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ジャイアントモア

登録日:2016/11/06 Sun 13:47:24
更新日:2026/07/06 Mon 01:45:15
所要時間:約 7 分で読めます




概要・形態


ジャイアントモアとは、1500年頃までニュージーランドに棲息していた巨大な鳥類である。
その姿や生態はダチョウやエミューを彷彿とさせ、翼は退化して完全に無くなり、飛ぶことこそ出来なかったものの、長い首と頑丈な後ろ足を持っていた。天敵と言えるのはハーストイーグルのみで外敵に対してはその強靭な両脚で立ち向かい、時速50キロに達した走力で逃げるなどの自衛を行っていた。
一方で人間はいなかったため、人間に対する警戒心はなかったのだが、これが災いした。
体高は最大のジャイアントモアで3.6m、体重も250kgほどになったと推定されている。
極端な性的二型を持ちダチョウとは違いオスよりもメスの方が身体が大きく、性格は温和で主に木の実や草を食べる草食性だった。

鳥類なので当然ジャイアントモアには、歯が無かった。そのため、草を食べたあとは小石をまるのみし、胃の中ですりつぶして消化していた。
しかし、この習性を人間に悪用され、さあ大変。
人間は食料欲しさにジャイアントモアに目をつけた。彼らは、熱々に焼けた石をモアに飲ませた。
内臓を火傷させ苦しみ悶えさせたところを槍や棍棒で一発。
警戒心の無さゆえに、巨体の割に乱獲は容易であった。
元々繁殖力も弱く、雌が一匹やられるとその生態系はみるみるうちに縮小の一途を辿ったのだ。

ジャイアントモアは絶滅した。


史上最大の鳥類としてしばしばその名が挙げられるモアだが、一般的に知られているジャイアントモアはその中の一種である。
もともとニュージーランドは無人島だったが、そこには人間はおろかコウモリ以外の哺乳類が棲息していなかった。
哺乳類のいない環境はまさしく鳥類の天下。森や草原、海岸など島の至る所で数多くの鳥類が繁栄を極めていた。
モアもその一つで、最盛期にはジャイアントモアを含めて6属10種類のモアが生息していたという。

しかし、ニュージーランドにマオリ族が移住してきてからは主に食用肉の確保のため乱獲が始まりジャイアントモアは特に繁殖力が低く、他のモア種も含めて最短50年、1500年頃には絶滅してしまった。
1769年、イギリスの著名な探検家キャプテン・クックがニュージーランドに訪れた時は、モアはすでに伝説や言い伝えの中の存在と化していたという。
恐竜」という言葉を生み出したことで知られる博物学者リチャード・オーウェンは残された骨を見てその余りの大きさに「鳥のものとは思えない。」と主張。
恐竜ならぬ「恐鳥」を意味する「Dinornis maximus」という新たな属を設け学会で発表した。
最初こそ一笑に付されたオーウェンの発表だったが、その後ニュージーランドから新たな骨が次々と発見され、
「長い首と足を持った、想像を絶する大きさの飛べない鳥」がかつて実在していたこと、オーウェンの主張が正しかったことが証明された。
ヨーロッパ人がその存在を認識するようになった頃には、モアはとっくに「絶滅した動物」という烙印を押されていたのである。

だが、1800年代から近年までジャイアントモアの目撃情報が多数存在している。
ニュージーランドで絶滅したはずの巨鳥を見た、という報告が後を絶たないのだ。

相次ぐ目撃談と研究家たちの調査


西欧人によるジャイアントモアの目撃が頻発するようになったのは1830年代。
この頃、イギリスの植民会社であるニュージーランド会社が組織的な植民活動を始めたことにより、
ニュージーランドに移住するイギリス人が急増していき、
それに伴って入植者達による目撃も相次ぐようになったのである。

