大久保利通

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更新日:2025/07/25 Fri 21:58:54
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(おお)久保(くぼ)利通(としみち)とは、幕末から明治初期にかけて活躍した武士、政治家である。
西郷隆盛木戸孝允と並び「維新の三傑」と称される。



画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A ウィキペディアの「大久保利通」のページから。(上)志士時代の写真。明治元年撮影か。(下)大礼服姿の写真。

生没年:1830年~1878年
出身地:鹿児島城下加治屋町
幼名:小袈裟
号:甲東(こうとう)

▽目次

生涯

少年期

鹿児島城下加治屋町*1にて、()小姓与(こしょうぐみ)と呼ばれる下級武士・大久保利世の長男として生まれた。
幼少期は薩摩藩特有の師弟教育である郷中教育を受けて育った。幼少期は体が弱く、腕っぷしは決して強いとは言えなかったが、勉学に優れていたという。
西郷隆盛とは同郷で家も近く、年齢は西郷の方が3つ年上であったが、幼少期からの友人であった。


弘化3年(1846年)、16歳の頃、藩の記録所書役助に就任する。これには、幼少期から勉学を積んできた結果が出たといえよう。
しかし、嘉永2年(1849年)、藩主島津斉興とその世子・斉彬との間に起きた、後継者争いに端を発する「高崎崩れ(お由羅騒動)」と呼ばれる事件に連座して、父利世が島流しにされた。
息子の大久保もまたこれに連座して罷免され、謹慎処分を受けた。
もともと一家はそこそこ裕福な生活を送っていたが、父子が職を失ったことで一家は極貧生活を余儀なくされた。


謹慎中は勉学に励みながら、友人の西郷吉之助(隆盛)や吉井幸輔、伊地知正治や有村俊斎などとともに『近思録』の研究会を開くなど交流の日々を送る。
この時集まった同志は「精忠組」と呼ばれる団体を結成し、討幕へとつながる一大派閥を築く。
なお、本来「精忠組」は後世の呼び名であるが、便宜上本稿では括弧を付したうえで「精忠組」と記す。


しかし、貧窮する大久保一家に転機が訪れる。
嘉永3年(1850年)に老中・阿部正弘の介入で斉興が藩主を引退し、次期藩主に斉彬が就任すると、
その2年後に利通は謹慎処分を解かれて復職し、蔵役に転ずる。なお、この時に父・利世も薩摩に帰ることができている。
斉彬は幕政に積極的に参加するかたわら、身分を問わず才能のある若き精鋭たちの登用に取り組んでいた。
安政4年(1857年)には西郷と共に大久保も御徒目付に取り立てられている。


安政5年(1858年)、大老・井伊直弼による違勅調印による通商条約の締結と、安政の大獄に反発した斉彬は、
5000人の藩兵を引き連れ上洛し、朝廷に攘夷論を放棄させたうえで幕政改革の勅許を引き出す計画を立てるが、同年7月に急病により死去する。
現在でこそ斉彬の死因はコレラとされているが、このあまりにも突然の死は、父・斉興一派による毒殺のうわさが立つほどであった。
斉彬の死後、新藩主には斉彬の異母弟・久光の子である茂久(もちひさ)が就任した*2が、まだ若くて経験に乏しかったため、久光が実権を握り、さらにその背後で斉興が権威を掌握していた。





始動、『精忠組』!


斉興・久光父子が実権を掌握したことで、斉彬亡き後の薩摩藩には重苦しい雰囲気が立ち込めていた。
『精忠組』のメンバーたちはこの状況を打破するため、脱藩して井伊直弼の襲撃、すなわち突出(とっしゅつ)を試みた。
そのさなか、大久保は島津久光への接近を試みた。
久光は囲碁を趣味としていたが、大久保は久光の囲碁の相手の寺(吉祥院)の住職・乗願に出会い、住職から久光の趣味嗜好を聞きだした。
乗願は大久保の親友・税所篤(さいしょあつし)の兄でもあり、大久保の久光の接近には篤も兄とともに協力した。
ある時、乗願から久光が読みたがっている本について聞き出した大久保はその本を用意し、住職を介して久光に提出した。
その本の中に自らの時勢に関する意見や精忠組について書いた紙片を挟み込み、自分たちの存在を示した。

やがて斉興の死去により、「精忠組」のメンバーはかねてから練っていた「突出」計画を実行に移そうとしていた。
しかし、「精忠組」の動くをいち早く察した久光は、藩主・茂久名義で論告書を出し、彼らを説得した。
「精忠組」一同はいったんは矛を収め、説得を諄々と聞き入れたのだが、「突出」計画は3回ほど持ち上がり、そのたびに久光は茂久名義での諭告書を出してこれを抑えた。
そうした中で、久光は精忠組という有志を擁する大久保の才覚や、
斉彬の遺志を継ぎたいという自らの意志が大久保のそれと一致することに気が付き、大久保たちを利用することを決める。
万延元年(1860年)3月、大久保は初めて久光と面会し、閏3月には勘定方小頭格に任命された。




