センゴク(宮下英樹の漫画)

登録日:2023/10/05 Thu 21:50:49
更新日:2025/01/31 Fri 12:09:48
所要時間:約 16 分で読めます





だがこの通説には疑問が残る

あらすじ

一五六七年(永禄十年)八月十五日桶狭間の奇跡から七年
織田信長は斎藤龍興の稲葉山城に総攻撃をかけた─
その城に恐怖に震える若武者がいた─
斎藤家家臣 仙石権兵衛秀久(十五)

概要

センゴクとは2004年から2022年まで「週刊ヤングマガジン」に連載されていた、宮下英樹による漫画である。
「センゴク」というタイトルの通り戦国時代を題材とした漫画であるが、名だたる戦国武将の中でもマイナーどころか戸次川の大敗の悪名高い仙石秀久戦国史上最も失敗をし最も挽回した男として主人公としており、タイトルの「センゴク」は「戦国時代」と「仙石」のダブルミーニングとなっている。

なおタイトルは「センゴク」を基本に各部ごとに変更されており、第一部「センゴク」、第二部「天正記」、第三部「一統記」、第四部「センゴク権兵衛」の四部構成。
外伝として今川義元、織田信長を主人公とした「センゴク桶狭間戦記」が連載されていた。
またセンゴクとは付いてないがコミック乱にて同氏により連載中の「大乱関ヶ原」はセンゴクとは世界観とキャラが共通しており実質的な「センゴク関ヶ原外伝」とも言える。
(なおセンゴク時にはあった通称の表記などは無くなっている)

作者の宮下英樹は連載開始当初は戦国時代の知識が皆無な状態であったが、研究機関の識者より協力を得るとともに自らも古文書の一文をナレーションとして使用、古戦場へ自ら赴くなど本職の研究者顔負けの取材によりリアリティのある描写が特徴である。*1
その結果「通説」「俗説」を覆す「仮説」による、よりドラマティックな描写をすることも多々あり冒頭の「だがこの通説には疑問が残る」はその際の決まり文句としてセンゴクファンの間で愛されている。
ただ史実一辺倒というわけでなく、ある理由で秀吉に追放された権兵衛が佐久間家に仕え三方ヶ原の戦いに参戦することで徳川家康と権兵衛との縁が深まるというようなオリジナル展開もある。
また、下のような宮下の遊び心も所々散見される。
  • 現在の言葉をセリフに取り入れる
(例)へうげもの「馬乗り者が〜」(マウント野郎が〜)
  • 現実の人物をキャラデザの元ネタにする
(例)戦国最強の上杉プーチン庵謙信
  仙石家重臣のケンドー・コバヤシ



第一部「センゴク」

織田信長による稲葉山城の戦い~小谷城落城まで。全15巻。
この頃はヤンマガらしく、斎藤家侍女であり権兵衛の幼なじみであるお蝶とのラブロマンスやヤンキー漫画のようなノリが残っているが、宮下による濃密な歴史考証と描写はこの頃から発揮されており、山崎新平との死闘や小谷城虎口攻めは必見。
お市様による濃密な濡れ場も必見。

第二部「センゴク天正記」

信長包囲網の死闘~甲州征伐(武田家の滅亡)まで。全15巻。
長浜を治める大名となった秀吉と共に一千石を預かる領主となり家臣団を持つこととなった権兵衛が、一兵卒として暴れまわっていた前部から仙石家の棟梁として成長していく。

第三部「センゴク一統記」

本能寺の変での信長の横死から小牧・長久手の戦いまで。全15巻。
主君である秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て天下人へと駆け上がる中、権兵衛は淡路四国方面で明智方の豪族や長宗我部相手に大暴れしており長宗我部にはボロ負けしたが遂に羽柴家の出世頭として讃岐十万石の大名へ成り上がることとなる。

第四部「センゴク権兵衛」

最終章。紀州征伐から上田合戦(関ヶ原の戦い)および権兵衛の往生までが描かれる。シリーズ最長の全27巻。
群像劇の側面もあるため、権兵衛の影が薄い期間も多い。
権兵衛は讃岐十万石を治めていたが、戸次川の大失態により多くの仲間と大名の身分を失い(改易)、仙石家臣団も散り散りとなった。
権兵衛は高野山での世の理不尽や民衆の嘲りといった現実を目の当たりにし、また牢人生活の中で古渓宗陳との出会いにより生きる気概を取り戻す。それに従い旧家臣団の面々も戻ってきた。
そして始まった北条征伐に、死んでいった、そして残った仲間たちに報いるため、家臣団を率い参加。
小田原城早川口攻めにて大暴れした功績により見事小諸五万石の大名として復帰という挽回を果たすのだった。

「センゴク外伝 桶狭間戦記」

第二部と並行して連載されていた過去編。全5巻。
本編では既に権兵衛にとって雲の上の人であった織田信長と、彼の人生最大の脅威であった今川義元の2人を主人公に、義元の元服から桶狭間の戦いまでを描いている。

「センゴク兄弟」

東郷隆によるスピンオフ小説。全1巻。
権兵衛の実兄である仙石新八郎久勝を主人公に、竹中半兵衛との稲葉山城乗っ取りの顛末を描く。
細川忠孝によるコミカライズ版も存在する。こちらは全6巻。

「大乱 関ヶ原」

コミック乱にて連載中。
ヤンマガから離れタイトルにはセンゴクと付いては無いものの、登場人物はセンゴクとほぼ共通しており、実質的に続編とも言える。
関ヶ原で雌雄を決する石田三成と徳川家康をダブル主人公として描かれており、センゴクと同じく冷静沈着な三成と秀吉という大きすぎる存在が消えセンゴクとうって変わって感情豊かな家康との対比が特徴的。*2
太平を守るためにあの手この手を尽くそうとする家康とあくまで豊臣主体の太平を守る三成との対立を軸に武断派文治派の軋轢が拡大しながら天下分け目の関ヶ原へと突き進んでゆく。
なおセンゴク主人公の仙石権兵衛秀久は小諸で四苦八苦しているのか普段は登場しない。
センゴク読者の大半の予想通り第4巻の関ヶ原本戦前にセンゴクであったシーンがそのまま再現され再登場を果たした。

