黒田官兵衛(戦国武将)

登録日:2025/01/22 Wed 23:54:00  
更新日:2025/02/15 Sat 19:04:33
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黒田官兵衛(くろだかんべえ)とは、戦国時代~安土桃山時代の武将である。
諱の「黒田孝高(よしたか)」や号の「黒田如水(じょすい)」でも知られる。

【生没年】天文15年11月29日(1546年12月22日)~慶長9年3月20日(1604年4月19日)
【出身地】播磨国*1

経歴

※混乱を避けるため、本稿では隠居以前の事績は「官兵衛」、隠居後は「如水」の名を用いて解説することとする。

幼少期~小寺家家臣時代

播磨国御着城主・小寺(こでら)政職(まさもと)の家臣で、当時姫路城城代であった黒田職隆(もとたか)の子として生まれる。
元服後は「小寺祐隆(すけたか)」と名乗り、ほどなくして「小寺孝隆(よしたか)」を名乗った。本来ならば姓は「黒田」と名乗るのが正しいが、祖父・重隆の代に小寺家に養子入りしていたため、「小寺」の姓を名乗ることを許されたのである。
16歳(以下、数え年)で主君・政職の近習として仕官し、22歳で父親の跡を継いで姫路城代となった。これと前後して政職の姪・櫛橋(くしはし)(みつ)*2(1553~1627)を正妻として娶っている。光との間には松寿丸(長政)と熊之助*3の二子を設けたが、官兵衛はこの時代の武将には珍しく側室を置かず、生涯光一人を愛し続けたといわれる。

有岡城幽閉

さて、官兵衛が生まれる前から播磨の情勢は非常に不安定であった。
応仁の乱後、播磨の守護は赤松氏が返り咲いていたが、その後は守護代の浦上氏の台頭と征伐、出雲の尼子の侵攻、摂津の三好の侵攻……と相次ぐ動乱を収拾出来なかった赤松氏の衰退は明らかで、権威は地に落ちていた。

小寺家はそれでも赤松氏に友好的な数少ない重臣であったが、その赤松宗家が家督をめぐり父の晴政と嫡子の義祐の親子で分裂してしまう。てか見方によって義祐を擁立した小寺や浦上のクーデターとも言われる。
これは晴政の死で終息するが、晴政派の龍野城主、赤松政秀はここから独自に足利義昭や後ろ盾の織田信長に接近。
赤松宗家の統制を外れる行動は義祐の怒りを買い、小寺や備前の浦上宗景に政秀討伐を命じるが、政秀は義昭に泣きつく……も、義昭と信長が派遣した軍勢の動きはいまいち冴えず、政秀自身も職隆と官兵衛の親子の奮戦と巧妙な用兵の前に青山・土器山の戦いで大敗する。
この争いは赤松氏の体力を削いだだけに終わり、西の毛利の脅威を前に播磨の小勢力は三々五々織田に臣従、織田氏は播磨へ介入してゆくこととなる。

官兵衛も主君の政職とともに織田配下の羽柴秀吉のもとにつき、秀吉の中国の毛利家(輝元。元就の孫)征伐に協力した。
だがここで、思わぬ事態が発生する。
官兵衛の後方支援にあたっていた織田家臣で摂津有岡城主・荒木村重が突如毛利家と内通し、信長に反旗を翻したのである。

官兵衛は村重を説得するため有岡城に向かうが、そこで捕らえられ、11か月間ものあいだ劣悪な環境の牢に幽閉される
そのことを知らなかった信長は、なかなか戻ってこない官兵衛にしびれを切らし、
官兵衛まで村重に通じて俺を裏切りやがった!裏切り者への見せしめとして村重の一族郎党を皆殺しにしたように、人質として預かってるあいつの息子の松寿丸を殺せ
と秀吉に命じた。
しかし、この時秀吉の家臣・竹中半兵衛が「その件につきましては、私にお任せください」と任務を買って出た。
半兵衛は官兵衛の友人で、「官兵衛が裏切るわけがない」と信じていたのだった。
そうして、半兵衛は松寿丸を自身の居城に匿い、松寿丸と年恰好の近い、病死した子供の遺骸から首を斬り取り、それを信長に差し出すことで信長の目をごまかし、松寿丸の命を救った。

