巻一 本紀第一

唐書巻一

本紀第一

高祖


  高祖神堯大聖大光孝皇帝は、諱を淵、字を叔徳といい、姓は李氏で、隴西郡成紀の人である。その七世の祖の李暠は、晋末にあたって、秦州・涼州に拠って自ら王となり、涼の武昭王となった。李暠李歆を生んだ。李歆沮渠蒙遜のために滅ぼされた。李歆李重耳を生んだ。李重耳は北魏の弘農太守となった。李重耳李熙を生んだ。李熙は金門鎮将となって、武川に戍したため、家をここにとどめた。李熙李天賜を生んだ。李天賜は幢主となった。李天賜李虎を生んだ。李虎は、西魏のときに大野氏の姓を賜り、官は太尉にいたって、李弼ら八人とともに北周の建国を助けて西魏に代わるのに功績があり、みな柱国となって、「八柱国家」と号した。北周の閔帝が西魏から禅譲を受けたとき、李虎はすでに亡くなっており、その功績を追録して、唐国公に封じ、謚を襄といった。襄公李昞を生んだ。李昞は唐公の位を襲封し、北周の安州総管・柱国大将軍となり、亡くなると、謚を仁といった。

  仁公高祖を長安で生んだ。高祖の体には三つの乳があり、性格は寛仁で、唐公の位を襲封した。隋の文帝(楊堅)の独孤皇后は、高祖の叔母であり、このために文帝高祖はたがいに親愛しあった。文帝が北周の宰相となると、高祖は姓を李氏に復し、千牛備身となり、隋につかえて譙隴二州刺史となった。大業年間に、岐州刺史・滎陽樓煩二郡太守を歴任し、召されて殿内少監・衛尉少卿となった。煬帝が遼東(高句麗)を攻撃すると、高祖に懐遠鎮で食糧の運搬を監督させた。楊玄感が反乱を計画し、その兄弟たちで高句麗遠征に従軍した者たちがみな逃げかえると、高祖は真っ先に察知して上聞し、煬帝はにわかに軍を分けて、高祖を弘化留守として楊玄感を防がせ、詔により関右の諸郡の兵はみな高祖の節度を受けた。

  このとき、隋の政治は荒廃し、天下は大いに乱れ、煬帝は妬みのために多くの大臣を殺戮した。嘗以事召高祖高祖遇疾、不時謁。高祖有甥王氏在後宮、煬帝問之、王氏對以疾、煬帝曰:「可得死否?」高祖はこれを聞くとますますおそれて、酒におぼれて賄賂を取り態度をくらました。

  十一年(615)、山西河東慰撫大使に任ぜられ、龍門の賊の母端兒を攻撃し、弓を七十発射てみな命中させ、賊が敗れ去ると、その死体を集めて京観を築き、その死体からことごとく矢を回収した。また絳州の賊の柴保昌を攻撃し、その衆数万人を降した。突厥が塞内を侵犯すると、高祖と馬邑太守の王仁恭がこれを撃ったが、隋兵は少なく、敵わなかった。高祖は精騎二千を選抜して遊軍とし、居處飯食隨水草如突厥、而射獵馳騁示以閒暇、別選善射者伏為奇兵。虜見高祖、疑不敢戰、高祖が乗じてこれを撃つと、突厥は敗走した。