西郷帰る

桜田門外の変で井伊直弼が斃れると、久光は兄・斉彬のように率兵上洛計画を立て始めた。

文久元年(1861年)11月、久光は藩内の上洛反対派を更迭すると大久保を御小納戸役に任命。小松帯刀らと共に大久保が藩政の中枢に躍り出る
翌文久2年(1862年)1月、久光から朝廷工作を任じられた大久保は、島津家と縁戚関係のあった公卿・近衛忠房と面会して協力を求めるも、色よい返事はもらえなかった。
これはやはり、久光の「藩主の『父』ではあっても、久光本人は『無位無冠』である」という立場が災いしていたためであった。

藩内においても上洛反対論が根強いところに、更に別の問題が持ち上がってきた。
有馬新七などの精忠組の過激派達が率兵上洛を利用して討幕運動のきっかけにしようと画策し始めたのである。
当時の大久保や久光の考えは公武合体論であり、討幕は考えていなかったが、このまま計画を実行に移すと過激派が暴発する可能性が生じていた。

ここで過激派達に顔の利く人物で、彼らのストッパー役となりうる西郷吉之助を呼び戻す計画が浮上した。
大久保は「安政の大獄」の余波で奄美大島に流されていた*3西郷の帰還を久光に進言したところ、久光はこれに同意し、かくして西郷の帰還がかなった。

2月、帰還した西郷に対して小松ら藩幹部と共に計画への協力を求めるが、逆に西郷から事前準備の不備の指摘を受け反対される。
更に西郷は久光に面会した際にも真っ向から反対論を唱え、おまけに久光を「地ごろ(田舎者)」とまで呼ばわった。
面と向かって部下に田舎者呼ばわりされた久光の内心は推して知るべしだが、どうにか怒りを抑え込み、一旦は西郷の意見を聞き入れた。
ただ、この久光と西郷の面会は、生涯両者の間に消えない確執をもたらすきっかけとなる。
大久保の執念の説得により、西郷も渋々ながらそれを受け入れ、上洛へのワンステップを踏んだ。


寺田屋の惨劇

文久2年(1862年)3月13日、久光はまず先発隊として西郷を下関に向かわせた後、3日後に藩兵1000人余を率いて上洛を開始した。
この上洛には大久保や小松のほか、西郷信吾(従道)や中村半次郎、大山弥助(巌)や東郷平八郎など、のちの明治政府の重鎮が随行している。


上洛の最中、各地の攘夷派が大阪・京都に集まり、精忠組の過激派もこれを機に討幕挙兵にまで持ち込もうと久光の到着を待ち構えていた。
過激派の動きを察知した西郷は久光の命を破って大坂に赴き、彼らの説得にあたった。しかし、西郷の行動は完全に裏目に出てしまう。
久光からすれば、一連の行動はむしろ「西郷が彼らをアジって暴発させようとしている」という風に映っていたのだった。
しかも悪いことに、久光のもう一人の側近であった中山尚之助が、西郷の行動をことさら悪し様に久光に吹き込んでいたのである。
とはいえ、この件に関しては西郷にも非はあった。
いくら久光と馬が合わなかったとしても、仮にも今は君主と臣下という関係であるのだから、
過激派の鎮圧についての判断を仰ぐために書状を送って久光と連携を取るなど、最低限の礼儀は尽くすべきであった。
久光の命を受けて西郷を調査した大久保は、彼が実際には過激派の鎮圧のため尽力していることを報告するが、
どちらにせよ久光からすれば西郷の行動は「自分の命令を無視した行為」でしかなかったため、久光は怒りのままに西郷に厳罰を科すことを決定する。


大久保は西郷が久光からの処分を聞き入れずに過激派側に回ってしまうことを危惧し、
西郷に「吉さァが久光様の処分を受け入れられんチ言うとなら、(オイ)はおはんとともに死にもそ」と説得した。
友人の決死の説得に西郷も肚をくくり、西郷は徳之島、ほどなくして沖永良部島へ配流となる。


そして、西郷の配流は、過激派のストッパーが不在となったことを意味した。
西郷の配流後、過激派の急先鋒の有馬新七らが京都伏見の旅館・寺田屋に集結し、
和宮降嫁に協力的だった関白・九条尚忠(くじょうひさただ)や京都所司代の屋敷への襲撃を画策したのだった。
久光が京都に到着した4月16日から4日後の20日、大久保は鎮撫のために寺田屋に遣わされて説得を試みるが効果無く、
その後も藩士による説得は続けられたが、23日に計画実行が決定されると上意討ち已む無しとなり、同日夜、文字通りの同士討ちが起こった。
この事件によって有馬を含む計9名が死亡、生き残った薩摩藩士*4は国元へ送還、他藩の関係者は引渡しとなり、薩摩藩内部の過激な尊攘派のグループは壊滅した*5
これを以て、久光は京都において「薩州大明神」と呼ばれ、たたえられた。




討幕への道

寺田屋事件の後、大久保は勅使・大原重徳や久光とともに江戸に出て久光の官位獲得のために奮闘した。
しかし、ここでもまた久光の「藩主の『父』にすぎず、本人は『無位無冠』である」という立場が足を引っ張り、官位の獲得には成功しなかった。


