巻一 本紀第一

唐書巻一

本紀第一

高祖


  高祖神堯大聖大光孝皇帝は、諱を淵、字を叔徳といい、姓は李氏で、隴西郡成紀の人である。その七世の祖の李暠は、晋末にあたって、秦州・涼州に拠って自ら王となり、涼の武昭王となった。李暠は李歆を生んだ。李歆は沮渠蒙遜のために滅ぼされた。李歆は李重耳を生んだ。李重耳は北魏の弘農太守となった。李重耳李熙を生んだ。李熙は金門鎮将となって、武川を守備したため、家をここにとどめた。李熙は李天賜を生んだ。李天賜は幢主となった。李天賜は李虎を生んだ。李虎は、西魏のときに大野氏の姓を賜り、官は太尉にいたって、李弼ら八人とともに北周の建国を助けて西魏に代わるのに功績があり、みな柱国となって、「八柱国家」と号した。北周の閔帝が西魏から禅譲を受けたとき、李虎はすでに亡くなっており、その功績を追録して、唐国公に封じ、諡を襄といった。襄公李昞を生んだ。李昞は唐公の位を襲封し、北周の安州総管・柱国大将軍となり、亡くなると、謚を仁といった。

  仁公高祖を長安で生んだ。高祖の体には三つの乳があり、性格は寛仁で、唐公の位を襲封した。隋の文帝(楊堅)の独孤皇后は、高祖の叔母であり、このために文帝と高祖はたがいに親愛しあった。文帝が北周の宰相となると、高祖は姓を李氏に復し、千牛備身となり、隋につかえて譙・隴二州の刺史となった。大業年間(605-618)に、岐州刺史・滎陽・楼煩二郡の太守を歴任し、召されて殿内少監・衛尉少卿となった。煬帝が遼東(高句麗)を攻撃すると、高祖に懐遠鎮で食糧の運搬を監督させた。楊玄感が反乱を計画し、その兄弟たちで高麗遠征に従軍した者たちがみな逃げかえると、高祖は真っ先に察知して上聞し、煬帝はにわかに軍を分けて、高祖を弘化留守として楊玄感を防がせ、詔により関右の諸郡の兵はみな高祖の節度を受けた。

  このとき、隋の政治は荒廃し、天下は大いに乱れ、煬帝は妬みのために多くの大臣を殺戮した。かつて事によって高祖を召し出したが、高祖はちょうど病気のため、謁見できなかった。高祖に姪の王氏が後宮にいたが、煬帝は王氏に尋ねると、王氏は病気であると答えたから、煬帝は「死んでくれたのか、そうでないのか」と問いただした。高祖はこれを聞くとますますおそれて、酒におぼれて賄賂を取り態度をくらました。

  大業十一年(615)、山西河東慰撫大使に任ぜられ、龍門の賊の母端児を攻撃し、弓を七十発射てみな命中させ、賊が敗れ去ると、その死体を集めて京観を築き、その死体からことごとく矢を回収した。また絳州の賊の柴保昌を攻撃し、その衆数万人を降した。突厥が塞内を侵犯すると、高祖と馬邑太守の王仁恭がこれを撃ったが、隋兵は少なく、敵わなかった。高祖は精鋭の騎兵二千を選抜して遊軍とし、寝食は水草にしたがって突厥のようにし、狩猟のために平原をかけているようにして暇であるようにみせかけ、別に弓射をよくする者を選抜して伏兵とした。敵は高祖を見ると、疑ってあえて戦わず、高祖が乗じてこれを撃つと、突厥は敗走した。