冒頭に述べたように、この頃にはすでに「絶滅した動物」の烙印を押されて久しかったモアだが、
生存説を証明するべく、本格的な調査に乗り出す西欧人も現れた。

その先駆者と言えるのが、1834年に入植した宣教師ウィリアム・コレンソ。
もともと新約聖書の宣教のため山地を次々と踏破していったコレンソは、やがてニュージーランドの豊かな大自然に魅せられ、
現地で採取した植物の標本を母国イギリスの王立キュー植物園に送ったり、論文を科学雑誌に寄稿したりするようになった。

1838年、コレンソは同僚のウィリアム・ウィリアムズ、リチャード・テイラー牧師と共にニュージーランド北島の東海岸地帯を訪れた。
そして、その地に住むマオリ族から、かつてモアの骨を釣り針に加工していたことを聞き記録した。
翌年の1839年には同じく東海岸でモアのものと思われる巨大な骨を発見するに至った。
骨は酷く損傷していたものの、この発見によりコレンソはモアの生存を確信し、1841年〜42年にかけて、東海岸一帯の探検を実施。
残念ながら、モアの実物を発見することは叶わなかったが、新たな目撃証言を手に入れることができた。

ニュージーランド南島のクラウディ・ベイから訪れた技師に聞いたというその話によれば、
1842年に同じく南島の北東に位置するカイコウラ山地を訪れた二人のアメリカ人ハンターが、ガイドに連れたマオリと共にモアを目撃した。
夜間、ガイドの指示で茂みに身を隠したハンター達の目の前に、怪物のような大きさの鳥が出現。
モアの体高は4mを優に超え、その巨体に3人は恐怖で身がすくみ、全く発砲することができなかったという。

夜の山中に響き渡る謎の鳴き声

1893年に発行されたニュージーランド学会誌*1の第26号に、
測量技師でありモア研究家のH.C.フィールドが「モアの絶滅の時期」*2という題の論文を寄稿した。
その内容は、フィールドがマオリや入植者から伝え聞いた目撃証言を詳細にまとめたものであり、
言わばモアがまだ生き残っていることを主張するものであった。

その中の一つ、1892年10月にイギリス軍少佐のジョン・ロケットが手紙に記した体験談は、
あまり事例のないモアの「鳴き声」についての記述で、非常に興味深いものとなっている。
ニュージーランド南島北西部のリワカとタカカの間にそびえる山脈、ロケット少佐はその山頂付近で野営を行っていた。

深夜、焚き火のそばで毛布にくるまって眠っていた少佐は、この世のものとは思えない鳴き声を聴いて目を覚ました。
それは一聴するとロードハウクイナ*3のものに似ていたが、より大きくて野太く、まるで獣の咆哮のように荒々しかった。
しかし、ロケット少佐はインドで長年の狩猟経験があり、哺乳類の鳴き声は聞き慣れている。
謎の鳴き声は、少佐が知っている如何なる哺乳類のものとも異なっていた。
鳴き声は地上からおよそ1.5mほどの高さから発されているようで、これも四足歩行の哺乳類ではありえない高さだった。

驚いた少佐はすぐに銃を持って立ち上がり、あたりの様子を伺った。
すると、何かがその場から歩き去っていくような音がはっきりと聞こえた。
少佐は音の正体を突き止めるために後を追いかけたが、
周辺の地形が険しい岩山であること、雲が月を覆っていて周囲が真っ暗であったこと、更に焚き火が殆ど消え掛かっていたことから、
下手に歩き回るのは危険と判断してすぐにキャンプに戻った。

およそ30分後、400mほど離れた地点から同じ鳴き声が再び聞こえてきた。
それから数分して、今度は1マイル以上離れた場所にある湾の方角から、先ほどの鳴き声に反応するように、よく似た別の鳴き声が返ってきた。
どうやら謎の生き物は二頭いて、少佐はちょうど二頭の間で挟み撃ちにされる格好となっているようだった。

観念した少佐は下山することに決め、帰路の途中で立ち寄った農夫クックの家に泊めてもらうことにした。
ロケット少佐の話を聞いたクック曰く、自分も長年ここに住んでいて、同様の鳴き声を頻繁に聞いているが、それが何なのかは見当もつかないという。

