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山田顕義

登録日:2025/12/17 Wed 03:40:34
更新日:2026/05/06 Wed 09:41:46
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山田(やまだ)顕義(あきよし)(1844〜1892年)

通称は市之允(いちのじょう)、諱は顕孝(あきたか)、後に顕義。号は養浩斎(ようこうさい)狂痴(きょうち)韓峰上人(かんほうじょうにん)不抜(ふばつ)空斎(くうさい)など。


画像はWikipedia山田顕義より。

概説

幕末期は長州系維新志士、特に戊辰戦争では「小ナポレオン」と称され戦術家として活躍。維新後は軍人を経て「これからは法律の時代」と司法大臣として法律の編纂、整備に尽力し、教育家として今の日本大学國學院大学の設立に携わった。

生涯

誕生

天保15年(1844)10月9日、長門国萩城下にて長州毛利家家臣・山田顕行(やまだあきゆき)(通称は七兵衛(しちべえ)。家禄102石)、その妻・(つる)との間に長男として生まれる。長州系維新志士としては珍しく上級武士の出身で血縁者に、毛利家の行財政を立て直した村田清風(むらたせいふう)、毛利家の軍事面を指導した軍学師範・山田亦介(やまだまたすけ)がいる。

幼少の頃は「アホの子」扱いされていたが、叔父・亦介は見捨てること無く、学問や武芸などの面倒を見たり毛利家の学問所・明倫館にも通わせたり、14歳の頃、軍学の弟子で私塾・松下村塾を主宰する吉田松陰に顕義を預けた。松陰の顕義に対する教えは
人と違う事を恐れては行けない。他人の意見に惑わされては行けない。人生はあっという間に過ぎ去る。ぼーっと過ごす事のないように(意訳)」
であった。顕義の覚醒イベント第一弾である。

幕末期

安政の大獄による吉田松陰の死後、他の松陰門下と一緒に尊王攘夷運動に身を投じる様になり、京都詰の大砲掛に就任する。文久3年(1863)8月18日の文久政変*1で長州が失脚すると、一旦は京都を離れたが文久政変の立役者で会津松平家の公用方・秋月悌次郎(あきづきていじろう)を暗殺しようと京都に戻り、3回程試みたが秋月側も顕義の気配を察知して、追っ手を巻いている。*2

失敗した顕義は長州に戻り、毛利家から遊撃隊御用掛に任命された。この後、文久4年(1864)1月28日、高杉晋作(たかすぎしんさく)とともに出奔し、大坂に移動。薩摩島津家の実力者・島津久光(しまづひさみつ)を暗殺しようとするも、不発。高杉は長州に戻り、顕義は江戸を経て長州に戻る。

元治元年(1864)7月19日の禁門の変*3には遊撃隊の指揮官として参加するも敗退。長州に戻ると出奔の件で謹慎処分を受ける。この後、毛利家の派閥争いに巻き込まれ、叔父の亦介は切腹、父の顕行は謹慎処分となる。

元治元年(1864)12月15日の高杉晋作の功山寺挙兵に参加し、小郡の役所から軍資金を調達するなど抜け目ない働きをみせる。

高杉らがクーデターに成功し、毛利家の実権を握り、フルモデルチェンジすると顕義は大村益次郎に弟子入りし、大村戦法を修得する。吉田松陰に次ぐ覚醒イベント第二弾である。

第二次長州征伐では長州海軍や陸軍の双方で活躍する。

禁門の変で孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家とその同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。

この密勅は両家の内部に存在する出兵反対派を黙らせる為の魔法の合言葉であった。

長州毛利家では密勅を受けて同年10月28日に出兵を決定。

同年11月17日には薩摩島津家の軍隊3000人と4隻の蒸気船が長州領三田尻に到着、同船していた西郷隆盛島津伊勢(しまづいせ)と具体的な出兵策を決めた。

全軍の総督は毛利元功(もうりもといさ)*4、長州毛利家の総司令官は毛利内匠(もうりたくみ)で実質的な総司令官が顕義だった。

1200人の軍隊を3隻の蒸気船、4隻の帆船に分乗させ、同月29日に芦屋に上陸、翌日、西宮に到着、待機した。

第二陣1300人は陸路、尾道まで進んだ。

その間に同年12月9日に薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家の4家によるクーデターで御所を占拠、王政復古の大号令*5を宣言。