主要人物

仙石家

◆仙石権兵衛秀久
物語の主人公。「戦国史上最も失敗し挽回した男」。
恵まれた体格と馬鹿力とダンゴ鼻を持つ青年で、信長には「ダンゴ」、秀吉には「バカセンゴク」と呼ばれる。
凄まじい体力と馬鹿力により戦場では一騎当千の槍働きだが、秀吉の言う通り頭は悪く考え無しに動くことも多い。
しかし生存への嗅覚(≒危険への嗅覚)は人一倍敏感であり、また野性的なカンも鋭く権兵衛の突拍子もない行動が勝利に繋がることも多い。
基本的に危地への出陣や密偵のような汚れ仕事も厭わない為、同僚からは眉を顰められることも多いが一方で上司や軍師には重宝される事も多い。
どんな傷でも回復する生命力により数多くの死線を越えて生き続けている。

将としての権兵衛は淡路で海賊を率いてた為、海の状態を見るに明るく文禄の役の際は秀吉から海軍の将としての経験測を聞かれている。
直感に優れ特に劣勢ほどしぶとい粘り強さには定評があり、秀吉から誰か「500人ほどを引き連れるであろう権兵衛を3万の兵で打倒してこい」*3と言われても周囲は二の足を踏むほど。

素は素朴な性格であり身分問わず分け隔てなく接する人物で、風評から最初は敬遠される事が多いが一度腹を割って会話した配下や領土の住民から好かれやすい。
その気安さ故か家臣からも容赦なくツッコミを受ける事も多々・・・まぁ愛されているとも言えるのかもしれない。
また良くも悪くも空気を読めない事には定評があり、周囲からこれまた良くも悪くも扱いに困られている。*4

その結果羽柴家の出世頭として戸次川の失態までに讃岐十万石の大名になるまでに成り上がることとなる。
また、馬鹿ではあるが直情的で裏表のない性格から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(+秀忠)という名だたる天下人からも信用を置かれ、最終的に一度は改易の憂き目に合うも小諸五万石の大名として人間(じんかん)を全うすることとなった。
主人公なのだが、情勢に関わらないことも多く出番が無いことも度々あった。(特に後半)

◆お藤(仙石成子)
権兵衛の正室。
最初期のヒロインだったお蝶は途中(センゴクでの朝倉滅亡)でフェードアウトしてしまったため、メインヒロインか。(天正記序盤にて嫁入り)
野々村幸成の娘であり信長黒母衣衆である野々村正成の姪にあたる。
かつては小川祐忠の室となり一女(葛)を儲けていたが祐忠とは気性が合わず離縁。
その後権兵衛の人柄に惚れ込んだ叔父正成と秀吉正室・おねの仲介により権兵衛との縁談が取り持たれるが、最悪の出会いにより一度破談となる。
謝罪のため長浜の羽柴夫妻を訪ねる最中に長浜城築城の為の石を引く権兵衛一味と合流。同じ道すがらということで石に乗せられ権兵衛と共に長浜まで石に乗ることとなる。
その道中で感じた仙石家の明るさと権兵衛の素朴さに惹かれ一転権兵衛と祝言をあげる事を決める。
仙石家に嫁いだ後は内政などからっきしである権兵衛に代わり家中を取り仕切り、改易後も権兵衛を支え挽回への大きな力となるとともに、後に仙石家を継ぐ三男左門(忠政)をはじめとする、三男一女の子宝に恵まれる。
権兵衛の今際の際には彼岸から迎えに来た。権兵衛がお蝶の名前を口にした為、青筋立ててはいたが

◆葛(仙石坂井子)
お藤と前夫小川祐忠の連れ子。
当初はお藤の実家(野々村家)に預けられていたが、陣触れのためにお藤との御色直し(初夜)をお預けされた状態で戻されたためさしもの権兵衛も困惑するのみであった。
しかし権兵衛からも実の娘のように愛され、仙石家中でもアイドル的な存在として愛されていた。*5
当初は年相応に舌足らずであどけない様子であったが天正記後半では母お藤に似た美人へと成長している。が、繊細な思春期に大名家の娘として戦国の世のしがらみに翻弄されることになる。
幼少期から妙算へ想いを寄せていたが根来復興のために妙算が離脱し失恋。また以前より悪しからぬ仲であった田宮四郎とも本名を教える仲となりお藤権兵衛夫妻からも婿と認められるほどだったが戸次川で四郎が討ち死にするなどの不幸が重なった。
戸次川の敗戦の影響で権兵衛に対して不信感を持ち距離を置いていたがお藤の計らいにより改易により人間的に成長した権兵衛と面会しわだかまりが溶ける。
小諸転入後に輿入れし一女を儲けるも母と同じような理由で離縁。
その後権兵衛がお江の秀忠との輿入れの護衛をしたことで縁の深まった同じくお江の護衛であった佐野正秀(通称ヒゲ黒)と悪しからぬ仲となり再婚するこことなった。



