日本におけるキリスト教史

登録日:2024/10/17 Thu 23:55:55
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世界三大宗教と呼ばれるキリスト教
今では日本でも一般的な宗教として定着したが、歴史の教科書などで壮絶な弾圧があったことを目にした人も多いだろう。
なぜそのような状況に陥ったのか?

ここでは、戦国時代から明治初期のキリスト教徒に関する歴史を解説する*1


●目次



戦乱の世の「キリシタン」

 宗教改革で勢力を増していたプロテスタント教会とバッチバチに対立していたカトリック教会の立場でのキリスト教布教を熱心に展開したイエズス会では、その創設者の一人であるフランシスコ=ザビエルが、インドのゴアから中国(明)への布教に赴く途中、フィリピンで薩摩出身の日本人・アンジロー*2に会い、アンジローから日本についての話を聞く中日本に興味を抱き、日本での布教を志した。

 1549年、ザビエルやコスメ・デ・トルレス、ジョアン・フェルナンデス、アンジローら一行は鹿児島に上陸し、日本布教の第一歩を記した。
当初、薩摩の領主・島津貴久(しまづたかひさ)*3は、南蛮貿易の利潤を期待してザビエル一行の布教を許可した。
しかし、領内の寺社や国人衆がキリスト教の布教に激しく反対し、また貴久の期待していたほど南蛮船の往来がなかったので、領内における困難の火種を最小限にとどめるために布教活動を禁止した。
やがて鹿児島を出て平戸、山口、堺を経て京にたどりつき、「日本国王」すなわち天皇に面会して布教の許可を得ようとしたが、当時の京都は相次ぐ戦乱により荒れ果て、さびれていた。
天皇の権威ももはや失墜しており、かつ13代征夷大将軍・足利義輝(あしかがよしてる)も細川家家臣・三好長慶(みよしちょうけい)に京を追われて不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。
そうして、再び山口に戻り、領主・大内義隆の保護を受けたのち*4、また豊後府内(大分)では領主・大友義鎮(宗麟)に謁見し、義鎮に洗礼を行い、日本でのキリスト教布教の基礎を築いたが、1551年に豊後を出てインドに向かった。
 日本での滞在期間中、言語や文化とキリスト教教義の齟齬*5などの困難を乗り越えながら*6、徐々に日本人協力者を得ることができ、結果として700名ほどに洗礼を授けることができた。特に戦国大名の中には、宣教師を窓口としてポルトガルとの交易である南蛮貿易を有利に行い、鉄砲や火薬などを手に入れるため、あるいはキリスト教の教義に純粋に興味を持ったためキリスト教に改宗し、キリシタン大名となった人物がいた。そうした大名は九州地方に多く、大友義鎮(府内)や有馬晴信(肥前有馬)、大村純忠(肥前大村)などがその代表例である。彼らはイエズス会宣教師・ヴァリニャーノの勧めで伊東マンショ(正使主席・大友宗麟名代)、千々和(ちじわ)ミゲル(正使・大村純忠名代)、中浦ジュリアン(副使)、原マルチノ(副使)ら4人の少年使節をローマ教皇・グレゴリウス13世のもとに派遣した*7ことでも知られる。
以下に、主なキリシタン大名を表に書き起こしたものを記載する。表は山川出版社編集の『詳説 日本史研究』、結城了悟『キリシタンになった大名』を参考とした。


人物 洗礼名 受洗年 城下町 備考
木下勝俊 ペドロ 1587(?) 若狭小浜 晩年の事績は歌人の「木下長嘯子(ちょうしょうし)」としても知られる
京極高吉 ? 1581 近江上平寺 浅井三姉妹の一人・初の夫である京極高次の父親で、妻(京極マリア)と共に入信。息子の高次もまたキリシタン大名であった
蒲生氏郷 レアン(レオン) 1585 伊勢松坂→会津若松 織田信長豊臣秀吉家臣
高山図書 ダリオ 1563 大和宇陀の沢→摂津高槻 高山右近の父親
池田教正 シメアン 1563 河内八尾→若江 摂津国の国人の子に生まれた。松永久秀と同盟し、三好三人衆と対立。本能寺の変後も生き残り、羽柴秀次に仕えた。秀吉により伴天連追放令が施行されたのを皮切りに、秀次に辞職願を提出するが、よき相談役として重宝されており、これまで通り仕官と信仰を許され、領地を加増までされた。秀次事件により秀次が自殺してからは豊臣家を追放され、その後の動静は不明
織田長益(有楽) ジョアン 1588 大和芝村 織田信長の末弟。信長横死後は御伽衆として秀吉に仕官。関ヶ原合戦では東軍に従軍し、負傷しながらも西軍の武将・蒲生頼郷を討ち取る。大坂冬の陣の際には豊臣・徳川両家の交渉役を務めるも、再び豊臣家臣の過激派の戦意が強まってからは豊臣家から離れ、隠遁生活を送った。号の「有楽」は東京都の「有楽町」の元になったという説がある
高山右近 ジュスト 1564 摂津高槻→播磨明石 織田信長・豊臣秀吉の家臣。茶人としても知られ、『利休七哲』の一人。
内藤如安※ ジョアン 1564 丹波八木 足利義昭、小西行長、前田利長の家臣
小西行長 アグスチノ 1564 讃岐小豆島→肥後宇土 豊臣秀吉の家臣。父親の小西隆佐もキリシタンであった。文禄の役の戦後処理の際、明からの国書を捏造。関ケ原合戦では西軍につき、戦後捕縛の上斬首
一条兼定 パウロ 1576 土佐幡多 公卿の一条家からみて分家筋にあたる大名。長宗我部元親の敵対者
黒田孝高 ドン・シメオン 1585 姫路→豊前中津→(筑前福岡) 織田信長・豊臣秀吉の家臣。「黒田官兵衛」や法名の「黒田如水」の名で知られる
黒田長政 ダミアン 禁教令で棄教し、迫害者に転じて領内の神父やキリスト教徒を弾圧した
大村純忠 バルトロメオ 1563 肥前大村 有馬晴信の叔父
大友義鎮 フランシスコ 1578 豊後府内→臼杵島生島 仏教徒の僧侶にキリスト教徒と二足のわらじを履いた。キリスト教への傾倒がすさまじく、また女癖も悪かったため妻との仲はあまり良くなかったという
有馬晴信 プロタジオ 1580 肥前有馬 岡本大八事件で処分(後述)
五島純玄 ルイス ? 五島福江 現在の長崎県の五島列島の領有者。朝鮮出兵(文禄の役)に従軍するも若くして病死
織田秀信 ペトロ 1595年 美濃井之口 織田信長の孫
坂崎直盛 パウロ 1595年 津和野 宇喜多秀家の一族
支倉常長 ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ 1615年 仙台 伊達政宗家臣。スペインとの交易のため、政宗の命を受けてスペインに派遣。スペイン国王フェリペ3世に謁見し、国王拝謁のもと洗礼
※1614年、禁教令によりマニラへ追放され、再び日本に戻ることなく当地で客死。如安は高山の死の12年後に死去

