敷に来訪して夜逃げの顛末を話し、夜逃げを謝罪したのだが、高津(たかつ)仲三郎(ちゅうざぶろう)*6という負傷した武士が

「どの面下げてここに来た?」

「夜逃げの言い訳なんか要らないんだよ!」

「降参するなら、なんで大坂城で降参しなかった?」

「なんで大坂城の大広間でオレ達の戦意を煽る発言をした?」

「そもそも何の為の謝罪だ?」

「負けた事?夜逃げした事?」

「要するに謝罪している姿勢を見せているだけでしょう?
心が籠もっていないの、ミエミエだから!
要らないよ、そんな謝罪!カエレ!カエレ!」

と言いたい放題。
また、徳川慶喜も全てやらかした後なので、ぐうの音も出ない、しかも、高津は戦場で命を賭けて戦い死にかけた後で、憤懣やる方ないといった様子。
一応、陸奥会津松平家には徳川宗家当主に忠節を尽くせ!という家訓はある*7のだが、すでにリミッターは解除されている模様である。
高津が徳川慶喜を公開処刑した後、会津武士たちから
「カエレ!」
の大合唱、慶喜は逃げ出した。

家訓に基づき忠節を尽くすなら慶喜の夜逃げを赦して、認めなければならないが、陸奥会津松平家は宗家当主・慶喜に罵声を浴びせて退散させ、徳川宗家への忠節を切り捨てた。

陸奥会津松平家が家財の全てを傾けて孝明天皇の為*8戦って来た事が正しかった事を示す為に戦って勝つしかなかった。

家臣団に対して、慶喜に夜逃げを説いたとして神保(じんぼ)修理(しゅり)*9に詰め腹を切らせ、容保が夜逃げの一件で不倫がバレた有責配偶者の様に土下座謝罪をする事で家臣団も
「次はないからな!覚悟しとけよ!」
と憤懣を収めてくれた。
※ちなみに神保が慶喜に説いたのは、『戦闘を停止し、大坂城まで全軍撤退させ、恭順の方針を全軍に伝えてから、大坂城を退いて江戸に戻る』という策だったのだが、現実に慶喜がしたのは煽りと夜逃げなので、神保もあ然としていた。

創設

負けた要因は、武器の差、武器に合わせた戦い方とその熟練度の差など様々あるが、ひとまず、年齢別に再編成して、農民、町人を集めて洋式軍隊にする事にした。

以前は長沼流軍学*10で編成されていたが、禁門の変で長州毛利家に苦戦させられたので、やり方を改めたいと京都詰の家臣から提案は有った。

国許や江戸からは今もそのやり方で勝っているから、やり方は変えません!と断られ、京都の連中が金食い虫だから軍備は変えられないよ!ともイヤミを言われた。

家訓を逆手に取り将軍の圧力を使い、慶應3年(1867)の3月から会津に徳川陸軍から歩兵指図役頭取・畠山(はたけやま)五郎七郎(ごろうしちろう)、砲兵指図役・布施(ふせ)七郎(しちろう)、騎兵指図役・梅津(うめづ)金弥(きんや)3人を招いてフランス式の軍隊にする予定が、慶喜の都合で延期になり今年にずれ込んだ*11
山本(やまもと)覚馬(かくま)*12の斡旋で9月には赤松(あかまつ)小三郎(こさぶろう)*13を京都に招いてイギリス式の訓練を施して洋式軍隊にする予定が薩摩島津家のテロ*14で赤松が暗殺され有耶無耶にされたりで、第一歩すら踏めなかったのが会津である。

前置きが長くなったが、年齢別に再編成した結果、
15〜17歳→白虎隊:士中1番37名、士中2番37名。寄合1番98名、寄合2番65名、足軽71名は組織されたが各地に生じた負傷兵を補う補充兵として充てがわれ、流れ解散
18〜34歳→朱雀隊:士中4隊、寄合4隊、足軽4隊の合計12隊。1隊は各100名編成で総勢1200名
35〜49歳→青龍隊:士中3隊、寄合2隊、足軽4隊の合計9隊。1隊は各100名編成で総勢900名
50歳以上→玄武隊:士中1隊、寄合1隊、足軽2隊の合計4隊。1隊は各100名編成で総勢400名
となった。
会津松平家の洋式軍隊は、
  • 一隊100名の中隊として組織。
  • 一中隊は二小隊(50名)に分かれて小隊頭(=小隊長)二人の指揮下で動く。
  • 小隊は二つの半隊(25名)に分かれて一つは小隊頭が、残りの半隊を半隊頭(=半隊長)の指揮下で動く。
  • 指揮官は中隊頭(=中隊長)✕1 小隊頭(=小隊長)✕2 半隊頭(=半隊長)✕2

