ハーリー・レイス

登録日:2019/08/03 Sat 21:14:05
更新日:2024/04/27 Sat 20:17:06
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『ハーリー・レイス(Harley Leland Race)』
1943年4月11日生まれの米国の元プロレスラー。
ミズーリ州クイットマン出身。
米国では“Handsome”Harley Raceのリングネームを名乗っていたことから、ずんぐりとした体型の強面オヤジにもかかわらず日本では“美獣”のニックネームを付けられた。
尚、ハンサムは昔のギャングのニックネームから付けたもので“美獣”と訳すのは最適とは云えない。
一方で、ネタ的な意味も含めてなのか、プロレストークラジオ番組『真夜中のハーリー&レイス』のタイトルはレイスに由来し、番組の推奨ハッシュタグも“#美獣”となっている。
因みに、レイス本人も後述の2014年の来日の際にゲスト出演している。

70年代~80年代初めまで、世界最高峰のNWA世界王座に通算8回(記録上は7回)君臨し、特に77年から81年の期間の殆どをベルトを持った状態で過ごしてNWAの象徴となった。
巧みなレスリングセンスと共に“ミスタープロレス”の敬称でも呼ばれ、全日本プロレス中継ではNWA王者であることから、ミスター・スローと揶揄される一方で世界最強の男とも称された。
レイスの実質的な後継者となったのがリック・フレアーで、後輩としてもファイトスタイルをも継承した存在として、現役時代末期のライバルとなった。

この、レイス時代にデザイン変更されたベルトは“レイスモデル”と呼ばれ、レイスが全日本プロレスに何度も来日していたことから、日本でもNWA王座というと“レイスモデル”を思い浮かべるファンも少なくない。
実際、現在に於いてNWA世界ヘビー級王座で検索をかけると一番に出てくるのがレイスモデルである。
(次にデザイン変更された時の黄金の“フレアーモデル”はWCW世界ヘビー級王座、WWEの世界ヘビー級王座としても使われた為にそちらの名前で呼ばれるようになった。)

2000年代に入ってからは生涯のライバルの一人であったジャイアント馬場の弟子達の設立したプロレスリングNOAHに協力して弟子を送り込む等していた。
2004年にWWE殿堂に迎えられ、インダクターをフレアーが務めている。

そして、2019年8月1日に偉大なるプロレス王者の訃報が日本にも届けられた。享年76歳。


【人物】

子供の頃からプロレスラーを志し、十代前半にして近代プロレス創成期に必ず名前が登場するスタニスラウス・ズビスコと弟のウラディック・ズビスコの指導を受けて、15歳にしてサーカスに出演するカーニバル・レスラーとしてデビュー。
これは、所謂力自慢の見世物に近く、観客から腕自慢を募って制限時間内に押さえ込んだりKOしたりするというもので、アメコミの『スパイダーマン』の第1話なんかにも描写のある人気の興行であった。
レイスは後述の“ミスター・スロー”と揶揄される程のテンポの遅いレスリングに対して、プライベートでの喧嘩強さやシュート技術*1に優れていたことがとにかく話題に上がるが、そうした強さはこの若手時代に培われたらしい。
1960年からはジャック・ロングを名乗り、普通のプロレス興行に進出。
デビューはNWAミッドエリアのテネシーであった。

その後、ドリー・ファンク・シニアの管轄するテキサス州アマリロのNWAウェスタン・ステーツエリアに進出し、そこで同タイプの先輩レスラー ラリー・ヘニング*2と出会い意気投合。
タッグを結成するとラリーの主戦場であるAWAに進出し、日本ではBI砲(馬場&猪木)を倒した経験もあるディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの、こっちも強面ギャングの親分みたいなコンビを破りタッグ王座を獲得。
その後も王座を巡り抗争を繰り返す等、若くしてトップスターへの道を掴む。

日本には1968年に初来日。
本国でのパートナーであるラリーとのタッグは見られなかったものの、ブルーザーやドリー・ファンク・シニア、ジョニー・バレンタインやジン・キニスキーといった、既に日本で名前を知られていたトップ外国人のパートナーとしてBI砲が保持していたインターナショナルタッグ王座や、猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦している。
この当時は年齢的にも若手扱いでシングル王座への挑戦権は回ってこなかったものの、1972年3月に坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦している。

