巻一百九十五 列伝第一百二十

唐書巻一百九十五

列伝第一百二十

孝友

李知本 張志寛 劉君良 王少玄 任敬臣 支叔才 程袁師 武弘度 宋思礼 鄭潜曜 元譲 裴敬彝 梁文貞 沈季詮 許伯会 陳集原 陸南金 張琇 侯知道 程倶羅 許法慎 林攢 陳饒奴 王博武 万敬儒 章全益



  唐が受命して二百八十八年、孝悌によって名が朝廷に聞こえた者は、多くは巷の卑賤の民であり、全員が史官によって記録されることができた。

  万年県の王世貴、長安県の厳待封、涇陽県の田伯明、華原県の韓難陀、華州の王瞿曇、鄭県の辛法汪・郭士挙・張長・郭士度・鄭迪・柳仁忠・能君徳・劉崇・甘元爽・韓子尚・韓思約、下邽県の張万徹、朝邑県の申屠思恭・呂昂、鶉觚県の張元亮、霊台県の孫智和、新平郡の馮猛将、宜川の司馬芬、洛交郡の周崇俊、洛川県の何善宜、博陵の崔定仁、冀州の燕遺倩、貝州の馬衡、滄州の鄭士才、清池県の孫楚信・劉賢、渤海郡の辺鳳挙、瀛州の朱宝積、楽陵郡の蘇伏念、邯鄲の章徴、鶏沢県の馮仁海・郭守素、文安郡の董相、武邑県の王達多・張丘感・張芸朗と曁孫(六世の孫)の張師才・張義節、沙河の趙君恵、南楽の谷感徳、魏県の毛仁、武城県の茹智達、歴亭県の王師威・李肆仁、臨河県の李文綢、湯陰県の后斥奴、鼓城県の彭思義・陳屺・田堤岳、太原の盧遺仁・王知道、蒲州の賈孝才、解県の衛玄表、南岳の張利見、安邑県の曹文行・孫懐応・相里志降・楊王操・邵玄同・張衡・曹存勲・李文褒・董文海・李文秀・張仙児・張公憲、虞郷県の董敬直、河東の張金城・呂神通・呂雲・呂志挺・呂元光・趙挙・張祐・姚熾・張師徳・馮巨源・杜山蔵、河西の郭文政、伊闕県の任仲済・源栄璧、汴州の張士巌、陳留の家師諒・董允恭、尉氏県の楊思貞、中牟県の潘良瑗と曁子(六世の子孫)の潘季通、陽武県の時恵珣、封丘県の楊嵩珪、許田の李頤道、胙城県の蔡洪・石善雄と曁孫の石彦威、朗山県の胡君才、徐州の皇甫恒、彭城の尹務栄、荊州の劉宝、長寿県の史摶、益州の焦懐粛・郭景華、郪県の曹少微、涪城県の趙煙、資陽郡の趙光寓・黄昪、梓潼郡の馬冬王・秦挙・王興嗣、依政県の樊漪、巴西郡の韋士宗・文博栄の曁子の文詮、南鄭県の李貞古、巣県の張進昭、万載の廖洪、南陵県の蘇仲方、鄱陽郡の張讃、楽平郡の謝惟勤・沈普・姜崌、上饒県の鮑嘉福・虞鎔真、句容県の張常洧、弋陽郡の張球・李営の曁子の李凝と孫の李楚、貴渓県の黄舟、建昌県の熊士贍、臨江県の袁鳴、贛県の謝俊、余杭県の何公弁・章成緬・方宗、建徳県の何起門、桐廬県の祝希進、諸曁県の張万和、蕭山県の李渭・許伯会・戴恭・兪僅、信安郡の徐知新・徐恵諲、東陽郡の応先・唐君祐、睦州の許利川、建陽県の劉常、邵武県の黄亘・張巨籛・呉海、泉山の黄嘉猷、永泰郡の王奭は、全員親の喪に服して大変に立派な行動であった者である。万年県の宋興貴、奉先県の張郛、澧陽県の張仁興、櫟陽県の董思寵、湖城県の閻旻、高平郡の雍仙高、湖城県の閻酆、正平県の周思芸・張子英、曲沃県の張君密・秦徳方・馬玄操・李君則、太平県の趙徳儼、隴西の陳嗣、北海郡の呂元簡、経城県の宋洸之、単父県の劉九江、無棣県の徐文亮、楽陵県の呉正表、河間郡の劉宣・董永、安邑県の任君義・衛開、龍門県の梁神義・賀見渉・張奇異、鄭県の王元緒・寇元童、舒城県の徐行周、睦州の方良琨、桐廬県の戴元益、高安県の宋練、涇県の万晏、弋陽郡の李植、繁昌県の王丕は、全員数世代にわたって同居した者であった。天子は全員の善行を村里の門に表章し、粟帛を賜い、州県に見舞いさせ、一年間の賦税を免除し、官職を授けた。