文久3年(1863年)には御側役小納戸頭取となり、薩英戦争*6の全面指揮にあたった。
戦局は薩摩の方に有利ではあったものの、薩摩藩側にも少なからず損害をもたらした。
しかし、イギリスは薩摩藩の行動力を認め、これ以降は薩長のスポンサーとなる。
大久保は戦後、江戸で講和役にあたっている。
八月十八日の政変の後は久光に従って公武合体運動に着手した。そのさなかに公卿・岩倉具視に会い、公武合体運動への協力の約束を取り付けた。


文久4(1864)年には京都にて参与会議を行った。その参与会議には前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽、
前宇和島藩主・伊達宗城、将軍政事職・一橋慶喜、京都守護職・松平容保と、そしてやっと爵位・官職をもらえた島津久光が召喚されたが、
孝明天皇の御機嫌を取り、政局の主導権を握りたい慶喜・容保と、開国志向の諸侯との間に隔たりが大きく、ほどなくして分解・解散となった。
その後、大久保を含む藩内の有志から「西郷の沖永良部島からの召喚」という提案(嘆願)が久光に届けられ、久光は最初渋った*7ものの、
「朝廷との関係の修復」という目的達成のため*8、渋々その提案を受け容れ、西郷を赦免・帰国させる。

なお、西郷の帰国許可を出すのを渋ったのは久光だけではなかった。
前述の通り、久光の側近であった中山尚之介も、西郷帰国の案に真っ向から反対の意を表明していた。
彼は前述の西郷の下関における過激派鎮圧の際にその行動に振り回されてしまっており、西郷を嫌っていたためである。
一方の西郷も中山の人柄を快く思っていなかったのは確からしく、「我意の者」とこれを批判している。
中山は、一時は久光の右腕として権勢を振るったが、薩英戦争の最中に精忠組が復権してくると、
彼らからは西郷の島流しの一因となったことを憎まれたことや、薩英戦争の最中に軍事会議で誤った進言をしてしまい、
その結果藩の船舶がイギリス軍の砲撃で焼かれてしまうといった失策を犯したことで失脚した。
それからしばらくは閑職にこそ追いやられていたものの久光に仕え続けており、
維新後の1876年(明治9年)には、久光が太政官と対立した原因を大久保ら太政官首脳部にあるとして、大久保の暗殺を企てた。
が、これが太政官に露見し、翌年に開かれた裁判で懲役10年の判決を受け、大久保が実際に暗殺されるより少し前に獄中で病死した。

西郷の赦免と帰国を認めて以降、西郷と久光の間に目立った対立はなく、大久保は久光と西郷のパイプ役となり、京都や大坂を往復した。
ただ、久光側は本音の部分、西郷や大久保を許した訳ではなく、しばしば抜き打ちで西郷や大久保の書いた書簡を検閲している。
西郷と大久保は、共に本当に大切な事は対面で話していたが、島津家の屋敷内では監視の目が光っていて、
隠れ家や愛人宅で尾行を撒いてからでないと本音で話せないという厳しさがあったと郷土史家は指摘している。




夜明け前

大久保は慶応元年(1865年)8月4日付の報告書の中で、長州征伐は会津が主導で行われるが、
「大義名分が弱いから失敗する。我々は富国強兵に務めて国力を養う必要がある」と記している。
翌年の慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬の仲介によって薩摩藩と長州藩は秘密同盟を結んだ。
この「薩長同盟」に大久保は小松、西郷とともに天皇の寵愛を独占する容保と中川宮を攻撃し、
彼らを朝廷から追放し、代わりに薩摩と長州が復権する事が日本の為だと主張している。

それからほどなくして第二次長州征伐に踏み切った幕府から出兵の要請が出た。
当初、老中・板倉勝静と面会した際、大久保は「耳の病」と嘘をつき、のらりくらりと理由をつけ、
ついには「何と、公方様は薩摩を成敗なさると仰せなのですか!?」と逆ギレをかまし出兵を拒否。そうして、公式文書でも薩摩藩は出兵を拒否した。
結局幕府は第二次長州征伐を薩摩藩なしで開始せざるを得なかったが、この最中に将軍・徳川家茂が薨去し、休戦を余儀なくされ、実質上は長州軍の勝利に終わった。
その翌年には長州に赴いて、前年に締結した薩長同盟に基づき、来たる幕府との戦争の際の出兵を約束した。


将軍・徳川慶喜の大政奉還から王政復古に至る過程において、大久保は京都におり、全面指揮に当たった。
当初、岩倉具視は武力討幕に対して消極的であったが、これに発破をかけたのが大久保であった。
「王政復古の大号令」において大久保は参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張し、
「会津と桑名を京都守護職、京都所司代を廃止した上で帰国させる勅命を出し、言う事を聞かなければ、朝敵として討つ」という提案を岩倉具視に提出している。
これは、慶喜の「将軍職」の生命線を完全に断つための手段であった


新しき国へ

慶応4年(1868年)1月23日、大久保は太政官にて大阪への遷都を主張する。
その後、総裁局顧問・鎮将府参与に就任して明治天皇を江戸に奠都。そして同年8月、「江戸」の名称を「東京」へと改めた。
翌年には参議に就任し、版籍奉還に着手した。この功により、従三位と章典録一八〇〇石を賜った。

