ブレット・ハート

登録日:2017/04/08 Sat 22:43:26
更新日:2023/09/12 Tue 03:40:08
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『ブレット・ハート(Bret Hart)』は、カナダの元プロレスラー。
1957年7月2日生まれ。

カナダでスタンピード・レスリングを主宰していた、アルバート州カルガリーの名門レスラー一族“ハート一家(The Hart family)”の最高傑作で、総帥スチュ・ハートの六男である。
特にWWF(現:WWE)に於ける“ヒットマン”ブレット・ハート(Bret “The Hitman” Hart)の通称で知られ、カナダのスポーツヒーローの一人とまでになった。

レスラーとしては小柄な部類であり、日本ではJr.ヘビーとして扱われていたが、本国や米国では“処刑の達人(Excellence of Execution)”とも讃えられた、巧みで説得力のある攻めを展開するテクニックを武器にスーパーヘビー級のレスラーとも堂々と渡り合った。
入場時には掛けてきたサングラス(ヒットマンシェード)をリングサイドの子供にプレゼントするパフォーマンスでも知られている。

決め台詞は 「現在、過去、未来においても俺が最高だ(The Best there is, The Best there Was, and The Best there ever will be)」

ハルク・ホーガンが去った後のWWFで全く別タイプながらエースとして活躍するも、その華々しい“ヒットマン”としてのキャリアの晩節をモントリオール事件により汚されてしまった悲劇のヒーローとしても記憶されている。

【略歴】

前述のように修行、遠征先として日本マット界とも深い関わりを持っていたレスリング一家の出身で、学生時代にはレスリングで活躍。
ハイスクール卒業後もハート家の地下に作られた特設リング…通称“ダンジョン”*1で訓練を積み、76年にプロデビューを飾った。
この“ダンジョン”では、海外修行中の多くの日本人レスラーも学んでおり、ミスター・サクラダ(ケンドーナガサキ)やミスター・ヒトらの指導も受けたのだという。

主戦場はスタンピード・レスリングであり、若い頃から頭角を現していたが、そうした縁もあって80年から新日本プロレスにも来日。
初代タイガーマスク(佐山聡)らの持つJr.王座にも挑戦している。*2

84年にスタンピード・レスリングがWWFに買収されると血族と共にWWFへ。
ベビーフェースとして登場するも、義兄ジム・ナイトハードとの“ハート・ファウンデーション”としてヒールとして活躍するようになる。
マネージャーとしてジミー・ハートを迎えているが、彼の場合は偶然にも同姓だったというだけである。

87年に日本でも名を知られたダイナマイト・キッド&義弟のデイビーボーイ・スミスの“ブリティッシュ・ブルドッグ”を破りWWF世界タッグ王座を獲得。
この頃よりパーソナルカラーとなるピンクと黒のコスチュームを纏うようになる。
赤+白のピンクはカナダ国旗にちなんだ配色だという。

チームは88年にベビーフェースに転向。
この頃から入場時にヒットマンシェードを子供に掛けてやるパフォーマンスも定着する。
尚、目元を隠すようになったのは元々はWWF等では必須であったインタビューやマイクアピールの際の照れ隠しの為だったという。

こうして、ハート・ファウンデーションは屈指の人気チームとなるも、91年3月に獲得していた二度目のタッグ王座を失うとチームを解散してシングルプレイヤーとして活動するようになった。

同年8月に“Mrパーフェクト”カート・ヘニングを破り、インターコンチネンタル(IC)王座を初戴冠。
翌92年のサマースラムまでに名勝負を連発し、ヘニング戦以外では92年4月のレッスルマニアVIIIでのロディ・パイパー戦、92年8月にイギリスで開催されたサマースラム92のデイビーボーイ・スミス戦の3つの試合はブレットの長いキャリアの中でも特に名勝負として名高く、ブレット自身もWWE殿堂入りの際にデイビーボーイ・スミス戦を生涯最高の試合と語っている。

これによって、ブレットの実力とスター性が認められたと判断されたのか、同年10月に早くもリック・フレアーを破りWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。
93年4月のレッスルマニアⅨでヨコズナに破れて王座を失うも、94年4月のレッスルマニアⅩでリベンジを果たし、長期に渡るヒットマン政権を樹立していくことになった。
当時のWWFはブレットを筆頭に実弟オーエン・ハートや“HBK”ショーン・マイケルズケビン・ナッシュといった“ニュージェネレーション”が台頭していた時代であり、現在のWWEにも通じるカラーが定着し初めていた頃でもあった。

96年4月のレッスルマニアⅩⅡに於けるマイケルズとのアイアンマンマッチは、規定時間の60分では両者ともに一つもポイントを奪えず、延長戦で漸くマイケルズが勝利……という激闘となり、高所からマイケルズが滑車で滑り降りた演出も含めてHBK史上最高の試合とも讃えられる一方、相手を務めたヒットマンにも惜しみない称賛が集まった。