  唐の時代の陳蔵器が『本草拾遺』を著し、そこに人肉が病気の衰弱を治すとあり、これより民間では父母の病に、多くの者が股の肉を裂いて捧げた。また京兆の張阿九・趙言、奉天府の趙正言・滑清泌、羽林飛騎の啖栄禄、鄭県の呉孝友、華陰県の尹義華、潞州の張光玼、解県の南鍛、河東の李忠孝・韓放、鄢陵県の任客奴、絳県の張子英、平原の楊仙朝、楽工の段日昇、河東の将の陳渉、襄陽の馮子、城固県の雍孫八、虞郷県の張抱玉・骨英秀、楡次県の馮秀誠、封丘県の楊嵩珪・劉皓、清池県の朱庭玉・弟の朱庭金、繁昌県の朱𢙨 、歙県の黄芮、左千牛の薛鋒および河陽の劉士約がいて、ある者は帛を賜い、ある者は善行を村里の門に表章し、全員の名が国史に記録された。韓愈がよいことを指摘した論を述べており、「父母が病気になれば、薬の服用を勧めることを孝とするが、身体を損壊する者が孝であるとは聞いたことがない。その場限りで義を傷つけたとしても、それは聖賢先達の多くが孝ではないとしてきたことなのだ。不幸にもこれによって死んでしまったなら、身体を傷つけ後嗣を絶やした罪が帰せられるのである。どうして村里の門に表章することがあろうか」と述べている。しかしながら、貧賤・無知の卑しい人々には、学術・礼義の素質があるわけではなく、身体を忘れ、これによってその親に与えることができたのは、誠心から出たもので、また称えるのに充分な者である。だから十七・八人を列挙するのである。広明年間(880-881)以後、藩鎮が法の統制を凌ぐようになり、支配領域は千里に跨ったから、政事については上聞せず、孝悌・篤行の士は、表章されることはなかった。小説に載せられた者は、名や字が他の書に参見されなかったから、記録することはできなかった。李知本張志寛のような者で文章をはじめるのは、礼譲・君子の風があるからで、だからまとめて序としたのである。張士巌は父が病むと、薬に鯉魚を用いようと、冬の季節に池の氷を溶かそうと身体を氷に合わせると、獺(かわうそ)が魚を咥えてその前に持ってきたから、父に供給することができ、父が快癒できた。母が病んで癰(はれもの)ができると、張士巌は癰の血を吸い取った。父が亡くなって、墓を家とすると、虎や狼が寄りかかってきた。焦懐粛は母が病むと、その唾液を舐め、もし味に異常があれば、たちまち号泣してほとんど死ぬところであった。母が死ぬと、飲み物を五日口に入れず、土を背負って墳墓をつくり、墓を家として守り、一日一食で、杖にすがってようやく起きることができるという有り様であった。継母が没すると、また同じであった。張進昭は、母が狐刺(狐の尿に起因するとされた疾病で、腫れて激痛に悩まされ死に至るという)を病み、左手が脱落して死んだ。葬式になると、張進昭は自分の左腕を切断して墓を家とした。張公芸は九世代同居し、北斉の東安王高永楽・隋の大使の梁子恭が自ら慰撫し、その門に表彰した。高宗が泰山に封禅すると、その家に行幸し、九世代同居の理由を尋ねると、「忍」の字を書いて返答とし、天子は涙を流し、縑帛を賜って去った。四人の名が非常に有名であったから、詳細は篇を見よ。


  李知本は、趙州元氏県の人で、元魏(北魏)の洛州刺史の李霊の六世の孫である。父の李孝端は、隋に仕えて獲嘉県の丞となった。族弟の李太沖とともに世間では名望があり、しかも李太沖の官位は官位・閨閥は最も高かったから、郷里の人は「太沖に兄なし、孝端に弟なし」と語っていた。

  李知本は経書に詳しく、親に仕えて非常にあつく、弟の李知隠とともに穏やかかつ規則正しく、子孫は百人以上、財物や召使いは少しも仲違いがなかった。大業年間(605-618)末、盗賊が村の門の前を通り過ぎたが入ってこず、盗賊は互いに「義の門を犯してはならん」と戒めていた。避難していた五百以上の家は、すべてこれによって免れた。貞観年間(623-649)初頭、李知隠は伊闕県の丞となり、李知本は夏津県令となった。開元年間(713-741)、孫の李瑱は給事中・揚州長史となった。李知隠の孫の李顒は文章によって、太常少卿となった。従祖兄弟で給事中となったのは四人であった。


  張志寛は、蒲州安邑県の人である。父の喪に遭って身体を壊し、州里からは称えられた。王君廓の兵がこの地を攻略したが、その門を襲撃せず、無事だった者は百家以上に及んだ。後に里正となったが、突然県にやって来て母が病気であるから急ぎ帰還したいと言ってきたから、県令はその理由を尋ねると、「母が病になると、この私・志寛めもたちまち病となります。だからこれによって知ったのです」と答えたが、県令は妄言だと思い、獄に繋いだが、急ぎ確認してみると言った通りであり、そこで慰め送り出した。母が亡くなると、土を背負って墳墓をつくり、手ずから松・柏を植えた。高祖が使者を派遣して弔わせ、員外散騎常侍を拝命し、物四十段を賜い、善行を村の門に表彰した。


  劉君良は、瀛州饒陽県の人である。四世代同居し、族兄弟であっても同母兄弟のようであり、門内の一斗の粟や一尺の帛でも私物と化すことがなかった。隋の大業年間(605-618)末、飢饉となり、妻が族兄弟らとの別居を勧め、そこで庭の樹に鳥の雛を置き換え、争わせて鳴かせ、家の人がこれを怪しむと、妻は「天下が乱れると、禽鳥が互いに相容れないものです。ましてや人ではどうでしょうか」と言ったから、劉君良はそこで兄弟とは別のところに住んだ。一月ほどして、密かにその計略を知り、そこで妻を追い出して、「お前が我が家を滅茶苦茶にした」と言い、兄弟を呼び寄せて涙を流してこのことを知らせ、再び同居した。天下が乱れると、郷里の人が共に頼ってきたから、大勢で砦を築き、これによって義成堡と名付けた。武徳年間(618-623)、深州別駕の楊弘業がその居所にやって来ると、だいたい六院で一つの調理場を有し、子弟は皆礼節があり、嘆息して去った。貞観六年(632)、村門に表彰した。


