五代十国時代

登録日:2020/01/20 Mon 00:03:10
更新日:2021/12/30 Thu 09:25:27
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五代十国時代の政情は一口に言えば――
漢末の動乱と五胡十六国時代の混乱を足して、
二で割ったような状況を呈していた。
安能務「中華帝国志」中巻


五代十国時代とは、古代中華帝国最大版図を築き世界帝国を実現した唐が、
一世紀近く身をよじってもんどり打った挙げ句、バラバラに引き裂かれた後に起こった大動乱の時代である。
ちなみに五代は「中原を支配した五つの王朝」で十国は「中原は支配できなかった地方で興った王朝」を指す。

感覚的にはあの五胡十六国時代に似ている。


前史としての盛唐~黄巣の乱ダイジェスト


大乱の振り出しは唐の滅亡から200年弱前の時代からジワッと始まっているので、おさらいしておかねばならない。

唐の第9代皇帝にして、武則天*1の暗躍から始まった宗室の乱れ*2を収束させた玄宗。
開元の治と呼ばれる善政で国力を大いに高め、周辺国に威光を示す大国としての唐を作り上げた名君である。*3

その玄宗の改革は軍事にも及んでいた。
元々遊牧民を想定していたものの、定着農耕民が多い中華全体の義務にしたため、歪が大きくなってしまっていた府兵制を改革。
安定統治・精強な兵による異民族の圧迫のため節度使制度を導入。
これは辺境の領土の徴兵権や徴税権の一部を任せて運用させる事により、士気の高い精強な軍勢*4を長く維持し異民族を圧倒するという手法である。
早い話がちょっとした地方分権政策である。兵農分離政策でもある。
これが奏功して軍が強化され、一時は西域に従属国や領土を増やし、中央アジアはトランスオクシアナ、タラス河畔*5でイスラム帝国と激突するまでに勢威を伸ばすことに成功した

…が、その玄宗自身が晩年に節度使に任じ、藩鎮*6を任せた蕃将*7安禄山を偏愛しすぎ、三箇所兼任させるなどの特権を与えすぎてものの見事に軍閥化させてしまうという大きなミスを犯す。
玄宗とその寵妃・楊貴妃の大きな寵愛を受け増長した安禄山は案の定政治の主導権を巡り楊貴妃の一族である楊国忠と対立。
政治的に楊国忠に敗北すると藩鎮の軍勢を率いて反乱を起こすに至る(安史の乱)。

大乱の最中、長安から落ち延びる途中で兵や玄宗側近から「諸悪の根源」と楊国忠・楊貴妃は殺され、玄宗自身もまた息子の粛宗が即位を宣言したことで引退を強いられる。
だが粛宗は反乱鎮圧のために諸将らを節度使に任命し利益を与えるということを乱発した
反乱に参加した部将も投降した場合、節度使に任命し藩鎮を与えるという切り崩し工作を行ってもいた
結果的に安禄山軍の内訌もあってなんとか反乱を鎮火の方向に持っていけたものの、中央政府である唐の統治力がガタ落ちするという事態を引き起こしてしまった
さらに粛宗即位の際に、いままで鮮卑系貴族に権力で劣っていた宦官*8が積極的に擁立に協力した功で出世。その結果権力を増し本格的に暗躍するようになった。
中国史あるあるではある。


かくして統治力は全盛期より落ちていき、税収入も節度使がその地方地方で軍を養うために一定程度引き抜くため中央政府は徐々にやせ衰えていく。
結果的に中央アジアどころか西域も維持することができなくなり、国境はどんどん縮小していった
そうなると藩鎮側もさらに増長し、中央政府に送るものを減らす。
そのため、安禄山の反乱以降は藩鎮の力を削るのが中央政府側の大きなテーマとなった。
安史の乱鎮圧に回鶻(ウイグル)に頼ってしまったので高額の歳幣*9を贈り続けていたし、
チベット方面からもチクチク殴られ始める。宦官も朝廷内で権力を伸ばすなど唐の国勢は悪化していった。
とはいえ、淮南など唐を通して経済の中心となった江南地域はまだ温和で言うことも聞くことが多かったようだ。
まあ当然聞かん坊もいるし場合によっては反逆もする愉快な連中である。
一方安史の乱の降将らが治める北の僻地はだいたい言うことを聞かず、税収入も中央に上納する分すら懐に入れて私兵の運営に使っていた。
特に悪名高いのが河朔三鎮と呼ばれる北方の三藩鎮であった。


ただ、確かに安史の乱を経てそれ以前と同じような「完璧な支配」はできなくなったが、
乱以後も節度使体制を通じて「それなりの支配」はできた。状況に対応した新体制へのシフトができたといえる。
以後は、中央政府と各藩鎮が妥協と交渉を繰り広げる「唐朝後期*10」に入り、政争は激しくなったものの、それなりに安定する。
そもそも「安史の乱」から「唐朝滅亡」までは150年もの歳月があり、しかも安史の乱では玄宗ら首脳は脱出成功、楊氏を粛清する余裕も、粛宗が即位する余力もあり、反乱自体も数年で鎮圧できた。
確かに「安史の乱」は唐朝のシステムを大きく変える一大転機とはなったが、それを以って「唐朝滅亡の原因とするのは正しくない
???「だからユゥユゥは悪くないんだよ!」
ただし「衰退の要因」ではあり、「滅亡の遠因」ではある。北部節度使が言うことを聞かなくなったり、国外の遊牧民が中華に干渉するきっかけを作ったりしているのだ。
???「(´・ω・`)」



