知らない、世界
暗い部屋の中、誰かがそれを覗いてた。四角い箱に押し込められた小さな映像盤。そこからはキラキラとした光が漏れてて、その誰かはそれに見惚れてた。
可愛いお洋服を着て、怖い魔獣と戦う女の子達。あんなふうになりたいなぁ、私にも出来るかなぁ。箱の中をじっと見つめてその子は胸に憧れを抱いた。
その子は私、トゥル・ミスルトゥ。ありきたりで、そこら辺の石ころみたいな、ちっぽけな女の子。魔法はたくさん使えないし、使えばすぐに疲れちゃう。周りの子たちと比べると少し後ろを歩いてたかも。
だから私は憧れた。夢に見た。いつも暗い部屋の中、箱の中の映像板を、二人で、一緒に、覗き込んで。
可愛いお洋服を着て、怖い魔獣と戦う女の子達。あんなふうになりたいなぁ、私にも出来るかなぁ。箱の中をじっと見つめてその子は胸に憧れを抱いた。
その子は私、トゥル・ミスルトゥ。ありきたりで、そこら辺の石ころみたいな、ちっぽけな女の子。魔法はたくさん使えないし、使えばすぐに疲れちゃう。周りの子たちと比べると少し後ろを歩いてたかも。
だから私は憧れた。夢に見た。いつも暗い部屋の中、箱の中の映像板を、二人で、一緒に、覗き込んで。
――――まって。
少し開かれた窓、カーテンが風に揺れる。私は窓から射し込む光に「朝だよ」って照らされて目を覚ました。
何回目の夢だろう。私が上手に魔法を使えなくなってから少しして、私はこの夢を毎日見るようになった。そして私は何度も繰り返し、気が付くと13歳になっていた。
暗い部屋の中で、私の隣に寄り添っていた子の事を思い出す。夜の始まりから終わりまで、あの子はずっと私の隣に居て、気が付くとすぅっと遠くなっていく。それでもなんだかずっと近くに居るような気がして……。
何回目の夢だろう。私が上手に魔法を使えなくなってから少しして、私はこの夢を毎日見るようになった。そして私は何度も繰り返し、気が付くと13歳になっていた。
暗い部屋の中で、私の隣に寄り添っていた子の事を思い出す。夜の始まりから終わりまで、あの子はずっと私の隣に居て、気が付くとすぅっと遠くなっていく。それでもなんだかずっと近くに居るような気がして……。
「あの子はいったい誰なんだろう」
私は金色の長髪を梳かし、左右でまとめてから、学校の制服に着替えて、やっと居間の扉を開ける。そこにはまだ昨日の、私の為のささやかなバースデーパーティーの飾り付けが残されていた。
「おはよーぅ……」
まだ眠たい目を擦って椅子に座る。机の上には人数分の朝ご飯のお皿、私とパパと弟そしてママの分。ママはいつも朝が早くて、空っぽのお皿を残して仕事に行った。
「おはようトゥル。今日はいつもより遅かったね」
弟の口に着いた食べかすを拭きながらパパは時計の方へ目配せした。
「えっ……」
刻まれる秒針に合わせて鼓動が打たれる。血潮が引き、ひんやりとした感覚が心を支配していく。朝の低体温症というわけではない。確かに血の気が引き、冷や汗が流れている。
「おはよーぅ……」
まだ眠たい目を擦って椅子に座る。机の上には人数分の朝ご飯のお皿、私とパパと弟そしてママの分。ママはいつも朝が早くて、空っぽのお皿を残して仕事に行った。
「おはようトゥル。今日はいつもより遅かったね」
弟の口に着いた食べかすを拭きながらパパは時計の方へ目配せした。
「えっ……」
刻まれる秒針に合わせて鼓動が打たれる。血潮が引き、ひんやりとした感覚が心を支配していく。朝の低体温症というわけではない。確かに血の気が引き、冷や汗が流れている。
「いっ、いってきまーす!」
慌てて靴を履き、朝食のパンを口に加えたまま庭に置かれたピギーバックのハンドルに手を触れる。
そのハンドルに触れた瞬間、スッと身体から何かが流れ出る感覚がする。流れ出した魔力は私からハンドルを伝ってピギーバックへと流れていく。黄色の細身のフレームを持つ人形が立ち上がった。私はその背に背負われるように座席へと腰を沈めた。
「あんまり急ぎ過ぎるんじゃないぞー」
一目散に走り出した私のピギーバック、背後から投げかけられたパパの声が遠ざかっていく。
