中岡慎太郎

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更新日:2025/05/17 Sat 05:18:56NEW!
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中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)(1838〜1867年)

幼名は福太郎(ふくたろう)、諱は道正(みちまさ)
号は道山(どうさん)迂山(うさん)

変名は大山彦太郎(おおやまひこたろう)石川清之助(いしかわせいのすけ)横川勘蔵(よこかわかんぞう)など


画像はwikipedia中岡慎太郎より




概略

尊王攘夷の志士。坂本龍馬と共に薩長同盟に奔走する。
理論家で攘夷思想から日本国独立というナショナリズムを考えて、その方向から王政復古を目指した。

略歴

誕生

土佐山内家(24万石)領内、土佐国北川郷で父で大庄屋・中岡小伝次(なかおかこでんじ)、後妻で母・ウシの長男として生まれる。

安政元年(1854)、山内家家臣・間崎哲馬(まさきてつま)から儒学を、安政2年(1855)、山内家家臣・武市半平太(たけちはんぺいた)から剣術を学んだ後、安政3年には妻・(かね)を娶る。

土佐勤王党に加盟


徳川幕府が外国と開国して物価が上がったり、山内家、特に参政・吉田東洋(よしだとうよう)による財政再建政策で農村部に対する締め付けが強くなる事に不満があり、文久元年(1861)、武市が主宰する土佐勤王党(とさきんのうとう)に加盟した。盟主は対外的な交渉がある為、上級武士の深尾鼎(ふかおかなえ)が務めた。構成員には坂本龍馬板垣退助(いたがきたいすけ)*1らがいる。

長州毛利家(36万9千石)の破約攘夷論(幕府の開国論は戦争を避けたいの一点張りで、これではダメだ。外国に追い付き追い越すには実際に外国の実力を知らなければ成らない。その為には戦争で実力を知り、日本人に攘夷が厳しいという事を理解させる。そうした上で留学生を送ったり、西洋文明を受け入れ、外国との条約もこの状況で行うべきと言う考え方)に触発され、土佐も一国挙げて実現すべし、と武市などは吉田東洋に申し出たが「青臭い書生論」と酷評。
ならば実力行使と、吉田のやり方に反発する勢力と勤王党は手を組み、吉田を暗殺、山内家の実権を握り、当時の当主・豊範(とよのり)を担いで京都に上洛、長州毛利家の久坂玄瑞(くさかげんずい)桂小五郎らの破約攘夷論実現の為、朝廷に政治工作を行ったり、安政の大獄で取り調べをした幕府の役人に報復テロを行った。

この時、大暴れしたのが岡田以蔵、田中新兵衛の2人。
あまりのスゴさに京都は無政府状態に陥った。

文久2年(1862)12月、土佐勤王党は山内家の実権を握るべく、中川宮(なかがわのみや)をダシに使った内政干渉を試みたが、実権を握っていた前当主・山内容堂(やまのうちようどう)に返り討ちに遭い、文久3年(1863)8月18日の文久政変で長州系の攘夷派が失脚、土佐勤王党も壊滅に追い込まれ、中岡は長州に落ち延びた。

元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。

禁門の変である。

国司(くにし)信濃(しなの)福原(ふくはら)越後(えちご)益田(ますだ)右衛(うえ)門介(もんのすけ)の三家老が指揮する部隊が御所を守る京都守護職の陸奥会津松平家、薩摩島津家、京都所司代の伊勢桑名松平家などの兵と激戦、指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。

中岡は久坂や真木が率いる部隊に従軍したが、負傷、真木から後を託された。

上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。

国内では孝明天皇(こうめいてんのう)が長州の攘夷論が実は国家元首として対外戦争の責任を取らされると解ると、ブチギレて懲罰目的の勅命を降し、西国21の大名家に出兵が発令されたのが、同月24日。

元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。

後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。

狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。

この計画を徳川幕府は知らされていたが、それはみっともないとの感覚が幕府にもあり、日本内部の問題として処理しようと言う空気が強かった。

連合艦隊が集結した日に、将軍は在京の諸大名に総登城を命じ、長州征伐を布告した。

元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。

翌日も連合艦隊は砲撃と上陸を行い、連合艦隊側は長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだ。

四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から高杉晋作(たかすぎしんさく)が表舞台に立ち、行われた。