  十三年(617)、太原留守に任ぜられ、高陽の歴山飛と賊の甄翟兒を西河で攻撃し、これを破った。このとき、煬帝は江都で南遊し、天下には盗賊が蜂起した。高祖の子の李世民は隋の滅亡の必然を察知し、ひそかに豪傑と結び、亡命者を招きいれ、晋陽令の劉文静とともに大事を挙げることを計画した。計已決、而高祖未之知、欲以情告、懼不見聽。高祖は太原に留守し、晋陽宮監を領し、而所善客裴寂為副監、世民陰與寂謀、寂因選晋陽宮人私侍高祖高祖過寂飲酒、酒酣從容、寂具以大事告之、高祖大驚。寂曰:「正為宮人奉公、事發當誅、為此爾。」世民因亦入白其事、高祖初陽不許、欲執世民送官、已而許之、曰:「吾愛汝、豈忍告汝邪?」然未有以發。而所在盜賊益多、突厥數犯邊、高祖兵出無功、煬帝遣使者執高祖詣江都、高祖大懼。世民曰:「事急矣、可舉事!」已而煬帝復馳使者赦止高祖、其事遂已。
  このとき、劉武周が馬邑に起ち、林士弘が豫章に起ち、劉元進が晋安に起ち、みな皇帝を称した。朱粲が南陽に起ち、楚帝を号した。李子通が海陵に起ち、楚王を号した。邵江海が岐州に拠り、新平王を号した。薛挙が金城に起ち、西秦霸王を号した。郭子和が楡林に起ち、永楽王を号した。竇建徳が河間に起ち、長楽王を号した。王須抜が恒州・定州に起ち、漫天王を号した。汪華が新安に起ち、杜伏威が淮南に起ち、みな呉王を号した。李密が鞏に起ち、魏公を号した。王徳仁が鄴に起ち、太公を号した。左才相が斉郡に起ち、博山公を号した。羅芸が幽州に拠り、左難当が涇州に拠り、馮盎が高州・羅州に拠り、みな総管を号した。梁師都が朔方に拠り、大丞相を号した。孟海公が曹州に拠り、録事を号した。周文挙が淮陽に拠り、柳葉軍を号した。高開道が北平に拠り、張長愻が五原に拠り、周洮が上洛に拠り、楊士林が山南に拠り、徐円朗が兗州に拠り、楊仲達が豫州に拠り、張善相が伊州・汝州に拠り、王要漢が汴州に拠り、時徳叡が尉氏に拠り、李義満が平陵に拠り、綦公順が青・萊に拠り、淳于難が文登に拠り、徐師順が任城に拠り、蒋弘度が東海に拠り、王薄が斉郡に拠り、蒋善合が鄆州に拠り、田留安が章丘に拠り、張青特が済北に拠り、臧君相が海州に拠り、殷恭邃が舒州に拠り、周法明が永安に拠り、苗海潮が永嘉に拠り、梅知巌が宣城に拠り、鄧文進が広州に拠り、俚酋の楊世略が循州・潮州に拠り、冉安昌が巴東に拠り、甯長真が鬱林に拠って、号を別にする盗賊たちがしばしば山沢にたむろし集まった。而劉武周攻汾陽宮、高祖乃集将吏告曰:「今吾為留守、而賊據離宮、縱賊不誅、罪當死。然出兵必待報、今江都隔遠、後期奈何?」将吏皆曰:「国家之利可專者、公也。」高祖曰:「善。」乃募兵、旬日間得衆一万。副留守虎賁郎将王威・虎牙郎将高君雅見兵大集、疑有變、謀因禱雨晋祠以図高祖高祖覺之、乃陰為備。
  五月甲子、高祖及威・君雅視事、開陽府司馬劉政会告威・君雅反、即坐上執之。丙寅、突厥犯邊、高祖令軍中曰:「人告威・君雅召突厥、今其果然。」遂殺之以起兵。遣劉文静使突厥、約連和。
  六月己卯、諸郡に檄文を伝え、義兵を称し、大将軍府を開いて、三軍を置いた。子の李建成を隴西公・左領軍大都督として、左軍を従わせた。李世民を燉煌公・右領軍大都督として、右軍を従わせた。李元吉を姑臧公として、中軍を従わせた。裴寂を長史とし、劉文静を司馬とし、石艾県長の殷開山を掾とし、劉政会を属とし、長孫順徳王長諧劉弘基竇琮を統軍とした。倉庫を開いて窮乏するものにふるまった。
  七月壬子、高祖杖白旗、誓衆於野、有兵三万、李元吉を太原留守とした。癸丑、發太原。甲寅、遣将張綸徇下離石・龍泉・文城三郡。丙辰、次霊石、營於賈胡堡。隋の虎牙郎将の宋老生が邑にあって、義師をはばんだ。丙寅、隋の鷹揚府司馬の李軌が武威に起ち、大涼王を号した。
  八月辛巳、宋老生を霍邑で破った。丙戌、臨汾郡を下した。辛卯、絳郡で勝利した。癸巳、次龍門、突厥來來逆。
  九月戊午、高祖は太尉を領し、加置僚佐。以少牢祀河、乃濟。甲子、次長春宮。丙寅、隴西公李建成劉文静が永豊倉に駐屯し、潼関を守った。燉煌公李世民は渭北から三輔をめぐり、従父弟の李神通が鄠で起兵し、柴氏の妻は、高祖の女であり、また司竹で起兵して、みな李世民と合流した。郿の賊の丘師利李仲文、盩厔の賊の何潘仁向善思、宜君の賊の劉炅らはみな来降し、因略定鄠・杜。壬申、高祖次馮翊。乙亥、燉煌公李世民は阿城に駐屯し、隴西公李建成は新豊から霸上に趨った。丙子、高祖自下邽以西、所經隋行宮・苑、悉罷之、出宮女還其家。
  十月辛巳、次長楽宮、有衆二十万。隋の留守の衛文昇らが代王楊侑を奉じて京城を守っていたので、高祖が使者を遣してこれを諭したが、返事がなかった。そこで城を包囲し、「隋の七廟および宗室に危害を加えた者がいれば、罪は三族におよぶ」と命令を下していった。丙申、隋の羅山令の蕭銑が自ら梁公を号した。
  十一月丙辰、京城で勝利した。主符郎の宋公弼に命じて地図と帳簿を保護させた。法十二条を約し、殺人・強盗・背軍・叛乱にあたる者を死罪とした。癸亥、はるかな隋帝を尊んで太上皇とし、代王を立てて皇帝とした。大赦をおこない、義寧と改元した。甲子、高祖は京師に入り、朝堂にいたって、望闕而拜。隋帝は高祖に仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・大丞相・録尚書事を授け、唐王に進封した。武徳殿を丞相府として、下への指導を令といい、虔化門で政事をみた。
  十二月癸未、隋の恭帝が唐の襄公(李虎)に追贈して景王とし、仁公(李昞)を元王とした。夫人の竇氏を唐国妃として、謚を穆といった。李建成を唐国世子とした。李世民を唐国内史として、秦国公に移封した。李元吉を斉国公とした。丞相府に長史・司録以下の官を置いた。趙郡公の李孝恭に山南を巡回させることとした。甲辰、雲陽令の詹俊に巴・蜀を巡回させることとした。