さて、節度使体制を再構築した粛宗・代宗が没したあとは、第12代の徳宗が即位。
彼は藩鎮勢力を消耗させようと考え、兵力削減や世襲による継承の禁止など強硬策を取った。
しかしあまりに急激に進めようとしたため各藩鎮の態度が硬化、反乱を起こされて長安を追われるという大失態を犯してしまう。
結局『罪己詔』を発して藩鎮不介入を約束するなどして全面降伏。
一方藩鎮側も反乱を起こした藩鎮同士で争ったり、待遇問題などで兵士が蜂起して上司を殺害するレベルの内訌を起こすなどグチャグチャになる。
なおかつ反発はしているが基本的には「唐から節度使に任じられて藩鎮を治める」ことで自身が上に立つ正当性を担保しているという、
「学校バックレたり家出したりするけど高校の学費やスマホ代は親に払ってもらってる子供」といった風情の存在であり、
唐に寄生しないと生きていけないためなんとかこのときは一命をとりとめた。
唐帝国の権威をこれ以上損ねるわけにはいかないからな…というのは皮肉な話ではあるが藩鎮側も一緒だったのであった。
回鶻「そんなものとっくにありませぇえええええん!!」
徳宗「なんだとぉ・・・(弱気)」

さて徳宗の次の順宗は即位後ほどなく病に倒れたため、順宗の息子の憲宗が14代皇帝に急遽即位する。
その憲宗は宿願である藩鎮制御のための大改革に着手。
祖父徳宗時代の失敗を踏まえた上で新たに軍政を統括する枢密院を創設し、腹心とも言える宦官をその長に据えて軍の統制を図り、逆らう藩鎮は叩き潰すなどして追い詰めていった。
その結果、配下の兵が待遇問題などの些細なことでも反乱しててんやわんやになりやすいということも手伝い、藩鎮の側から自ら領土や地位を返上する者が続出。
上述の河朔三鎮すら一つが取り潰しを食らうと他ニつがついに唐に恭順する意向を示し、唐帝国は蘇った
…んだったら良かったのだが、藩鎮の鎮圧が成功したのもつかの間、太子が夭折した憲宗は気が狂ってしまい
仏舎利を祀れば国家安泰!という邪教めいた言い伝えを信じて仏教を奉じてド派手な儀式を執り行ったり、
不死の丹薬*11をがぶ飲みして精神をおかしくして宦官虐待に走った挙げ句、その宦官に暗殺されてしまった

ともあれ、藩鎮は一時期より抑え込めたのだが…今度は科挙や武則天の抜擢などでのし上がってきた家格の低い下層貴族出の政治集団と、
これまで官位の最上級クラスに位置していた家格が非常に高い高級貴族層が複雑に絡み合い主導権を奪い合う時代が到来。
片方が勝てばもう片方の政治を全否定して巻き戻し、逆が勝てばまた全否定して…というのが繰り返されてしまう。
これを牛李の党争といい、ガンであった藩鎮を鎮圧しカンフル剤を打てばもう一回盛り返せたかもしれない唐にとって死に至る毒となった。

この「牛李の党争」と、続く塩の密売のほうが唐朝の致命傷となる。

ちなみに党争中は宦官を頼みにする官僚は多く、宦官はモリモリ力をつけていった。
皇帝側も
  • 角力観戦やポロに明け暮れ、角力力士が宦官に暴虐を振るったため寝所で暗殺された敬宗
  • 臣下と結託し宦官排除を試みたが、一人が欲張って計画失敗して幽閉死。宦官の勢威を高めた文宗
  • 不死の丹薬がぶ飲みで寿命を縮めた穆宗と武宗と宣宗

という感じで、宦官のコントロール下に置かれた人物も多く、丹薬がぶ飲みで体調を崩して早死した例もままあって大した成果も上げられなかった。
とりあえず、上記の内一番最後に即位した宣宗は丹薬飲んだのが致命的失策ではあったが、牛李の党争を終わらせることにだけは成功した。

一方、民はといえば政策が右往左往して疲弊しきっていた。当たり前である。

そして藩鎮も最盛期より縮小し官僚貴族も疲弊したところで、権力が肥大化しきった宦官が操り人形にするための暗愚凡愚を二代続けて即位させる
即ち懿宗と僖宗である。政治的には無力で、そもそも執政を宦官に丸投げした(せざるを得なかった)この二人の時代に民の情勢は多発する災害もあり加速度的に悪化
藩鎮では兵が相変わらず待遇問題などで暴れ、農民も行政に対する不満から流賊となり反乱を起こすなど治安は悪化の一途をたどる


そしてこのころ」の問題が起きる
塩は生活必需品だが、中国では基本的に東の海が一大産地であるため、そこから広い内陸部へ至る流通ルートを支配すれば必ず儲かる。*12
これは前漢の頃から議論が行われており、中華王朝にとってはバランスの取り方が問題であった。Wikipediaに「中国塩政史」なんてページがあるくらいである。
唐以前は主に製塩業者に課税するのが普通であったが、唐後期には塩の専売制を始めるようになった。しかし財政難になると猛烈に値上げするという阿漕な手に出る。
上記の通り塩は高額であっても使わないという選択肢が存在せず、富裕層も貧困層も必要性には差が無いため、課税の逆進性が大きい専売塩の値段釣り上げは庶民を非常に苦しめることとなった
そうなると当然「塩の密売商」が出てきて、安く売るのは理の当然であった。当然庶民は密売の塩を買い、闇社会にカネが流れ込む
政府は塩の密売に厳罰を課したが、取り締まりの強化のためには予算が必要であり、その予算をひねり出すためにさらに専売塩を値上げする。
そうすると更に密売人が儲かり、専売塩は買わないため財政は好転しない…という悪循環に陥った
しかも今回は、そうした密売人が金のみならず人心まで得た。彼ら塩商人は自分たちを慕う農民を率いて「塩賊」と化し各地で蜂起した。
そして黄巣という、過去に科挙に何度も失敗した挙げ句に塩の密売人になった人物がそれらをまとめていった

