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宗教

登録日:2010/12/20 Mon 14:39:39
更新日:2026/10/03 Sat 18:12:32
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(一)生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いを叶えてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念をいだきその教えに従おうとする心の持ちよう。
また、それに関連して行われる儀礼的行為。「心の救いを―に求める/―心・―性」

(二)仏教・キリスト教・イスラム教など、全世界に分布している「宗教(一)」。また、その総称。
「新興―・国家―・―音楽・―裁判・山岳―・民族―」


私は神の存在は信じるが宗教は信じない



注意
ここより先には編集者の思想、偏見、意図が入り込む余地があります。
決してそういうものだ、という確定事項ではありません。また宗教における価値観を否定、非難するものでもありません。



宗教(しゅうきょう)と一口に言ってもその種類は様々。
何を崇拝するか、何をすべきか、何をしてはいけないか等の決まり事も様々。
しかもある宗教ひとつを取り出してみても、救われ方やすべきこと、あるいは信仰の対象さえ違うこともある。これらを宗派と呼ぶ。

有名な宗教と宗派をあげるなら
  • キリスト教(カトリック、プロテスタント、ギリシア正教会 等)
  • 仏教(浄土宗、真言宗、日蓮宗 等)
  • イスラム教(スンナ派、シーア派 等)
このあたりだろう。
これらは世界宗教ともいい、世界中のあらゆるところに分布している。


もとは一つであったはずがなぜ分裂するか。大抵は「理解の仕方、あるいは見解の違い」である。
これが宗教間問題に発展すると、さらに面倒なことになる。


宗教間の違いは、例えば複数の神を信仰するものと唯一の神を信仰するものでは、すでに前提が違う。

「神」という万能の偶像を作り上げてそれを崇拝するものと、
人間が抗えないもの(≒自然)を神という絶対者に置き換え崇拝するものでは、そもそも足場が違う。

なぜ見解に違いがおこるのか。
それは創始者が布教をする際に言葉を変えて信者になることを薦める、あるいはすでにある教えを信者が改めて解釈する、等々枚挙に暇がない。
一番大きな理由として、布教をするには口伝である、あるいはそういった外的要因でしか伝達ができないといった部分にあるだろう。

逆に信者が全て同じ理解、同じ見解をもっていれば、それは布教ではなく洗脳である。
しかしある程度の一致は組織上必要であり、誰もが自分勝手な意見を言い出すとそれは分裂の原因となるので、ほどほどのバランスが必要である。



宗教が布教される理由は普通、
「わたしは救われる為の偉大な答えを得た。わたしだけが救われるのでは、皆に悪い。救われるべきはわたしのみでなく、人類であるべきだ」
という隣人愛からであるはず。
そもそも宗教が「悪意から救われるため」の、悪く言えば逃げ道であるから、もしそれ以外の理由であるならばそれは「宗教を広めたいから広める」というような、まるで信者が増えれば増えただけ得がある、というように本末転倒なものになりかねない。

なので、布教をする機会があるならば「それを信じ実践することで何が得られるか」をじっくりと説明したあとで答えを聞くべきだろう。
宗教を信じる自由があるとともに、それは宗教を信じない自由も示しているのだから。



宗教の自由といっても、誰もが平等にどんな宗教でも信じてもいいという訳でもない。
政教分離の原則があり、宗教と国家は決して交わってはいけないとする国(むしろ国家≒宗教とする国もあるが、日本は憲法で定められている)もあるので、そういったところでは国家に属する人間はある程度そういった面で自己を殺す必要もある。

ただし政教分離とは「国家権力が特定の宗教を優遇も弾圧もしてはならない」というものであり、政治家が宗教と縁のない人生を送ることを強いるものではない。
あくまでも一個人として(政治家としての立場を持ち込まないで)関与することには特に問題がなく、何かにつけて「公人か私人か」を報道機関が確認したがるのもそういうところに理由がある。
また、宗教者である人が政治活動に参加したり、何らかの政治的意図を含んだ発言をしたりすることも政教分離論とは無関係である。あくまでも公権力の行使のされ方が主たる問題であり、公務員たる立場にない宗教者に対して持ってもいない権力の使いようを問うのがいかにトンチンカンな議論であるかは言うまでもない。

なぜ政教分離が実施されるのか。
それは宗教によって他人の殺害を認めるだけでなく、推奨あるいは命令することも可能になりうるからである。
なお、日本の場合は戦後日本の精神的支柱を取り去って「骨抜き」にしようとした、当時のアメリカの思惑も絡んでいる。