  王少玄は、博州聊城県の人である。父が隋末に叛乱兵に殺されたが、死んだ後に王少玄が生まれた。わずか十歳で、父がどこにいるか尋ねると、母が真相を告げたから、悲しんで遺体を探し求めた。当時、野は白骨で覆い尽くされており、ある者が、「子の血を漬けて滲んだら、父の遺骸だ」と言ったから、王少玄は皮膚を突き刺し、十日ほどで得られ、遂に葬った。傷はひどく、長年かけて治った。貞観年間(623-649)、州が報告を行い、徐王府参軍を拝命した。


  任敬臣は、字は希古で、棣州の人である。五歳で母を喪い、悲しみのあまり身体を壊した。七歳にして、父の任英に、「どうしたら母に報いることができるでしょうか」と尋ねると、任英は、「名をあげて親を顕すのがよいだろう」と言ったから、そこで志を刻んで学問に従事した。汝南の任処権がその文を見て、驚いて「孔子は顔回の賢さを称えたが、ここまでではなかっただろう。私は古人ではないが、だがこの子を見ると、顔回すら及ばないだろうと信じている」と言った。十六歳で、刺史の崔枢が秀才に推挙しようとしたが、自ら学がまだ博識ではないから、逃れ去った。また三年で卒業し、孝廉に貢挙され、著作局正字を授けられた。父が亡くなると、しばしば絶命しかけ、継母が「喪に堪えられないのに、孝ということができますか」と言ったから、任敬臣はさらに粥を奉った。服喪があけると、秘書郎に遷った。休暇日には、門を閉ざして書籍を読んだ。虞世南がその人を優れた人とし、年末に考課を上としたが、固辞した。召されて弘文館学士となり、にわかに越王府西閤祭酒を授けられた。職を交替しようとした時、は再び上表して留め、朝請郎に昇進した。制科に推挙され、許王文学に抜擢された。再び弘文館学士となり、太子舎人で終わった。


  支叔才は、定州の人である。隋の末の飢饉で、夜に野中に食糧を求め、戻って母に進めたが、賊に捕らえられ、殺されようとしたから、情によって訴えると、賊はその孝を憐れんで、縛めを解かれた。母が癰(はれもの)を病むと、支叔才は瘡を口吸いして薬を注いだ。母が亡くなると、墓を家とし、白鵲が家の傍に止まった。高宗の時、その家を表彰した。

  至徳年間(756-758)、常州の人の王遇と弟の王遐は二人共賊に捕らえられたが、一人を釈放しようとしたとき、兄弟が互いに譲って死のうとしたから、賊はその意を感じ入り、二人共釈放した。


  程袁師は、宋州の人である。母が病んで百日ほどあったが、帯を解かず、薬を自身で舐めて確かめなければ与えなかった。弟に代わって洛州を守ったが、母が亡くなると、訃報を聞いて、一日に二百里走り、土を背負って墳墓を築き、悲しみのあまりやせ衰えると、人々は程袁師が誰なのかわからなくなった。曽祖父以来の先祖を改葬し、二十年たって完了した。常に白狼・黄蛇が馴れて墓の近くにおり、哭泣するごとに、群鳥が鳴き飛んだ。永徽年間(650-655)、刺史が朝廷に報告すると、役人に詔して駕籠で迎えた。到着したが、出仕を願わなかったから、儒林郎を授けて帰した。


  武弘度は、武士彠の子で、相州司兵参軍に任じられた。永徽年間(650-655)、が卒すると、徐州からざんばら髪、はだしのまま喪所に走り、土を背負って墳墓を築き、朝夕哭泣し、一日に片手一握りほどの米のみであった。素芝(白いキノコ)が家の前に生え、狸がその側で騒いだ。高宗が詔を下して褒賞し、その門前に表彰した。


  宋思礼は、字は過庭で、継母の徐氏に仕えて孝によって有名となった。蕭県主簿に任じられた。ちょうどその時、大旱魃となり、井戸や池は涸れ、母は病で衰弱し、泉の水でなければ口にあわなかったから、宋思礼は憂慮してまた祈ると、たちまち泉が庭から出てきて、味は甘寒で、一日汲んでも尽きなかった。県の人は不思議に思い、蕭県尉の柳晃が石に刻んでその感慨を述べた。


  鄭潜曜は、父の鄭万鈞は、駙馬都尉・滎陽郡公である。母は代国長公主である。開元年間(713-741)、公主が病に伏せると、鄭潜曜は左右に侍り、わずかな時間も去らず、三ヶ月たっても顔を洗わなかった。公主の病は次第に重くなり、刺した血で書を認め諸神に願い、自分の身を以て代わりにするよう願った。書を火にくべると、「神許(神は許す)」の二字が自然と浮かび上がった。翌日、公主は快癒したが、左右の者に戒めてあえて言うことはなかった。後に臨晋長公主を娶り、太僕光禄卿を歴任した。


  元譲は、雍州武功県の人である。明経化に選ばれたが、母の病によって任命されることをよしとせず、病床に侍って門から出ないことは数十年に及んだ。母が亡くなると、墓の隣を家とし、髪を溶かしたり沐浴することをやめ、菜を食べ水を飲んだ。咸亨年間(670-674)、太子監国となり、令旨を下して門に表彰を貼り出された。永淳年間(682-683)初頭、巡察使が元譲の孝悌ぶりが卓越していることを上表し、太子右内率府長史に抜擢された。一年がたつと、郷里に帰り、人々で訴えることがあると、皆が元譲のところに行って判断を仰いだ。中宗が東宮であった時、召されて司議郎を拝命し、入謁すると、武后は期待して、「卿は家に孝であるから、必ず国家にも忠であろう。治道によって我が子を輔佐せよ」と言った。しばらくして卒した。


