サンエイサンキュー(競走馬)

登録日:2025/01/13 Mon 02:09:52
更新日:2025/03/30 Sun 00:01:33
所要時間:約13分で読めます




天に駆けた根性娘


小柄な芦毛の馬体。
血統的にもそれほど期待されずにデビューした。
しかし、彼女は並外れた根性の持ち主だった。
過酷なローテーションを課せられながらも
懸命に走り続けた。
だが、その先に待っていたのは栄光ではなく、
哀しすぎる結末だった。

週刊100名馬 vol.18 サンエイサンキュー

サンエイサンキューとは日本の競走馬


目次

【データ】

誕生:1989年4月7日
死没:1994年10月21日
父:ダイナサンキュー
母:グロリーサクラ
母父:シーホーク
調教師:佐藤勝美(美浦北)
馬主:岩崎喜好
生産者:寺井文秀
産地:北海道えりも町

【誕生】

1989年4月7日生まれの芦毛の牝馬。
父ダイナサンキューはノーザンテースト産駒で、1986年にデビューすると3連勝でデイリー杯3歳Sを制したが、その後左前脚に屈腱炎を起こし、復帰することなく引退となったという経歴を持つ馬。
母グローリーサクラは5代母星旗=クレオパトラトマスから繋がる由緒正しい牝系だが、この時期には活躍馬は全くいなくなっていた。
母父のシーホークはアイルランド産の競走馬であり、グループ制導入前のサンクルー大賞を勝利。母国アイルランドにて種牡馬として6年間繁用された後日本へ輸出され、日本ダービーを勝利したウィナーズサークルアイネスフウジンなどを輩出した。

【戦歴】

2歳(旧3歳)

1991年7月13日、徳吉孝士騎手を背に札幌競馬場の新馬戦でデビュー。2着に敗れたものの、翌週の新馬戦にて勝利をおさめる*1
その更に翌週(三連闘)に札幌3歳S(G3)へ出走するも13着大敗。なおこのレースの勝ち馬は後にG1を3勝する天才少女、ニシノフラワーであり、サンエイサンキューはその後何度も交戦することとなる。
その後函館OPにて7着に終わった後に東信二騎手に乗り変わり。函館3歳S(G3)2着、いちょうOP1着と好成績を残し、初G1となる阪神3歳牝馬Sではニシノフラワーに次ぐ2着に食い込んだ。

ここまで約半年で7戦、月一回というペースでレースに出続けており、過酷なローテは2歳の時点で既に始まっていたのである。

3歳春(旧4歳)

明けて4歳になってもほぼ休養せず、2月のクイーンC(G3)から始動。ディスコホールとの接戦を制して重賞初制覇を挙げる。
さらにその一か月後に皐月賞トライアルとなる弥生賞に出走。牡馬と牝馬の差が歴然とあった時代で勝負になる筈もなく6着と惨敗。その後結局牝馬路線に戻り桜花賞に出走するが7着に敗れる。
ここで函館3歳Sから騎乗していた東信二から田原成貴に騎手を変更。
初コンビとなったオークスでは乗り換えから若干人気を落としたものの、最後の直線にて内から豪脚を見せ一度は先頭に立つ見せ場をつくり、アドラーブルに次ぐ2着となった。
田原は「こんなに走る馬ならもっとその気になって乗ればよかった」と振り返ったという。

3歳夏~秋トライアル

夏は北海道に移動する。通常、夏期は秋のレースに向けて休養を行う時期であり、月一回という過酷なローテを組んでいたことからサンエイサンキューにも休養が与えられる…わけではなく札幌記念(G3)*2に出走する。
レースではマルセイグレートとインタースナイパーがレースを引っ張る中、後方でレースを進めていく。レース後半で徐々に位置を上げていき、最後の直線で上がり最速の末脚を見せて3馬身差で勝利した。
当時の札幌記念のメンバーが手薄だったことや、ハンデによる優位があったものの、史上初の3歳(旧4歳)牝馬の札幌記念制覇を果たしたのである。*3
しかしここまでデビューから12戦。度重なる出走は若馬であるサンエイサンキューに大きな負担となっており、彼女の調子は下がり始めていた。
これを見た田原や厩舎のスタッフはローテーションに苦言を呈するようになるが、最終的に翌月の函館記念(G3)に出走することが決定されてしまう。札幌記念の勝ちっぷりから1番人気に推されたもののまともに休養をとっていない状態では力を発揮できる筈もなく8着に終わった。

