カール・ゴッチ

登録日:2020/05/25 Mon 09:20:00
更新日:2021/02/02 Tue 03:25:44
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『カール・ゴッチ(Karl Gotch)』1924年8月3日 - 2007年7月28日は、ベルギー・アントワープ出身とされるプロレスラー。故人。
当人によれば、父はドイツ人、母はハンガリー人だという。

公称サイズ、身長184(188)cm、110kg。
ボディビルダー型とはまた別の筋骨逞しい肉体で、晩年まで四角く分厚い胸板を誇っていた。

日本でも良く知られていたプロフィール上ではドイツ・ハンブルク出身とされていたが、これは9歳の時に移住してから、または米国マットに登場してから後のプロフィールである。

ゴッチ自身の経歴については、特にインタビューや伝聞のみで、正確な確認の取れない若い頃の物には不明な点が多く、現在でも“実はドイツ人じゃなかった”という話のみが先行されて語られているに過ぎない。
実際、正確な生国や生年月日は不明であるとも言われる。

本名:カレル・アルフォンス・セシル・イスタス(イスターツ)

日本でも知られる、ドイツ名のカール・クラウザー、そしてカール・ゴッチという名前は、あくまでも30代半ばに米国マットに登場してから名乗ったリングネームである。

尚、このことについて、欧州出身のゴッチは米国マットで活動するのに当たり、当時は珍しくなかったドイツ人(ナチス)ギミックを用いたのではないか?とする意見もあるが、ゴッチはフリッツ・フォン・エリックやハンス・シュミットの様なギミックを前面に押し出していたキャラクターで売っていた訳ではないので、根拠としては薄い。(尚、当時を代表するドイツ人キャラであるシュミットはカナダ人、エリックはアメリカ人であり、欧州出身者だからナチスギミックを用いていたという理由にはならない。)
ゴッチ自身の弁による来歴を信じれば、ドイツ出身のカール・ゴッチ(クラウザー)が一番、素の自分に近いキャラクターだったというだけなのかもしれない。
因みに、前年までのカナダ・モントリオールではフランス人名を名乗っていたので、ドイツ人設定に拘りがあったとは余計に考え難い。

ベルギーでのアマチュア時代は勿論、プロレスラーとしても幾つかのマイナータイトルを獲得しているとのことだが、上記の様に経歴については不明瞭な部分も多い。
一方、アメリカでは後述の様に62年に起こした人気者のNWA世界王者バディ・ロジャースとのトラブルや、観客受けがしないスタイルもあってかプロモーターに敬遠されており、冷飯を食わされていたのは戦歴からも確実なようである。

そんなゴッチに救いの手を差し伸べたのは、米国から遅れること約半世紀後に誕生した日本マット界であった。
日本でのゴッチは選手というよりも、特に、ある時期(三銃士世代辺り)までの新日本、UWF(第2次までの)系の名だたるスター選手達の師匠格、名伯楽として知られている。

日本での通称は“(プロレスの)神様”だが、当人は後年のインタビューの中で、この敬称を大それたものとして否定している。


【来歴】

前述のように正確な生年は不明だが、西ヨーロッパの出身であり、当人によれば1924年ベルギーのアントワープ出身。
9歳の時にドイツに移住するが、当時はナチス政権下で強制収容所に入れられていたと語っており、10代に入ると強制労働により工場で働いた。
レスリングとの出会いは10歳であったというが、17歳の時に、左手の小指を機械に挟んで失くしてしまう。

ゴッチが自身を指して“障害者”という表現をよく用いるのは、この経験からかも知れないと予想されている。
実際、ゴッチはこの怪我で生涯、補助金を受け取っていたという。

1945年5月にナチス・ドイツが連合国に敗れ、程無くして第二次世界大戦も終結。
ゴッチは解放され、生国であるベルギーに戻りレスリングの選手になった。

強制収容所に居ながらも鍛え上げていたのか、フリースタイルとグレコローマンの両方で、7(6)度ずつ国内王座を獲得したと伝えられる。

1948年のロンドンオリンピックにもフリースタイル、グレコローマンのベルギー代表として出場。
フリースタイルでは10位、グレコローマンは8位の成績に終わる。

その後、50年頃より本名の“Karel Istaz(=カレル・イスターツ)”名義でプロレスラーとしてデビューしたと云うが、当人は22歳でプロレスラーになったとも答えており、実際に40年代後半には、既にプロレスラーとなっていたのではないかとする説もあり、細かに情報の食い違いが見られる。

