巻一百九十三 列伝第一百一十八

唐書巻一百九十三

列伝第一百一十八

忠義下

程千里 袁光廷 龐堅 薛愿 張興 蔡廷玉 符令奇 璘 劉迺 孟華 張伾 周曾 張名振 石演芬 呉漵 高沐 賈直言 辛讜 黄碣 孫揆



  程千里は、京兆万年県の人である。身長は七尺(約210cm)で、体が大きくてたくましく力があり、応募して磧西に行き、累進して安西副都護となった。天宝年間(742-756)末、兼北庭都護・安西北庭節度使となった。突厥首領の阿布思が内属し、もとは朔方に隷しており、李姓と、名の献忠を賜い、砂漠を渡って幽州に属したが、もとより安禄山に怨みがあり、内心恐れ、そのため叛いて磧(ゴビ砂漠)の外に戻り、しばしば辺境を掠奪した。玄宗はこのことを心配し、程千里に詔して兵を率いて追討させた。程千里は葛邏禄(カルルク)を諭して、密かに挟撃させた。李献忠は果して窮して葛邏禄に行き、捕らえられ、妻子や帳下数千人とともに程千里の所に送られ、そこで捕虜を勤政楼に献じた。詔によって斬られて晒された。程千里を右金吾衛大将軍に抜擢し、宿衛に留めた。

  安禄山が叛くと、詔によって河東で募兵し、そこで河東節度副使・雲中太守に任じられ、上党長史に遷った。賊が侵攻してくると、皆殺しにして多くの首級をあげ、累進して開府儀同三司・礼部尚書を加えられた。至徳二載(757)、賊将の蔡希徳が上党を包囲すると、軽騎兵で戦いを挑んだ。程千里は勇猛さをたのんで県の門を開き、百騎を率いて蔡希徳を捕虜としようとし、もう少しで捕虜にできるところで救援が到着したため、退却した。ちょうどその時、橋が倒壊し、馬が転倒したため、賊に捕らえられた。首をあげて部下の騎兵を戻らせ、「私のために諸将に対して指揮官を失っても城を失うなと伝えてくれ」と言い、軍中は皆涙を流し、ますます防備を固めて守備した。賊は降すことができず、撤退した。程千里を捕らえて東都に連行し、安慶緒は特進の偽官を授け、客舎に囚われにした。安慶緒が敗れると、厳荘に殺害された。後に赦令がしばしば下り、国難に死んだ者を褒賞・追贈したが、程千里は生きたまま捕らえられたから、褒賞に及ばなかった。


  それより以前、安禄山が叛乱をおこすと、西北の守備兵はことごとく援軍に入り、そのため河・隴郡県はすべて吐蕃に陥落させられ、ただ河西の守将の袁光廷が伊州刺史となり、固く守備すること数年、百度に渡って降伏を説得されたが、ついに降伏せず、部下たちも心を同じくして背く者はいなかった。兵糧が尽きると、手づから妻子を殺し、自ら焚死した。建中年間(780-783)初頭、工部尚書を追贈した。


  龐堅は、京兆涇陽県の人である。四世の祖の龐玉は、隋に仕えて監門直閤となった。李密が洛口に陣を敷くと、龐玉は関中の精兵を王世充の指揮下に置いて攻撃させ、百戦しても敗北しなかった。王世充が東都に帰ると、秦王は東進して洛陽に告示し、龐玉は一万騎を率いて降伏し、高祖は龐玉が隋の旧臣であるから、礼遇した。龐玉は体が大きくてたくましく力があり、軍法に明るく、長らく宮中で宿衛しており、朝廷の制度を習知していた。は諸将の多くが学ぶ暇がないことから、そのため龐玉に軍・武衛二大将軍を領させ、軍に見させて模範とした。京師から出されて梁州総管となった。巴山の獠が叛くと、龐玉は晒し首とし、余党は四散し、県内の獠で叛乱した者と州里同郷あるいは親戚が賊のために、これ以上追撃すべきではないと説得したが、龐玉は耳を貸さず、軍中に命令を下して、「穀物は実っている。私はすべてを軍の兵糧としよう。賊が殲滅されなければ、私は前言を翻さない」と言い、聞いた者は恐れ、「軍が止まらなければ、我々は穀物が尽きて餓死するだろう」と互いに言った。そこで共に賊の陣営に入って、親族と結びつき、親玉を斬って降伏し、賊衆は遂に潰滅した。越州都督に遷った。京師に召還されて監門大将軍となった。太宗は耆厚(七十歳以上)であるから、東宮の兵を司らせた。老いても怠けず、大小の仕事は自ら行わないことはなかった。卒すると、は彼のために廃朝し、幽州都督・工部尚書を追贈した。

  龐堅は潁川太守に任じられた。安禄山が叛くと、南陽節度使の魯炅は上表して龐堅を長史兼防禦副使とし、薛愿を潁川太守とし、二人で潁川を守らせた。当時、陳留・滎陽はすでに賊に陥落させられ、南陽は包囲されて、潁川との往来は激しかった。賊将の阿史那承慶が全精兵で攻撃し、城を取り囲むこと百里、樹木はすべて刈り取られた。城中の兵士は弱くかつ少なく、兵糧もすくなかったが、薛愿・龐堅は昼夜戦ったが、諸郡の兵で援軍に向かう者はおらず、正月から十一月まで続いた。賊は木鵝(攻城具の一種)・衝車・雲梯で城に迫り、矢は雨のようで、兵士は皆喧声をあげ、夜半に城壁を越えて侵入し、二人は降伏するのをよしとしなかった。賊は縛って東京に送致し、磔にして身体を解体しようとしたが、ある者が安禄山に向かって、「義士です。彼がそうするのはその主のためであって、これを殺すことは不吉です」と言ったから、そこで樹に縛り付けた。しばらくして死に、見る者は慟哭した。