仙石家家臣団

◆津田杉ノ坊妙算
権兵衛が家臣団を率いるようになってから馬廻となった一人。
鉄砲撃ちの誉れであるソバカス*6が顔右半分に有り、自らも当初「粗葉 粕太郎」と名乗っていたため権兵衛からのあだ名は「ソバカス」。なお、それを含めてもかなりのイケメン
実は雑賀出身の鉄砲の名手であり、それでいて学坊顔負けの学識をもつ。クールかつシニカルで権兵衛とはタメ口で会話するが、なんだかんだ言って世話になった人間に尽くすタイプ。
配下の選定の時、出奔して盗みを働いたときに相方に密告され牢に入れられていたところを、相方よりも戦場で使えそうという理由で加入させられる。その後は長島一向一揆攻略戦と長篠の戦を生き延びセンゴク隊の中核となる。師匠と対決する形になった雑賀攻めでは悩んだ末に権兵衛を選択し、師匠の秀吉狙撃を阻止して停戦に持ち込み復帰する。
権兵衛が淡路島の所領を得て大名になって以降も副将兼参謀格として権兵衛を支えるが、第四部の紀州征伐にてかつて捨てた根来が焼かれ、さらには幼馴染の大杉が首領に祭り上げられた息子と思われる当代孫一を救うため出頭して自ら炎に飛び込んで焼死したことを知り愕然とし、彼女との約束を果たすため仙石家を出て根来に戻る。
その後は小田原城攻略戦に正体を隠して助っ人として参戦。その後は戸次川の戦いの戦死者慰霊の旅に出た。

◆萩原孫太郎国秀→酒匂彦三常慶
権兵衛が家臣団を率いるようになってから馬廻となった一人。
権兵衛からのあだ名は通称より「孫」。
中性的な容貌を持つイケメンで権兵衛の叔父の一門で仙石家の家老。
はじめは頼りなかったが妙算と同じく数々の戦闘を生き延び中核の一人として成長。おバカ系権兵衛とシニカル系妙算に挟まれてリアクションする一般人枠。
権兵衛が拠点を淡路島に移してからは城代となり戦場を駆け回る権兵衛たちを背後から支える留守役となる。

◆堀田右馬助正惟
通称「右馬っち」。権兵衛が家臣団を率いるようになってから馬廻となった一人。
丸っこい顔や身体つきをしており、ぱっと見では初期四人でも最も荒事に向いてそうだったが、実は人一倍繊細であり実質的な初陣であった長島城攻略戦で戦争の凄惨さを目の当たりにして心が折れて出奔してしまう。素捨て次の戦いで後述の治の字が戦死したと知ったときには乞食のように変わり果てた姿で人知れず墓参りに行き彼に詫びた。
その後もその後は、本願寺の一向衆や高野山を転々としていたが、「南朝の落胤」と称して浮浪者の群れに紛れていたところで改易され高野山に入った権兵衛と再会する。過去の逐電の件を処罰されるかと思い、恐怖していたが権兵衛にその意思がないことがわかると高野山の案内役を買って出る。すべてを失った権兵衛に以前は我武者羅な感じが怖かったと本音を吐露し、権兵衛からも以前は周りを見る余裕がなかったと謝罪を受けるが、自由な生き方が合ってると逆に権兵衛を励ました。

◆仙石治左ヱ門盛政
通称「治の字」。権兵衛が家臣団を率いるようになってから馬廻となった一人。
馬のような縦長の顔や長身が特徴。穏やかな性格だが初陣の長島城の戦いを乗り切りいっぱしの戦士として成長。長篠の戦では真田信綱・昌輝兄弟の猛攻を防ぎきれず瓦解した仙石隊を支え致命傷を負いながらもなんとか権兵衛を救い出し、自身の命は果てたが何とか仙石隊の再編成に成功するというファインプレーを成し遂げた。

◆川長右衛門
通称「川坊」。プロローグの稲葉山城戦で権兵衛をかばい戦死した川爺の孫。
仙石家の事務を担う縁の下の力持ちで、権兵衛の猪突猛進な言動にツッコミを入れる苦労人。
権兵衛が大名に出世するという話が持ち上がった時は「こんな大量の事務を、自分でさばききれるのか…?」と顔面蒼白になっていた。

◆不知地勝助
四部から登場する家臣であだ名は「砂治」。
馬廻であり仙谷家の家臣団でも特に武勇に優れている。
紀州征伐から始まり仙谷家改易後は一度離れた物の帰参し小田原参陣まで付き従った家中でも古参の猛者。
妙算の離脱及び田宮二郎戦死後は特に権兵衛の武の側近として行動する事が多い。

◆田宮保富
第四部から登場した家臣であだ名は「某」。
大名になった権兵衛の代わりに一兵士の視点から見た戦国時代末期を描写する云わば”第一部の権兵衛”ポジションの若者。
はじめのうちは変顔が多かったが、実戦を経験して髪が伸びてからはなかなか端正な顔立ちになる。
喜怒哀楽の差が激しく半端に頭があるためある意味昔の権兵衛よりもリアクションが激しく、主にの権兵衛から「うちに向いてる」といわれた。
四男であり当初は仏門に入っていたがが還俗して三好三郎の仲介で仙石家に仕官した。
その際であった葛に一目ぼれしたため「邪な目で見るな!」と先輩から締め上げられたことも。
が、初陣の紀州征伐で妙算が上記の通り離脱しさらにはた湯川党との過酷な山中戦を戦い抜いたことで武士として大きく成長した。
その後は妙算への失恋から立ち直った(まぁ、彼は権兵衛とほぼ同世代で葛とは親子ほどの年齢差がある)葛と仲睦まじくなり、権兵衛とお藤からも仲を認められるようになっていく。

が、九州征伐の際に意気投合して戦友となった長宗我部信親を見捨てることができず、島津家久が神がかり的な強さで仙石長宗我部連合軍を圧倒した際「葛様が好きすぎて、卑怯を背負って合わせる顔がありやせん」と権兵衛に兜を返して信親の加勢に向かったが、致命傷を負い、権兵衛への感謝と葛を想いながら討死した。