後の世に黄巣の乱と呼ばれる大乱、そして唐の終わりの始まりであった。

官軍は皇帝直隷の禁軍は弱体化していた上、藩鎮を弱めたこともあり初動での対処に失敗。次々と拠点が陥落してしまい反乱軍は勢いづいていく。
民は事あるごとに塩の値段を上げる政府より、安く塩を売ってくれる塩の密売人を信頼しており次々反乱に加担し大軍となっていく。
そうこうしている内に大陸全土に火種はばらまかれ、これまで鎮圧出来た反乱とは比べ物にならない規模になってしまったのだ。

そうなればどうなるか?
次々節度使に任命して藩鎮を増やすとか、反乱軍に官位を与えに行って切り崩すとかそういう泥縄をやっていくわけである。
そうこうしている内に、反乱軍主力となった黄巣の軍勢が長安や洛陽といった唐の心臓部である首都及び副都を陥落させるという致命的な事態に陥ってしまう。
このあと長安がどうなったかと言えばまあ地獄である。百官諸大夫・長安市民の内、逃げ遅れたものは略奪陵辱皆殺し。
僖宗はなんとか蜀に逃げおおせたものの、黄巣は国号を斉とし皇帝に即位する。

が、所詮科挙落ちのちょっと目端の利くくらいの男でしかない黄巣と無学の農民の群れに執政可能な人材がいるはずもない。
さらに百官諸大夫から恭順する者を選ぶでもなく鏖殺してしまったため輔弼するものもいない。
とどめに仲間割れから主な将の一人であった朱温が唐の説得と官位につられて投降。討伐軍に鞍替えされてしまう。

こうなってしまうと略奪陵辱祭りを開催しすぎて、反乱に参加していない民も大いに被害を受けてドン引きしていた斉の支持は急落。
唐が片っ端から節度使に任命した中から突厥出身の"独眼龍"李克用*13が出現。
彼率いる黒ずくめの精鋭・鴉軍の野獣の如き猛攻と、黄巣軍をよく知る朱温の的確な攻撃に斉はあっけなく崩壊。
黄巣軍は李克用の鴉軍に山東半島まで追い詰められたのち殲滅され、黄巣は自害して果てた。

僖宗は宮殿も街も焼き尽くされた跡となってはいたがなんとか長安に帰還。
しかし、朱温改め朱全忠*14や李克用こそ形の上で唐を担いだものの、
各地の節度使は唐朝廷の主導権を握るべく朱全忠や李克用らと全面戦争に突入する者、そもそも唐に従う理由はもう何もなしと地方で独立し王国を築く者など様々に分かれた。

黄巣の乱終結は中央政府としての唐の終焉であった。長安付近の僅かな土地にしか支配権を及ぼせず、独立した軍閥同様、あるいはそれ以下の小勢力に実質格下げとなった。春秋戦国時代の周王朝並の存在感である。
しかし中華皇帝としての権威や正当性は未だ保持している。朱全忠が担ぎ、李克用がなんとか主導権を奪おうとするのはそれが理由の全てであった。


五代十国群雄紹介

ここからが本題。五代十国時代に君臨したりしなかったりした群雄の紹介を国ごとにしていく。

五代

前述の通り、「中原を支配した」王朝五つと、黄巣の乱後の唐の動向を記す。なお唐滅亡後の時代区分のため、唐は五代に含まない。
唐の首都・副都であった長安・洛陽が荒廃していたこともあり、後唐以外は全て開封を首都とした。
開封には隋の煬帝によって運河が通っており、大きく発展していた。この時代以降も主要都市となる。

唐(~907年)

長々と書き連ねたとおり、長安付近のほんの少しを保持する程度に落ちぶれてしまったが、権威だけは持っていたため生き残った宦官・朱全忠・李克用・他の節度使らで主導権を巡り暗闘が繰り広げられた。
僖宗は黄巣の乱鎮圧後程なく崩御し、昭宗が即位。昭宗は神策軍*15を強化することでなんとか権力を取り戻そうとするも、
神策軍の一兵卒から成り上がった長安の西側を支配する隴西郡王の李茂貞が反乱。
昭宗は討伐軍を興そうとするが、他の軍閥は下手に協力して明日は我が身になったら嫌だとばかりに協力を拒否。
神策軍は再建途上で当然勢力的に弱く、圧倒されて関中を支配されてしまった。
更に悪いことにこの混乱の最中に宦官により昭宗は廃位され皇太子が即位するが、別グループの宦官がカウンタークーデターの形で皇太子を廃位して昭宗を再度即位させるなど混迷は深まっていく。
李茂貞は昭宗を自分の本拠である鳳翔*16に拉致。岐王に封ぜられ禅譲を迫れるところにまで近づいた。
しかし蜀・漢中を支配する王建*17、朱全忠、李克用ら有力者が揃って李茂貞を攻撃。
李茂貞の勢力は一気に弱体化、没収された領土は朱全忠と王建が分け合った。

そしてこの後、朱全忠は李茂貞討伐で得た領土を含めて群雄中屈指の存在となり、さらに巧みな政界遊泳で唐の主導権を握っていく。
最大の敵である李克用の横槍も自らの領土拡張で阻止。軍略は最強だが政治的には全くの素人で弱小、配下に謀臣もいなかった李克用は北方の本拠地太原*18に封じ込められてしまう。
こうなると朱全忠を止めるものはなく、宦官を完全抹殺されるなど影響力を落とし続けた昭宗は朱全忠の脅しに屈して洛陽に遷都。
さらに配下二人に命じ刺客を送らせ昭宗を弑逆。なおその二人は免責は当然されず、捕らえられ処刑された。汚いなさすが返り忠きたない。
その中には朱全忠の仮子*19朱友恭もいた。実質他人の仮子とはいえ汚れ仕事に使うあたりひどい話である。
そして禅譲をさせるためだけの存在として幼帝・哀帝を擁立する。唐が完全に滅ぶカウントダウンはついに開始された。
長兄に「元は反乱軍のお前ごときが恩を忘れて三百年の社稷を奪うのか!馬鹿めが!」と罵倒されたり、優秀な長男朱友裕が急逝するなど徳が足りないと天が囁くかのごとく不幸もあった
しかし哀帝即位の翌年には、まずは哀帝の兄弟10人を洛陽苑内の九曲池に集め宴会を催した上で途中で配下を乱入させ全員を絞殺、遺体を九曲池に投げ込む(九曲池の変)。
その4ヶ月後には、高官を地方送りにする名目で降格させ、任地に向かう途中の駅でまとまったところで一気に殺害し黄河に沈めた(白馬の禍)。これによって九品官人法から始まる中国の貴族制は完全に崩壊した。
こうして禅譲の邪魔になる皇族と貴族層も殲滅され、朝廷内で朱全忠に逆らえるものは消滅。哀帝は政治的に手足を断たれたといっていい。さらに唐復興の神輿になりうる人物も抹殺した