  二年(618)正月丁未、隋帝が詔して、唐王が宮殿にのぼるときに帯剣する特権、入朝するときに小走りしない特権、拝謁するとき名乗らない特権を認め、前後羽葆・鼓吹を加えた。戊午、周洮が降った。戊辰、世子李建成を左元帥とし、秦国公李世民を右元帥として、東都の地を巡回させることとした。
  二月己卯、太常卿の鄭元が樊・鄧を平定し、使者の馬元規が荊・襄を巡回することとした。
  三月己酉、斉国公李元吉が太原道行軍元帥となった。乙卯、李世民が趙国公に徙封された。丙辰、隋の右屯衛将軍の宇文化及太上皇を江都で弑し、秦王楊浩を立てて皇帝とした。呉興郡守の沈法興が丹陽に拠り、江南道総管を自称した。楽安の人の盧祖尚が光州に拠り、刺史を自称した。戊辰、隋帝唐王の位を相国に進め、百揆を総べさせ、九錫を備え、唐国は丞相などの官を置き、四廟を立てた。
  四月己卯、張長愻が降った。辛巳、停竹使符、班銀菟符。
  五月乙巳、隋帝唐王冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕。甲寅、王徳仁が降った。戊午、隋帝が位をゆずり、以刑部尚書蕭造・司農少卿裴之隱奉皇帝璽紱於唐王、三讓乃受。

  武徳元年(618)五月甲子、太極殿で皇帝の位についた。蕭造に命じて太尉を兼ねさせ、告于南郊、大赦をおこない、改元した。百官・庶人に爵一級を賜り、義師所過給復三年、其餘給復一年。郡を改めて州とし、太守を刺史とした。庚午、太白(金星)が昼に見えた。隋の東都留守の元文都と左武衛大将軍の王世充が越王楊侗を立てて皇帝とした。
  六月甲戌、趙国公李世民が尚書令となり、裴寂が尚書右僕射・知政事となり、劉文静が納言となり、隋の民部尚書の蕭瑀・丞相府司録参軍の竇威が内史令となった。丙子、太白(金星)が昼に見えた。己卯、皇高祖を追謚して宣簡公といった。皇曾祖を懿王といった。皇祖を景皇帝といい、廟号を太祖とし、祖母の梁氏を景烈皇后といった。皇父を元皇帝といい、廟号を世祖とし、母の独孤氏を元貞皇后といった。妃の竇氏を穆皇后といった。庚辰、世子の李建成を立てて皇太子とし、李世民を封じて秦王とし、李元吉を斉王とした。癸未、薛挙が涇州を寇すると、秦王李世民を西討元帥とし、劉文静を司馬とした。太僕卿の宇文明達に山東を招慰させた。乙酉、隋帝を奉じて酅国公とし、詔曰:「近世時運遷革、前代親族、莫不夷絶。曆數有歸、實惟天命。興亡之效、豈伊人力。前隋蔡王智積等子孫、皆選用之。」癸巳、禁言符瑞者。辛丑、竇威が薨去した。黄門侍郎の陳叔達が判納言となり、将作大匠の竇抗が納言を兼ねた。
  七月壬子、劉文静薛挙が涇州で戦い、劉文静が敗れた。乙卯、郭子和が降った。庚申、隋の離宮を廃した。
  八月壬申、劉文静を除名した。戊寅、約功臣恕死罪。辛巳、薛挙が亡くなった。壬午、李軌が降った。甲申、巖州刺史の王徳仁が招慰使の宇文明達を殺してそむいた。己丑、秦王李世民が西討元帥となり、薛仁杲を討った。庚子、隋の太常卿の高熲に上柱国・郯国公を、上柱国の賀若弼に国公を、司隸大夫の薛道衡に上開府・臨河県公を、刑部尚書の宇文に上開府・平昌県公を、左翊衛将軍の董純に柱国・狄道公を、右驍衛将軍の李金才に上柱国・申国公を、左光禄大夫の李敏に柱国・観国公を追贈した。諸遭隋枉殺而子孫被流者、皆還之。
  九月乙巳、慮囚。始めて軍府を置いた。癸丑、銀菟符を改めて銅魚符とした。甲寅、秦州総管の竇軌薛仁杲と戦い、敗れた。辛未、宇文化及が秦王楊浩を殺し、皇帝を自称した。
  十月壬申朔、日食があった。己卯、李密が降った。壬午、朱粲が鄧州を陥落させ、刺史の呂子臧がここに死んだ。乙酉、邵江海が降った。己亥、盜が商州刺史の泉彦宗を殺した。辛丑、大閲。この月、竇抗が宰相を退いた。
  十一月、竇建徳王須抜を幽州で破り、王須抜は突厥に亡命した。乙巳、涼王の李軌がそむいた。戊申、禁獻侏儒短節・小馬庳牛・異獸奇禽者。己酉、秦王李世民薛仁杲を破り、これを捕らえた。癸丑、行軍総管の趙慈景が蒲州を攻め、隋の刺史の堯君素が抵抗して戦い、趙慈景を捕らえた。癸亥、秦王李世民が捕らえた薛仁杲を献上した。
  十二月壬申、李世民が太尉となった。丙子、蒲州の人が堯君素を殺し、その将の王行本を立てた。辛巳、鄭元朱粲と商州で戦い、これを破った。乙酉、周氏陂にいった。丁亥、周氏陂から到着した。庚子、光禄卿の李密がそむき、処刑された。
この年、高開道が漁陽を陥落させ、燕王を号した。