◆広田蔵之丞藤吾
淡路島の豪族。上記の面子とは違い史実でも存在する。
信長に対して反抗したり距離を取っていた淡路十人衆の中では「権兵衛オトコは面白いし裏表がないので信用できる」という理由でいち早く仙石家に与し、十人衆の一人である菅平右衛門が本能寺の変に連動して光秀につき洲本城を占拠した時には手勢を連れて権兵衛に加勢し奪還に貢献した。
淡路平定後は仙石家の淡路での筆頭家臣として行動を共にしていたが、権兵衛の讃岐転封に伴い、別れている。

◆後藤又兵衛基次
日本史をかじってる人なら大坂の陣で真田幸村とともに戦った男として知っているであろう後藤又兵衛その人。
血の気の多い性格で、失敗すると腹を切りますと叫んでは権兵衛に諫められる。
元々は黒田官兵衛配下の若者だったが、官兵衛が荒木村重の裏切りに遭い幽閉されてしまったため羽柴家で裏切り者扱いとなり所在を無くしていたところを権兵衛に声をかけられ権兵衛配下となる。

そして三木城の支城である上津城攻略の際に知り合いがいたために躊躇して槍を留めた際、権兵衛が一連の攻防で城主と交渉の余地があると察したため、知り合いが多くいる基次のツテで交渉。
最終的に権兵衛が説得して上津城周辺の住民の命を保証したことで開城しそこの城主となるきっかけを作る。

本作ではその後裏切らなかったために信頼を回復し再び秀吉に仕えた官兵衛の元にすぐに戻ったとされているが、その後に発見された資料によると実際の基次は戸次川の戦いの敗戦まで仙石家に仕えそのあと改易を機に黒田家に戻ったという説が有力視されている。
ひょっとするとその後も仙石家の幹部クラスとして長らく準レギュラーとして登場する展開もあり得たかもしれない。

◆森石見守村吉
淡路水軍森一族の者で、三好家家臣。
淡路の仮の国主として長宗我部県政の任務に就いた仙石家に協力。
その際後述する三名の息子を人質として預けたが、権兵衛は養子として厚遇した。
その後も家老格で仙石家に付き従い、権兵衛が戸次川の戦いで大名職を失った後もしばらくして弟子と称して彼を支え、小田原城攻防戦で副将として仙石家の大名復帰に貢献した。
以降も権兵衛を支え続け、関ヶ原の戦いで仙石家が命脈を保てる状況になったときは彼とともに神社に参拝し互いの胸中を打ち明けていた。
三男の系統は代々仙石家に仕えている。

◆森(仙石)権平久村
森村吉の息子で仙石家養子。
幼馴染の勘解由、覺右衛門とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。
森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し「仙石」姓を名乗り、もともと容姿が権兵衛に似ていたことで名実ともに「仙石ゴンベエ」となる。
引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、緒戦で勝利した際に追撃を進言し権兵衛も受け入れるも長宗我部の逆襲に遭い、勘解由とともに殿を買って出るも戦死。
権兵衛はその姿にかつての自分を見出し、自分と違い散ってしまった彼らに慟哭してしまった。

香川県東香川市伊座に彼の墓があり、足の病を治す御利益があるといわれる。

◆森(仙石)勘解由久春
久村の幼馴染。
同じく引田の戦いで戦死。

◆森(仙石)覚右衛門久武
久村の幼馴染。
イケメン風の二人と違い、引き締まったデブ。
引田の戦いで殿を務め戦死した久村と久春の亡骸を奪還し撤退するも、権兵衛に「生きろ。あいつら(長宗我部)なら二人の亡骸を粗末にはするまい」と諭され、涙ながらにその場に二人を残して生き延びる。
その後は仙石家を抜けた妙算のかわりに砂治とともに現場副官を務め、「紀州征伐」、「四国征伐」、「戸次川の戦い」を戦い抜く。
改易処分後には武功を評価され、前田家に仕官した。
なお、今現在も彼の子孫がいるとのこと。

◆岡田平内
四部から登場する家臣で権兵衛からのあだ名は「無用ノ介」。
元僧兵であり秀吉の僧兵解除の命で浪人となり、世を儚み自殺しようとしたところに同じく高野山へ追放された権兵衛と出会う。
その時の会話で権兵衛の図太さに怒りを感じ自殺を止めて権兵衛に付きまとうようになった。
その後に仙谷家家臣団に入り自身に不足している知識や経験を吸収、川坊からは「殿よりよっぽど有用」と言われるまでになる。
小田原白虎口戦では付け入り策に志願するなど無理をする面もあるが、基本は仙谷家臣団の中でも随一の頭脳派。
終盤は実質仙谷家の軍師であり文禄の役の後、権兵衛に今後の事を相談されている。


織田家

◆織田弾正忠信長
戦国を寝取りたいと豪語する戦国の覇王。
権兵衛が仕える斎藤家稲葉山城を攻め落としこれを滅ぼす。
単騎大暴れした権兵衛と面会するが堀久太郎の介者剣法を退け生きる意思を宿した権兵衛の顔を見て配下に加えその後木下隊寄騎とする。
商業により国力を高めていた尾張を治めていたことから従来の土地を奪い合う戦から銭により戦を起こし銭を生む新たな戦により日の本を蹂躙。また、鉄砲による包囲殲滅という新たな戦い方を産み機内を制圧柴田滝川羽柴を地方方面軍として全国を制圧する勢いであった。
しかし日本だけでは銭の回りが滞り高転びすると予見しておりゆくゆくは家康を補佐として嫡男信忠に日の本を任せ自らは明智光秀を伴い大陸へ進出していく予定であった。
後の秀吉や家康が天下人に近づくにつれ相応にプレッシャーに押しつぶされそうになる中、周囲の目をものともせず逡巡せず自らの信じる道を突き進み改革と破壊を推し進める作中屈指の意志の強さの持ち主。各地の大名及び自分や配下を記した台帳を持っており、彼らが戦死したり病没するたびに墨でそれをつぶしてゆく。(通称デスノート)
自らの身を危険にさらしても諫言したり失敗してもそれを挽回しようとする者を好む一方、今の地位を失うことを恐れ停滞しようとする者を嫌う。佐久間信盛が改易され追放されたのもこういった背景があった。
明智光秀が起こした本能寺の変で自分が志半ばで倒れたと察した時、最後に弓と槍でひと暴れしたあと台帳の自分の項目に刀を突き立て戦国の世を堪能したことに満足しながら腹を切り炎に包まれた。