  裴敬彝は、絳州聞喜県の人である。曾祖父の裴子通は、隋の開皇年間(581-600)に太中大夫の時に母を喪い、喪があけても哭泣し、白烏が墳墓の木蔭に巣をつくった。兄弟八人は全員孝によって名をなし、詔して門に表彰し、世間では「義門裴氏」と呼んだ。

  裴敬彝は七歳で文章をよくし、性格は慎み深く気配りがあり、宗族は重んじて、「甘露頂」と名付けた。父の裴智周は、臨黄県令に補任されたが、部下に訴えられた。裴敬彝は年十四歳で、巡察使の唐臨のもとに詣でて無実を訴えたから、唐臨は優れた人物だと思い、そこで試しに賦をつくるよう命じると、賦は優れたものであった。父の罪が許されると、裴敬彝を朝廷に上表し、陳王府典籤に補任された。ある日、突然泣き出して左右にいた者に「父さんが病気で痛みがあると、私もたちまちそうなる。今、心臓が痛むから、どうなっているかわからない」と言い、そこで急ぎ家に帰ること願い、倍の速度で道を急ぎ帰ったが、すでに父が卒しており、やせ衰えて身体を毀して通常の礼法を超えるものであった。乾封年間(666-668)初頭、監察御史に累進した。母が病むと、医師の許仁則は足が不自由で乗る事ができず、裴敬彝は自ら輿となって出迎えた。喪にあっては、詔して縑帛を贈られ、官は彼のために霊輿(霊柩車)をつくった。服喪があけると、著作郎兼修国史となった。中書舎人・太子左庶子を歴任した。武后の時、酷吏に陥れられ、嶺南で死んだ。


  梁文貞は、虢州閿郷県の人である。若くして辺境の守備に従軍したが、帰還すると親がすでに亡くなっていた。悲しみのあまり自らを養うことができず、そこで墓に穴を掘り、その入口を門とし、朝夕清掃し、沈黙して語らないこと三十年、家人が尋ねることがあると、文を書いて答えた。ちょうど官が道を新設し、梁文貞の家の前にいたると、梁文貞が旅装しているのを見て、皆が涙を流した。甘露が塚の木に降り、白兎が慣れて騒いだから、県令は石に記録を刻んだ。開元年間(713-741)、刺史の許景先が梁文貞の孝が他の者とは超越していることを上奏し、詔して史官に記録させた。


  沈季詮は、字は子平で、洪州予章の人である。若くして父を失い、母に仕えて孝であり、今まで人と争ったことがなく、皆がそのため臆病だと思っていた。沈季詮は、「私が臆病だというのか。人の子として生まれた者は、親に心配させるべきだというのか」と言った。貞観年間(623-649)、母に従って江を渡ったが、にわかに暴風となり、母は溺死し、沈季詮は泣き叫んで江の中に飛び込み、しばらくして、母の肘をもって水上に浮かんできた。都督の謝叔方は祭礼を供えて二人を葬った。


  許伯会は、越州蕭山県の人である。ある人は許玄度(許詢)の十二世孫だという。孝廉に推挙された。上元年間(674-677)、衡陽博士となった。母が亡くなると、土を背負って墳墓をつくり、冬の衣服を着ず、滋養のある物を食べなかった。野火が墳墓の樹にまで及ぶと、天に悲しみの声をあげたが、にわかに雨が降り、火が消えた。旱魃の年に泉が家の前に湧き、霊芝が生えた。


  陳集原は、瀧州開陽の人である。代々酋長となっていた。父の陳龍樹は、欽州刺史となり、病になると、陳集原はたちまち食べなくなり、父が死ぬと、喀血すること数升で、墳墓を家とし、田や財産のすべてを兄弟に譲ったから、里の人は行いを高いものとした。武后の時、右豹韜衛大将軍に任じられた。


  陸南金は、蘇州呉の人である。祖父の陸士季は、同郡の顧野王に従って『春秋左氏伝』・司馬遷『史記』・班固『漢書』を学んだ。隋に仕えて越王楊侗の記室兼侍読となった。楊侗が即位すると、著作郎に任じられた。当時、王世充が簒奪しようとしていて、楊侗は陸士季に向かって、「隋は天下を有すること三十年であったが、朝廷には果たして忠臣はいないのだろうか」と言うと、陸士季は「危ういところにあって命を投げ出すのが、臣の年来の志です。奴が奏上してきたところを殺しましょう」と答えたが、謀は洩れ、侍読の職を停止され、そのためうまくいかなかった。貞観年間(623-649)初頭、太学博士兼弘文館学士で終わった。

  陸南金は仕えて太常奉礼郎となった。開元年間(713-741)初頭、光禄少卿の盧崇道が罪となって嶺南に流されたが、逃げて東都に戻った。陸南金は母の喪に服しており、盧崇道は弔問客と偽って、入ってその事情を述べたから、陸南金は匿った。にわかに恨みに思う者に密告され、侍御史の王旭に詔して捕らえて審判されると、陸南金は重罪にあたった。弟の陸趙璧が王旭のもとに行って「盧崇道を匿ったのは私です。死罪にしてください」と言い、陸南金は強く弟が自ら誣告して事実ではないと述べたから、王旭は怪訝に思った。陸趙璧は、「母はまだ葬られておらず、妹はまだ嫁いでおらず、兄がこれをよく処理できるでしょう。私は生きていても無益なので、死ぬにこしたことがありません」と答えたから、王旭は驚き、お上に報告した。玄宗は二人を許した。