  二年(619)正月甲子、陳叔達が納言を兼ねた。「今から正月・五月・九月は死刑を行わず、屠殺を禁ずる」と詔した。丙寅、張善相が降った。己巳、楊士林が降った。
  二月乙酉、初めて租・庸・調の法を定めた。令文武官終喪。丙戌、州置宗師一人。甲午、赦并・浩・介・石四州賈胡堡以北繋囚。閏月、竇建徳が邢州を陥落させ、総管の陳君賓を捕らえた。辛丑、竇建徳宇文化及を聊城で殺した。朱粲が降った。壬寅、皇太子および秦王李世民裴寂が畿県を巡視した。乙巳、御史大夫の段確朱粲を菊潭でねぎらった。庚戌、微行、察風俗。乙卯、以穀貴、禁関内屠酤。左屯衛将軍の何潘仁が山賊の張子恵と司竹で戦い、ここに死んだ。丁巳、慮囚。庚申、驍騎将軍の趙欽王娑羅が山賊と盩厔で戦い、ここに死んだ。丁卯、王世充が殷州を陥落させ、陟州刺史の李育徳がここに死んだ。
  三月甲戌、王薄が降った。庚辰、蒋弘度徐師順が降った。丁亥、竇建徳が趙州を陥落させた。丁酉、李義満が降った。
  四月、綦公順が降った。庚子、并州総管・斉王の李元吉劉武周が楡次で戦い、李元吉は敗れた。辛丑、朱粲が段確を殺してそむいた。乙巳、王世充が越王楊侗を廃し、皇帝を自称した。癸亥、伊州を陥落させ、総管の張善相を捕らえた。
  五月庚辰、涼州の将の安修仁李軌を捕らえて降った。癸未、曲赦涼・甘・瓜・鄯・肅・會・蘭・河・廓九州。
  六月、王世充が越王楊侗を殺した。戊戌、周公孔子の廟を国子監に立てた。庚子、竇建徳が滄州を陥落させた。丁未、劉武周が介州を陥落させた。癸亥、裴寂が晋州道行軍総管となった。離石胡の劉季真が叛き、石州を陥落させたので、刺史の王倹がここに死んだ。
  七月壬申、徐円朗が降った。
  八月丁酉、酅国公が薨去した。甲子、竇建徳が洺州を陥落させ、総管の袁子幹を捕らえた。
  九月辛未、戸部尚書の劉文静を殺した。李子通が皇帝を自称した。沈法興が梁王を自称した。丁丑、杜伏威が降った。裴寂劉武周が介州で戦い、裴寂が敗れ、右武衛大将軍の姜宝誼がここに死んだ。庚辰、竇建徳が相州を陥落させ、総管の呂がここに死んだ。辛巳、劉武周が并州を陥落させた。庚寅、太白(金星)が昼に見えた。竇建徳が趙州を陥落させ、総管の張志昂を捕らえた。乙未、京師で地震があった。梁師都が延州を寇し、鄜州刺史の梁礼がここに死んだ。
  十月己亥、羅芸が降った。乙卯、華陰にいき、赦募士背軍者。壬戌、劉武周が晋州を寇すると、永安王李孝基および工部尚書の独孤懐恩・陜州総管の于筠・内史侍郎の唐倹がこれを討った。甲子、華山を祠った。この月、夏県の人の呂崇茂がそむいた。秦王李世民劉武周を討った。
  十一月丙子、竇建徳が黎州を陥落させ、淮安王李神通と総管の李世勣を捕らえた。
  十二月丙申、華山で狩猟した。永安王李孝基劉武周と下邽で戦い、敗れた。壬子、大風で木が抜けた。