こうして準備を周到に整え、朱全忠は哀帝から禅譲を受けて梁を建て*20、さらに諱を唐から受けた全忠から晃へと変更した。
ここに唐は完全に滅んだのであった。907年のことである。
旧皇族は上記の通り抹殺済み。禅譲翌年には哀帝も殺害されて唐は綺麗サッパリなくなった


後梁(907年~923年)

皇帝となった朱晃(太祖)は手始めに、病に倒れそのまま亡くなった最大の敵である晋王・李克用の領土を狙い侵攻軍を発するものの、
後を継いだ李克用の長男、李存勗の前に大敗。その後は後梁は晋軍の前に押されっぱなしとなる。

太祖は節度なしの好色家で子の妻にも手を出すなど、今で言えばセックス依存症的な面があったが、
年を取り体力もないのに関係を持つのをやめなかったためか病気がちとなりあっという間に耄碌。後梁の政治も乱れた。
一番お気に入りの王氏を妻にもつ仮子、朱友文を後継者に立てようとするも、素行が悪く疎まれて左遷されていた実子の次男朱友珪と、暴虐に耐えかねていた近衛軍により太祖は殺され、朱友珪が皇帝となる。

しかし悲しいかな、朱友珪には人の上に立つ才能が全くなく、その上殺戮だけは大好きというしょーもない人物であったため太祖の仮子朱友謙が李存勗に帰順する*21など混迷は加速。
最終的には異母弟の朱友貞の巧みな煽動に乗せられた近衛軍の謀反により即位から一年持たずに殺害され、朱友貞が皇帝として立つ。

しかし配下の天雄軍節度使が亡くなったのに乗じて天雄軍を分割しようと試みて失敗。
天雄軍は晋に投降してしまい軍事的に弱体化。晋王・李存勗の父以上の軍略に対抗する力を失い、更に弟や従兄が反乱を起こし、猜疑心に囚われて異母弟らを殺戮し始めるなど最早国の形を保つことも困難な情勢になった。
これを見た晋王・李存勗は唐の後継者を名乗り皇帝として即位。後梁を滅ぼすべく総攻撃を仕掛けた。
朱友貞は配下に介錯を頼み自害。後梁は三代十六年という短命に終わった


後唐(923年~936年)

時はややさかのぼり、908年に"独眼龍"李克用の長男として晋王の座を引き継いだ李存勗は、
父の遺言に従い遼東で独立した燕王・劉仁恭、契丹の耶律阿保機*22、そして後梁の朱晃を滅ぼすべく活動を開始。
とりあえず対後梁に集中すべく耶律阿保機とは和議を結ぶなど修好の姿勢を取り、913年に劉守光*23を倒し燕を滅ぼすと後梁に猛攻を仕掛ける。
向こうの自滅もあって勝ち戦となり923年には唐の後継者を自称し皇帝に即位。後唐の成立である。
その後に後梁を滅ぼし父の宿願を成就させた。

即位後は陝西地方に小国「岐」として独立していた過去の人・李茂貞を降伏させ、後梁には出した臣従の使者を出さなかった前蜀を滅ぼし漢中や四川も獲得。
唐の後継者と自称した通り、大帝国の復興を成し遂げていく…かに思われたが、李存勗(荘宗)は父親以上のとも言われる軍才はあったものの、父親以上に政治音痴で統治が出来ないタイプという致命的弱点があった。
唐に憧れるあまりに官制をただ真似てしまい宦官を重用。さらに軍の監察にも宦官を起用し、配下に不満を溜めさせてしまう。
そんな中反乱が発生。討伐軍を任せた父の仮子・李嗣源にも背かれ、洛陽で禁軍に殺害された。
皇太子・李継岌の軍勢をも破った李嗣源は軍に推戴され正式に皇帝に即位した。

李嗣源(明宗)は政治音痴だった荘宗や義父李克用とは違い統治能力が高く、荘宗の宦官重用を正し、税制の整備を行い、財政を司る役職を取りまとめた三司を創設し財政の安定を図るなど、
内政において目覚ましい成果を挙げ、自身は倹約して慎ましく暮らすなど名君の誉れ高い存在となった。

しかし即位7年で急死、李従厚が後を継ぐがとんでもなく暗愚だったので配下の軍人の専横を許し、それを見た明宗の養子・李従珂に反逆されて帝位を追われ殺害される。
しかし李従珂も外戚の重臣石敬瑭と対立。その石敬瑭はよりにもよって契丹と手を組むことを決断。
母に疎まれて皇太子の座を追われて亡命していた兄・耶律突欲の要請もあり、契丹の大英雄・耶律阿保機の後継者二代皇帝太宗が大軍勢を率いて石敬瑭支援のため南下。
後唐軍は敗北し首都洛陽を包囲され、李従珂は焼身自殺し後唐は滅んだ。

ちなみにではあるが、後唐から先の王朝はすべて突厥沙陀族系の王朝になる。
郭威から先はやや微妙*24なところだが、どちらにしろ突厥人だらけの首脳部で実力を認められた存在には変わりないので突厥の影響は非常に強い。
そもそも漢人云々にこだわったところで唐も鮮卑系漢人とか漢化した鮮卑が建てた王朝といわれるので何を今更感はあるが
唐太宗・李世民に打ち破られ支配下に置かれた東突厥の末裔が中原を席巻し統一王朝に繋いだと思うとなかなか皮肉が効いているかもしれない。