一方、ライバル団体であるWCWがエリック・ビショフ体制下で攻勢を強め始めたのもこの頃で、以降のWWFは大金を利用した選手の引き抜き工作による人員不足にも悩まされており、ブレットは格下や若手の選手を相手にPPVでの戦いに臨んでいる。

レッスルマニアⅩⅡ以来、長期に渡り欠場していたブレットだが96年11月のサバイバーシリーズにてWWF復帰が決定。
これを前にエース級にまで育て上げていたスコット・ホールとケビン・ナッシュをWCWに引き抜かれてしまっていたWWFはブレットと異例の20年契約を結んでいる。
復帰後のブレットの抗争相手となったのは、ギミックチェンジによりカリスマ的な人気を獲得し初めていたストーン・コールド・スティーブ・オースチンであった。
ブレットの休んでいた8ヶ月の時は、急速に時が流れるマット界では新たなる潮流が起こるのには充分すぎたのである。

従来通りのベビーvsヒールで始まった両者の抗争は、ストンコ人気から逆転現象を起こし、それを察知したオーナーのビンス・マクマホンは二人のポジションを入れ換えることを提示し、ブレットは97年3月のレッスルマニアⅩⅢでの戦いを機にシングル転向後初のヒールターンを果たすことになる。
WWF王座にも返り咲くと、喧嘩別れしていたオーエンの他、ナイトハード、デイビーボーイらと共に反米主義のヒール集団としてハート・ファウンデーションを復活させる。

……しかし、NWOという潮流も生み出し攻勢を続けるWCWに対し劣勢に追い込まれたWWFでは、最早ファミリー路線の最後の象徴とも呼ぶべきブレットの存在は不要になりつつあった。
ブレット、マイケルズ、アンダーテイカーのトップ3選手の中で、ストンコの生み出しつつあった“アッティチュード”の新たなる潮流の中でも別格的な存在感を誇るテイカーや、トリプルHらと共にD-ジェネレーションXを生み出し、自ら潮流に乗っていたマイケルズはともかく、ビンスは投資会社からの忠告にも従いバランスシートとして20年契約を結んでいたばかりのブレットをWCWにリリースすることに決めた。

これに際し、11月にブレットのホームでもあるカナダのモントリオールで行われたサバイバーシリーズ97で、WWF王座を所有するブレットから如何にベルトを手放させるかについて、双方の思惑が絡み合った末に最悪の方向へと動いてしまったのが悪名高きモントリオール事件なのである。
これらの詳細については当該項目の他、映画『レスリング・ウィズ・シャドウズ』を見てみることもオススメする。

……こうして、最悪の形で追い出された英雄とWWF=ビンス・マクマホンとの関係は99年にオーエンが入場前演出のアクシデントにより転落事故死を起こしたこともあり、修復不能と呼べるものにまでなった。

WCWに移籍したブレットだが、nWo全盛のWCWでは特別な存在感も出せずに持て余されてしまっていた。
99年のオーエンの死亡時には“ダンジョン”出身でもある同郷のクリス・ベノワと追悼試合として素晴らしい技術戦を披露しているが、それが線として繋がることもなかった。

nWo人気も陰りの見えた99年11月に王座決定トーナメントでベノワを破りWCW世界ヘビー級王座を戴冠。
しかし、同年12月より開始されたビル・ゴールドバーグとの抗争の中で、返上していた王座を再び獲得することには成功するも、試合中に場外で受けた足四の字固めの最中に頭をコンクリートに打ったのが原因で脳震盪を起こし長期欠場に追い込まれ、回復しないままに00年10月に解雇。
自らも引退を宣言することになる。
“ヒットマン”のキャリアの終焉はWCWでも暗いものとなり、“超人類”のキャッチコピーでWCWを支えていたゴールドバーグにも“ブレットを潰した男”という不名誉を刻んでしまうことになったのである。

……引退後の02年。アクシデントの影響からか自転車を運転中に脳梗塞を起こし転倒。
一時は左半身不随となり心配されるもリハビリで回復。

嘗ての窮地から脱したWWFがWWEと名を替えて業界のトップの座を磐石のものとすると、ファンからもブレットとビンスの和解を望む声が大きくなる。
そして、05年に二人は和解。
ブレット自身の選出したベストマッチを納めたDVDも発売された。*3

06年のレッスルマニアⅩⅩⅡを前にWWE殿堂入りを果たす。
しかし、当時のWWEで因縁深いマイケルズが復帰して活躍していたことも関係するのか、殿堂入りしながらもレッスルマニアには姿を見せずに物議を醸した。