明治3年(1870年)には岩倉具視とともに薩摩に赴き、薩摩に帰って隠遁していた西郷隆盛を政府に召喚し、西郷とともに参議に就任。
明治4年(1871年)、廃藩置県に代表される明治政府の中央集権体制確立を行った。

当時の旧藩主はこれらの処置にほとんど不満を示さなかった。
だいたいの藩主は江戸生まれであったし、どの藩も戊辰戦争で(あるいは江戸時代を通じて)財政がひっ迫していたためである。
ただ、大久保の旧主である島津久光はこの処置に不満たらたらであった。
久光は「江戸幕府瓦解の後、次に権威を掌握するのは自分だ」と考えていたらしく、
お付きの者に「おい、わしはいつ征夷大将軍になれるんだ?」としばしば問うていたという。
廃藩置県が施行された日には夜通し花火を打ち上げるという形で鬱憤を晴らすと共に、あからさまな不服を態度で示した。
とはいえ、既に大久保ら下級氏族に行政権を握られている以上、久光にこれ以上出来ることはなく、
一応大久保や西郷はそれなりに久光に気を遣っていたが、最期まで「わしは西郷や大久保に騙された」と言い続けたという。


廃藩置県後には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として伊藤博文や木戸孝允とともに外遊する。
2年間もの外遊を終えて帰国したのちは、外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る「征韓論論争」において、
岩倉や木戸とともに「内治優先」のスローガンを掲げて西郷の朝鮮半島への派遣に反対し、西郷や板垣退助ら征韓派と対立した。
明治六年の政変」である。
この政変においては、西郷や板垣らが政府を辞するという結果となった*9
同年に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議も兼任)として実権を握ると、学制地租改正徴兵令などを実施した。
そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。


明治7年(1874年)2月、「征韓論論争」に敗れて太政官を辞し、「憂国党」の党首となっていた江藤新平らにより佐賀の乱が勃発すると、
ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧すると、その後の裁判では首謀者の江藤ら13人の一切の申し開きを許さず、
江藤に斬首刑を宣告しただけでなく、その首を梟首した上で写真も撮り、全国の県庁で晒し者にした。
ちなみに大久保は江藤新平が(人間的には)大っ嫌いだったらしく、江藤への死刑判決を下した日の日記に、
江東(ママ)醜態笑止なり、今日は都合よく済み大安心」
と、わざと苗字を誤って記している。この一件から、
「江藤に死刑の判決を下した裁判長・河野敏鎌(こうのとがま)はかつて江藤の弟子だったが、大久保から1000円で買収されていともたやすく師を裏切った」
「大久保が上京していた江藤の弟・江藤源作を見て、あまりに江藤にそっくりだったので腰を抜かした」
という風説が流れた。
江藤と大久保の間に確執があったことは間違いないが、大久保は江藤の政治的実力を認めていた
大久保は江藤を、古代中国の秦の時代の政治家・商鞅(しょうおう)*10になぞらえて評価している。



同年4月には台湾に漂着した琉球人を現地人が殺害した事件をきっかけとして、西郷従道とともに台湾出兵に踏み切った。
大久保はこののち、戦後処理のため、全権弁理大臣として9月14日に清に渡り、
交渉に交渉を重ねた結果、清に台湾出兵を「義挙」と認めさせ、50万両の償金を支払わせることに成功した。
この台湾出兵の経験から、明治8年(1875年)には太政大臣・三条実美に海運政策樹立に関する意見書を提出している。
その後、木戸孝允と協調して立憲政体への移行を計画し、同時並行で「讒謗律」や「新聞紙条例」を発令し、太政官への反抗の芽を摘んだ。


明治9年(1876年)には、熊本県において国学者で過激な尊王派・太田黒(おおたぐろ)(とも)()加屋(かや)霽堅(はるかた)ら「敬神党」が廃刀令に反対の意を示したことに端を発する「敬神党の乱」*11を起こし、
これに呼応する形で福岡県では秋月藩士・宮崎(みやざき)車之助(くるまのすけ)とその弟・今村百八郎を中心とする「秋月の乱」、
山口県で元参議・前原一誠(長州藩士)や奥平謙輔(同じく長州藩士)による「萩の乱」が勃発したが、
大久保ら政府首脳はこれらの士族の反乱をいずれも近代的装備の軍隊によって鎮圧し、首謀者を極刑に処した。


この頃には政府を辞して鹿児島に帰っていた西郷はこれらの反乱の誘いを受けるも、それらに一切応じることはなかった。
大久保も、「西郷が決起することはない」と信じ切っていた。
しかし、故郷に帰った西郷が若き士族にまっとうに職を得させるために開設した「私学校」が影響力を増していくと、
西郷本人にその気はさらさらなかったとはいえ、鹿児島県はさながら独立国家ともいうべき状態となっていた。
というのも、鹿児島県では士族が廃刀令を無視して相変わらず帯刀しており、しかも政府の未払いの税の督促を無視していたからである。
その上、県令・大山綱良は「精忠組」時代からの友人である西郷、ひいては「私学校」のシンパともいうべき立場であった。
これもまた、鹿児島県の「独立国家」化に拍車をかけていた。
事態を危惧した薩摩出身の邏卒・川路利良は大久保の命を受け、部下・中原尚雄(なかはらなおお)*12をスパイとして私学校に入学させるが、
やがてそれが露見し、捕縛された中原は私学校の生徒による拷問の末に「西郷先生をシサツするため」という自身の目的を自白してしまうが、
これを聞いた私学校の生徒たちは中原の言う「シサツ」を、「視察」ではなく「刺殺」と誤解し、憤慨して政府の弾薬庫を襲撃するという暴挙に出た。
さしもの西郷も、ついに暴発してしまった生徒たちを抑えきることができず、やがて西郷は挙兵を決意
この事件が、後の「西南戦争」の引き金となってしまった。


