アドマイヤドン(競走馬)

登録日:2020/04/07 (火) 01:50:00
更新日:2020/04/07 Tue 22:33:44
所要時間:約 35 分で読めます




アドマイヤドンは中央競馬の元競走馬のサラブレットである。


生年月日:1999年5月17日
父:ティンバーカントリー
母:ベガ
母父:トニービン
オーナー:近藤利一
調教師:松田博資
担当厩務員:山口慶次
生産者:早来・ノーザンファーム
成績:25戦10勝(通算)
   17戦5勝(中央競馬)
   7戦5勝(地方競馬)
   1戦0勝(海外競馬)
タイトル:2001年度JRA賞最優秀2歳牡馬
     2003年度JRA賞最優秀ダートホース
     2003年度NARグランプリ特別表彰馬
     2004年度JRA賞最優秀ダートホース
生涯獲得賞金:8億6780万8000円 (通算)
       4億380万8000円(中央競馬)
       4億6400万円(地方競馬)

1998年、輸入種牡馬であったティンバーカントリーの種牡馬価値を上げたいという思惑から既にG1ダービー馬アドマイヤベガ、G2セントライト記念馬アドマイヤボスを産んでいた牝馬クラシック2冠馬のベガの種付け相手にティンバーカントリーが選ばれた。
前述の2頭はどちらも父はサンデーサイレンスであり、それはジェニュインやタヤスツヨシを始めとして既に結果を出していた種牡馬であった。
そして結果を出した繁殖牝馬に未知数の種牡馬を付けることは大きな賭けであった。
そしてその結果産まれたのが後にアドマイヤドンと名付けられることになる牡馬であった。

かつて母のベガが桜花賞に出走してきたときに、馬主をしている近藤利一氏がパドックを見てベガに惚れてしまう。
その場でベガを売ってくれないかとベガのオーナーに直談判するが、もともと脚が曲がっていて売り物にならなかった馬を売ることはできないと断られれしまう。
しかし、その時に、もし引退して繁殖牝馬になったならばその子供は優先して売って貰える約束をしてもらえた。
近藤氏はその約束通りにベガの子供を購入。
初仔はアドマイヤベガと名付けられ、晴れてダービーを勝ち、近藤氏もダービーオーナーになることができた。
2番仔はアドマイヤボスと名付けられ、G1こそは勝てなかったが、G2セントライト記念を勝ち、古馬G1戦線で掲示板に乗る活躍をした。
そして3番仔はアドマイヤドンと名付けられた。そして兄2頭とは違い、母ベガの面倒を見ていた松田博資調教師のもとに預ける。そして担当厩務員もまた母ベガの面倒を見ていた山口慶次厩務員である。
この山口厩務員は後には名牝ブエナビスタやハープスターも担当する人物である。

アドマイヤドンがデビューする以前にティンバーカントリーの子はギルデッドエージが中山大障害を制し、アドマイヤドンがデビューの歳にダービーグランプリを制していたが、その当時は産駆の傾向は早熟でダートのマイラーが多いという評判であった。
実際、POG(ペーバーオーナゲーム)に関する本ではデビュー前のアドマイヤドンの評価はかなり低い方であり、POG期間(2歳新馬からダービーまで)には適したレースがなく(地方競馬のレースではポイントが入らない)、その後中央で条件の適したレースに出れる頃には既にピークを過ぎていて厳しいだろうと書かれていたりもした。

そうした評価の中、2001年10月13日京都競馬場でデビューを迎える。
父ティンバーカントリーの影響でダートの1400m戦だった。鞍上は藤田伸二騎手。
2番人気のスイートルームとほとんど差のない1番人気で単勝オッズは2.6倍。後にダートG1を多く勝つ名馬にしては高い数字だった。
レースは12頭立ての3番手で道中進んだアドマイヤドンは最後の直線で内の2頭を交わすと、残り200mからは独走体勢で8馬身差の圧勝だった。

圧勝劇に気を良くしたアドマイヤドン陣営は、次のレースに芝の京都2歳ステークスを選択する。
このレースの勝ち馬には以前には3冠馬ナリタブライアンや桜花賞馬シャダイカグラなどがいる出世レースである。その後もヴィクトワールピサやエピファネイアなどが勝ちを納めている。
このレースも前目から進み4馬身差の圧勝で2連勝を飾る。

そして陣営は次に2歳G1である朝日杯フューチュリティステークスへの出走を選択する。
母は桜花賞、オークス勝ち馬、半兄はダービー馬、そして父はダート馬のティンバーカントリーであることから、過剰人気馬と揶揄されながらも当日は単勝2.1倍の1番人気になっていた。
レースは前2走とは違い中団前目につけて4コーナーでは馬群の真ん中を割って両側からの圧力に負けず伸び、最後はヤマノブリザードの追い縋りを3/4馬身退けて無傷の3連勝でG1ホースに輝いた。
母仔及び兄弟での中央G1制覇であった。
勝ち時計は1.33.8の好タイムで、朝日杯3歳ステークス時代のグラスワンダーに次ぐ歴代2番目のレース走破タイムであった。
ちなみに、単勝2.1倍での勝利は朝日杯3歳ステークス時代にはグラスワンダーやナリタブライアンなどが低配当で勝っていたが、馬齢表記が変わりフューチュリティステークスとレース名が変わってからは、2019年のサリオスが単勝2.0倍で勝つまで最低配当であった。
しかしサリオスの時代には朝日杯フューチュリティステークスの開催が中山競馬場から阪神競馬場に変わっているため、中山競馬場開催の朝日杯フューチュリティステークスでは歴代最低配当である。

