登録日:2019/03/17 Sun 17:34:29
更新日:2024/08/01 Thu 06:52:30
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■バリ
『バリ(Bali)』は
インド神話に登場してくる、極めて強大な
アスラの王。
偉大なる(Maha)を冠した
『マハーバリ(Mahabali)』の尊称で呼ばれることの方が多く、バラモン→ヒンドゥーを経て悪役扱いされることが殆どとなったアスラの中にあって、例外的に現在までのインドでも根強い信仰を残している。
因みに、大叙事詩『ラーマーヤナ』に登場する悪の猿王ヴァーリン(Vālin)もバリ(Vali)と呼ばれることがあるが、此方とは全くの無関係である。
神話ではアスラ王である為に
魔王として扱われるが、
神々と因縁こそあれ、常に衆生に目を配り、施しを与える理想的な統治者として描かれている。
曾祖父は
ヒラニヤカシプ、祖父はプラフラーダ、父はヴィローチャナ(ヴィローシャナ)であり、父祖と同じく自身も女神ディティの血族であるダイティヤ族の王、そしてアスラ達全体の王でもある。
歴代のアスラ王=インド神話の魔王の中でも
最強格であり、
仏教でも
婆稚阿修羅王として名前が伝わる。
妻はダイティヤ族の守護女神でもあるコータヴィー。
最も有名な子には、千の腕を持つバーナースラが居り、
シヴァの一族と親交を結んでいたが、後に大事件に巻き込んでしまうことになる。
また、バリはヴィローチャナの子であることから、インド神話に於ける
ヴァイローチャナ(Vairocana)=ヴィローチャナの子とは、マハーバリのことを指すと考察される。
この名は、神格化された
ブッダである
大日如来の梵名にも通ずるが、大日如来の梵名は
“マハーヴァイローチャナ・タターガタ(Mahavairocana Tathāgata)”であり、その解説も梵名の元となった太陽=Vairocanaと比して、
より偉大であると云った比較の為の名であり、遡ってもインド神話に於けるバリとの共通性は見出だせない。
ただ、ヒンドゥーではアスラの名であるが、VirocanaやVairocanaはアーリヤ人流入以前の古代の光明神の名として、ヒンドゥーにも取り込まれた太陽神スーリヤや、同じく太陽に由来する
ヴィシュヌの異名、尊称としてももちいられていたとも考えられているため、
本来は非アーリヤ系に属するシャカ族や、その他の仏教設立に関わる先住民族の間では別の意味を持っていた神名=同地の自然神信仰に於ける最高神格の名だったとも予想されている。
【神話】
ヴィシュヌの化身に殺された兄弟の復讐を望み、苦行により
ブラフマーの祝福を得て神々を苦しめた
ヒラニヤカシプが倒された後、ヒラニヤカシプとは反対に
ヴィシュヌの加護を得て一族を繁栄させた善良なアスラ王プラフラーダの子として、次なるアスラ王ヴィローチャナが生まれた。
『チャーンドーギア・ウパニシャッド』や、初期仏典に見られる説話によれば、
ある時、創造神プラジャーパティの下にアスラの王ヴィローチャナと、神々の王
インドラが集い、創造神の前で
「真のアートマンとは何か?」という問答を行い、プラジャーパティより回答を得た。
創造神は『美しい飾りをつけ、水や鏡に映る姿。それこそが自我でありブラフマンである』と答えた。
ヴィローチャナはこれを聞いて満足して帰ったが、納得の行かなかったインドラは帰る途中で引き返すと、プラジャーパティに対して「盲人は己の姿は見られない」と矛盾を指摘し、鏡像等ではない己自身がある筈だ、と問い質した。
すると、創造神は自分の思惑を汲んだインドラの回答こそが真実であると答えたのであった。
…これは、諸行無常を掲げ、更にはこの世の本質は“
空”であるとして己の実在すらも否定してしまう仏教の教えを、刹那的な観点でしか物事を見ていない無神論者=
唯物論者(Cāruāka)として切って捨て、
更に唯物論者=仏法者を
Asura、
Yaksa、
Rākṣasaと
disる思想が反映されたものであると考えられている。
一方、仏典では
釈尊の御前での問答であるとしてアレンジされており、此方では反対にヴィローチャナが諸行無常や空の観念からサッカ(シャクラ)=インドラを諭す内容へと改変されている。
…ともかくも、インド神話ではヴィローチャナは己は知らずとは云え、インドラとの問答に敗れたことになっており、続くインドラとの戦争に於いて、運悪く戦車より投げ出されてしまった所を、見逃さなかったインドラに討たれてしまったという。
こうして、息子の死後、まだ幼いバリを祖父のプラフラーダが育てることになった。
プラフラーダは自らに悟りを獲得させた