土の地面から石畳へ、木々と農場から煉瓦造りへ、ミーグリーヒルズの街並みが流れていく。モノクロの世界は私の視界の端を通り過ぎて移ろっていく。胸が次第に苦しくなる、呼吸が途切れ途切れになり始め、意識が宙に浮き始める。
ふらついて道端に寄せた時、後ろから声が近づいてきた。
「おーい、大丈夫ー?」
その声はだんだんと近付いてきて、そして通り過ぎた。そして私のピギーバックは魔力を流していないにも関わらず走り始める。もう一台のピギーバックに手を引かれながら。
「トゥトゥがこんな時間に登校するなんて珍しいんじゃない? 寝坊でもしたー?」
赤髪のショートカットが振動で小刻みに揺れている。
「そんな……感じ……」
彼女は私とは対照的にはつらつとしていて元気に話しかけてくる。だけど今の体調じゃあんまり耳に入ってこない。だけどナンシーが、アンナ・シンクゥがこうしてくれていることに安心が出来る。
慌てて靴を履き、朝食のパンを口に加えたまま庭に置かれたピギーバックのハンドルに手を触れる。
そのハンドルに触れた瞬間、スッと身体から何かが流れ出る感覚がする。流れ出した魔力は私からハンドルを伝ってピギーバックへと流れていく。黄色の細身のフレームを持つ人形が立ち上がった。私はその背に背負われるように座席へと腰を沈めた。
「あんまり急ぎ過ぎるんじゃないぞー」
一目散に走り出した私のピギーバック、背後から投げかけられたパパの声が遠ざかっていく。
土の地面から石畳へ、木々と農場から煉瓦造りへ、ミーグリーヒルズの街並みが流れていく。モノクロの世界は私の視界の端を通り過ぎて移ろっていく。胸が次第に苦しくなる、呼吸が途切れ途切れになり始め、意識が宙に浮き始める。
ふらついて道端に寄せた時、後ろから声が近づいてきた。
「おーい、大丈夫ー?」
その声はだんだんと近付いてきて、そして通り過ぎた。そして私のピギーバックは魔力を流していないにも関わらず走り始める。もう一台のピギーバックに手を引かれながら。
「トゥトゥがこんな時間に登校するなんて珍しいんじゃない? 寝坊でもしたー?」
赤髪のショートカットが振動で小刻みに揺れている。
「そんな……感じ……」
彼女は私とは対照的にはつらつとしていて元気に話しかけてくる。だけど今の体調じゃあんまり耳に入ってこない。だけどナンシーが、アンナ・シンクゥがこうしてくれていることに安心が出来る。
結局私は1限目を保健室で欠科した。これじゃあ遅刻したのと変わりない。モノクロの天井に浮かぶ乾いた陽射しがやけに私を突き刺している。ベッドの上で私は無気力に光を睨みつけて全てを呪った。
どうして私はこんなにも魔力を扱うことが出来ないのだろう。そこにはとても大きな何かがつっかえていて、私はそれを探ることが出来ない。
「この様じゃ中等部まで入れてくれたのに、顔向け出来ないよぉ……」
結局私は2限目の魔法の授業でまた倒れた。
どうして私はこんなにも魔力を扱うことが出来ないのだろう。そこにはとても大きな何かがつっかえていて、私はそれを探ることが出来ない。
「この様じゃ中等部まで入れてくれたのに、顔向け出来ないよぉ……」
結局私は2限目の魔法の授業でまた倒れた。
「おっす! 元気ぃ?」
そして迎えた放課後、私はこんなだからピギーバックでゆっくり帰ろうと準備していた所をナンシーに声を掛けられた。
彼女はこんな落ちこぼれでも友達にしてくれる優しい子だ。ナンシーだったり、パパやママ、それに大切な私の弟。こんなダメダメでも優しくしてくれる人がいるから、まだ笑顔でいようと思える。
だから私は笑顔にして応えた。
「まぁまぁなんとかね」
それを聞くと彼女は何かぱっとして、にっかり笑った。
「じゃーさ、カフェに行こう! 面白いところ見つけたんだ」
「えっでも私あんまり遠くまで動けないよ? 帰りに倒れちゃうのも嫌だし……」
私を友達として誘ってくれるのは嬉しいけど、素直な気持ちと裏腹に声のトーンはだんだん下がっていく。
「そんな気にしなくていいよ。これからも、帰りも、私が引っ張ってあげるよ」