無傷の3連勝で2歳G1である朝日杯フューチュリティステークスを勝ったアドマイヤドンは圧倒的な得票数で最優秀2歳牡馬に選ばれた。

そして、年が明けて2002年。陣営はクラシック路線参戦を見据え、年明け初戦を阪神芝2000mの若葉ステークスとした。
しかし、このレースにはのちにクラシックで活躍する後の皐月賞馬ノーリーズンや後に菊花賞2着に好走するファストタテヤマが出走していた。
レースはハナに立ったシゲルゴットハンドが逃げ切り、アドマイヤドンは差し切ろうとするも逃げたシゲルゴットハンドを捕え切れず更に外から来たファストタテヤマにも交わされ3着に敗れてしまう。
アドマイヤドンは休み明けとはいえ、朝日杯後にシンザン記念を挟んでいるとはいえ朝日杯では完全に千切り捨てたはずのファストタテヤマにも交わされてしまったのだ。

しかしこれには理由があった。
トレーニングセンターには、追い切り後パドックのように歩いて周回しながらクールダウンさせる場所があるというのだが、この場所では時計回りに進むと言うのが暗黙の了解であったという。
しかし若葉ステークスへ向けた追い切りの後のこの日は何を考えたのか逆周りをする馬がいたというのだ。
周りは危ないからやめろと何度も注意していたのだが、その馬を引いていた厩務員はどこ吹く風とばかりに無視して逆回りをやめなかった。
そして、事件は起きた。それはある意味必然だった。突然、馬が暴れ出したのだ。
そしてその馬が近くにいた馬を蹴り付けた。
その蹴られた馬こそがG1ホースのアドマイヤドンだった。
首の付け根辺りを蹴られ、陥没するほどだったそうだが、大きな怪我ではなく出走することにも問題はなさそうだった。
しかし、大切なG1ホースを傷付けられた松田調教師はそのアホ厩務員に激怒し、その直ぐ後からは周回する時のルールが明文化されたという。
しかし、アドマイヤドンの外傷は問題なかったのだが、その他の所で大問題が発生していた。
他馬に蹴られた影響で身体のバランスが悪くなってしまったのだ。
それまでは美しいフォームで走れていたのが、ちぐはぐな走り方になってしまったのだ。
ちぐはぐなフォームだと、当然綺麗なフォームに比べてスピードが出せない。同じスピードを出すにも余計な力が必要になる。そして疲れやすくもなるし、怪我にも繋がるといいことはなにもないのだ。
これは結局引退する最後まで2歳時の美しいフォームに戻ることはなかったという。
3歳初戦を前にして早くもアドマイヤドン陣営以外の人物による人為的なミスで大きなハンデを背負ってしまったことになる。

一度狂ってしまった歯車はなかなか元には戻らなかった。
しかし体調は問題ないので、続くクラシック戦線には挑戦いった。
皐月賞は中団から伸び切れず7着に敗れて、初めて掲示板を外す。
続くダービーもやはり伸び切れずに6着と敗れてしまう。
このダービーにはダート路線で結果を残してきたゴールドアリュールという馬が参戦していたのだが、この馬にも届かなかったのだ。

その後、短期放牧を挟んで出走したG2札幌記念では久々に4着と掲示板を確保する。
そしてまた短期放牧を挟んで菊花賞に出走。
このレースはヒシミラクル、ファストタテヤマと人気薄のステイヤーが勝ち負けを競う中、ここも4着と掲示板を確保した。
ここで思い出してもらいたい。ティンバーカントリー産駆の評価は早熟のダートのマイラーが多いということを。
菊花賞は芝3000mのG1である。デビュー前にこの条件でこれだけ好走できると思っていた人はほとんどいなかったであろうことは想像に難くない。
ちなみに、このときの3着のメガスターダムの父は名マイラーのニホンピロウィナーである。

この菊花賞出走と前後して、アドマイヤドン陣営は勝ち切れない日々を打破するために菊花賞から15日後の盛岡ダート2000mの地方G1であるJBCクラシックにも登録を済ませていた。
登録の時点では賞金が足りておらず、補欠1番手であったが、回避馬が出たために出走出来ることになった。
陣営はもし菊花賞に勝っても体調が問題無いならJBCクラシックに出走させるつもりであった。
かくしてアドマイヤドンはデビュー戦以来のダート戦に中14日の過密スケジュールで出走することになった。
アドマイヤドン陣営は、芝からダートに変えることでアドマイヤドンの変わり身を期待したのである。

レースの相手はダート3連勝中の牝馬プリエミネンスや名牝ロジータの仔でこの歳の帝王賞馬カネツフルーヴなどがいたが、アドマイヤドンは好位につけると4コーナーでは早くも先頭に立ち、直線では他馬を寄せ付けず、独走で最後は7馬身差の圧勝に終わった。
ちなみに鞍上の藤田伸二騎手はこの時初めて同じ馬でG1の2勝目をあげることが出来たのだ。

