Centurie

 Centurie (サンチュリ /sã-ty-ri/) は、ノストラダムス『予言集』に含まれる四行詩100篇をまとめた単位。「詩百篇」(百詩篇)などと訳され、それぞれのまとまりには「巻」をつけることがしばしばである(Centurie I を「詩百篇第1巻」とするなど)。
 これを「諸世紀」と訳すことは誤訳である。
 だが、しばしば言われるような「Centurie に世紀の意味がないから誤訳だ」という主張は、後述するように誤りである。

単語の意味

 Centurie の語源はラテン語のケントゥリア(Centuria)であり、現代フランス語では「(古代ローマの)百人隊、百人組」の意味しか載せていない辞書が多い。
 『ロベール仏和大辞典』では、ほかに約50ヘクタールのあたる古代ローマの農地の単位とする語義も挙げている。これは、『改訂版羅和辞典』にのっているCenturiaの定義ともほぼ同じである。
 白水社『仏和大辞典』では、百人組・百人隊、農地単位に加えて、「同種の植物百種の標本」「世紀別史書」を挙げている。

 DFE では Centurie の英訳として、A centurie, or hundreth of ; also, a certaine quantitie of, or measure for, ground, amounting to two hundreth Iugera, or for longs.と書かれている。
 英語で century が世紀の意味になったのは17世紀初頭なので*1、1610年刊行のDFEの英訳の centurie がその意味なのかは微妙だが、この場合は違うものと思われる。というのは、同じ辞書の Siecle の英訳がAn Age ; (commonly understood of 100 years) also time, or season となっており、centurie / century を使っていないからである。
 その一方、エドモン・ユゲによる『16世紀フランス語辞典』には、「百単位のもの」、「百人のグループ」、「多数」、「世紀」(siècle)、「ローマ人のもとでの土地の尺度」という語義が挙げられていることを、高田勇伊藤進ノストラダムス予言集』(1999年)は指摘している*2

誤訳について

 志水一夫は、『大予言の嘘』でこのように述べていた。
  • 原題のサンテュリLes Centuriesというのは、四行詩を百篇ずつまとめてあるところからきた名前で、フランス語の辞書を引いてみればわかるように、「(何かを)百集めたもの」という意味の言葉の複数形であって、「世紀」という意味はない。*3

 この部分は、『トンデモノストラダムス解剖学』の前書き(「『諸世紀』などという本はない!」)の冒頭近くにも再録されているが、微調整されている。
  • 原語のサンチュリLes Centuriesというのは、四行詩の形になった予言詩を百篇ずつまとめてあるところからきた名前で、大きなフランス語の辞書を引いてみればわかるように、「(何かを)百集めたもの」という意味の言葉の複数形であって、同じ綴りの英語のセンチュリーズとは異なり、「世紀」という意味はない。*4

 「原題」が「原語」になっているのは、本来の原題が『予言集』であることを踏まえた修正だろう。
 「フランス語の辞書」に「大きな」を加えているのは、一般の仏和辞典にそんな意味は載っていないためだろう。しかし、日本では、「大きなフランス語の辞書」に該当する『ロベール仏和大辞典』、『仏和大辞典』(白水社)、『最新フランス語大辞典』、『スタンダード時事仏和大辞典』のいずれでもそんな意味は(語源としてさえ)載っていない。

 仏仏辞典である プチ・ロベール(Le Petit Robert. プチとついているのは何冊にも分かれている大辞典に比べて小さいということであって、日本の『ロベール仏和大辞典』のベースになった大きな辞典)には、語源としてGroupe de cent と載っているので、志水の文章は誤りとまでは言えない。
 ただ、日本語圏で「大きなフランス語の辞書を引いてみればわかる」と言われて、まずプチ・ロベールを引こうと思う一般読者がどれだけいるのか、疑問に思わなくもない。

 ともあれ、志水のこの指摘はおおむね正しいものの、「『世紀』という意味はない」という部分は、上掲のユゲの定義からすれば、明らかに誤りである(同様の誤りは他の懐疑論者にもみられた)。
 もっとも、ユゲの辞書というかなり限定的な情報源だったことから、志水らを責めるのは酷だろう(実際、当「大事典」管理者も当時は知らなかった)。

 ただ、高田・伊藤 [1999] の指摘によって、日本語でもそれを読むことができるようになったのだから、それ以降に同様の主張をする者がいれば、それは調査不足と言わざるをえない。にもかかわらず、インターネットでは「『世紀』の意味はない」というような主張が、その後も多くみられる。

 さて、では『諸世紀』という訳語は正しいことになるのだろうか。これについて、高田勇伊藤進はこう述べている。
  • もちろんノストラダムスは四行詩を百篇ずつまとめたわけであって、「サンチュリ」が複数なので「諸世紀」とする和訳は、語の訳としては間違っていなくても、内容からみて明らかな誤訳である。*5