  大業十三年(617)、太原留守に任ぜられ、高陽の歴山飛と賊の甄翟児を西河で攻撃し、これを破った。このとき、煬帝は江都で南遊し、天下には盗賊が蜂起した。高祖の子の李世民は隋の滅亡の必然を察知し、ひそかに豪傑と結び、亡命者を招きいれ、晋陽令の劉文静とともに大事を挙げることを計画した。計略は決定したが、高祖はまだ知らず、情によって告げようとしたが、恐れて耳に入れなかった。高祖は太原に留守し、晋陽宮監を領し、親しくしていた客人の裴寂を副監とし、李世民は密かに裴寂ととに謀り、裴寂はそこで晋陽の宮人を選んで密かに高祖に侍らせた。高祖は裴寂と深酒をし、酒が酣となると誘い入れ、裴寂は詳細に大事であるとして告げると、高祖は大いに驚いた。裴寂は「宮人を奉公させたことが、発覚すれば罪は誅殺にあたります。決起するだけです」と述べ、李世民はそこでまたその事を申し上げ、高祖は始め表向きは許さず、李世民を捕らえて官に引き渡そうとしたが、その後許し、「私はお前を愛している。どうしてお前を密告するのにたえられようか」と言ったが、しかしまだ発覚していなかった。太原では盗賊がますます多くなり、突厥もしばしば辺境を侵犯したが、高祖は兵を出しても功績がなく、煬帝は使者を派遣して高祖を捕らえて江都に連れて来るよう命じたから、高祖は大いに恐れた。李世民は「事は急です。挙兵すべきです」と言ったが、その後煬帝が再び使者を走らせて高祖を赦免したから、挙兵は遂に沙汰止みとなった。
  このとき、劉武周が馬邑に起ち、林士弘が豫章に起ち、劉元進が晋安に起ち、みな皇帝を称した。朱粲が南陽に起ち、楚帝を号した。李子通が海陵に起ち、楚王を号した。邵江海が岐州に拠り、新平王を号した。薛挙が金城に起ち、西秦霸王を号した。郭子和が楡林に起ち、永楽王を号した。竇建徳が河間に起ち、長楽王を号した。王須抜が恒州・定州に起ち、漫天王を号した。汪華が新安に起ち、杜伏威が淮南に起ち、みな呉王を号した。李密が鞏に起ち、魏公を号した。王徳仁が鄴に起ち、太公を号した。左才相が斉郡に起ち、博山公を号した。羅芸が幽州に拠り、左難当が涇州に拠り、馮盎が高州・羅州に拠り、みな総管を号した。梁師都が朔方に拠り、大丞相を号した。孟海公が曹州に拠り、録事を号した。周文挙が淮陽に拠り、柳葉軍を号した。高開道が北平に拠り、張長愻が五原に拠り、周洮が上洛に拠り、楊士林が山南に拠り、徐円朗が兗州に拠り、楊仲達が豫州に拠り、張善相が伊州・汝州に拠り、王要漢が汴州に拠り、時徳叡が尉氏に拠り、李義満が平陵に拠り、綦公順が青州・莱州に拠り、淳于難が文登に拠り、徐師順が任城に拠り、蒋弘度が東海に拠り、王薄が斉郡に拠り、蒋善合が鄆州に拠り、田留安が章丘に拠り、張青特が済北に拠り、臧君相が海州に拠り、殷恭邃が舒州に拠り、周法明が永安に拠り、苗海潮が永嘉に拠り、梅知巌が宣城に拠り、鄧文進が広州に拠り、俚酋の楊世略が循州・潮州に拠り、冉安昌が巴東に拠り、甯長真が鬱林に拠って、号を別にする盗賊たちがしばしば山沢にたむろし集まった。劉武周が汾陽宮を攻撃すると、高祖はそこで将や役人を集めて「今、私は留守に任じられているが、賊は離宮を占領している。勝手次第にしている賊を誅さなければ、罪は死にあたる。しかし出兵すれば必ず報告しなければならないが、今江都は遠く隔たっており、その後はどうすればよいか」と告げると、将や役人は口々に「国家の利益を専断すべき人は、あなたです」と言ったから、高祖は「よし」と言い、そこで募兵し、十日間で軍は一万人となった。副留守虎賁郎将王威・虎牙郎将高君雅は兵が大いに集ったのを見て、謀反をするのではないかと疑い、晋祠で祈雨するのにかこつけて高祖に対して謀をしようとした。高祖は気付いて、そこで密かに備えをした。
  五月甲子、高祖王威高君雅が政務を行っているとき、開陽府司馬の劉政会が王威・高君雅の謀反を告発し、ただちに捕らえた。丙寅、突厥が辺境を侵犯してきて、高祖は軍中に命じて、「ある者が王威・高君雅が突厥を呼び寄せたと告発してきたが、今その通りとなった」と言い、遂に王威・高君雅を殺して挙兵した。劉文静を突厥への使者として派遣して、和平と連合と約束した。
  六月己卯、諸郡に檄文を伝え、義兵を称し、大将軍府を開いて、三軍を置いた。子の李建成を隴西公・左領軍大都督として、左軍を従わせた。李世民を燉煌公・右領軍大都督として、右軍を従わせた。李元吉を姑臧公として、中軍を従わせた。裴寂を長史とし、劉文静を司馬とし、石艾県長の殷開山を掾とし、劉政会を属とし、長孫順徳王長諧劉弘基竇琮を統軍とした。倉庫を開いて窮乏するものにふるまった。
  七月壬子、高祖は白旗をたてて、軍に野で誓い、兵は三万あり、李元吉を太原留守とした。癸丑、太原を出発した。甲寅、将軍の張綸を派遣して離石・龍泉・文城の三郡を降し従わせた。丙辰、霊石に行き、賈胡堡に陣を敷いた。隋の虎牙郎将の宋老生が䤈邑にあって、義軍をはばんだ。丙寅、隋の鷹揚府司馬の李軌が武威に蜂起し、大涼王を号した。
  八月辛巳、宋老生を霍邑で破った。丙戌、臨汾郡を下した。辛卯、絳郡で勝利した。癸巳、龍門に行き、突厥がやって来たから出迎えた。
  九月戊午、高祖は太尉を領し、幕僚を設置した。少牢によって河を祀り、渡河した。甲子、長春宮に行った。丙寅、隴西公李建成劉文静が永豊倉に駐屯し、潼関を守った。燉煌公李世民は渭北から三輔をめぐり、従父弟の李神通が鄠で起兵し、柴氏の妻は、高祖の女であり、また司竹で起兵して、みな李世民と合流した。郿の賊の丘師利李仲文、盩厔の賊の何潘仁向善思、宜君の賊の劉炅らはみな来降し、そこで鄠・杜を攻略して平定した。壬申、高祖が馮翊に行った。乙亥、燉煌公李世民は阿城に駐屯し、隴西公李建成は新豊から霸上に急行した。丙子、高祖は下邽を出発して西に向かい、通過したところの隋の行宮・円池をすべて廃止し、宮女を出してその家に戻した。
  十月辛巳、長楽宮に行き、軍は二十万にもなった。隋の留守の衛文昇らが代王楊侑を奉じて京城を守っていたので、高祖が使者を遣してこれを諭したが、返事がなかった。そこで城を包囲し、「隋の七廟および宗室に危害を加えた者がいれば、罪は三族におよぶ」と命令を下していった。丙申、隋の羅山令の蕭銑が自ら梁公を号した。
  十一月丙辰、京城で勝利した。主符郎の宋公弼に命じて地図と帳簿を保護させた。法十二条を約束し、殺人・強盗・背軍・叛乱にあたる者を死罪とした。癸亥、遠くにいる隋帝を尊んで太上皇とし、 代王を立てて皇帝とした。大赦をおこない、義寧と改元した。甲子、高祖は京師に入り、朝堂にいたって、宮中を仰ぎ見て拝礼した。隋帝は高祖に仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・大丞相・録尚書事を授け、唐王に進封した。武徳殿を丞相府として、下への指導を令といい、虔化門で政事をみた。
  十二月癸未、隋の恭帝が唐の襄公(李虎)に追贈して景王とし、仁公(李昞)を元王とした。夫人の竇氏を唐国妃として、諡を穆といった。李建成を唐国世子とした。李世民を唐国内史として、秦国公に移封した。李元吉を斉国公とした。丞相府に長史・司録以下の官を置いた。趙郡公の李孝恭に山南を巡回させることとした。甲辰、雲陽令の詹俊に巴・蜀を巡回させることとした。