……とはいえ、そうした心配を他所に体調も回復したこともあってかブレットとWWEとの関係の修復は進み、サイン会等への露出も増えていく。
08年には姪のナタリア(パートナーであったジムの娘)がWWEでデビュー。
ナタリアが下位団体のFCW(現:NXT)で修行していた頃には彼女の願いに応じて若手のコーチに訪れたこともあったという。

そして、2010年に入ると遂に最大のライバルにして、信条も合わない犬猿の仲として伝えられていたショーン・マイケルズと公式に和解したことを発表。
これについては、クリスチャンとして信仰に目覚めたマイケルズが嘗てのワルガキから変節したことが大きいとも伝えられる。
同年3月に父スチュ・ハートもWWE殿堂入りを果たし、インダクターを務める。
翌日に開催されたレッスルマニアⅩⅩⅥでは数々の因縁の中でビンスとだけは決着が付いていないとして、遺恨マッチを行う。

この頃には、ブレットの全盛期にはあくまでも経営者であり、表に出るにしても解説者止まりだったビンスがブレットとレッスルマニアで戦うことに誰も疑問を感じなくなっていた辺りに、ブレットのみならずビンスも苦労してきたことが窺えて興味深い。

この2010年は5月のRAWでザ・ミズを破りUS王座を獲得。
RAWのGMに就任する等、前半期までとはいえ番組にまで登場。

以降も番組に登場する機会を持ってくれており“ヒットマン”の健在を見せてくれている。

2019年にはハート・ファウンデーションとして2度目となるWWE殿堂入りを果たす。
だが、式典の最中に乱入してきた男にタックルを受けるというアクシデントが起きた。
翌日のレッスルマニアには個人の時とは違い笑顔で参加した。

【得意技】


■シャープシューター(サソリ固め)
ブレットの代名詞。
米マットではブレットへのトリビュートから同技は“スコーピオン”ではなく、スティングを除いては“シャープシューター”と呼ばれるのが慣例となっている。
因みに、ブレットは他の選手とは違い、軸にした左足に相手の足を絡めて仕掛ける為に形が普通のサソリ固めとは逆になるのが基本。
これを最初に指摘したのは蝶野正洋で、一時期、日本ではサソリ固めとシャープシューターの違いとされていたものの、単にブレットの利き脚の問題なだけである。
とにかく、仕掛け方に独創性があるのが特徴であり、ダイブしてきた相手を受け止めてから仕掛けたり、自分がダウンした状態から足を捉えて仕掛けたりと、技の入りかたについては他の第一人者すらブレットには及ばないと断言できる。
尚、技を使い始めたのは元祖の長州力の影響……ではなくて、ロード・エージェントを務めていたパット・パターソンに関節技を使うことを薦められてから使うことを思いついたのだという。
しかも、思いついた時にはブレットは仕掛け方がわからず、同じ控室にいたコナンが教えてくれた位だったというのだから、その後の熟練の速度には恐れ入る。

■パイルドライバー
■ペンデュラムバックブリーかー
■河津落とし(ロシアンレッグスイープ)
■裏アトミックドロップ(マンハッタンドロップ)
■ブルドック(ブルドッキングヘッドロック)
■正面飛びエルボードロップ
■鉄柱足四の字固め

※特に大技は使わないが、無駄のない動きで着実に急所にダメージを与えていくかのような戦い方が「処刑の達人」たる所以である。
前述のようにどんな体勢からでも足さえ取れればシャープシューターに入れたのもブレットの戦い方に説得力や安心感を与えていた。



現在、過去、未来においても俺の追記修正が最高だ。

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最終更新:2023年09月12日 03:40

*1 ※命名はプロレスラーの他にも政治家、『コマンドー』等での俳優活動でも知られるジェシー・ベンチュラ

*2 ※余談だが、ロープに走ったブレットに対してタイガーが瞬時にトップロープに登りカウンターでミサイルキックを決めたことがあり、初代タイガーファンからは忘れ得ぬ名場面として記憶されている。

*3 ※ブレットのインタビューによると、ある日ブレットが行きつけの歯医者に行った際、ヒットマンのフィギュアで遊ぶ3歳くらいの子供がいた。ブレットはその子に「ヒットマンの試合でどれが一番好き?」と訪ねた所、その子はヒットマン本人とも知らずに「 知りません。ヒットマンは『ゲーム』の中の大好きなスターです❤! 」と答えたと言う。 この答えに衝撃を受けたブレットは後日ビンスとの電話でこの事を話した所、「そういう世代のファンが育ってきたんだな…よし、その子の為に君がDVDの試合の選定をしてくれ。 その子に一番素晴らしい"ヒットマン"の動く姿をみせてあげようじゃないか?」というやりとりがあり、このDVD発売が発売する事になりDVDの試合はブレット自ら選定した試合が収録されたと言う。