バディ・ロジャース

登録日:2024/04/24 Wed 12:02:11
更新日:2024/07/04 Thu 14:36:59
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“ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャースは、米国の元プロレスラー。故人。(1921年9月20日〜1992年6月26日:享年71歳。)
ニュージャージー州カムデン出身。
出生時の本名はハーマン・ロード(HERMAN GUSTAV ROHDE Jr.=ハーマン・ギュスターヴ・ロード・ジュニア)だったが、後にファンにも馴染み深い名前としてバディ・ロジャースを本名としている。


【人物】

元祖“ネイチャー・ボーイ”として知られた伝説的なプロレスチャンプであり、日本のプロレス界においては力道山ジャイアント馬場も招聘を望みながらも遂に未来日に終わったものの、実際に対戦した経験がある馬場が試合中にもかかわらずロジャースに魅せられ“最も憧れた選手”と語っていたことでも知られ、それらの統合的な噂や証言から史上最高のプロレスラーの一人として名前が挙げられることがある。

……一方、日本では上記の通りの未知の強豪のままで終わったことや、ロジャースのスタイルを受け継いだと言われるリック・フレアーニック・ボックウィンクルダーティチャンプと呼ばれる小狡い勝ち方で王座防衛する戦い方に少なくない批判があった為か、そのスタイルの元祖であるロジャースの実力を疑う声や証言も少なくなかった。

特に、作家・漫画原作者として知られ、プロレス界とも深い関わりがあった梶原一騎が、日本プロレス界にてシューターとして認めると共にコーチ役として信頼を置かれていたカール・ゴッチと揉めたという話を脚色して知らしめた『プロレススーパースター列伝』でのエピソードから、長らく実力も無いのに王座に収まっていたショーマンシップレスラーの極致……という誤った評価が根付いてしまってもいた。

……が、この評価は近年の動画コンテンツ等の充実により個人が所有していた試合映像をアップロードして実際の試合中の動きが明らかになる中で覆ってきており、実際には誰よりも速く動き、誰よりも色気があり耳目を集め、誰よりも勝負を決める勘に優れた実力派だったという事実が知らしめられてきている。

修行時代に引退していたロジャースと手合わせした経験がある天龍源一郎は「所作やアピールでは確かにショーマンシップを意識していたが使ってきたのは本物のレスリングの技だった」と証言しており、如何に噂と実際のリング上での姿との評価に乖離があったのかが窺える。(事実、同系統とされながら実際の動きを日本でも見られるレイス、フレアー、ニック…等がネームバリューばかりで実力の無いレスラーなんて言われることは殆ど無かったのだし。)

また、その試合中の動きや使用していた技の傾向が明らかになる中で、長らくフレアーがニックネームや金髪といった容姿から使用する技まで含めた“後継者”と思われていたのだが、実際にはハーリー・レイス等にも影響を与えていたであろうことが予想される。

実際、以前には専門誌でさえロジャースを“足4の字固めの元祖”と紹介する程度だったのだが、実際の試合に於いてはパイルドライバーやドロップキックによる、純粋な3カウント勝利の方が多かったようである。


【主な経歴】

少年時代からYMCAでレスリングを学び、17歳(なので、1939年のデビューのはずだが1941年デビュー説もある。)にてデールブラザース・サーカスに入団してレスラーとしてデビュー。
これは、後のハーリー・レイスと同じく、純粋な興行としてのプロレスではなく、素人の力自慢との対戦も含めた賭けプロレスだったと思われ、この時点でスタートからしてがシューター(素人相手でも確実に勝てる真剣勝負専門のプロ)だったことが窺える。

デビュー時は本名のハーマン・ロードを名乗っていたが、後にパルプ紙の3文SF小説の主人公に擬えた“バディ・ロジャース”をリングネームとするようになる。

身長は180cm(183cm)、体重は最盛期でも107kg程と、レスラーのサイズダウンが叫ばれる現代の視点で見てもヘビー級のプロレスラーとしては小柄な部類であったが、均整の取れた肉体と金髪を靡かせたハンサムな容貌で人気を博した。
また、非常に優れた身体能力の持ち主でもあったようで、1940年代にしてリングを縦横無尽に駆け巡るスタイルを確立していた模様。