の5人。
全体の指揮系統は中軍(当主を総司令官とする総司令部)→陣将(家老)*15→軍事奉行*16→軍事奉行添役*17→幌役*18
隊名は中国の4つの軍神から。
この4つの部隊が約2800名、禁門の変、鳥羽伏見の戦いを戦い抜いてきた砲兵隊、他に農民、町人、坊主、力士、猟師などで使えそうな人をかき集めて洋式訓練を施して頭数は7000名まで膨れ上がる。
ラインハルト・フォン・ローエングラム「数だけはいる様だか、さて、どれだけ残っているやら?」

会津松平家は家柄に応じて上級武士の士中、中級武士の寄合、下級の足軽と存在するので、そこで分けた。

御家存亡の危機に身分別とは?というツッコミがあるが、会津松平家は京都守護職就任から鳥羽伏見の戦いで敗れるまで、公用局という松平容保の頭脳集団が身分、年齢、学歴にとらわれる事なく、実力本位で選ばれた人たちが、胸ぐらをつかむくらいの本音むき出しの討論を積み重ねて政治、軍事、外交、財政を切り盛りしていた。



実力主義から門閥主義へ逆噴射してしまった。

課題


さて、洋式軍隊を作ると言っても、会津松平家は公用局に優秀な人材を全集中してしまい、更に軍事面の人材も山本覚馬が行方不明*20(はやし)権助(ごんすけ)は戦死、この二人が籍を置いていた砲兵隊が残り少ない優秀な人材を独占*21
会津松平家に助っ人で参加した奥医師・松本(まつもと)良順(りょうじゅん)は回想録で

「鳥羽伏見の戦いで亡くなった140人の会津武士は珠玉の逸品という逸材ばかり。武士の中の武士と呼ぶに相応しい逸材だった。で、国許に行くと、武芸と儒学は成績優秀だけど、競争ばかりしてきたから、自己主張だけが強い、協調性がない、他責思考、視野が狭い、とこれが本当に京都で会った会津武士と同じ生き物なのか?と疑った」

と人材の落差に驚いている。

徳川宗家を離れたフランス陸軍軍人や徳川陸軍の軍人を招いて、促成栽培でフランス式軍隊や軍人を育成した。

結果は敵として戦った板垣(いたがき)退助(たいすけ)
「最初の方は動きがバラバラで、全然統一感がなく、号令を聞いてから次に動くまで動きに迷いの有る奴がいたから潰すのは余裕だったが、途中から西洋式の戦いに慣れて、号令にすぐ反応するくらい動きが機敏で統一感があり、多少の武器の性能差を地形を利用する事で相殺して接近戦を挑むくらいに上手くなり、最初みたく武器の性能差と西洋式の戦い方に不慣れな部分を突付いてゴリ押ししたら勝てる相手ではなくなった」

と記している。

白虎隊士は鶴ヶ城三の丸にて午前9時〜午後4時までフランス式軍事教練を受けた。

会津でフランス式軍事教練を担当していた沼間(ぬまま)守一(もりかず)
「子供たちが素直で一番成長が速い」
とベタ褒め。
大人たちについては、
使えないな
と酷評。
儒学、家訓、掟、心得などの固定観念が邪魔して新しい物事を受け入れるのを邪魔していると、批評していた。

武器は山本覚馬と長崎にいるカール・レーマン(プロイセン商人)がドライゼ撃針銃*234300挺を慶應3年(1867)5月11日に購入契約締結となったが、代金引換で現物はプロイセン本国からの取り寄せになる*24ので、入荷は一年先になるというモノだった*25