  義寧二年(618)正月丁未、隋帝が詔して、唐王が宮殿にのぼるときに帯剣する特権、入朝するときに小走りしない特権、拝謁するとき名乗らない特権を認め、前後に羽葆・鼓吹を加えた。戊午、周洮が降った。戊辰、世子李建成を左元帥とし、秦国公李世民を右元帥として、東都の地を巡回させることとした。
  二月己卯、太常卿の鄭元璹が樊・鄧を平定し、使者の馬元規が荊・襄を巡回することとした。
  三月己酉、斉国公李元吉が太原道行軍元帥となった。乙卯、李世民が趙国公に移封された。丙辰、隋の右屯衛将軍の宇文化及太上皇を江都で弑し、秦王楊浩を立てて皇帝とした。呉興郡守の沈法興が丹陽に拠り、江南道総管を自称した。楽安の人の盧祖尚が光州に拠り、刺史を自称した。戊辰、隋帝唐王の位を相国に進め、百揆を総べさせ、九錫を備え、唐国は丞相などの官を置き、四廟を立てた。
  四月己卯、張長愻が降った。辛巳、竹使符の使用をやめて、銀菟符をわけられた。
  五月乙巳、隋帝唐王に命じて、冕冠のたまだれの本数は天子と同じ十二旒を用いさせ、天子の旌旗を建て、出入に先払いさせた。甲寅、王徳仁が降った。戊午、隋帝が位をゆずり、刑部尚書の蕭造・司農少卿の裴之隠に皇帝の璽綬を唐王に奉らせ、三度献上してから受諾した。