すると、横で二人の話を聴いていたマオリ族の客人が「自分はそれが何なのか知っている」と話に入った。
トミー・ブルナーというこの男性は、長年捕鯨漁師として生計を立ててきた経験から、イギリス人と同じくらい流暢な英語で
「数年前に鳴き声の主を見たことがある。それは大きなキーウィだ、これくらいの大きさだよ」と語り、立ち上がって両手を目一杯に広げた。
クックによれば、ブルナーは非常に信頼できる人物であり、彼の話は信じるに値するという。

尚、この体験談の具体的な日時は明かされていないが、
作者のフィールドが、「ロケット少佐からモアがネルソン地方で1857年〜58年まで存在していたという情報を得た」と記載しているため、
目撃年は1858年前後のことだと思われる。

更にロケット少佐は、自分の体験談から約12か月後、4人のイギリス人労働者による目撃例も報告している。
場所はオタゴ地方*4のゴールデン・ガリーという峡谷。
金鉱を求めて数マイルにわたって峡谷を歩いていた彼らは、山の斜面にある洞窟の入り口に巨大な鳥が立っているのを目撃した。
身長2.4~2.7m、胴体は茶色の羽毛に覆われ、目元には赤い模様があった。
ロケット少佐が4人からこの話を聞いた時、彼らは非常に興奮し怯えていたという。
少佐は恐怖に震える4人に対して、モアを目撃した具体的な場所を教えてくれるように説得。
その後、探検隊を編成して、目撃地周辺の洞窟や峡谷を数日間調査した。
だが、調査の中でいくつかの洞窟が見つかったものの、全てを探索するわけにもいかず、確信的な証拠を得るには至らなかった。

一連の調査を終えたロケット少佐は、
4人の目撃者たちは全員屈強な金鉱採掘人であるが、性格はいずれも正直で朴訥とした田舎者であること、
彼らがモアという巨大な鳥の存在を知らず、名前を聞いたこともないことが明らかになったこと、
そして、恐れ慄く様子がとても演技とは思えないことなどを根拠に、
何か恐るべきものを目撃したのは間違い無いだろうと報告を締め括っている。


写真撮影された伝説の巨鳥


1993年1月20日、ハイキング中の男性によってモアが目撃され、写真に撮影されたという衝撃的な事件が発生した。
この日、ホテルのオーナーを務めるパディ・フリーニーは、友人のロッシェル・ラファティ、サム・ウェイビーとともに、
ニュージーランド南島のクレイギーバーン山脈をハイキングしていた。
午前11時ごろ、3人は途中に訪れたハーパーバレー川で休息を取っていた。
川原で横になっていたフリーニーは、30mほど離れた藪の中に巨大な鳥がいるのを目撃した。
体高は少なく見積もっても2m近く、全身を赤茶色と灰色の羽毛に覆われ、見るからに逞しく頑丈な足、1m近くはあろうかという細長い首の先には小さな頭が付いていた。
3人が目撃したのは絶滅したはずの巨大鳥、モアだった。
フリーニーは急いでカメラを構え、シャッターを切った。しかし、巨鳥は人間の気配に気づいたらしく、猛スピードで川を渡りそのまま走り去ってしまった。

そのせいもあるだろうか、画像はとにかくピンボケが酷くて 見えづらい。 かろうじて「鳥っぽい何か。黒いボディで尾羽らしきものは赤い」とは分かるにせよ、
写真は後にニュージーランドのカンタベリー国立大学の電子工学部にコンピュータ分析を受け、切り貼りや多重露光の跡が見られなかったことから真正のものであることは証明された。
だが、
ニュージーランドの環境省をはじめ、実際に写真を検証した大多数の研究者は「別の鳥を誤認したのではないか」と否定的な見解を示している。
中には「鹿をワザとブレた写真に収め、モアだとでっち上げたのではないか」という意見も挙げられた。
ニュージーランドには鹿が大量に生息している上、写真も見ようによっては四足歩行の動物に見えないこともない。ピンボケを差し引いてもかなり苦しいとはいえ、決して絵空事とは言えないのが微妙なところである。
しかし、フリーニーたち3人は「自分が目撃したのは確かにモアだった。ダチョウやエミューの見間違いでは絶対ない」と主張してやまなかった。
じゃあもっとはっきりした写真撮れよ!あんなのじゃ信用できねえよ!!と言いたくなるところだが、真相は誰にもわからない。