私は多分、また露骨に変な顔をしちゃってたと思う。ナンシーはキョトン混じりに顔をむっとさせて、私をじっと見つめてる。嫌な気分にさせちゃったかなぁ。
「ううん、ありがとうナンシー。一緒に行こ」
だから私はまた笑顔にした。
そして迎えた放課後、私はこんなだからピギーバックでゆっくり帰ろうと準備していた所をナンシーに声を掛けられた。
彼女はこんな落ちこぼれでも友達にしてくれる優しい子だ。ナンシーだったり、パパやママ、それに大切な私の弟。こんなダメダメでも優しくしてくれる人がいるから、まだ笑顔でいようと思える。
だから私は笑顔にして応えた。
「まぁまぁなんとかね」
それを聞くと彼女は何かぱっとして、にっかり笑った。
「じゃーさ、カフェに行こう! 面白いところ見つけたんだ」
「えっでも私あんまり遠くまで動けないよ? 帰りに倒れちゃうのも嫌だし……」
私を友達として誘ってくれるのは嬉しいけど、素直な気持ちと裏腹に声のトーンはだんだん下がっていく。
「そんな気にしなくていいよ。これからも、帰りも、私が引っ張ってあげるよ」
私は多分、また露骨に変な顔をしちゃってたと思う。ナンシーはキョトン混じりに顔をむっとさせて、私をじっと見つめてる。嫌な気分にさせちゃったかなぁ。
「ううん、ありがとうナンシー。一緒に行こ」
だから私はまた笑顔にした。
青空と夕暮れの中間の空、陽の光に包まれて二人は並んでゆっくりと歩いていく。日々モノクロの世界でも、大切な人と一緒に居るときは、ちょっとだけ色付いて見える。
「でさでさーそのカフェの名前、魔法少女のくちづけって言うんだけどさぁ……」
これから行くカフェについて楽しそうに話すナンシー。
「まったく人生観変わっちゃうよなぁ」
私はあまり持ってないから、彼女に話すことは出来ない。それでも彼女が持っている、話してくれるもので私は私の知らない世界を見ることが出来る。それは広い世界を自由に見る事のできない私にとって――――。
「知らない、世界……っ」
「でさでさーそのカフェの名前、魔法少女のくちづけって言うんだけどさぁ……」
これから行くカフェについて楽しそうに話すナンシー。
「まったく人生観変わっちゃうよなぁ」
私はあまり持ってないから、彼女に話すことは出来ない。それでも彼女が持っている、話してくれるもので私は私の知らない世界を見ることが出来る。それは広い世界を自由に見る事のできない私にとって――――。
「知らない、世界……っ」
息を呑んだ。
目の前の風景が犯されていく。極彩色のカーテンが開き、巨大な扉が開いていく。
目の前の風景が犯されていく。極彩色のカーテンが開き、巨大な扉が開いていく。
――――3、――――2、――――1。
色とりどりのカーペットが周囲に敷き散らかされる。踊り子は撓るように緩急を付けて揺らめき、うねり上がる。バイオリニストの大群が騒音を奏で、楽譜が風にたなびいた。
その姿は異形、まるで人間の形を著しく不愉快に変形させた姿。四つん這いは、悲劇のオーケストラを鳴り響かせるように背中のずらりと並んだ穴から蒸気を噴出させる。
「こんな街中に魔獣!?」
なんとかして都市同盟軍に知らせなければとあわあわしていた私とは違ってナンシーは魔獣を睨みつけていた。
その姿は異形、まるで人間の形を著しく不愉快に変形させた姿。四つん這いは、悲劇のオーケストラを鳴り響かせるように背中のずらりと並んだ穴から蒸気を噴出させる。
「こんな街中に魔獣!?」
なんとかして都市同盟軍に知らせなければとあわあわしていた私とは違ってナンシーは魔獣を睨みつけていた。
「呪い魔獣ッ――――!」
ナンシーは制服の懐から一つの注射器のような物を取り出した。それはまるで2本の注射器を1本に束ねたようで、宝石のように輝いている。
彼女は制服の袖を捲り、それを左腕の紋様のような部分に指した。押し子が押され、赤とオレンジの液体が彼女の中へ流し込まれていく。
「一時の夢、幸せな時間、たとえその身と引き換えにしても……」
ほんの一瞬、それとも数時間か、世界が止まったような気がした。
「インッ……ストォーールゥッ!!!」
周囲の極彩色が瞬時に真っ白な閃光に包まれた。