  薛愿は、汾陰県の人である。父の薛縚は、太常卿である。兄の薛崇一は、恵宣太子の娘を娶り、その妹は太子李瑛の妃となった。李瑛が廃されると、薛愿は嶺外に貶され、しばらくして帰還できた。


  張興は、束鹿の人である。身長は七尺で、一回の食事で一斗の米、肉十斤を食べた。勇猛かつ敏捷で弁舌がうまく、饒陽の部将となった。安禄山が叛くと、饒陽を攻撃した。張興は禍福を開け広げにし、敵に向かって例え話をして、城を守って数年となり、軍の心は団結した。滄州・趙州が陥落すると、史思明は軍を率いて城にとりつき、張興は甲冑を着て重さ十五斤の長刀を持って城壁の上に立った。賊が侵入しようとすると、張興は刀をひとたび振るうごとに、たちまち数人が死に、賊は皆気概を削がれた。城が陥落すると、史思明や張興を縛って自分の馬の前に連れてこさせ、「将軍は見上げた壮士だ。降るのなら、高爵を与えよう」と誘ったが、「昔、厳顔はただ巴郡の将に過ぎなかったが、それでも張飛に投降しなかった。私は大郡の将で、どうして投降して背けようか。今日幸いにも死ぬことができるから、一言いわせてもらいたい」と言ったから、史思明は「言ってみろ」と言うと、張興は「天子は安禄山を父子のように待遇したが、今叛いている。立派な男児たるもの国のために謀反人を掃除できず、叛いて謀反人の部下になるなんて、どうしてできようか」と言った。史思明は「将軍は天道をみないのか。我らが二十万の兵をおこし、直ちに洛陽に行き、天下は大いに定まった。別働隊が函谷関を叩き、守将は両手を後ろ手にして縛って降伏したのだから、唐の滅亡は始めから確定していたのだ」と言うと、張興は「桀・紂・秦・隋は民衆を動員して困窮させ、天下をあげて怨となり、だから商・周・漢・唐は代わることができて帝位につけたのだ。皇帝は天命に違わず、安禄山は歴代帝王の賢人ぶりの数にもならないから、かりそめにも歳月を延ばしたところで、終いには捕虜となるだけだ」と言ったから、史思明は怒り、鋸でバラバラにした。死のうとしているときも「私は強力な敵兵を打ち破ることができる」と罵って、軍中は心を引き締め、居住まいをただした。

  蔡廷玉は、幽州昌平県の人である。安禄山に仕えたが、有名にはならなかった。朱泚と同郷で、幼い頃から慣れ親しんだ。朱泚が幽州節度使となると、上奏して幕下に任じられた。

  蔡廷玉は沈着で、よく人と交わり、内も外も親しまれた。朱泚から多く諮問され、しばしば派遣されて京師にやって来た。この当時、幽州の兵は最強で、財貨は多く、兵士は剽悍で、日々併呑しようとし、上下の礼法があることを知らなかった。蔡廷玉は閑暇時に朱泚に向かって、「古代は不臣なのに福を子孫にもたらすことができた者はいませんでした。公は、南はと連合し、北は奚を虜とし、兵は多く地は険難ですが、しかしこれは長く安ずる計略ではなく、いつか趙・魏が歯向かってくれば、公は沸騰した鼎の中の魚になってしまうだけです。天子を奉るにこしたことはなく、困難を乗り越え、その功績を鼎や彝といった祭器に刻むのはどうでしょうか」と語り、朱泚はその意見を正しいものとした。蔡廷玉は密かにその力を削ごうとし、そこで朱泚に金銭を出して士を礼遇し、また貢納や税金を返還して天子の経費を助けるよう勧め、牛馬を献上して道の移動を助け、兵糧を備蓄することをほのめかした。そこで朱泚に入朝を勧め、朱泚も聞き入れようとしたが、将校たちが怒り、蔡廷玉を縛って辱めたが、蔡廷玉は言辞を曲げることはなく、朱泚は殺すのに忍びず、一年以上捕らえてから釈放し、「後悔しているか」と言ったが、蔡廷玉は、「公を謀反に導いていたのなら後悔したが、公に義を重んじるようすすめたのだから、何を後悔しようか」と言ったから、再び一年投獄され、「過を悔い改めることができるか。そうでなければ死ぬことになる」と尋ねられたが、「私を殺さなけば、公は名声があがる。私を殺したら、私が名声を得られる」と答え、朱泚は屈させることができなかったから、待遇は最初の通りであった。

  また朱体微なる者がいて、同じく朱泚の腹心であった。蔡廷玉が建白するごとに、朱体微もたちまち支持を表明し、そのため朱泚はますます信頼し、次第に傲慢さを改めていった。蔡廷玉はついに朝廷での任務を終えた。朱泚はそこで上奏して涿州を永泰軍とし、薊州を静塞軍とし、瀛州を清夷軍とし、莫州を唐興軍とし、団練使を設置し、支郡を隸属させ、盧龍軍は次第に削減されていった。朱泚は心の中で、弟の朱滔が自分に迫ってくるのを恐れ、朱滔もまた朱泚に入朝を勧め、そこで軍を朱滔の指揮下に置いた。蔡廷玉・朱体微は二人とも朱泚に向かって、「公が入朝すれば功臣の筆頭となり、今後の責任は重大です。誠信な者を待って軍を託するべきです。朱滔は弟君でありますが、気まぐれで冷酷です。彼に軍を委ねるようなことがあれば、災いを彼に転嫁するだけです」と言ったが、朱泚は聞き入れなかった。二人は朱泚に従って朝廷にやって来て、徳宗は太子であった時、蔡廷玉の名声を知っていたから、謁見すると厚く礼遇した。朱泚に幽州行営を統べさせて涇原鳳翔節度使とし、蔡廷玉に詔して大理少卿として司馬に任じ、朱体微を要職につけた。

