細川幽斎

登録日:2011/09/07 Wed 00:52:04
更新日:2025/03/06 Thu 23:13:31
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細川幽斎/藤孝
1534−1610
戦国・安土桃山時代の武将、文化人。京都の東山に生まれる。

戦国では随一と言える文武両道を極めたヤンデレ忠興の父にして、第79代内閣総理大臣「細川護熙」のビッグパパ*1である。

剣術、弓、和歌*2茶道、蹴鞠、囲碁、料理、水泳、有職故実を極め、
さらには力持ちでもあり、京都の路上で暴れ牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話もある技のデパート。

父親は三淵晴員とされる。一説によると足利12代将軍義晴の落胤、つまり義輝義昭とは異母兄弟にあたることになる。


幼いうちに、父の兄である細川元常の養子となり、数多くある細川家の支流の一つの和泉上守護家の当主となる。
幕臣として室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えたが、1565年にその義輝が幕臣の松永久通*3三好の一党暗殺される前代未聞の……いや百二十年かぶりの……事件が発生。
藤孝は三好に軟禁されていた義輝の弟であり、後に第15代将軍足利義昭となる覚慶を救出し、京都を離れて六角義賢や朝倉義景などに将軍擁立を頼んで奔走するも成果を結ばなかった。
しかし、朝倉から織田信長に仕官していた友人である明智光秀の伝手で義昭と信長を引き合わせ、義昭は信長の助けを得て京都に上洛を果たし、将軍の座に就く。
その後、義昭と信長の関係が悪化すると信長に恭順する姿勢を見せて義昭の動向を密かに信長に報せ続け、義昭が追放された後は正式に織田家の家臣となる*4


織田家の一員となってからも光秀との友好関係は続き、嫡男の嫁に光秀の娘(後の細川ガラシャ)をもらった他、戦働きでも光秀の与力として活躍していたが、
1582年に光秀が本能寺の変を起こすと、上役であり、親しき友であった彼からの新政権構築への協力を拒否*5*6
剃髪して家督を忠興に譲り*7、名を「幽斎玄旨」と号して隠居した。
この事態に慌てた光秀は、天下を細川ファミリーに譲るとまで言って藤孝に留意を迫ったが、藤孝はそれを一蹴。
さらに、同じく明智家と近い関係にあり、自身の娘が嫁いでいた一色氏が光秀に呼応すると、羽柴秀吉の命を受けて細川氏は一色氏を謀殺し、秀吉に恭順の意を示した。
なお、一色氏に嫁いでいた娘は救出されたが、自身の夫や家臣たちを謀殺されたことに恨みを抱き、当時家督を継いでいた兄の忠興の顔に短刀で斬りつけたという。


秀吉の家臣となった幽斎は、島津家の内紛処理やらでちゃっかり秀吉の信頼を掴み
後に秀吉が天下統一を果たした後も、秀吉側近の文化人の一人として彼に重用されたが、一方で徳川家康とも親交を結んでいた

そして、秀吉死後の慶長5年(1600年)、以前より親交のあった徳川家康に接近して息子と共に東軍に属し、居城の田辺城に籠城。
その軍は五百足らずで、しかも大半が忠興の弟興元夫人はじめ女子供や昔幽斎の世話になった他家の家臣。
西軍方一万五千の総司令、丹後福知山城主小野木公郷は『かほどの小城3日もあれば』と言ったと伝わる。

しかしいざ戦いとなると、幽斎を歌の師とする藤掛永勝、小出吉政らは空鉄砲しか撃たないなど積極的には戦おうとしなかった他、
そもそも山々を背にした田辺城は東は伊佐津川、 南に沼沢、北に舞鶴湾を有する要害であり、籠城兵の激しい抵抗もあって落城には一ヶ月以上かかった。

さらに幽斎は古今集の正当な解釈、いわゆる『古今伝授』の伝承者(その前は三条西実枝)であったため、
時の帝、後陽成天皇の弟にしてこれまた弟子の一人、八条院宮智仁親王が天皇を動かして幽斎の助命に勅使を出した。
朝廷が一武将の助命に勅使を出すこと自体異例中の異例といえる事態なのだが、
これは『古今伝授』の次の伝承者への引き継ぎが完了していなかったため、「幽斎を死なせれば『古今伝授』が失われる」という恐れが招いたもので、
これ以前に朝廷から開城を勧められた際に幽斎が(策略かどうかはさておき)開城を拒否して討ち死に覚悟であることを告げていたこともあり、
結果的に「朝廷が一武将の助命に勅使を出す」という異例の出来事が起きたのであった。