御所を守備していた京都守護職の会津松平家は禁門の変の再現になる事を恐れて撤退した。

西宮に待機していた長州軍は御所を守備する様に勅命を受けて上洛した。 

戊辰戦争と西南戦争

慶應4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊が宿敵・会津松平家を完膚なきまでに叩きのめしたが、これを長州側で演出したのが顕義だった。

薩摩の西郷隆盛がこの演出を観て、「ナポレオンを日本人にすると山田みたいな感じかな(意訳)」という意味の「小ナポレオン」というあだ名を付けた。

その後、長州に戻り、増援部隊の手配をしたり、長州海軍・第一丁卯の艦長として活躍。続く箱館戦争では太政官の蝦夷征討軍海陸軍参謀という事実上の総司令官として手腕を振るい、明治2年(1869)5月18日、箱館五稜郭を拠点にする榎本武揚(えのもとたけあき)率いる徳川脱走軍を降伏させ、戊辰戦争を終結させた。

指揮を執っていた顕義が東京に来ると、師匠の大村は労を労おうと食事に誘う。
すると、豆腐2丁と冷酒が出て来た。
顕義が「寒い蝦夷地で戦った後に、暖かい食事が欲しい時に、この扱いか?お前、人の心無いんか!?」と怒りと不満を混じえた顔をみせると、大村は「豆腐は滋養に富み、身体に良い。豆腐を愚弄する者は贅沢を望み、国を滅ぼす」と返答した。この師匠、高い頭脳を持つ反面、、人の心の機微に疎いのが玉にキズで、それが遠因となり山口藩の攘夷派に襲われた傷が原因で明治2年(1869)11月5日に死亡した。

襲われた大村は当時、兵部大輔という事実上の最高司令官に就任し、兵制改革を実施していたが、後任の兵部大輔には松陰門下の前原一誠(まえはらいっせい)が就任した。前原は徴兵制の導入に消極的で大村時代の軍官僚達から嫌われていた。更に木戸孝允と戊辰戦争の頃から不仲だった為、前原が攘夷派に担がれて兵権を濫用しない様にと、兵部省は兵部省御用掛の岩倉具視が実権を握っていた。顕義は岩倉の下で兵部大丞(局長クラスの立場)として大村の遺構を推進していくのだが、中々埒が明かない。顕義はしばしば木戸に相談を持ち掛けるが、木戸も「今は足並みをそろえる時期」と腰が重く、戊辰戦争後に外遊していた山縣有朋(やまがたありとも)が帰国すると、明治3年(1870)8月5日に自費で欧州に渡り、見聞を広めたいからと兵部大丞の辞職願を出している。木戸としては顕義の辞職はダメと井上馨(いのうえかおる)に頼んで、辞職願を取り下げさせている。

私生活では井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女・龍子と結婚する。

外遊から帰国した山縣有朋と西郷従道(さいごうじゅうどう)が兵部省に入ると、停滞している国政を一新するには、廃藩置県を行う。その為に鹿児島にいる西郷隆盛を引っ張り出して、薩長の連携で押し切り、その勢いで徴兵制などの兵制改革を実施すべきとの話になり、実際、それを実現した為、山縣の株が上がり、顕義は何も出来なった感じに評価された。

明治4年(1871)7月、陸軍少将に任官し、11月には岩倉使節団に兵部省理事官として随行した。アメリカ、フランス、オランダ、スイス、イギリス、ドイツ、オーストリア、ロシアで軍事制度を調査した後、帰国。
この旅で顕義は「ナポレオン法典*6」と出会う事になる。