 上記の『キリシタン大名』同様、わが国のキリスト教史を語るうえでザビエルなどの宣教師や後述の天草四郎時貞のように必ずといっていいほど名前の挙げられる人物がいる。それは、明智光秀の娘で細川忠興の妻・細川ガラシャ(1563~1600)である。
 本名は(たま)といい、洗礼してから「ガラシャ」の名を賜ったが、戦国時代当時の女性は「苗字+名前」で呼ばれる習慣がほとんどなかった。よく知られる「細川ガラシャ」は明治以降の呼び名である。
彼女は1578年に織田信長の勧めで細川忠興と結婚し、三男二女の子宝に恵まれたが、1582年に父親が「本能寺の変」を起こしたことで彼女の運命は翻弄されることとなる。
本来であれば家名を守る為に離縁するのが武家の常識だったが、忠興は離縁を選ばずに、ほとぼりが冷めるまで珠を丹後の三留野の山に幽閉する。
両名が復縁を許されたのは、1585年のことであった。
 珠は夫が九州攻めに従軍して家を空けているさなか、キリスト教に関心を抱き、侍女とともに宣教師に会って、様々な質問を聞いた。その後彼女は洗礼を受け、洗礼名「ガラシャ」を賜った。
キリスト教徒となった妻に忠興は怒り、侍女の鼻を削ぎ落とし追い出したが、ガラシャは改宗をやめなかった。妻の姿勢を見た忠興は、これ以降改宗を迫ることはなかったという。とはいえ、これは忠興が反キリシタンであったというわけではなく、1587年当時は伴天連追放令が発令されているさなかで、これが秀吉に知られると「細川家に謀叛の気配あり」とみなされ、お取り潰しとなる危険性があったためである。現代の感覚からすればDV夫と考えられなくもないが、何においても「御家第一」という原則が最優先された戦国時代ないしは安土・桃山時代とは、そういう時代である。
一説には、細川夫妻の知人でキリシタン大名であった高山右近が、落ち込みやすいガラシャを見かねて、気分転換のためにキリスト教への入信を進めたといわれる。
 1600年、関ヶ原の戦いが勃発する。忠興は徳川家康の東軍として参陣し、上杉討伐へ出陣。その留守の最中、西軍の石田三成はガラシャを人質に取ろうと屋敷を包囲し「出てくれば命は保証する」と持ち掛けたが、ガラシャは毅然と拒否し、家老に命じて自分の頸を刎ねさせたとされていた。
これはキリシタンなので自殺が教義で禁じられているからという理由なのだが、近年ではガラシャは普通に自害したという説が有力である。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(ガラシャ辞世の句)

 忠興は自身が従軍するさなかの妻の死を知り、深く嘆き悲しんだ。遺骨を寺と教会に分けて葬り、移封先の小倉藩で初代藩主となってからも、禁教令が発令されるまではキリスト教を手厚く保護し、折に触れて亡き妻を弔うミサを執り行わせ、1645年に数え年82歳で亡くなるまで継室を持つ事はなかったという。
妻をめぐる逸話ではやたら過激な行動で知られる忠興(詳しくは細川忠興のページをご覧ください)であったが、それほど妻を愛していたということか。

 また、わが国で初めて太平洋を横断を成し遂げたといわれる商人・田中勝介(生没年不詳)も実はキリスト教徒であった(洗礼名はフランシスコ・デ・ベラスコ)。1610年6月に、日本に漂着したドン・ロドリゴ・ビベーロがメキシコ南部の都市・アカプルコに帰還する際、大御所・徳川家康から渡航を許された勝介は家康の親書を携えてビベーロに同行。渡海中は善良な態度で乗組員から親しまれたという。太平洋横断の最中、勝介はノビスパン(メキシコ)との交易をもくろんだが成功せず、翌年の2月にメキシコの答礼使・ビスカイノの助けを得て日本へ帰国する手はずを整え、3か月後に浦賀に到着した。帰国後に大御所・家康と面会してワインなどを献上したのち、当代将軍・徳川秀忠にも五色羅紗、ワイン、シェリー酒を献上したといわれるが、その後は記録が残っていないためどのような生涯を送ったかは不明である。


 日本人をイエズス会本部に宛てた手紙で「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼した。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。
ザビエルの要請を受けて送られた人物は、豊後府内に日本最初の西洋式総合病院*8を開設した医者のルイス・デ・アルメイダ、西日本を視察して『耶蘇会*9士日本通信』に堺についての記事を寄稿したガスパル・ヴィレラ、織田信長や豊臣秀吉に拝謁し『日本史』を著したほか、日本文化の理解の一環として宗論*10にも積極的に参加したルイス・フロイスなどがいる。
1559年、宣教師ガスパル=ヴィレラが京都に入って布教しようとしたが、京都は相次ぐ戦乱により室町幕府の権威がほとんど消滅しており、また比叡山や法華宗など反キリスト教勢力も力を持っていたので、布教どころではなかった。
しかし、織田信長が1568年に将軍・足利義昭を奉じて京都に入ると事情は一変する。信長はもともと西洋の文物に興味を持っており、キリスト教にも関心を寄せていた。信長はルイス=フロイスらに京都での布教と滞在を認め*11、教会の小神学校(セミナリオ)の建築を許した。やがて、安土城の城下にも教会(南蛮寺)*12やセミナリオ、ノビシャド(修道院)、コレジオ(大神学校)が信長の厚遇を得た宣教師・オルガンティノによって建てられ、日本人宣教師や西洋人宣教師のタマゴはこれらの学校でラテン語、日本語(日本の古典も含む)、哲学、神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育を教わった。これは、イエズス会の「人文主義」を重視する教育方針がベースとなっていたためであり、明治になって学制が公布された際の学校教育にも、この教育方針は受け継がれたという。


 イエズス会の宣教方針に則り、日本における宣教方針は、日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれた。これを「適応主義」という。
1569年には当時すでに高齢であったコスメ・デ・トルレスの要請を受け、フランシスコ・カブラルが派遣されたが、カブラルは徹頭徹尾日本人を見下した態度をとり、日本人を「黒人」「低級民族」呼ばわりして

「日本人ガコノ世ニ存在スル事ソノモノガ間違ッテイルノダ」*13
「日本人、頭悪クナイカ?日本人ハ頭悪イ!本当ダカラダ!司祭ヘノ適性ヲ持ッテル訳ハナイ!」

と公言してはばからなかった。
このカブラルの態度がもとで、一時的に日葡間の関係が思わしくないものとなり、交易がストップ。
この悪評が各地を回って実情を視察していたヴァリニャーノの耳に入ると、ヴァリニャーノはカブラルの日本人へのあまりといえばあんまりな姿勢を批判してカブラルを解雇。従来行われていた適応主義を復活させ、日葡間の関係は回復したのであった。




