ルーマニア革命(1989年)

登録日:2014/07/11 Thu 22:38:35
更新日:2024/12/03 Tue 16:33:36
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1989年6月 ポーランドで「連帯」が選挙で勝利
 1989年8月 東ドイツで「ピクニック事件」発生
  1989年10月 ハンガリー共産党解党
   1989年11月 ベルリンの壁崩壊
     同年同月 チェコスロバキアで「ビロード革命」が成功*1
――――そして1989年12月。



ルーマニア革命(1989年)とは、ルーマニア時間の1989年12月21日に同国首都のブカレストで勃発した反共産革命で、このルーマニアを独裁者として牛耳っていたニコラエ・チャウシェスク大統領が政権を追われた出来事。
1987年のポーランドから発生した一連の東欧革命において、唯一武力によって政権が打倒されたことでも知られている。


前史


オスマン帝国から独立して以来王政を敷いていたルーマニアであったが、第二次世界大戦でソヴィエト連邦に占領され、他の東欧諸国と同様に共産主義を採るソ連の衛星国家となった。

ところが、共産主義国家の親玉のソ連で独裁者スターリンが1953年に死去。後継者となったフルシチョフは56年にスターリン批判を行い……と1950年代半ばに政治的に動揺を見せる。
言うまでもなくこの動揺はソ連一国に収まるものではなく、ハンガリーでは民衆の蜂起と弾圧に繋がり(ハンガリー動乱)、中国や北朝鮮、ユーゴスラビアやアルバニアといった国々はソ連から距離を取り非同盟路線に傾斜する。
そして油田を有し、エネルギーや外貨を巡りソ連の顔色を伺う必要が無いルーマニアもまた「忠実な衛星国家」からの路線変更を模索し、西側との経済的な接近も望み始めていた。
チャウシェスクが権力を握った直後の1968年、「プラハの春」でチェコスロバキアへの軍事介入を行ったワルシャワ条約軍の中に、ルーマニアの姿が無かったのはその象徴といえるだろう。

ソ連「どうせうわべだけっしょ」(鼻ホジ)
アメリカ「あれ、これつけ入るチャンスじゃね」

ルーマニアの行動をソ連は軽く見ていたが、アメリカ以下西側諸国は東側の内部分裂にも繋がるであろう隙を見逃すわけがなかった。
IMFやWTOの前身であるGATTに加盟し、ニクソン訪問を受け入れ、西ドイツを承認し、ロサンゼルスオリンピックにも参加するルーマニアへの「見返り」として行われた西側の融資は130億ドルにものぼったという。

その一方で、ルーマニア国内ではチャウシェスク夫妻や一族*2による専制独裁主義政治の色合いが強くなっていた。
大規模事業や奢侈といった独裁体制における典型的な腐敗や、前述した融資の返済で経済が疲弊し、国民の不満は日に日に高まっていた。
1980年代に入ると、ソ連ではゴルバチョフによる政治改革運動「ペレストロイカ」が起こり、東欧では冒頭に挙げたようにポーランドやハンガリーなどでの民主革命が実現。
ルーマニア国民も民主主義社会への転換を公然と当時の同国政府に対し要求するようになったが、チャウシェスクは秘密警察などを使ってこの運動を徹底的に弾圧し、さらに国民の政権に対する反発を高めるという負のスパイラルに陥り始めていた。
英雄的な新体操選手のナディア・コマネチも、81年のアメリカ遠征でコーチの何人かがそのまま亡命してしまい、彼女自身も厳しい監視の末に革命直前に亡命する事になった事件からも、この時期のルーマニアの社会情勢が垣間見える。

おまけに国内では作物が軒並み凶作となり飢えに苦しむ農民がいるなかで、政府は何と虎の子の貴重な作物を輸出する(飢餓輸出)という暴挙に出た。
天然ガスや原油の産出国でもあったルーマニアであったが、ただでさえ一般市民は経済が疲弊した結果、冬場の燃料不足で寒さに凍えていたのに、この燃料まで国外に放出。それも安値で。
作物と地下資源の輸出による利益は全てチャウシェスク一族が独占し、国民への富の再分配を行なわなかったため、国内はますます飢餓状態に陥るという最悪の状況に陥っていた。
え? 元はといえば西側の対外債務のせいじゃないのかって? 革命が起きる半年前くらいには完済していたみたいだよ。
でも飢餓輸出は革命直前まで続いたんだけどね。


発端


革命が勃発する5日前、12月16日。
ルーマニア西部、隣国・ハンガリー系住民が多く住むティミショアラと呼ばれる地域。
この地域で政治改革を訴えていたハンガリー系牧師ラースロ・テケシュは、12月15日を以って隣国ハンガリーへと追放される事が決定していた。