帰国後、自論である徴兵制を見直し、「もう少し、国民の教育水準を引き上げ、指導する軍人の教育水準を引き上げてから導入しないと、今のままでは凶器になる(意訳)」と陸軍卿・山縣有朋に建白書を提出している。

この件で山縣との関係は微妙になるが、木戸や伊藤博文(いとうひろぶみ)が仲介役に入り、致命的な対立にはならなかった。

この後、軍中枢から離れ、明治6年(1873)7月7日、東京鎮台司令長官に就任、同年11月24日、清国特命全権公使となる処で明治7年(1874)2月、佐賀の乱が勃発。顕義の清国行きは取り消しになり、佐賀の乱鎮圧に派遣された。

乱は鎮圧されたが、顕義の処遇がクローズアップされ、山縣と折り合いが悪い顕義は現役陸軍少将のまま司法大輔(次官)の職に就任した。
伊藤博文の提案で顕義が、陸軍少将の肩書きのみで陸軍に実質的な立場がなく、太政官内で微妙な立場であったための苦肉の策だった。これを転機に法律の世界に興味を示す様になる。

明治10年(1877)の西南戦争では自らも志願し、木戸からも出征を懇願され、別働第二旅団長として活躍した。顕義の中で戦争はオシマイ、これからは法律を含め内政を調える時代という認識だった。

軍事から法律へ

明治11年(1878)2月、刑法草案審査委員として旧刑法および治罪法(のちの刑事訴訟法)の編纂に従事する。共に明治13年(1880)公布された。
同年11月、陸軍中将に任ぜられる。

明治12年(1879)9月、参議兼工部卿、明治13年(1880)2月28日、専任参議、明治14年(1881)10月21日、参議兼内務卿、明治16年(1883)12月12日、司法卿兼参議に就任、明治17年(1884)7月、華族令制定で勲功により伯爵を授けられ華族に列する。

明治14年(1881)の8月から9月頃に、顕義は日本国内の私擬憲法(ざっくり言えば、ボクの考えた日本国憲法。)ブームの最中、独自の憲法草案である「憲法私案」を左大臣・有栖川宮熾仁親王に提出、さらに改定したものを右大臣・岩倉具視に提出した。
明治15年(1885)12月22日、内閣制度発足、初代司法大臣となる。司法卿からスライドでそのまま就任となり、この後明治24年(1891)6月1日まで、第一次伊藤博文内閣、黒田清隆(くろだきよたか)内閣、第一次山縣有朋内閣、第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣と4つの内閣で、司法大臣を続けた。

在任中の主な功績はざっくり言えば、民法、刑法、商法など法律、法典の編纂、整備に尽力した事。

明治21年(1888)12月、予備役入り、名実ともに軍から離れた。長州閥との関係では微妙な関係だった山縣有朋とは和解していた。2人は民権派の良く言えば理想主義的、悪く言えば無責任な言いたい放題や、彼らが内閣や政府内部の業務に口を挟む事に嫌悪感を露わにし、共闘関係にあった。
嫁の義父である井上馨とは、幕末期に締結された安政の五カ国条約改正作業の中で、井上がしばしば、グローバルスタンダードと称して顕義の職務である法律や法典の編纂、整備に口を挟む事があり、それを司法官僚達が越権行為と顕義を突き上げ、顕義も不快感を露わにした。
伊藤博文とは憲法制定でわざわざ外遊するか、コイツ?という目で冷ややかに見ていたが、それ以外はそれほど仲は悪くなかった。

顕義は仕事をしていく中過程で、欧米の法律を翻訳して形式的に旧来の法律に接ぎ木するのではなく、日本の文化、歴史、風俗、法律を良く学び、その上で接ぎ木しないと、法律は血の通ったモノにならないと判断し、明治22年(1889)1月、皇典講究所*8所長に就任。同年10月4日、日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の前身である日本法律学校を創設。更に日本語、日本史、国家に対する法律を研究する教育機関として明治23年(1890)11月22日、國學院大学の前身である國學院が創設。後進の育成を行う。
同年7月10日、貴族院議員に互選される。