  朱滔朱泚に要求したが、ある時は従わず、蔡廷玉は必ず朱滔を批判し、法を遵守させた。朱滔が田悦を破ると、次第に傲慢で自分勝手になっていった。側近に蔡廷玉を憎む者がいて、「蔡廷玉は昔から朱滔を陥れ、燕を四分割しようとしたのは、蔡廷玉の企みで、朱体微はこれに同調していました」と吹込み、朱滔は上表して二人が兄弟を離間したといい、役人に殺させるよう要請した。また朱泚にも同様の書簡を送った。朱泚は朱滔が軍の実権を奪ったことを怒り、従わず、ちょうどその時朱滔が幽州で叛き、は朱滔の上表文を示して、朱泚もまた朱滔からの書簡を暴露し、そこで罪を二人に帰し、蔡廷玉を柳州司戸参軍に、朱体微を南浦県の尉に貶して朱滔を宥めようとした。朱滔は書簡を送って朝廷に伺い、「お上がもし蔡廷玉を殺さなければ、追放・流謫させるべきで、東に向かって洛陽を出発させるなら、私は縛って部下にバラバラにさせてやります」と言った。出発しようとする時、帝は蔡廷玉を労って「お前はしばらく行ってくれ。国のために屈辱を受けるが、年内には戻すからな」と言い、蔡廷玉は藍田駅に到着すると、人々は左巡使の鄭詹に向かって、「商用するのに道は険しく、行くことができません」と言ったから、鄭詹は潼関を抜けるよう迫った。蔡廷玉は子の蔡少誠・蔡少良に向かって、「私は天子のために刃を血塗らせずに幽州の十一城を下し、その土地を分割し、奴らのねぐらを使わせないようにしたが、成功するかに見えたときに失敗したのは、天が逆賊を助けたのだろうか。今役人は私を、東都を通る道に出そうとしているが、これは朱滔の計画だろう。私は国家を辱めるわけにはいかない」と告げ、霊宝に到着すると、河に自らの身を投じた。

  宰相の盧𣏌は御史大夫の厳郢を憎んでおり、追放しようとしていたが、蔡廷玉が死んだという報告を受けると、そこで鄭詹は死罪にあたるとし、厳郢を追放した。は蔡廷玉の忠誠を憐れみ、その棺を戻し、手厚く賜い物をした。李晟朱泚を平定すると、蔡少誠らがちょうど喪が明けたから、李晟は上表して蔡廷玉を追贈し、二子に官職につけるよう願った。しかし帝は朱滔を招こうとしていたから、その奏上を取り止めさせた。


  符令奇は、沂州臨沂県の人である。初め盧龍軍の裨将となった。幽州の乱に遭って、子の符璘を携えて昭義軍に逃げ、節度使の薛嵩は任命して軍の副官とした。薛嵩が卒すると、田承嗣がその地を奪い、符令奇を引き立てて側近とした。

  田悦が朝廷の命令を拒むと、馬燧は田悦を洹水で破った。符令奇は密かに符璘に対して、「私は世の中の事を多く見てきた。安禄山・史思明の叛乱以来、子孫はいなくなった。私は田氏が滅亡するのは間もなくであると見ているが、どうして安逸に日々を過ごしたまま何もせず、京師に連行され、一族を皆殺しにされるような目にあわなければならないのだろうか。お前は誠実に朝廷に仕え、唐の忠臣となるなら、私も後世に名を揚げることができるだろう」と語ると、符璘は泣いて、「田悦は残忍な人間です。近づくと災いを受ける恐れがあります」と言ったが、「今、王師は四方を包囲していて、我々はまな板の上の塩漬け肉だ。お前が今行けば、私は死んでも不朽となる。行かなれば、私も同じく死ぬ。死体を地面に積み重ねてどうするのだ」と答え、符璘は俯いたまま泣いて答えることができなかった。それより以前、田悦は李納と濮陽で会盟し、そこで援軍を要請し、李納は麾下を分けて従わせた。この時になって、李納の兵は斉に帰還することになり、符璘に三百騎で護送させた。符璘は父と肘を噛んで血を出して訣別し、そこで軍ごと馬燧に投降した。符璘が出ると、三子も同じく投降した。田悦は怒り、符令奇を引き立てて厳しく責め立てた。符令奇は「お前は義を忘れて主君を裏切ったから、今にも死ぬところだ。私は子に忠誠を教えたから、自分自身が殺されようと何も悔いることがあろうか。同じ死ぬのなら、お前よりもましだ」と罵ったから、田悦は怒って立ち上がった。符令奇が死刑に臨んでも、顔色は変わらなかった。年七十九歳で、その家族は皆殺しにされた。

  馬燧符璘を軍の副官に任命し、詔があって特進を拝命し、義陽郡王に封ぜられた。父が殺害されたのを聞いて、号泣して目から血が出るほど泣き悲しみ、馬燧は符令奇の無実を上表し、検校左散騎常侍を加えられ、晋陽の第一級の邸宅、大きな田五十頃を賜い、符令奇は戸部尚書を追贈された。


  符璘は、字は元亮である。李懐光が叛くと、馬燧に詔があって討伐させた。符璘は五千の兵で援軍となり先に渡河し、西軍と合流した。馬燧に従って入朝し、輔国大将軍となり、靖恭里の第一級の邸宅、藍田県の田四十頃を賜った。符璘が投降すると、母は里の中に隠れて一人死を免れ、田悦が死ぬと、詔によって魏から迎え、宴を別殿で賜った。符璘が宮中護衛に従事すること十三年で卒し、年六十五歳であった。越州都督を追贈された。