秀吉の治世ー伴天連(バテレン)追放令―

 前述のとおり、織田信長はキリスト教徒に対して寛容な政治方針であり、1582年の信長の本能寺での横死後に後釜に座った豊臣(羽柴)秀吉もその政策を受け継いでいた。しかし、それも1587年までの事であった。
当時、九州一円を手中に収めていた薩摩の大名の島津義久・義弘兄弟を降伏させるため九州征伐に赴いていた秀吉は、宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が破壊されている状況や、ポルトガル商人が日本人を奴隷として外国に売りとばす様子、宣教師たちが民衆に改宗を強制する様子や農民の貴重な財産である牛馬を殺して食材としている様子、そしてもっと悪いことに、長崎・浦上・茂木がイエズス会領となり、軍事要塞と化してしまっている状況を目の当たりにしてしまう。
秀吉は筑前箱崎に宣教師の責任者であるガスパル・コエリョを召喚し、前述の状況について諮問を行った後、宣教師たちを国外退去させることを命じ、キリスト教布教活動の制限を申し渡した。世にいう「伴天連追放令」である。
この処置に対し、コエリョは反省・謝罪して事態の収拾にかかるどころか、秀吉に対して真っ向からケンカを吹っ掛ける行動に出た。
有馬晴信や大友宗麟などのキリシタン大名に「武器ヤ弾薬、戦費ハ足リナクナッタラ我々ガ手配シマスカラ、アナタタチハ、信仰ノ敵トナルアノ身ノ程知ラズノヲ猿野郎ヲ倒スタメ、戦ウノデス!」と、秀吉と敵対させるための焚き付けを行ったのである。んなムチャクチャな。
しかし、有馬も大友も、いまや大名の中でも最高権力者となっていた秀吉に逆らった場合の恐ろしさは容易に想像できた*14ため、この無謀極まりない焚き付けを無視。
この一件以来、イエズス会は表立った宗教活動を自粛する運びとなった。


 伴天連追放令を発令した秀吉だったが、秀吉は別にキリスト教徒に対して迫害を加えたわけではなく、むしろこれを黙認していた。それは、あくまでも南蛮貿易の利潤を追求しており、窓口である宣教師を弾圧すれば、南蛮貿易が円滑に行われなくなることが目に見えていたからである。
1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(秀吉の政治顧問の僧侶・西笑承兌(さいしょうじょうたい)が秀吉のために起草)によると、
「三教(=神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した」
とあるが、秀吉はこれを撤回し、キリスト教徒の復権を行った。これも、やはり上記のようにポルトガルとの関係が断絶し、南蛮貿易を円滑に行えなくなることを恐れたためである。


 豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると、秀吉もキリスト教会に対するそれまでの態度を若干厳しくせざるを得ない状況となった。
というのも、彼らは貧困にあえぐ民衆に直接布教する手法で信者を増やしていき、それだけならまだしもイエズス会の『適応主義』とは異なる「押しつけ主義」的な立場をとり、当時最高権力者であった秀吉の神経を逆なでしていたのである。さらにこの方針をめぐってイエズス会と対立関係にあり、この抗争が激化して日本人にも火の粉が降りかかる事態が横行していたため、結果として秀吉のキリスト教徒全体に対する怒りは徐々に蓄積されていき、ついにはどの宗派に属していようと、キリスト教宣教師や信徒たちにとって、日本での自分たちの立場が危うくなったのであった。
そうして、とうとう秀吉がキリスト教徒に対しての怒りを爆発させた決定的事件が1596年に発生する。
サン=フェリペ号事件である。
貿易船であるサン=フェリペ号がメキシコに向かう途中台風で遭難し、土佐に漂着する。この事件を土佐の領主・長宗我部元親が秀吉に報告すると、秀吉は元親の友人であった家臣・増田長盛を派遣して現地調査を行わせた。
当初、増田長盛とサン=フェリペ号の乗船員は穏やかに対談していたが、議論が白熱する中、ついに乗組員がとんでもないことを言い出す。

ワタシ達すぺいん人ガ広大ナ領地ヲ手ニ入レルコトデキタノハ、『マズきりすと教ヲ布教シテ、信徒ガ増エタラ彼ラ焚キツケ反乱ヲ起コサセ、混乱ニ乗ッカッテ国乗ッ取ル』トイウ寸法ダヨ。¡Muy bien! ソウ!強クテ頭ノイイすぺいん人ハ日本人ニ何ヲシテモイインダヨ・・・!

……言いたいことはそれだけか?

この発言を危険視した増田は秀吉にこれを報告。秀吉は当然これにブチギレ。

やっぱり思った通りだぎゃ!わしぁ前々からキリスト教は危険だと思っとったがよぉ、日葡・日西間の貿易の利潤を重視すればこそ、あやつら宣教師どもの布教を黙認しとったがや。それをあやつらは調子ン乗りおってよ、腹ン中で(おそ)ぎゃー事企んどって、この国を乗っ取るための下準備を進めとったっつうことだわ!この太閤秀吉を怒らせるとどうなるか、あの連中に思い知らせたろまい・・・!

京都や大坂で宣教師や信徒26人を逮捕し、大八車に乗せて市中引き回しにした挙句、長崎に送り、磔にして槍で胸部を貫かせ虐殺した。世にいう「日本二十六聖人の殉教」である。
その中には1593年に秀吉との謁見を許され、事件当時も日本での滞在と布教活動を許可されていた宣教師のペドロ=バプチスタも含まれていた。
犠牲者のうち、最年少の12歳の少年で、フランシスコ会の病院や教会で勤務していた茨木ルイスは、「信仰を捨てれば身柄を解放し、自由にする」といわれたが、これを拒絶し、十字架上で「パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア」と叫びながら息絶えたという。
のちの話になるが、1862年、ローマ教皇は殉教した26人に聖人の位を与え、処刑が行われた2月5日をカトリック教徒らの祝日として定めた。
これがどのくらい重要かというと、日本人にとっての8月6日・9日(広島・長崎原爆投下日)と同等の意味をもつのである。





徳川幕府と「切支丹(キリシタン)」-寛容策から弾圧策へ―

 豊臣秀吉の没後、徳川家康が実権を握ったが、当初家康はキリスト教徒に対して寛大な政策をとっていた。これは、かつて「松平元康」と名乗っていた青年時代に三河一向一揆という苦い経験をしたためであるといわれている。
しかし一方で家康は海外との貿易の実利を求めていた。1600年、関ヶ原合戦より少し前の時期にオランダ船リーフデ号が漂着し、イングランド人航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンが家康に召し抱えられる*15と、家康は、彼らから「新興国のイングランドとオランダがスペインとポルトガルにアルマダの海戦や八十年戦争で勝利し、スペインとポルトガルを追い上げている」という最新の欧州事情の情報を得た。
同時にアダムズとヨーステンは、家康がスペイン人宣教師やポルトガル人宣教師の布教活動を特に制限していないという状況について「Oh my goodness!それこそが彼らの思う壺なのです!あの連中の布教活動を野放しにすれば、そこにかこつけて日本が植民地化されます。大御所様はそれでいいのですか!?」と警鐘を鳴らしていた。
特に、プロテスタント国家のオランダは「うちならキリスト教布教を伴わない貿易もできますよ」と主張していたため、家康にとって宣教師やキリスト教を排除する理由はない代わりに積極的に保護する理由もなかった。