当初、大久保は「西郷挙兵」の報を知った際には一笑に付して相手にしなかった。というより、そのことを信じたくなかったのであろう。
仮に挙兵が事実であったとしても、勅使を立てて明治天皇の意向を伝えて挙兵を防ごうとし、
大久保によって派遣された西郷のいとこ・川村純義が会見を試みたが、西郷の挙兵の意志は固く、実現しなかった。
そうして、とうとう挙兵が事実であると知るや、半ば放心状態になり、「そうか、そうであったか」と言いながら静かに涙をこぼしたという。
向かえば確実に西郷軍の兵士に殺されるであろうにもかかわらず、自ら西郷に直談判をしようとして伊藤博文らに止められたという話もある。


明治10年(1877年)、我が国における最後にして最大規模の内戦・西南戦争がついに勃発。大久保は京都にて政府軍を指揮した。
立場上は政府側の長として討伐軍を指揮する一方、西郷の安否を常に気にかけ、「絶対に西郷を死なせるな」と戦地の将兵達に厳命していた。
その傍ら、自ら総裁となり、上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
同年9月24日、西郷隆盛以下、桐野利秋や村田新八、別府晋助などが枕を並べて戦死し、西南戦争は政府軍の勝利に終わった。
「西郷戦死」の報が届くと、大久保はかつての盟友の死に号泣し、時に鴨居に頭をぶつけながら家中をぐるぐる歩き回ったという。
この際、「おはんの死とともに、新しか日本ば生まれる。強か日本が…」と呟き続けていたと伝わる。




凶刃

西南戦争終結からおよそ8か月後、大久保は東京都紀尾井町清水谷にて馬車に乗っているところを、
島田一郎(しまだいちろう)長連豪(ちょうつらひで)脇田巧一(わきたこういち)杉村文一(すぎむらぶんいち)浅井寿篤(あさいひさあつ)杉本乙菊(すぎもとおとぎく)ら、加賀藩出身*13の不平士族6名に襲撃される。
大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく斬殺された。享年49歳であった。
事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た元老院議官・前島密*14の「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」という証言は、現場の凄惨さを如実に表しているといえる。
この時、御者の中村太郎や馬車を動かしていた馬も島田らに斬られ、絶命している*15
世に言う「紀尾井坂の変」である*16
凶刃に斃れた大久保の懐には、旧友・西郷からの血の付いた手紙が残されていた。
政敵となったとはいえ、やはり幼少期からの同郷の友人のことを慕う気持ちは変わっておらず、
西南戦争終了後に「(オイ)ほど吉さァを知っちょっ者はおらん」と言って、西郷の伝記の執筆を歴史家・重野安繹(しげのやすつぐ)に頼んだりもしていたほどであった。


島田らは「斬奸状」を携え、大久保を襲撃したのだった。その大まかな内容とは以下のとおりである。


曰く、公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私する。其罪一なり。(太政官は国会も憲法も開設せず、民権を抑圧し、政治を私物化している。)
曰く、法令漫施請託公行恣に威福を張る。其罪二なり。(太政官は法令の朝令暮改がひどく、官吏の登用の際も縁故採用によるところが大きい。)
曰く、不急の土木を興し無用の修飾を事とし以て国財を徒費する。其罪三なり。(太政官は不要な土木事業・建築により、国費を無駄遣いした。)
曰く、慷慨忠節の士を疎斥し憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する。其罪四なり。(太政官は国を思って行動した志士たちを弾圧し、内乱を発生させた。)
曰く、外国交際の道を誤り以て国権を失墜する。其罪五なり。(太政官は外国との不平等条約改正に向けて何一つ動いておらず、その結果国交の手段を誤り、国としての威信を大きく落としている。)


島田らは大久保以外にも、木戸孝允*17や岩倉具視、大隈重信、黒田清隆、川路利良、伊藤博文、三条実美などの有力者をターゲットとしていた。
この事件の後、大久保を襲撃した島田ら6名には、全員斬首刑が宣告され、執行された。