  劉迺は、字は永夷で、河南伊闕県の人である。幼くして聡く、六経を暗唱し、一日数千言した。文章をよくし、当時の人々は注目した。天宝年間(742-756)進士及第した。父を喪い、孝行によって有名となった。服喪があけると、中書舎人の宋昱が選考官に関する事を取り仕切ると、劉迺を調任しようとしたから、劉迺はそこで書簡を送って次のように述べた。「『書』に「人を知るは哲にして、よく人を官すれば仁愛となる」とありますが、このことは唐虞が難しいと考えていました。今文部では人材を選ぶに始まって、官位を授けることで終わりますが、これは人を知って人に官職を授けることであり、両方の任務は重大な責任があります。古代では、禹・稷・皋陶といった聖人は、なおも行動の基準には九つの徳目があるといい、成績を検査するのに九年を必要としたのです。現在では担当役人はただ一・二人の小役人に、筆の一枚から言葉を調べ、一礼の中から行ないを観察させるだけですが、なんと簡単なことでしょうか。判断する者が、短い文章で体裁をつくることは、小さな溶鉱炉で多くの金属を溶かすようなもので、鼎や鐘をつくろうとしても、所詮得られないのです。ですから周公や孔子が易経の教えを著したからといって、これによって判断して責めたとしても、かつての徐摛・庾肩吾といった宮廷詩人にも及ばないのです。至徳があるといっても、それ雄弁に収めたところで、吝嗇な男の方がましなのです。そのため雲に入って日を覆うのは巨木ですが、大きさのある材木を求めるのなら、必ず杭にも劣るでしょう。龍や虎の咆哮は聞くのが稀なものですが、頬や舌の感触は、蛙にも劣るでしょう。どうして悲しまずにおれましょうか。まず採用するのに政治を第一にし、文学に文学を重んじ、一歩退いてその家の経営を見て、一歩進んで重要な事柄の処理を観察できれば、広大深淵の事もまた垣間見ることができるでしょう」宋昱はこの意見を褒め、剡県の尉に任じた。劉晏が江西にいると、奏上によって巡察させ、留後に任じられた。

  大暦年間(766-779)、召還されて司門員外郎を拝命した。徳宗が即位した当初、郭子儀に尚父の称号を進められた。当時、冊礼は廃止され、詔の文章を見る者は所作が適当ではなく、宰相の崔祐甫は劉迺を呼び寄せて草稿をつくらせ、しばらくして文章が完成し、詞や意味は荘重で体裁が整っていた。にわかに給事中に、権知兵部侍郎に任じられた。楊炎盧𣏌が宰相となると、五年間遷任されなかった。建中四年(783)、実際の兵部侍郎に任じられた。

  が奉天で巡狩すると、劉迺が私邸にて病で臥せっており、朱泚は人を派遣して呼び寄せようとしたが、病気が重いと称して固辞した。再び偽宰相の蒋鎮を派遣して慰撫して誘ったが、劉迺は会話ができないかのように欺いて答えず、灸を据えて無事な皮膚がなくなったほどであった。蒋鎮が再びやって来ると、そのことを知って脅迫することができず、そこで嘆息して、「私はかつて忝なくも曹郎を拝命していたが、死ぬことができなかった。どうして自ら受けた汚辱を辱めて、賢哲を汚すことを望もうか」と言い、遂に中止した。劉迺は車駕が梁州に行ったことを聞いて、自ら寝所に身を投げ出し、胸を打って天に叫び、絶食して卒した。年六十歳。はその忠誠を聞いて、礼部尚書を追贈し、諡を貞恵という。子の劉伯芻は別にがある。


  孟華は、史書ではどこの人なのか失われている。初め李宝臣に仕えて幕府の属吏となり、議論すれば言う事を聞かず、持論を撤回しなかったから、同僚に嫌われた。王武俊李惟岳を斬ると、孫華を京師に陳上のために派遣し、徳宗は河朔の利害を尋ねたから、孫華は答えてお褒めの言葉を賜り、検校兵部郎中兼侍御史に抜擢された。

  朱滔王武俊とともに田悦の包囲を解くよう謀り、は孫華に詔して帰還して諭させ、その謀を乱そうとした。孫華が到着すると、王武俊を責めて、「安禄山史思明がまだ潰滅する以前、大夫はその兵を掌握され、自ら天下を取るべきだと言ってましたが、今日までどれだけ無駄な時間が流れていったでしょうか。なおかつお上大夫に手厚い寵愛を示され、康中丞を他州に返して、我が深州・趙州を返すと仰せられました。古代より忠臣は先に大功を挙げてもいないのに後で高官を得たような者はおりません。大夫はどうして領地を失うようなことを望まれるのでしょうか。薬は口に苦くても病を治しますが、大夫は後日に愚かな発言を後悔なさるでしょう。後悔しても遅いのです」と言ったが、ある者が、「孫華は入朝して密かに自分のいいように奏上して、我々の勢力を傾けようとしています。だから要職につけたのです」と言ったから、王武俊は惑わされたが、しかし孫華が高徳の旧臣であるから、その職を奪うのに忍びず、ついに進軍して田悦に援軍した。孫華は従軍して臨清に到着したが、病と称して恒州に戻った。王武俊は子に監視させると、門を閉じて賓客を絶った。王武俊は避けるほどでもないことを知り、孫華を殺す意思をなくした。王号を僭称すると、礼部侍郎を授けたが、就任することをよしとせず、喀血して死んだ。


  張伾は、もとは沢潞節度使の将で、臨洺県を守備した。田悦が臨洺県を攻撃すると、城壁の上に登って固く守備すること数カ月、兵士は死に、兵糧も尽きようとしており、救援軍は到着しなかった。張伾は全部将を召還して軍門に立ち、娘に命じて出させて拝礼させると、そこで「諸君は本当に苦しい中戦ってくれたが、私には褒賞する財産がない。願わくばこの娘を売って、兵士たちの一日の費えとしたい」と言うと、兵士は全員泣いて「死ぬまで戦わせてください」と言い、ちょうどその時、馬燧が河東から兵を率いて田悦を城下で攻撃して破り、張伾は勝利に乗じて城から出て戦い、一人で百人に当たらない者はいなかった。功績によって泗州刺史に遷った。泗州にいること十年、右金吾衛大将軍に抜擢されたが、拝命以前に卒した。尚書右僕射を追贈された。

  軍中は議してその子の張重政を擁立したが、母の徐氏および兄が泣いて従うことをよしとしないと訴え、走って淮南節度使の王鍔に報告したから、免れた。詔してその忠誠にお褒めの言葉を賜り、起用して金吾衛大将軍とし、王鍔の所で要職に任じ、徐氏を魯国夫人に封ぜられた。