それは先程の光を全て飲み込んでしまったかのようにそこに現れた。闇のような深い黒、艷やかさを持つその美しい黒。全てを魅了して取り込んでしまうのではないかと思えた。そして彼女の足下には血溜まりのように広がる黒いシミ。
まるで闘犬のようなその少女は、私に向かって一言こう言った。
「トゥトゥはそこで待ってて。すぐ片付けるから!」
「ナンシーなのっ!?」
私の驚きを他所に、彼女は高く高く跳躍し、魔獣を見下ろした。
「危ないから下がってて!」
そう言って彼女はまるで抜刀するかのように右手を大きく振り、黒い水滴のような弾丸を無数に召喚した。大気が痺れる、服が、髪が、オーラが、彼女の周囲が逆立ち始める。
「いっけぇ!」
弾丸は雷の軌跡を残して一斉に魔獣へと向かう。しかしそれは魔獣の、まるで壊れた金管楽器のような叫び声に防がれてしまった。空気が鋭く揺れ、地面に押し付けられる。
「ぐっ、今回のけっこうグロテスクだから近づきたくないんだよなぁ」
ナンシーはその両腕に黒い液体で鋭利な鉤爪のような物を形作った。
そして彼女の周囲からさらに、無数の黒い人影が現れる。それはまるでナンシーと同じシルエットのようであり、その数なんと20。
「遠距離攻撃が効かないなら、さっさと懐切り刻んでやる!」
周囲に鼻をつく強烈な臭いが漂い始めた。その臭いに思わず顔を覆う。
「この臭い、油だ!」
「でえぇぇぇぇぇえりゃあっ!」
ナンシーと黒い影達は魔獣を囲んで一斉に攻撃を始める。それに対し魔獣は手足を振り回し、影を潰していく。閃光と油が飛び散った。バイオリンの音はまだ響いていて、彼女を斬りつけている。
「やけにタフなんだけど……っ」
ナンシーが苦戦しているとき、魔獣の右腕がぶくぶくと、醜く変形し始めた。
「ナンシー、危ない!」
気が付くと叫んでいた。そして肥大化した腕が破裂して巨大なバイオリンの弓のような物が飛んでくる。それを彼女は間一髪で避けた。が、次の矛先が向かうのは。
私は腰を抜かしてその場に尻もちをついた。巨大なバイオリンの弓は私のすぐ隣に突き刺さっている。
「トゥトゥ!?――――ぐあっ!!」
彼女の視線が魔獣から外れたその瞬間、四つん這いのオーケストラは好機と言わんばかりにその腕で弾き飛ばした。勢い良く壁にぶつかり、苦しそうな空気を漏らした。
「ナンシー!」
私が駆け寄ろうと立ち上がり掛けた時、上の方から声が聞こえた。
「動かないでっ!」
そのあまりに激しい圧倒に私は硬直してしまった。そして聞こえてきた囁くような、それでいて単調な詠唱。
「火、射、単、T1、補正2、上位……」
周りがさっきまでとは違うような、熱のゆらめきに満たされていく。そして、
「放て」
その掛け声を合図に巨大な火球が魔獣へと降り掛かった。魔獣は油の弾丸の時のように音圧でそれを防ごうとしたが、火の勢いが弱まるだけで、それを止めることが出来ない。着弾の瞬間、魔獣は勢い良く燃え盛った。全身に付着したナンシーの油に引火したのだ。
悶え苦しみ、泣き叫ぶ哀れな鳴き声、そしてスタンディングオベーションのような拍手喝采、だんだんとフェードアウトしていき、最後には自分達が元いた場所に戻っている。
私は急いでナンシーの場所を確認した。自分から数メートル先で起き上がろうとしていた。
「ナンシー、大丈夫!?」
私が駆け寄った時にはもう立ち上がっていて、そこに落ちていた歪な魔石を拾っていた。
彼女は笑顔を私に向けて言ってみせた。
「全然大丈夫。それよりカフェ」
「そうだよね、こんなことがあったんだし後日日を改めて……」
そう私が言いかけた時、きっぱりと彼女は口にした。
「話さなきゃいけない事が出来た。今すぐ行くよ」
とても真剣な眼差しで私を見つめる彼女、私はとても信じられないという様子で目を見開いた。
「ぇ、ええーー!?」
そして微妙な雰囲気、二人並びまた歩き出したけれど、私達を助けてくれた人の姿はどこにも見当たらないのでした。
彼女は制服の袖を捲り、それを左腕の紋様のような部分に指した。押し子が押され、赤とオレンジの液体が彼女の中へ流し込まれていく。
「一時の夢、幸せな時間、たとえその身と引き換えにしても……」