やがて、有岡城が落城し、城主の村重が逃げ出したことで官兵衛はようやく牢から救出された。
しかし、劣悪な環境がもとで片方の足が不自由になり、引きずって歩くようになっていたため、には乗れず輿に乗って移動することを余儀なくされた。
そのうえ頭にいくつも瘡ができて髪が抜け、頭髪が薄くなって髷を結うことができなくなり、常に頭巾をかぶって生活していたという*4
村重を破ってから、信長は官兵衛投獄以降の一連の事実を知り、
官兵衛は村重と通じて俺を裏切ったわけじゃなかったんだ。それなのに、松寿丸を殺すなんて、俺はなんて取り返しのつかないことをしちまったんだ…
と涙ながらに後悔していたが、半兵衛の手で松寿丸が救出されていたことを知ると、信長は感涙にむせび、半兵衛に感謝の意を示して命令違反を不問に付したという。
しかし、半兵衛は信長の感謝の意の言葉を聞くことができなかった。というのも、官兵衛の救出より前に、半兵衛は病により既にこの世の人でなかったのだ。
官兵衛は息子の命を救ってくれた半兵衛に感謝し、黒田家の家紋に竹中家の家紋(黒餅)を用いた。

秀吉家臣時代

自身が牢に入っている間、主君の政職が織田家から毛利家に鞍替えしたことを知ると、官兵衛は恩義ある織田家、ひいては羽柴秀吉に仕え続けることを選び、政職と袂を分かつ。
とはいえ、これで小寺家と縁が切れたわけではなく、のちに政職の子・氏職が職にあぶれて浪人となっていたのを知ると、「かつての恩義」という名目で食客として召し抱えている。
その後の毛利攻めでは秀吉の専属参謀となり、戦術面でも講和面でも存分に手腕を発揮した。
秀吉は信長の存命時から官兵衛に絶大の信頼を寄せており、困ったことがあれば「悪い、ちょっと知恵を貸してくれ!」と官兵衛に相談し、事態を解決していた。
その最中、秀吉にとって最も信じたくなかったバッド・ニュースが舞い込んでくる。いわゆる「本能寺の変」である。

主君の突然の死に慟哭する秀吉。官兵衛は
信長様が亡くなられた今、このオレはどうやって生きていけばいいんだ…
と嘆いている秀吉を勇気づけるため、このように進言した。

「ご運が開けましたな。今こそ、秀吉様の天下取りの好機でございます」

その言葉に奮い立たされた秀吉は毛利との講和を成功させ、すぐさま京に戻り、山崎合戦で仇敵・明智光秀を滅ぼした。
無論、この山崎合戦に官兵衛も参加し、参謀としての戦略的手腕をいかんなく発揮した。
この頃にはキリスト教に入信し、「ドン・シメオン」の洗礼名を賜った。長政も入信し、「ダミアン」の洗礼名を賜っている。
天正十三年の四国征伐やその翌年の九州征伐にも参戦し、特に九州征伐においては軍奉行として転戦し、十二万石を与えられて中津川を居城とした。
その際もともと豊前にに土着していた城井氏を滅ぼしている*5
こうして、官兵衛は秀吉を「天下人」にまで押し上げたのである。

しかし、先だっての「秀吉様の天下取りの好機」発言のせいで、天下統一事業を一通り終えて冷静になった秀吉から
あいつ、あんな状況で天下のこと考えられちゃうのかよ。何か怖えーよ…
めっちゃ頭いいから今まで大事にしてきたけど、天才過ぎてちょっと嫌だな…
と思われてしまい、徐々に、しかしあからさまに秀吉から避けられるようになってしまう。

隠居~関ヶ原の戦い

官兵衛も自身が秀吉から避けられていることを感じ取り、家督を長政に継がせ、自身は剃髪して「如水」と名乗った。
あからさまに避けられるようになっても秀吉への忠誠心は変わることなく、小田原攻めや朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参陣するが、秀吉からかつてのように全幅の信頼を寄せられることはもうなかった。

