森山新蔵

登録日:2025/01/21 Tue 14:33:32
更新日:2025/01/22 Wed 11:06:22
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森山新蔵(もりやましんぞう)とは、薩摩藩士の一人である。
名は永賀。

【生没年】1821~1862
【出身地】薩摩藩(鹿児島県)

生涯

 文政四(1821)年に、薩摩藩の豪商の家に生まれた。

もともと森山家は漁業、商業、農業などを手広く営む豪商であったが、新蔵の代で武士身分を購入し、正式に藩士として列せられた。それには以下の事情があった。

 いわゆる「幕末」より少し前の頃なのだが、薩摩藩は500万両*1もの莫大な借金を抱えていた。

この借金を返すための手段として、領内の商人から借りたカネを返すために、「債権の放棄を条件に、商人を武士に取り立てる」という特別措置をとった。

この当時、森山家当主であった新蔵は多大な貸し付けを行っていたため、藩からその功績を認められ、五十石取りの藩士として取り立てられることになったのである。

 ここまでの一連の流れを見ると、「あれっ?江戸時代って『士農工商』の身分制度は結構厳しかったんじゃないの?」と疑問に思われる読者の方も多いだろう。

確かに『士農工商』の制度が発足した江戸時代初期の当時はかなり厳しく、例えば「武士が食うに困ったから商人に転身」「農民が武士を目指す」などということは許されなかったが、江戸時代も後期になるとかなりその制度が形骸化してくるのだ。

このことは何も森山家に限った話ではない。例えば坂本龍馬の場合はもともとは豪商だったが、龍馬から見て曾祖父の代で武士身分(郷士)となっている。長州の火吹きだるまこと大村益次郎の実家は村医者である。佐幕派に目を向ければ、勝海舟の先祖は「男谷検校」という金貸しで、新選組の近藤勇にしても武州多摩郡の豪農出身である。そうした例は決して少なくない。

しかし、そうした身分制度がいくら形骸化したとはいえ、薩摩藩士たちの心中には森山家への羨望と侮辱が渦巻いていた。彼らは

「金で士分を買った成り上がり者め」
「商人風情が大きな顔をしおって!」

といった風に森山家を誹謗中傷していた。

 無論、新蔵とて彼らが他の藩士から向けられる心情に気づいていないわけはなく、息子の新五左衛門にも自身にも常々言い聞かせていた。

「確かに俺たちは商人出身で、成り上がり者だ。だからこそ、本当の武士より武士らしく生きねばならないのだ」

そうした他の薩摩藩士からの誹謗中傷を跳ね返すため、新蔵は息子とともに、西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)が結成した『精忠組』に参加し、以降は武士として本格的に国事行為に身を投じるのであった。

文久2(1862)年3月16日、国父・島津久光は、幕府の政治改革を実現させるため、精兵800名を率いて、京へ向かって出発することになった。

その際、新蔵は培ってきた商才を見込まれて、兵糧の買い付けの役目を命ぜられ、久光の行列に先立って先発することになった。

武士として、いよいよ大きな使命を得た新蔵は薩摩を出発し、下関で同志の西郷吉之助と合流すると、そのまま大坂へ入った。

このさなか、新蔵はかつて船頭として雇っていた田中新兵衛を誘い、『精忠組』に参加させている。

一方、新五左衛門は久光の行列の従者には選ばれず、薩摩に残っていた。

「このままここでぼんやりと時間を過ごすわけにはいかない。父上のように、武士として私も立派な働きをするのだ!」

新五左衛門は急遽脱藩して、父の後を追って大坂に入った。

しかしここから、森山親子の運命は暗転した。

まず新蔵は大坂において、突然西郷や村田新八とともに薩摩に強制送還された。その罪状は、「大坂において不逞浪士を扇動した」という、身に覚えのない罪状であった。

孤独になった新五左衛門ははやる気持ちを抑えられず、久光の上京を機に倒幕のための挙兵を計画していた誠忠組の同志・有馬新七と共に行動することを決め、その足で京に向かった。

しかし、公武合体政策を推進していた久光からすれば、「有馬の倒幕のための挙兵」という計画は大きな障害物でしかなかった。そこで、久光は藩内から剣術に長けた大山格之助*2や奈良原喜八郎*3らの藩士を選び、有馬達を説得するよう命じた。

そうして、「もし有馬らがおぬしらの説得に応じぬのであれば、臨機の処置をとれ(=上意討ちしろ)」とも命じた。

かくして、同年4月23日の夜、有馬たちの集結していた宿・寺田屋で惨劇が幕を開けた。

久光から派遣された「鎮撫士」は当初は口頭で有馬を説得した。しかし、それを有馬たちは拒否したため、「鎮撫士」たちは有馬らと斬り合いに及んだ。

この斬り合いが始まったとき、新五左衛門は長刀を二階の部屋に置いたまま一階の厠の中に入っていた。しかし、斬り合いが過熱すると自らを奮い立たせて脇差を抜き、この斬り合いに参加した。

新五左衛門は「刀が手元に無いからと言って、刀を取りに行くために背を向けてその場から離れようとするのは武士ではなく卑怯者のすることだ」と判断したのだった。

しかし、鎮撫士は前述したとおり剣術に長けていたため、脇差一本で戦っていた新五左衛門が彼らにかなうはずもなく、やがて全身に重傷を負い、その場に昏倒した。

翌日、新五左衛門は重傷を負っていたが、幸い一命はとりとめた。しかし、短刀を抜いて斬り合いに参加したことが「藩の命令に抵抗した」とみなされ、その日のうちに「君命に背いた」という罪状で切腹させられることとなった。

数えで享年20歳と、若すぎる死であった。この時新五左衛門は一切抵抗せず、故郷の薩摩のある方を向きながら切腹した。薩摩藩邸において彼の切腹を見届けた者は皆、その態度に落涙したという。

息子の訃報を、新蔵は薩摩半島の南端にある山川港に停泊している舟の中で聞かされた。藩からの処分がまだ下されておらず、それが下されるまでは上陸を許されていなかったのだ。

このとき、同乗していた西郷が新蔵に弔意を述べたが、新蔵はわが子の死に動揺することなく、静かにつぶやいた。

「倅は武士として立派に死んだのです。私は倅に『商人上がりだからこそ、本当の武士より武士らしくあれ』と口を酸っぱくしてこう教えてきました。倅とて、武士らしく生きることができましたから、満足だったことでしょう」

この言葉を聞いた西郷と村田は痛ましい心中で新蔵を見守るほかはなかった。

2人の前でそのようには言ったものの、一人息子を亡くした父親の心境はいかばかりか____。

「二本差しをありがたがっていたが、いざ武士になってみれば、いいことなど一つもなかった。武士にならずに商人のままでいれば、俺のたった一人の息子は死なずに済んだ。息子よ、俺がお前に詫びる方法は、これしかない。思い上がった愚かな父を許せ、許してくれ…」

数日後、西郷と村田が少し船を離れたところを見計らい、新蔵は切腹して果てた。享年四十一歳。

「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」

愛する一人息子を失った父親の悲痛な心境を感じさせる辞世の句である。

新蔵の死をもって、森山家は断絶した。





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最終更新:2025年01月22日 11:06

*1 現在のお金に換算して1500億円以上

*2 のちの初代鹿児島県令・大山綱良

*3 のちの沖縄県知事・奈良原繁