  三年(620)正月己巳、渭浜で狩猟した。戊寅、王行本が降った。辛巳、蒲州にいった。癸巳、蒲州から到着した。
  二月丁酉、京師西南地有聲。庚子、如華陰。甲寅、独孤懐恩が反乱を計画し、処刑された。辛酉、検校隰州総管の劉師善が反乱を計画し、処刑された。
  三月庚午、納言を改めて侍中とし、内史令を中書令とした。甲戌、中書侍郎の封徳彝が中書令を兼ねた。乙酉、劉季真が降った。
  四月丙申、華山を祠った。壬寅、華陰から到着した。癸卯、関内の諸州で屠殺を禁じた。甲寅、秦王李世民宋金剛と雀鼠谷で戦い、これを破った。辛酉、王世充が鄧州を陥落させ、総管の雷四郎がここに死んだ。壬戌、秦王李世民劉武周と洺州で戦い、これを破り、劉武周は突厥に亡命した。并州に勝利した。
  五月壬午、秦王李世民が夏県を屠った。
  六月丙申、晋・隰・潞・并の四州で赦した。癸卯、詔隋帝及其宗室柩在江都者、為營窆、置陵廟、以故宮人守之。丙午、慮囚。子の李元景を封じて趙王とし、李元昌を魯王とし、李元亨を酆王とした。己酉、宮女五百人を出して、東征した将士のうち功績ある者に賜った。甲寅、顕州長史の田瓚が行台尚書令の楊士林を殺し、叛いて王世充についた。乙卯、瘞州縣暴骨。
  七月壬戌、秦王李世民王世充を討った。甲戌、皇太子が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。丙戌、梁師都が突厥・稽胡を導いて辺境を寇したので、行軍総管の段徳操がこれを破った。
  八月庚子、慮囚。甲辰、時徳叡が降った。
  九月癸酉、田瓚が降った。己丑、給復陜・鼎・熊・穀四州二年。
  十月戊申、高開道が降った。己酉、楊仲達が降った。己未、隕石が東都に落ちた。
  十二月己酉、瓜州刺史の賀抜行威がそむいた。

  四年(621)正月辛巳、皇太子が稽胡を討った。
  二月、竇建徳が曹州を陥し、孟海公を捕らえた。己丑、車騎将軍の董阿興が隴州でそむき、処刑された。乙巳、太常少卿の李仲文が反乱を計画し、処刑された。丙午、慮囚。丁巳、赦代州総管府石嶺之北。
  三月、宜都郡王李泰を進封して衛王とした。庚申、慮囚。乙酉、竇建徳が管州を陥落させ、刺史の郭志安がここに死んだ。
  四月壬寅、斉王李元吉王世充と東都で戦い、敗れ、行軍総管の盧君諤がここに死んだ。戊申、突厥が并州を寇し、漢陽郡王李・太常卿の鄭元・左驍騎衛大将軍の長孫順徳を捕らえた。甲寅、子の李元方を封じて周王とし、李元礼を鄭王とし、李元嘉を宋王とし、李元則を荊王とし、李元茂を越王とした。丁巳、左武衛将軍の王君廓張青特を破り、これを捕らえた。
  五月壬戌、秦王李世民竇建徳を虎牢で破り、これを捕らえた。乙丑、山東で竇建徳に欺かれ惑わされた者を赦した。戊辰、王世充が降った。庚午、周法明が降った。
  六月庚寅、河南で王世充に欺かれ惑わされた者を赦した。戊戌、蒋善合が降った。庚子、営州の人の石世則がその総管の晋文衍を捕らえて、叛いて靺鞨についた。乙卯、臧君相が降った。
  七月甲子、秦王李世民が捕らえた王世充を献上した。丙寅、竇建徳が処刑された。丁卯、大赦をおこない、給復天下一年、陜・鼎・函・虢・虞・芮・豳七州二年。甲戌、劉黒闥が貝州でそむいた。辛巳、戴州刺史の孟噉鬼がそむき、処刑された。
  八月丙戌朔、日食があった。丁亥、皇太子が北境を安撫した。丁酉、劉黒闥が鄃県を陥落させ、魏州刺史の権威と貝州刺史の戴元祥がここに死んだ。癸卯、突厥が代州を寇し、行軍総管の王孝基を捕らえた。丁未、劉黒闥が歴亭を陥落させ、屯衛将軍の王行敏がここに死んだ。辛亥、深州の人の崔元遜がその刺史の裴晞を殺し、叛いて劉黒闥についた。兗州総管の徐円朗がそむいた。
  九月、盧祖尚が降った。乙卯、淳于難が降った。甲子、汪華が降った。
この秋、夔州総管・趙郡王李孝恭が十二総管の兵を率いて蕭銑を討った。
  十月己丑、秦王李世民が天策上将となり、司徒を領した。斉王李元吉が司空となった。庚寅、劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の盧士叡を捕らえ、また観州を陥落させた。癸卯、毛州の人の董燈明がその刺史の趙元愷を殺した。乙巳、趙郡王李孝恭蕭銑を荊州で破り、これを捕らえた。
  閏月乙卯、稷州にいった。己未、旧墅に幸した。壬戌、好畤で狩猟した。乙丑、九で狩猟した。丁卯、仲山で狩猟した。戊辰、清水谷で狩猟し、そのまま三原に幸した。辛未、周氏陂にいった。壬申、周氏陂から到着した。
  十一月甲申、有事于南郊。庚寅、李子通が降った。丙申、李子通が反乱を計画し、処刑された。壬寅、劉黒闥が定州を陥落させ、総管の李玄通がここに死んだ。庚戌、州の人の周文挙がその刺史の王孝矩を殺し、叛いて劉黒闥についた。
  十二月乙卯、劉黒闥が冀州を陥落させ、総管の麴稜がここに死んだ。甲子、左武候将軍の李世勣劉黒闥と宋州で戦い、敗れた。丁卯、秦王李世民・斉王李元吉劉黒闥を討った。己巳、劉黒闥が邢州を陥落させた。庚午、魏州を陥落させ、総管の潘道毅がここに死んだ。辛未、莘州を陥落させた。壬申、李元嘉を徐王に移封した。