 しかし、1610年から1612年にかけて発生した一連のとある疑獄事件を境に、家康は晩年の秀吉のようにスペイン・ポルトガル両国への態度、さらにキリスト教徒への態度を硬化させることとなる。
マードレ・デ・デウス号事件岡本大八事件である。
肥前の領主・有馬晴信は旧領回復のために奔走していた。晴信は家康の了解をえて,長崎でポルトガル船を撃沈した(マードレ・デ・デウス号事件)。
その恩賞として晴信は旧領の回復を家康に要請したが、待てど暮らせど家康から返答は一切なかった。
そこに本多正純の家臣・岡本大八が
「某が主君・本多正純を介して、大御所様に貴公の旧領の回復について掛け合いましょう」
と家康名義で発行した偽の朱印状を用意して、言葉巧みに取り入り、晴信から賄賂をだまし取った。これが大八による落とし穴にも気づかず、晴信は
「かたじけない。もし大御所様が此度の約定を反故にするのであれば、私は長崎奉行*1の長谷川藤広殿を海に沈めてでも旧領を回復させる覚悟でおりました。それについて貴公がうまく交渉してくださるなら、私は言い値を出しましょう」
とホイホイ賄賂を渡してしまったのである。その額、なんと6000両
このことが露見し、大八は逮捕されたが、大八は自身にかけられる罪状を少しでも軽くするため、マードレ・デ・デウス号事件に対する家康や秀忠の対応に対して業を煮やしていた晴信が最悪の事態を想定して練っていた長崎奉行・長谷川藤広の暗殺計画を漏らした。この長谷川暗殺計画について晴信は何の弁明もできなかったので、逮捕されることとなった。
晴信は甲州に改易の上切腹*16の判決が下り、大八は弁明もむなしく、火刑に処された。

当事者がどちらもキリスト教徒であったことで、これら一連の事件をきっかけに徳川家中のキリスト教徒の有無を調べたところ、家臣の中に14名、奥女中の中に3名のキリスト教徒がいることが明らかになったのである。
こうして家康は天領(幕府直轄領)でのキリスト教禁止に踏み切り、さらに1613年、家康に仕える僧侶・金地院(以心)崇伝の起草した『排吉利支丹文』や家康・秀忠・家光の3代の将軍にわたって仕官した儒者・林羅山の記した『排耶蘇』、棄教した元宣教師*17不干斎巴鼻庵(ふかんさいハビアン)*18の記した破提宇子(はだいうす)*19など反キリスト教の立場をとる書物、いわゆる『排耶書』を発端に全国禁教令を発布して京都や長崎など全国の教会を破壊した。このとき、高山右近や内藤如安など信者のなかでも力を有していた人物はマニラなどに国外追放となり、両名ともそれぞれ1614年と1626年にマニラで客死した。
ちなみに、有馬晴信の長男・直純は有馬家存続のために家康との縁を深くしていたために連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江藩主となり、禁教令にのっとって改宗したのちは領内のキリスト教徒を迫害したが、これにより自責の念に駆られて鬱状態となり、幕府に転封を願い出て許可され、日向島原藩主となった。そうして、島原の乱ではかつての領民たちと干戈を交えることとなったのであった。
 1610年代にキリスト教の禁教方針を明確にした江戸幕府だが、実際の運用には地域差があった。幕府の警戒は異端的宗教活動に対して強かったものの、これらの活動は「異宗」や「異法」と呼ばれ、既存秩序の許容範囲内とされた。そのため、潜伏キリシタンも「異宗」や「異法」に含まれ、徹底的に排除されることはなかった。

 家康没後、1619年に京都・六条ヶ原で50名が幕府役人により殉教し、1622年に長崎・西坂で52名が殉教(元和の大殉教)、1623年には江戸・札の辻(現・東京都港区芝)でも50名が殉教し(江戸の大殉教*20)、1624年には仙台・広瀬川で55名が殉教した。
以後、禁教令の名のもとに明治初期の制限解除まで幕府や仏教徒によるキリスト教徒弾圧は続き、「切支丹」「吉利支丹」から侮蔑の意を込めた「鬼理死丹」「鬼利至端」「貴理死貪」といった不吉な当て字がなされるようになった。
1629年には「踏み絵」という制度が考案され、マリア像やキリスト像を描いた板を踏ませ、踏めなかった者をキリスト教徒であると断じた。
これはキリスト教徒の有無を問うに当初は有効であったが、次第に「内面でキリスト教を信仰さえすればよい」という考えが信徒のあいだに広まって*21、江戸時代後期には必ずしも効果は上がらず形骸化し、幕末期(時期でいうとペリー来航直後)には廃止された。また、「穴吊り」と呼ばれる拷問も行われた。これは地面に穴を掘り、そこに捕らえた者の頭を向けるようにして逆さに吊るすのである。血が頭に上りすぎるとすぐに死んでしまうので、こめかみに錐を刺し、穴をあけることで血の通り道を作り、すぐには死なせずに棄教を迫り、棄教を宣言すれば即刻縄を解かれ、解放された。
拷問に屈した者たちは「転び」と呼ばれ、再び信仰を取り戻した者は「立ち返り」と呼ばれた。「転び」としてよく知られた人物は、前述の不干斎巴鼻庵(ふかんさいハビアン)、遠藤周作の『沈黙』の主人公のセバスチャン・ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラ(日本名は岡本三右衛門(おかもとさんえもん))、同じく『沈黙』の主要登場人物の一人としても知られ、棄教後は幕臣となりキリシタン弾圧に協力したクリストヴァン・フェレイラ(日本名は沢野忠庵(さわのちゅうあん))などがいる。

多くの信者は改宗したが、一部の信者は迫害に屈せず、殉教したり、また潜伏してひそかに信仰を持続した者、すなわち「隠れキリシタン」も各地に存在した。彼らは白衣観音や慈母観音を聖母マリア像に見立て「マリア観音」を作って拝んだり、仏像の裏や底、ポーズのなかに一見した程度ではわからないほど巧妙に「十字」のマークを潜ませたり、キリストを描いた絵の上から仏像を描いた絵を張り付けたり、経文や祝詞に偽装して幕府や反キリスト教徒の僧侶などの目を欺き、主の祈りや聖句を唱える「オラショ」または「オンラショ」を唱えたりするなどの形で信仰を続けた。
そうして「隠れキリシタン」として活動する信徒の組織にも弾圧の手が及び、検挙されたことがあった。これを『崩れ』といい、1657年に大村藩(現在の長崎県大村市)で行われた『(こおり)崩れ』はその代表的例で最初の『崩れ』事件である。事件後の厳重な検索と徹底的な仏教化政策により、大村藩のキリシタンはほぼ壊滅状態となったという。

 ちなみに、教科書などでは「隠れキリシタン」と学んだ人が多いと思うが、近年では「隠れ」が反社会的ならびに非合法的な意味を連想させるという指摘から、現在は「潜伏キリシタン」と呼ばれることも増えている。