やがて秀吉が亡くなり、慶長五(1600)年に関ヶ原の戦いが勃発する。
如水は「太閤殿下が身罷られた今、天下を手中に握るのはこの俺だ」と考えていた。
石田三成殿の西軍も徳川家康殿の東軍もどちらも強者がそろってるから、泥試合になるだろうな。一応、最終的には東軍が勝つだろうけど、東軍だってもうへとへとに疲れ切ってるはずだ。そこで西軍も東軍もいっぺんに叩き潰せば、あっぱれ天下は俺のものだ
ただ、家康に怪しまれないようにするため、長政を東軍に参戦させることで疑いの目を背けさせようとした。*6
長政は俺の息子ながら、はっきり言ってバカだ。バカなりにとりあえず東軍として参戦させておけば、徳川殿からガタガタうるせえこと言われないで済むだろ
そうした工作を行い、自身はあくまでも「東軍」の武将として西軍の武将・大友義統(おおともよしむね)(宗麟の子)を破り、九州の制圧に乗り出した。
関ヶ原の戦勝を聞いてからは空白地帯と化した北九州の城を次々と落とし、同じ東軍の加藤清正や鍋島直茂*7と共に立花宗茂を降伏させ、次は薩摩の島津氏の討伐というところまできていた。

しかし、ここでまたしても如水にとって予想しえない事態が発生する。
関ヶ原合戦が、たった一日で戦闘が終了してしまったのである。
その原因は様々かつ諸説あるので一概になんとも言えないが、如水を驚かせたのは、この勝利に長政が大いに貢献した事であった。
戦前は福島正則ら中立派諸将との交渉、小早川秀秋・吉川広家ら西軍諸将への調略を行い、本戦においても家臣が島左近を討ち取るなど獅子奮迅の活躍を果たし、その功によって長政は家康から筑前52万石を与えられた。だが2世武将の悲哀というか、福岡藩の祖である長政より官兵衛の方が「福岡の偉人」と尊敬を集めている
もともとは小早川秀秋の居城であった名島城に住んでいたが、中津城で培った築城のノウハウを活かし、福岡城を築城。現在の福岡県の基礎を築く。*8
皮肉にも息子の大手柄により野望が潰えてしまったのであった。
結局島津征伐は家康により停戦命令が出されて撤退した。*9
家康は如水にも恩賞を与え、上方や東国での領地加増を打診するが、如水はこれを辞退し、中津での隠居生活を送った。

晩年

晩年は穏やかに過ごし、有馬温泉で湯治をしたり、細川幽斎と文通したり、近所の子供たちに自宅の庭を遊び場として開放し、遊びに来た子供たちにお菓子や果物をあげたりするなど、悠々自適な隠居生活を送っていたが、側近たちにやたらと
なんで俺の命令したとおりのことができねえんだ?命令した俺がよっぽどの天才か、てめえらがよっぽどのバカかのどっちかだな
と意地悪を言って困らせるようになった。
ある日、隠居先を訪ねてきた長政は父親に
親父、ちょっとそれはやりすぎじゃねえか?
と苦言を呈した。
息子に対し、如水はこのように諭した。
これは一種のパフォーマンスなんだよ。今の時代ってさ、『殉死』っつって、家臣たちが主君の後を追って死んじゃうのが流行ってんじゃん?もし今まで一生懸命俺のために頑張ってくれた家臣がさ、俺の後追って死んじゃったら、この黒田家は消滅しちまうんだよ。でさ、俺がこうやって偏屈なジジイのフリすることで、家臣たちは『あのクソジジイ早く死なねえかな』って思って、次の当主であるお前についてきてくれるようになるってわけ。これは父ちゃんなりの、この家を残すための最後の一芝居ってわけよ、お分かり?

慶長9(1604)年、京都伏見藩邸において死去。享年59歳。
死の間際、「キリスト教施設への寄進」と「キリスト教徒ならびに神父への優遇」「家臣の殉死禁止」を遺言した。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。
如水の辞世の句である。

その葬儀は仏教形式で行われた後、改めてキリスト教形式で行われた。
…長政がのちに「禁教令」により、棄教して迫害者に転じ、領内の神父やキリスト教徒を弾圧しまくったのはまた別の話。

後の長政の死後、その子供(官兵衛の孫)である忠之が改易寸前の大騒動*10を起こしたりするものの、福岡藩は幕末まで存続することとなる。

逸話・小ネタなど

  • 関ヶ原合戦後、小早川秀秋をそそのかして西軍の結束を崩壊させた功績により家康から筑前52万石を与えられた長政がウッキウキで如水のもとに帰宅してきた。
聞いてくれよ親父!家康様が『お前のおかげで関ヶ原で勝てたよ』と何度も俺の手を握って感謝してくれたんだよ!
あ、そう。よかったね。一応聞くんだけど、その時家康殿はお前のどっちの手を握ったの?
え?右手だけど
じゃ、そん時お前の左手は何をしてたわけ?(=天下を掠め取る機会だったのに何でその時家康公を殺らなかったわけ?)
あっ…