プロレスラーとなったゴッチは、ヨーロッパ各地を転戦。
ウィーンのトーナメントではハープ・ガーウィグ(後のキラー・カール・コックス=ブレイン・バスターの元祖)に敗れて準優勝に終わったという。

そんなゴッチに、53年のベルギーでのトーナメントで、共に出場していたイギリス出身の先輩レスラーで、後の“人間風車”ビル・ロビンソンの叔父であるアルフ・ロビンソンが声をかけてきて、ゴッチに自分の使う“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”の本場である、英国ウィガンの“蛇の穴”こと、ビリー・ライレー・ジムに行くことを薦めてきたという。

早速イギリスに赴いたゴッチは、そこで英国伝統のキャッチ・レスリング(ランカシャー・スタイル)の妙技に魅せられ、以降5~10年近くに渡って現地に居着いて修行を続けたという。
一方、ゴッチがこの頃に英国入りしたのは確かなようだが、上記の話よりも少し早く51年からとする記述もある。

ゴッチを指導したのは、ジムの名前にもなっているビリー・ライレーの一番弟子であった道場主のビリー・ジョイス(ボブ・ロビンソン)で、上記の経歴を信じれば、訪英前からレスリングの玄人であった筈のゴッチは、最初のコンタクトでジョイスに赤子扱いされ、2年程後に現地の興行でプロ同士として相対した試合でも完敗したという。
このことは、当時12歳位と思われる少年ながら既にジムに出入りしていたビル・ロビンソンも目撃者として証言しており、後年に於いてゴッチとロビンソンという強豪二人から揃って師匠のジョイスが最も強い選手だったと名前を挙げられている。
また、ロビンソンがスパーリング出来る年齢になると、ゴッチが嘗てのビリー・ジョイスのようにロビンソンの相手をするようになり、ロビンソンも成長するに伴い、一方的に負けるだけにはならなくなったという。

何れにせよ、30代の前半辺りまで英国“蛇の穴”で過ごし、59年からはカナダ・モントリオール入りして、活動場所を北米地域に移すことになる。

この辺の経緯については、特に語られていない。
フランス移民の町であるので、欧州系の選手の玄関口になっていたというだけかもしれない。

因みにモントリオールでは、前述の様にゴッチはピエール・レマリン(或いはラマリーン)という、フランス名を名乗っていた。
このことも、前述のゴッチが“ドイツ人”設定に拘りを持っていたか否かについての答えを曖昧なものとしている。
僅かな期間とはいえ、ゴッチは“フランス人”だったことになるからだ。

翌、60年よりアメリカに渡り、日本でも知られているドイツ名のカール・クラウザーを名乗り始める。

そして、この直ぐ後の61年4月に日本プロレスに招聘されて、ゴッチは初来日を果たす。
この時に、必殺のジャーマン・スープレックス・ホールドを日本で披露して衝撃を与え、日本では技の要領が似ているバックドロップを操る、プロレス王者ルー・テーズを彷彿とさせる実力者として捉えられるようになる。
5月には力道山と対戦して引き分けており、日本では、単なるやられ役の外国人という扱いでは無かった。
尚、この来日中に共に参戦していたグレート・アントニオに対して、友人のミスターXことビル・ミラーと一緒になって控室で制裁を加えたと噂される。
これは、カナダ本国でも知られた怪力男でメインの外国人だったアントニオが、日本でも力道山のアイディアもあって、バス三台を引っ張る等のパフォーマンスを行い話題を呼び、レスリングの実力も無いのに調子に乗った態度や発言をしたことに腹を立てたためだと予想されており、実際に一足先にアントニオが帰国してしまったのは制裁による為だと言われている。
このように、ゴッチはストイックにレスリングの強さを求める余り、ショーマンシップ溢れるキャラクター優先の選手を毛嫌いしていたらしく、またプロとして興行の趣旨を理解しているのか疑わしい部分が垣間見られた。