薩摩閥は良くも悪くも西郷・大久保の2人が率いていたところが非常に強かった。
維新前に人材を多く失った長州閥*18や土佐閥*19と比べ、薩摩藩の大物は幕末維新ではさほど人材面でのダメージは少なかった*20
しかし、西南戦争で西郷派についていた多くの人材が悉く失われた。特に大久保に次ぐ人物と言われた村田新八が戦死したのは大きな痛手だったと言えよう。
そして今回、政府側の重鎮だった大久保が死んだことによって薩摩閥は真の意味で衰退し、長州閥が台頭するようになった。
維新前に人材を失っていた半面、土佐はともかく、長州は木戸だけでなく、伊藤博文・山県有朋といった後輩が育っていた。
薩摩閥の若手と言える西郷従道や大山巌が、西郷家の身内=西南戦争における賊軍の一族であることを理由に首相を固辞したのも大きい。
ただし、その後も命脈は保ち続け、大久保の息子・牧野伸顕は内大臣に就任した他、玄孫・麻生太郎は総理大臣になった*21

なお、先述の「斬奸状」であるが、少なくても『官吏の登用の際も縁故採用によるところが大きい』ことと、
『不要な土木事業・建築により、国費を無駄遣いした』のは全くの言いがかり、見当違いであることが分かっている。
なにしろ、大久保は「必要だけど国で予算を出すことが出来ない」公共事業に対しては、私財を投じてまで行っていたことで有名だったのだ。
その影響で大久保の所有財産は家屋敷を含めすべて抵当に入っており、清廉を通り越して貧乏ですらあったという。
その遺産は政府高官にあった人にしては極めて少なく、たったの140円であったという。ちなみに先述の公共事業関係の借金は8000円もあった。
大久保が亡くなったあと、金を貸していた人は遺族に請求をせず、わざと見逃したという話が残っているぐらいである*22
また、「わしの国のもん(薩摩出身)は政治には役に立ちません。戦にはいいが」と公言しており、出自を問わず能力の高い人を採用する方針を貫いたことでも有名だった。
そして、その人たちが万が一不正をしたときは、私情を捨て厳しく罰し二度と政治に関わらせなかった。
ただ、大蔵省の最高権力者なのに財政について疎かった面があることは事実で、渋沢栄一も彼の死後、そういう趣旨の言葉を回想している*23



逸話

  • 幼少期は体が弱かったが、いたずら好きで、桜島の噴火口に石を投げ、神の祟りがないことを証明しようとした。また、自身の体の弱さを気にして、柔道を学んでいたという。

  • 島津久光への接近のため囲碁を覚えたが、いつしかそれが趣味の一つとなった。
    そのハマりっぷりは「(オイ)から囲碁を取れば死にもす」といっていたほどらしい。
    また、囲碁の勝負に負けて帰ると使用人や家人に八つ当たりすることもあった。曰く、「(大久保が)負けて帰ってきた日は足音から違った」とか。
    岩倉具視と囲碁を打つこともあったが、煽り耐性の無さを利用され、散々煽られて冷静さを失わされて負けることが多かったという。

  • 自他共に認める大のタバコ好きで、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどのヘビースモーカーだった。
    愛飲していたタバコも非常に濃いものだったという。

  • 大好物は漬け物で、お茶請けとして何種類も食べるのが好きだった。種類が少ないと機嫌を損ねたという。

  • 西洋かぶれで、毎朝ジャムを塗ったパンにコーヒーまたは紅茶という朝食をとっていた。ブランデーを数滴垂らしたオートミールも好物でよく食べていた。

  • この時代の人間では珍しく、家庭・家族のことを気に掛ける優しい父親・夫であった。
    平時は政務に追われて家族と一緒に過ごす時間が取りにくいことを気にしてか、土曜日や休暇が取れた日には妹の家族も呼んでの食事会を開いていた。
    大久保にとって、この家族との食事会が無上の楽しみであったという。

  • かなりの子煩悩で、出勤直前には例え10分ほどしか時間がなくとも、唯一の娘である芳子を抱き上げ、慈しんだという。
    また、大久保の次男・牧野伸顕(まきののぶあき)*24によれば、子どもたちの言葉等を頭ごなしに否定するということはせず、
    自分にとって最良の選択であるかどうかを常に考えさせる教育方針であったという。

  • 部下には必ず「さん付け」で丁寧に接した。部下の話を丁寧に聞き、部下の失敗の責任は自身がとった。
    例え部下のアイデアが適切ではなかった場合でも決して頭ごなしに否定はせず、最善策を考えさせた。
    • その一方で、公務に対しては厳粛・公正無私な態度でのぞみ、例え以前から付き合いがある部下でも、不正が発覚すれば容赦なく処分した。
      例えば、「精忠組」時代の同志・堀次郎(維新後に「伊地知貞馨」と改名)が琉球から賄賂を貰っていたことが発覚した際には、一切の弁明を聞き入れずに容赦なく罷免した。
    • 米沢出身で大久保に引き立てられた内務官僚・千坂高雅は、
      「大久保が内務卿の時代は、彼が来ると内務官僚のNo.2から掃除の下働きまで背筋がピンと張り、緊張感に満ちていた。
      が、大久保死後、伊藤博文が内務卿になると仕事が始まる前から飲み仲間の中井弘や西郷従道と酒と女の話をしていた」
      と、大久保の生前と死後の落差の激しさを話していた。