  陸南金は経書や史書に詳しく、品行方正であった。張説陸象先は賢人であると言い、そのため庫部員外となったが、持病によって太子洗馬に改められ、卒した。


  張琇は、河中解県の人である。父の張審素は、巂州都督となった。陳纂仁なる者がおり、討ち取った首級の水増しや、庸兵を私的にしたことを誣告した。玄宗は疑い、監察御史の楊汪に詔して取り調べさせた。陳纂仁は再び張審素と総管の董堂礼が謀反と誣告した。ここに楊汪は張審素を雅州の獄に収容し、巂州に急行して謀反の証拠を取り調べた。董堂礼は怒りに堪えられず、陳纂仁を殺し、兵七百で楊汪を取り囲み、脅して弾劾内容を訂正させ張審素の罪を雪ごうとした。後に役人が董堂礼を斬ったから、楊汪は脱出でき、遂に張審素の謀反が事実であるとして斬り、その一家を没入した。張琇と兄の張瑝はまだ幼なかったから、嶺南に移された。しばらくして逃げ帰った。楊汪は名を楊万頃と改めた。張瑝はこの当時十三歳で、張琇は二歳若かった。夜に楊万頃を魏王池で狙い、張瑝はその馬を斧で叩き切ったが、楊万頃は驚いて戦うまでに至らず、張琇に殺された。楊万頃を殺した理由を箇条書きにした文書を斧に繋ぎ、江南に逃げ、父の罪を陥れた者を殺し、その後に役人のもとに出頭しようとした。汜水に行き、役人に捕らえられて奏上された。中書令の張九齢らは皆その孝烈を称え、死罪を許すべきであるとしたが、侍中の裴耀卿らが許すのは不可であるとの意見を述べ、もまたそうだと思い、張九齢に向かって、「孝子たる者、義は命を顧みない。これを殺してその志を成就させるべきであって、これを赦せば律を損なうことになる。おしなべて子というものは、どうして孝を願わないのだろうか。仇討ちして殺し合えば、遂には終わりがなくなるのだ」と言い、ついに裴耀卿の意見を用いたが、議する者は冤罪だと思った。帝は詔を下して説諭し、そこで殺した。刑に臨んでは食事を賜ったが、張瑝は食べることができなかった。張琇の顔色はいつも通りで、「地下で先人に会うのだから、また何を恨むことがあろうか」と言い、人々は憐れまない者はおらず、誄(しのびごと)をつくって道に掲げ、銭をあつめて北邙に葬ったが、仇の人に発かれるのを恐れ、偽物の墳墓をつくり、本当の墳墓の場所は知らさせなかった。

  太宗の時、即墨の人で王君操という者がおり、父は隋末に郷人の李君則に殺され、李君則は逃げ去った。当時、王君操はまだ幼かった。貞観年間(623-649)になって、朝廷はさらに代替わりしたが、王君操は身寄りがなくて貧しく、仇の家ははばかることなく、州にいって自ら言いふらした。王君操は密かに刃を隠し持って李君則を殺し、その心臓・肝臓を刳って立って食らいつくし、走って刺史に「父が凶手にかかって死に、二十年たっても報復できませんでした。今怒りは拭われ、あとは役人の手に委ねられて死罪となることを願うだけです」と報告した。州は報告の上奏をし、は死罪を許した。

  高宗の時、絳州の人である趙師挙は、父が殺害された時、趙師挙は幼く、母は再婚したから、仇の家は疑うことがなかった。趙師挙は成長すると、雇われ人となったが、夜は読書した。しばらくして、自ら仇の人を殺し、官に出頭して自ら陳情したから、は許した。

  永徽年間(650-655)初頭、同官県の人である同蹄智寿の父は一族の人に殺害され、同蹄智寿と弟の同蹄智爽は道で待ち伏せして、仇を撃ち殺し、互いに役人に自分が首謀者であると主張し、役人は判決を三年下すことができなかった。ある者が、弟が始めて謀したと言ったため、そこで死罪に相当し、刑に臨んで「仇はすでに報いた。死んでも恨まない」と言い、同蹄智寿は自ら地に身体を投げうって疲労困憊し、身体に無事な皮膚はなく、同蹄智爽の血をすべて舐め尽くしたから、見る者は痛ましく思った。

  武后の時、下邽県の人である徐元慶の父の徐爽は県尉の趙師韞に殺害され、徐元慶は姓名を変えて駅家保となった。しばらくして趙師韞が御史として亭に泊まると、徐元慶は自ら殺し、自ら捕らえて官に出頭した。武后は死罪を赦したいと思ったが、左拾遺の陳子昂は以下のように議した。

    「先王が礼を立ててこれによって人に進めるのは、罰を明らかにし、これによって政治を公平にするためです。盾を枕にして敵討ちするのは、人の子の義です。死刑にして乱を禁止するのは、王政の要綱です。しかしながら義なくして人を訓導することはできず、要綱を乱しては法を明らかにすることができません。聖人が礼を修めて国内を統治し、法を整え外敵から守り、法を守る者に礼によって刑を廃させず、礼にある者に法によって義を傷つけず、その後になって暴乱を消し、廉恥をおこし、天下が直道をただして行いをする理由となるのです。

    徐元慶は父の仇に報い、身体を拘束して罪に帰しましたが、古の烈士であってもどうしてこれ以上の者がおりましょうか。しかし人を殺す者は死罪であるのは、画一化された法制であり、法に二つの基準があってはならないので、徐元慶を罪に伏すべきなのです。伝に「父の仇と天を同じうせず(『礼記』曲礼上)」とあるのは、人の教えなのです。このことを教えてなおざりにしないなら、徐元慶を赦すべきです。