  武徳元年(618)五月甲子、太極殿で皇帝の位についた。蕭造に命じて太尉を兼ねさせ、南郊に告祭し、大赦をおこない、改元した。百官・庶人に爵一級を賜り、義軍が通過した場所に三年間の免税を賜い、その他は一年免税とした。郡を改めて州とし、太守を刺史とした。庚午、太白(金星)が昼に見えた。隋の東都留守の元文都と左武衛大将軍の王世充が越王楊侗を立てて皇帝とした。
  六月甲戌、趙国公李世民が尚書令となり、裴寂が尚書右僕射・知政事となり、劉文静が納言となり、隋の民部尚書の蕭瑀・丞相府司録参軍の竇威が内史令となった。丙子、太白(金星)が昼に見えた。己卯、皇高祖を追謚して宣簡公といった。皇曾祖を懿王といった。皇祖を景皇帝といい、廟号を太祖とし、祖母の梁氏を景烈皇后といった。皇父を元皇帝といい、廟号を世祖とし、母の独孤氏を元貞皇后といった。妃の竇氏を穆皇后といった。庚辰、世子の李建成を立てて皇太子とし、李世民を封じて秦王とし、李元吉を斉王とした。癸未、薛挙が涇州を寇すると、秦王李世民を西討元帥とし、劉文静を司馬とした。太僕卿の宇文明達に山東を招慰させた。乙酉、隋帝を奉じて酅国公とし、詔して「近世の時運が移り改まり、前代の親族は、皆殺しにしたり絶やしたりしてはならない。歴法が我が手に帰したのは、実にこれは天命であったのだ。興亡のならいは、どうして人の力であろうか。前の隋の蔡王の楊智積(文帝の甥)ら子孫は、全員選んで登用せよ」と述べた。癸巳、符瑞の上奏を禁じた。辛丑、竇威が薨去した。黄門侍郎の陳叔達が判納言となり、将作大匠の竇抗が納言を兼ねた。
  七月壬子、劉文静薛挙が涇州で戦い、劉文静が敗れた。乙卯、郭子和が降った。庚申、隋の離宮を廃した。
  八月壬申、劉文静を除名した。戊寅、功臣に約束して死罪を許した。辛巳、薛挙が亡くなった。壬午、李軌が降った。甲申、巌州刺史の王徳仁が招慰使の宇文明達を殺してそむいた。己丑、秦王李世民が西討元帥となり、薛仁杲を討った。庚子、隋の太常卿の高熲に上柱国・郯国公を、上柱国の賀若弼に𣏌国公を、司隸大夫の薛道衡に上開府・臨河県公を、刑部尚書の宇文弼に上開府・平昌県公を、左翊衛将軍の董純に柱国・狄道公を、右驍衛将軍の李金才に上柱国・申国公を、左光禄大夫の李敏に柱国・観国公を追贈した。隋で罪なくして殺されて子孫が配流された者を、皆帰還させた。
  九月乙巳、囚人を再審した。始めて軍府を置いた。癸丑、銀菟符を改めて銅魚符とした。甲寅、秦州総管の竇軌薛仁杲と戦い、敗れた。辛未、宇文化及が秦王楊浩を殺し、皇帝を自称した。
  十月壬申朔、日食があった。己卯、李密が降った。壬午、朱粲が鄧州を陥落させ、刺史の呂子臧がここに死んだ。乙酉、邵江海が降った。己亥、盗賊が商州刺史の泉彦宗を殺した。辛丑、大規模な閲兵を行った。この月、竇抗が宰相を罷免された。
  十一月、竇建徳王須抜を幽州で破り、王須抜は突厥に亡命した。乙巳、涼王の李軌がそむいた。戊申、侏儒(こびと)・手足が短い者・小馬・背が低い牛・異獣・奇禽の献上を禁止した。己酉、秦王李世民薛仁杲を破り、これを捕らえた。癸丑、行軍総管の趙慈景が蒲州を攻め、隋の刺史の堯君素が抵抗して戦い、趙慈景を捕らえた。癸亥、秦王李世民が捕らえた薛仁杲を献上した。
  十二月壬申、李世民が太尉となった。丙子、蒲州の人が堯君素を殺し、その将の王行本を立てた。辛巳、鄭元璹朱粲と商州で戦い、これを破った。乙酉、周氏陂にいった。丁亥、周氏陂から到着した。庚子、光禄卿の李密がそむき、処刑された。
  この年、高開道が漁陽を陥落させ、燕王を号した。

  武徳二年(619)正月甲子、陳叔達が納言を兼ねた。「今から正月・五月・九月は死刑を行わず、屠殺を禁ずる」と詔した。丙寅、張善相が降った。己巳、楊士林が降った。
  二月乙酉、初めて租・庸・調の法を定めた。文武官に終喪(父母の服喪三年に復すること)させた。丙戌、州に宗師一人を置いた。甲午、并・浩・介・石の四州、賈胡堡で北に囚人となった者を赦した。閏月、竇建徳が邢州を陥落させ、総管の陳君賓を捕らえた。辛丑、竇建徳宇文化及を聊城で殺した。朱粲が降った。壬寅、皇太子および秦王李世民裴寂が畿県を巡視した。乙巳、御史大夫の段確朱粲を菊潭でねぎらった。庚戌、お忍びで習俗を査察した。乙卯、穀物の高騰のため、関内で屠殺と造酒を禁じた。左屯衛将軍の何潘仁が山賊の張子恵と司竹で戦い、ここに死んだ。丁巳、囚人を再審した。庚申、驍騎将軍の趙欽と王娑羅が山賊と盩厔で戦い、ここに死んだ。丁卯、王世充が殷州を陥落させ、陟州刺史の李育徳がここに死んだ。
  三月甲戌、王薄が降った。庚辰、蒋弘度徐師順が降った。丁亥、竇建徳が趙州を陥落させた。丁酉、李義満が降った。
  四月、綦公順が降った。庚子、并州総管・斉王の李元吉劉武周が楡次で戦い、李元吉は敗れた。辛丑、朱粲が段確を殺してそむいた。乙巳、王世充が越王楊侗を廃し、皇帝を自称した。癸亥、伊州が陥落して、総管の張善相が捕らえられた。
  五月庚辰、涼州の将の安修仁李軌を捕らえて降った。癸未、涼・甘・瓜・鄯・粛・会・蘭・河・廓の九州を特赦した。
  六月、王世充が越王楊侗を殺した。戊戌、周公と孔子の廟を国子監に立てた。庚子、竇建徳が滄州を陥落させた。丁未、劉武周が介州を陥落させた。癸亥、裴寂が晋州道行軍総管となった。離石胡の劉季真が叛き、石州を陥落させたので、刺史の王倹がここに死んだ。
  七月壬申、徐円朗が降った。
  八月丁酉、酅国公が薨去した。甲子、竇建徳が洺州を陥落させ、総管の袁子幹を捕らえた。
  九月辛未、戸部尚書の劉文静を殺した。李子通が皇帝を自称した。沈法興が梁王を自称した。丁丑、杜伏威が降った。裴寂劉武周が介州で戦い、裴寂が敗れ、右武衛大将軍の姜宝誼がここに死んだ。庚辰、竇建徳が相州を陥落させ、総管の呂珉がここに死んだ。辛巳、劉武周が并州を陥落させた。庚寅、太白(金星)が昼に見えた。竇建徳が趙州を陥落させ、総管の張志昂を捕らえた。乙未、京師で地震があった。梁師都が延州を寇し、鄜州刺史の梁礼がここに死んだ。
  十月己亥、羅芸が降った。乙卯、華陰にいき、兵士を募って軍から背こうとした者を赦した。壬戌、劉武周が晋州を寇すると、永安王李孝基および工部尚書の独孤懐恩・陜州総管の于筠・内史侍郎の唐倹がこれを討った。甲子、華山を祠った。この月、夏県の人の呂崇茂がそむいた。秦王李世民劉武周を討った。
  十一月丙子、竇建徳が黎州を陥落させ、淮安王李神通と総管の李世勣を捕らえた。
  十二月丙申、華山で狩猟した。永安王李孝基劉武周と下邽で戦い、敗れた。壬子、大風で木が抜けた。