20代の頃から全米でも“最も集客力のあるレスラー”となり、各地でタイトルを奪ったと伝えられる。
しかし、最高峰にして代名詞と思われていたNWA世界王者を獲得したのは1961年にパット・オコーナーを破り戴冠と40歳になってからであり、チャンピオンに相応しいと許諾された選手に対しては通常は30歳前後で王座が巡ってくるにもかかわらず、誰もが認める人気No.1の選手だったロジャースの獲得がここまで遅れたのには、単にNWA内部での政治的な闘争と駆け引きがあったから……とのこと。

とはいえ、一度獲得してしまえば後はロジャースの天下となり、2年近くにも渡る長期政権を築いた。
しかし、ロジャースがボスとしていたのはニューヨークにテリトリーを持つビンス・マクマホン(シニア)であり、そのビンスは他のNWA傘下のテリトリーとの約束事を破り自分の子飼いの選手の間でベルトを回し本部から不評を買っており、いっそのこと……と、独立の構えすら見せていた所だった。

そして、そのボスの動きに追随したロジャースもライバルであったルー・テーズに敗れてNWA王座を失ったタイミングで、ビンス(シニア)が新たに興したWWWF(現:WWE)の設立に協力。
初代WWWF王者となった。

しかし、初防衛戦にて売り出し中のブルーノ・サンマルチノと対戦したロジャースは僅か48秒でカナディアン・バックブリーカーによりギブアップ負けを喫して王座陥落。
それから間もなくして現役も引退してしまった。
……一説によると、この当時から心臓への疾患と長年のプロ活動によるダメージが蓄積していたロジャースは引退時期を模索していたともいい、健康状態に問題が無ければロジャースの王者のままで行こうと思っていたビンス(シニア)も、ロジャース自身からの推薦を受けて、新たにイタリア系の観客の集客も見込んでサンマルチノを王者にすることを了承したとも言われる。
また、秒殺ブック(台本)を提案したのもロジャース自身だったとの説まであり、各地のプロモーターとすら互角に交渉できる程の傲慢な選手……と言われていたロジャースが、実際には如何に業界の未来を考えていたチャンピオンだったのかを物語るエピソードだとも。
実際に、サンマルチノに敗れたことで汚名を被ることになったロジャースだったが、そのことについての言い訳を全くしていない。

……思えば、このキャリア晩年のエピソードが有名になり過ぎたこともまた長年に渡り“ロジャースを実力の伴わなかった王者”というイメージに説得力を持たせてしまったのかもしれない。

尚、当時はシニアより冷遇されていたとはいえ、後にシニアからテリトリーを引き継ぐと共にWWEを世界一のプロレス団体にまでしたビンス・マクマホン(ジュニア)もロジャースを「最も憧れたプロレスラー」と評しており、ニューヨークテリトリーに於けるスーパースターであったのは間違いない。

因みに、引退してから十数年も経った1978年に2代目“ネイチャー・ボーイ”を名乗り、NWA世界王者となったリック・フレアーと戦う為に限定的に復帰。
その他にも数試合を行っており、これが最後のレスラーとしての仕事となった。

1980年代にはビンス(ジュニア)に迎え入れられて一時的にプロレス界に復帰。
売り出し中だった“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのマネージャー役を務め、インタビューコーナーも持たされた。

また、引退後のエピソードとして68歳のロジャースがフロリダの飲食店に居た時に26歳の巨漢が暴れた際に、余裕綽々で取り押さえたというエピソードが伝えられている。
この時のロジャースは心臓と股関節の大手術後という、とても健康だったとは思えない体調だったようなのだが……。

1992年にスーパーマーケットにて掃除されていないクリームチーズを踏んで転倒してしまい、頭部を強打したことが原因で逝去。享年71歳。

1994年にはWWE殿堂に迎え入れられ、当時の団体のエースであったブレット・ハートがインダクターを務めている。


【カール・ゴッチとの因縁?】

日本では、前述のように“プロレスの神様”として神格化されていたカール・ゴッチとのバックステージでのトラブルが梶原一騎により「実力のないロジャースを実力者ながら不遇なゴッチが制裁した」として紹介されて長年に渡り信じられていたのだが、実際には口論こそ起きたが直接的に争った訳ではなく、ロジャースが負傷したのも先に部屋を出ていこうとドアを開けたロジャースに対し、ゴッチと一緒にいたビル・ミラーがドアを蹴って阻止しようとした所、タイミング悪くロジャースの手を挟む形となって負傷させてしまった……というのが真相だった模様。
何れにせよ、この負傷でその日の試合に出られなくなったロジャースと対戦する予定だったのがジャイアント馬場で、このせいで馬場がロジャースより先だって獲得していたNWA世界王者の移動が正式に認められなくなったとのこと。(当時の規定では世界王座は移動した後に一定時間内にリターンマッチをしなければならず、その試合だった。)
ドル箱スターのロジャースに口論を仕掛けたばかりか負傷させたゴッチとミラーには罰金が課せられたという。