お馴染み“ゴッチ”の名は、61年にオハイオに入った際にプロモーターのアル・ハフトが与えたものだという。
“ゴッチ”とは、偉大なるプロレス王者にして近代プロレスの創成期を代表する選手として高名が伝わる“フランク・ゴッチ”に由来するもので、ハフト自身も現役時代は“ヤング・ゴッチ“を名乗っていたという。
欧州からやって来たレスリング求道者に対して、ハフトも何かを見出だしたのかも知れない。
しかしながら、実際の“フランク・ゴッチ”はレスリング出身でも無ければ、どちらかと言えばダーティな噂もある人物だったというが、以降の生涯を“カール・ゴッチ”として過ごした辺り、欧州出身のゴッチが自身に付けられた名前のルーツを知っていたかどうかは解らない。
この年、北米での初のタイトルとなるNWAイースタンステーツヘビー級というマイナー王座を獲得。

62年8月、オハイオ州の興行に参加していたゴッチは、ここで再びビル・ミラーと共に興行の目玉であったNWA世界ヘビー級王者で“元祖ネイチャーボーイ”のバディ・ロジャースと控室で口論となり、部屋を出ていこうとしたロジャースの手をミラーがドアを蹴って挟んで負傷させるという暴行事件を発生させる。
ゴッチが直接に手を出した訳ではなかったし、ロジャースも被害届は取り下げたものの、この件は後にゴッチを各地のプロモーター達に敬遠させる原因になったとも言われる。
因みに、この時に負傷したロジャースの代役として試合を行ったのが遠征中のジャイアント馬場だったという。

また、この事件に際して前述のプロモーターのアル・ハフトは当日のチケットの払い戻し(実際には8000㌦の売上の内の2500㌦だったとも)を行ったとのことだが、 この後もゴッチにオハイオ版AWAヘビー級王座を獲得(相手はドン・レオ・ジョナサン)させて地区王者として使い続ける等、重宝したようである。

しかし、64年にNWA本部の意向により、バディ・ロジャースよりNWA世界王者を取り上げていた(・・・・・・・)ルー・テーズとの統一戦に敗れ、ゴッチはベルトを失うと共に、オハイオのテリトリー自体がNWAの一部となって消滅した。
因みに、この時期には統一戦以前にも1年の間に9度ものテーズへの挑戦が実現しているがゴッチは世界王者の獲得に失敗しており、後に日本で並び称される“鉄人”と“神様”の直接対決はテーズに軍配が上がっていたのである。

しかしながら、テーズは歴代の挑戦者達の中でも特にゴッチの実力を評価していたそうで、客ウケしないスタイルからプロモーターには嫌われていたというゴッチに一時期でもチャンスが巡っていたのはテーズ自身の希望があったのかもしれない。
そして、最終的に統一戦を吹っ掛けてオハイオ地区を潰したのは、それを由としないNWA本部の意向であったのかもしれない。
こうした評価から、ゴッチは“無冠の帝王”とも呼ばれていた。

何れにせよ、こうした経緯を経てゴッチは以降の米国マットでは67年にWWAに参戦し“アイアン”マイク・デビアス(“ミリオンダラーマン”テッド・デビアスの父)と、71年にはWWWFに参戦し、後にビンスJr.体制下のWWFでロードエージェントとして活躍したレネ・グレイと組んで、それぞれにタッグ王座を獲得したりと活躍していたが、この時期に新日本を設立したばかりの猪木に請われて、選手としてよりもコーチとして日本行きを決意する。

こうして、40代半ば乍らまだまだ体力が衰えていなかったにも関わらず、ゴッチはチャンスを与えられないまま選手としては一線を退くことになった。
本人の意思もあったとはいえ、ゴッチもマット上の政治力を憎んでいたというが、これについては、前述のようにゴッチ自身のトラブル体質や、ゴッチはプロレスラーとしては如何に強くても魅力的には見えないタイプの選手だったことがプロモーター達に嫌われる理由となったようである。

この頃のゴッチのあだ名は“秒の殺し屋”で、実力が劣る相手を見せ場も与えずに仕留めてしまう技術は、現代ならば売り方もあるのだろうが、当時の連日連夜のフルタイムドロー(当時は興行に参加する選手の数も組まれる試合数も少なかった)も珍しくなかった時代で、ゴッチの試合は内容を理解出来ない客にとってみれば本当につまらなかったようである。(前述の様にゴッチの強さを認めていたテーズもゴッチの動きを「ロボットみたい」と評している)


