木造具政

登録日:2020/07/24 (金) 10:30:56
更新日:2025/03/27 Thu 22:24:49
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戦国時代には数多くの英雄や豪傑たちがキラ星のごとく現れ、ドラマや小説など様々な物語の主人公にされているが、歴史に名を残せたのはほんの一握りのスーパースターにすぎない。
一人の大名の下には多くの武将がいて、それぞれの持ち場をしっかりと守っていた。
この項目で紹介する木造具政(こつくりともまさ)もその一人である。

来歴

享禄3年(1530年)伊勢国司を務めた北畠家の第7代当主・北畠晴具の三男*1として生まれるが、父・晴具の命令で木造具康の跡を継いで分家の木造家の当主となる。
木造氏は三重県津市にある木造城を拠点に雲出川流域の一帯を支配しており、代々北畠氏の本拠地である南伊勢を北方からの攻撃から守る役割を負っていた。

ところが具政の代になると、尾張の織田信長が大軍を率いて伊勢の国に侵攻してきた。
この時、具政は主君である北畠具房に背いて織田軍の案内役を務め、信長の次男である織田信雄を具房の養子にする条件で両者を和解させることに成功した。
この功によって木造氏の所領は安堵され、以後、具政は北畠氏の当主となった信雄の重臣として各地を転戦することとなる。
天正二年(1574年)に信長が伊勢長島の一向一揆を攻め滅ぼした際には、具政は信雄軍の侍大将として出陣しているので、信雄の重臣筆頭として遇されていたことが分かる。

本能寺の変で明智光秀の謀反によって信長が横死すると、信雄は織田家の家臣であった羽柴秀吉と共に光秀を打ち滅ぼし信長の敵討ちに成功。
信長の遺領の中から尾張、伊賀、伊勢を与えられ、一時は信長の後継者と目される。

ところが、秀吉は織田家の家臣では満足せず、自らが天下取りを目指し始めたことから信雄と対立。
両者の関係は急速に悪化していき、信雄は秀吉に対抗すべく亡き信長の同盟者であった徳川家康と手を組み、小牧・長久手の戦いに突入した。
この時、具政は尾張に本拠地を移した信雄の命令で、尾張に居る信雄の代理として、伊賀、伊勢の軍勢を率いて伊勢の国で秀吉軍と対峙するが、木造城では大軍を支えられないと見て、西に五キロほど離れた場所にある戸木城に立て籠もった。

秀吉から伊勢攻めを任された織田信包*2と蒲生氏郷は、戸木城の守りが固いと見ると強攻策をとらず、戸木城の周りに砦を築いて兵糧や弾薬の補給路を断ち、持久戦に持ち込んだ。
また秀吉は具政に書状を送り、「降伏するならば所領を安堵する」と硬軟両策を用いて揺さぶりをかけたが、具政らは屈することなく戦い抜いた。

圧倒的に不利な状況の中で半年に亘り城を守り抜いた具政だったが、主君である信雄が秀吉と和解したことで具政も戸木城を明け渡して清州城に移った。
戦後は結果的に父祖伝来の領地は失ったものの、代わりに北伊勢の田辺城とその周辺を拝領し、信雄の重臣の地位を保った。

天正十三年(1590年)に信雄が領地を没収されると、具政は秀吉から岐阜城の城主となった織田秀信*3の後見役を命じられ、美濃の国で二万五千石を与えられた。
関ケ原の合戦の際は秀信が西軍に味方したことから、具政も自らの軍勢を率いて岐阜城に籠城。
家康から東軍の先鋒を任された福島正則や池田輝政らの軍勢を相手取り奮戦するも、石田三成ら西軍の支援を得られなかったことから開城のやむなきに至った。

並の男ならばここで武将としての生命が終わる所であるが、岐阜城での奮戦が正則の目に留まり、関ケ原の合戦後、具政は正則に二万石で召し抱えられた。
この頃の武将たちは、敵味方の違いを越えて相手の力量を正当に評価する懐の深さを持っており、名のある武辺者が浪人していると聞けば、三顧の礼を尽くして家中に迎え入れた。
こうして福島正則の家臣となった具政は、福島家の領地である安芸の国の広島に移住するも、ほどなくして病に倒れそのまま死去した。



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最終更新:2025年03月27日 22:24

*1 次男説あり

*2 信長の弟

*3 信長の孫