    臣は以下のように聞いています。刑の生じる理由は、乱をさえぎることにあります。仁が利する理由は、徳を崇めることにあります。今、父の仇に報いるのは、乱ではありません。行子の道であり、仁なのです。仁にして利がなければ、乱や殺人と同じなので、これを適切な刑罰といい、これによって訓導すべきではないのです。だからこそ邪は正によって生じ、治は必ず乱がおこり、そのため礼によって防ぐにはたえられず、先王がこれによって刑を定めたのです。今、徐元慶の節を義とするならば、刑が廃れることになります。徐元慶が義によってよく天下を動かした理由をたどり、生を忘れて徳に及ぶのです。もし罪を許してその生に利するなら、これはその徳を奪うことになり、その義を欠落させ、身を殺して仁をなし、死を全うして生を忘れるの節ではなくなるのです。臣は正国の法を正しくし、その措置を刑によってすべきで、その後に村の門や墓に表彰するのがよいかと思います。」

  当時はその発言をよしとした。後世、礼部員外郎の柳宗元が論駁して次のように述べた。

    「礼の根本は乱を防ぐことにあります。人を害し虐げてはならない言うことは、人の子たる者が父の賊虐に遭遇した場合は殺して赦すことがないでしょう。刑罰においてもその根本は同じで世の乱れを防ぐことにあります。およそ民を治める者は賊虐を犯した者は殺して赦すことがありません。すなわちその根本は礼と刑とは同じで、その適用が異なっているのであります。顕彰と処罰とが並び立つことはありません。顕彰すべきところを誅殺することを「濫」すなわち、みだりに刑を執行するということで、厳正な刑法を甚だしくけがすことです。逆にその誅殺すべきを顕彰することを「僭」つまりおかすということです。礼法の秩序を破壊することです。

    もし趙師韞が処刑した事は、ただ単に私怨を以って役人風を吹かして、無実の民を虐げたことになり、州の長官も部下を罰することもせず、検察官も問題にすることも無く、上下馴れ合い、大声を挙げて無実を訴えても聞かなかったのであります。それで元慶は倶に天を戴く事を大きな恥じと思い、確固たる志で自分に打ち勝って、死に赴いても恨むことが無かったのであります。これまさしく礼を守って正義を行ったのであります。裁判を執り行う者、恥じ入る顔色あって謝るにいとまも無いほどでしかるべきであります。しかるにどうして処刑することがありましょう。

    あるいは元慶の父が罪を免れず、趙師韞の死刑執行が法に適っていたならば、それは役人に殺されたのではなく、法によって死んだのです。法を仇とすることはできましょうか。天子の法を仇として役人を殺すのは、道理にもとり勝手な行動でお上をないがしろにするものであります。捕えてこれを死刑に処すことは国法を正しく守っているわけです。どうして顕彰することがありましょうか。

    礼にいう仇とは、思うに無実の罪に陥り、訴えるすべが無い場合を言います。罪を犯して死刑に処せられることではありません。しかも誰それが父を殺したから私が仇を討つのだといって、その根本を論ぜず力のない者を殺し、弱い者を脅かすのみならば、経典の教えに違い、聖人に背くことまことに甚だしいことであります。父が法に基づいて処刑されたのでなければ、子は仇を討ってもよい。父が法に基づいて処刑されたのに子が復讐するのは、切り合い殺し合うことである。仇討ちを反復し合って害が除かれない」と言っています。今もし公羊伝の説によって、元慶の事件を判断すれば、礼の本義に合致するのであります。

    そもそも父の仇を忘れないのは孝であり、死を顧みず出頭したのは義に従ったからであります。元慶は礼を踏み外すことなく、孝にしたがい義に死んだ者であります。まさに道理に達し、道を知っていた者といえます。道理に達し、道を知っていた者がどうして国法を讎とするでありましょう。元慶の事件を担当した者が、彼を死刑にしたのは刑法の真意をけがし、礼法の秩序を壊したことになります。これを国の法典に加えることなどできないことは明らかです。どうか私のこの議論を官に下して、法令に付してください。今後このような復讐事件を断罪する場合には陳子昂の建議に従うべきではありません。」

  憲宗の時、衢州の人の余常安の父と叔父が里人の謝全に殺された。余常安は八歳で、後に仇を討とうと考えた。十七年後、ついに謝全を殺した。刺史の元錫は比較的軽い刑罰にするよう奏上したが、刑部尚書の李鄘は不可とし、ついに死罪となった。

  また富平県の人である梁悦の父が秦果に殺されると、梁悦は仇を殺し、県に出頭して罪を請うた。詔して、「『礼』に「父の仇と天を同じうせず」とあるが、しかし法では殺人は必ず死刑だとある。礼と法は王者教化の手はじめであるのに、この違いがある。尚書省に下して議論せよ」と述べたから、職方員外郎の韓愈は次のように述べた。

    「子が父の仇を討つことは、『春秋』・『礼記』・『周礼』に見え、また諸子や歴史書にも見え、数え切れませんが、それがまちがいだとして処罰するものはありません。なによりも、律にくわしくあるはずなのに、律にその箇条がないのは、文章がもれおちているのでありません。思うに仇討ちを許可しなければ、孝子の心をきずつけ、先王の教訓にそむくでありましょう。仇討ちを許可すれば、人は法律をたてに勝手に人殺しをし、その手はじめを禁止することができなくなるでありましょう。律は聖人に本づいてはいますが、実際に執行するのは、担当の官吏であります。経典があきらかにしていることは、担当の官吏を制御することであります。その義を経典ではくりかえし説いて、その条文を律では深くかくしてしまっている意味は、司法官はもっぱら法律によって判断し、経学の研究者が経典を引用して意見を述べることができるようにしてあるのです。