【指導役として】

以上の様に米国では選手としては決して恵まれたキャリアを積んだとは言えなかったゴッチを重宝したのは日本マット界であった。
しかし、それは選手としてよりも高い技術に注目しての指導役としてであった。*1

先ずは、日本プロレスが68年には長期滞在させてまで若手の指導を任せたことからゴッチの指導人生が始まる。
通称「ゴッチ教室」は午前10時からの2時間半のみだが、その内容は殆ど休憩の間も無い程の超過密スケジュールで、基礎体力作りから受け身、レスリングのやり取りの基本となる首相撲を延々と繰り返す地獄の特訓で、この指導法は後の国際、新日本、UWFにも変わらずに引き継がれた。
尚、ゴッチの癖で指導に力が入ると余裕で予定時間が過ぎ、終わった後も熱の籠ったミーティングが続いたという。*2

この時の生徒には、後に新日本プロレスでも指導役として辣腕を振るう山本小鉄や星野勘太郎等も居り、ゴッチ流の指導法を学ぶことになった。
そして、中でも「ゴッチ教室」の一番の優等生だったアントニオ猪木は、ゴッチの指導によって代名詞的必殺技である“卍固め”やジャーマンスープレックスを会得している。

その後、前述のようにWWWF参戦も過ぎてレスラーとしての仕事を失うと、一時期はハワイに渡って清掃関係の企業を経営していたというが、今度は国際プロレスが声をかけて来日。
この時には、既に国際プロレスの外国人エースとなっていた弟弟子のビル・ロビンソンからの紹介であり、ロビンソンとゴッチに加えてモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)までも欧州から招聘されていたという、後の歴史的にも大きな意味を持つシリーズであった。

この、参加したリーグ戦(IWAワールドシリーズ)にて、当人達の意向もあったのだろう、ゴッチは再会したロビンソンと5回も戦って何れも引き分けており、白熱した戦いを日本の観客に見せている。

そして、このシリーズでは、何とモンスター・ロシモフこと、アンドレとゴッチとの対戦までもが実現している。
アンドレとの試合では、まだ全盛期の体重では無かったとはいえ完璧なジャーマンを決めている写真が残されているが、試合の方はレフェリーの不在でこの瞬間はカウントされず、ピンチを乗り切ったアンドレにフォール負けを喫し、結局はアンドレが優勝を勝ち取っている。

そして、選手として招聘されたこの来日でも、ゴッチは日プロでの評判から指導を請われており、国際プロレス版の「ゴッチ教室」でアニマル浜口達を鍛え上げたという。

そして、猪木は72年に新日本プロレスを設立すると、師匠であるゴッチを選手、コーチ、ブッカーとして招く。

これは、猪木がクーデターに失敗して日プロを追われたことで、本来の外国人招聘ルートが使えず、自分の呼べる名前の知られた大物がゴッチしかいないという事情があったものの、その後もゴッチは主にコーチ役として度々に招かれると共に、フロリダ州タンパの自宅道場が新日本プロレスの新人選手達の修行場所として使われることになっていった。

ゴッチと新日本プロレスの関係は、新日が起動に乗りWWFとも提携を結ぶ等、日プロから引き継いだ招聘ルートを持っていた全日本プロレスに優るとも劣らない外国人招聘ルートを築いた84年入門の闘魂三銃士世代辺りまでは続いていた。*3
しかし、80年代に入った頃から大きくなってしまった新日本プロレスとゴッチの関係は微妙になっていき、84年頃を境に、ゴッチは完全に新日本の道場から姿を消すことになってしまう……それは、一つの時代の終焉のようであった。

そして、85年に新日の所属選手達の中でも愛弟子と呼べる前田日明や藤原、木戸、髙田延彦が参加した第一次UWFに協力。
UWFは当初、ゴッチが尊ぶ道場マッチのようなレスリング主体のスタイルであり、ゴッチも喜んで愛弟子達を指導していた。
後に、矢張り愛弟子の佐山聡が加わった時も喜んでいたが、佐山はゴッチが余り好まない蹴りを取り入れ、更には佐山の急速な主導権狙いに反発した者達も出たことで、理想郷は脆くも崩れ去ることになる。