この逸話は歴史好きにはよく知られているが、出典先は大正五年の「黒田如水伝」である。さらに出典をさかのぼれば、江戸時代中期に出版された『夢幻物語』が初出である。
この書物は前書きで「村の古老から聞いた話だからホントの事かどうかはアヤシイよ(超訳)」とまで断りが入っており、その内容も史実に交じって「あの世から千利休が蘇って一緒に茶会した」というファンタジックな話もあったりする。
そこから、この逸話は如水の性格を基にしている、リアリティな創作である可能性が高いという。

そもそもの話、関ヶ原後に長政が家康を討ち取ったとして、それで天下を掠め取れるかと言うとまあ無理であるし、それを分からない官兵衛でもないだろう。まず間違いなく長政も死ぬし。
その点においても疑わしい逸話であり、もし真実であるとしてもせいぜい「息子のせいで自分の計画が上手くいかなかった皮肉」程度だろう。

  • なかなかの倹約家であったようで、例えば、ウリの皮や魚の骨など、食材の普通なら捨ててしまうような部分でも工夫して調理することで無駄なく食べていたし、ある日梅干しが膳に出た際は種を取っておき、それを庭に植えて梅の木を育てた。また、着物の破れた部分やほつれた部分も縫い直し、最後まで着通すほどでもあった。また、家臣には「下賜」ではなく、「下げ渡し」を行うことが多かったという*11
    • 官兵衛が家臣に「なんでただでくれないんですか?」と尋ねられた時、「本当は一生懸命な奴にはただでくれてやりたいんだけどね、あげられるものには限りがある。そうすると貰えなかった者が不満に思うでしょ?だからいくらかでも払ってもらえば、銭のない奴や興味のない奴は買わないと思う。そのほうが多少なりとも不公平にならずに済むんじゃない?」と言ったらしい。
    • しかしケチなわけではなく、その反面、合戦など「ここぞ」という時には金を出し惜しみすることはなかった。関ケ原の合戦の際には兵士の調達のために惜しげもなく財産を費やし、支度金を2回取りに来た(当然ながらこれは詐欺行為である)家臣にも、笑顔でもう一度渡している。一説には「倍の働きをしてくれるなら、一向に構わないよ」と言ったとも。

  • 前述のように、有岡城から自身を救い出してくれた竹中半兵衛にはとても感謝していた。
    しかし、官兵衛出獄後にはすでに半兵衛は亡くなっていたため、感謝の意を表明することができなかった。そのため、官兵衛が烏帽子親を務め、半兵衛の遺児・重門(しげかど)の元服の儀式に参列することで半兵衛の恩に報いた。

  • 毛利家の小早川隆景とは中国攻めの攻防を繰り返すうちに互いの力量を認め合ったのか、毛利が豊臣政権下に降ったのちは誼を結んでいる。
    • 一説には中国大返しの際に羽柴軍の追撃を主張する毛利家諸将を抑えてくれたことに感謝していたともされている。
    • また、官兵衛に対し「君は頭が良すぎるあまり、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも少なくない。私は君ほどの切れ者ではないから、熟考してから判断するので、後悔することが少ない。」と助言したと言われる。
      のちに隆景が亡くなった際には、「これで日本に賢人はいなくなった」とその死を嘆いている。

  • 出家後の名前である如水の名前には様々な説がある。一つは中国の老子の言葉である「上善如水(上善なること水の如し)」という意味。水のように臨機応変に形を変え、自らは低い水流の位置にいるという意味、もう一つは旧約聖書に登場するモーゼの弟子「ヨシュア」をもじったものとされる。前者に関しては謙虚アピールしているにも関わらず後世で官兵衛が野心家キャラで通ってしまっているのはなんとも…。遺言に「キリスト教施設への寄進」と「キリスト教徒ならびに神父への優遇」とあるように、官兵衛の中ではキリスト教への信仰と保護は最後まで捨てきれなかったのかもしれない。

  • 晩年の官兵衛の象徴ともいえるあの大きな赤いお椀のような兜は「銀白檀塗(ぎんびゃくだんぬり)合子形兜(ごうすなりかぶと)」といい、官兵衛の死後に重臣であった栗山家が預かっていたのだが改易寸前のお家騒動が発生し栗山家は盛岡藩へとお預かりになってしまう。そのためか現在は岩手県盛岡市にあるもりおか歴史文化館が所有している。