当時、山口滞在の五卿*2や、長州に亡命していた中岡ら攘夷派浪士たちは、
『そもそも「尊王」は「攘夷」を目的とした。今、外国と話しているのは「大攘夷の成功」の為に「嘘も方便」というのは理解するが、この戦は「百戦百敗」しても屈しないのが大事であり、理由をキチンと説明しないと後世に示しが付かないよ!』
と中岡本人は内心、今の国力では攘夷は難しいと理解したが、この空気を読んで押し黙り、他の浪士達は高杉のやる事に反対し、刺客まで差し向けて来たので、高杉が逃げる羽目に。

それでも高杉はなんとか同年8月14日に関門海峡の通航を妨害しない、砲台は再建しない、新築しない、石炭、食糧、薪水などの必要品は売り渡す内容の講和をまとめた。
賠償金は一応支払うと約束するが、実は暗黙の了解があり、幕府が金を出せば毛利家に支払い義務はない。

毛利家は「天皇と将軍に(ry」と押し通した。
四ヶ国は毛利家の言い分は筋が通っていると判断した。天皇、将軍、毛利家と同じ穴の狢と断定している。嫁の父親である天皇に頭が上がらない将軍は横浜鎖港をガチでヤル気になり、生糸の輸出を全面的に禁止すると公言した。
嫁の父親である天皇が攘夷派日本代表で、四ヶ国からすれば毛利家の親分と見ている。池田屋事件も禁門の変も攘夷派の内ゲバなので、未来は少しも明るくない。

この時の日本の大口取引先はイギリスである。
駐日公使・オールコックは攘夷を実施する長州毛利家を見せしめに叩いて、天皇や将軍に警告を与えて、長州毛利家領内から島の一つを占領する計画があった。

オールコックは攘夷の停止は幕府の義務である。それをヤラないなら四ヶ国連合艦隊が
幕府に変わってお仕置きよ
になり、請負代金を幕府に支払わせる、という理屈だった。幕府が支払いを認めれば、長州毛利家は賠償金を免除される。

幕府はオールコックの理屈を受け入れ、全面的に認め、以後は安政の五カ国条約を忠実に守ると約束した。

この戦いで政権が椋梨藤太(むくなしとうた)の現状維持派に傾いてしまった長州毛利家。

征討軍を揃えた幕府に、毛利家では三家老*3、四参謀*4を処断、謝罪して第一次長州征伐は終了。

中岡は山口滞在の五卿とともに筑前国太宰府に移り、その護衛役をしながら、捲土重来を期す事にした。

薩長同盟とナショナリズム


高杉晋作、井上馨ら残りの尊皇攘夷派は毛利家から命を狙われるようになり*5、筑前平尾山荘の野村(のむら)望東尼(もとに)のところに潜伏したが、逃げ回って死ぬくらいなら、一か八かで勝負を挑んで戦った方が男子の本懐と高杉は下関の功山寺で武装蜂起。

高杉軍が椋梨軍を打ち破り、毛利家の主導権は高杉らによって占められた。

高杉が政権を奪取すると但馬に潜伏していた桂が長州に戻り、体制をフルモデルチェンジ。

しかし、長州単独では勝てない、と見ていた中岡は共にいた同郷の土方久元(ひじかたひさもと)田中光顕(たなかみつあき)、薩摩に流れていた坂本龍馬らと文久政変や参与会議後、主導権を握れないでいた薩摩島津家を合体させる事を実現する為、奔走する。
薩長同盟である。

この同盟は幕府の打倒ではなく、孝明天皇の君側の奸として長州の正義を遮る一会桑政権*6や中川宮を排除する為に、薩摩は協力するというモノ。*7

西郷隆盛の記事から引用すると、長州は徳川幕府に明確に敵対し安政の五か国条約で定められた正規の政府(=徳川幕府)以外への販売禁止に抵触し、直接、長崎や横浜で武器の購入が禁止されていた*8
薩摩は明確に徳川幕府と敵対する関係をこの段階では見せなかったので、長崎や横浜で堂々と武器を購入していた。
長州からしたら薩摩の要領の良さに腹を立てながらも、薩摩が買った分を横流ししろ!という感じかもしれない。
見返りに武器代の米を渡すだけで良いのだから、こんな楽な同盟はないだろう。
こうした利益の一致を経て薩長同盟が成った。