これが休養の不足による不調であることは明らかであったが、それでも詰めたローテーションが繰り返された。
秋になって牝馬三冠最後の一冠・エリザベス女王杯のステップレースに出走する事となったのだが、サファイヤS(G3)とローズS(G2)の両方に出走させるローテーションが選択される*4
しかしサファイヤSとローズSの間は中二週分しかなく、ローズSとエリザベス女王杯の間も中二週であるため、過酷なローテになるのは明白。無論田原やスタッフは「ローズSに出す必要はない」と反発したのだが、結局のところローテは改められずそのまま出走することとなってしまったのである。
過酷なローテを強いられることとなったサンエイサンキューだが、サファイヤSを勝利して重賞三勝目。続くローズSも2着と好走してしまった
そして、不幸にもこの好走がきっかけとなり、過酷なローテが継続されることとなってしまったのである。

サンエイサンキュー事件

トライアルレースの好走によってエリザベス女王杯の有力馬として注目されるようになったサンエイサンキューだったが、連続出走による疲労の蓄積で体調に変調をきたし、トウ骨に痛みを訴えるようになっていた。
無論その不調は「天才」と呼ばれていた田原騎手も察知しており、エリザベス女王杯の最終追い切りでは「こんな出来では勝てない」「状態は最悪」とサンエイサンキューの状態についてボロクソに発言した。
G1騎乗前としては異例過ぎる発言だったが、さすがに否定的になりすぎたと思ったのか、取材の録画が終わった後で

「こんなに悪く言って、これで勝ったら頭丸めなきゃあかんな」

と漏らした。サンエイサンキューに対しての軽い謝罪であり、取材終わりの何気ない冗談であったのだがこの発言がとんでもない事態を引き起こすこととなる。

事件の引き金となったのはサンケイスポーツの記者、水戸正晴氏であった。
水戸記者はエリザベス女王杯の取材を行う仕事があったのだが、あろうことか田原が公式に行なったマスコミ記者会見に寝坊で遅刻してしまう。やむを得ず個別でサンエイサンキューについて田原に取材しようとしたが、田原に「見たらわかるやろ」とコメントを拒否されてしまう。
そこで録画に立ち会っていたテレビディレクターから田原の発言内容を伝え聞くことに。そして先述した冗談を聞いた水戸記者は翌日の1面でこのような見出しでスクープを出した。


「田原、2着以上なら坊主になる」


「勝ったら頭丸めなきゃいけない」という発言を曲解した結果、「田原は2着以上になる気がない」という八百長と疑われかねない内容となってしまったのである。
この文言は過去にサルノキングで八百長を疑われた*5田原にとってはたまったものではなく「八百長の誤解を招く書き方は勘弁して欲しい」と釈明するも、新聞社はそれに対して「田原謝罪」と見出しを打って報道するという泥仕合に発展する。
さらに当時同新聞社の記者であった別の記者が同事件に対して自社批判を行ったことが理由で事実上解雇された*6。それが引き金となり、抗議する意図で複数の記者が一斉に退社するという一大騒動へと発展してしまった。}

これらの事件は俗に「サンエイサンキュー事件」と呼ばれることとなり、一連の騒動は新聞社の体質に関する批判記事が組まれるほどの騒動となったのである。

田原騎手はこの騒動に相当腹を据えかねたらしく、この年の有馬記念前に同社の取材を拒否。そして別の新聞である日刊スポーツに「事実を歪められたらどうしようもない」と取材を拒否した理由についての手記を寄せた。

悲劇

こうして人間たちの変な騒動に巻き込まれてしまったサンエイサンキューだったが、本番のエリザベス女王杯では5着と掲示板入りを果たす。状態が絶不調であることを考えれば十分な成績であった。
厩舎サイドも放牧の予定を立てており、田原騎手も「これでやっと休めるな」と彼女の事を労った。
しかし、放牧のプランは白紙となり、有馬記念への出走が決まったのである。
この時にはサンエイサンキューは身体はさらに悪化しており、エリザベス女王杯の頃から痛めていた橈骨は調教の度に軋む音が鳴るという有様。厩舎スタッフは「有馬なんて走らせたら終わりだ」「何てむごいことをするんだ」と涙を流したという。
田原騎手もトウカイテイオーに騎乗予定があったことに加え、「こんな状態の馬に責任は持てない」と騎乗を拒否。加藤和宏騎手に乗り替わりとなる。

競馬というスポーツにおいて、厩舎は最終的な決定権を持たず、厩舎は決められてしまったローテには従う以外の選択肢はない。
だから勝利なんて必要ない、無事にレースを回ってくれればそれでいい。厩舎のスタッフは唯々それを願っていた。

しかし…最後の直線、サンエイサンキューの足が止まった…
伏兵メジロパーマーの逃げ切り勝ち、トウカイテイオーの失墜、多くの波乱が起こったその陰でサンエイサンキューは競争中止となったのである。