山本覚馬が行方不明になると、兵器購入ルートが途絶えてしまい、最終的に越後長岡牧野家の河井継之助の斡旋で自称オランダ人のシュネル兄弟から武器を購入した。

短期間に大量の統一された規格の武器を揃えるというのは、スネル兄弟のみならず、長崎のグラバー*26でも無理だと思う。

その為、武器に関しては数も質も足らず、新型の元込め銃は会津松平家が数が少ないレアアイテム*27だからか出し惜しむ傾向にあった。
当時の標準的な小銃である先込め施条式の椎の実弾を使うミニエー銃、エンフィールド銃はあったが、絶対数が足らず、朱雀隊や砲兵隊に優先的に配備された。
他の部隊には一世代前の先込め滑空式の丸弾を使うゲベール銃、火縄銃まで投入していたが、武器の差は厳しく、補給がアテにならないと敵の死体や補給部隊から武器や弾薬を鹵獲して自分の武装を更新する兵士も出ていた。
戊辰戦争中盤からの陸奥会津松平家は武器の性能差も縮まり、西洋式の戦いにも慣れ、太政官側に同数の損害を与えるようになったが、指揮官の価値観が前の時代のままなので、最前線に出ては銃撃を浴びて戦死がザラで、指揮官や指揮系統の再編が日常茶飯事だった*28

大砲に関しては当時の日本の道路事情が貧弱で、重い大砲では前に進まない為、四斤山砲など軽量で分解可能な山砲が、山がちで輓曳用道路の整備も不十分な地理事情、軍馬不足という軍備状況に適合していた。
分解すれば馬2頭に駄載することが可能で、山岳地帯での運用に適していた。
一方、野砲では馬8頭が牽引に必要だった。
青銅砲なので、材料も国内調達が容易で鉄製砲よりも技術的に製造が容易だった。
発射速度を除けば最新式の後装砲にも劣らない性能だった。
この大砲は陸奥会津松平家も数多く保有していたので後れを取らなかった。
戊辰戦争後半は補給が途絶えがちで弾薬の調達に苦労した。


会津松平家の財政は、
「おい、金がないぞ」
借金を「借りてしまえばこちらのものだ」
というモノだった。

寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津最大の百姓一揆が勃発した。
首謀者の処刑と入牢などを行ない鎮圧したが、農民達は徳川幕府に申し出て、寛延4年7月(1751年)に幕府より国目付が派遣*29され年貢減免などの緩和策が取られ、一度財政破綻寸前*30まで追い込まれた。
天明5年(1785年)から財政再建を行い成功した*31が、幕府から余裕あるよね〜って樺太*32、三浦半島*33、房総半島*34、お台場*35、蝦夷地*36と警備を割り振られ、負担は重かった*37

トドメが京都守護職の約1000人派遣である。

服装

白虎隊士は元服前の男子なので前髪を残し中剃りする若衆髷(わかしゅまげ)を結い、韮山笠(にらやまかさ)*40を戴き、上半身は紺ないし黒の詰襟服を身に纏い、下半身は義経袴、鷹匠足袋に草鞋履き、大小を佩び、黒革に弾薬胴乱を腰に巻いた。

永瀬雄次(ながせゆうじ)16歳の様に母・くら子草色の詰襟服を作って貰い、出陣した人もいる。
白虎隊のドラマだと雄次が草色の詰襟服を着たがらないのを聞いた母が雄次に
「山野で敵と戦う時、景色に姿を溶け込ませる。さすれば手柄首を取るのも容易になろう、その母のココロが分からぬか?」
と愉し、雄次が
戦がしたいです……
感極まった泣き顔でのタメが入り、服を受け取り着替えて出陣する。

会津武士の大半は髷を切り落としたザンギリ頭に白虎隊士と同じ出で立ち。
下半身の義経袴が若い世代になると、ズボンに変化していた。

各隊の旗印と軍服の袖につける袖印が定められた。
縦長の四角形の真ん中に「日の丸」を描くのは両者共通。
白虎(白)、朱雀(赤)、青龍(青)、玄武(黒)の四隊の区別は「日の丸」の上下に引いた横線の色()の中に書かれてある色によって付けた。
「日の丸」の上と下とで横線の意味は全く違う。
上に書かれてある横線は士中隊=二本線、寄合隊=一本線、足軽隊=線なし。
下に書かれてある横線は士中隊=左右に短い線、寄合隊、足軽隊=
布幅一杯に引かれているが、その数によって何番隊を示すところは共通していた。