 『予言集』の詩篇が世紀ごとに並んでいると主張する論者も、仲井里夢やマンフレッド・ディムデなど、いなかったわけではない。しかし、それは仏文学者らに支持されていないのはもちろんのこと、信奉者たちの間でさえもごく少数説にとどまり、広く支持されているとは言いがたい。

 ノストラダムス自身の第一序文(セザールへの手紙)にしても、世紀ごとに書いていることをうかがわせる記述はない。逆に、100篇ごとにまとめていることは明言している。
  • 第33節(抜粋)「私はこの百篇ごとの天文学(占星術)的な四行詩からなる予言の書を構成したのである。」(j'ay composé livres de propheties contenant chacun cent quatrains astronomiques de propheties,)

 もっとも第一序文には Centurie(s) という語は明記されていない。また、100篇ごとのまとまりを Centurie と呼ぶのはノストラダムスが最初でもない。
 ノストラダムスの『予言集』初版を刊行した印刷業者マセ・ボノム(未作成)は、その3年前にギヨーム・ド・ラ・ぺリエールの詩集『四界の考察』を刊行していた。その本に収められ、「考察」と題された四行詩は百篇ごとにまとめられ、Centurie と名付けられていたのである。
 高田勇伊藤進はこう述べた。
  • 四行詩というのは、ソネットを構成する四行詩から派生したのではなく、中世からすでに使われていて、一六世紀ではメラン・ド・サン=ジュレ(1491-1558)もクレマン・マロ(1496-1544)も使い、その簡潔さが諷刺や格言の強烈な表現にふさわしいために、格言詩人たちが自らの倫理観の表現のために好んだものである。まず同じ書店マセ・ボノムから1552年に出たギヨーム・ド・ラ・ペリエール(1499-1565)の『四界の考察』が十音綴交錯韻の四つのサンチュリから成っているのに注目しよう。ノストラダムスがこれを知らなかったはずはなく、彼が構成上はこれに従ったことをブランダムールは主張している。もちろん、両者は主題も文体も着想も異なっている。*6

 以上、Centurie に「世紀」の意味があろうとも、この場合に「諸世紀」と訳すのはやはり誤訳というべきだろう。
 英語の haveに「食べる」の意味もあるからと言って、I have a pen を「私はペンを食べる」とは通常訳さない。当たり前の話ではあるが、単語にどういう意味があるかということと、どの場面でどの訳語を使うべきかということは別の話なのである。

ノストラダムス以後

 前述の通り、ノストラダムス以前にも百篇の詩の集まりをCenturie と呼んだ例はあった。
 だが、ノストラダムスの『予言集』が有名になると、もっぱらその意味が強くなり、さらにはそこから別の意味も派生した。『アカデミー・フランセーズ辞典』初版(1694年)のCenturieの項目には、すでに、それを踏まえてこのような2つの意味が掲げられている*7
  • 百単位のもの(Centaine)。古代ローマの人々はcenturiesによって配置された。
  • 四行詩100篇単位で並べられた予言がCentururiesと呼ばれる。同様に、その四行詩のそれぞれもCenturieと呼ばれる。この意味で「1篇のサンチュリを作る」(faire une centurie)とは、ノストラダムスの真似をして四行詩を作ることを指す。(とはいえ)それらの成句の中でしか、ほとんど使われない。

 2番目の意味にある通り、16世紀から17世紀には、四行詩1篇や散文の予言をCenturieと呼ぶ例が、見られたのである。
 その用法は主に、ノストラダムスの模倣者たちの間では使われたものである。アントワーヌ・クレスパンの『6年間の天文的占筮』などもその例である。

 だから、志水一夫が大川隆法を批判した際に次のように述べたのは、ある部分は正しく、ある部分は誤っている。

  • しかし、詩が百篇ずつ集まっているからサンテュリなのであって、詩にしろ何にしろ百集まった形をとったものではないこの〔引用者注:大川隆法著『ノストラダムスの新予言』の〕第2章に「新諸世紀」(略)などと名付けてしまうのは、フランス語を知らぬもののすることであろう。*8

 フランス人の占星術師たちも使っていたという意味で、「フランス語を知らぬもの」呼ばわりするのは誤っている。
 他方で、本家ノストラダムスがそのような派生的用法(本来は誤用)を使わなかったという点では、志水の指摘は正しい。
 大川の口を通じて現れたという「ノストラダムスの霊」が、『新諸世紀』という、誤用の上に誤訳を重ねる表現を用いたのは、いかにも奇妙なことと言えるだろう。


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最終更新:2019年02月09日 10:56

*1 Oxford Dictionary of English second edition revised, 2005

*2 高田・伊藤 [1999] p.333

*3 志水(1991)[1997]p.151

*4 志水 [1998]p.13

*5 高田・伊藤[1999] p.333

*6 高田・伊藤、前掲書 pp.331-332。引用に際して、一部の年号の漢数字は算用数字に置き換えた

*7 https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/publicdicos/query?report=bibliography&head=centurieを基に翻訳

*8 『改訂版・大予言の嘘』p.181