    『周礼』に、「おしなべて人を殺して義のあるものは、仇討ちをしないようにさせる。仇討ちすれば死刑である」とありますが、義は宜、すなわち道理であります。人を殺して道理のないものは、子が仇討ちできることは明らかであります。 これは国民のあいだで仇同士になったばあいであります。『春秋公羊伝』に、「父が処罰を受けたのでなければ、子が仇討ちをしてもよい」とありますが、処罰を受けたのでないとは、罪が処罰に相当しないことであります。処罰とは、上のものが下のものに対して施行するということばで、国民の殺しあいではありません。また『周礼』に、「すべて仇討ちしようとするものが官吏にとどけ出れば、殺すことは無罪」とありますが、その意味は、仇討ちをしようとすれば、かならずさきに役所に知らせねばならない、そうすれば無罪だということであります。

    仇討ちという名は同じでも、事件はそれぞれちがいます。国民が仇同士になったのであれば、『周礼』にいうごとくであります。現在論議してよいものです。官に処罰されたものであれば、『春秋公羊伝』にいうごとくであります。現在では実行してはならぬものです。また、『周礼』に、仇討ちしようとして、さきに官吏に届け出れば無罪というものは、みなし子やおさな子やかよわいものが、いささかの志を抱いて、仇のすきをねらうようなときは、おそらく、自分から役所に知らせることはできないでしょう。それを現在において判断することはまだできません。そういうことであれば、殺すか赦免するかは、ひとつにしてしまうことはできません。その制度をつぎのようにきめるのがよろしい。「すべて父の仇討ちをしたものがあれば、事件が起こってから、その事件をすっかり記録して尚書省に上申せよ。尚書省でみんなが議論して上奏し、その適当なものを考慮して処置する」そうすれば、経典も律もその本旨を失わないでありましょう。」

  詔によって、梁悦が父の無実を申し上げ、自らを罪するよう求めて役所に出頭したため、循州に流刑とした。

  穆宗の御世、京兆の人の康買得は、年十四歳で、父の康憲が借金の返済をするよう雲陽県の張莅を責めると、張莅は酔っており、康憲を羽交い締めにしてほとんど死ぬところであった。康買得は張拉が敏捷勇猛であるから、たびたび父を救おうとしたが解くことができず、そこで鋤を振り上げてその首に撃ちおろし、三日して張莅は死んだ。刑部侍郎の孫革が建言して、「康買得は父の危難を救おうとしましたが、暴行をしないということは難しく、たびたび解こうとしましたができなかったので、撃ち下ろしたから最悪の事態にはならずにすみました。先王が刑を定めるのに、必ず父子の親情を優先にしてきました。『春秋』では本心にさかのぼって罪を定め、『周書』では「刑罰は適宜によくはかる(『書経』周書 呂刑)」とあります。康買得の孝行や性格は天性のものです。憐れんでお許しを賜れますように」と述べたから、詔があって死罪を減刑された。


    侯知道程倶羅なる者は、霊州霊武県の人である。親を喪うと、穴を掘って墳墓をつくり、二人共自らその労務にあたり、郷人で助けようとする者がいると、ただちに泣いて退けた。家を墳墓の隣につくり、いつまでも哭泣し、侯知道は七年、程倶羅で三年も止まなかった。侯知道は垢や塵が首につもり、夜になるたびに墳墓を守り、裸足になって哭泣し、鳥獣も彼のために悲しみの鳴き声をあげた。李華が「二孝賛」をつくってその行いを表彰した。「初めて人が生まれると、君主がいて親がいる。親に孝行であれば子となり、君主に忠義があれば臣となる。兆しは天命から降って人倫に及ぶ。死に背くのは不義、生を忘れるのは不仁である。過ぎては智就におよび、この礼文をつくった。なんとこの上ないことだろうか侯氏は。大傷や大病となり、手足はたこや腫れ物ができ、それであっても高い墳墓をつくった。夜の暗闇に大風が動き、まるで鬼神と遭遇したかのようだ。泣き声は通常の声ではなく、青空に高く透き通った。粗い布地の斬衰の喪服を着ること三年、独り身となって身を終えた。ああ、程さんよ。その哀しみは同じである。後を振り返ってみると配偶者はおらず、前を見れば隣人がいなくなった」

  また何澄粋という者がいて、池州の人である。親が病で長患いし、世俗では鬼神を尊んで、病んだ者には薬を与えなかった。何澄粋は股の肉を削って与えると、親の病は治った。後に親が没すると、墓に伏せ、幾度となく弔葬の礼で泣き踊り、そのため身体を毀して卒した。当時の人は「青陽孝子」と号し、士は彼のために誄(しのびごと)をつくった者は非常に多かった。