後晋(936年~946年)

契丹の支援を受けて即位した石敬瑭(高祖)であったが、その軍事力をほぼ契丹に頼ったため、大変な代償を支払うことになった。
特に後世に燕雲十六州と呼ばれる領土の割譲は後に続いた中華帝国に深刻な損害を与えた。
その割譲した土地の中に、大同や北平(現在の北京)といった万里の長城内側に当たる土地があったため、北方からの侵攻を食い止めることが至難となってしまった
しかも鉄や石炭といった戦略資源の産地も存在していたので、これの奪還が課題となり続けることになった
後述する五代の王朝や宋は奪還を果たせず、統一王朝の支配下に入ったのは元の時代、中華帝国が奪還したのは明の時代、400年弱後になる。

なお後晋は高祖在位中は契丹の衛星国家として毎年絹を三十万疋送るなど忠実にポチを演じるものの、高祖が契丹から問責を受け続けてストレスから病に倒れ憤死。甥の石重貴が即位すると側近は契丹からの独立を画策。
しかし軍事力の差がどうしようもなく、中原に野望を見せた遼太宗が大軍を率いて再び中原に親征。
二度は防いだが三度目に大敗し、一気に首都開封を落とされて降伏し滅亡した。


後漢(947年~950年)

光武帝のやつとなんかややこしいが、慣例上はこう呼ばれている。なお「こうかん」と呼むことで一応の区別はされる。光武帝の方は「ごかん」。
契丹太宗が補給の問題や周囲の説得に失敗し、中原支配を諦め開封から撤退すると、石敬瑭の側近格だった劉知遠が自身の本拠太原から軍を発して南進し開封を占領するとそこで皇帝に即位。
劉姓であることから国号を漢とした。が、翌年には寿命が尽きて崩御。

二代目には次男の劉承祐を立てたが、側近は年若い彼を使って自らの邪魔となる有力軍人を家族もろとも次々粛清にかかった。
そのうちの一人であった郭威は出征中に家族を皆殺しにされてしまい、粛清を回避できないと悟ると兵を挙げ首都開封を落とし実権を掌握。
当初は劉知遠の甥劉贇を皇帝に立てる予定であったが、急に気が変わったとばかりに殺して郭威自らが即位。後周を建てたため後漢はわずか3年足らずで滅亡となった。


後周(951年~960年)

簒奪が如く帝位を奪った郭威(太祖)であったが、内政に力を尽くし国力を養うことに専念。
荒れ果てた中原を建て直しにかかったが、残念ながら寿命が足りず即位3年で崩御する。
後を継いだのは皇后の兄の子であり、郭威に養育された柴栄(世宗)であった。

世宗も大変に優秀な人物で、義父の立て直し路線を受け継いで国力を養うことに邁進。
藩鎮・節度使の弱体化及び皇帝直率の禁軍の強化など唐からの懸案解決の他様々な施策を実行すると、その蓄積を持って統一事業に打って出る。
十国の内、戦乱を避け四川の豊富な資源等で安定した力を持った後蜀、経済力を持って十国最強と言われた南唐を撃破。
吸収するには至らなかったが、南唐は経済の中心であった塩の産地を奪取され弱体化、後蜀も天水など北部の領土を奪われてしまった。

これで更に基盤を強化した上で北の契丹及びその衛星国家として存在した北漢と全面戦争に突入。
燕雲十六州の内、南部二州を奪い返すなど目覚ましい成果を挙げるも世宗はこの遠征の最中に病死。
後を継いだのは7才の皇太子、柴宗訓であった…


五代の果て

後周は名君が二代続き、もう少しで中華を再統一出来るところまで来たのだが、上述の通り二代目の世宗が燕雲十六州奪還戦の最中に病に倒れそのまま崩御。
皇太子は7才の柴宗訓であり、そのまま帝位を継ぐが年若い皇帝ということで群臣は不安を持ち、世宗の信任が厚く人格者でもあった趙匡胤を皇帝に担ぎ上げるクーデターが実行される(陳橋の変)。
これが後の統一王朝・の興りである。なお手際が良すぎるので趙匡胤の自作自演的な面があるともいわれる。
ただ、彼が人格者であるというのは概ねどの歴史家も認めるところであり、
例を挙げると、五胡十六国時代以降であればまず間違いなくあの世行きであった柴宗訓を手厚く保護。
皇帝に準ずる扱いをして臣下に「やりすぎでは?」と訝しまれるほど厚遇し、夭折した際は皇帝の形式で葬儀を営んだ程であった。
柴家はその後も宋が崖山の戦いで南海の果てに消えるまで勅令により保護された。

さて趙匡胤(太祖)は統一事業に邁進し、呉越と北漢を残すのみとなったが急死*25
弟の趙匡義(太宗)が後を継ぎ、呉越に領土を献上させ、契丹の援軍を得た北漢の最後の抵抗を跳ね除けて滅ぼし、統一事業を完遂した。
しかし燕雲十六州奪還戦は契丹軍に敗れて果たすことは出来なかった。
乱世が残した宿題である燕雲十六州問題を早期に解決出来なかったことは国防の面で宋のアキレス腱となり続け、終いには首都南遷に繋がるのだがまあそれは別の話である。


十国

ここで十国の紹介。
黄河・長江流域以外にも国家ができているが、これは中国各地が発展してきたということである。

①呉(902年~937年)、②南唐/江南(937年~975年)

群盗上がりの無頼の徒であった楊行密が、黄巣の乱に乗じて長江流域を切り取り、淮南節度使となったところを振り出しとする。
長江流域の経済力と自慢の精兵集団「黒雲都」の実力を持って淮河を渡ろうとした朱全忠の勢力を押し留めるなど勢威を誇り、唐から902年に呉王に任じられ実質独立を果たす。
楊行密自身は唐の臣下であるという意識があったのか唐の年号を死ぬまで使い続けた。妙なところで律儀。

