真田幸村

「真田幸村」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
真田幸村」を以下のとおり復元します。
#region(close,''真田幸村''は史上に残る戦国武将である。)
>真田 信繁 (さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
>永禄10年(1567年)とされる生年は没年の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
>
>武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で活躍。
>名は第四次川中島の戦いで戦死した、勇将で知られた武田信玄の弟・武田信繁から取られたとされる。
>特に大坂夏の陣では、寡兵を従えて徳川本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめるが、
>最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち取られたとされる。
>その凄まじい戦いぶりは後に島津忠恒をして&bold(){「真田日本一の兵」}と賞賛された。
>
>この伝説的な活躍から江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて大敵徳川に挑む天才軍師・
>真田&ruby(ゆきむら){幸村}として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
>なお、猿飛佐助を代表とする真田十勇士はフィクションの中の人物である。

以上、''フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』''より。(一部加筆、改訂)

落日の豊臣家に忠義を尽くし、寡兵で大軍を相手に健闘したことから智勇兼備の義将として戦国武将でもトップクラスの人気を誇る。
戦国時代後期を扱った作品では非常に登場率が高い。
ただし史実において幸村が活躍した大坂の陣当時、既に彼は総白髪・歯も抜け落ちた[[ジジイ>高性能おじいちゃん]]だったと言われ…ゲフンゲフン
もっともこれは関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後九度山に配流され、
以後14年もの間、兄からの仕送りと内職で食いつなぐという極貧生活を送っていたためではあるが。
ちなみに活躍した時期もきわめて短く、目立った戦場は大阪の冬・夏の陣くらいだったりする。
よく誤解されるが第一次上田合戦には参加しておらず、第二次上田合戦も父である昌幸に従っていただけだった。
もっとも大阪の陣においては真田丸を築き劣勢のなか孤軍奮闘し、徳川本陣に突き入る前日に、高名な[[伊達鉄砲騎馬隊>伊達政宗]]を奇襲で打ち破るなど、燦然たる活躍を見せている。
また父である昌幸は幸村を越えるほど高名な戦上手であり、上田城で徳川軍を追い払ったりしている。(ただし軍を率いてたのは家康ではなく、息子の秀忠)
#endregion

格ゲーにおいてもその人気は例外ではなく、[[『SAMURAI DEEPER KYO』>真田幸村(KYO)]]と[[『戦国BASARA X』>真田幸村(戦国BASARA)]]の幸村がMUGENで再現されている。

+&link_aname(KYO){真田幸村(SAMURAI DEEPER KYO)}
+&link_aname(BASARA){真田幸村(戦国BASARA)}

----
#right(){&link_edit(page=真田幸村(SAMURAI DEEPER KYO),text=[編集])}
**&aname(KYO)真田幸村(SAMURAI DEEPER KYO)
#inc(真田幸村(SAMURAI DEEPER KYO))

----
#right(){&link_edit(page=真田幸村(戦国BASARA),text=[編集])}
**&aname(BASARA)真田幸村(戦国BASARA)
#inc(真田幸村(戦国BASARA))

復元してよろしいですか?