JBCシリーズはアメリカのBC(ブリーダーズカップ)を手本に地方競馬か開催を始めたG1レースシリーズである。
当初はJBCクラシックとJBCスプリント(マイル)だけであったが、後にJBCレディースも行われることとなる。

アドマイヤドンが出走した2002年はまだ第2回目であり、まだ世間にはあまり周知されてはいなかったが、バリバリのG1ホースでしかも良血であるアドマイヤドンが出走したことで広く知られるようになった。

ちなみにJBCクラシックは2019年までに19回行われているが、3歳馬で優勝したのはアドマイヤドンのみである。
ある歳のJBCクラシックの勝ち馬予想のあるコラムでは、『前走芝3000mから勝ち馬が出ているがもしこのローテーションで挑む馬がいても買うことは勧めない。もしその馬が勝ったとしたら、その時はその馬をアドマイヤドン級の名馬としてその後扱えばいい』と書かれたりもした。
ちなみに現在日本競馬では平地の芝3000m以上のレースは菊花賞、万葉ステークス、阪神大賞典、春の天皇賞、ダイヤモンドステークス、ステイヤーズステークスの6つであり、施行時期が大きく変更しない限り、11月3日のJBCクラシックに出走するには過密スケジュールになる菊花賞か、半年以上も間隔の開いてしまう他のレースしかないので、そういう意味でも出走する馬はほとんどないと言ってもいいだろう。

ダートG1を圧勝したことでアドマイヤドンはこの後、当分ダート路線を歩むことになる。
次のターゲットはこの歳は中山で行われたジャパンカップダートであった。
このレースには先のダービーで先着されたダートG1ホースのゴールドアリュールも出走してきた。
ゴールドアリュールはダートG1を圧勝で2連勝中だったが、最終的には1番人気はアドマイヤドンであった。古馬相手、しかも帝王賞馬相手に圧勝したことなどが評価されたのだろう。

レースは前を行くゴールドアリュールをアドマイヤドンがその後ろでマークするような展開になった。
直線に入ってアドマイヤドンがゴールドアリュールを捕える。初の古馬相手になったゴールドアリュールは伸び切れず下がっていく。
アドマイヤドンが勝ち切るかに見えたが最内から海外の名騎手デットーリに導かれたイーグルカフェが一気にアドマイヤドンが交わしきった。そして最後のゴール前でリージェントブラフがアドマイヤドンを僅かに捕え2着になった。
アドマイヤドンは最大のライバルと目されたゴールドアリュールこそ交わしたものの、伏兵に足下を掬われた形となった。
イーグルカフェの勝利は間違いなくデットーリの騎乗技術の勝利であった。
ちなみにこのデットーリ騎手は翌日のジャパンカップでもファルブラヴで勝利し2日連続のG1勝利となった。

菊花賞から短い期間でのG1レース3連戦となったアドマイヤドンはこの年は残りの東京大賞典などには出走せず、これで休養に入り、翌年のフェブラリーステークスから始動することとなる。

そして年末の大井競馬ダート2000m東京大賞典はライバルであったゴールドアリュールが制したのである。

2003年のアドマイヤドンの始動は中山ダート1800mのフェブラリーステークスになった。
このレースでの1番人気はゴールドアリュール。前走のジャパンカップダートではアドマイヤドンが先着していたのにこのレースでは2番人気となっていた。
ゴールドアリュールはこの後、ドバイワールドカップに参戦する予定となっていたのでその応援の意味もあったのだろう。

レースはスタート直後悲鳴が上がった。大外枠のアドマイヤドンがゲートを出た直後大きく体勢を崩したのだ。あわや落馬、故障かと思われたが、騎手は落とされず馬も体勢を戻して走り出した。
その時点でアドマイヤドンのレースは終わっていたのだが、まだ不運は続く。
後ろの方からの追走になった第1コーナーで他の馬に体当たりされてしまう。それにもめげずに走り続けるが、さらに第4コーナーでも他の馬にぶつけられてしまった。
ここまでされれば勝つことなど不可能である。アドマイヤドンは生涯最低着順の11着に敗れてしまった。

勝ったのはスムーズにレースを進める事ができたライバルのゴールドアリュール。ドバイ遠征へいい弾みになったのは間違いなかった。

あまりにも酷いレース内容だったアドマイヤドンは2003年前半期は休養に入ることになる。

その間、ゴールドアリュールはドバイ遠征に向けて着々と準備を進めていたが、不運なことにイラク戦争が勃発。ドバイへの渡航手段が断たれることとなり、泣く泣くドバイワールドカップ出走を諦めざるを得なかった。

しかし、次のレースはアンタレスステークスを選択。これもなんなく勝利し、その次は、地方競馬上半期総決算のダートレース帝王賞に進んだ。
しかし、ゴールドアリュールは帝王賞直前に体調を崩し、1.1倍の圧倒的人気を裏切って11着に敗れてしまう。その後の検査で喘鳴症を発症していることがわかった。
その後のダイワメジャーのように手術して克服した馬もいることにはいるが、必ず完治するとは限らず場合によっては長期の休養を必要とすることから引退が決まったのである。