白虎隊のドラマだと、「白虎隊」と書かれた旗を掲げて行進する場面があるがあれはフィクションだと、白虎隊資料館の館長は明言。
旗印や袖印、詰襟服で出陣しても、相手も似たような出で立ちなので視聴者側が理解できない。
視聴者側が理解できる様にワザと太政官側が被り物に洋服、会津側は和装に胴具足を付ける事にした、と話している。


出陣


白虎隊最初の戦死者は、足軽隊に籍を置く森新太郎(もりしんたろう)16歳。
6石2人扶持の軽輩である。
慶應4年(1868)6月13日戦死とある。
会津南方の大平口に所属する部隊から欠員が出たのでその補充として参加、白河城攻略戦に従軍して戦死。

同年7月10日には松平容保の後釜として当主の地位にいる喜徳(のぶのり)*41の戦況視察として白虎士中一番、二番両隊が護衛の任に就いた。
同月15日、寄合一番、二番両隊が越後国境の増援として派遣された。
同月27日、視察から帰着した士中隊の内、一番隊が翌日、前当主・容保の護衛として越後国境に派遣。

同年8月10日、越後長岡牧野家の抵抗を排除し、奥羽越列藩同盟の補給線である新潟港を占領した太政官は本格的に陸奥会津松平家攻略の軍を進めた。

越後国境・左取村(さとりむら)の戦いに投入された寄合二番隊は星勇八(ほしゆうはち)16歳、百瀬外次郎(ももせほかじろう)17歳、小松八太郎(こまつはちたろう)16歳が戦死。

同年8月14日、赤谷村(あかだにむら)の戦いに投入された寄合一番隊は佐々木新六郎(ささきしんろくろう)16歳が戦死。

寄合の両隊は他の会津軍部隊と共に国境の要衝・津川(つがわ)に陣地を築き、防衛戦の準備をする。

同年8月20日には東側の要衝・母成峠(ぼなりとうげ)が攻略され、家老たちが合議の結果、佐川官兵衛(さがわかんべえ)を総司令官に700人の兵を与え、戸ノ口原を守備、十六橋(じゅうろっきょばし)を破壊して時間を稼ぐ作戦に出たが橋の破壊に失敗。

700人の中に含まれていた白虎士中二番隊は出陣に際し、武器庫の担当を吊し上げて、温存されていたスイス製のマンソー銃*42を持ち出し、隊士一同
元込め銃…!
いや…これさえあればあんなヤツらなんかに!
とやる気を見せ、隊長の日向内記(ひなたないき)がメシを探しに持ち場を離れるまでは大活躍した。
ちなみに戦いによる戦死者はいなかった。

後で飯盛山で自刃した19人もいたが、残り*43の16人は戦い続けた元込め銃を持ち歩いて、勝手に自刃するなら、俺達に寄越せ!→他の会津武士



士中一番隊は同年8月23日に会津城下に雪崩込んだ太政官の軍隊を相手にしたが、苦戦続きだった。
西村四郎(にしむらしろう)17歳佐久間直記(さくまなおき)16歳が戦死。
活躍したのは山本八重(やまもとやえ)*44だったり、水戸徳川脱走軍*45だったりする*46

白虎足軽隊は補充要員として扱われていたが、23日に古川深松(ふるかわふかまつ)14歳は自刃、小浅安次郎(こあさやすじろう)17歳が戦死、高橋富太郎(たかはしとみたろう)は同月29日に戦傷死。

士中一、二番隊は兵力消耗が著しいとの理由から同年8月25日に合併して「白虎士中隊」となり、総数は53名。

寄合の両隊は鶴ヶ城が襲われたとの報告を受け、同年8月24日に津川を撤退。
その際、高崎駒之助(たかさきこまのすけ)17歳が重傷、9月5日に戦傷死、藤森八太郎(ふじもりはちたろう)16歳は戦死。
同月29日、片門(かたかど)の戦いでは星八弥(ほしはちや)16歳、黒河内八十記(くろこうちやそき)17歳が戦死。
同年9月1日には朝立(あさだち)の戦いで鈴木平助(すずきへいすけ)17歳、山本太郎(やまもとたろう)17歳が戦死。
同月5日には窪村(くぼむら)の戦いで岸彦三郎(きしひこさぶろう)17歳が戦死。