ゴッチは88年に発足した第二次UWFとは距離を置き、案の定分裂して各々が別の団体(リングス、藤原組、UWFインターナショナル)を作った時には「船頭多くして山に昇る」と嘆いたと言われる。

しかし、再びゴッチに声をかけたのは愛弟子達の中でも特に仲がいい藤原で、ゴッチは藤原組で船木誠勝や鈴木みのるを鍛え上げ、93年には船木達が創立したパンクラスの名付け親となった。
これが、所謂“ゴッチイズム”を標榜した最後の団体となった。

こうして、表舞台から姿を消して隠居となったゴッチだったが、朝の5時に起きて2000回のスクワットをこなす生活を続けたという。
96年に、21歳と19歳で出会って以来、住む国を変えつつも共に過ごしてきたエラ夫人を失ったのを機に、多くの選手の道場となってきた自宅を引き払いアパートに引っ越した。
生前の夫人だけが、レスリングのことになると暴走しきりのゴッチを窘められた人だったという。
ゴッチは、半世紀以上を付き添ってくれた夫人を最高の勲章、たった一つのチャンピオンベルトと評している。
何れにせよ、夫人を失ったゴッチは晩年を一人には十分な広さのアパートで過ごし、動ける限りは毎朝2時間のトレーニングと夜9時の就寝を欠かさなかったという。

晩年のゴッチの面倒を見たのは、弟子のジョー・マレンコと、西村修だった。
クラシカルレスリングを好み、往年の名レスラー達の指導を受けていた西村はゴッチからも個人的に指導を受けると共に、生活の援助を行いつつ昔話を良く聞いていた。
西村のスタイルをゴッチイズムと呼べるのか?と疑問を呈した前田日明も、西村が晩年のゴッチの面倒を見てくれたことについては素直に感謝を述べている。

2007年7月28日。“プロレスの神様”は大動脈瘤破裂により82年の生涯を閉じた。
因みに、死去する前までトレーニングは続けていたと、最期を看取ったジョーが証言している。

そして、ゴッチの死から丁度10年後の2017年7月28日。
嘗ての弟子である参議院議員アントニオ猪木、藤原、木戸が発起人となり、文京区区議会議員として活動している西村修が実行役を務め、東京都荒川区の回向院にもゴッチの墓が建立された。

ゴッチは、晩年は飛行機嫌いや足の悪化により大好きだった日本に来ることが出来なくなっていたが、ゴッチは死ぬ前に一度は日本にやって来て、弟子達の中でも特に猪木に会いたがっていたという。
西村は、ジョーが散骨せずに残していた1割の遺骨を日本で埋葬出来る場所を探し続けていた中で、上記の話と共に国会に復帰していた猪木に相談したことで、一気に実現の運びとなったという。

猪木は、亡き師の墓にゴッチの技術こそが日本のプロレス界の礎となったことへの感謝を捧げた。


【主な得意技】


ゴッチの代名詞にして、その後のプロレス界で大流行となった必殺技。
ゴッチ曰く「アマレスのバック投げを取り入れた技」とのことで、プロレスに於ける元祖はゴッチで間違いないと思われる。
ゴッチ以前にも、かのルー・テーズバックドロップや、ビル・ロビンソンのダブルアームスープレックスのようなスープレックス系の投げ技は存在していたものの、相手を投げた後に直接に固めていくジャーマンスープレックスはエポックメイキングで、要領が似ているテーズのバックドロップに対抗する為にゴッチが開発したと真しやかに日本のプロレスマスコミは書いていたものの、実際には上記の通りで元からあった技をプロレス流にアレンジしたに過ぎない。
ゴッチ自身も自分だけのオリジナル技とは思っていないのか、ゴッチが指導した選手達の多くが“ゴッチ直伝のジャーマン”を使いこなしていることでも知られている。
ゴッチの弟子達は経歴からも日本人が多いのだが、最初の弟子と呼べるのは米国マットで出会ったヒロ・マツダであり、生真面目で根性主義が罷り通っていた日本人と、宮本武蔵の『五輪書』を愛読していたゴッチは、元より相性が良かったのかもしれない。
ジャーマン・スープレックスの名称は、ゴッチのドイツ人設定から来ている訳だが、直接はドイツと無関係な和名の原爆固めは、米国でこの技がアトミック・スープレックスと呼ばれていたことに由来する。
この辺りも微妙にややこしく、前述のゴッチの日本での初公開の際に、東京スポーツの桜井康雄は当人から(ドイツ式=ジャーマン)スープレックスという呼び名を聞いてデスクに伝えたのだが、もっと見出しにインパクトが欲しかったデスクに対し、桜井が米国で用いられるアトミック・スープレックスの直訳として原爆固めと伝えたのが始まりとされる。
しかし、後には米国でもこの技はジャーマン(スープレックス)で通るようになっている。