しかし楊行密の死後は黒雲都の実力者であった徐温と張顥が年若く無力な後継者を立てて裏で実権を握る体制に移行。
まもなく張顥は排除されて徐温の独裁体制となり、禅譲を待つだけとなったのだが、最終的には徐温は禅譲を受ける前に死去。養子であった徐知誥の代で禅譲を受け斉を建国、後に名乗りを李昪に改めて南唐と改称。
十国中最強国家として立つ事となった。

李昪(烈祖)は内政能力が高く、南唐は北方の乱れをよそに経済力をバックに平和と文化を謳歌する国となる。
二代目の元宗は周辺に侵攻し最大版図を達成するなどしたものの後周の世宗に前述の通りの大敗を喫し臣従を余儀なくされ、
三代目の時代には国号を江南に変えるなどして必死に生き残りを図ったが、もはや十国最強国家の面影はなく宋に敗れ滅亡した。


③前蜀(903年~925年)、④後蜀(934年~965年)

唐の四川方面節度使である永平節度使がベース。
王建が李茂貞の反乱鎮圧に貢献したことから唐の昭宗が蜀王の地位を与えた後独立。
蜀は資源豊富で天嶮が城壁となる堅固な土地などの理由から天府と呼ばれ、動乱から逃げてきた文化人、僧らでごった返していた。
蜀漢でもそうだったが、航空機のない時代なので天険はそのまま要害となる。玄宗も逃げてきたことがあった。
王建は経済力をバックに彼らを手厚く保護し、戦乱の北方からは信じ難いほど平和な国を作り上げた。
が、その一方で外に向かなくてもいい軍事力は王建体制維持に全力を注いでおり秘密警察めいた組織を編成し反乱分子を徹底弾圧していたという。楽園の闇な…

しかし前述の通り後唐の荘宗の天嶮を越える猛攻で外に対する強さがなかった前蜀軍は大敗し滅び去ってしまう。
二代目がアホで国力が弱まっていた上に民心が離反していたのも原因である。

その後は後唐の領土となっていたが、本国の大混乱に乗じて占領を任された部将孟知祥が独立を図り、934年には後唐が蜀を管理不能となるのを見るや支配を振り切って完全に独立。
こうして再び四川に独立国が興る。後蜀である。
前蜀同様に天嶮を活かし内政に注力し文化を謳歌したものの、孟知祥を継いだ二代目は奢侈にふけって朝政は乱れ、後周他周辺国に領土を蚕食された後、宋により滅ぼされた。


⑤荊南(907年~963年)

後梁が興った後、荊州方面の節度使に任じられた高季興が、朱全忠死後の混乱のさなかに独立した国である。
しかし国というには小さすぎ、臣下の礼を取りあくまで大国の節度使的に振る舞う。内政面でも独立国家としては貧弱な体制だったため、
「こんなんただの節度使やん…国ちゃうで…」という説もある。
というか宋代の歴史家でこの時代の史書をまとめた欧陽脩が無理くり十国扱いしただけという話らしい。まあキリはいいよね…

荊州は三国志でも要地だったがこの時代でも健在で「私どもは緩衝地帯ですぞ~」とばかりに高季興の巧みな外交交渉で立場を確保し、中継貿易で莫大な富を得て長きに渡り独立を保った。
が、弱小国の悲しみか宋が「楚を攻めるから道を貸せ」と迫った際に道を貸したのが運の尽き。
領内に入った途端降伏勧告が出され、屈さざるを得ず降伏しあっという間に滅んだ。
弱小国かつ交通の要衝ってならそりゃ真っ先に攻め取るよね…
交通の要衝を抑えられたため後蜀など十国が連衡して宋に立ち向かうという手段が取れなくなった部分はあるので、荊南の降伏は重要性が高かったと言える。


⑥呉越(907年~978年)

長江河口付近、春秋戦国時代の越があった辺り。今でいうと浙江省付近を中心に割拠した国。
塩の密売人上がりの銭鏐が黄巣の乱に乗じて巧みに立ち回り、主君の軍団「杭州八都」を奪い取り浙江地方を支配、朱全忠に臣従し王に任じられたのが始まりである。
南の福建省付近に割拠した閩、長江流域最強国家の呉/南唐と抗争を繰り広げた。
5代に渡り海上貿易で栄え*26、閩が早々に脱落し南唐の攻撃を受けたものの耐え抜いたが、中華統一に驀進する宋と国境を接したところでギブアップし、自ら国を献じて退場した。
王家であった銭一族は宋の皇族や外戚などと婚姻することで後世にも繁栄したという。


⑦閩(909年~945年)

福建省付近に割拠した国。ビンと読む。
北方から兄と転戦してきた王審知がこの地を占拠し、唐に節度使として認められたのが始まり。

初代王審知は当時後進地だった福建を大きく発展させた偉大な男であり、今でも福州市にある「閩王徳政碑」には訪問者が絶えないという聖王かくあるべしといった存在だが、
後継者がひたすら内乱の種をバラまいては分裂、道教キチガイになって巫女の言うまま一族を虐殺するなどろくでなししかおらず、初代の貯金を使い込んでいった果てに南唐に滅ぼされて潰えた。


⑧楚(907年~951年、956年~963年)

黄巣の乱の最中、木工職人から身を起こした馬殷がトントン拍子に出世。
最終的には指導者の地位を受け継ぎ、長沙を中心に打ち立てた国。
当時需要の高かった茶の栽培などで経済力を高め、五代王朝に入貢することで存立を保った。
呉越とか閩と同じ手法である。

馬殷自身は木工職人だったとは思えない指導力を発揮し、殖産興業を実行するなど有能であったのだが、20人以上いた息子どもがボンクラ揃い。
次男・四男・三十五男(!?)・三十男らが国をぐちゃぐちゃにした挙げ句南唐に滅ぼされて果てた。