ここで鶴ヶ城の本営から兵力を求められ、寄合二番隊(中隊頭・太田小兵衛(おおたこへい)指揮)と寄合一番隊の14名(半隊頭・佐藤清七郎(さとうせいしちろう)指揮)計71名を鶴ヶ城に送り、彼らは三の丸の守備に就く。

残りは寄合一番隊78名(中隊頭・原早太(はらはやた)指揮)。

鶴ヶ城で籠城作戦を取り、奥羽越列藩同盟の出羽米沢上杉家から来援を待つ事にした陸奥会津松平家に太政官は城外に大砲50門を揃え、祝砲代わりに一日2500発の砲弾が浴びせた。

その最中に白虎足軽隊に籍を置く椎野恒四郎(しいのつねしろう)14歳、鈴木久五郎(すずきひさごろう)15歳が戦死。

同年9月14日、砲撃への対抗策として山本八重川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)*47指揮の砲兵が砲撃を仕掛けて敵を引き付け、その隙に敵の砲台に三の丸守備の白虎寄合隊、西出丸を守備する白虎士中隊が吶喊するという作戦が実施された。

攻撃は失敗、陣頭指揮の佐藤清七郎41歳、二番隊の青山重之助(あおやましげのすけ)17歳、安恵助三郎(やすえすけさぶろう)16歳が戦死。

白虎士中隊に死傷者は無かった。

結果として、城内にいる白虎隊士はこれが最後の戦いになった。

唯一、城の外にいる白虎寄合一番隊は他の会津軍部隊と共に城下を包囲する敵と交戦、9月15日、17日の一ノ堰(いちのせき)の戦いで勝利を納めたが、中隊頭の原早太37歳が戦死、若林八次郎(わかばやしはちじろう)16歳、鈴木五郎(すずきごろう)16歳、樋口勇四郎(ひぐちゆうしろう)16歳、池田勇太郎(いけだゆうたろう)17歳、好川滝三郎(よしかわたきさぶろう)16歳、関原繁太郎(せきはらしげたろう)17歳、木村次郎(きむらじろう)17歳、江川次郎八(えがわじろうはち)17歳も戦死し、78名中9名を失い、原の変わりに望月辰太郎(もちづきたつたろう)が代行に就任した。

この白虎寄合一番隊は敵の武器を奪いながら武装を強化するという、ゲームみたいな事をしており、指揮官が敵から奪ったスペンサー銃を携え乱発し、白虎隊士は敵から奪ったエンフィールド銃で武装して、敵の死体から弾薬や雷管を奪うといった強かな一面を見せている。

そんな抜け目ない一面を見せた彼らを会津松平家首脳陣は大絶賛、望月は代行から隊長に昇格、隊士の身分は上級武士に格上げ、隊名も白虎寄合一番隊改めて白虎士中二番隊とした。

城で籠城中の白虎士中隊は白虎士中一番隊になった。

終戦

会津松平家は明治元年*48(1868)9月22日に太政官に降伏*49

城で籠城していた人は猪苗代の謹慎所、城の外で戦っていた人は塩川の謹慎所に収容された。

寄合一番隊の遠藤嘉竜二(えんどうかりゅうじ)は謹慎所で体調が悪化し、10月7日に死去した。

明治二年(1869)に再編され、東京と越後高田藩に分けて送られた。

明治三年(1870)1月3日下北半島に斗南藩として復活した。

生き残った白虎隊士はそこで過す事になった。

白虎隊の生死は、
士中一番隊…37名中、戦死3名。
士中二番隊…37名中、戦死0名、自刃者19名。
寄合一番隊…98名中、戦死15名。
寄合二番隊…62名中、戦死7名。
白虎足軽隊…71名中、戦死5名、自刃者1名。
合計   305名中、戦死37名、自刃者20名。

その後

明治6年の政変で西郷派の官僚や軍人、警官が退職し、明治7年(1874)、警視庁創設に伴い初代大警視(現:警視総監)に就任した川路(かわじ)利良(としよし)の警官採用の勧誘により採用された人は多い*50