これに反対する地元住民が抗議デモを行なったところ、秘密警察を含む治安警察部隊「セクリタテア」がデモ隊に発砲し、多数の死傷者を出す惨事が発生した。
ハンガリー系住民が暮らす地域はセクリタテアに猛反発し、隣国ハンガリーからの義勇部隊までもが越境してセクリタテアを攻撃して、この地域から警察部隊が追い払われる事態となった。
チャウシェスク直属の部隊が、その地域の住民から追い出されたことはすぐにルーマニア全土に知れ渡った。


官製集会開催の強行


チャウシェスクはこの程度では自分の国民からの求心力は失われていないとして、側近に対しルーマニア全土から人を首都ブカレストに集めさせ、「チャウシェスクを賞賛する国民集会(いわゆる官製集会)」を開催するよう指示を出した。

だが、国民の不満はすでに頂点に達しており、こんな状況で全土から国民を集めて集会を開いた場合、どのような形であれ政府やルーマニア共産党の庁舎や党本部などに集会に参加している市民がなだれ込み、政権が崩壊することは目に見えていた。

側近はチャウシェスクに対し、
もう年も押し迫っていますし、もうすぐクリスマスです。
 国民はクリスマスや新年を楽しみにしていますから、年明けに開いてはどうでしょうか?
とやんわりと開催しないようにチャウシェスクに進言した。

チャウシェスクは理解を示すものの、
君の意見はもっともだが、どうしても開いて年内のうちに混乱を収束させたいのだ」と、開催の強行をこちらもやんわりと指示を出した。

この側近は後述の事態を生き延びたので、「あぁ、この政権はクリスマスくらいには終わる。これは最悪の判断だ」と思ったと後に語っている。



革命の勃発


運命の12月21日。
首都ブカレストにある大統領宮殿前広場に、ルーマニア全土から集められた国民による官製集会の開催を強行する。
だが、チャウシェスクの演説が始まってまもなく、広場の片隅でティミショアラでのセクリタテアが行なった発砲に抗議するハンガリー系住民を友人にもつルーマニア人の若者2人が、手製の爆弾(爆竹とも)2つを爆発させる。
この若者らはその場で射殺されたが、広場はパニックとなり集会は解散させられた。
この時、狼狽するチャウシェスクと妻・エレナの映像が国営ルーマニア放送により放送されており、ますますチャウシェスクの求心力は失われた

この後、この集会に参加していなかったブカレスト市内に住む学生や集会に参加していた国民が合流し、一挙に反政府・反チャウシェスク集会へと発展、セクリタテアがデモ隊に向けて実弾を発砲し、多数の死傷者が出る事態となった。
この事態を重く見たルーマニア正規軍の戦車部隊が緊急出動し、デモ隊に落ち着いて行動するよう拡声器で要請を行うも、セクリタテアが発砲をやめずに戦車にまで銃弾を撃つ始末で、セクリタテアの統率まで崩れ始めていた。
正規軍はデモの鎮圧を武力で行おうとはせず、セクリタテアの銃弾を戦車で受け止めるなど消極的な被害防止にとどまっていた。

事態の深刻さに懸念したチャウシェスクは国防大臣に対し、ブカレストに展開している戦車部隊でデモ隊を鎮圧させるよう命令するも、国防相は「我々国防軍は国民に銃口を向けることは出来ません」と命令を拒否した。
国防相はすぐに大統領執務室からセクリタテアの幹部に連れ出され、同日夕方には国防省大臣執務室近くのトイレで銃で頭を撃ちぬかれた状態で、国防副大臣に発見された。

政府は「国防相は拳銃自殺した」と発表した*3が、これに対し国防省や陸空軍は、「チャウシェスクに殺されたに違いない」とする無線をブカレストに展開している戦車部隊に伝え、これに現場指揮官が激怒。
ことここに至ってルーマニア正規軍は革命勢力につくことを決定。戦車の砲身をセクリタテアに向け、砲撃を開始。ここに市街戦が勃発した。



※セクリタテアについて


このルーマニアの秘密警察部隊であるセクリタテア(セクリターテ)は、ルーマニア国内にある孤児院から優秀そうな子供を引き取ったり拉致したりして、社会から隔絶された施設で訓練を受けさせ、チャウシェスクやルーマニア政府への徹底的な忠節心や思想教育を行い、洗脳状態にして隊員を作り上げていった存在。
セクリタテア隊員にしてみれば、政権が崩壊することはすなわち死を意味するため、国民側に寝返った正規軍部隊との銃撃戦にてまさに命を捨ててまで激しい抵抗を続けざるを得なかったのだ。