ライバルが病でターフ(?)を去った後、アドマイヤドンは復帰戦を9月のエルムステークスと定めた。
そして鞍上は藤田伸二騎手から安藤勝己騎手に乗り替わりになった。
オーナーサイドから見れば藤田騎手の腕に不満があったようだ。特にフェブラリーステークスの内容は悪すぎたと言えよう。
ちなみに、藤田伸二騎手はこの後、近藤利一オーナーの馬にはほとんど乗せてもらえなくなってしまう。
そして乗り替わりの安藤勝己騎手と言えば、元々地方の笠松のベテラン騎手でこの歳に中央の騎手に転校したばかりであった。かつては笠松時代のオグリキャップ
やライデンリーダーと言った有名馬に乗っていた旗手である。

そして迎えた復帰戦、札幌ダート1700mのエルムステークス。
イーグルカフェやプリエミネンスを押さえて最重量斤量を背負って1番人気に支持された。
レースは中団を進んだアドマイヤドンが早めから捲って前を捕えて先頭に立った。
直線半ばではもう既に後ろの馬とは届かないくらいまでに差をつけていたのだが、鞍上の安藤騎手は追いに追いまくった。
安藤騎手は体感ではそれほどスピードが出ているようには感じられなかったと言う。
しかしゴール前に後ろから馬が来る気配が全くないのを不審に思い、後ろを振り返ると、馬群は遥か後方であった。
その結果、2着との差は9馬身差。これはグレード制導入後、中央競馬の平地重賞で59kg以上を背負った馬が着けた最大着差であった。
しかし、いい年をして沢山のレースの騎乗経験のあるはずの安藤騎手はアドマイヤドンの実力をきちんと把握できていないという不安が残った。この不安はこの後大レースで何度も悪い方向に的中することになる。
それでも、デビュー当初は早熟と思われていたアドマイヤドン。前走の内容からももう終わったと思っていた人も少なからずいたであろうが、ここにきてさらに強くなって帰ってきたことは間違いがなかった。

次のレースは昨年JBCクラシックを勝った盛岡で行われるダート1600mの南部杯マイルチャンピオンシップが選ばれた。
相手は昨年の覇者アグネスデジタルやイーグルカフェ、後に東京大賞典を制するスターキングマンなどだった。
特にアグネスデジタルとイーグルカフェは芝とダートの両G1を制した馬であり、アドマイヤドンを含めて3頭の二刀流馬の激突となった。
ちなみにこの時点で芝ダートの両G1制覇を成した馬は4頭おり、その内3頭が揃っていたことになる。あとの1頭はクロフネである。さっさと引退してしまったことが惜しまれる。クロフネはアドマイヤドンの1つ上の世代であったから、無事であったならば対決があってもおかしくはなかったのだから。

レースはドロドロの不良馬場で行われ、外枠のアドマイヤドンが馬群の外外を通って番手を上げていき、直線では早々と先頭に立ってそのまま押し切って完勝した。
2着は地方馬のコアレスハンター。その差は4馬身だった。

快進撃はまだ続く。
次のレースは連覇を狙うJBCクラシック。この年は大井競馬場での開催だった。
ここでの相手は、前走南部杯マイルチャンピオンシップ2着のコアレスハンター、3着のスターキングマン、ゴールドアリュールが病で沈んだその年の帝王賞勝ちのネームヴァリュー、川崎記念勝ちのカネツフルーヴ、一つ下の盛岡巧者ユートピアなどであった。さらに後に春の天皇賞を人気薄で逃げ切るイングランディーレも出走していた。

レースはここも前目につけて直線入り口で先頭に並びかけ、最後は余裕を見せるほどで3馬身差の完勝。2着はスターキングマンだった。

これで復帰後、重賞3連勝。次は昨年1番人気で伏兵に涙を飲んだジャパンカップダートに再び挑戦することになる。

充実期を迎えたアドマイヤドンに敵は無いと思われていた。
当日単勝1.5倍の圧倒的1番人気。2番人気は姉にトゥザビクトリーを持つサイレントディールだった。
大雨の中行われたジャパンカップダートはアドマイヤドンにとって不運なことに鞍上の安藤勝己騎手の悪い所が余すところなく出てしまったレースになってしまった。
レースはカネツフルーヴと海外馬のフリートストリートダンサーの2頭が後ろを大きく引き離して逃げる展開になった。海外でも大した成績を残していなかったフリートストリートダンサーを安藤勝己騎手は甘く見過ぎてしまっていたのだった。
4コーナー手前で軽快に逃げるフリートストリートダンサーにようやく気付き、慌てて全力でそれを追いかけたのだ。
しかし、アドマイヤドンは安藤勝己騎手が考えているよりももっと強い馬だった。
ゴールに行くまでに届いてくれと追いまくられたアドマイヤドンは、直線半ばでフリートストリートダンサーを抜くほどの脚を見せたのだ。しかしそれがいけなかった。
フリートストリートダンサーを交わしたことで、安藤勝己騎手は気を抜いてしまったのだった。
かつて上村騎手がサイレンススズカ
でやらかしたことがあったが、あれはまだG2での話。
こちらはG1の中でも高額賞金の部類に入るレース。最低最悪の大チョンボである。
まだゴールまで少し距離があるところで気を抜いてしまった安藤騎手に対してフリートストリートダンサーが再び差し返して来たのだ。そしてそのことに安藤騎手が気付いた時にはもう遅かった。
そうでなくても、フリートストリートダンサーを捕えるために全力疾走で走ってきたアドマイヤドンである。一度気を抜いたところにもう一度なんてことは酷であろう。
そして結果は4cm差、アドマイヤドンが破れてしまった。