◆織田信忠
信長の長男。父からは奇妙とも呼ばれていた。
信玄崩御後からちょくちょく出番が増え始め、はじめは規格外の父親に翻弄される若干頼りない若者として描写されていた。
その後甲州崩れの際には陣頭指揮を執り高遠城を瞬く間に攻略する手腕を見せた。
しかし信長を乗り越えようとする野望を抱く一方で長島一向一揆からの父の業をその目で見てきたこともあり織田家への怨嗟をかみしめており、本能寺の変ではまだ自分が父に並ぶ力量を得ていないうちに謀反を起こされ、他の家臣も面従腹背で自分には従わないだろうと判断し鎌田新介の援軍を待つべしとの信玄を拒絶。
父の死によって下剋上に耐え続けてきた重責を初めて理解し、「信長の子」に相応しい最期として馬廻り衆と二条城に立て籠もった末、織田家当主として切腹した。
なお彼が残した三法師(織田秀信)は信長崩御後の火種になった挙句一大名まで落ちぶれ、関ヶ原の敗戦で家を失ったあげく追放先の高野山からも放逐され死去、取り潰しとなってしまった。

◆織田信孝
信長の三男。兄信忠を一方的にライバル視し彼を超える成果を上げて信長の後継者になろうともくろむ野心家だが、神経質なうえに己の力量をわきまえず戦略を理解しないまま武功を上げようと逸るという大将の風格に欠ける性格をしている。顔立ちは兄弟の中で一番信長に似ていない・
当然彼を補佐していた丹羽長秀や秀吉からは底の浅さを見透かされて軽んじられ、山崎の戦では実質的に秀吉に主導権を握られる。その後光秀を破り日に日に勢力を増す秀吉を危惧し柴田勝家・滝川一益を頼り対抗しようとするも秀吉側の各個撃破作戦に翻弄され信長の子として最後まで“簒奪者”秀吉と戦かおうとしても周囲が思うようについてきてくれないのを目の当たりにし、信長とは違い自分が無力だと思い知らされ絶望する。家族も無残に殺され自身も反逆罪を押し付けられ死を言い渡された際には最後は秀吉も自分達と同じ憂き目に遭うと呪詛しながら切腹した。
センゴクでは後述のように信雄が自分の力量をわきまえたひとかどの人物として描写されたため、本作では信孝の小物ぶりが余計に浮き彫りになってしまった。

◆織田信雄
信長の次男。風貌は信忠と同じく父に似通っているが、父や兄と違い将器は全く引き継いでいないと思われた。性格は尊大で高圧的に振舞う上、情勢に対する理解力が乏しく、父の死後も兄信孝といがみ合うなど見当違いの行動を取り続けた。
が、いつごろからかはわからないが「自分には天下を牛耳る力量はない。ならそれに値する人物を見定める役割を買って出てその人物に譲り自分は子孫を残すことに専念すればいい」という心境に達し小牧長久手では一皮むける。そして秀吉と家康の戦いを一通り見届けた後に家康による長宗我部家との単独外交を理由に勝者を秀吉とみなして秀吉と講和を結ぶ。その際「おバカキャラは演技だったのか、信長に似てきた」と秀吉に評価され、信雄は「これからは父の業を代わって背負うことになる、がんばれ」と激励し返した。
後も周囲の状況に翻弄されながらも上二人と違い大名としての命脈は保てたことから、秀忠には及ばないとはいえ彼なりに自分の身の程を知り失敗を挽回し大名としての面目は果たせたといえるであろう。

◆堀久太郎秀政
信長配下の小姓から馬廻となり様々な戦場で活躍した戦国武将で通称”名人久太郎”。
稲葉山城落城直後に権兵衛が囚われた際、生かすに値するか試すため彼に切りかかった人。これに合格したため権兵衛はダンゴというあだ名をつけられ木下隊配下となる。
眉目秀麗&文武両道&冷静沈着となにからなにまで権兵衛とは正反対だが、本人はそれを鼻にかけることなく「(人付き合いも含めて)自分の才能を活かしたい。出世はその副産物に過ぎない」と切磋琢磨する天才肌。また、”金ヶ崎の退き口”や”姉川の戦い”での浅井軍の奇襲迎撃など初期の激戦場で共に死線をくぐり抜けてきた仲ということもあり権兵衛とは不思議にウマが合う。権兵衛が淡路島の調略に挑戦し大名を目指すという報告を知ったときは信長とともに成功を期待し激励しているし、本能寺の変のときは別件があり信長の側を離れていたため難を逃れ遅れて主君の訃報を知った際には共に涙を流しながら主君の思い出を語り合い決意を新たにするなど、いつもは離れた場所にいるが何かの拍子で近場を通ったら時間を割いて会って語り合う間柄である。
小田原合戦には病を押して早川口方面に陣するも、ヤマイヌの計実行直前に病状が悪化し策は中止となる。権兵衛の虎口攻めでは対岸から堀監物の鉄砲隊で援護した。病状は快復せず、そのまま陣中で病没。

木下家(→羽柴→豊臣)