そして、1973年5月に本拠地としていたカンザスシティでドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界ヘビー級王座を初戴冠。
この時には7月にジャック・ブリスコに破れて王座を失うも77年に今度はテリー・ファンクを倒して王座を獲得。
ここからレイス時代を築き、馬場やダスティ・ローデスに破れてベルトを失ったことはあるものの短時間で取り戻している。
また、1978年と80年にその時のWWWF(WWF)王者である“スーパースター”ビリー・グラハムとボブ・バックランドとのダブルタイトル戦も行っているが、当時のお約束で引き分け、及び反則による無効試合となっている。
また、1978年と79にはWWWFの本拠地であるニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(MSG)でNWA王座の防衛戦を行っており、これは袂を別って以来16年ぶりにWWWFのテリトリーで行われたNWA王座戦であった。

日本ではNWAの大物ブッカーでもあった馬場率いる全日本プロレスに参戦。
馬場は自身にとっても最大のライバルの一人であった。
馬場の他にも鶴田やタイガー戸口、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラス、ディック・マードックといった名だたる挑戦者を迎え、82年には反対に馬場のPWF王座と鶴田のUNヘビー級王座に挑戦してベルトを獲得している。


全盛期が過ぎたと判断された1983年と84年に次なるNWAの象徴となった、自身のファイトスタイルも引き継いだリック・フレアーよりベルトを奪還するも、数ヶ月の保持に留まったり、レフェリーのカウントが早かったと裁定されたことによるベルトの剥奪をされたことによりNWA世界王座戦線からは後退。

1986年にかつてのNWAの象徴がWWFに移籍。
NWA王座の名は暗黙の約束として出されなかったものの、かつての世界王者であることと、当時、団体と喧嘩別れしていた“キング”ジェリー・ローラーのギミックを皮肉った“キング”として活動。
名前に掛けたキング・オブ・ザ・リングで優勝を飾り、王冠の戴冠式が行われてヒール陣営の大物として活躍した。

しかし、1989年にWWFを退団。
同年4月に思い出の全日本プロレスに来日して事実上の引退を果たすと、以降はマネージャーとして活動。
1995年に交通事故により正式に引退を果たした後は後進の指導に当たった。
99年には隆盛を誇るWWF(WWE)に掛けて、後進の始動を兼ねた独立団体WLWを立ち上げて多くの選手を送り込んだ。

協力関係にある馬場の遺伝子を引き継ぐNOAHの選手には目を掛けていたようで、2004年東京ドームの小橋健太vs秋山準戦を最高の試合だと評価したと言われる他、05年に小橋が自宅を訪れた際にはミスター・プロレスの称号と共に、自身が保管していた“レイスモデル”のNWAヘビー級王座のベルトを渡したものの、後に返還されている。
2010年には前任のジョー樋口の死去に伴いGHCヘビー級管理委員長に就任している。

そんな訳で日本プロレス時代に猪木や坂口と対戦した位で新日本プロレスとの接点は殆ど無かったが、2014年1月4日の東京ドームにて独立団体としてNWAの名称を復活させて新日と抗争していたNWA王座選手権の立会人として初登場。
挑発してきたNWA会長ブルース・サープを殴り飛ばし、往年の武勇伝を想起させるアクションを見せた。

そして、2019年3月に肺癌を告白。
8月1日に永眠。


【ファイトスタイル】

若手時代から磨かれたラフテクニックと、若くして頭角を現したことからも解る高いレスリングテクニックを併せ持ち、ベビーフェイスからヒールまで難なくこなせる高いプロレス脳も備えた万能型の選手として、どんな相手とも試合をこなすことが出来た。
一方、日本のファンからはアメリカンスタイル特有の余りのテンポの遅さから“ミスター・スロー”と揶揄されたりしたものの、正統派ながら飛び技もレパートリーに入れていたりと新しい技の開発にも余念がなく、自身でも00年代のインタビューにて現在の多様化した技のレパートリーの源流の殆どは自分が編み出したものだと自負していた。

プライベートでの喧嘩強さは本当に知れ渡っており、外国人選手のトップというだけではなく腕っ節でも跳ねっ返りが日本で悪さしないように睨みを利かせていたという。
馬場もレイスと喧嘩してはいけないと言い含めていた他、多くの外国人レスラーが集うことで知られた『ステーキ リベラ』店では、レイスとブルーザー・ブロディが居たから大きなトラブルは起きなかったとの証言がある。