結果論ではあるが、安藤勝己騎手は人気薄の逃げ馬がどういうペースで走っているのかというのを掴むのを苦手としている。
菊花賞馬ザッツザプレンディに騎乗時の2004年の春の天皇賞のイングランディーレ、ブエナビスタに騎乗時の2009年のエリザベス女王杯のクィーンスプマンテなど、同じような過ちを何度も犯してしまっている。
これはレースの騎乗経験自体は回数をこなしていて文句はないのだが、笠松競馬出身のため、短くて単調なレースがほとんどで、長い距離のレースには慣れていないということがあったのではないだろうか。

さらに安藤勝己騎手は、歴史に残る僅差の勝負になったときにはなぜか負けてしまうことが多かった。
この2003年ジャパンカップダートの他に、2008年の秋の天皇賞でのウオッカ相手のダイワスカーレット。2009年のスプリンターズステークスでのローレルゲレイロ相手のビービーガルダン。と、5cm以内のハナ差負けを3度も経験している。
その他、デュランダル相手のビリーヴ、キンシャサノキセキ相手のビービーガルダンでもG1でのハナ差負けを喫している。

この後、週刊ギャロップ内で佐々木竹見元騎手は、『自分がアドマイヤドンに乗っていたら100回やって100回勝てるレースだ』と言及しており、又、柴田政人元騎手も、『アドマイヤドンに乗っていたら負けるビジョンが想像できない』と安藤勝己騎手の騎乗を酷評していた。

アドマイヤドンのファンにとって更に許せないことは安藤勝己騎手はレースに負けたのはアドマイヤドンが先頭に立ったことで最後に気を抜いたからだと言ったことである。
そもそも馬という動物は穏やかな性格をしており、何もなければ全力で走ることなどしないのである。命令をしなければ余程のことが無い限り走るのをやめるのは当たり前のことである。
そして馬が気を抜かずにゴールまで走るように手綱を取ることが騎手の仕事であるのは言うまでもない。
はっきり言って、安藤勝己騎手のこのコメントはプロ失格といっても過言ではないだろう。
そもそも、南部杯チャンピオンシップや2度のJBCクラシックでは直線入り口で完全に先頭に立っても気を抜くことなく最後までちゃんと走っていたのだから、気を抜く癖なんてあるわけがない。完全にいちゃもんである。
しかし、安藤勝己騎手は先のようなコメントを残してしまったためにこれまでのレースとこの後のレースでの乗り方が変わっていくのである。

そして、今年度も東京大賞典には出走せずに短期休養を選んで翌年の初戦はフェブラリーステークスに定めた。そして最大の目標は昨年ゴールドアリュールが無念の回避を余儀なくされたドバイワールドカップ挑戦であった。

さて、なにはともあれ2003年度は5戦3勝2着1回、G1レース2勝で2着も勝ったのは海外馬。その他のダート馬でこの年にG1を2勝以上した馬がいなかったために、JRA賞最優秀ダートホースとNARグランプリ特別表彰馬に選ばれた。

年が明けて2004年。初戦は予定通りフェブラリーステークスに決定した。
昨年のエルムステークス以降、日本馬相手には最後並ばせすらしなかった内容から、ドバイワールドカップに向けてアドマイヤドンがどのような内容で勝つかが焦点となった。
単勝オッズ1.3倍の圧倒的一番人気。

レースはアドマイヤドンは中団外のほうからレースを進め、最後の直線に入っても包まれない馬群の外側に狙いを付け、直線半ばから気合いを付けて追い出して前を交わしていく。
内ラチを突いたペリエ騎手騎乗のサイレントディールが最後、あわやと突っ込んできたがアドマイヤドンがきっちり1/2馬身差で勝利した。着差以上の完勝劇であったことは間違いない。
これまでの先行早め抜けだしを封印し、前走での安藤勝己騎手が自分勝手な言い訳をしたがために、気を抜いてしまうのを避けるために安藤勝己騎手はぎりぎりまで追い出しを我慢し最後の最後できっちり差し切る競馬を試みた。
アドマイヤドンの凄いところは、相手によって臨機応変に対応しレースをするのではなく、騎手のミスを隠すために理想とするレースを体現し、実行したうえで勝ち切ってしまったところである。

しかもこのレース、出走馬が後に制するレースを含めると、アドマイヤドンを含めて実に10頭のG1が揃っていたことだ。
しかもその中にはG1レース7勝のブルーコンコルドや5勝のタイムパラドックスが含まれている。

この勝利でアドマイヤドンは中央の芝とダートG1勝利を成し遂げた。史上4頭目の快挙である。
さらに地方中央合わせてダートG1レースを4勝目、同期のゴールドアリュールと並んで史上最多タイ記録である。(地方のレースにグレードが付く以前に制したレースや中央でG1昇格前のレースを制したものはカウントしない)
さらに4年連続G1勝利はメジロマックイーン、メジロドーベルに続いて史上3頭目の快挙であった。

次のレースはついに世界最高峰レースのドバイワールドカップだった。
松田調教師にとって海外遠征とはアドマイヤドンの母ベガで実現まで持っていけなかったフランス遠征以来の大願でもあった。
しかし、ここでもアドマイヤドンにとって不運が襲い掛かってきた。
アドマイヤドン関係者一同、オーナー、調教師、騎手、厩務員、その全てが海外遠征の経験が無かったのだ。
初めての海外競馬、松田調教師も、安藤勝己騎手も足が地に着かず、気がつけば何もかもが終わっていた。
周りの人間が皆そんな状態だったから勝ち負けなんて出来るはずもなかった。
レースは後方を進み8着に終わった。