  • 酒宴の席では、「畳回し」を特技とした。
    文久2年(1862年)、当時薩摩藩と長州藩の融和を目的として、長州藩士・周布政之助が江戸の柳橋にあった「川長楼」という料亭で会合を主催した。この酒宴には大久保と同志・堀次郎が招かれた。
    周布はこれまでの自藩の政治的運動について弁明を図るが、言葉尻をとらえた堀は周布に暴言を吐く。
    大久保は堀を窘め、周布も事を荒立てないためにただ黙っているしかなかったが、周布のそうした態度を見て調子に乗った堀の暴言は止まらず、
    ついにブチギレた周布は抜刀し、「剣舞をお見せしよう」と言いながら堀に斬りかかろうとした。
    一触即発の事態の最中、大久保は事態の解決を図るため、一計を案じ、畳を引き剥がしてグルグルと回し始めたのである。
    思いもしない大久保の行動に周布は毒気を抜かれ、どうにかその場は収まったのだった。

  • 護身用にアメリカのレミントン社製の拳銃、ダブルデリンジャーを所持していた。
    しかし前述の紀尾井坂の変の時は運悪く修理に出しており、所持していなかった。

  • 写真好きで、沢山の写真を撮っている。
    岩倉使節団の副使として外遊した際、ドイツで写した自身の洋装写真を西郷隆盛に手紙とともに送ったが、写真嫌いの彼から「みっともないからおよしなさい」と窘められている。
    • その写真こそが大久保の写真の中でもっとも有名なもので、あの独特の髭を生やした洋装の写真であるが、これはプロイセンのビスマルク首相をまねたものであるという。

  • 幕末の実在人物をもじったキャラクターが登場する銀魂だが、大久保利通は維新の3傑でありながらも出演していなかった。
    • 維新志士時代の銀時と肩を組んでいる一番左の糸目の人が大久保では?と長年言われていた。
    • 2021年の映画公開時の情報で彼が大久保溝道であることが明かされた。
    • まあ本編では影も形もないのには変わりないが。本編開始前に死んでいたのだろうか?

  • 頭頂部に大きなハゲがあり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。

  • 幕末を題材とした作品、特に坂本龍馬を題材とした作品において登場する際は、
    「平和主義者の龍馬vs対立主義者の大久保」という構図でされることがあり、これが大久保のイメージダウンに寄与しているといえるだろう。
    両者の仲について示す史料は現在のところ発見されていないが、龍馬は土佐藩を脱藩した「浪人」身分に過ぎず、
    そんな彼が薩長同盟などの重要事項に関わることができたのは、薩摩の政治実権者というべき西郷隆盛や大久保の積極的な承認によるものであるとみることができる。
    そこから、龍馬と大久保の関係は巷でいわれるほど悪くはなく、むしろ良好だったのでは?とする意見もある。

大久保利通が登場する作品

NHK大河ドラマ

  • 『竜馬がゆく』(1968年、演:土屋嘉男)
  • 『勝海舟』(1974年、演:西沢利明)
  • 『花神』(1977年、演:高橋長英)
  • 『獅子の時代』(1980年、演:鶴田浩二)
  • 『翔ぶが如く』(1990年、演:鹿賀丈史【主演】*25
  • 『徳川慶喜』(1998年、演:池田成志)
  • 新選組!』(2004年、演:保村大和)
  • 『篤姫』(2008年、演:原田泰造)
  • 『龍馬伝』(2010年、演:及川光博)
  • 『八重の桜』(2013年、演:徳重聡)
  • 『西郷どん』(2018年、演:瑛太)
  • 『青天を衝け』(2021年、演:石丸幹二)

その他のTVドラマ

  • 『明治の群像 海に火輪を』(1976年、NHK、 演:石坂浩二)
  • 『命もいらず名もいらず』(1977年、TBS、演:細川俊之)
  • 『田原坂』(1987年、日本テレビ、演:近藤正臣)
  • 『竜馬がゆく』(2004年、テレビ東京、演: 斎藤歩)
  • 『JIN-仁-完結編』(2011年、TBS、演:眞島秀和)
  • 『歴史にドキリ』(2012年、NHK教育テレビ、 演:中村獅童)
  • 『あさが来た』(2015年度、NHK連続テレビ小説、演:柏原収史)
  • 『前田正名―龍馬が託した男』(2019年、KTS鹿児島テレビ、演:宮川一朗太)
  • 『永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜』(2019年、NHK、演:江口洋介)
  • 『明治開化 新十郎探偵帖』(2020年、NHKBS時代劇、演:篠井英介)
  • 相棒』Season23 第1、2話(2024年、テレビ朝日、演:松澤仁晶)

アニメ

  • 『まんが日本史』(1984年、日本テレビ、CV:野田圭一)
  • るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(1996年、フジテレビ、CV:坂口芳貞)
  • 『ねこねこ日本史』(2018年、NHK Eテレ、CV:小林ゆう
  • 『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(2023年、フジテレビ、CV:松山鷹志)

映画

  • 『半次郎』(2010年、演:北村有起哉)
  • るろうに剣心 京都大火編』(2014年、演:宮沢和史)
  • 『海辺の映画館-キネマの玉手箱』(2020年、演:稲垣吾郎)
  • 『天外者』(2020年、演:迫田孝也)