  周曾は、もと李希烈の部将で、王玢姚憺韋清と志を同じくして親しく、「四公子」と号した。李希烈が叛くと、周曾は謀反の計略の証拠を入手して、一・二つを李勉に報告した。王玢は許州鎮遏使となった。ちょうどその時、哥舒曜が汝州を陥落させ、李希烈は周曾を派遣して迎撃させた。周曾は軍を率いて蔡に駐屯しようと思い、王玢に内応させ、姚憺・韋清は内部にいて李希烈を討ち取ろうと謀り、密かに薬を求めて李希烈を毒殺しようとしたが、死ななかった。周曾は出発すると、李希烈は仮子十人に従わせた。襄城に行くと、その謀が発覚し、報告された。李希烈は李克誠に騾軍千人を率いさせて周曾を捕らえて殺し、その軍を収容し、王玢・姚憺を殺した。それより以前、発覚した場合は互いに捕らえられることがないよう約束していた。韋清は恐れ、表向きは李希烈に向かって、「今兵力は少なく、行動を起こせないことを恐れています。朱滔から援軍を要請してください」と言い、李希烈はその通りだと思った。襄邑県に到着すると、劉洽のもとに走った。徳宗は周曾に太尉を、王玢に司徒を、姚憺に工部尚書を追贈し、韋清を抜擢して安定郡王とし、実封を二百戸とした。

  また呂賁康秀琳・梁興朝・賈楽卿・侯仙欽がいたが、全員李希烈の難によって死に、呂賁・康秀琳に尚書左右僕射を追贈し、梁興朝らは全員尚書の俸給を得て、蕭昕を派遣して国境上で祭祀を行った。李勉哥舒曜に命じてその家の子孫を訪問させ、詔して三世にわたって罪があっても、常に死罪から一等を降すのみとした。

  周曾には跡継ぎがおらず、貞元年間(785-805)、娘および周曾の兄の子の周酆が封爵の継承を争い、役人は「周曾が帰順の首謀者であるが、自身は賊の手にかかって死に、陛下より陪食を賜うべきも、不幸にして跡継ぎが途絶えたから、周酆に五十戸を封じて祭祀を行わせ、娘もまた五十戸を封じるべきである」と奏上した。


  張名振は、もとは李懐光に仕えて都将となった。はじめ李懐光が功績を立てると、徳宗は鉄券を賜い、詔を奉ったが非常に侮った。張名振は軍門にやって来ると大声で、「太尉はを見ても攻撃せず、使者がやって来ても出迎えないが、叛乱をおこそうとしているのか。安禄山史思明僕固懐恩らは現在すべてが族滅されたが、公はどうしたいのか。忠義の士を助けて功績を立てるだけだ」と言ったから、李懐光は召見し、賊が強大であるから、兵力を蓄えて時を待ち、叛乱をおこさないよう誘うべきであると諭した。軍を率いて咸陽に入ると、また「公は叛かないというのなら、どうしてここに来たのか。朱泚を攻撃して京師の回復を急がないというのなら、賊を誰の手に委ねるというのか」と言ったから、李懐光は怒って「正気を失っている」と言い、左右の者に捕らえて殺させた。


  石演芬は、もとは西域の胡人であり、李懐光に仕えて官は都将となり、最も信頼があったから、養って仮子とした。李懐光は軍を三橋に進め、朱泚と連合しようとした。石演芬は客人の郜成義に行在に行かせ、李懐光に賊を破る意思が無いことを報告し、その軍の総統を罷免するよう要請した。郜成義は走って李懐光の子の李琟に報告したから、李懐光は石演芬を呼び寄せて、「お前は私の子となっているのに、どうして我が家を破滅させようとしているのか。今日お前は裏切ったのだから、ただちに死ぬべきだ」と罵ると、「天子は公を股肱となされたが、公は私を腹心とした。公が天子を裏切っているのに、私はどうして公を裏切らないのか。それに私は胡人で、異心などなく、ただ一人に仕えることを知るだけで、私のことを賊とは呼ばず、死んで私のすべきことをするだけだ」と答えたから、李懐光は兵士に食い尽くさせようとしたが、全員が「烈士だ。ただちに死なせてやれ」と言い、そこで刀で頸を断った。徳宗はそのことを聞いて、石演芬に兵部尚書を追贈し、その家族に三百万銭を賜い、郜成義を朔方で斬った。

  呉漵は、章敬皇后の弟である。代宗が即位すると、詔して皇后の祖父の呉神泉を追贈して司徒とし、父の呉令珪を太尉とし、叔父の呉令瑤を太子家令・濮陽郡公に、呉令瑜を太子諭徳・済陽郡公に、呉漵を太子詹事・濮陽郡公に抜擢し、三人とも開府儀同三司とした。呉令瑤の兄弟はそのため県令・郎将となったが、呉漵は盛王府参軍に昇進し、にわかに鴻臚少卿・金吾将軍に遷った。建中年間(780-783)初頭、大将軍に遷った。呉漵は物事にこだわらないが礼儀と謙譲の心があり、おごった様子がないから、朝廷で重んじられ、当時の人々は、呉漵の人物が官位に相当していると思い、外戚であるから官位を授けられたのだとは思わなかった。