しかし母ベガが為し得なかった海外遠征を堂々たる日本代表馬として成し遂げ、母の同期のライバルであったもう1頭のベガ・・ホクトベガの亡き地に立ち、走り、ホクトベガが出来なかったゴールにもたどり着いたのだ。

ドバイワールドカップを引退レースと考えていたホクトベガとは違い、アドマイヤドンの競走馬生活はまだまだ続いていく。

帰国初戦は大井ダート2000mの帝王賞に決まった。
日本馬にとって、ドバイワールドカップというレースはとんでもなく消耗するものであった。
デューティーフリーなどではそうでもないのだが、メインのドバイワールドカップ帰りの初戦を4ヶ月以内に戦った馬はそれまでもそれからも例外なく負けてきた。ドバイワールドカップの次走に勝った馬はトゥザビクトリーやヴァーミリアンみたいに半年以上の休養を挟んでいる。

しかしアドマイヤドンだけは違った。
最後の直線、絶好の手応えで逃げ切りを図るナイキアディライトを最後の最後、猛烈な鬼脚を炸裂させ僅かながら捕え切った。これでG1レース6勝目。ダートG1レース5勝は日本での最多新記録だった。
ドバイワールドカップでも日本馬には先着を許さなかったためにエルムステークスから約1年、日本馬は相手にならなかった。

しばしの休養の後、2004年下半期初戦は昨年勝った南部杯マイルチャンピオンシップに決定した。
ドバイ遠征の疲れもなく、アドマイヤドンは順調にきていたが、またもや鞍上の安藤勝己騎手が後々にまで響く大チョンボをしてしまう。騎乗停止処分になって南部杯で乗れなくなってしまったのだ。

アドマイヤドン陣営は安藤勝己騎手の変わりとして日本の誇る名手武豊騎手に騎乗を依頼した。しかしこのことが後に深い後悔に変わることはこの時には知る由もなかった。

騎手の乗り替わりがあったものの乗り替わった騎手が武豊騎手とくればファンも不安には思うこともない。蓋を開けてみれば単勝1.1倍の圧倒的1番人気に支持される。
相手関係ももう勝負付けは終わったという反応だった。
しかし、この日のこのレースには盛岡巧者のユートピアという馬が出走していたのだ。
ユートピアには武豊騎手が乗っていたこともあり、しかし結果は残せなかったこともあって武豊騎手にも油断があったのかもしれない。
横山騎手の思い切った逃げに取りこぼしてしまったのだ。アドマイヤドンが約1年振りに日本馬相手に負けたのだった。
やはりテン乗りではダメだったのか? 安藤勝己騎手が乗っていればと思ったファンも多かったに違いない。
しかし、このレースがのちにアドマイヤドンが負ける伏線になっていようと思った人はいなかっただろう。

次走に選んだのは相性の良い大井ダート2000mのJBCクラシック。昨年、一昨年の覇者であるアドマイヤドンは3連覇を賭けて出走することになったのだ。
日本競馬史上において、平地での同一G1の3連覇は未だ達成したことのない大偉業であった。
グレード制導入後となってしまうが、そもそも3連覇を賭けて出走した例が1993年の春の天皇賞でのメジロマックイーンのみである。それもライスシャワーの前に敗れ去っていた。あれから11年、2頭目の挑戦であった。

前走の敗戦でアドマイヤドンの衰えも囁かれたが、鞍上が主戦の安藤勝己騎手に戻ることは好材料と思われていた。
単勝1.3倍の1番人気。しかしその裏ではとんでもないことになっていた。
鞍上の安藤勝己騎手が病気で意識がかなり朦朧としていたらしいのだ。
実際にメインのJBCクラシック以外で安藤勝己騎手が乗った馬はぼろ負けを喫している。
しかし、観客やファンはそれを知ることはない。

レースは稍重で行われた。
ハナを奪ったのは最内枠のユートピア。さらにナイキアディライトが続き超のつくハイペースになった。
その後ろにはアジュディミツオーが追い掛ける。アドマイヤドンはやや離れた5番手の内を追走していた。
レースが動いたのは3,4コーナー中間地点。
ナイキアディライトが一杯になり、ユートピアが逃げ粘ろうとする所に未完の大器アジュディミツオーが並びかける。そしてその外へアドマイヤドンが襲い掛かって来た。
直線入り口、先頭に立ったのはアジュディミツオー。鞍上の内田騎手は後に『今まで何千回何万回と乗って来たコースで絶好の手応えを残して最高のタイミングで先頭に立った。ここで勝ちを確信したんだが・・』
その言葉通り、500kgを越える大型馬のアジュディミツオーは物凄い迫力をもって後続を振り切ろうとしていた。しかしその外を1頭の名馬が一瞬で抜き去っていく。
また内田騎手は『初めての大仕事を貰ったと思った瞬間に抜かれて突き放されていた。あれが名馬なのかと思った瞬間、アジュディミツオーの闘志に火が付いて喰らい付くように差を詰め始めた。この調子だともしかするといけるかも、と思ったが、並びかけた時にまた一瞬で放された。もう一度詰めようとしたところがゴールだった』とも言った。