  五年(622)正月乙酉、劉黒闥が相州を陥落させ、刺史の房晃がここに死んだ。丙戌、殷恭邃が降った。丁亥、済州別駕の劉伯通がその刺史の竇務本を捕らえて、叛いて徐円朗についた。庚寅、東塩州治中の王才芸がその刺史の田華を殺して、叛いて劉黒闥についた。丙申、相州の人がその刺史の独孤徹を殺して、その州をもって叛いて劉黒闥についた。己酉、楊世略劉元進が降った。
  二月、王要漢が降った。己巳、秦王李世民が邢州に勝利した。丁丑、劉黒闥が洺水を陥落させ、総管の羅士信がここに死んだ。戊寅、汴州総管の王要漢徐円朗を州で破り、周文挙を捕らえた。
  三月戊戌、譚州刺史の李義満が斉州都督王薄を殺した。丁未、秦王李世民劉黒闥と洺水で戦い、これを破り、劉黒闥は突厥に亡命した。蔚州総管の高開道がそむき、易州を寇し、刺史の慕容孝幹がここに死んだ。
  四月、梁州野蠶成繭。冉安昌が降った。己未、甯長真が降った。戊辰、釋流罪以下穫麥。壬申、代州総管の李大恩が突厥と戦い、ここに死んだ。戊寅、鄧文進が降った。
  五月、田留安が降った。庚寅、瓜州の人の王幹賀抜行威を殺して降った。乙巳、荊州にこの年の田租を賜った。
  六月辛亥、劉黒闥と突厥が山東を寇した。車騎将軍の元韶が瓜州道行軍総管となり、突厥に備えた。癸丑、吐谷渾が洮・旭・疊の三州を寇し、岷州総管の李長卿がこれを破った。乙卯、淮安郡王李神通徐円朗を討った。
  七月甲申、弘義宮を作った。甲午、淮陽郡王李道玄が河北道行軍総管となり、劉黒闥を討った。貝州の人の董該が定州をもって叛いて劉黒闥についた。丙申、突厥が劉武周を白道で殺した。遷州の人の鄧士政がそむき、その刺史の李敬昂を捕らえた。丁酉、馮盎が降った。
  八月辛亥、隋の煬帝を葬った。甲寅、吐谷渾が岷州を寇し、益州道行台左僕射の竇軌がこれを破った。乙卯、突厥が辺境を寇した。庚申、皇太子が豳州道を出て、秦王李世民が秦州道を出て、突厥をふせいだ。己巳、吐谷渾が洮州を陥落させた。并州総管・襄邑郡王李神符が突厥と汾東で戦い、これを破った。戊寅、突厥が大震関を陥落させた。
  九月癸巳、霊州総管の楊師道が三観山で突厥を破った。丙申、洪州総管の宇文歆がまた崇岡で突厥を破った。壬寅、定州総管の雙士洛と驃騎将軍の魏道仁がまた恒山の南で突厥を破った。丙午、領軍将軍の安興貴がまた甘州で突厥を破った。劉黒闥が瀛州を陥落させ、刺史の馬匡武がここに死んだ。東塩州の人の馬君徳がその州をもって叛いて劉黒闥についた。
  十月己酉、斉王李元吉劉黒闥を討った。癸丑、貝州刺史の許善護劉黒闥と鄃県で戦い、ここに死んだ。甲寅、観州刺史の劉君会が叛いて劉黒闥についた。乙丑、淮陽郡王李道玄劉黒闥と下博で戦い、ここに死んだ。己巳、林士弘が降った。
  十一月庚辰、劉黒闥が滄州を陥落させた。甲申、皇太子劉黒闥を討った。丙申、宜州にいった。癸卯、富平北原で狩猟した。
  十二月丙辰、万寿原で狩猟した。戊午、劉黒闥が恒州を陥落させ、刺史の王公政がここに死んだ。庚申、万寿原から到着した。壬申、皇太子劉黒闥と魏州で戦い、これを破った。甲戌、また毛州で劉黒闥を破った。