 1637年から1638年にかけて、「島原の乱」(島原・天草一揆)がおこった。この乱は異常気象にもとづく飢饉が発生し、農作物の収穫量が望めるものではなかったという状況にもかかわらず、島原城主の松倉重政*22・勝家父子や天草領主・寺沢広高が領民に苛烈な年貢を課したり、キリスト教徒を苛烈な拷問*23や虐殺で弾圧したことに抵抗した「百姓一揆」である。
このように、宗教戦争というよりはむしろ「経済の是正を求めての反乱」であるといえる*24が、この乱の後に幕府が徹底的なキリスト教潰しに動いたという史実があり、これはわが国におけるキリスト教史を語るうえで外すことができないので、この一揆には若干紙面を割かせていただく。
島原半島と天草島は、かつては有馬晴信と小西行長の支配下にあり、一揆勢のなかにも有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かったのである。
小西行長の遺臣・益田好次の子で16歳の天草(益田)四郎時貞*25を首領に担ぎ上げ、一揆勢3万余りは原城跡に立てこもり、激しく抵抗した。幕府は板倉重昌を派遣して鎮定にあたらせたが、一揆軍は幕府軍の想像以上の武力を有しており、重昌の戦死により当初の幕府軍の攻略は失敗に終わった。
ついで「知恵伊豆」の愛称で親しまれた老中・松平信綱が九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員して原城を包囲し、兵糧攻めにした。また、オランダ船による海上からの砲撃を求めたことで、ようやくこの一揆を鎖圧した。「島原に立てこもる一揆軍もオランダ人もキリスト教徒なのでは?」と疑問に思う読者もおられるであろうが、厳密にいえば一揆軍のキリスト教徒はポルトガルやスペインとかかわりの深いカトリック系なのに対し、オランダ側はプロテスタントな為に当時のヨーロッパでは出会えば殺し合いになるほどの敵対関係にある*26のでオランダ側には同胞を攻撃しているという認識はないし了承すれば日本での貿易も許可してもらえるので砲撃に躊躇する理由はなかったのだ。
当時の島原藩主・松倉勝家*27「農民の生活が成り立たないほどの年貢の収奪を行った」という罪状で斬首され(大名が武士としての面目を保たれずに一介の罪人として斬首されたのは、後にも先にもこの一件だけである)、同様に唐津藩主・寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後精神を病んで自殺した。
幕府は島原の乱後、さらに禁教を推し進めるために、1640年には天領に「宗門改役」をおき、1664年には諸藩にも「宗門改役」が設置され、「宗門改め」が実施された。また、「寺請制度」を施行し、民衆を檀那寺に登録させることで、徹底的にキリスト教の信仰を禁じることになったのである。

この一揆以降、キリシタンの呼称は「伴天連門徒」から「切支丹」(=既存秩序を乱す邪教徒)に変わり、キリスト教ではない宗教活動も「切支丹」として処罰されるようになった。

江戸時代後期、排耶書からキリシタンの知識を得た陰陽師・水野軍記は弟子の豊田貢と共に新興宗教を広めた。水野は「天帝如来」の教えを広め、豊田はその教えを受け継いだ。
文政10年、京都と大坂で「稲荷下ケ」と称して奇術を行った者たちが加持祈祷に伴う金品トラブルや信仰心からの行動が原因で捕縛され、彼らが切支丹一件に関与していたことが判明した。
最終的に、大塩平八郎によって摘発され、大坂町奉行から「切支丹」として処罰する伺いが提出された。しかし、信仰心から長崎へ行き踏絵を踏んだことで信心が増したとあったというキリスト教徒も幕府もびっくりな自白があったことなどから、実際には「切支丹」の邪教イメージをバックにした詐欺事件ではないかと評定所では「切支丹」として処罰することに疑問が持たれたものの、結局は「切支丹」として処罰されることとなった。
文政12年12月5日に仕置が言い渡され、豊田はじめ主要人物は大坂三郷で引き回しの上、処刑され、既に病死していた水野の遺骸は墓を暴かれ晒された。
この宗教はキリスト教に特徴的な来世救済願望を持たず、井戸の水や滝での水浴びと陀羅尼の唱和が共通の修行として行われていた。また、弟子を驚かせるための妖術や奇術が行われ、病気の祈祷や吉凶判断の占いが成功していた。水浴修行、呪術的要素、妖術・奇術の三つの要素が含まれていたため、民間信仰に類似していたが、これらの行為は「切支丹」と見なされた。
幕府が徹底して取り締まる「切支丹」のイメージはかえって強力な妖術として肥大化しており、
後に大塩の乱で大塩が逃亡した際には、この教団への潜入で得た妖術で逃げおおせたという噂も立ったという。

なぜ幕府がこれほどまでにキリスト教に対して苛烈な政策を行っていたのであろうか?
それは、キリスト教が最高権力者の幕府よりも宗教を優越させる信仰をもっていたからである。幕府からすれば、江戸時代前期はまだ戦国の気風が色濃く残っており、権力体制を盤石なものにするには、その障害となるものを根こそぎ排除する必要があった。キリスト教も、その障害の一種として見られていたのである。

 ヨーロッパのカトリック教会は、キリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ち続けた。特にシチリア出身のイタリア人の宣教師のジョヴァンニ・シドッチは処刑の危険も恐れず、幾度も教皇庁に頼み込んでようやく許しを得て日本上陸に成功した。
艱難辛苦を経て屋久島へ上陸し、侍に変装したが現地の住民に「金髪碧眼の二本差しなんかいるわけないだろ」と怪しまれてすぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、儒者・新井白石の取り調べを受けた。
シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受けた白石は、取り調べの態度を軟化させ、あくまでも「対話」という形で、シドッチから西洋の事物に関する知識を学び取り、『西洋紀聞(せいようきぶん)』『采覧異言(さいらんいげん)』などの著作を残した。
シドッチは小石川の切支丹屋敷に置かれ、囚人として扱われることはなく、二十両五人扶持という待遇で軟禁状態にあった。しかし、監視役のために長助・はるという老夫婦が切支丹屋敷に滞在した。
彼らはキリスト教徒であった親が弾圧に逢って処刑されたため、子供のころからこの切支丹屋敷で働いて口に糊していた。ある日、長助夫婦が十字架を見っていたことが幕府の役人に露見すると、長助夫婦は「シドッチに洗礼を受けた」と自白した。
これがもとでシドッチは長助夫婦とともに屋敷内の地下牢(ただし牢はそれぞれ別)に移され、10か月後に牢内の環境がもとで衰弱し、46歳の若さでこの世を去っている。また、長助はシドッチの死去の二週間前に獄中で亡くなっている。はるの最期は不明である。


 当時翻訳された聖書の巻はごく一部しかなかった*28ことや、禁教やそれに伴う神学校の破壊により宣教師の指導や日本人司祭の育成ができなくなってしまったこともあり、時代を経るにつれその信仰内容は変質し、また本来は偽装工作のために用いていた仏教や神道の信仰に愛着を感じるものも出てくるに及び、次第に仏教色が強くなっていき、元のカトリックの教義とは別物になり、十字架の真の意味が忘れられてしまったことすらあったという。
その一方で、長崎浦上のように、カトリック本来の教義や儀式を忠実に守り抜いた潜伏キリシタン集落も多かった。
1865年に大浦天主堂を建築したことで知られるフランス人神父・プティジャンが浦上の隠れキリシタンを調べた際、洗礼方法がまったく変化していないことに驚嘆したという。
プティジャンは当初、長崎のキリスト教徒はすべて絶滅してしまったものと思っていたが、あるとき15人の人々がプティジャン神父のいる協会へ訪れた際、その中の「杉本ゆり」という中年の女性(産婆として働いていた)が