  • 大分県中津市には「上如水」という地名がある。彼が九州の関ヶ原ともいえる石垣原の戦いで馬揃え(出陣式)を行った地であることが由来なのだが、この地はもともと「助部(すけべ)」と呼ばれていたらしく地元民が「言いづらい」として改称したのだとか。

  • 雇った家臣を「手打ち(ミスの弁済として処刑すること)」にしたことは一度もなく、自らの手で家臣を死なせなかった武将でもある。家臣を叱る際も、極力教え諭すような言い方をし、また叱った場合は直後に簡単な仕事を任せて名誉挽回の機会を与える等、現代基準で見ても「理想の上司」と言える人物であったらしい。

  • 秀吉が官兵衛を避け始めた時期、秀吉が家臣から「もう少し官兵衛殿に褒賞を与えてやってください」と窘められたときに「お前ら何もわかってないな。あいつにこれ以上褒美を渡して、オレの代わりに天下を乗っ取られたらどうするんだよ」と返答したという逸話が残っている。
    しかし、秀吉が家臣たちに宛ての書状に「もしものことがあったら秀長*12と同じくらい、官兵衛を頼りにしろ」と書かれたものが残っているため、秀吉は官兵衛を多少警戒こそすれ、完全に官兵衛への信用を失っていたわけではなかったのでは?とする意見もある。

  • 福岡県の「福岡」の由来は黒田氏のルーツである備前国福岡(現岡山県瀬戸内市)から。現在の県名にまで名前を残した黒田家はまさに福岡県のご当地の英雄といっても過言ではないだろう。

【創作における黒田官兵衛】

余りにも頭が良く、また野心家めいた言動から良くも悪くも冷酷で腹黒、もっと言うなれば本能寺の変や関ヶ原の合戦の黒幕といった悪役にされがち。
一方では上記の竹中半兵衛とのエピソードから、一見冷徹だが情に厚いキャラ付けにされることもある。
官兵衛は半兵衛と並んで「両兵衛」と呼ばれた逸話があるがそれは後世の創作。とはいえコンビとして使いやすいために特に創作ではその関係と呼ばれ方は積極的に使われる。
なお各種作品では若いながらも才覚溢れる半兵衛に対して青年、もしくは老人に近い官兵衛…という形で描かれる事が多いが、史実では半兵衛のほうが年上である半兵衛が若作りしているという形で押し通す作品もあるが。
ファンからは愛称として「クロカン」と呼ばれることもしばしば。
善玉、悪玉にせよ「大物」として扱われており、彼が登場すると物語が引き締まる。だが息子の長政の扱いはピンキリである。

2014年放送、脚本は前川洋一、主演は岡田准一
大河ドラマの主人公に抜擢されたことで黒田官兵衛の知名度が大きく上がることとなった作品。
物語前半では近年の大河の主人公らしく戦嫌いだった主人公が、有岡幽閉で足を痛めてからは大きく様変わり。悪い顔して悪辣な策をささやく暗黒軍師と化し、視聴者を驚かせた。
また、岡田准一はこの作品を皮切りに、2017年の映画「関ヶ原」で石田三成役を演じたり、2023年の大河ドラマ「どうする家康」で織田信長役を演じるなど、歴史ものの役にもかかわることとなる。

手取川の戦いの後に羽柴家が中国地方方面の司令官となってから登場。
近江生まれの播磨育ちということで、教養からくる冷徹さと反骨精神からくる情熱を併せ持った羽柴家の軍師的存在として描写される。

2では老将モブであったが3から本格的に登場。
病人かと疑われるくらいの肌白さに、謎の水晶玉を操る如何にも怪しげな男。
3は天下泰平を願いながらも戦いの「火種」を消すために、敵はもちろんの事、仲間…それどころか最悪の場合は自分の命まで消えてもいいとする徹底的な合理主義者として描かれている。
一方でやはり半兵衛との出会いと別れから、4では冷徹さはあれど他人を損得勘定で見ることは無くなっていき、やがて…。
5ではキャラを一新したが、やはり半兵衛、そして秀吉との絡みは多い。
詳しくは該当項目を参照。