  朱泚が叛くと、盧𣏌白志貞の二人とも、朱泚に功績があるから叛乱軍の指導者とみなすべきではないとし、大臣の一人に使者として慰撫させれば、悪事は改悛するだろうとした。徳宗は左右の者を見回してみたが、あえて行く者はいなかった。呉漵は、「陛下は臣ができないとは思わないでください。賊の中に入って天子の真意を諭したいと思います」と言ったから、は大いに喜んだ。呉漵は帝の御前から退くと人に向かって、「私は死んでも無駄だとわかっているが、敵に立ち向かう者、人臣は禄を食んで国難に死ぬのは幸いだ。危急のときにどうして自分の安全を確保できようか。使者とならずに陛下に恨まれるのを避けなくてはならない」と言い、即日詔を持って朱泚と会見し、詳細に朱泚に向かって、帝が待っていて疑っていないと伝えた。しかし朱泚は僭称・謀反をしており、そのため呉漵を客館に留めて送り返さず、ついに殺害された。帝は非常に悲しみ塞ぎこみ、太子太保を追贈し、諡を忠といい、その家に実戸二百戸、一子に五品の正員官を賜った。京師が平定されると、官はその葬儀を整えた。子の呉士矩には別にがある。


  高沐は、渤海の人である。父の高馮は、宣武軍の李霊耀に仕え、曹州を統率させられた。李霊耀が叛くと、高馮は密かに人を派遣して賊のあらゆることを奏上し、詔があって曹州刺史を拝命した。その頃、李正己が曹州・濮州に侵攻すると、高馮は朝廷と通じることができず、在官中に死んだ。

  高沐は、貞元年間(785-805)に進士に及第し、家が鄆州にあるから、そのため李師古は判官に辟署した。李師道が叛くと、高沐は同僚の郭昈郭航李公度を率い、古今の成功例と失敗例をあげて、それぞれが諌めたが、入見することができなかった。李師道の信頼する李文会・林英ら官吏が間隙に乗じて、「この頃、心を尽くして公の家の事を心配していますが、高沐らに憎まれています。公はどうして十二州の地をあげて高沐みたいな輩に千年の名声を与えるのでしょうか」と訴え、これによって疎まれて高沐は排斥され、濮州を守備させた。高沐は上書して山東の優れた地と、豊かな海を称賛し、この地によって国を富ませることができると述べた。李師道の謀はすべて暴露された。後に林英が京師に奏上を行った際に、連絡官を脅して高沐が忠誠を天子にしていると報告させた。李師道は怒り、高沐を誅殺して、郭昈を濮州に幽囚し、厳しく監視すること十年に及んだ。

  呉元済が朝廷の言う事を聞かなくなり、李師道は兵を率いて彭城を攻撃し、蕭県・沛県など数県を破って帰還し、そのため王師は弛緩した。郭昈は繒(かとり)の書簡を緩衝材の木片の中に隠し、郭航に間道から武寧軍に走って李愿に謁見させ、兵三千で海を浮かんで莱州・淄州を奇襲するよう要請し、賊は海を頼んで備えをしておらず、またいるのが皆であるから、守備がなかった。それより以前、郭昈は計画が漏洩することを恐れ、李師道が信認する役人の劉諒の名を署名して派遣し、李愿は朝廷に申し上げたが、宰相たちは李師道がこれをさせていると疑い、返答することができなかった。郭航はあえてあえてもとの道を通らず、関を迂回して郭昈の所に帰還した。しばらくもしないうちに、李師道は郭航を呼び寄せると、郭昈は事実が露見したのではないかと疑い、自殺しようとしたが、郭航は、「事実が発覚しても、私が一人で死ぬ。君は心配するな」と言い、郭航はついに自殺し、ついに疑いは途絶えた。王師が李師道を討伐すると、諸節度師の軍が四方から侵入した。彭城の兵が魚台県・金郷県を下し、李聴の軍が海州を奪取することは落とし物を拾うかのようで、非常に郭昈の策略を採用した。

  それより以前、淮西が平定されると、李師道の勢力に迫ったから、内心では非常に恐れた。李公度が大将の李英曇とともに、三州を献上して、長子を朝廷に入侍させるよう献策した。李師道はそうだと思って裁可したが、突然心の中で後悔し、李英曇を殺そうとしたが、賈直言が李師道の妾や奴に仄めかして、「高沐の冤罪の気が天にあり、災いがやって来ようとしています。李英曇もまた死ぬなら、その祟りを増やすことになります」と言ったから、そこで沙汰止みとした。莱州に追放し、にわかに李英曇を殺した。

  また崔承寵・楊偕・陳佑・崔清は朝廷に忠節を示して賊に背き、李文会が彼らを糾弾して高沐の党であるとしたから、高沐が死ぬと、全員が捕らえられた。劉悟李師道を平定して郭昈を捕らえると、郭昈は肘をあげて号泣して涙を流したから、義成節度府に辟署し、また李公度を属僚とするよう願い出た。元和十四年(819)、高沐に吏部尚書を追贈し、馬総に委ねて礼を備えて埋葬を行ない、その家に給付を行った。

  郭航は、莱州の人であり、気概によって有名で、李師道は重要な職務に任じ、郭昈とともに代々斉に住んだ。それより以前、郭昈は進士に推挙され、権徳輿は採用しようとしたが、その家が賊中にあることを聞いて、そこで取りやめとし、遂に賊に招聘された。二人はついに忠誠によって名を顕すことができた。


  賈直言は、河朔の旧族であるが、史書では出身地の伝を失った。父の賈道冲は、芸によって待詔となった。代宗の時、事件に罪とされて鴆毒を賜り、死のうとしている時、賈直言が父を欺いて、「四方の神祇に謝罪しなければなりません」と言い、使者は賈直言が幼いから油断していると、たちまち鴆毒を手に取って父に代って飲んでしまい、ふらついて倒れた。翌日、毒は足を潰して出てきたから、しばらくして蘇生した。は憐んで、父の死罪を減刑し、二人とも嶺南に流罪とした。賈直言はこれによって足を引きずるようになった。

  後に李師道の節度府の属吏に辟署された。李師道が叛くと、刀を引っ提げて棺を背負って諌めて入り、「先に死なせてください。城が破られるのを見たくありません」と言った。また妻子係累と縛られて檻車に載せられている図を描いて献上したから、李師道は怒り、捕らえられた。劉悟が入城すると、釈放され、義成府に辟署された。後に潞州に遷ると、同じく節度府に従って遷った。