なお、当時のルーマニアにはセクリタテア以外にも複数の秘密警察機関が存在したことが明らかになっているが、それらを明記すると複雑になること、そして当時の一般ルーマニア国民はその事を知らず一括して「セクリタテア」と呼んでいた事から、本稿でもそのすべてを「セクリタテア」と呼ぶ事をお許し頂きたい。


戦場と化したブカレスト


戦車部隊が市民・国民側についたため、戦いの構図はセクリタテアVS正規軍・革命勢力となった。
死に物狂いのセクリタテアが捨て身の攻撃で革命勢力を苦しめたが、戦況は徐々に革命勢力へと傾く。
革命勢力は共産党本部や大統領宮殿に突入し、施設を確保した。

共産党の非主流派も次第に革命勢力へ合流し、22日になって、「救国戦線評議会」を革命勢力が樹立。国営ルーマニア放送のテレビ、ラジオ両放送局を掌握する。
チャウシェスク夫妻は国家非常事態宣言を出して事態を収拾しようとしたが、国防軍全軍が国民側についたため頓挫。
チャウシェスク、持てる限りの宝石を抱えた妻エレナ、そして若干名の政権上層部は、大統領宮殿からヘリコプターで脱出を図った。
しかしながら、革命勢力についた国営ルーマニア放送改め自由ルーマニア放送にその様子を撮影されており、脱出劇は国民どころか全世界に筒抜けであった

一方のブカレストでは市街戦が激しさを増したため、評議会が抵抗するチャウシェスク一派やセクリタテアをテロリストと名指しして市民に対し、武器をとって応戦するようテレビやラジオを通じて要請。市民らもライフル銃や散弾銃などで武装して応戦した。
これに驚いたハンガリーが評議会側に援軍を送る旨を伝えるも「ルーマニアの問題で他国に迷惑をかけるわけにはいかない」として断り、ソ連軍からもこれ以上の流血を阻止すべく軍事介入を評議会側に打診するも断られている。
このため、ハンガリー軍はティミショアラなどのハンガリー系住民が多く住む地域に正規軍を進駐させるに留まった。


チャウシェスクの逮捕と処刑


12月23日、ヘリコプターでの逃走を試みたチャウシェスク夫妻であったが、その様子は先述の通り全世界の知るところであった。
彼らにとっての最大の誤算は、このヘリを操縦した空軍パイロットが既に革命勢力の味方だったこと
パイロットは意図的に高い高度で飛び、自らを空軍基地のレーダーに捕捉させ、対空砲火をよけているように見せかけていたのだ。
「このヘリは軍のレーダーに探知されており危険です」と告げると、撃墜を恐れた夫妻はヘリを降り、民間人の自動車を奪って陸路での逃走に切り替える。
だが、すぐに逃走に使っていたヘリが軍のヘリによって発見され、周囲を上空から捜索していた戦闘機が不審な車両が猛スピードで走行しているのを発見。
すぐに陸軍部隊が装甲車でカーチェイスを行い、夫妻はあっさり逮捕された。逮捕の一報はすぐにテレビで全土に伝えられた。

24日クリスマスイブ。ブカレスト市内では依然として銃撃戦が続く。
正規軍は地上攻撃ヘリコプターまで投入し、セクリタテア側は隠し通路などで抵抗するも徐々に弾薬が無くなり始めていた。
一方、チャウシェスク夫妻を拘留する陸軍施設は、大統領奪還を試みるセクリタテア側の攻撃を受けていた。
軍は一刻も早く、大統領を「奪還不能」にする必要に迫られた――

25日、チャウシェスク夫妻が拘留された陸軍施設で簡単な軍法会議が行なわれ、不正蓄財や国家反逆罪、人民の虐殺行為による人道に対する罪で銃殺刑となり、即刻刑が執行された
弁護人は一応つけられたが10分の面談で弁護することになり、裁判所には証拠のファイルも提出されず、「海外の口座に10億ドル貯めた不正蓄財」で起訴されながら、2020年代現在に至るまでそんな口座は見つかっていない。
そもそも法的に認められた裁判所の在り方でないため、上の裁判所に上訴することもできない。
要は、チャウシェスクの裁判は処刑に口実をつけるためだけのものだった*4
証拠を残す為に、裁判から処刑までの一部始終は自由ルーマニア放送を通じて全世界に配信された。*5
これに絶望したセクリタテアの隊員が自決や逃走を始めた。