その後、武将であった周行逢が湖南を制圧し再興させるが、長くは持たず荊南ごと踏み潰された。


⑨南漢(909年~971年)

現在の広東省付近に割拠した国。嶺南*27方面の節度使の配下であった劉知謙の子である劉隠*28が父の勢力を受け継ぎ巧みに支配を広げ、後梁に朝貢し南海王に任じられたのが興りである。
海のシルクロードの中国側の出入り口にあたる地域を支配したため、貿易で経済力を高める手法を取って国力を増強している。

中央で権力争いに敗れた官僚の左遷先でもあったためか、この時代にしては珍しく文官が武官を圧倒している珍しい国であった。
最南端ということもあり、東南アジア側から北方の契丹ほど激しい侵攻もなかったことから大変平和であったことも、武官の立つ瀬のなさにつながったのかもしれない。

…が、宗室内で凄惨な殺し合いが発生するなど三代目あたりから陰り始め、最後に即位した五代目の後主劉鋹は猜疑心の塊になっており、
「キンタマついとる奴は何をさせてもダメ!ガキに財産残そうと必死になって国を、ワシを貶めて殺すんや!やっぱり宦官がナンバーワン!」というおかしな考えに取り憑かれて文官を虐殺。代わりをすべて宦官で賄った。
ちなみにではあるが、宦官が養子を取って後に財産を繋いだ例はたくさんある。曹操の義理の祖父曹騰もそうだし、玄宗の腹心高力士は先輩宦官の養子となったため高姓を名乗るようになっている。

その後は科挙で進士に至った若人もまず去勢、宮廷に学者を入れるにも去勢…とタマを切りまくり、
最終的には約2万人の宦官で宮廷は埋め尽くされた。総人口の2%、成人男性の10%にあたるほどだったという。

そんな状態じゃ民心が離反するのは必定であり、宋に滅ぼされた。


⑩北漢(951年~979年)

郭威の簒奪により国を奪われた後漢皇族の劉崇が北方の太原を中心に後漢の復興を掲げて打ち立てた亡命政権的性格の国。
後漢の主力軍・領土の殆どは当然のごとく後周が保有しており、じゃあどうするかと言われたらそりゃ太原の北にいる契丹に媚びを売るしかねぇわけで。
ということで衛星国家として中原を狙う契丹の手足になって戦うことになった。

劉崇は郭威に殺害された劉贇の父だったこともあったか、後周の代替わりを狙って苛烈な攻撃を仕掛け、一時は有利に進めたものの
後周世宗が自ら矢弾を恐れず前線に出て奮戦。それに呼応した趙匡胤ら将軍の反撃を喰らい敗退。
劉崇は失意の中死亡。その後も契丹の支援のもと粘るが979年についに滅亡した。


後世への影響

兎にも角にも趙匡胤という、あまりにまともな人格の人間を中華統一に向かう天子に押し上げたのが一番だろう。
朱全忠みたいな畜生や李克用のような武辺一辺倒の脳筋、十国の後半によくいたボンクラーズが後周から禅譲を受けていたら、中華の形は大きく変わっていたであろう。
弟もちょっとした梟雄要素を発揮して兄をコロコロしたという疑惑はあるが、兄の政策を受け継いで科挙を軸にした官僚制度・文治主義を完成させ、節度使のような軍閥を排除することに成功している。
詳しくは宋の話になるので省くが、少なくとも盛唐の終わりから続いた軍閥政治を終わらせたのは特筆に値する。

しかし燕雲十六州割譲により万里の長城を契丹にノーリスクで越えられて中華側に拠点を作られており、国防の面で大きな負債を抱えさせられてしまうことになった。
軍閥を忌避するという政策も時代が下ると、軍事自体に力を入れる事すら忌避するほどになってしまい、弱兵だらけとなって強盛な契丹に対抗手段がなく宋にとっては結構な致命傷にもなった。
趙匡胤の平和的な性格・政策により、文治主義が強かったのも原因ではあるが。
燕雲十六州が手元にあれば当時は城攻めを苦手としていた*29遊牧民に万里の長城を利用した持久戦、
李牧の時代からずっと使われる有効な戦術をお見舞いできたのだが…乱世の時期に燕雲十六州を売り渡したのはつくづく痛恨であったと言える。

貴族消滅後の新たな世の中に変わっていく過渡期でもあった。
五代十国時代には軍閥の元、統治の実務に当たった大地主らは宋代になると子や血族を猛勉強させて科挙を通過させ官僚にし、その子らが退官後地元に帰り、教育し新たな官僚を育成するというサイクルを作り出す。
それにより形成された新たなる階級「士大夫」が出現することになる。
この士大夫層は国を背負うエリートとしての自負が非常に強く、以前の官僚よりも国への忠誠心が強い者が多くなったという。
汚職はする奴は多数存在したものの、契丹に勝ち目がなく歳幣を払って見逃してもらってるだけというのもあり、ナショナリズムは以前より高まっていった。
まあ実力の伴わないナショナリズムはろくなことにならない傾向にあるし、実際にならなかったのだが。


この時代をもとにした創作

有名所がほっとんどない。
水滸伝が一番時代的に近いが、北宋末期~南宋初期なので100年以上後である。
中国史の中でも屈指のマイナー時代の上、名君がバタバタ早死するわ、名君の後継者がアンポンタン揃いだったりで創作意欲があまり湧かないのかもしれない。
誰か知ってたら追記してください。


<追記>

五代十国時代の後唐を舞台とした映画「王妃の紋章」が2006年に監督チャン・イーモウ(張芸謀)によって製作されている。
原作は劇作家ツァオ・ユー(曹禺)の代表作「雷雨」
第79回アカデミー賞衣装デザイン賞にノミネートされた。