  監軍の劉承偕劉悟と仲が悪く、密かに慈州刺史の張汶とともに劉悟を縛って宮中に送ることを謀り、張汶を代わりの節度使にしようとした。陰謀は漏洩し、劉悟は兵で劉承偕を包囲し、小使を殺すと、賈直言はにわかに入って「司空は勝手に兵で天子の使者を脅かしていますが、李司空のような振る舞いをされていのですか。後日また軍中で指を差されて笑われますぞ」と責めると、劉悟は聞いて後悔の念がおこり、劉承偕を邸宅に隠してから放免した。劉悟に過ちがあるたびに、必ず争い、そのため劉悟は臣節の光明を朝廷に示した。穆宗は京師に召還して諌議大夫にしようとし、群臣の気持ちはさっぱりとして適任とした。しかし劉悟が強く留めたから、聴された。

  始め、劉悟の子の劉従諌は非常に高貴であり、賈直言に会うたびに紫の衣を着て笏を持ち、兵に護衛させた。賈直言は劉悟に諌めて、「若者が山東の習俗を習わず、朝服を勝手に着てよいのでしょうか」と言った。劉悟が死ぬと、劉従諌は喪を発表せず、大将の劉武徳らを呼び寄せて劉悟の遺言を偽り、隣道使と共に上表して位を継ぐことを求めた。賈直言は入って、「父が死んで哭泣せず、どうして山東の義士に顔向けできましょう」と責めると、劉従諌は「顔を背かれるな」と言ったから、賈直言は天を仰いで哭泣し、「お前の父は十二州の地を引っ提げて朝廷に帰順して功臣となった。だが張汶のせいで、自ら汚されて恥をかかされ、ついに恥辱の内に死んだ。この若造は謀反をおこすつもりか」と責めたから、劉従諌は立って賈直言の頭を抱えて泣いて、「何も考えられない」と言った。賈直言は「君はどうして土地がないと心配して朝廷を脅かして死に急ぐのか。もし劉武徳の謀に従っていたなら、私は劉氏が呉元済となるのを見るところであった」と言い、劉従諌は拝礼して「ただ大夫が救われたのです」と言った。賈直言はそこで自ら留後の職務を代行し、劉従諌は喪に服した。それより以前、劉従諌が鄆兵二千で同じ謀をした。賈直言が屈服させると、軍中は平穏を取り戻した。

  大和九年(835)卒し、工部尚書を追贈された。


  辛讜は、太原尹の辛雲京の孫である。詩・書を学び、撃剣を得意とし、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、人の危機に走って助けに赴いた。最初李嶧に仕え、銭や穀物の事を司った。性格は清廉であったが心が強く、何か事にあたっては文章や法律によらず、皆がこれと合致した。辞職して揚州にいて、年五十歳で出仕をよしとしなかったが、怒り嘆いては常に世の中を救おうとする心持ちがあった。

  龐勛が叛くと、杜慆を泗州で攻撃した。辛讜はこのことを聞いて、舟を引いて泗口に急行し、賊の柵を引っこ抜いて侵入した。杜慆はもとより辛讜の名声を聞いていたから、辛讜の手を握って、「私の同僚の李延枢とはかつてあなたの人となりについて語っていました。なんと早くに来られたのか。私の心配事はなくなった」と言い、辛讜もまた杜慆が共に事をなすべき人であると言い、そこで帰って妻子と訣別し、杜慆と生死を共にしたいと言った。当時賊の勢いは甚だしく、軍は皆南に敗走したが、一人辛讜のみは北に向かった。辛讜がまだ到着する以前、杜慆は心配となり、李延枢は必ず来ることを知っていたから、「辛讜が来たら、上表して判官にすべきです」と言ったから、杜慆は許諾した。にわかにやって来ると、杜慆は喜んで、「包囲は厳しくなり、飛ぶ鳥もあえて通過しないのに、君は白刃を冒して陥落寸前の城に入ってきた。古人でもできないことだ」と言い、そこで白衣を脱いで甲冑を着用するよう勧めた。

  賊将の李円が淮口を焼き払うと、辛讜は「事態は急を要する。一人で城から出て救援を求めよう」と言い、そこで楊文播・李行実とともに戊夜(午前3時から午前5時まで)淮水を渡り、岸に穴を掘って登り、三十里駆けて洪沢湖に到着し、守将の郭厚本に会って緊急事態を告げた。郭厚本は出兵を許可したが、大将の袁公异らが「賊は多く我々は少ないので、行くべきではありません」と言うと、辛讜は剣を抜いて目を怒らせて、「泗州は陥落寸前だ。公らは詔を受けて来たのに、逗留して進まないのは、何をしたいのか。立派な男たる者は国恩が背こうとも、生き延びるのを恥とすべきなのだ。ましてや泗州を失えば、淮南は盗賊どもの場所になってしまい、君は一人でどうやって生き残れようか。私は今左肘を切り落としてお前を殺してやる」と叫び、剣を目前に突き出し、郭厚本は受け止めたから、袁公异らは辛くも難を逃れた。辛讜は泗州を望み見て慟哭し、幕下も全員涙を流した。郭厚本は兵五百を与えることに同意すると、辛讜は「充分だ」と言い、兵士全員に尋ねた。「行けるか」全員が答えた「もちろん」辛讜は顔を地につけて、泣いて謝した。軍は淮水を攻撃すると、ある人が「賊が城を破ったぞ」と言ったから、辛讜はその者を斬ろうとし、軍は命乞いをした。辛讜は、「公らは舟に乗るのなら、私は死罪を赦そう」と言ったから、兵士は急遽舟に乗り込んだ。渡り終わると、杜慆も同じく出兵し、表と裏で攻撃したから、賊は大敗した。辛讜が入城すると、人心は遂に固まった。浙西の杜審権が将軍の翟行約を派遣して援軍に向かわせ、蓮塘に陣を敷き、杜慆は人を派遣して役所で労いしたいと思ったが、役人たちは憚ってあえて出てこず、辛讜はただ一人労われて帰還した。