  寿州安豊県の李興もまた優れた行いがあり、柳宗元が「孝門銘」をつくった。以下の通りである。「寿州刺史の臣承思が申し上げます。「九月丁亥、安豊県令が奉ります。管轄する編戸の貧農である李興は、父が重い病にかかり、年月がたち、李興は自ら刃で股肉を裂いて、贈り物だと偽って与えようとしましたが、父は老病ですでに噛むことができず、その晩に死にました。李興は号泣して心を取り乱し、口や鼻から血を流し、土を捧げて墳墓をつくり、涙で濡らしました。墳墓の横に小さな庵をつくり、茅で覆い、その中に伏せ隠れ、喪服を着て弔葬の礼で泣き踊り、昼夜泣いて訴えました。孝心の誠は幽界に達し、神もすぐれたものと思い、家の上に紫芝・白芝が生え、家の中にうまい水の泉が湧き出た。これはすべて陛下の孝が神化を治め、陰がその心にあたって、よくこのようなことになったのでしょう。謹んで考えますに、庶民や身分の卑しい者が勃興すれば、因循は低下し、性格は文字が導くところではなく、鋤や鍬とともに生業をなしていますが、しかしよく彼の後を継いで孝をもっぱらにし、古の烈士を超越し、天の意や神の道を、瑞物で後を残して表彰を表しているかのようです。伏して考えますに、陛下には唐堯神のような徳があり、表彰を加えて、身分の上も下も一致させるべきです。請表その村の門に表彰し、石に刻んで明白にし、徳化の風の優れたものを宣べ広め、後代に示せば、永遠で果てしないものでしょう。臣昧死して上請いたします」と述べ、制により裁可された。銘にいわく、「ああ、その孝を思うに、これは立派である。精密と和美を受けて、あつく天からの教えである経典を守る。泣いて病気による衰弱の枕元に侍り、あの世の世界を黙祷する。刃を引いて自らに向かい、肌を残して形を崩す。ごちそうを勧め、孝心の誠に憂慮する。このような高い行いは、今まで見たり聞いたりしたことがない。傷は大きく痛みを重ねて、大空に泣いた。土を捧げて涙で濡らし、頓首して墳墓をつくった。悲泣しては肉が腐って骨になり、寒きも暑きも家にいた。草木は痩せて枯れ、鳥や獣はぐずぐずとした。種類が違っても、またその悲しみを共有するのだ。はじめ天地があって、孝道はここにおこった。よくその道を修め、史籍に載ってここに世上に登った。昔、帝がいて名を虞といい、孝によって興隆した。仲尼(孔子)が経籍で述べ、これによって重ねて教化した。昔、魯侯(鄭の荘公)は、地下宮で母に会い、また潁考叔がいて、荘公(寤生)に篤い孝行ぶりを称えられた。赫々と名が顕れたる李氏は、本当にこれらの人々と名声を共にした。なんと悲しいことであろうか、孝行の道は。涙を流して隣里は慕った。神のあしあとは芝草・霊泉として残した。帝は重ねて加えられるようご命じになり、またその門を表彰した。身分の上下は統合され、天人は一斉に称賛するであろう。この碑号を建て、永年に渡って称揚せん」と。」


  許法慎は、滄州清池県の人である。わずか三歳で、すでに物事を知っていたが、当時母は病で、乳を与えられず、痛ましく不安の顔色をしていた。ある者がごちそうを与えたが、偽って喜んでみせたが、すぐには食べず、帰ってから母に与えた。後に親を喪い、常に墓を家とし、甘露・嘉禾・霊芝・木連理・白兎の瑞祥があった。天宝年間(742-756)、その村の門に表彰された。


  林攢は、泉州莆田県の人である。貞元年間(785-805)初頭、仕えて福唐県の尉となった。母は老いて衰え、まだ迎えに行く前に病となった。林攢は聞いて、官を棄てて戻った。母が亡くなると、五日間水分を口に入れなかった。自ら敷瓦をしいて塚をつくり、その横を家とし、白いカラスが来て、甘露が降った。観察使の李若初が部下を派遣して実証見聞すると、ちょうどその時露は乾いており、里人は顔色を失ったが、林攢は「天から降ってきた露は、私に禍いするのか」と泣くと、突然露がまた集まり、カラスもまた周囲を飛翔した。詔して二つの闕(門柱)を母の墓前につくり、またその村の門に表彰し、徭役を免除し、当時の人は「闕下の林家」と号した。


  陳饒奴は、饒州の人である。年十二歳で、双親を亡くし、衰弱して喪に服したが、またこの年は飢饉となり、ある者がその弟・妹と別れて自分の命を全うするように言った。陳饒奴は涙を流し、自分ではなく弟・妹を養うよう願った。刺史の李復は優れた人物だと思い、自身の蓄えを給付し、その門に「孝友童子」と書いた。


  王博武は、許州の人である。会昌年間(841-846)、母と一緒に広州に来たが、沙涌口で暴風となり、母が溺死し、王博武も自ら水に投じた。嶺南節度使の盧貞が役人に網を沈めさせると、二人の遺体を発見し、葬った。その墓に「孝子墓」と書き表した。詔して碑文に刻んだ。


  万敬儒は、廬州の人である。三世代同居し、親を喪って墓を家とし、刺して血で仏教経典を写し、手の二指を切断したが、たちまちまた生えてきた。廬州は住んでいるところを改名して「成孝郷広孝聚」とした。大中年間(847-860)、その家を表彰した。


  章全益は、梓州涪城県の人である。若くして父を失い、兄の章全啓に養われた。母が病となると、章全啓は股を割いて母の食事に供したから快癒した。章全啓が亡くなると、章全益は斬衰の喪服を着て、手の一指を切断して報いた。妻を娶らず、堂僕が一室にいるだけで、薬を売って自らの業とし、世間では黄金をつくることができると伝えられた。成都にいること四十年、章孝子と号し、卒した時、年九十八歳であった。


  賛にいわく、聖人が天下を治めるには方法があり、「要は親思いであるだけである」。父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、推してこれを国に広め、国はこれを天下に広め、一善をたてれば百の善行が従い、それが失われると法によって正すのである。そのため「孝は天下の大本で、法はその末である」というのである。匹夫一人であっても、孝を行うのに自分の意志を突き通し、凶盗であってもあえて凌辱せず、天子は感嘆して褒賞を行うのは、孝を教えることによって忠を求めるからである。そのため集めて篇を著した。


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最終更新:2025年06月18日 01:38
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