◆木下藤吉郎秀吉→羽柴筑前守秀吉→豊臣太閤秀吉
権兵衛が織田家配下となって以降長らく直属の上司だった戦国武将。「史上最も淫蕩にして、最も難解な男」「史上無比の勝負師にして最も機微を知る男」。
第四部の裏主人公。本来の主人公の権兵衛よりぶっちぎりで目立ってるけど
信長からの通称は一般的に知られる“サル”ではなく一次資料でも見受けられる“ハゲネズミ”。初期は正史通りに六本指の描写がされていたが後に省かれがちになる。
初期は頼りない部分も目立ったが“金ヶ崎の退き口”を権兵衛たちとともに切り抜けて以降は胆力もつき始め、ここぞというときの決断に冴えわたるようになりどんどん出世してゆく。また、かつて自分を狙撃した国友藤太郎にすら必要とあれば頭を下げ感銘させて配下に引き込んでしまうほどの人たらしと呼ばれる人心掌握術も持つ。
しかし、高松城の水責めあたりから心の奥底で蠢いていた“いつかは尊敬する上司織田信長をも乗り越えたい”という野望が明智光秀の起こした本能寺の変にてついに表面化。天下人への階段を突き進みつつその業に心を焼かれてゆくようになる。
そして天下を統一して以降は長年彼を支えてきた弟秀長の病死もあり孤独を深め出世するために切磋琢磨し充実していた時期とその後自分が成し遂げた天下統一した環境の無味乾燥との落差に絶望するようになる。
天下統一してからは権兵衛とは疎遠になるが、たまには面会して昔のノリでやり取りすることもあった。
しかしその後秀次事件の犠牲者の畜生塚を見た権兵衛が犠牲者とお藤を重ねて見てしまい、秀吉の話し相手(ストレス解消のサンドバッグ)としたい奉行衆の狙いとは裏腹に憎めん藤吉郎様のままでいて欲しいと秀吉から権兵衛も離れていくのだった。

◆木下小一郎秀長→羽柴小一郎秀長→豊臣権大納言秀長
秀吉隊のNo2であり戦国時代としては珍しく非常に仲の良い弟。今作では異父弟。
中肉中背で口に切りそろえた髭を蓄え細い目をしている。
伊勢長島包囲戦では不在の秀吉に代わり出陣して武功を上げ、秀吉が毛利方面担当となってからは将としての貫禄も出始める。
羽柴氏が織田家を掌握し天下一統に乗り出して以降も秀吉に直接諫言できる存在であったが、天下一統後、病で余命が尽きたと悟り言状として秀吉に最大の懸念を書き残そうとした矢先に昏倒し、養嗣子の秀保と娘・おみやに「出世は無用。夫婦息災に」と言い残して、薨去した。
彼の喪失は豊臣家における調停役が喪失したことを意味しており、以降は利休の切腹や鶴丸の夭折や秀次事件など次々災難に見舞われ、豊臣家は疲弊してゆくことになる。
今際の際には手紙の代わりに自ら折った鴨を苦楽を共にした縁者に送っており権兵衛にも届けられた。

◆竹中半兵衛重治
木下→羽柴時代の参謀で秀吉最高の盟友と呼べる存在。「史上最も端麗にして、最も薄命な男」「史上最も聡慧にして最も深遠な男」。
容姿端麗で頭脳明晰だが、思ったことはずばずば発言する。元々は権兵衛と同じ斎藤家家臣だったこともあり権兵衛にかみ砕いて説明するなど世話を焼くことも多い。
暗君だった斎藤龍興に物申すために稲葉山城乗っ取りを決行した後厭世的になり隠遁していたが、金ヶ崎で一皮むけた秀吉が自分を必要としていることを知り彼の配下となる。
以降も秀吉の頭脳かつ織田家でも一目置かれるほどの軍略家として頭角を現し、第三部の雑賀攻めでは信長に和睦を提案し受諾され称賛された。
羽柴氏が毛利方面担当となってからは病状が悪化し床に臥せることも多かったが、自身が後継とみなした小寺官兵衛(のちの黒田官兵衛)を何かと気にかけ、官兵衛が内通を疑われたとき殺すよう命じられていた息子松寿丸を保護したりしていた。そして三木城攻略が目前となった時期に病没する。
彼を喪った秀吉は煙草をやめて煙管を半兵衛の棺の傍らに置いた。しかしながら、死後も秀吉が選択に迷ったときに彼の背中を後押しする形で夢の中に現れている。

◆羽柴信吉>豊臣秀次
秀吉の甥。三好笑岩の婿養子になっていたため初登場時は三好姓だったが、のちに後に復姓。
若いころは喜怒哀楽に乏しく秀吉の次世代として期待されていたが、実のところ天下人の後継者という立場に重圧を感じていた。
小牧長久手では家康に若輩の身であることを見抜かれて榊原隊の奇襲を受け敗走した時は断髪を命じられ器に欠けるとみなされる。その後小田原征伐では山中城を「徳川殿に敗れし日から学んだ戦術眼を示す時」と自ら陣頭に立って猛攻の後、わずか半日で落城させた。が、その心中は秀吉の嫡男・鶴松の誕生から来る焦りであり、秀吉も内心で「イチかバチかの攻勢など天下人の合戦ではない」と苦言を呈した。
その後天下統一を果たした後は秀吉の跡を継いで関白となるが、鶴丸の夭折やその後の拾(のちの豊臣秀頼)の誕生さらには弟である秀保の急病死により精神の均衡がどんどん崩れていき”痰そう”(重度の喘息)を患ってしまうほどに心身ともに病んでしまう。
そして”唐入り”による情勢の変化と世間の噂から秀吉はいったん彼を落ち着かせようと高野山に入って頭を冷やすように勧めるが、秀次はこれを”唐入りの失敗を自分におしつけるつもり”と誤解し叔父の説得にも聞く耳を持たずに諍いをおこし三成に止められる。
最後は秀吉への当てつけのために自ら腹を切る。その余波で秀次に連なる老若男女が多数粛清される有様に権兵衛も恐れおののくのであった。