なお、この事件のおよそ1年前の1992年5月19日、ドイツ人旅行者のフランク・クリスチャンセンと、ヘルガ・アンブリードによって同じ場所で2体のモアが目撃されていたことが後に判明。
フリーニーたちの目撃報告はある程度の信憑性を帯びることになったのである。

主な目撃と遭遇の歴史


  • 1820年
ニュージーランド南島の南東部のオタゴ地方で、ジョージ・ポーリーが船の上から湖の岸辺に佇むジャイアントモアを目撃。
背の高さが6m近くにも及んだという。

  • 1835年
鳥類学者ウォルター・ブラーが、「チャタム諸島には巨大なキーウィが生息している」という話をマオリ族から聞く。
チャタム諸島はニュージーランドの特別領であり、島の形が千葉県に似ているとして一躍有名になった島である。

  • 1860年
タカカ山脈で、公務員のメイリングとブルナーが洞窟の奥へと続く巨大な鳥の足跡を発見。
足跡は地面に付けられてからまだ時間が経っておらず、巨鳥は洞窟の奥に隠れているのではないかとされた。

  • 1861年1月
リワカとタカカの間にある山中で、測量士の一団が長さ36cmにも及ぶ巨大な鳥の足跡を発見した。
足跡は3本指でかなり克明に残されており、付けられてからそれほど日が経っていないのは明らかだった。

  • 1862年1月末
ネルソン在住のコティエという男がモキヒヌイ川に流れ込む小川の岸辺を歩いていたところ、
200ヤードほど離れた地点で巨大な鳥が地面を啄んでいるのを目撃。
羽毛と姿形はロードハウクイナに似ていたが背の高さが目測で2.4mとはるかに巨大だった。
子牛と同じくらいの大きさをした頭は暗色の羽毛に覆われ、頭頂部は平らで、目の下に半円形の赤い部分があった。
コティエは観察しばらく後、銃を取りにキャンプに戻ったが、仲間と現場に戻った時には巨鳥は立ち去っていた。

誤認や捏造の可能性も考えらるが、1863年5月12日付のネルソン・イグザミナー新聞によれば、
コティエはイングランド北部出身の移民で、移住してからまだ1年も経っておらず、ジャイアントモアがかつて存在していたという話は知らなかったという。
同紙は彼の証言について、上記のブルナー達の証言を裏付けるものとして肯定的に報道している。

  • 1867年7月27日
午後4時頃、オタゴ地方中央部のダンスタンで大雪に閉じ込められた4人の金鉱夫が、
山小屋のドアを開放したまま焚き火のそばでパイプを吸っていたところ、向かい側の山脈を猛スピードで歩くモアを目撃。

鉱夫たちとモアの距離は直線距離で1マイル以上離れていたが、視界が開けていたので細かい動きまではっきりと見ることができたという。
モアはエミューやダチョウに酷似した動きで2分ほど歩き回った後、山脈の向こう側に姿を消した。

後に鉱夫の一人が匿名でこの目撃談を手紙に記し、
9月13日付のダンスタン・タイムズ紙に投書として掲載され、その後10月18日にはプレス紙が全文を掲載した。

  • 1873年
羊飼いの男がワイアウ湖の畔りで巨大な足跡を発見。そのまま進んでいったところ足跡の主と思われる巨大な鳥と遭遇した。
全身を銀灰色の羽毛に覆われ、一見エミューによく似ていたがエミューより遥かに大きかったという。