  • 仁王
初代「仁王」にのみ登場。時系列が関ヶ原前後のため老人の姿。
信長も秀吉も理から外れた行いに走ったことを嘆き、いっそのこと自分が天下を…という野心を覗かせはするものの、自身の老い先が短いことも悟っており、天下を見極める役目を息子の長政に託している。
「仁王2」では装備品と守護霊のみ続投し、本人は出てこない。
入れ替わりで半兵衛が登場しており、松寿丸の死を偽装するエピソードは「人に化けるムジナを捕まえ、松寿丸の死体に化けさせる」という仁王シリーズらしい妖怪を絡めた内容にアレンジされている。

  • 戦国大戦
武力が低く、統率が高い。
相手にデバフを与える計略を持つという如何にもな軍師タイプ。
隠居後の姿として「黒田如水」名義のカードも登場。
そちらは半兵衛をリスペクトしたかのような計略、台詞回しをしており、如水という名前も深竜水徹(半兵衛の戒名)から取ったという説が取られている。
他にも多数の戦国数奇が登場している。

また群雄伝の「武将列伝」の1人に数えられており、彼の半生が体感できる。
黒田家の愉快な家臣たちも登場した。
ちなみに彼のシナリオを書いたのは、織田の章をプレイして今川義元が史実通り毛利新介に討ち取られた事に感動してSEGAに入社したシナリオライターであり、その事もあってか非常に気合の入った出来となっている。
勝手にキャラクター増やすなと怒られもしたらしいが。

  • 英傑大戦
戦国大戦の流れを組む英傑大戦でも登場。
知力は同コスト帯最高、武力は同コスト帯最低という極端なスペックを有し、白兵戦においては相当の不安を持つ。
その分計略『琥煌の謀陣』は敵の武力を下げる陣形を30カウントにわたって展開出来るうえ最高効果で放てば知力低下効果のオマケまでついてくる、局面を選ばない強力なもの。
官兵衛が例えられた「張良」も登場しており、敵にいる場合は特殊な台詞がある。
一方で息子の長政との特殊演出では上記の家臣いじめの件に触れられ「家臣にきつく当たるのはしつけるため」と言い訳をするも「ならば庭先で子どもたちに好き勝手遊ばせるのはやめてください」と返されるという微笑ましい一面を見せている。

  • 戦国BASARA
3』より登場。
捕縛監禁されていたという史実から手枷に巨大な鉄球を繋がれており、それを振り回すことで武器としている。
筋骨隆々とした体躯で鉄球をぶん回すという典型的なパワータイプとして描かれており、知略家という史実のイメージとは打って変わった姿で暴れ回る。
ただ作中でも史実に因み物事の本質を見通しているかのような慧眼を覗かせるが、これまた史実に因んだ(説得しに行ったら監禁された、天下取りに動いたら息子の調略で頓挫した)不幸属性によってことごとくうまくいかないというコメディ要素の強いキャラクターとなっている。
そのため自身が主役のエピソードでは「どんな不幸に見舞われようが前向きさを失わず突き進む三枚目」としての描写がメインだが、一方で本人以外が主役のストーリーでは「不本意な謀略に手を染めたことを後悔して責任を一人で抱え込んだり、そうなるよう仕向けた相手に殺意を向ける」といった暗い面も窺える。
また、鉄球を引きずっているせいでぎくしゃくした走り方や、ぼさぼさの髪で両目が隠れて見えないデザインなどは、足や頭に後遺症を負った有岡城幽閉のエピソードを意識した要素とも取れる。

  • 信長の野望
当然のように皆勤。
知力がトップクラスで統率・政治も高い知将寄りハイバランス型武将。ただし知力は半兵衛より少し低い数値のことがほとんど。あっちがチート数値なだけとも言うが。
武勇系能力はやや低いがそれでも60~80弱はあり、お前本当に足負傷してるのか?と言わんばかりの数値がある。
半兵衛と比べると統率と知力で少し劣るものの、政治で大きく上回り内政でも仕事が出来るため使い勝手が良い。また寿命が短すぎる半兵衛に対し官兵衛はそれなりに長生きしてくれるのでそういった点でも扱いやすい。
数少ない欠点は野心系数値の悪さぐらいの優秀な武将となっている。
前半シナリオでは小勢力ながらも後の名城である姫路城を本拠とする赤松家に所属しており、当然彼が生命線となる。近年の作品では大河ドラマの影響もあり黒田家臣がそこそこ高い能力で実装されているので実質黒田家プレイとなるが層も悪くない。
また、関ヶ原シナリオのある作品の場合は家康、三成に次ぐ第3の主人公という立ち位置として、九州で暗躍する姿が見られるなどシナリオ面でも非常に優遇される。革新では三年以内に九州全土を統一すると言うミッションシナリオがあるのだがあまりの難易度の高さは語り草。