とは言え、日本でもこの規定はあいまいで、政治家が「個人」としてでなく「政治家」として宗教施設を参拝したり、地元の神社の信者総代として活動したりすることもある。



宗教における大きな問題といえば、先に述べた国家による弾圧や虐殺、戦争の原因となったことだろう。
日本で見れば靖国神社関連、国家に属するはずの政党を支援している団体が宗教に関連している等、宗教にうるさく関与していない国であるのに問題は発生している。

宗教を信仰する人間がいるように、そうでない人間もいる。
そのような思想を持つことを無宗教と言うが、完全に無宗教である人間はあまりおらず、また無神論者とも区別される。
無神論者は神を否定する(というか、神の存在しない宗教も存在する)が、無宗教者はそもそも神とか仏とか、そういった類いを気にするのではない。
また日本人で無宗教を謳う人物は、大抵無宗教ではなかったりする。
というのも意識の問題であり、本人に自覚がなくとも実家が檀家であれば仏教徒扱いになるし、そもそもことあるごとに神社や寺に行き願い事をするあたり、ある種複数の宗教を浅く信仰しているともとれるからだ。


外国、特に厳格な祭政一致を押し出している国で無神論や無宗教と言うと、
〈善悪の判断基準が無い→ 何をするかわからない→ 距離を置くべき人間〉
と認知されることがあるので要注意。宗教の教義は多くの場合社会規範そのものであるが、それがないということはまともな教育すら受けていないと受け取られるためだ。
無宗教ですと名乗ったら「こいつは人の墓に小便引っかけるようなマネしても平気な奴なんだな」くらいに思われることもあれば、特に反共産主義的な思想が根強い国では、マルクス主義が宗教を否定していたこともあり、「無宗教=敵」、早い話がスターリンやポル・ポトの同類と認知される恐れもある。
とはいえ、現在の西欧や北米の諸国においては、特定の宗教に強く傾倒しない「Nones(ナンズ)」という人々が増えているので、そのような国では比較的多くの人々が無宗教であることにアレルギーを持たなかったりする。とはいえ、敬虔な宗教右派の人々もいるため、あまり主張しすぎるのは褒められたことではない。
日本人は宗教的に対して非常に曖昧なため、「無宗教」と答える人が少なくないのでこういった誤解を受けやすい。
何か特殊な理由があるのでない限り、どうせ親の家には仏壇くらいあるだろうからブッディスト(仏教徒)とかシントイスト(神道信者)と言っておいた方が無難な場合が多い。
あえて正確に言うなら「特定の信仰は持たないが、日本土着の自然信仰思想のもとに教育を受けた」といったところか。


たとえ違う宗教であっても、宗教信者であるというだけで無宗教よりは安心と言うことも多いのだ。
なんだかんだで、世界宗教と言われているような宗教は一般人に無理のない平和的な教義のものが多い。
メジャーな宗教を信仰しているだけでも「人を大事にする信仰を持っている人」という印象を持たせることができるのである。



日本ではオウム真理教や創価学会といった一部の過激な宗教の存在、また伝統的な宗教でも厳かであるはずの結婚や供養一つに莫大なお金を要求する等といった拝金主義な活動が目立つ(当然、運営や維持する上で必要な資金もあるので一概に法外とは言えないが)等の理由により、宗教には否定的な人が多い。
かと言って、節度ある範囲で信仰している人を「宗教を信じているから」と言うだけで、面と向かってカルトだの基地外のクルクルパー扱いしたり、いじめや村八分等で迫害したりするのも、それはまた信教の自由を侵害していると言える。

かつて2000年代においては、オウム真理教の爪痕が残っていた社会情勢や創価学会などの新宗教の問題がインターネットの過渡期の中で少しずつ浮き彫りになったことから、国民の宗教アレルギーが非常に強かった。
しかし2020年代の日本人は諸外国の「宗教=社会規範」という風潮を見聞きしており、宗教系インフルエンサーの節度ある布教活動などで「宗教者=同じ人間」という印象が国民の間で強まっている。

よくある間違いとして、「宗教法人には全く課税がされない」という思い込みがある。
収益を得た手段によっては法人税の課税があり*1、所有財産に対する税金も宗教法人だろうが関係なく課税されるものがある*2。
また、不動産取得税や固定資産税が非課税であることも挙がるが、これらの税は無条件で非課税になるものではなく、宗教活動と関係ない用事に使わないことを説明できる書類や、そもそもの法人としての活動実態を説明できる書類を役所から求められ、必要に応じて実地調査も受け入れなければならない。
これらの税は他種の法人でも減免規定*3が色々あり、いかにも宗教法人の特権みたいなことを言うと、無知をさらして大恥をかく。