中岡は同盟締結時、太宰府で五卿の子守りに忙しくて立ち会えなかった。また、西郷隆盛から山内容堂に掛け合い、山内家を出奔した罪を無くして貰った*9

これと前後して中岡は『時勢論』という文を記した。破約攘夷論とロシア帝国のピョートル大帝の近代化、アメリカのワシントンが行った独立戦争を組み合わせて練り上げたモノで、今までの徳川の平和は偽りの平和であると断罪し、本当の平和を手にする為に武器を取って立ち上がる事が大切だと。
国にしても、今までの薩摩国、土佐国、長門国ではなく、日本国を作る為に立ち上がるのだ!と、これがオレたちの独立戦争だと主張したのである。その後はピョートル大帝みたく、外国を観て産業や学問をフルモデルチェンジして生まれ変わりましょう、としている。

孝明天皇や徳川幕府は謝罪と反省が足りないと、第二次長州征伐を敢行した。

大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面で徳川幕府の征討軍と対峙。

大島口は最初、幕府海軍と伊予松山松平家や幕府陸軍が上陸、占領したが、高杉晋作率いる長州海軍と世良修蔵率いる長州陸軍が反撃、島を奪還した。

芸州口は安芸広島浅野家が不参加を決めたので、先鋒の近江彦根井伊家と越後高田榊原家の徳川四天王の二家が攻め込んだが、勝海舟が言う
「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」
長州陸軍の動きに対応不能、大惨敗を喫した。
出羽庄内酒井家「奴らは四天王最弱www」
この後、幕府は洋式歩兵を投入し、戦線は膠着した。

石州口は石見津和野亀井家と交渉がまとまり、無傷で通過、大村益次郎率いる長州陸軍が石見浜田松平家に侵攻、浜田城を攻め落とした。

小倉口は関門海峡の制海権を幕府海軍が掌握していたが、信号艦(旗艦)の富士山*10が応戦中、主砲が暴発して、他の大砲にも不具合がないか調べる為に応戦不能、ただの輸送艦に成り下がり後退、制海権を取った高杉晋作率いる長州軍は赤坂海岸に上陸、激戦の末、豊前小倉小笠原家の小倉城を攻め落とした。

14代将軍・徳川家茂が亡くなった為、幕府軍は撤退、長州征伐は長州の勝利に終わり、天皇と将軍の面子丸つぶれ。

その後、孝明天皇が崩御、睦仁親王が即位して明治天皇に踐祚。

朝廷内の空気が変わった事を察した中岡は朝廷にも根回しが必要と考え、同郷の大橋慎三(おおはししんぞう)からの斡旋で岩倉具視(いわくらともみ)と対面、あっという間に打ち解け、マブダチになった。

困った時に力がないと困る為、長州奇兵隊を手本に出奔浪士120名を中心に陸援隊を組織し、薩摩島津家から軍事顧問・鈴木武五郎(すずきたけごろう)を招き、武器弾薬、資金、軍服なども手配して貰った。

慶応3年(1867)8〜9月の長州毛利家による『諸家評論』という動向調査では、
「復古勤王」…薩摩島津家、長州毛利家。
「佐幕勤王」…越前福井松平家、尾張徳川家、因幡鳥取松平家、備前岡山池田家、肥後熊本細川家、阿波徳島蜂須賀家、伊予宇和島伊達家など。
待変蚕食(たいへんさんしょく)*11」…肥前佐賀鍋島家、土佐山内家。
「佐幕」…常陸水戸徳川家、紀州徳川家、陸奥会津松平家、伊勢桑名松平家、讃岐高松松平家、近江彦根井伊家、播磨姫路酒井家、伊予松山松平家など、
「日和見」…加賀前田家、陸奥仙台伊達家、出羽久保田佐竹家、出羽米沢上杉家など。
と色分けされている。

武力による討幕や政治工作による大政奉還など、中岡を含め、この時代の当事者達はその都度発言や行動を翻したりする為、分かりにくい部分も多々あるのだが、中岡的に王政復古*12のちに武力討幕、時々大政奉還と天気予報みたいな主張だった。

最期


孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家とその同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。同じ日に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還、政権を天皇家に返上した。徳川宗家が一大名家になり、一旦は討幕の名目が失われたが、この密勅は両家の内部に存在する出兵反対派を黙らせる為の魔法の合言葉であった。

討幕運動に奔走している最中の慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋で坂本龍馬と滞在していた処を京都見廻組に襲われた。坂本は傷が深く、その日に死亡。
中岡は襲撃直後は深手ながらもまだ息があり、一時は軽食が摂れるまでに容体が落ち着いたため「持ち直した」と思われたが、襲撃から2日後の夜に突如容体が悪化して喀血し、同志に後事を託して事切れた。
中岡慎太郎、享年三十歳____。