「ワレラノムネ(宗)、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」
「サンタ・マリアの御像はどこですか?」

と、ひそかに本来の教えを守っていたことを告白したのである。この出来事は『信徒発見』という宗教史最大の奇跡として世界的に有名である。こののち、プティジャンのもとを訪ねた人々はカトリック教会に復帰して正式にキリスト教徒として活動することができるようになった。
このときは1865年3月17日で鎖国解除されたあと、外交関係の円滑化のために比較的にキリスト教徒の弾圧が落ち着きを見せていたころである。

しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し、苛烈な拷問を行い、それでも棄教しなかった者は流刑に処した。これを「浦上四番崩れ」という*29
欧米諸国が幕府にこの「崩れ」事件に対して抗議を表明するが、この事件の解決に動く前に幕府は戊辰戦争で瓦解してしまい、信徒たちはこの艱難辛苦に耐えることを余儀なくされた。

彼らの信仰表明は、物価騰貴による格差社会の影響を受け、殉教覚悟の信仰表明につながった。この変化は、近代への移行の一環として理解される。


そして明治へ…

 戊辰戦争の混乱で「浦上四番崩れ」への対処が先延ばしになる中、新政府もまた幕府の政治方針を受け継ぐ形で「キリスト教の信仰の禁止」を『五榜の掲示』で明示し、信徒への拷問や流刑が継続されることとなった。
新政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。
これは、新政府が天皇を中心とした国家を築くために神道を重視したためである。
1869年1月には熊本藩出身の参与・横井小楠が十津川郷士複数人の襲撃を受けて重傷を負い、死亡した事件が発生する。
横井殺害の理由は犯人の十津川郷士曰く「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」というものであった。実際は横井はキリスト教徒が国教化することで仏教徒との争いが発生することを危惧しており、この動機は事実無根なものであった。
この「禁教の継続」には、薩摩藩士で、当時駐米少弁務使を勤めていた森有礼(もりありのり)や、西本願寺の僧侶の島地黙雷(しまじもくらい)が反対の意を表明したが、政府内の保守派の

「神道が国教なのだから、異国の宗教が存在する余地があってはならない」
「キリスト教を解禁したところで欧米がそう易々と条約改正には応じるとは思えない」

という意見が圧倒的に多く、禁教が継続されることとなった。
これらの一連の処罰に対し、欧米列強は激しく抗議した。のちに岩倉具視や大久保利通、木戸孝允や伊藤博文、山口尚芳などからなる『岩倉使節団』が欧米諸国を訪問して条約改正のための交渉に奔走するが、

「条約改正の交渉に応じるのは、お宅の国がキリスト教の信仰の禁止を撤廃し、これまで弾圧してきたキリスト教徒の罪を許してからだ」

と退けられ、1873年になってようやく「禁教の撤廃」を表明し、流刑に処されていた者たちは浦上への帰還を許された。
彼らは『浦上四番崩れ』のことを『』と称し、そのころの困難を思い出して信仰を決して捨て去ることはなかった。
そして1889年の大日本帝国憲法の公布で、憲法の条文の中で「法律ノ範囲内ニ於テ」という枕詞が付されながらも、「信教ノ自由」として、ようやく完全にキリスト教の信仰が法的な保障を得られたのであった。

これらの変革により、「隠れキリシタン」を取り巻く状況も大きく変化した。禁教がなくなり、信仰の自由が認められた近代に至ると、「隠れキリシタン」の大半はカトリック教会に復帰したか、もしくは教会との接触を断ち、かつて偽装工作のために利用していた仏教や神道の信仰に鞍替えするようになった。
現代でも、変質した「カクレキリシタン」の教えを継承する人々が存在する。
なお、バチカンの教皇庁は「『カクレキリシタン』もまたキリスト教徒の一派である」という見解を示している。
2018年6月30日に日本としては22件目の世界遺産として「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が登録された。

カトリックもプロテスタントも、日本のキリスト教は武士階級で敗者側の人々が、あれほど主戦論に賛成の意を表明していたにも関わらず、いざ戦闘となれば戦わずして大坂に逃亡した将軍・徳川慶喜に対するやり切れない想いをぶつけるかのように、熱量が高かった。
プロテスタントは新島襄や新島八重の同志社、井深梶之助(いぶかかじのすけ)の明治学院、江原素六(えばらそろく)の麻布中学、津田仙の青山学院、津田梅子の津田塾、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の東京女子大学、本多庸一(ほんだよういつ)の東奥義塾、個人では元見廻組の今井信郎(いまいのぶお)が1878年にプロテスタントに帰依している。
他には、植村正久(うえむらまさひさ)内村鑑三(うちむらかんぞう)朝河貫一(あさかわかんいち)などがいる。
揃って戊辰戦争では反太政官側の人たちが目立つ。

カトリックは1873年9月に来日した、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師であるジェルマン・レジェ・テストウィードがカトリック復興のハシリである。
彼は日本における恵まれない人々、特にハンセン病患者の面倒を見る為に、神山復生病院を1889年5月、現在の静岡県御殿場市に設立。
こちらは誤診でハンセン病患者にされた井深八重が献身的な看護や看病で世界から注目を集め、1959年2月20日にバチカンにおいてヨハネ23世教皇より、聖十字架勲章
「プロ・エクレジア・エト・ポンテイフィチエ」
を受章。
日本のマザー・テレサと海外へ紹介された。


明治期のキリスト教徒はカトリック、プロテスタント問わず徳川家や主家に対して捧げていた忠誠心を、天皇ではなくキリスト教への信仰に全振りし、時代に阿らない信仰を創り出した。
その流れのひとつとして、プロテスタント(メソジスト派)に入信していた思想家内村鑑三が提唱した「無教会主義」なる運動が存在。
一般的な「教会での礼拝」ではなく「信徒による聖書講義集会」と「キリストの十字架」を重んじるこの信仰理論は、主流でこそないものの日本独自のキリスト教学派として定着。
かの漫画家長谷川町子(10代の頃家族一緒にキリスト教に入信)は、成人後に母の勧めで内村の弟子矢内原忠雄による無教会主義(生前のインタビューでは「無教会派」と呼称)の聖書講義集会に参加し、その縁で矢内原と交友関係を持っていたという。

バチカンの教皇庁は大日本帝国との友好関係を結ぶために、大正8年(1919)からは駐日教皇使節を派遣。
帝国側は昭和17年(1942)にバチカンに公使を派遣するに至ったが、第二次世界大戦で一時停止。
昭和24年(1949)4月28日に再開され、初代公使にマキシミリアンドフルステンベルグ枢機卿 (当時は大司教)が任命派遣された。

日本で余り馴染みの無いギリシャ正教の関係者には坂本龍馬や武市半平太の妻の親戚である沢辺琢磨(さわべたくま)がいる*30
日本ハリストス正教会の最初の信者として日本人初の司祭に叙聖された。
神田駿河台のニコライ堂建設にも尽力した。
坂本龍馬の事を聞かれると涙を流したと言われる。本当に涙を流したいのは懐中時計を落として金に変えられた持ち主であろう。