さらに言うと、宗教者個人の給与・報酬に対する所得税や住民税は普通の就業者と同じ条件であり、むしろ1952年(昭和27年)の省庁通達がいまだ有効なせいで宗教活動専従者は雇用保険と労災から排除されている分、公的保険に関しては一般的なサラリーマンよりも待遇が悪い。

ちなみに、宗教法人がその本来的活動(宗教活動)で得た収入に法人税の課税が無い理由は、法人税の目的と課税の客体がそもそも何であるのかを正しく理解しているとすんなり納得できる。
しかしその説明を長々ここで行うのはアニヲタwikiの趣旨とは到底相容れないので、Wikipedia「宗教法人」等もよく参照されたい。

最近では、「救い」だの「恩恵」という単語を「自己実現」だの「自分磨き」という言葉に変えただけの自己啓発系ネットワークビジネスなんてものが注目を浴びているが、集会の様子は完全に宗教である。
そして、「宗教ではない」「法律は犯していない」などと言い訳を並べながら芸能人や著名人がガッツリ関わっているのもお約束である。



創作活動では、当然ながら「作者の宗教に対する価値観」が異なるので、フィクションでの扱われ方も多種多様である。
  • たとえ困難に直面しても、人々を教え導くリーダーを務める
  • 教祖たちは私財を投げ打ってでも問題に対処する
  • 教義的な問題で主人公と敵対するが、信者もとい市民の安全が第一なので、場合によって主人公と停戦して共闘する
    • あるいは最初から異教徒たる主人公を黙認していたり、場合によっては本当に善意から主人公へ「宗教で生きる者」の視点からの助言をくれたりする
というキャラクターもいる一方で、
  • ただえさえ困難に直面しているのに、終末論を唱えて人々を一層混乱させる
  • 金さえ積めば同じ信者であっても処刑するなど、組織が末端まで腐り切っている
  • 狂信者ばかりであり、教えのためには市民もとい異教徒を躊躇なく惨殺する
というものもある。
ただし近年では、現実の場において誤った理解による宗教差別が問題視されていることもあり*4、後者を採用する場合にはあまり実在する宗教を連想はしないようなものと設定されることも多め。
逆に作中世界観のうえでは邪教扱いでも、「世界観説明の上では主流の宗教は割と取り返しがつかないくらい腐敗している」などの設定がある場合、視聴者・読者の視点では邪教の方が比較的マトモな部分を多く兼ね備えている、なんてこともある。
18禁シェアード・ワールド『魔物娘図鑑』なんかはわかりやすく、同作の「魔物娘系の宗教」が清廉なものかと言われると困るにしても主神系の宗教が内部腐敗やそれによる非人道的行為の正当化などにより詰んでいる・遅かれ早かれ魔物娘陣営により廃教状態に追い込まれることは他ならぬプロジェクト言い出しっぺのクロビネガ氏が何度か明言しているし、別途存在する二次創作ガイドラインさえ守っていれば主神系教会への攻撃の描写自体はセーフとなっている*5。

変わり種として、「主人公またはプレイヤーが宗教を立ち上げる」なんてものもある。
国家間の戦略シミュレーションゲームなんかでは、「戦争で直接勝利」「経済的に制圧して勝利」という他に「宗教で支配して勝利」なんてものがある。(例:Civilization)
また、近年流行りの異世界モノ作品で、異世界転生した主人公が地球の知識やら科学知識などを駆使して信者を集めていくというものもある。(例:神無き世界のカミサマ活動)



追記・修正は新たな宗教の開祖になってからお願いします。

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最終更新:2026年10月03日 18:12

*1 法人税法施行令5条に指定された業種を行った場合は、課税の他、収支報告を税務署に提出する義務が生じる。また、宗教活動それ自体と経理を完全分離しなければならないなど制約も多い。

*2 例えば自動車税。地方税法に規定された免除対象者に宗教法人は入っていない。

*3 鉄道関係の設備など、営利法人でも認められる場合がある。

*4 これに加え、悪魔の詩翻訳者殺人事件、海外だがシャルリー・エブド編集部襲撃事件などを念頭とする「防犯上の都合」もある様子。

*5 ただし「(アンデッド系の)魔物化以外での死者を出してはいけない」というガイドラインとの兼ね合いから、「魔物娘にカチコミされて中にいる人がアーンされる」以外だと本格的な武力攻撃描写は難しい様子