結局、田辺城籠城戦は五十余日に及びついに幽斎の退去と丹後亀山城に移るという事で決着がついたが、
これによって一万五千の田辺城攻略軍は二日後の関ヶ原の戦いに間に合わず、幽斎は東軍率いる徳川家康に多大な貢献を果たしたのであった。

そして関ヶ原の戦いは東軍たる徳川方の大勝で終わり、細川家は丹後から豊前小倉三十万石、のち肥後熊本五十万石の大大名に変貌。
幽斎は京都吉田に居を構えて悠々自適の晩年を送り、1610年に享年77歳でこの世を去った。



彼を取り扱った作品

後半のキーパーソンとして登場。義輝側近時代に主人公の一人明智光秀と知り合い無二の仲となり、その後もう一人の主人公織田信長が義昭を持ち上げたため一気に大名の一角にして光秀の協力者的武将となる。
だが義昭の様子が怪しくなるとしたたかに立ち回り難を逃れ(小説ではこの時「幽斎」の号を思いつく)、「天皇」という伝統を持ち上げてくれた信長へと寝返る。
そして本能寺の変を起こした光秀もその後の対応のまずさから見捨て、「幽斎」となった彼が戦後信長の供養のため連歌の会を開くシーンで本作の幕は下りた。
後書きではさらにその後の関ヶ原時の概略も記されており、「至芸と言っていい生き方の名人」と評されている。
ちなみに作者は執筆時、当時の細川家当主(細川元首相の父親)とも交流している。

信長が義昭を奉戴するのに前後して登場した幕臣。かつての同僚松永久秀とは犬猿の仲。
文武両道の万能人であるが、キャラ付けは歌人としての面がクローズアップされており、ことあるごとに一首詠もうとする面倒くさい御仁。
このせいで出陣までに時間がかかったり、普段の話し方までも五七調になってしまっていたり、話が進まず部下たちが苦労したりしているが、名作ができると能力が跳ね上がる。
戦術指揮や武勇を称賛されても顔色一つ変えなかったのに、詠んだ歌を誉められて思わずにやけた一幕も。
前述した細川護熙氏のご先祖様とあって、顔が似せて描かれている。

  • 池端俊策『麒麟が来る』(眞島秀和)
光秀の親友として、室町幕府幕臣として序盤から終盤にかけて登場。光秀に対しては美濃にいた頃から気にかけていた。また、冷徹な兄の藤英と違って感情的になる一面があり*8、その欠点も光秀とマッチしたのか、長らく光秀と協力関係を築いていた。幕府の実情に諦めを抱いたことで、幕府に殉じることにした兄と袂を分ち、織田家に仕官。兄の処刑もあってか、織田政権には自らの感情はともかく忠実に仕える一方、足利将軍に固執し、筋は通っているが相手をイラつかせるような意見を相手の反応など知ったことかと正直にいう姿勢の変わらなかった光秀に対しては懐疑的な姿勢を持つように。


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最終更新:2025年03月06日 23:13

*1 血統としては、藤孝-忠興-立孝-行孝-有孝-興生-興文-立礼(斉茲)-立之-斉護-護久-護立-護貞-護煕 となる。

*2 秀吉から茶菓子として海苔を振った炒り豆を出され、「これで一句詠んでみよ」と命ぜられたところ、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまめ」と詠み、秀吉をうならせたという逸話がある

*3 松永久秀の嫡男

*4 この時、義昭に加担した兄の三淵藤英は一度は許されたものの、息子共々自害を命じられた

*5 確かに光秀とは親しかったが、出自が土岐源氏とはいえ浪人だった光秀と名門細川氏の血を引く藤孝である。与力として光秀の配下に下るのを潔しとはしなかったと可能性は充分にあるだろう

*6 これに動揺した光秀は天下を平定したら忠興に政治を任せるとまで懇願したと言われるがそれでも加担をすることはなかった。とはいえ、麒麟が来るで藤孝を演じた眞島秀和氏もインタビューで言及していた通り、この決断でガラシャが後に放免され、明智光秀の血が後世に残ったのは否めないだろう

*7 忠興は和泉上守護家とは別系統の奥州家の養子になっていたため、系譜上は幽斎の和泉上守護家の家督を継いだのは忠興の弟の幸隆

*8 不審な死を遂げた子供の死を痛むなど