第二次世界大戦と日本のキリスト教

1939年、帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行。
要はキリスト教のオールジャパン化である。
それでも、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教という枠組みは残ったが…

1941年5月、日本のカトリック教会は、宗教団体法に従いローマ教皇直属である日本の各司教区と日本に所在する修道会をすべて統合する団体として日本天主公教教団を設立。

バチカンの教皇庁も日本の信者を守る為に靖国神社への参拝を容認していたが、ハンセン病や結核の患者救済は変わらず行っていたので、度が過ぎる弱者救済を帝国政府から批判され、配給面などで嫌がらせを受けたと井深八重は後年、述懐している。

プロテスタントは1941年、プロテスタント32教派が日本基督教団を結成。

日本各地のプロテスタント系神学校は日本基督教神学専門学校と日本基督教女子神学専門学校にまとめられた。

同志社だけはこの動きに反発、日本が敗戦になるまで神学科は従来通り授業を続けた。

一部のプロテスタント信徒は帝国政府の方針に反発、1942年6月26日と1943年4月にホーリネス系と呼ばれる人々134名が逮捕、拘束され、裁判が行われ、134人の検挙者のうちの75人が起訴された。全員が上告して、戦後免訴扱いになった。

当時の日本基督教団の幹部らは、当局のホーリネス検挙を歓迎したが、1984年、日本基督教団は、当時の誤りを認めて、関係者とその家族を教団総会に招いて公式に謝罪した。

ギリシャ正教は共産主義とは絶許であるのだが、帝国政府はロシア人=共産主義と見ていて、ギリシャ正教の指導者を逮捕、拘禁して拷問に掛けていた。

日本のこの姿勢は亡命ロシア人や日本人信徒の間から反発を買った。

東洋のシンドラー・杉原千畝(すぎはらちうね)が満州にいた頃、ロシア正教会の洗礼を受け、正教徒としての聖名(洗礼名)は「セルゲイ・パヴロヴィチ」という別の顔を持ち、表の顔=大日本帝国外務省外交官と別の顔を駆使して、ユダヤ人を助けたのは有名である。

また、1945年8月9日に長崎に原爆が投下され、当地の多くのキリスト教徒が被ばく、死亡し、浦上天主堂は全壊。大浦天主堂も大きな被害を受けた。なお、この日には聖母被昇天の大祝日*31を控え、ゆるしの告解の準備が行われていた。

日本におけるキリスト教・キリスト教史を題材とした作品

基本的に信仰や信徒を主として扱うことが多く、主要人物の一部だけキリスト教のいち宗派を熱心に信仰するような作品は少ない。
当然ながらこれは、ある程度のリアリティを持たせるためには作者側がある程度の予備知識が求められるためである。
そして十分な知識を持つ作家はキリスト教という存在を単なる舞台の彩りではなく主題として扱うことが多い。

キリスト教に関する作品を多数出した著名な作家の中で、芥川龍之介はキリスト教に深い興味を抱いたこと、遠藤周作はカトリック教徒であったことから見識を深めて作品へと反映させている。

小説

  • 芥川龍之介
『おぎん』    
『おしの』    
『きりしとほろ上人伝』
『じゅりあの・吉助』
『煙草と悪魔』
『奉教人の死』
『るしへる』

  • 遠藤周作
『侍』*32
沈黙
『女の一生』*33

  • 坂口安吾
『イノチガケ ヨワン・シローテの殉教』*34

漫画

  • 諸星大二郎
  • 山田芳裕

アニメ

  • 山田尚子
きみの色


余談

  • 踏めば助かるのに…。
2022~2023年に初登場し、2024年にネットで大流行したネタ。

浜島書店より出版された中学歴史資料集「学び考える歴史」では、学習本のお約束として様々なキャラクターが様々な出来事について感想を述べたり問いかけたりするが、人間の歴史や当時の価値観を知らない読者目線のキャラクターとして記憶力はすごいが人間の事を全く知らないロボットが登場する。
一見合理的で正しいように見えるが、当時の時代背景や当事者達の心情を全く理解してない無情な発言を連発するため、読者に「鬼畜ロボ」と呼ばれる事が多い。
中でも一番有名なのが、本項目で解説された「踏み絵」の様子に対する上記の台詞「踏めば助かるのに…。」である。
確かに自分の命を守る上では仕方のない事だし、実際「踏み絵」を泣く泣く踏んで生き延びたキリシタンは多かったが、当時の弾圧されていたキリシタンの心情や宗教観を踏みにじる爆弾発言としてネットで注目を集めたのである。この台詞をアレンジしたパロディ絵やコラ画像が多数作られた。

繰り返すが、このロボットは「当時の人間の事情を詳しく知らない読者」目線で率直な発言している事を留意していただきたい。





参考文献

  • 大石学『幕末維新史年表』東京堂出版、2018年
  • 佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鳥海靖『詳説日本史研究』山川出版社、2018年
  • 立花京子『信長と十字架』集英社新書、2004年
  • パジェス著、吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史』岩波文庫、1938年
  • パステルス著、松田毅一訳『16-17世紀 日本・スペイン交渉史』大修館書店、1994年
  • 山本秀煌 著『日本基督教史』上巻,新生堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943939
  • 山本秀煌 著『日本基督教史』下巻,新生堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943940


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最終更新:2025年05月03日 23:21

*1 国号を「唐」としていたころの中国に「ネストリウス派キリスト教」(中国名は「景教」)が広まり、古代日本に遣唐使を通じて伝来したという逸話や、実はイエスは弟の「イスキリ」に身代わりになってもらうことで現在の青森県に相当する地域まで逃げ延び、布教活動を行ったという逸話があるが、これらの逸話は明治期から昭和期の宗教家・竹内巨麿による『竹内文書』や佐伯好郎の論文がもとになっているとされ、現在の歴史学会において「奈良時代における景教の渡来」の逸話は「ペルシャや唐など異国情緒あふれる文化が多く伝わり受け入れられた時代なので、仏教による鎮護国家思想が根強く根付いていた天平時代の日本では普及こそしなかったものの、そういった思想が紹介された可能性は否定できない」という見解が出ているものの、後者の逸話は歴史学的にはほぼ否定されている。とはいえ、青森県には現在もなおこの「イエス日本逃亡説」をもとに町おこしを行っている地域があり、「キリストの墓」という巨大な十字架まで建てられている

*2 「ヤジロー」ともいう。かつて殺人事件を犯し、手が後ろに回るのを防ぐため日本から逃亡したことをザビエルに告白し、ザビエルの洗礼を受けて日本人最初のキリスト教徒となり、ザビエルの布教活動に同行した

*3 島津四兄弟の父親。「悪い方の家久」こと島津忠恒からみて祖父にあたる

*4 大内はキリスト教の布教を許可し、ザビエルの持参した西洋の文物に非常に興味を示した。ザビエルに当時の武将の風習であった「衆道」をこっぴどく批判されたときはこれに憤然としていたが、その一件でザビエル一行を追い出したり布教活動を禁止したりということは一切していない