  武徳三年(620)正月己巳、渭浜で狩猟した。戊寅、王行本が降った。辛巳、蒲州にいった。癸巳、蒲州から到着した。
  二月丁酉、京師の西南の地から声があった。庚子、華陰に行った。甲寅、独孤懐恩が反乱を計画し、処刑された。辛酉、検校隰州総管の劉師善が反乱を計画し、処刑された。
  三月庚午、納言を改めて侍中とし、内史令を中書令とした。甲戌、中書侍郎の封徳彝が中書令を兼ねた。乙酉、劉季真が降った。
  四月丙申、華山を祠った。壬寅、華陰から到着した。癸卯、関内の諸州で屠殺を禁じた。甲寅、秦王李世民宋金剛と雀鼠谷で戦い、これを破った。辛酉、王世充が鄧州を陥落させ、総管の雷四郎がここに死んだ。壬戌、秦王李世民劉武周と洺州で戦い、これを破り、劉武周は突厥に亡命した。并州に勝利した。
  五月壬午、秦王李世民が夏県を屠った。
  六月丙申、晋・隰・潞・并の四州で赦した。癸卯、詔して隋帝およびその宗室で柩が江都にあるものを、墳墓を造営し、陵廟を置き、もと宮人に守らせた。丙午、囚人を再審した。子の李元景を封じて趙王とし、李元昌を魯王とし、李元亨を酆王とした。己酉、宮女五百人を出して、東征した将士のうち功績ある者に賜った。甲寅、顕州長史の田瓚が行台尚書令の楊士林を殺し、叛いて王世充についた。乙卯、州県で野ざらしになっている骨を埋めた。
  七月壬戌、秦王李世民王世充を討った。甲戌、皇太子が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。丙戌、梁師都が突厥・稽胡を導いて辺境を寇したので、行軍総管の段徳操がこれを破った。
  八月庚子、囚人を再審した。甲辰、時徳叡が降った。
  九月癸酉、田瓚が降った。己丑、陜・鼎・熊・穀の四州に二年の免税を賜った。
  十月戊申、高開道が降った。己酉、楊仲達が降った。己未、隕石が東都に落ちた。
  十二月己酉、瓜州刺史の賀抜行威がそむいた。