中岡は死の間際、仲間に「岩倉さんに王政復古、ちゃんとやってね!とお願いしといてね」と話したり、襲った見廻組に対して「敵ながら見事だ。徳川に人がいないと侮るとオレみたいになるぞ」と仲間に敵を甘く見る事を戒めた。
死後は板垣退助に従えと話したそうである。出会った頃はギクシャクして中岡がブッコロと吠えていたそうだが、互いに良く話してみると、実は良い奴というオチだった。

逸話

  • 中岡の写真は3タイプ残っており、一枚目が最上部に挙げた武張ったいかめしい顔つきの写真である。二枚目が頬杖のように手を顔に当て、歯を見せて笑っている写真。三枚目も同じく笑顔で、義兄の北川武平次とともにくつろいでいる写真である。いずれも写真師・堀与兵衛のスタジオで撮影されたものとみられている。
    頬杖のように手を顔に当て、歯を見せて笑っている写真は、実は中岡が頬杖をついているのではなく、堀が当時行っていた女性とツーショット撮影できるサービスを利用して撮影されたもので、女性に顔を撫でられてデレっとした顔つきになっているのである。しかし、どういうわけか芸者が写っていたであろう部分は破られてしまい、現存していない。


画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nakaoka_Shintaro.jpg ウィキメディア・コモンズから。


  • 故郷の北川村において、中岡は「村の農民たちが飢饉のせいで、塩が取れずに味噌や醤油が作れないで困っている」という知らせを受けて江戸から帰郷し、古くから自生していたユズを栽培し、塩の代用や防腐剤として使おうと奔走したという。同村でのユズの生産は中岡の死後、長期間途絶えていたが、昭和後期になって復活し、現在は主要な産業となっている。





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最終更新:2025年05月17日 05:18

*1 当時は乾姓

*2 三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修の5人。錦小路頼徳は病没。澤宣嘉は生野の変に敗れ、逃亡中。

*3 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*4 宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*5 井上馨は元治元年(1864)9月25日、刺客に襲われ、50針を縫う重傷を負い、九死に一生を得る

*6 禁裏御守衛総督・一橋慶喜(御三卿一橋家元当主。10万石)、京都守護職・松平容保(陸奥会津松平家当主。28万石)、京都所司代・松平定敬(伊勢桑名松平家当主。11万石)。3者の頭文字を取ったモノ。

*7 島津久光が薩英戦争や文久政変で尽力した事で孝明天皇から大絶賛。天皇からの手紙で「徳川体制の存続を会津松平家と共に頼む」と依頼された。久光は「会津は幕府の犬でございますから」とこれを拒否したことで、孝明帝は久光を敬遠。以降は会津松平家当主・松平容保が天皇の寵愛を独占するようになった。会津松平家公用局が朝廷と幕府の橋渡し役を独占して孝明天皇の理想を実現する為、奔走した。島津家はこの状況に危機感を覚え、朝廷との関係を取り戻すことを切望していた

*8 長州は幕府と明確に敵対する前は堂々と長崎や横浜で武器や船舶を買い付けて軍備の増強をしていた。要するに幕府に敵対しない限り、国防の為に武器を購入する事自体は問題無かった。西日本の大名家が嫌ったのは武器や船舶の購入が幕府直轄領の長崎、横浜、箱館でしか認められていない、購入履歴を公表する、取引は幕府の役人が立ち合うという手続きがイヤで、自分達の領地で直接購入出来ないのが不満の種だった。慶応3年(1867)以降はイタリア、ベルギー、デンマークとの通商条約で正規の政府以外の地方政府=諸大名へ武器や船舶の販売が許可され、最恵国待遇によりイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアにも認められた。実際、長崎、横浜の貿易統計を見ても慶応3年以降は貿易品の中で武器や蒸気船の取扱額が3倍以上に増えている。

*9 罪がなくなるだけで、籍はない。

*10 慶応元年(1865)2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*11 本来の意味は変化を待ちながら、他の領域を片端からだんだんと侵していくこと。この場合、我が道を行く、独自色が強い

*12 神武天皇の時代まで遡り、あの頃を理想とし、摂政、関白、幕府を廃止、天皇が親政という形で政治の全責任を取る体制。