*5 アニミズムや先祖への崇拝といった、わが国に土着の信仰とキリスト教の教義がどうしてもかみ合わなかったことも一つの原因として考えられる

*6 当初はキリスト教の教義を「大日如来」など人口に膾炙した仏教用語に置き換えて教えていたが、キリスト教が「独立した宗教ではなく、仏教の一派にすぎない」という誤解を受けて正しく理解されないことを憂いたことで、原語どおりに教える方針に改めるなどの工夫を行った

*7 なお、グレゴリウス13世との面会当時、中浦ジュリアンは長旅の疲れからくる風邪で寝ていて会見には出席不可能であった

*8 この総合病院建設の計画については、当初仲立ち役となった宣教師のコスメ・デ・トルレスとバルタザル・ガーゴらは当惑したものの、宗麟はアルメイダの「堕胎や間引きの習慣をやめさせ、一人でも多くの嬰児の命を救う」という目的に感心し、これを快諾した。のちの禁教政策で、この病院は取り壊されてしまい現存していない

*9 イエズス会の日本名。「イエス」→「ヤス」→「ヤソ」と訛って『耶蘇』の字が当てられた。現在は差別的意味合いが強くなってしまったため、この表現はあまり用いられなくなっている

*10 宗門の教義に関して行われた、宗派の異なる僧侶同士による公開討論会。なかでも『信長公記』に記された1579年の「安土宗論」が有名

*11 このフロイスの滞在への許可は、当時征夷大将軍の職にあった足利義昭の家臣・和田惟政(わだこれまさ)の協力もあった。惟政は禅宗の家柄であったものの、朝廷が「伴天連追放の綸旨」を発令するとそれを撤回させようとしたり、宣教師を威圧しないために教会への兵士の宿泊を禁止したり、自邸に招いた宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと何かにつけて宣教師を厚遇していたため、フロイスは何としても惟政に洗礼を受けさせようとしていた。しかし1571年8月の三好三人衆との合戦(白井河原の戦い)で惟政は戦死したため、それはかなわなかった。その死をフロイスは大いに嘆いたという。

*12 京都の切支丹であった清水里安(しみずりあん)の献金によるところが大きい。里安は寄付のみならず、慈善事業にも力を尽くした

*13 どう聞いても差別的な発言だが、こういう発言を臆面もなく、しかも日本人の民衆本人の前で言い放っているのである

*14 特に大友宗麟に至っては、早い段階から秀吉に仕官を申し入れしたことで、秀吉がその見返りとして大友氏の脅威となる島津氏の征伐のために動いてくれているのだから、秀吉と敵対する理由が一切ない。

*15 彼らはのちにそれぞれ「三浦按針」「耶揚子」という日本名を与えられている

*16 「切腹」の記録が残っているのは日本側のみで、キリスト教徒側の記録では「教義に背く自刃をよしとせず、家臣に己の首を刎ねさせた」と伝わる

*17 日本人だが、俗名は不明。もともとは「恵春」と名乗った禅僧で、母親とともにキリスト教に入信したが、外国人宣教師の日本人に対する態度に不満を覚え棄教

*18 「ハビアン」「ファビアン」を名乗った日本人の宣教師やキリスト教徒は当時複数いたため、このページでは「不干斎」の号を付した

*19 デウスを論破する、という意味

*20 この殉教では、かつて岡本大八事件やそれに伴う禁教令のあおりを受け、苛烈な拷問により手足の指を全部失ってもなお信仰を捨てなかった家康の旧臣・原胤信(はらたねのぶ)が再び逮捕され、火刑に処されている

*21 このあたりは、遠藤周作の小説『沈黙』で、絵踏みでは効果がないと判断した奉行所の役人がキリスト像に唾を吐かせる拷問に変更するという描写で表現されている

*22 もとは「キリシタン大名」だったが自らの意思で棄教

*23 磔にした状態で何日間も水に漬けて溺死させる「水磔」や、蓑を着せてそこに火をつけ、燃え盛る炎で罪人をもがき苦しませ、その様子を踊っているかのように見立てる「蓑踊り」など。

*24 教皇庁も反乱の首謀者である天草四郎やその家族、一揆勢を「殉教者」とは位置づけていない

*25 馬標がヒョウタン型であったことから、大坂の陣で死なずに九州に逃げ延びた豊臣秀頼の遺児であったという説もあるが、その大本となる「秀頼生存説」も「天草四郎=秀頼の遺児説」のいずれも憶測の域を出ていない

*26 こうした関係は幕末~明治初期に発生したキリシタン迫害にも反映されている。後述する「浦上四番崩れ」に関して、日本は欧米諸国からバッシングを受けていたが、佐賀藩校・致延館講師でのちに岩倉使節団の派遣に一役買ったオランダ系アメリカ人宣教師のグイド・フルベッキはこの「崩れ」に対して、日本に異議申し立てをすることはなく、むしろ日本寄りの姿勢を見せていた。それはやはりフルベッキがプロテスタント派の宣教師で、「崩れ」に苦しむカトリックを「敵」とみなす立場にあったためである

*27 この時すでに先代の城主であった重政は病死している

*28 江戸時代後期(天保年間)に洋学サロン・尚歯会のメンバーである小関三英(こせきさんえい/おぜきさんえい)が聖書の研究を行い、翻訳を試みているが、「蛮社の獄」(同じく尚歯会のメンバーの高野長英と渡辺崋山がそれぞれの著書『戊戌夢物語』『慎機論』で異国船打払令を批判して逮捕され、目付・鳥居耀蔵の暗躍により幕府の洋学への弾圧が始まった事件)に連座して捕縛されることを恐れ、自殺を図っている

*29 これ以前にも、1790年の「浦上一番崩れ」、1842年の「浦上二番崩れ」、1856年の「浦上三番崩れ」と3度にわたって検挙事件が発生している。また、浦上地区に在住する多くのキリスト教徒が負傷し命を落とした長崎市への原爆投下を、「キリスト教徒たちの受難」とみなして「浦上五番崩れ」と称することもある

*30 坂本龍馬の父親の兄の子供で武市半平太の妻の叔母が母親。旧姓は山本。もともと酒癖が悪く、酔って気が大きくなり、拾った懐中時計を懐に入れて金に変えて問題になり、坂本や武市が逃亡を奨めた。俗説ではやはり酒で気が大きくなっていたのか、通行人に因縁を吹っ掛けて時計を奪ったとも言われている。

*31 聖母マリアがなくなったといわれる日の祝日。

*32 時系列でいえば『沈黙』の前日譚にあたる作品。仙台藩主・伊達政宗の命を受けてスペインに派遣された藩士・支倉常長をモデルにしている

*33 時系列でいうと『沈黙』の続編にあたる作品。『第一部』と『第二部』に分かれ、前者は幕末から明治期の『浦上四番崩れ』、後者は戦前のキリスト教徒への差別をそれぞれ舞台にしている

*34 前半部はシドッチ(作中ではシローテ)来訪以前の日本のキリスト教史について述べ、後半部はシドッチの一生を述べている