信長の忍びと同じ世界観で描かれる、官兵衛を主人公に据えたスピンオフ。
日本一の軍師を目指す策略家であるのと同時に、ご先祖様が目薬商人だったという逸話から秘伝の目薬軟膏を推しまくる、というキャラ付け。
頭はいいのだがせっかちな気性のため、光や半兵衛に知性を評価されながら性急さを危ぶまれる場面も。

  • 桃鉄シリーズ
特定の駅を独占すると現れる歴史ヒーローとして出現。
姫路は赤穂浪士に、中津は福沢諭吉に追われがちなためか博多を独占すると出現する。
その内容は調略により物件を無料で入手できるか、水攻めで相手を半年近く足止めするというもの。
どちらも非常に強力な効果ではあるが、博多の独占が困難なのが難点か。

割と初期から存在しているガチャ限定キャラ。
…なのだが、知名度の高さとは裏腹にこれでもガチャのハズレ枠となってしまっており、非常に弱い。
ステータスは星4キャラとしてはそこそこ高水準なのだが、取り柄としてはこれくらいしかないと言っても過言ではなく、アビリティはシールドブレイカーのみであり、ストライクショットは触れた敵に氷塊で追撃するというものだが何と発動まで28ターンもかかってしまう。
当然現環境でシールドブレイカーは殆ど役に立たず、アンチアビリティも全く無いので役に立つ場面は皆無。更に言うと上方修正も一切行われた事が無いので極めて不遇な立ち位置となっている。なので排出されたらすぐ売られるのがオチである。石田三成といい伊達政宗といい初期の武将キャラ達は何故ここまで名前負けしているのか



追記、修正は天下の大勢を見極めてからお願いします。

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最終更新:2025年02月15日 19:04

*1 現在の兵庫県

*2 これまでは下の名前は「てる」と読むのが通説だったが、近年「ミツ」とふりがながふられた書状が見つかっていることから、「みつ」と読ませることが増えている

*3 長政の弟。朝鮮出兵の際に、乗っていた船が転覆する事故でわずか15歳で亡くなっている

*4 このせいで秀吉から「黒田の瘡頭」とからかわれたとか

*5 最初は長政を討伐に向かわせたものの失敗、その後騙し討ちに近い形で滅亡させられている

*6 尤も、送り込むも何もこの時点での黒田家の当主は長政であり、また官兵衛は過去に三成に嵌められかけたことがあることから、実は官兵衛は武断派の長政以上に反三成な武将だったのではないかという説もある

*7 ちなみにこの鍋島直茂、当初は西軍についていたのだが、東軍からの銃弾の雨あられの中、敗走するさなかのどさくさ紛れで立花宗茂を攻略し、戦闘終結ののち、家康に「私は初めから東軍でした」とアピールし、佐賀の本領安堵に成功するという、なかなかエグいことをやっている

*8 福岡(=現在の天神)よりずっと前から存在していた港町である博多は商人の自治権がかなり強い街なのでそれを見張るように平時の行政の街を作ろうとしたという理由が挙げられる。

*9 これは黒田や加藤がこれ以上台頭するのを防ぎたかったとかわざわざ島津を倒す必要を感じなかったとかあまり戦いを長期化させたくなかったからだとかいろいろ説はある。もっとも官兵衛も立花宗茂と共に降伏勧告を行うなどそこまで乗り気ではなかったらしい

*10 忠之の藩主就任早々、家臣・栗山大膳が忠之の素行の悪さを戒める手紙を送ったことで次第に忠之と栗山ら宿老が対立するようになり、お家騒動へと発展した事件である。もともと長政は忠之の粗暴さと狭量さを見ていたので彼を藩主にするつもりはなく、三男の長興を藩主に就任させようと考えていたが、栗山の必死のとりなしで、お家騒動の発生を心配しながらも、忠之を藩主に就任させたのだった。このお家騒動は、長政の心配が現実になってしまった結果である

*11 「下賜」はただでまるごとくれてやること。「下げ渡し」はいくらかのお金と引き換えに品物を与えること。

*12 秀吉の弟。兄からの信頼が高く、よく兄を政治面や軍事面で補佐した