【得意技】


  • バーティカル・スープレックス
所謂、後ろに倒れ込む形のブレーンバスターで、流行の原点。
自身はスタンドアップ・スープレックスと呼んで必殺技の一つとしており、公称185cm、122Kg程度の体格ながら馬場の巨体も完璧に投げきってフォールを奪った。
後ろに倒れ込むのがレイス式の拘りなのだが、1982年のタイガー・ジェット・シン戦では余りの反則攻撃に肚を立てて、元祖ブレイン・バスター式の脳天から落とす垂直落下を見せた。

  • ダイビング・ヘッドバット
実はこの技の元祖で、ブレーンバスターと並ぶオリジナルの得意技としていた。
ただし、レイス式はその後で主流となったダイナマイト・キッド式の長く飛ぶタイプではなく、コーナーポストからゆっくりとスライドするように倒れ込むタイプである。
基本的には憧れのキッド式を踏襲していたグリス・ベノワも奥の手としてレイス式の倒れ込むタイプのダイビング・ヘッドバットを使用していた。

  • ベリー・トゥ・ベリー
捻り式のフロントスープレックス(スロイダー)。
破壊力が高くフィニッシュとしても使われた。

  • クレイドル・スープレックス
キャリア晩年のフィニッシュ技で、クラッチはフィッシャーマンズ・スープレックスと同じなのだが、レイスの場合は斜め方向に落としてブリッジをするのではなく落とした体勢のまま固めるという、得意のバーティカルスープレックスと後のフィッシャーマンバスターの合の子のような形で使用していた。

  • パイルドライバー
得意技の一つで、これも馬場相手でも余裕で決めていた。
本人曰く、定かではないが(パイルドライバーの名手として知られる)バディ・オースチンに若手の頃に教わったのかもしれない、とのこと。
実際き若手時代はオースチン式の引き込み型パイルドライバーを使用していたようだが、危険すぎたのかキャリアを重ねてからは普通のドリル・ア・ホール・パイルドライバーを使うようになっている。*3

  • ペンデュラム・バックブリーカー
相手を横抱きに抱えて前方に流れる様な動きで背中を膝に叩き付ける。
チェンジ・オブ・ペースとして活用していた。
これも元祖に近い使い手で、本人曰くビル・ロビンソンのやつ(ワンハンド・バックブリーカー)みたいに一撃必殺とは行かないが相手の腰にダメージを与えるには充分で自分への負担も少ないと語っている。
これは事実で、ロビンソンは大型選手にも果敢に仕掛けていたことが原因で膝を痛め、腰の負傷から新しいスタイルとして同型のバックブリーカー(ドラゴン・バックブリーカー)を開発した藤波辰爾も、結局は負担が大きすぎて短い期間で封印している。

  • インディアン・デスロック
仰向けの相手の足を胡座をかかせる様に交差させて組み、そこに足を差し入れて負荷を与えていく変形の足4の字にも見える珍しい技。
00年代以降では一時期のトリプルHが使ったことがある位で、それもかなり昔である。
隠し技的な扱いだが名手で、この技でテリー・ファンクを降している。

  • ニードロップ
ゆっくりとした動きから、的確に相手の急所や負傷箇所を狙ったニードロップは“レイスニー”とも呼ばれてオリジナル技と見なされていた。
実質的な後継者のフレアーが継承しており、更にトリプルHが引き継いでいる。
ニーアタックもWWEではハーリー・レイスばり!とアナウンスされていた。

  • デッドリー・ドライブやられ
トップロープからの攻撃を狙ったのに、復活した相手に思いっきりリング内に投げ込まれる動きのことで、レイスはこれを試合中のお約束として取り入れていた。
情けない動きだが、同時に高い受け身の技術を見せつける玄人向けのアピールでもある。
これもフレアーが引き継ぎ、晩年にはトップロープに昇ったら必ずやられる技として君臨し、それは引退試合まで続いた。





追記修正は投げに来た相手を阻止してからお願いします。

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最終更新:2024年04月27日 20:17

*1 真剣勝負、ガチと呼ばれる技術。

*2 “Mr.パーフェクト”の異名で知られた超技巧派レスラー カート・ヘニングの父で、ジョー・ヘニングことカーティス・アクセルの祖父に当たる。

*3 バディ・オースチンのものは相手のタイツの後ろを掴んで思いっきり引き寄せる様に叩きつける変形のDDTの様な形である。殆ど使い手が居ないがミック・フォーリーやトリプルH、ケンドーナガサキやエル・サムライが使用したことがある。