  • 1880年
ニュージーランドのマーティンズ湾の海岸近くで、7歳のアリス・マッケンジーが茂みのそばで眠る巨大な鳥を目撃。
体長はおよそ1.8m。全身を青黒い羽毛に包まれ、足は鱗に覆われていた。
悪戯心からモアの脚を蔦で縛って遊んでいた所、鳥が怒って攻撃してきたため、怖くなった彼女は父親の元に逃げ帰ったという。アリスは長年それがタカへだと思っていたがタカへが再発見された為タカへでは無いと確信。ラジオにて証言した。

  • 1896年
数人の男子学生が、ニュージーランド南島にあるブロナー湖の付近で、モアと思しき巨大な鳥が道路を横切っているところを目撃。

  • 1963年
ニュージーランド南島の北部にあるネルソンの森林公園で、科学者がモアと思しき巨大な鳥を目撃。

  • 1991年5月
ハイキングでワイマカリリ川の付近を歩いていたをジム・ストラットンが、目の前で川を横断するモアを目撃。
体高は3.3m。全身を暗色の羽毛に覆われていたという。

  • 2001年9月
オーストラリアの未確認生物研究家レックス・ギルロイとその妻へザーが、ニュージーランド北島のウレウェラ国立公園で巨大な鳥の足跡を発見。
足跡は最大のもので24cmあり、3本指で爪先は長く尖っていた。
なお、ギルロイ夫妻は2008年にも同様の足跡を発見、検証を行っている。

  • 2017年4月21日
Youtubeにて、ジャイアントモアを撮影したと思われる動画が投稿された。
4月15日に撮影されたというその映像には、鬱蒼と繁る森林の中を巨大な鳥のような生物が立ち去る様子が映っている。

映像は鮮明で距離もそこまで離れておらず、被写体が走鳥類のような姿の鳥であることは分かるものの、
肝心の鳥の姿が草木の奥に隠れていて分かりづらい上、
撮影者が焦っていたのか、鳥の姿が見えた瞬間に映像が足元の地面に切り替わるなど、不備な部分が見受けられる。

映像についての投稿者の解説は、概要欄に書かれた「ノースランドの茂みでモアの生存が確認された」という一文のみで、
撮影時の状況や、視聴者からのコメントに対する返信は無い。
無論、「この映像が本当にニュージーランドで撮影されたのか」「映っている鳥が本当にモアなのか」という点も一切不明となっている。
なお、投稿者がYoutubeにアップロードしているのは現在でもこの動画のみ。
色々な面で謎の多い映像である。


正体の考察について


パディ・フリーニーの撮った写真もそうであったように、モアの正体を探る時には必ずと言ってもいいほど別種の鳥の誤認説が付いて回る。
特に目撃談から寄せられる体つきや羽毛の色などの身体的な特徴から、モア=エミューの見間違いという説は多くの研究者に支持されている。
しかし、エミューはオーストラリアには全土に生息しているものの、ニュージーランドには存在しないため、
飛べない鳥であるはずのエミューがどうやってニュージーランドに流れ着いたのかという問題を解決しない限り、モア=エミュー説を立証する事はできない。

また、巨大な時折目撃される小型のモアは、ニュージーランドのシンボルことキーウィを誤認したという説も根強い。
キーウィも退化した翼と茶色と暗色の混じった羽毛、力強い後ろ足を備えている。
しかしキーウィの首はモアのように長くはなく、むしろクチバシの方が細長いため、一重にモア=キーウィで片付けてしまうのもやはり無理があるようだ。


追記・修正はスマートフォンでピンボケの酷い写真を撮ってからお願いします。

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最終更新:2026年07月06日 01:45

*1 原題”Transactions of the New Zealand Institute”

*2 原題“The Date of the Extinction of the Moa”

*3 体長40cmほど。オーストラリア、ロードハウ島の固有種で絶滅危惧種に指定されている希少な鳥。

*4 ニュージーランド南島の南東部にある地方。1861年に金鉱が発見されてからイギリス人入植者が殺到した。