【主な得意技】


■パイルドライバー
使い手であること自体が知られるようになったのは動画コンテンツで実際に動いてる試合が見られるようになってからだが、どうやら最大の得意技としていた模様。
技の形は後のプロレス界では“キラー”バディ・オースチンに由来すると思われていた“引き込み式パイルドライバー”で、世代から考えると実は元々はロジャースの技だった可能性が高い。
しかも、ロジャースの場合は仕掛けがスピーディーでジャンプしながら相手を叩きつけており、あのルー・テーズやキラー・コワルスキーも一撃で仕留められているのが確認できる。
また、相手の体格によって尻を捉えたりボディを捉えたりと、形を変えられる臨機応変さを持っていた。


■ドロップキック
若手時代に特に得意としていたと思われ、相手の隙をついて走り込んで矢のような正面飛びドロップキックを連続で突き刺している様子が確認できる。
当時のプロレスでは、ドロップキックもれっきとした必殺技だったというのは同世代のテーズの証言からも知られていた事実だったが、どうやらその代表的な使い手がロジャースだったようである。
因みに、正面飛びドロップキックは自爆が怖い、避けられたら隙だらけというのが定説だったが、受け身が柔らかくて巧いロジャースは自爆することもなく着地して次々と連発している。

■ハイ・ニー
前述のように当時としても小柄な部類に入るロジャースは体格差を補うためかスピードを活かした動きと共にカウンターでの肘(エルボー)や膝(ニー)での攻撃を得意としていたようで、特に相手の顔面にドンピシャで合わせるハイ・ニー(ジャンプしない膝蹴り)は瞬間的に3カウントを奪える必殺技の一つだったようである。
同様の膝蹴りは、後にハーリー・レイスが引き継いで使っている。


■フライング・ヘッドシザース
身軽なロジャースの名人芸的な技で、相手が走り込んで来た時にカウンターでアクロバティック的な動きから瞬間的にマットに引きずり倒しているのが確認できる。
尚、ヘッドシザースというと自分が相手を向いた形になるのが一般的だが、ロジャースの場合は反対側を向いた形(頭を挟み込む方向が反対)になる。


■アトミックドロップ
背後から相手の脇の下に頭を差し入れた状態で抱えあげて、自身の立て膝の上に相手の臀部(尾骶骨)を叩きつけていく古典的な大技。
……実はロジャースが元祖だったらしく、技名もロジャースの戦時中のニックネームであった“アトミックブロンド”に由来していたらしいことが明らかになった。


■足4の字固め
元祖にして技自体の開発者として伝えられる。
ロジャース自身の証言によれば、当時に他の選手が使用していた“フィギュアフォー・ボディシザース”という古典技をヒントに改良を加えたものだという。
ロジャースはキャリア初期にはスピーディーな動きからのパイルドライバーやドロップキックからの3カウント勝利を得意としていたが、この技を開発してからは相手にギリギリまで攻めさせておいてから小狡いアクションで隙を点いてからこの技にもちこんでギブアップを奪う……という“ダーティチャンブ”の文法を完成させたらしく、そのキャリアを重ねてからの姿が元々のシューター的な姿を忘れさせてしまってもいたのかもしれない。


■ロジャース・ストラート
試合中にロジャースが見せる、相手を小馬鹿にしつつ大袈裟にアピールしながら歩いたり、挑発したりといった動きのこと。
フレアーの“フレアー・ウォーク”や、その他の伊達男系ヒールレスラーのアピールの原型と言える。


■命乞い
相手が強かった場合には情けなくも命乞いをするような動きを見せつつ、レフェリーが見ていないのを確認してから急所などを打って逆転する。
あからさまな反則をするというアピール技で、これもフレアー等に引き継がれた。




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最終更新:2024年07月04日 14:36