勝ったのはアドマイヤドン。2000mのタイム2.02.4、レコードタイムでの大偉業達成だった。

大井競馬場は昭和50年代後半にナイター競馬を始めるためにダートの砂をナイターに映えるものに変えたという歴史がある。その時に砂を深く敷き詰め、その結果レースタイムがかなり遅くなってしまった。そしてそれからこの時に至るまで、レコードタイムが更新されたことがなかった。
発走時刻20:15だったJBCクラシック。大井競馬場のナイター競馬施行以来初めてレコードタイムの文字が灯ったのだった。

しかしそんなことは、他の大偉業の前ではおまけみたいなものであった。
何といっても日本競馬史上初めての平地G1レース3連覇達成。前人未到の大記録である。
通算G1レース7勝は、伝説の皇帝シンボリルドルフ世紀末覇王テイエムオペラオーに並ぶ史上最多タイ記録。
ダートG1レース6勝目は自身の記録を塗り替える新記録。
まさに記録づくめの大勝利であった。

アドマイヤドンとは対照的に鞍上の安藤勝己騎手は2日後には体調不良でついに倒れてしまい入院を余儀なくさせられてしまう。
JBCクラシック当日は既に体調がかなり悪く、薬を飲んでなんとかレースに乗れているという状態だったようだ。現にJCBクラシック当日にそのレース以外に乗ったレースでは成績は散々だった。
しかしアドマイヤドンの場合は、安藤勝己騎手が余計なことを考えずに乗れていたことが功を奏していたような感じもないことはない。

そして次はいよいよ勝つことが悲願となっていたジャパンカップダートへの挑戦である。
2年連続で惜しいところで勝利を逃してしまっていたこのレースの勝利こそが国内敵なしの状態になっていたアドマイヤドンにとって残された唯一の課題のようなものだった。
しかし、ここで立ち塞がったのは同厩舎の馬と天才騎手だった。

ローエングリンが先頭で引っ張ったこのレースの勝負が決まったのは第4コーナー手前での選択だった。
タイムパラドックス騎乗の武豊騎手はその日、自分の乗る馬の状態がとても良いことを理解していた。しかし、それでも普通に乗ったのであればアドマイヤドン相手にギリギリ勝ち負け出来るくらいだろうとも思っていた。
「勝つためには最後の直線の前半でアドマイヤドンが届かないくらいまで差をつけること」
これが武豊騎手の秘策であった。
そう、南部杯マイルチャンピオンシップでの安藤勝己騎手の大チョンボとは、騎乗停止になってアドマイヤドンの手綱を武豊騎手に譲る機会を作ってしまったことであった。
武豊騎手はだた一度の騎乗で抜かりなく、アドマイヤドンの特徴を、長所を、そして短所をきっちり把握していたのだった。
アドマイヤドンに切れる脚はない。しかし、並ばれれば根性でしぶとくくらいついてくる。
その答えが最後の直線の前半で抜け出して貯金を作ることだったのだ。

第3コーナー地点ではタイムパラドックスは外にアドマイヤドンを見る位置にいた。
この時、武豊騎手はいかにアドマイヤドンを出し抜くかを考えていた。
最後の直線が近づいてくるが、ここで仕掛けても横に並んだらそれについてくるに違いない。
しかし、前の方に行かなければ抜け出すこともできない、さあどうするか・・

と、その時

アドマイヤドンが馬群の一番外に進路を取った。いやアドマイヤドンの判断ではない。安藤勝己騎手が馬群の一番外を選択したのだった。
最高のタイミングでアドマイヤドンとの距離が離れた瞬間に武豊騎手は勝利を確信した。
「あれっ?勝っちゃうよ?いいの?って感じでした」とは後の武豊騎手のコメントである。

さて、それでは何故安藤勝己騎手は勝負どころで外を通ることを選択したのか?
それにはいろいろな要因があった。
まず、昨年のエルムステークス以降、安藤勝己騎手が手綱を取ったときのアドマイヤドンはここまで日本馬相手に先着されたことはなかった。
そして、昨年実力不明の海外馬に判断ミスから後れを取ってしまっていた。
そう、この年は3頭の海外馬が出走してきていた。
そしてこの瞬間、その内の実力馬トータルインパクトが馬群の外にいたのだった。
2年連続で海外馬に足下をすくわれるわけにはいかない・・・・これがこの時の安藤勝己騎手の想いだったに違いない。日本馬は眼中にはなかった。海外馬を競り落とした後でいかようにでも料理できるだろうと、思いあがっていたのだ。
安藤勝己騎手がアドマイヤドンと歩んできた道のりがこの日は全て悪い方向に向かっていた。
しかし、タイムパラドックスとアドマイヤドンの最大の違いはチャンピオンホースであったかどうかであろう。
1頭を標的にレースに挑める存在と自分以外の全てが自分を目標に挑んでくる存在。
チャンピオンになるよりもチャンピオンを続ける方が大変だとはよく言ったものである。

果たして、直線内を突いたタイムパラドックスに対し、外からアドマイヤドンが目標としたトータルインパクトを交わした時にはもう既に手遅れなほどの差が付いてしまっていた。
2年連続2着。それでもしっかり2着を確保したことはアドマイヤドンの実力をはっきりと示すものだったに違いない。