  武徳四年(621)正月辛巳、皇太子が稽胡を討った。
  二月、竇建徳が曹州を陥し、孟海公を捕らえた。己丑、車騎将軍の董阿興が隴州でそむき、処刑された。乙巳、太常少卿の李仲文が反乱を計画し、処刑された。丙午、囚人を再審した。丁巳、代州総管府の石嶺における敗北を赦した。
  三月、宜都郡王李泰を進封して衛王とした。庚申、囚人を再審した。乙酉、竇建徳が管州を陥落させ、刺史の郭志安がここに死んだ。
  四月壬寅、斉王李元吉王世充と東都で戦い、敗れ、行軍総管の盧君諤がここに死んだ。戊申、突厥が并州を寇し、漢陽郡王李瓌・太常卿の鄭元璹・左驍騎衛大将軍の長孫順徳を捕らえた。甲寅、子の李元方を封じて周王とし、李元礼を鄭王とし、李元嘉を宋王とし、李元則を荊王とし、李元茂を越王とした。丁巳、左武衛将軍の王君廓張青特を破り、これを捕らえた。
  五月壬戌、秦王李世民竇建徳を虎牢で破り、これを捕らえた。乙丑、山東で竇建徳に欺かれ惑わされた者を赦した。戊辰、王世充が降った。庚午、周法明が降った。
  六月庚寅、河南で王世充に欺かれ惑わされた者を赦した。戊戌、蒋善合が降った。庚子、営州の人の石世則がその総管の晋文衍を捕らえて、叛いて靺鞨についた。乙卯、臧君相が降った。
  七月甲子、秦王李世民が捕らえた王世充を献上した。丙寅、竇建徳が処刑された。丁卯、大赦をおこない、天下に一年間免税とし、陜・鼎・函・虢・虞・芮・豳の七州は二年とした。甲戌、劉黒闥が貝州でそむいた。辛巳、戴州刺史の孟噉鬼がそむき、処刑された。
  八月丙戌朔、日食があった。丁亥、皇太子が北境を安撫した。丁酉、劉黒闥が鄃県を陥落させ、魏州刺史の権威と貝州刺史の戴元祥がここに死んだ。癸卯、突厥が代州を寇し、行軍総管の王孝基を捕らえた。丁未、劉黒闥が歴亭を陥落させ、屯衛将軍の王行敏がここに死んだ。辛亥、深州の人の崔元遜がその刺史の裴晞を殺し、叛いて劉黒闥についた。兗州総管の徐円朗がそむいた。
  九月、盧祖尚が降った。乙卯、淳于難が降った。甲子、汪華が降った。
この秋、夔州総管・趙郡王李孝恭が十二総管の兵を率いて蕭銑を討った。
  十月己丑、秦王李世民が天策上将となり、司徒を領した。斉王李元吉が司空となった。庚寅、劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の盧士叡を捕らえ、また観州を陥落させた。癸卯、毛州の人の董燈明がその刺史の趙元愷を殺した。乙巳、趙郡王李孝恭蕭銑を荊州で破り、これを捕らえた。
  閏月乙卯、稷州にいった。己未、旧墅に幸した。壬戌、好畤で狩猟した。乙丑、九嵏で狩猟した。丁卯、仲山で狩猟した。戊辰、清水谷で狩猟し、そのまま三原に幸した。辛未、周氏陂にいった。壬申、周氏陂から到着した。
  十一月甲申、南郊を有事摂祭にて祀った。庚寅、李子通が降った。丙申、李子通が反乱を計画し、処刑された。壬寅、劉黒闥が定州を陥落させ、総管の李玄通がここに死んだ。庚戌、𣏌州の人の周文挙がその刺史の王孝矩を殺し、叛いて劉黒闥についた。
  十二月乙卯、劉黒闥が冀州を陥落させ、総管の麴稜がここに死んだ。甲子、左武候将軍の李世勣劉黒闥と宋州で戦い、敗れた。丁卯、秦王李世民・斉王李元吉劉黒闥を討った。己巳、劉黒闥が邢州を陥落させた。庚午、魏州を陥落させ、総管の潘道毅がここに死んだ。辛未、莘州を陥落させた。壬申、李元嘉を徐王に移封した。

  武徳五年(622)正月乙酉、劉黒闥が相州を陥落させ、刺史の房晃がここに死んだ。丙戌、殷恭邃が降った。丁亥、済州別駕の劉伯通がその刺史の竇務本を捕らえて、叛いて徐円朗についた。庚寅、東塩州治中の王才芸がその刺史の田華を殺して、叛いて劉黒闥についた。丙申、相州の人がその刺史の独孤徹を殺して、その州をもって叛いて劉黒闥についた。己酉、楊世略・劉元進が降った。
  二月、王要漢が降った。己巳、秦王李世民が邢州に勝利した。丁丑、劉黒闥が洺水を陥落させ、総管の羅士信がここに死んだ。戊寅、汴州総管の王要漢徐円朗を𣏌州で破り、周文挙を捕らえた。
  三月戊戌、譚州刺史の李義満が斉州都督王薄を殺した。丁未、秦王李世民劉黒闥と洺水で戦い、これを破り、劉黒闥は突厥に亡命した。蔚州総管の高開道がそむき、易州を寇し、刺史の慕容孝幹がここに死んだ。
  四月、梁州の野生の蚕が繭をつくった。冉安昌が降った。己未、甯長真が降った。戊辰、流罪以下の麦の収穫を許した。壬申、代州総管の李大恩が突厥と戦い、ここに死んだ。戊寅、鄧文進が降った。
  五月、田留安が降った。庚寅、瓜州の人の王幹が賀抜行威を殺して降った。乙巳、荊州にこの年の田租を賜った。
  六月辛亥、劉黒闥と突厥が山東を寇した。車騎将軍の元韶が瓜州道行軍総管となり、突厥に備えた。癸丑、吐谷渾が洮・旭・畳の三州を寇したが、岷州総管の李長卿がこれを破った。乙卯、淮安郡王李神通徐円朗を討った。
  七月甲申、弘義宮を作った。甲午、淮陽郡王李道玄が河北道行軍総管となり、劉黒闥を討った。貝州の人の董該が定州をもって叛いて劉黒闥についた。丙申、突厥が劉武周を白道で殺した。遷州の人の鄧士政がそむき、その刺史の李敬昂を捕らえた。丁酉、馮盎が降った。
  八月辛亥、隋の煬帝を葬った。甲寅、吐谷渾が岷州を寇し、益州道行台左僕射の竇軌がこれを破った。乙卯、突厥が辺境を寇した。庚申、皇太子が豳州道を出て、秦王李世民が秦州道を出て、突厥をふせいだ。己巳、吐谷渾が洮州を陥落させた。并州総管・襄邑郡王李神符が突厥と汾東で戦い、これを破った。戊寅、突厥が大震関を陥落させた。
  九月癸巳、霊州総管の楊師道が三観山で突厥を破った。丙申、洪州総管の宇文歆がまた崇岡で突厥を破った。壬寅、定州総管の双士洛と驃騎将軍の魏道仁がまた恒山の南で突厥を破った。丙午、領軍将軍の安興貴がまた甘州で突厥を破った。劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の馬匡武がここに死んだ。東塩州の人の馬君徳がその州をもって叛いて劉黒闥についた。
  十月己酉、斉王李元吉劉黒闥を討った。癸丑、貝州刺史の許善護が劉黒闥と鄃県で戦い、ここに死んだ。甲寅、観州刺史の劉君会が叛いて劉黒闥についた。乙丑、淮陽郡王李道玄劉黒闥と下博で戦い、ここに死んだ。己巳、林士弘が降った。
  十一月庚辰、劉黒闥が滄州を陥落させた。甲申、皇太子劉黒闥を討った。丙申、宜州にいった。癸卯、富平北原で狩猟した。
  十二月丙辰、万寿原で狩猟した。戊午、劉黒闥が恒州を陥落させ、刺史の王公政がここに死んだ。庚申、万寿原から到着した。壬申、皇太子劉黒闥と魏州で戦い、これを破った。甲戌、また毛州で劉黒闥を破った。