◆石田佐吉三成
後に治部少輔。苗字と通称を略して「石佐」とも呼ばれていた。
はじめは一介の茶坊主だったが、算術をはじめとする事務処理能力と新しい世の中を作りたいという気概を買われて秀吉に重用される。
端正で柔和な顔立ちをもつが徹底的な合理主義者で、過剰に丁寧な言葉遣いで意見を主張するため、却って反感を買うことも多い。考え事をする時には頭を掻く癖がある。
播磨攻略あたりから頭角を現し、高松城水攻め時には捕らえた毛利への密使により最初に本能寺の変を知ったものの一人となる*7。以降は羽柴軍の兵站を担い近習として頭角を現し、惣無事令を豪商達に提案する際にも同席を許されるなど秀吉の国作りに大きな関わりを持つ。
五奉行の一人となってからは中核として怨嗟を被る覚悟で非情な決断を遂行してきたこともあり、一族や部下からも距離を置かれ始めた秀吉が唯一信頼して心境を露呈できる存在となる。彼からいざというときは「(光秀が信長を討った時のように)自分を討ってもいい」とまで言わしめたが、親友の大谷義継に「心境は理解できるが、悲しいことに自分はそれだけの力がないので尽くすしかない」と語ることもあった。
のちに関ケ原の戦いで徳川家康と戦い敗死するが、どういう心境で挙兵したのかは不明。
「大乱 関ヶ原」で語られることだろう。


◆神子田正治・尾藤知宣
第二部から登場した秀吉配下の黄母衣衆。
2人とも権兵衛とは違い学はあるが、それを鼻にかけている上に空気が読めないため土豪との交渉には適さないと不器用な面がある。*8

明智家

◆明智光秀
織田信長の家臣にして秀吉の中盤までのライバル的存在。
本作では鉄砲の運用に長けた武将として描かれており『殺し間』という手持ちの鉄砲兵を左右に分散させて十字砲火で進撃してきた敵を仕留める戦法を用いる。
「残忍で狡猾、裏切りや密会を好み、計略策謀に優れる」「底がない」等信長以上に底の知れない人物として周囲から気味悪がられる一方で信長とはウマが合い重宝される。
また、公家などとの会談時には正装で臨む一方で戦場では血で歌舞伎役者のような化粧をし、秩序を求める性格と闘争を求める性格の双方に悩まされる二面性を持つ。

本作では金ヶ崎において秀吉や権兵衛とともに共闘したことがあり、以降は一般的には参戦した形跡がないといわれていた延暦寺の焼き討ちや長篠の戦でも参戦した描写がされている。

こうして織田家中随一の家臣として出世してきた光秀であったが、いつしか神のごとく尊敬していた信長が人としての弱さを垣間見せる事に苦悩する。煩悶の末、信長を下克上の重責から解き放つ為には誰かが討たなければならない事を悟り、本能寺を攻め落として信長を自刃させた。

その後は信長の抱えた一統問題に対し、「住民の中から選ばれたものを用いて統治する仕組みを全国に広める」というある種の民主主義のさきがけのような理想を掲げつつ動くが、予想外の速さで引き返してきた秀吉と山崎の戦いで対決。

最初は信長を直接屠った勢いが浸透した光秀軍が有利に進めるも、仙石隊が淡路を奪還したことに元気づけられた秀吉が本体を率いて逆襲を開始し、殺し間も勢いで突破して大勢が決する。

最後は随風や信長の霊と語らい己の運命を受け入れて討ち取られた。

徳川家

◆徳川次郎三郎家康
姉川の戦いで権兵衛と初顔合わせした戦国大名。「日本史上最も執念深く、勝負強い男」。
賭け事が好きで熱くなりやすく、初顔合わせ時には褌一丁になっていた。しかしここ一番では勘がさえわたり、姉川の戦いでは浅井朝倉連合軍の偽装撤退を見抜いて後方で備え朝倉軍を撃退している。
第一部~第二部序盤では血族に見られた熱くなり激しやすい性格だったが、三方ヶ原の戦いや第一次高天神城の戦いを経て激情を抑える力と大名としての風格を身に着けてゆく。
秀吉との直接対決となった小牧長久手の戦いでは豊臣秀次や堀秀政を翻弄し森長可・池田恒興を討ち取るも豊臣陣営の経済力や秀吉・信雄の電撃和睦により統治者として秀吉に敗れたことを認め、秀吉の下で再び雌伏の日々を過ごす。
本作オリジナル展開で佐久間隊の一員として徳川軍の援軍に赴いた三方ヶ原の戦いで再会、織田家の諸将が家康の寝返りを疑う中で権兵衛だけが家康を信じると発言したことや退却時の殿を務めたことなどから権兵衛に感謝し、いずれ借りを返すと伝えている。
その言葉通り、小田原征伐時に自陣への陣借りを許すことで軍功を上げる機会を与え、また作戦には失敗したものの早川虎口を一時制圧するといった大功を上げた権兵衛を小諸へ置くこと勧め、大名復帰をとりなした。
なおこの際、権兵衛は小諸よりも讃岐が良いと訳のわからぬ主張をし始めたため家康自身が仲裁することとなる。
しかしこのとばっちりにより自身も処される可能性が出たため大いに狼狽。一時言葉を間違いかけるも権兵衛への無言の脅迫により納得させ丸く収めたのであった。
また関ケ原の戦いのときは権兵衛が東軍に与したことで「勝ち目が出てきた」と嬉し涙を流している。
権兵衛が大坂の陣の前に没したため、センゴクの三英傑で唯一存命のまま出番を終えた。