晩年

明治24年(1891)5月11日に発生した大津事件*9では、明治天皇、松方首相、元老の伊藤博文、井上馨らが緊急勅令や大逆罪を使っても死罪にすべきと息巻き、顕義の部下である司法官僚らは、死罪に該当しない、無期懲役が妥当と顕義を突き上げ、板挟みになった。

事件から16日後の同年5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪を適用して津田に無期懲役の判決が下された。

この件は相当ストレスになった様で体調を崩し、同年6月1日、司法大臣を辞職した。裏の事情は天皇の死刑にせよ、という期待を裏切って機嫌を損ねた責任を取ったとも言われた。
この件で法の独立は保たれたのではあるが…

明治25年(1892)1月、枢密顧問官に就任。
同年11月11日、兵庫県生野銀山で視察中に倒れて、そのまま死去した。享年49歳。法名は顕忠院殿釈義宣空斎大居士。死後、帝国政府から、正二位と勲一等旭日桐花大綬章を授けられる。

評価

木戸孝允死後の長州閥に於いて、伊藤博文、井上馨、山縣有朋と並んで長州四天王と当時は言われていた。
派閥の長として、来る者拒まず、去る者追わずの伊藤同郷でも無能なら相手にせず、有能なら敵対した陣営の人間を取り立てる井上打ち解けるまで時間は掛かるが気に入られたらずっ友扱いする山縣と三者三様だが、顕義は仕事と私生活は別と割り切って付き合う人だった。
マイナスポイントとしては、伊藤は女にダラシない、井上はお金にダラシない、山縣は初対面時に警戒心を持って接するので、それが陰険とかお高くとまっている、など対応を叩かれていた。
それからみたら、顕義は割り切った人間関係が淡白と言われ、他の3人に流れていった。
この4人は首班銓衡に参加したり「元勲諸先生」と呼ばれ、政界の黒幕的存在と化していた。

顕義が亡くなると世間は上述の3人を「長州三尊」と指していたが、後に桂太郎(かつらたろう)が台頭して、三尊に割って入り、バチバチの世代交代を争う様になる。

山田顕義が登場する作品

  • 『知られざる幕末の志士 山田顕義物語』(2012年、TBS、演:青年期を山田涼介(Hey! Say! JUMP)、晩年期を渡哲也)

追記、修正は法律は剣より強いと思う方がお願いします。

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最終更新:2026年05月06日 09:41

*1 長州の攘夷論では日本が危ないという認識から、孝明天皇、中川宮、島津久光、松平容保らが手を組んで、長州と彼らに手を貸した三条実美らを御所から追放した

*2 維新後、顕義と秋月は再会した際、顕義から「貴方を斬ろうと二、三度狙ったことがある」と語ったという逸話が残されている。

*3 文久政変で追放された長州が失地回復を計り、武力で御所を攻めた事件

*4 分家・徳山毛利家の世継

*5 神武天皇の時代まで遡り、あの頃を理想とし、摂政、関白、幕府を廃止、天皇が親政という形で政治の全責任を取る宣言。

*6 1804年にナポレオン1世の主導で制定された「人」「財産」「財産取得」の3編で構成され、全2281条からなるフランスの民法典。法の前の平等、私的所有権の不可侵、個人の自由などを基本原則とし、フランス革命の成果を法的に固定した。近代市民法の模範として世界各国の法制度に大きな影響を与え、日本の明治時代の旧民法にも影響を与えた

*7 太政官内部で調子こいていた大隈重信の振る舞いにブチギレた薩長と岩倉具視らが、大隈を太政官から追放した事件

*8 神職=神道、神社において神に奉仕し祭儀や社務を行う者を養成する中央機関

*9 警備の警官・津田三蔵がロシア帝国皇太子・ニコライをサーベルで斬りつけて負傷させた事件