  武徳六年(623)正月己卯、劉黒闥の将の葛徳威(諸葛徳威)が劉黒闥を捕らえて降った。壬午、巂州の人の王摩娑がそむき、驃騎将軍の衛彦がこれを討った。庚寅、徐円朗が泗州を陥落させた。
  二月、劉黒闥が処刑された。庚戌、温湯に幸した。壬子、驪山で狩猟した。甲寅、温湯より到着した。丙寅、行軍総管李世勣徐円朗を破り、これを捕らえた。
  三月、苗海潮梅知巌左難当が降った。乙巳、洪州総管の張善安がそむいた。
  四月己酉、吐蕃が芳州を陥落させた。己未、もと邸宅を通義宮とし、元皇帝元貞皇后を旧寝で祭った。京城で赦し、従官に帛を賜った。辛酉、張善安が孫州を陥落させ、総管の王戎を捕らえた。丁卯、南州刺史の龐孝泰がそむき、南越州を陥落させた。壬申、子の李元璹を封じて蜀王とし、李元慶を漢王とした。癸酉、裴寂が尚書左僕射となり、蕭瑀が右僕射となり、封徳彝が中書令となり、吏部尚書の趙恭仁が中書令を兼ね、涼州諸軍事を検校した。
  五月庚寅、吐谷渾・党項が河州を寇し、刺史の盧士良がこれを破った。癸卯、高開道が奚をつれて幽州を寇し、長史の王説がこれを破った。
  六月丁卯、突厥が朔州を寇し、総管の高満政がこれを破った。朔州で曲赦した。
  七月丙子、沙州別駕の竇伏明がそむき、その総管の賀若懐廓を殺した。己亥、皇太子が北辺に駐屯し、秦王李世民が并州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月壬子、淮南道行台左僕射の輔公祏がそむいた。乙丑、趙郡王李孝恭がこれを討った。
  九月壬辰、秦王李世民が江州道行軍元帥となった。丙申、渝州の人の張大智がそむいた。
  十月丙午、広州都督の劉世譲を殺した。戊申、死罪を一等降し、流以下を赦した。己未、華陰にいった。張大智が降った。庚申、白鹿原で狩猟した。壬戌、右虞候率の杜士遠が高満政を殺し、朔州をもってそむいた。丁卯、突厥が和を請うた。
  十一月壬午、張善安が黄州総管の周法明を襲って殺した。丁亥、華陰にいった。辛卯、沙苑で狩猟した。丁酉、伏龍原で狩猟した。
  十二月壬寅朔、日食があった。癸卯、張善安が降った。庚戌、奉義監を龍躍宮とし、武功県の旧宅を慶善宮とした。甲寅、華陰から到着した。

  武徳七年(624)正月庚寅、鄒州の人の鄧同穎がその刺史の李士衡を殺した。
  二月丁巳、国学で釈奠を行った。己未、漁陽の部将の張金樹高開道を殺して降った。
  三月戊戌、趙郡王李孝恭輔公祏を破り、これを捕らえた。己亥、李孝恭が越州都督の闞稜を殺した。
  四月庚子、大赦をおこなった。新律令を班行した。江州道に二年・揚州・越州に一年免税とした。
  五月丙戌、仁智宮を作った。
  六月辛丑、仁智宮にいった。壬戌、慶州都督の楊文幹がそむいた。
  七月己巳、突厥が朔州を寇し、総管の秦武通がこれを破った。癸酉、慶州の人が楊文幹を殺して降った。甲午、仁智宮から到着した。巂州で地震があり山が崩れ、江の水をさえぎった。
  閏月己未、秦王李世民・斉王李元吉が豳州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月己巳、吐谷渾が鄯州を寇し、驃騎将軍の彭武傑がここに死んだ。戊寅、突厥が綏州を寇し、刺史の劉大倶がこれを破った。壬辰、突厥が和を請うた。丁酉、裴寂が突厥に使いした。
  十月丁卯、慶善宮にいった。辛未、鄠南で狩猟した。癸酉、終南山に幸した。丙子、楼より謁して老子祠をみた。庚寅、囲川で狩猟した。
  十二月丁卯、龍躍宮にいった。戊辰、高陵で狩猟した。庚午、高陵から到着した。太子詹事の裴矩が侍中を検校した。