26日になってようやく革命勢力がルーマニア全土を掌握。
緊急避難的にハンガリー系住民が多く住む地域に駐屯していたハンガリー軍もルーマニア軍に治安権限を委譲して撤退した。

大統領宮殿からは、派手な衣装や宝石や貴金属品、ルーマニアでは所持することすら禁止されていたアメリカのドル紙幣や西ドイツのマルク紙幣が大量に見つかり、スイスフランや日本円の紙幣や金塊、さらには大量のポルノビデオやポルノ雑誌まで発見されたという。
ちなみにこの時、チャウシェスクの親族個人の財産がとばっちりで没収され、彼の遺児たちが後に返還を求めて訴訟を起こし、一部が返還されている。

ブカレスト周辺における市街戦での犠牲者は1,104名とされる。
ただし、革命の混乱のためにこうした被害の実態については今なお不明瞭な点が少なくないことには留意しておこう。


その後


ルーマニアには「チャウシェスクの子供たち」と呼ばれるストリートチルドレンがいる。
チャウシェスク時代、政府は国力増強を目的として避妊の禁止をはじめとした人口増産政策を行った。
(旗振り役はチャウシェスクの妻エレナである)
アニヲタwiki的にはルーマニア革命後の混乱期にストリートチルドレンから殺し屋になったBLACK LAGOONの登場人物ヘンゼルとグレーテルの双子が有名だろう。

しかし、慢性的な食糧・物資不足の中で多数の子供を育てる事は難しく、ルーマニア国内では捨て子が大量発生する事態となってしまったのだ
セクリタテアが孤児院を主な人材供給元としていたのは、それだけ孤児院に入れられる捨て子が多かったからに他ならない。
捨て子の中にはストリートチルドレンとなる者も多く、ルーマニア革命後の混乱、そして孤児院から選ばれたセクリタテア隊員候補生が加わった事で「チャウシェスクの子供たち」は更に増加した。

おまけに、孤児院では子供を死なせると職員が罰せられたことから、それを防ぐとともに栄養不足を補うためしばしば栄養剤の注射が行われたが、物資不足により注射針を使いまわしたせいで、「チャウシェスクの子供たち」の間でエイズ感染が拡大。
更に海外からの観光客向けの売春を媒介として国内外に感染を拡大させており、大きな問題となっている。

ルーマニア政府は革命後しばらくしてから、国民にアンケートを実施したところ、まだチャウシェスク政権の時のほうが生活そのものは楽であったという衝撃的な結果を示された。

急激な自由主義化によりルーマニア国内では貧富の差が拡大し、
チャウシェスク時代は少なくとも必要最低限の生活は保障されていた時を懐かしむ人が増えていることが原因と見られているが、
2006年以降は外国からの企業もかなり進出し、ルーマニアの生活水準はチャウシェスク末期をはるかに上回り、貧富の差も縮小しているという。

チャウシェスクには子が3名いた。
長男は政治に関わりのない物理学者で、一度逮捕されたが起訴もされずに学者として復帰。
2020年代現在は70代で存命中。慎ましい年金暮らしをしていると言う。
長女は数学者でこちらは党の役職についていたが、起訴されることはなく2006年まで生きていた。
次男はセクリタテアの幹部でチャウシェスクの後継者候補でもあり、裁判にかけられたが裁判中に肝硬変で死んでいる。


余談


漫画「ゴルゴ13」ではこのルーマニア革命に密かに、しかし深くゴルゴが関わっていた…という設定のエピソード「東欧の激動・六日間革命」というものがある。
革命勢力の指導者からチャウシェスク夫妻には実は影武者がおり、たとえ本物が倒されてもその影武者が生き残ってしまうとチャウシェスク体制が崩壊したとしても、セクリタテアの長官ミハイル・ベリンデ将軍がその影武者を操って権力の維持を図るだろうと、ゴルゴ13に影武者とベリンデ将軍の抹殺を依頼する、というもの。


追記・修正は、革命に散った尊い命の冥福を祈りながらお願いします。

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最終更新:2024年12月03日 16:33

*1 名前こそ革命だが実質デモおよびストライキの延長で、デモ代表者と政府側が話し合った末に共産政府が解体された

*2 弟たちや次男ニク夫妻、義弟(妹の夫)マネア・マネスクなど。

*3 革命後の報告書でも自殺とされている。

*4 ちなみに、ルーマニアでは後に死刑が廃止され、チャウシェスク夫妻は「ルーマニア最後の死刑囚」ともなった。

*5 当然ながら日本でも無修正で放送されており映像も残っている。この為「検索してはいけない言葉」の一つに選ばれている。