また古典としては楊家将演義が有名か
もとは北漢に仕えた名将の楊業、またの名を楊無敵を主役にした平話であり、極めて高い忠義を持ち、対異民族で活躍しながらも味方の不義理で失意の内に死ぬ悲劇の名将というどっかで見たような内容で知られる。
日本ではややマイナーだが北方謙三の「楊家将」などが題材として取り扱っており、興味があれば読んでみるのもいいだろう。
完全に余談だが、水滸伝の楊志は楊業の末裔という設定だったりする。
楊家がそれだけ武門の名門だった証左であろう。


この時代の有名な人間

正直王とか帝とかはアレな人が多く、趙匡胤が珍しい超まともな人間って程度である。
まあ面白い人間がいれば上記の創作にされるわけで。それがほとんど無いということはまあそういうことである。
一方で大臣クラスには馮道という歴史に残る人間がいた。
この人、最初は燕の劉守光に仕えていたが、諫言したら幽閉されたり、救出されたり、左遷されたり、復職したりと波乱万丈な人生を送る。
結果「五朝*30八姓*31十一君*32に仕える」という前代未聞な事となった。
直後の宋の時代には「忠臣は二君に仕えず」といった朱子学的な考えが主流となったので、「変節漢」と批判されることが多い。
しかし当時の人々には大いに尊敬されていた。彼のおかげで命を救われた民衆は数多く、後世の歴史家にも彼を弁護する人間はいる。
五代十国という乱世の時代であり、民衆に対する哀れみの心が少なくすぐに虐殺・略奪を行いそうになる皇帝たちに対して諫言をしたりヨイショしたりして民衆・農民を守り続けたのは評価されるべき点だろう。


追記修正は中華を統一してからお願いします。


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最終更新:2021年12月30日 09:25

*1 第3代皇帝高宗の後妻で、唐を一時的に乗っ取り周(古代王朝の周や後代の北周と区別するために武周と呼ばれる)に国号を変えるなどやりたい放題やらかした。中国史上唯一の女帝。

*2 身内人事や大粛清など専横こそ働いたものの内政自体は武則天の人材発掘能力が神がかり的で起用も特に間違いがなかったので、民は平穏に過ごせた割合が高かった。酷吏に引っかかってえらい目に遭う人もいないことはなかったが

*3 もっともその開元の治で大きな役割を果たしたのは皮肉なことに他ならぬ武則天が手ずから発掘した人材である姚崇・宋璟らだったりするのだが。

*4 府兵制は徴兵制であったため、年間3ヶ月の軍事教練が与える農業への負担は大きかった。また中国全土から辺境に連れて行き、帰れる保証も無かったため、士気が大きく下がったり、兵役拒否や逃亡が発生することもザラであった。『新豊折臂翁』という兵役逃れのために自ら肘を折った翁を謡った詩もある

*5 今のキルギスあたり

*6 節度使の保有する領土のこと。転じて節度使そのものを指すことも

*7 異民族出身の将軍、主に外地の藩鎮を任されることが多かった。ちなみに安禄山はソグド人と突厥のハーフ

*8 一応高力士など寵愛された宦官もいないことはなかったが、北周皇族から続く鮮卑系名門血族であり隋・唐の皇帝家をも輩出した関隴集団以下貴族・外戚の勢威が非常に強かった

*9 お友達料とかお助け料みたいなもん

*10 中唐~晩唐

*11 要は「水銀化合物」である。もちろん重金属たっぷりの猛毒。ちなみによく言われる始皇帝はこの手の「仙薬」は飲んでいない

*12 逆に言えば、内地で塩が採れる数少ない場所はこれまたカオスの中心になる。今で言う山西省運城市にある塩水の湖「解池」も中国史上度々の修羅場になった。

*13 突厥の沙陀族出身の蕃将だが、父が唐によく仕えたために国姓、つまり皇帝家の姓を下賜されたため李姓を名乗るようになった。なお李克用本人はしばらく唐に背き、黄巣の乱になって節度使で復帰した模様

*14 黄巣の乱における功績で「唐皇帝に忠義を尽くすもの」という意味の名である全忠を下賜され、節度使に任命された。こうして反乱軍の部将から一気に有力軍閥の長となった

*15 宦官によって皇帝親衛軍となった軍、宦官の拠り所の一つである

*16 漢代には雍州と言われたところ

*17 高麗初代とは別人

*18 春秋戦国時代より続く北方の有力都市

*19 疑似親子とすることで勢力内の有力な将を取り込む手法。結構昔からあった手法

*20 梁という名の国は歴史上やたらあるので後梁、朱梁と呼ばれる

*21 後に彼の仮子になる

*22 李克用とは不倶戴天の関係で、和議を結びながら後梁と結んで攻めかかろうとする程であった

*23 劉仁恭の子、親の妾と密通して絶縁されていた

*24 出身地は現在の河北省、つまり唐の羈縻政策や冊封体制下で漢人化した北方遊牧民が居住する地域であり、義理の甥に当たる柴栄も含めて突厥系である可能性は高い。

*25 古来より「千載不決の議」と呼ばれる謎として知られる。最有力なのは後継者となった弟趙匡義による暗殺。大酒飲みの趙匡胤が脳溢血で急死した可能性もある。ともあれ真実はもう歴史の闇の中であり、「千年議論しても答えが出ない」話である

*26 日本とも通交した記録が残っている

*27 南嶺山脈の南側、広州や香港など今日大繁栄している地域

*28 家系は遠祖がアラブ系とも言われており、もしそうなら唐の世界帝国っぷりの傍証となるだろう

*29 後にモンゴル帝国は、イスラム圏から学んだ大型の投石機を運用し南宋をフルボッコにする

*30 五代のうち後梁を除く4つと遼(契丹)の5つの国

*31 後唐の李存勗、その養子の李嗣源、そのまた養子の李従珂の3つの李氏、後晋の石氏、遼の耶律氏、後漢の劉氏、後周の郭威とその養子の柴栄の郭氏・柴氏の合計8つの姓

*32 後唐4代、後晋2代、遼(契丹)1代、後漢2代、後周2代の合計11人の皇帝