  武徳八年(625)二月癸未、囚人を再審した。
  四月甲申、鄠にいき、甘谷で狩猟した。太和宮を作った。丙戌、鄠から到着した。
  六月甲子、太和宮にいった。
  七月丙午、太和宮から到着した。丁巳、秦王李世民が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月壬申、并州行軍総管張瑾が突厥と太谷で戦い、敗れ、鄆州都督の張徳政がここに死に、行軍長史の温彦博が捕らえられた。甲申、任城郡王李道宗が突厥と霊州で戦い、これを破った。丁亥、突厥が和を請うた。
  十月辛巳、周氏陂にいき、北原で狩猟した。壬午、龍躍宮にいった。
  十一月辛卯、宜州にいき、西原で狩猟した。裴矩が宰相を罷免された。庚子、同官で武を講じた。天策府司馬の宇文士及が権検校侍中となった。辛丑、李元璹を移封して呉王とし、李元慶を陳王とした。癸卯、秦王李世民が中書令となり、斉王李元吉が侍中となった。癸丑、華池北原で狩猟した。
  十二月辛酉、華池から到着した。庚辰、鳴犢泉で狩猟した。辛巳、鳴犢泉から到着した。

  武徳九年(626)正月甲寅、裴寂を司空とした。
  二月庚申、斉王李元吉を司徒とした。壬午、孛(ほうきぼし)が胃・昴を横切った。丁亥、孛(ほうきぼし)が巻舌星の近くを通過した。
  三月庚寅、昆明池に幸し、水戦を演習した。壬辰、昆明池より到着した。丙午、周氏陂にいった。乙卯、周氏陂より到着した。丁巳、突厥が涼州を寇し、都督・長楽郡王の李幼良がこれを破った。
  四月辛巳、浮屠(仏教)・老子の法を廃した。
  六月丁巳、太白(金星)が天を通過した。庚申、秦王李世民が皇太子李建成・斉王李元吉を殺した。大赦をおこなった。浮屠(仏教)・老子の法を復した。癸亥、秦王李世民を立てて皇太子とし、聴政させた。父の後継者となる者に勲・爵を、臨時官を正式な官とし、民で租・賦の滞納分の免除を賜った。己卯、太白(金星)が昼に見えた。庚辰、幽州都督・廬江郡王の李瑗がそむき、処刑された。癸未、幽州管内で李瑗のせいで欺かれた者を赦した。
  七月辛卯、楊恭仁が宰相を罷免された。太子右庶子の高士廉が侍中となり、左庶子房玄齢が中書令となり、蕭瑀が尚書左僕射となった。癸巳、宇文士及が中書令となり、封徳彝が尚書左僕射となった。辛亥、太白(金星)が昼に見えた。甲寅、太白が昼に見えた。
  八月丙辰、突厥が和を請うた。丁巳、太白(金星)が昼に見えた。壬戌、吐谷渾が和を請うた。甲子、皇太子が皇帝位についた。

  貞観三年(629)、太上皇大安宮に移り住んだ。九年(635)五月、垂拱前殿で崩じた。年は七十一。謚を太武といい、廟号を高祖といった。上元元年(674)、諡を神堯皇帝と改めた。天宝八戴(749)、神堯大聖皇帝と諡した。天宝十三載(754)、神堯大聖大光孝皇帝と増諡した。

  賛にいわく、古より天命を受けた君主は、徳がなければ王にはならなかった。夏后氏より以来、始めて伝わって以来、賢者あったり不肖の者がいたり、そのためこれが世代数たおなったのであり、またある者は短命であるものは長命だったのである。論じる者はそこで、周は后稷から文王・武王に至って、功を積み仁を重ね、武力の使用も以遠のことで、だから代々続いて最も長くなったというのである。しかし代々の根源を考えてみると、夏・商・周はすべて黄帝から出ており、夏は鯀より以前、商は契より成湯に至るまで、その間は細々として伝聞がなく、周の興隆したのとは違うのである。しかし漢もまた亭長が叛亡の徒から起こったのである。その興隆は、天下は数百年してから後に終わったのである。これによって言うならば、天命はどうして簡単にわかるのだろうか。しかしその始終治乱を考えてみると、その功徳やその厚薄を顧みるに、制度や規則とともに維持できる理由はどうであろうか。後世になると、あるものは次第に興隆し、あるものはにわかに潰滅し、あるものは次第に侵食され、あるものは振興して復活でき、あるものは遂に維持できなくなるにいたるから、それぞれがその勢力によるとはいえ、しかし有徳であればすなわち興隆し、無徳であればすなわち絶えるのに、どうしていわゆる天命というものは常にその兆しをあらわさず、国にある者にびくびくして自ら励ませるようにはしないのだろうか。唐は北周・隋の時代にあって、代々貴顕ではあったとはいえ、しかし次第に功を積み仁を重ねていったのが理由では全くなく、高祖の興隆は、またどうして時によって抜きん出た者とは異なるというのであろうか。唐は治乱があり、あるいは衰亡があったとはいえ、しかし天下の年月は三百年になろうとし、盛んであるというべきである。どうして人々が隋の乱を嫌って唐の徳沢を受け、太宗の治をもって継承し、制度や紀綱の法が、後世維持する手段となって、よく天命を長くするに至ったのではないのだといえようか。

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最終更新:2025年07月13日 10:07
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