漫画

  • 武田鉄矢原作、小山ゆう作画 『お〜い!竜馬』
  • みなもと太郎『風雲児たち
  • 小山ゆう『AZUMI』
  • 梅村真也原作、橋本エイジ作画『ちるらん 新撰組鎮魂歌』
  • 和月伸宏 『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-
  • 武田五三 『シンパチ ‐西郷の右腕‐』
  • そにしけんじ『ねこねこ日本史』
  • 泰三子『だんドーン』

子孫

正妻との間に5人、妾との間に4人の子がいるためその子孫も多岐に渡り、学者や宮内庁の女官、政治家や大手の実業家、教育者などを多数輩出する名門一族となっている。
歴史上に名を残した者、現在も公人として活動する人物も多数存在する。

  • 麻生太郎 第92代日本国総理大臣。大久保の次男、牧野伸顕の娘である雪子の系譜。
  • 寬仁親王妃信子 麻生太郎の妹。
  • 武見敬三 厚労相などを歴任した政治家。牧野伸顕の娘である利武子の系譜。
  • 千聖 V系バンド、PENICILLINのギター及びリーダー担当。牧野伸顕→長男の牧野伸通→長女である林貞子の系譜。
  • 堀内詔子 同じく林貞子の系譜になり、千聖の従姉にあたる。


追記・修正は世渡り上手になり、一切の私心を殺して物事にあたってからお願いします。

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最終更新:2025年07月25日 21:58

*1 一説に高麗町

*2 この政治方針は斉彬の遺言に基づく

*3 とはいえ、西郷はこの時は藩からは「罪人」として扱われてはおらず、扶持米が支給され、大久保たち同志との文通が許されていた

*4 過激派の誘いを受けて寺田屋にいながらも、西郷信吾や三島通庸、大山弥助は鎮撫士の説得に素直に応じて投降したため、謹慎処分が下されるにとどまっている

*5 事件の当日に寺田屋にいた過激尊王攘夷派の一人、美玉三平は逃亡して生き延びることに成功し、ひそかに尊王攘夷活動に従事したが、のちに平野國臣が挙兵した「生野の変」に参加し、戦死している

*6 前年の、久光の上洛を横切ったイギリス人・リチャードソンがお供の有村俊斎と奈良原喜左衛門に殺害された「生麦事件」に端を発し、両者の交渉において薩摩藩がイギリス側の非を主張し続け、賠償金支払いを拒否したために戦争となった

*7 後に大久保たちの嘆願に折れる形で西郷の召喚を決定した際には、苦渋のあまり咥えていたキセルの吸い口に歯形を残したという。

*8 久光は薩英戦争や文久改革のため尽力したことで孝明天皇からの信頼を受け、天皇からの手紙で「徳川体制の存続を会津松平家と共に頼む」と依頼されたが、久光は「会津は幕府の犬でございますから」とこれを拒否したことで、会津藩にかなりの好意を抱いていた孝明天皇は久光へ不信感を抱き、以降は彼を遠ざけてしまう。以降は会津藩主・松平容保が天皇からの寵愛を独占するようになってしまったため、久光はこの状況に危機感を覚え、朝廷との関係を取り戻すことを切望していた

*9 陸軍少将・桐野利秋や同じく陸軍少将・篠原国幹など薩摩系の軍人や官僚が一部西郷を慕って離職。岩倉使節団で大久保に随行した村田新八も大久保の期待に反して長年の西郷との友誼を重視して離職した

*10 優れた政治的手腕を発揮しながらも、強引なやり方が災いして多くの敵を作ってしまい、最後は処刑された。しかし彼の施行した改革は処刑後も継承され、秦を当時最大最強の国家に成長させる直接的な切っ掛けとなった。

*11 「神風連の乱」とも呼ばれる

*12 名前の読みを「ひさお」とする文献もある

*13 浅井のみ鳥取藩出身

*14 この事件の数日前に、大久保から「夢の中で西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。私の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」と聞かされている

*15 ちなみにその墓は小さいながらも青山霊園にある大久保の墓の近くに建てられ、2018年には競馬漫画家よしだみほ(大河版『翔ぶが如く』から大久保の軌跡を知った)によって中村と馬の事を記した看板が設置されている。

*16 襲撃の現場は「紀尾井坂」からやや離れた「清水谷」であったが、どういうわけか「紀尾井坂の変」と呼ばれている

*17 西南戦争のさなかにすでに病没している

*18 吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作・大村益次郎等

*19 吉田東洋・武市瑞山・坂本龍馬・中岡慎太郎等

*20 強いてあげるとするならば有馬新七くらいか。また、薩英戦争でのダメージも無視できないが

*21 吉田茂の妻が牧野の娘

*22 つまり大久保が「日本のために事業を行う」志を理解して、損してもいいと思っていた人が沢山いたということである。

*23 栄一曰く、大久保は「各省の求められるままに予算を出そうとする人」で、その使い道の妥当性についてはほとんど考慮しなかったらしい。「財政の実務に詳しくないどころか、その根本原理さえわかってなかった」とまで苦言している。

*24 1861~1949。大久保の義兄弟・牧野権之丞に養子入りしたが、権之丞が北越戦争で戦死したため大久保家に戻り、「牧野」の名字のまま大久保家で生活。

*25 西郷隆盛(演:西田敏行)とのダブル主人公