登録日:2025/01/27 Mon 11:29:14
更新日:2025/03/31 Mon 19:36:43
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高山右近とは、戦国時代~安土桃山時代のキリシタン大名である。
諱は
重友(一説に「重出」の誤字とされるが、本稿では「重友」名義で解説させていただく)。
織田信長・
豊臣秀吉に仕えた。
【生没年】天文二十一年(1552)年~慶長20年1月6日(1615年2月3日)
【出身地】摂津国
生涯
天文二十一(1552)年、摂津国(大阪府)の土豪・高山飛騨守と、その妻・マリア(俗名不詳)の子として生まれる。
父・飛騨守が松永久秀の被官として大和に在住する中、キリスト教に感銘を覚え、彼と家族全員や家臣が洗礼を受けた。飛騨守は「ダリヨ」という洗礼名を賜り、重友は「ジュスト」という洗礼名を賜った。これは英語のJusticeの語源で、「正義の人」ないしは「公平な人」という意味である。
その後、松永久秀の主君であった
三好長慶が亡くなり、三好政権が崩壊すると、三好の勢力であった近畿は混乱状態となった。その混乱の最中、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて入京してきた。
高山家は高槻城主である和田惟政の下に付くことになった。しかし、その惟政は高山家の仕官からほどなくして反義昭派の勢力との戦闘で戦死。和田家の家督は子である惟長が継いだ。
当時惟長はまだ17歳であったため、彼の叔父が補佐役についたが、何を思ったか惟長はこの叔父を殺害。以降は、高山家が惟長の相談役となった。
しかし、これを快く思わなかった和田家臣が、惟長に高山父子の殺害を進言。飛騨守は自身の命が狙われていることを察知すると、知人の荒木村重に相談を持ち掛け、村重はこのように返答した。
「
もしアンタら親子を惟長様が殺っちまおうとしてるんなら、もう主従関係はジ・エンドってことだ。先にこっちから殺っちまうべきだ」
飛騨守は村重と共謀して惟長と干戈を交え、惟長を高槻城から追放。こうして飛騨守は高槻城主として君臨することになった。
惟長を追放するさなか、重友は和田家臣に首を斬りつけられ、
首の半分が切断されかかるという重傷を負った。生存可能性は絶望的に低いとされたが、奇跡的に息を吹き返す。重友はこの出来事を境に、より一層キリスト教に傾倒するようになった。
その後高山家は、自分たちの命を救う切っ掛けを作ってくれた恩義から村重の支配下に入り、およそ2万石を与えられた。前述の和田惟長追放事件は摂津国内の事件であり、村重が織田信長から摂津の仕置きを任されていたことから、特にお咎めはなかった。
重友は父親の家督を継承し、高槻城を支配下に置き続けた。
天正六(1578)年に荒木村重が謀叛を起こした際には、いち早く妹と長男を人質として村重に差し出し、村重に与することを約束しながらも、
「村重殿、織田信長様への謀叛はもうおやめになった方がよろしいかと。一日でも早く信長様に降伏するべきです」
と説得したが、説得は不発に終わった。
村重を説得するさなか、信長からも重友に圧力がかけられた。
「村重に味方してお前のところのキリシタンや神父が死ぬか、俺に味方してキリシタンや神父を保護するかだ。早く選べ!」
これに負けじと村重も重友に圧力をかける。
「もし信長に降伏してみろ!人質としてこっちに来てるてめえの家族が死ぬぞ!」
重友は事態の収拾を図るため父親にも相談したが、父親は徹底抗戦を主張した。悩みに悩みまくった重友は、オルガンティノ神父に助言を求めた。
「コノ場合ハ、信長様ニ従ウ方ガ筋デスネ。デスガ、ヨクいえす様ニオ祈リシテ、慎重ニ選択スベキデース」
従兄弟である中川清秀が村重に反旗を翻すとそれに影響されたのか、彼も信長への臣従を決意した。一説にはこの際、自ら高槻城主を引退し、単身降伏したと伝わる。
信長は重友の降伏要請を受け入れ、村重敗走後以降も重友に高槻の支配権を保障した。さらに家禄も2万石から4万石に倍増した。なお、のちに人質となっていた重友の家族も無事に重友のもとに引き渡されている。
以降は信長に忠実に仕え、天正9(1581)年2月の京都御馬揃えには一番隊で摂津衆として参列した。
しかし、本能寺の変で信長が横死したことで、重友は再び窮地に立たされる。重友はこの時、境にいて信長横死の知らせを受け取っている。変の首謀者の明智光秀は、中川清秀と重友が自身に味方してくれることを期待したが、清秀と重友は羽柴(豊臣)秀吉につくことを選び、山崎の戦いでは先鋒として奮戦。重友のこの判断は正しかった。秀吉は先鋒を務めた重友の功績を認め、加増した。
豊臣政権が安定してくると、彼はキリシタンとして、また茶道の師匠としての活動に積極的に力を入れるようになった。
彼の影響を受けてキリシタンになった者は多く、大名クラスの人間も洗礼を受けている。また前田利家のように、入信こそしなかったが、キリシタンやキリスト教の文化に理解を示す者もいた。
そのころには重友の領内でキリシタンが神社仏閣を排斥する事態が発生しているが、重友は神社仏閣にも所領安堵状を発行しているため、この迫害が重友主導のものであったということは考えにくい。