◆徳川長丸→徳川秀忠
徳川家康の三男でのちの江戸幕府二代目征夷大将軍。「史上最も【守成】の才を発揮した大名」
几帳面だが幼少期は正しいか否かの二元論で物事を見がちで、さらには元服後は父家康の偉大さに気おされて委縮してしまわないかを心配されている。
小田原合戦前になかなか陣借りがうまくゆかずイライラしていた権兵衛が石ころを蹴飛ばそうとしたところで鉢合わせし口論となるも、その後今現在の家康についての不満を口にした際「大人が生き様を心得てると思うなよ」という権兵衛の励ましの言葉に感銘を受け家康に仙石隊の陣借りを乞う。
また江の輿入れの際には久秀一行が護衛の任に当たっており、この際に秀忠との縁が深まったと言われている。
その後関ケ原の戦いに連動した上田合戦では部下が暴走して真田昌幸・信繁親子に翻弄され敗走。
命からがら権兵衛の拠点・小諸で一緒に入浴した際「部下が逸って突撃したら逆襲に遭い敗走したのにその責任は自分が被る」と愚痴ったところ「それが大名というものだ。大名というものはいいところはあまりない。それを辛抱強くやり切るのが家康のすごいところだ。」「あの家康だって昔は激情に駆られて失敗したこともあった。今は日本で最も辛抱強い男だが。」と秀忠が生まれる前の父の姿を語り聞かせ、家康の𠮟責におびえる秀忠を安堵させる。*9
その後秀忠は初代の偉業を引き継ぐ二代目として三英傑の子息としては一番大成する。
石高はともかく秀忠付という待遇で権兵衛を厚遇し*10、権兵衛が没する直前の江戸での会見にて“豊臣家への処遇とそれに対する世間の反応”について彼に相談するほど信頼していた。


◆藤堂高虎
権兵衛以上に出世した戦国大名の一人。初登場は意外に早く第一部11巻の武田信玄病没直後。
権兵衛以上の巨漢でなおかつ学もあるが、当初は戦場であげた感状を盾に周囲を見下す癖があった。初対面では修羅場を潜り抜けてきた権兵衛と秀吉すら冷や汗をかいたほど。
初期の主君だった浅井家臣・阿閉貞征が秀吉と半兵衛の連携で説得され織田家に臣従したことで彼も織田配下となり、小谷城攻略戦に参加。ここで同僚となった権兵衛や可児才蔵と時には対立しながらも競い合い虎口も突破し、攻略に成功した。この時、「学はあってもそれを馬鹿にもわかるように伝えられなければ人はついてこないぜ。」と秀吉に指摘されたこと*11で己の未熟さを痛感した高虎は外に出て才覚を磨くことを決意。
その後三木城攻略戦で再会したときは羽柴秀長の麾下として参加、尊大な性格は鳴りを潜め、己の不足を学ばんとする冷静沈着な将に成長しており、再び権兵衛と功を競う間柄となった。紀州征伐の熊野侵攻の際は、権兵衛・尾藤と共に湯川党との過酷な山中戦を強いられるが、二人を見捨てずに踏みとどまり、冷静な指揮で湯川党の背後を衝いている。
以降も順調に武功を重ね、最終的には30万石以上の大名となった。
なお高虎の異母弟は仙谷家の娘と婚姻を結んでいる。

その他

◆随風
別名天海の名で知られている天台宗の僧侶。

物語の節目でしばしば登場し光秀や家康と禅問答を行う。


追記修正は失敗を挽回してからお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国時代
  • ヤングマガジン
  • 漫画
  • 歴史漫画
  • 仙石秀久
  • 仙石権兵衛秀久
  • 豊臣秀吉
  • センゴク
  • 武将
  • 武士
  • パチンコ化
  • 何故かなかなか立たなかった項目
  • リアル思考
  • 安土桃山時代
  • 名誉挽回
  • 愛すべきバカ
  • 週刊ヤングマガジン
  • 講談社
最終更新:2025年01月31日 12:09

*1 ちなみに原作終盤の頃には仕事場には図書館も各やと言うほどの資料がうず高く積まれていた

*2 秀吉等の糞の欠片ほども野心を見せることが許されない人物とやりあってきたセンゴクと違い家臣や立場上格下の奉行達や大老が相手という状況の違いもあるかもしれないが…

*3 ちなみに秀吉本人は討伐する気は無かったが、奉行衆から「かの如き猪武者は今後の政権の障りになるかも」と進言されてからの反論である

*4 何をしでかすか分からないが、その人間性からか思いもよらず良い方向に転がる事もままあるから無暗に切り捨てる事も出来ない

*5 財政難から他家に嫁に出そうかという提案に対し反乱でも起きるのではないかというレベルで反対される

*6 発砲の際に火縄銃から飛び散った火薬を浴びてできた「そばかす状の火傷痕」。そのような痕が残るほど銃を常用していたことの証左。

*7 他は秀長・蜂須賀小六・黒田官兵衛・浅野長吉・杉原定利。秀吉も信長側の使者から伝えられたが、最初は信じていなかった

*8 権兵衛が節目節目で土豪の取り込み役に抜擢され淡路島を任されたのもこういった背景がある

*9 史実では真田親子に苦しめられる秀忠を支えさらには関ケ原の戦いに遅刻した咎を懸命に庇ったエピソードを作者なりに膨らませたのであろう。

*10 史実では権兵衛の代のみ仙石家は準譜代扱いがされ参勤交代の際に例外的に妻子帯同が許され更には征夷大将軍に任命されるときなど節目節目では権兵衛を伴っていたそうだ

*11 半兵衛が「城攻めは、射って走って囲む」と実際にやる仕事を超シンプルに説明した際にかみつき、兵法書の一節を諳んじて反論するも、「その内容は半兵衛の言ったことを小難しく言い直しただけ」と秀吉に言われ、権兵衛らに伝わっていなかった。