  三ヶ月に及ぶ包囲で、援軍は敗れ、城はますます陥落の危険となった。辛讜は再び援軍を淮南に要請しようと、壮士の徐珍十人とともに斧を持って夜に賊の柵を斬って脱出し、節度使の令狐綯と面会し、再び浙西に行って杜審権に面会した。その時、全員に泗州がすでに陥落したと伝わっており、辛讜は賊に計略だと疑って、伝えた者を捕らえた。辛讜は李嶧が引き立てたことは自明であった。李嶧は当時大同防禦使となっており、辛讜の忠義を称えて信じるべきであると言った。杜審権はそこで救援を許可し、淮南の兵五千をあわせて、塩・粟を供給した。しかし淮水への道は閉ざされ、進むことができなかった。辛讜は兵を率いて決戦し、賊六百級を斬り、ようやく入城し、城の上は歓喜に沸き立ち、杜慆は部下とともに泣いて迎えた。辛讜の功績は朝廷に上表され、監察御史を授けられた。包囲は十か月で解かれ、ついに泗州一州は全うした。

  それより以前、辛讜は救援を求めるや、自分の家を通り過ぎること十回以上であったが、この間妻子と会ったことがなく、兵糧を得ること二十万にも及んだ。辛讜の子および兄の子は広陵の客人となり、杜慆に託して、「先祖の祭祀が途絶えないのは、閣下のお陰です」と言った。後に功績は第一となり、亳州刺史を拝命し、曹州・泗州二州に遷った。乾符年間(874-879)末、嶺南節度使で終わった。

  辛讜が若い頃、野で耕していると、牛が暴れ、人々は恐れて走って逃げたが、辛讜は真正面に立つと、両手でその角を持ち、牛は動くことができず、しばらくして引き寄せ、ついにその角を折った。村人は驚き、牛を殺して辛讜に食べさせた。しかし辛讜は痩せて身長が低く、才能は凡庸であった。後に貴くなると、力もまた少し衰えたという。


  黄碣は、閩の人である。初め閩の小将となり、学問を喜び、軒昂として高い志があった。同僚が黄碣の筆を借りると、黄碣は怒って、「この筆はいつか大事に使うのだ。貸すことはできない」と言った。後に安南で戦功があり、高駢が優れた能力を上表し、漳州刺史となり、婺州刺史に遷ると、統治に優秀な成績を収めた。劉漢宏が兵を派遣して攻撃してきたが、兵が少なく守ることができず、州を放棄して去り、蘇州で客人となった。

  董昌が威勝軍節度使となると、黄碣を上表して自身の副官とし、しばらくして応じた。董昌が叛くと、黄碣は諌めて、「大王は田畝の作物を収穫し、貢輸の勤めを敷かれ、位は将相となり、勲功や業績がなければかえって記録すべきほどです。今、王朝に忠義を尽くすことができず、自ら尊大で、一日誅滅すれば跡継ぎがいなくなってしまいます。桓公・文公が周王室を侮らず、曹操があえて漢を危うくはしませんでした。今王は田舎の一小城にいて、大逆をするのはどうしてでしょうか。この碣を一族ごと先に殺してください。王が滅ぶのを見ることができません」と言ったから、董昌は怒って、「黄碣は私に従わないのか」と言い、退けて出ていった。黄碣は幕府の李滔に移書(同等官司間において相互に授受する文書)を送って、「「順天」と建元するのは、こんな愚策で、針が鉾にでもなるというのか」と述べると、ある者が密かにその書を董昌に示し、董昌は使者に黄碣を斬らせた。使者が首を持ってやって来ると、董昌は罵って、「この賊は私に背いて、三公となるのをよしとせず、死を求めたのか」と言い、便所の中に持っていき、その一族百戸を皆殺しにし、鏡湖の南に穴掘って同じ穴に埋めた。董昌が敗れると、詔があって司徒を追贈し、その後裔を探したが見つけられなかった。

  董昌が黄碣を殺すと、李滔も同じく殺害され、そこで会稽県令の呉鐐を呼び出して対策を尋ねた。呉鐐は、「王は真の諸侯で、子孫に栄光を残すのにそれをせず、偽天子となって、自らの滅亡を招いている」と言ったから、董昌は責めて呉鐐を斬り、その家を滅ぼした。また山陰県令の張遜を呼び寄せて御史台を司らせようとしたが、固辞して、「王は自らを捨てて、天下の笑いものとなっている。しかも六州の勢いは叛乱を助けず、王はただ一州に拠って速やかな死を招いている。なにごとか。この遜はあえて自分の身を以て王に捧げる気はない」と言ったから、董昌は憎んで、「張遜は天意を知らない。邪説によって私を拒んでいるのだ」と言い、張遜を捕らえた。ある日人に向かって、「私に黄碣・呉鐐・張遜がいなくても、どうして人材が乏しいなんてことがあろうか」と言い、ただちに殺害した。


  孫揆は、字は聖圭で、刑部侍郎の孫逖の五世の従孫である。進士に及第し、戸部巡官に辟署した。中書舎人・刑部侍郎・京兆尹を歴任した。

  昭宗李克用を討伐すると、孫揆を兵馬招討制置宣慰副使とし、後に改めて昭義軍節度使を授け、本道の兵で会戦した。李克用は刀黄嶺にて伏兵し、孫揆を捕らえ、厚く礼遇して用いようとしたが、「お前たちは廟堂で静かにしているべきなのに、どうして隊列を組んで行軍しているのか」と、孫揆は大いに罵って屈服しなかったから、李克用は怒り、鋸で孫揆を切り刻むよう命じたが、鋸の歯が切れなかった。孫揆は「この死んだ犬奴隷め。人を切り刻むには人を束にして板にするのだ。お前たちはそんなことも知らんのか」と言ったから、刑の執行者はその発言の通りにし、罵声は止むことなく死んだ。昭宗は哀れんで、左僕射を追贈した。


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最終更新:2025年08月30日 12:46
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