ヴィシュヌの教えを以てバリを教育し、バリも祖父に似た穏やかで正義感に満ちた理想の王へと成長したが、それでも父の無念は忘れられずに己を鍛え上げた。
こうして、己を満足の行くまでに鍛え上げたバリは神々への挑戦を開始。
もう何度目だよ……という、アスラの挑戦に、やっぱり破れたインドラ以下の神々はまたもや天から追放された。
こうして、曾祖父の代から数えて暫くぶりにアスラに三界の支配を取り戻したバリは世界の全体の支配も受け持つことになったのだが、
「バリ王の治世は喜びに満ち溢れ、世界は光り輝き、何処にも飢える者もいない」と讃えられる程に素晴らしい物であった。
「じゃあバリが統治者のままでいいじゃん」……となるのが普通なのだが、
あくまでも神々視点の神話ではそうも行かず、傲慢な神々=
ディーヴァ神属はバリから支配を取り戻そうと考えたのだが、
チートも無しに自分達に勝利したバリに刃向かえる者は神々の中に存在しなかったのである。
これには、本当に神々も打つ手無しとなった。
これまではチートの裏を掻いたり、チートに胡座をかいていたことで、アスラ王は純粋な戦力では今一歩といった実力止まりだったのに、
バリばかりは完全無欠だったのである。
この、ディーヴァ神属の苦難に際し、多くの神々の母でもある大女神アディティは、子である神々の境遇を見て嘆き、祈りを捧げた。
すると、これを利用してやろうとヴィシュヌが応えて、アディティより第5のアヴァターラのヴァーマナ(矮人)として化身に転生して生まれ出ることにした。
乞食僧になったヴァーマナは修行に励み、その聡明さと美しさが世に知られるようになった頃のこと。
民達にバリ王を讃える大きな祭りが催され、そこで王は自分を讃える場なのに民達に施しを与えていた。
そこにヴァーマナも向かい、王の下に歩み出でた。
王がヴァーマナに他の者と同様に「欲しいものは何か」と聞くと、小さいヴァーマナは「三歩分の土地が欲しい」という。
ここで、王の後ろで控えていた王の臣下にして、師でもある聖仙ウシャナーは、目の前の卑小な乞食坊主の小僧が、
ヴィシュヌの変身であることに気付いて警告した。
実は、バリ王もヴィシュヌの変身に
気付いていたのだが、居並び施しを待つ他の者達の手前もあるし、何より
「敵であっても一度交わした約束を反故にすることはダルマに反することだ」として、敢えてそのままにした。
すると、
もはやアヴァターラも関係なくヴィシュヌとしての本性を顕したヴァーマナ、いやヴィシュヌ自身は
一歩毎に天元突破して、一歩目で地界、二歩目で空界から天界までを跨ぎ、この時点で宇宙凡てを跨いでしまっていた所に、
王は自らの頭を差し出して光明神の三歩目の足の置き場所とした。
こうして、領土の凡てを奪われてしまったバリであったが、ダルマを重んじる誇り高きアスラ王は詐欺紛いの手段に文句も言わずに、潔く身を引いたという。
その高潔な精神を認めたヴィシュヌは、自らの信徒であるプラフラーダにも免じてバリを許し、地下世界スタラを領地として与えることにし、マハーバリは、今でも親族と共に世界の平和を願っているという……ひっでぇなオイ。
実際、現在でもインドのケーララ(ケララ)州では8月か9月に偉大なるバリ王が還ってくることを祈願する祭り=オナム(オーナム)が数日をかけて開催されている。
オナムでは手作りの花飾りプーカラムが町中に飾られ、また祭の間中はプーカラムが降り注ぎ、花飾りのコンテストも行われる盛大な物であるという。
日本でも在住のケララ人が祝っているそうで、ケララ人の多い葛西では大規模な催しとなっているそうな。
【改変】
この、マハーバリの説話は流石に神々の側に非があるのは否めないので、多くの改変によるバリエーションが多い模様。
何しろ、神の側がインチキ臭い理屈で理想的な統治者をペテンにかけるみたいな話では体裁が悪いからであろう。
まず、純粋にバリ王を悪逆無道な悪役として描くのに始まり、バリ王が頭を差し出した時に死んでしまったとする話や、「バリ王が民に優しかったのは王の唯一の欠点であるエゴのせいであり、ヴァーマナはそれを解き放ったのだ」と尤もらしい説法に使われているパターンもある。
しかし、上記のオーナムの様にバリ王は民に慕われる王様であった、というのが真実の様である。
尚、バリには全く敵わなかったインドラが、落ちぶれたバリ王を笑いに来たとする、酷すぎる後日談が付加されている場合もある。
しかし、バリ王は反対に傲慢なインドラを諌め、権力の虚しさを解くというのがパターンの様で、どうにも神の側に格好が付かない形になっているようだ。
追記修正はやり込みプレイを極めてからお願いします。
- このエピソードのヴィシュヌを「フィジカル系クソ一休さん」と称した人見て草生えた -- 名無しさん (2023-04-08 11:26:49)
最終更新:2024年08月01日 06:52