  六年(623)正月己卯、劉黒闥の将の葛徳威劉黒闥を捕らえて降った。壬午、巂州の人の王摩娑がそむき、驃騎将軍の衛彦がこれを討った。庚寅、徐円朗が泗州を陥落させた。
  二月、劉黒闥が処刑された。庚戌、温湯に幸した。壬子、驪山で狩猟した。甲寅、温湯より到着した。丙寅、行軍総管李世勣徐円朗を破り、これを捕らえた。
  三月、苗海潮梅知巌左難当が降った。乙巳、洪州総管の張善安がそむいた。
  四月己酉、吐蕃が芳州を陥落させた。己未、故第を通義宮とし、元皇帝元貞皇后を旧寝で祭った。京城で赦し、従官に帛を賜った。辛酉、張善安が孫州を陥落させ、総管の王戎を捕らえた。丁卯、南州刺史の龐孝泰がそむき、南越州を陥落させた。壬申、子の李元を封じて蜀王とし、李元慶を漢王とした。癸酉、裴寂が尚書左僕射となり、蕭瑀が右僕射となり、封徳彝が中書令となり、吏部尚書の趙恭仁が中書令を兼ね、涼州諸軍事を検校した。
  五月庚寅、吐谷渾・党項が河州を寇し、刺史の盧士良がこれを破った。癸卯、高開道が奚をつれて幽州を寇し、長史の王説がこれを破った。
  六月丁卯、突厥が朔州を寇し、総管の高満政がこれを破った。朔州で曲赦した。
  七月丙子、沙州別駕の竇伏明がそむき、その総管の賀若懐廓を殺した。己亥、皇太子が北辺に駐屯し、秦王李世民が并州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月壬子、淮南道行台左僕射の輔公祏がそむいた。乙丑、趙郡王李孝恭がこれを討った。
  九月壬辰、秦王李世民が江州道行軍元帥となった。丙申、渝州の人の張大智がそむいた。
  十月丙午、広州都督の劉世讓を殺した。戊申、降死罪、流以下原之。己未、華陰にいった。張大智が降った。庚申、白鹿原で狩猟した。壬戌、右虞候率の杜士遠高満政を殺し、朔州をもってそむいた。丁卯、突厥が和を請うた。
  十一月壬午、張善安が黄州総管の周法明を襲って殺した。丁亥、華陰にいった。辛卯、沙苑で狩猟した。丁酉、伏龍原で狩猟した。
  十二月壬寅朔、日食があった。癸卯、張善安が降った。庚戌、奉義監を龍躍宮とし、武功宅を慶善宮とした。甲寅、華陰から到着した。

  七年(624)正月庚寅、鄒州の人の鄧同穎がその刺史の李士衡を殺した。
  二月丁巳、釋奠于国學。己未、漁陽の部将の張金樹高開道を殺して降った。
  三月戊戌、趙郡王李孝恭輔公祏を破り、これを捕らえた。己亥、李孝恭が越州都督の闞稜を殺した。
  四月庚子、大赦をおこなった。班新律令。給復江州道二年・揚越一年。
  五月丙戌、仁智宮を作った。
  六月辛丑、仁智宮にいった。壬戌、慶州都督の楊文幹がそむいた。
  七月己巳、突厥が朔州を寇し、総管の秦武通がこれを破った。癸酉、慶州の人が楊文幹を殺して降った。甲午、仁智宮から到着した。巂州で地震があり山が崩れ、遏江水。
  閏月己未、秦王李世民・斉王李元吉が豳州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月己巳、吐谷渾が鄯州を寇し、驃騎将軍の彭武傑がここに死んだ。戊寅、突厥が綏州を寇し、刺史の劉大倶がこれを破った。壬辰、突厥が和を請うた。丁酉、裴寂が突厥に使いした。
  十月丁卯、慶善宮にいった。辛未、鄠南で狩猟した。癸酉、終南山に幸した。丙子、謁樓觀老子祠。庚寅、囲川で狩猟した。
  十二月丁卯、龍躍宮にいった。戊辰、高陵で狩猟した。庚午、高陵から到着した。太子詹事の裴矩が侍中を検校した。