白虎隊の話はその後大日本帝國により、忠君愛国教育の鏡として使われる。

明治35年(1902)、唱歌の教科書として『白虎隊』が出版、明治36年(1903)には国定教科書の『尋常小学校史』などには白虎隊の飯盛山の自刃の場面が出て来る。

大正9年(1920)イギリスでボーイスカウト第1回ジャンボリーが開催、34ヵ国6千人が参加し、日本代表の3人にボーイスカウト創立者のベーデン=パウエル
「日本の白虎隊のココロこそ、我々ボーイスカウトの模範である」
と伝えた。
昭和3年(1928)にはイタリア政府から古代ローマ時代の石柱を贈られ、昭和10年(1935)にはドイツ政府の書記官・エッツドルフが石碑を寄贈した。
イタリアとドイツはアメリカからイチャモンを付けられたが、ボーイスカウトはそうならなかった。

ドラマ化

過去に三作、映像化されている。

  • 日テレ版
1986年12月30日・12月31日に日本テレビ系列で放送されたユニオン映画製作の時代劇。
『年末時代劇スペシャル』の第2作。
初日(前編)・2日目(後編)で放送された。
ある意味、白虎隊のテンプレみたいな作品である。
主演は森繁久彌で白虎隊士は当時若手俳優の坂上忍宮川一朗太高野浩和柳沢伸悟などが演じた。
中川翔子の父親・中川勝彦新選組沖田総司を演じていた。

  • テレ朝版
2007年1月6日と7日にテレビ朝日系で放送された東映とテレビ朝日が共同製作した新春スペシャルドラマ。
主演は山下智久
1993年に酒井峰治の手記が発見され、峰治の目線から白虎隊を描く。
飯盛山の自刃はあるのだが、基本脇役扱い。
峰治はそこにいないから。
製作協力:ジャニーズ事務所である。

  • テレ東版
2013年1月2日に新春ワイド時代劇『白虎隊〜敗れざる者たち』として放映されたテレビ東京のテレビドラマ。
主演は北大路欣也演じる家老・西郷頼母の視点から幕末の会津を描いた作品である。
ユニオン映画が当シリーズで初めて制作に関わっているが、同社は1986年の年末時代劇スペシャルのヒット作「白虎隊」(日本テレビ系)を制作した実績があった。




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最終更新:2025年04月28日 21:23

*1 日本国大君として国家元首を外国公使に宣言している

*2 前京都守護職

*3 前京都所司代

*4 首席老中

*5 慶應元年(1865)2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*6 戊辰戦争後は中原成業を名前を変えて反政府テロリストとして活動。明治9年の思案橋事件で捕まり斬首

*7 三代将軍・徳川家光の弟で初代当主の保科正之が制定した15箇条からなる憲法みたいなモノ。後述

*8 =孝明天皇が宸翰で守れと示した徳川の社会秩序や体制の為

*9 味方より敵に理解されていた人で伊藤博文、坂本龍馬、勝海舟などから考え方が柔らかく、頭の回転が速く、懐が深いと評価していた。勝は神保の身柄を徳川宗家で保護しようと介入したが、失敗し、逆に神保の立場が悪くなった

*10 徳川時代初期に軍学者・長沼宗敬(ながぬまむねたか)が兵士の訓練法を研究した『兵要録』と、実戦での作戦の立て方を記した『握奇八陣集解(しゅうげ)』の2冊の兵法書を記し、長沼流兵法を興した。要は実戦経験がない机上の兵学。今風に言えば見映えの良さがあり、人気はあった。

*11 彼らは戊辰戦争後、会津で降伏して捕虜になったが、徳川陸軍の辞令で派遣されていたので無罪放免になった。

*12 彼はこの頃、視力に難があり、目が殆ど視えてない

*13 共通の友人に勝海舟や西周がいたからと言われている。

*14 慶應3年9月3日、京都・東洞院通りで島津家家臣で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。島津家の軍事機密を知り過ぎていたからとも。

*15 派遣先の総司令官

*16 参謀と副司令官の兼任

*17 作戦を立案したり、補給や編成を担当

*18 伝令

*19 公用局員の秋月悌次郎や手代木直右衛門は戊辰戦争後、太政官に中堅官僚として雇われて働いている

*20 後に薩摩島津家に保護された。新島八重の兄。

*21 大砲の分解搬送、馬への付け卸し、弾薬の持ち運び、射角や弾道の計算、火薬の量などの計算が求められ、結果、筋骨隆々で計算の出来る人材が集まった

*22 偏見や固定観念とも言うが…

*23 プロイセン陸軍で正規採用されている元込め銃。

*24 当時、日本で売買されていた外国製の武器は上海の兵器市場から廻ってくる品物。上海市場はイギリス製か南北戦争が終わり在庫処分一斉セールで流れて来たアメリカ製が大半だった。プロイセン製などマニアしか手にしない希少品である。