しかし、天正十五(1587)年、秀吉の発令した伴天連追放令により、改宗を迫られることとなった。重友はこれを拒否。その廉で明石城を没収され、豊臣家から追放された。
当初重友は同じキリシタン大名であった小西行長を頼り、小豆島に住んだ。のちに行長が肥後に転封となると、かねてよりキリシタンに寛容であった前田利家・利長父子を頼って加賀国に赴いた。
前田家における重友への待遇は決して良くなかったといわれているが、のちに2万6000石の扶持を受けて生計を立てることができるようになった。この待遇の変化には、秀吉が背後で動いていたためであると考えられる。
秀吉は一度重友を追放したものの、家臣として再雇用するつもりであった。しかし、追放されてもなお決して棄教することのない重友の意思の硬さに根負けして、前田家の管理下に置くことで宗教活動などの相応の待遇を容認したという。
以降は重友は前田家の武将として活躍し、小田原攻めに参戦している。
やがて秀吉が亡くなり、その後を追うように利家が亡くなったが、子の利長はこれまでと変わらず重友を庇護し続けた。関ヶ原合戦には利長の武将として参戦した。
以降も重友は前田家の庇護を受けて加賀にいたが、彼を含めた日本全土のキリシタンを取り巻く状況が徐々に思わしくなくなり始めていた。
それは、岡本大八事件(詳細は
日本におけるキリスト教史を参考にしてください)を発端として、大御所・
徳川家康とときの将軍・徳川秀忠が禁教令を発令したためであった。
重友はそれでも棄教する意思を見せなかったため、激怒した家康からの追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。
多くのキリシタン大名は棄教するか、宇喜多家臣・
明石全登のように追放令を受け入れずに豊臣方に与して大坂の陣で戦うことを選んだが、重友は一切の抵抗を見せず、追放令を受け入れた。
「
私は何があっても棄教するつもりはない。大御所様が我々キリシタンを追放するというなら、私は喜んで日本を去ろう」
そして、重友はこの先二度と、日本の地をふむことはなかったのである______。
同じくキリシタン大名で、長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にフィリピンのマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告で「敬虔な日本人信徒」としてキリスト教会内で有名となっていた重友はマニラでスペインの総督・フアン・デ・シルバらから歓迎を受けた。
しかし、長い船旅での疲労の蓄積や、熱帯の高温多湿という慣れない気候が老体の重友にはひどく堪えた。そうしてマニラ到着から約1か月後、病気にかかってしまった。
ほどなくして、翌年の1月6日(1615年2月3日)、家族に看取られながら息を引き取った。享年63歳。
重友の葬儀は、総督の指示によってマニラ全市をあげて聖アンナ教会にて、10日間という長期間にわたり盛大に行われた。
重友の死後、家族は日本に帰ることを許された。
逸話
- かなり真面目な性格で、羽目を外すことがなかった。諸将がそのことを褒め称えた証言や数々のエピソードが残されている。
- 『綿考輯録』『細川家御家譜』には、「小田原の陣で重友が牛肉を調達し、重友・蒲生氏郷・細川忠興の3人で調理して食べようとした際、重友が食事の前の祈りを始めたため、氏郷と忠興がこれをからかった。重友は少し怒って一旦牛肉をひっこめたが、氏郷と忠興が慌てて謝ったことで許し、三人で仲良く肉を食べた」という逸話が収録されている。
- 高槻城下である村人が亡くなった際、本来は死者の棺を担ぐのは賤民の仕事であったにも関わらず、重友は自ら率先して棺を担いだ。この重友の行動に、領民たちは感動したという。
- スペイン・バルセロナの聖イグナチオ洞窟教会には、「JUSTO UCANDONO(ジュスト右近殿)」と記された高山右近のモザイク壁画が飾られている。
追記・修正、よろしくお願いします。アーメン。
- 作成ありがとうございます!戦国武将項目増えてすごく嬉しい!! -- 名無しさん (2025-01-27 13:11:54)
- 忠興と一緒にこっそり焼肉食べた逸話好き -- 名無しさん (2025-01-27 20:05:09)
- そんで忠興と氏郷が右近が食事の前に神に祈り捧げるのを見て笑ったから肉を引っ込めて、慌てて二人で謝ったのもなんか微笑ましいエピソードだよね -- 名無しさん (2025-01-27 23:15:24)
- 諱は重友と断定しないほうがいいんじゃないかな。重出(ジュストの当て字)の誤読って説もあるし -- 名無しさん (2025-01-28 04:34:14)
- ↑4 「重出の誤読の可能性あり」という要項を付しながらも、「重友」名義で紹介させていただきました。 -- makinomantaro (2025-01-28 21:18:12)
- へうげものにでてたので印象に残ってる! -- 名無しさん (2025-03-31 19:36:43)
最終更新:2025年03月31日 19:36