【余談】


  • 生まれた年代や生きた時代を考えれば仕方ない所ではあるが、トレーニングの方針や内容が前時代的で、科学的に正しいとは言えない根性論、スパルタ的なものであったり、アナボリック・ステロイドはともかく、プロテインやサプリメントにすら懐疑的で、偏見を持っており、こうした誤った知識も後々までゴッチの指導を受けた新日本プロレスの道場に引き継がれてしまっていた。
    当人は、プロテインやサプリメントを用いず普段の食事から必要な栄養素を摂ることを目指していたが、この理論も自身のみに依るものなので、正確だったかどうかは疑問である。
    とはいえ、当人に限っていえば項目にも書いた通りのストイックぶりで晩年まで体調を維持していた他、現役時代にはテクニックもそうだが、驚異的なパワーをも誇っていた。(アンドレに比べれば普通のサイズなのに、アンドレ同様に猪木のキーロックを持ち上げてコーナーまで運んでしまうとという定番の攻防というかパフォーマンスがあった。)
    理想の肉体として、動物園にゴリラを見に行っては飽きずに見学していたなんて話まであり、後のUWFインターの選手達からは“パワーファイター説”も出されていたそうである。


  • 前田日明が西村修の“ゴッチイズム”に疑問を呈した理由は、ゴッチの理論と技術の目標とするものが相手を素手のみで短時間で“殺害”することを目的としていたものであったのに対し、西村のスタイルが単に昔ながらのプロレスのスタイルで、しかも3カウント勝利に拘っていたからである。
    実際、現役時代のゴッチは試合を盛り上げることを知らない秒殺魔としてプロモーターに嫌われており、流石にリング上で相手を殺傷することを目的とはしていなかったものの、晩年のインタビューでも人を見ると、どうやって素手のみで素早く殺せるのかを常にシミュレートしていると答えている。
    まあ、西村はゴッチのみならず、ドリー・ファンクJr.やハーリー・レイスからも指導を受けていたので、正確には“70年代イズム”と呼ぶべきスタイルで、前田の主張の方が正しかったのだろう。……しかし、言動も思考も危ないオッサンであるゴッチは。


【創作作品におけるカール・ゴッチ】

漫画

  • ネオ格闘王伝説 Jr.Wars
1980年代に連載された、当時から見て未来の2008年を想像した超トンデモプロレス漫画。
本作においてカール・ゴッチは「燃える闘魂」なる人物の息子を自称する主人公・獅子王寛(偽名)を導く役割で登場。
ちなみにこの漫画、日本の実在人物は全く実名に触れられてない反面、海外の人物は実名バリバリだったりする。
見た目は『北斗の拳』の種モミ爺さんそっくり。ちなみに漫画の舞台は2008年であり、地味に現実よりも一年長生きしている。





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最終更新:2021年02月02日 03:25

*1 力道山も米国のプロモーター達と同じく、ゴッチの強さを認めても試合は誉められたものではないと語ったとされる。

*2 この癖は後年になっても変わらず、ゴッチに指導を受けた最後の世代でもある武藤敬司は、ゴッチが指導すると練習は長いわ、その後の話が長いわで若手は昼飯も食えずに付き合わされることになるので“面倒臭いおじさん”だと思ったと語っている。

*3 ほとんど接点のなかった全日本プロレスでは渕正信が、アメリカ遠征の際にゴッチから指導を受けた経験がある。