ジャパンカップダートは敗れてしまったが、アドマイヤドン陣営はダートでは勝負付けは終わったという考えは変わらず、当初の予定通りこの年はダートの東京大賞典ではなく芝の有馬記念に出走することに決めた。
かつては芝のレースでも活躍していた馬である。しかも中山競馬場ではG1勝ちの経験もある。賞金も高い・・・・。約2年振りの芝レース出走であった。

しかし、この挑戦は枠順が決まった時点でほとんど終わってしまっていた。
有馬記念では不利と言われる大外枠(15頭立ての15番枠)になってしまった。
レースはまあ、回ってくるだけ。それでも7着。
翌年の同レースでディープインパクトを撃破するハーツクライや同期の名馬ヒシミラクルらには先着したのでよくやった方ではないだろうか。

2004年、アドマイヤドンはフェブラリーステークスから有馬記念までこの年はG1レースのみに出走した。7戦3勝2着2回。芝ダート、中央地方海外、昼夜問わず走ったのだった。
そしてJRA賞最優秀ダートホースに2年連続で選ばれる。

翌年、初戦は再びダートに戻ってフェブラリーステークスに出走した。
しかし、ジャパンカップダートに敗れた反動か、芝レースに使った影響か、狂った歯車は歪んだままだった。

レースはゲートが開いた直後に終わっていた。大きく出遅れてしまったのだ。
3番人気の逃げ馬ユートピアも出遅れて後ろからの競馬になったのだが、観衆がそれにも気付けないほどの大きな出遅れだったのだった。
それでも5着に入り掲示板を確保したのはアドマイヤドンの意地か。

迷走は終わらない。
次は芝のG2レース産経大阪杯に決まった。
G2レースは24戦目にして札幌記念以来2度目の出走。
アドマイヤドンは一昨年のエルムステークス以降は実に11戦連続でG1レースのみに出走していたのだ。これは当時としてはオグリキャップとシーキングザパールを抜いて新記録であった。
産経大阪杯の結果は6着だった。この時の5着メガスターダムとは菊花賞以来約2年半振りの対決でありまたもや後塵を排することになった。
ちなみにアドマイヤドンが菊花賞4着の次走を中14日で出走したのに対し、メガスターダムは菊花賞3着からその後怪我で休養に入りターフに戻って来たのは2年以上経った昨年の暮れであったりする。アドマイヤドンはメガスターダムが休養していた間に実に6回もG1を制していたのだ。

その後はまたダート戦に戻ってこの年にG1昇格となったかしわ記念に出走した。
得意としていた地方レースならばと思われたが、フェブラリーステークスを勝ったメイショウボーラーにこそ先着したものの4着に敗れてしまった。
この時点でG1出走回数はステイゴールドに次ぐ19回出走で歴代第2位、G1ホースとして出走したG1戦は実に18回と新記録であった。

そしてその後は前人未到の4年連続のJBCクラシック制覇を目指し久し振りの長期休養に入ったのだったが、ツメの具合が悪くなり、JBCクラシック目前で引退することとなった。

引退式は翌年の初め、同オーナーの馬であるアドマイヤグルーヴとアドマイヤマックスと一緒に行われた。

その後、種牡馬としてデビュー直前に腸捻転になり一時は生死が危ぶまれるも一命を取り戻す。
しかし、種付け予定だった繁殖牝馬は全てキャンセルになっており、改めて別の相手を探すも近親にOPもいないような相手ばかりであった。
それでも、そのような相手との子供からトーセンアレスが日本ダービーに出走する活躍をみせた。
しかし、その後は地方では高知優駿を勝つドンスキマーや羽田盃を勝つアウトジェネラルを出すもパッとせず、2011年には韓国へ輸出されてしまう。
そしてその年に産まれた仔達が日本で活躍を始めた。
まずはアドマイヤデウス。父アドマイヤドンが敗れた若葉ステークスを勝つと、皐月賞、日本ダービーに出走。その後もG1では今一歩足りなかったものの、G1以外のレースでは複勝圏内を外すことなくG2レースを2つ勝つことになる。

そしてアルバート。
母父のダンスインザダークが影響したのか3200mでも距離が足りないと言われてしまうようなステイヤーが誕生した。
日本競馬の平地重賞最長のステイヤーズステークスを3連覇、4連覇を目指した年は当日に故障で出走を取り消すも翌年にまた挑戦し8歳の暮れだというのに2着に踏ん張った。

サンデーサイレンスの血が入っていない上に活躍馬が出たのでもう一度輸入して欲しいというファンの声もあったが実現はしなかった。

アドマイヤドンの産駆の中で日本で最後にデビューしたワールドリースターという馬はアドマイヤドンと種付けした繁殖牝馬が日本に輸入され産まれた馬、いわゆる持込馬であった。

韓国では種牡馬はそんなに種付けを多くすることはないらしいのだが、その中からも、チョンジストームという馬を輩出した。
チョンジストームは韓国ダービーにも出走し、G3のソウル馬主協会長杯を勝った馬である。
日本馬のロンドンタウンが連覇を果たした2018年コリアアップでは韓国馬の中では最先着を果たしている。

国同士の仲があまり良くない現在、日本の馬だからと現地の人たちにイジメられることがないように祈るばかりである。


追記・修正は不屈の闘志を持った方がお願いします。



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