  八年(625)二月癸未、慮囚。
  四月甲申、鄠にいき、甘谷で狩猟した。太和宮を作った。丙戌、鄠から到着した。
  六月甲子、太和宮にいった。
  七月丙午、太和宮から到着した。丁巳、秦王李世民が蒲州に駐屯し、突厥に備えた。
  八月壬申、并州行軍総管張瑾が突厥と太谷で戦い、敗れ、鄆州都督の張徳政がここに死に、行軍長史の温彦博が捕らえられた。甲申、任城郡王李道宗が突厥と霊州で戦い、これを破った。丁亥、突厥が和を請うた。
  十月辛巳、周氏陂にいき、北原で狩猟した。壬午、龍躍宮にいった。
  十一月辛卯、宜州にいき、西原で狩猟した。裴矩が宰相を退いた。庚子、同官で武を講じた。天策府司馬の宇文士及が権検校侍中となった。辛丑、李元を徙封して呉王とし、李元慶を陳王とした。癸卯、秦王李世民が中書令となり、斉王李元吉が侍中となった。癸丑、華池北原で狩猟した。
  十二月辛酉、華池から到着した。庚辰、鳴犢泉で狩猟した。辛巳、鳴犢泉から到着した。

  九年(626)正月甲寅、裴寂を司空とした。
  二月庚申、斉王李元吉を司徒とした。壬午、有星孛于胃・昴。丁亥、孛于卷舌。
  三月庚寅、昆明池に幸し、水戦を演習した。壬辰、昆明池より到着した。丙午、周氏陂にいった。乙卯、周氏陂より到着した。丁巳、突厥が涼州を寇し、都督・長楽郡王の李幼良がこれを破った。
  四月辛巳、浮屠(仏陀)・老子の法を廃した。
  六月丁巳、太白經天。庚申、秦王李世民が皇太子李建成・斉王李元吉を殺した。大赦をおこなった。浮屠・老子の法を復した。癸亥、秦王李世民を立てて皇太子とし、聴政させた。賜為父後者襲勳・爵、赤牒官得為真、免民逋租宿賦。己卯、太白(金星)が昼に見えた。庚辰、幽州都督・廬江郡王の李瑗がそむき、処刑された。癸未、赦幽州管内為瑗所詿誤者。
  七月辛卯、楊恭仁が宰相を退いた。太子右庶子の高士廉が侍中となり、左庶子房玄齢が中書令となり、蕭瑀が尚書左僕射となった。癸巳、宇文士及が中書令となり、封徳彝が尚書左僕射となった。辛亥、太白が昼に見えた。甲寅、太白が昼に見えた。
  八月丙辰、突厥が和を請うた。丁巳、太白が昼に見えた。壬戌、吐谷渾が和を請うた。甲子、皇太子が皇帝位についた。

  貞観三年(629)、太上皇が大安宮に移り住んだ。九年(635)五月、垂拱前殿で崩じた。年は七十一。謚を太武といい、廟号を高祖といった。上元元年(674)、謚を神堯皇帝と改めた。天宝八戴(749)、神堯大聖皇帝と謚した。十三載(754)、神堯大聖大光孝皇帝と増謚した。

  賛曰:自古受命之君、非有徳不王。自夏后氏以來、始傳以世、而有賢有不肖、故其為世、數亦或短或長。論者乃謂周自后稷至於文・武、積功累仁、其來也遠、故其為世尤長。然考於世本、夏・商・周皆出於黄帝、夏自鯀以前、商自契至於成湯、其間寂寥無聞、與周之興異矣。而漢亦起於亭長叛亡之徒。及其興也、有天下皆數百年而後已。由是言之、天命豈易知哉!然考其終始治亂、顧其功徳有厚薄與其制度紀綱所以維持者如何、而其後世、或寖以隆昌、或遽以壞亂、或漸以陵遲、或能振而復起、或遂至於不可支持、雖各因其勢、然有徳則興、無徳則絶、豈非所謂天命者常不顯其符、而俾有国者兢兢以自勉耶?唐在周・隋之際、世雖貴矣、然烏有所謂積功累仁之漸、而高祖之興、亦何異因時而特起者歟?雖其有治有亂、或絶或微、然其有天下年幾三百、可謂盛哉!豈非人厭隋亂而蒙徳澤、繼以太宗之治、制度紀綱之法、後世有以憑藉扶持、而能永其天命歟?

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最終更新:2007年08月25日 20:49
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