ほんの一瞬、それとも数時間か、世界が止まったような気がした。
「インッ……ストォーールゥッ!!!」
周囲の極彩色が瞬時に真っ白な閃光に包まれた。
それは先程の光を全て飲み込んでしまったかのようにそこに現れた。闇のような深い黒、艷やかさを持つその美しい黒。全てを魅了して取り込んでしまうのではないかと思えた。そして彼女の足下には血溜まりのように広がる黒いシミ。
まるで闘犬のようなその少女は、私に向かって一言こう言った。
「トゥトゥはそこで待ってて。すぐ片付けるから!」
「ナンシーなのっ!?」
私の驚きを他所に、彼女は高く高く跳躍し、魔獣を見下ろした。
「危ないから下がってて!」
そう言って彼女はまるで抜刀するかのように右手を大きく振り、黒い水滴のような弾丸を無数に召喚した。大気が痺れる、服が、髪が、オーラが、彼女の周囲が逆立ち始める。
「いっけぇ!」
弾丸は雷の軌跡を残して一斉に魔獣へと向かう。しかしそれは魔獣の、まるで壊れた金管楽器のような叫び声に防がれてしまった。空気が鋭く揺れ、地面に押し付けられる。
「ぐっ、今回のけっこうグロテスクだから近づきたくないんだよなぁ」
ナンシーはその両腕に黒い液体で鋭利な鉤爪のような物を形作った。
そして彼女の周囲からさらに、無数の黒い人影が現れる。それはまるでナンシーと同じシルエットのようであり、その数なんと20。
「遠距離攻撃が効かないなら、さっさと懐切り刻んでやる!」
周囲に鼻をつく強烈な臭いが漂い始めた。その臭いに思わず顔を覆う。
「この臭い、油だ!」
「でえぇぇぇぇぇえりゃあっ!」
ナンシーと黒い影達は魔獣を囲んで一斉に攻撃を始める。それに対し魔獣は手足を振り回し、影を潰していく。閃光と油が飛び散った。バイオリンの音はまだ響いていて、彼女を斬りつけている。
「やけにタフなんだけど……っ」
ナンシーが苦戦しているとき、魔獣の右腕がぶくぶくと、醜く変形し始めた。
「ナンシー、危ない!」
気が付くと叫んでいた。そして肥大化した腕が破裂して巨大なバイオリンの弓のような物が飛んでくる。それを彼女は間一髪で避けた。が、次の矛先が向かうのは。
私は腰を抜かしてその場に尻もちをついた。巨大なバイオリンの弓は私のすぐ隣に突き刺さっている。
「トゥトゥ!?――――ぐあっ!!」
彼女の視線が魔獣から外れたその瞬間、四つん這いのオーケストラは好機と言わんばかりにその腕で弾き飛ばした。勢い良く壁にぶつかり、苦しそうな空気を漏らした。
「ナンシー!」
私が駆け寄ろうと立ち上がり掛けた時、上の方から声が聞こえた。
「動かないでっ!」
そのあまりに激しい圧倒に私は硬直してしまった。そして聞こえてきた囁くような、それでいて単調な詠唱。
「火、射、単、T1、補正2、上位……」
周りがさっきまでとは違うような、熱のゆらめきに満たされていく。そして、
「放て」
その掛け声を合図に巨大な火球が魔獣へと降り掛かった。魔獣は油の弾丸の時のように音圧でそれを防ごうとしたが、火の勢いが弱まるだけで、それを止めることが出来ない。着弾の瞬間、魔獣は勢い良く燃え盛った。全身に付着したナンシーの油に引火したのだ。
悶え苦しみ、泣き叫ぶ哀れな鳴き声、そしてスタンディングオベーションのような拍手喝采、だんだんとフェードアウトしていき、最後には自分達が元いた場所に戻っている。
私は急いでナンシーの場所を確認した。自分から数メートル先で起き上がろうとしていた。
「ナンシー、大丈夫!?」
私が駆け寄った時にはもう立ち上がっていて、そこに落ちていた歪な魔石を拾っていた。
彼女は笑顔を私に向けて言ってみせた。
「全然大丈夫。それよりカフェ」
「そうだよね、こんなことがあったんだし後日日を改めて……」
そう私が言いかけた時、きっぱりと彼女は口にした。
「話さなきゃいけない事が出来た。今すぐ行くよ」
とても真剣な眼差しで私を見つめる彼女、私はとても信じられないという様子で目を見開いた。
「ぇ、ええーー!?」
そして微妙な雰囲気、二人並びまた歩き出したけれど、私達を助けてくれた人の姿はどこにも見当たらないのでした。