*25 4300挺の内、会津松平家分が1300挺、紀州徳川家分が2700挺、桑名松平家分が300挺。モノは1年後に到着。太政官側に味方した紀州徳川家が丸々買い上げ、会津戦争に全投入した

*26 トーマス・グラバー。長崎に住むイギリス人商人。薩摩、長州、肥前佐賀鍋島、土佐山内家などが利用した武器商人。徳川幕府も一時期、利用していた。

*27 武器庫の中には徳川陸軍から江戸を出る時に餞別で貰った元込め式のドライゼ騎兵銃が300挺有ったが、弾薬の在庫が無いと言われ、横浜で発注を掛けたら到着は1年後と言われ、使用を断念した例がある。

*28 アメリカの南北戦争でも南北両軍の指揮官にこの傾向が目立ったので、この時代特有なのかも知れない

*29 徳川時代、主に幼少で家督をついだ大名の領国に、国政監視のために幕府から派遣された役人。大名家の家臣団へ自力で運営が出来ないから、こっちで面倒みるよと、行政権を剥奪される。今なら経営再建人みたいなモノ。

*30 上述の緩和策で年貢率が上げられなくなったので、御用金という形で領民から借金をし、期限が迫ると返してまた借りるの自転車操業。

*31 御用金も全て完済

*32 1808年に106日滞在、1588人派遣、51人死亡

*33 1810〜20年、毎年800人派遣

*34 1847〜54年、毎年1400人派遣

*35 1855〜59年

*36 1859〜68年、毎年200人派遣

*37 房総半島の警備が始まった辺りから御用金の自転車操業が復活して、戊辰戦争まで繰り返した

*38 薩摩、長州、佐賀鍋島は100万両以上の借金を踏み倒しており、ブラックリストの殿堂入りを果たしている。土佐は廃藩置県段階で借金270万両。内99万両が外国からの借金。土佐は一度、吉田東洋が財政再建で辣腕を奮い財政が良くなったが、武市半平太らがテロで殺害。その後、権力を握った後藤象二郎、板垣退助らは放漫経営で赤字垂れ流しだった。

*39 慶應4年4月9日に庄内酒井家と攻守同盟を締結

*40 紙を編んで漆を塗った笠

*41 水戸徳川家から養子に入った、徳川慶喜の弟。慶応4年(1868)2月4日、容保が敗戦の責任を取って隠退により家督を継いだ。直ぐに容保が後見人に就任したから意味は無くなったが

*42 スイス製の元込め銃などマニアしか手にしない希少品である。

*43 飯沼貞吉、伊藤又八は離脱中

*44 後の新島八重。

*45 諸生党と呼ばれる人たち。天狗党とは互いに弾圧し合う中で不倶戴天の敵

*46 彼らは北出丸に布陣し、先鋒の土佐山内家の軍を撃退、薩摩島津家の砲兵も撃退。

*47 但馬出石仙石家の家臣で、江戸で蘭学を学ぶ。山本覚馬と知り合い、八重と結婚。会津蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した。戊辰戦争後、捕虜となり妻と生き別れた。妻は行方不明の兄が京都にいるのが分かったのでそちらへ向かったが川崎は下北半島に成立した斗南藩で士族救済の為に旅立つ。米取引を巡る外国商人とのトラブルに巻き込まれ裁判になり、係争中に病死。

*48 慶応から明治への改元が9月8日

*49 望月らのいた部隊や佐川官兵衛のいた部隊は9月24日に降伏。如来堂の戦いで行方不明とされていた新選組・斎藤一もここで降伏。水戸徳川脱走軍だけは降伏を潔しとせず、水戸へ向かった。中には池田七三郎など新選組の生き残りがいたとか

*50 佐川官兵衛に頼んで、白虎隊や朱雀隊の生き残りを呼んで貰い、300人が奉職した