その後

サンエイサンキューに下されたのは右トウ骨手根骨複骨折、本来ならばその場で安楽死となる重篤なものであった。
競走馬の致命的な故障に対して救命措置が取られずに安楽死となることが多いのは、可能性が低い救命に対しいたずらに延命が行われるのは苦しみを伸ばし、動物福祉に反するからという理由が大きい。
しかし、サンエイサンキューは延命治療を受けることとなった。それは馬の命を大切にしたいからというよりも、「繁殖に回せば金になるから」という理由であった。
脚にボルトを埋め込む手術が行われたサンエイサンキューは長い闘病生活で一時は回復することもあったが徐々に衰弱。元々430kg程度と小さかった馬体は300kg近くまで痩せ細り、蹄葉炎も併発した末に、2年後の1994年10月21日に心不全を起こし死亡した。

田原騎手は後に「何故サンキューを有馬の(故障の)ときに楽(安楽死措置)にしてあげなかったのか。今でも腸が煮えくり返る思いだ。」と連載エッセイで怒りを露わにしている。

過酷なローテとその是非

馬主である岩崎氏は「競馬はビジネスである以上稼がなければならない」とコメントした。岩崎氏は2歳トレーニングセールの創設者で競馬界に貢献していた人物であると共に育成牧場を所有しており、安くて見込みがある馬を牧場で鍛えてとにかく競走に使うという育成論を抱いていたとされている
これに加えて「当時から資金繰りに行き詰まっていた」「ライバルの西山正行氏*7への対抗心からサンエイサンキューの名前を売ろうとした」ことが過酷なローテの原因と考えられている。

一般論として、競走馬を生産・あるいは購入して馬主となった人物が、その馬をどう扱うかを自由に決めることができるのは当然のことである。金策のために持ち馬を酷使すること自体も珍しいことではないために「稼ぐために走らせる」という馬主の考えは間違っているとは言えない。
過酷なローテに関しても、同時期に活躍していたイクノディクタスやダイタクヘリオスなどといったサンエイサンキューと同等かそれ以上の過酷なローテを敢行した競走馬は存在する*8のに加え、同じような扱いを受けて人知れず消えていった馬が存在することも事実である。

しかし、そのようなローテを組むうえでは競走馬のコンディションが万全であることが大前提
百歩譲って多くレースに出て金を稼ぐためだったとするなら、この過酷なローテが計画されていた事自体を正当化することはできるものの、厩舎のスタッフが明らかな不調を訴えていたにも関わらずに強行されてしまったことは正当化が困難。
結果として反対意見を押し切ってまで有馬記念に出走したサンエイサンキューは故障。見込みの低い治療に対して手は尽くされたものの結果は上記の通り。いたずらに彼女の苦しみを長引かせることとなってしまった。

サンエイサンキューは過酷なローテーションを強いられていたが、その中でも重賞3勝、G12着二回という成績を残しており、十分な素質のある競走馬であった。
しかし、彼女の輝かしい未来は無理なローテーションにより奪われ、そして目にするであろう勝利も産駒も全て消えてしまったのだった

サンエイサンキューは経済動物たるサラブレッドと人間の関係について改めて考えさせられる存在となった。
競馬では華々しい活躍を挙げた馬が多くいる一方で、彼女のような馬もまた多くいることも忘れてはならない。

余談だが、彼女に対しても、治療中に千羽鶴が届けられるなど、ファンや関係者などから多大な愛情が向けられていたことを示すエピソードが多く知られている。
それが彼女にとってどれほどの救いであったのかは、今となってはわからないが。

余談

  • サンエイサンキューのオーナーは後に詳細は不明だが触法行為の問題があったとされ、馬主の資格がはく奪された。主戦騎手の田原氏はその後調教師となるも、2001年に銃砲刀剣類所持等取締法違反・覚醒剤取締法違反容疑で逮捕されたため調教師免許を剥奪。その後も複数回逮捕された末、JRAから競馬関与禁止処分が無期限に延長され、事実上の永久追放となるなど、サンエイサンキューの関係者のその後は決して明るいものではなかった。それでも田原氏は更生に成功し、現在は東京スポーツ所属の競馬評論家として再びその名を知られるようになるなど、競馬界へのカムバックを果たしている。
  • 田原騎手が後に手がけた漫画「競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬」では、騎手の発言を曲解して悪意をもって報道する新聞記者や、金のために過酷なローテーションを組む馬主といったサンエイサンキューを連想させるシーンが登場する。

最後に世紀末覇王ことテイエムオペラオー*9のオーナーである竹園正継氏の言葉を引用し、記事の結びとする。
馬主は愛情だけでは駄目。どのレースを使って如何に稼ぐかを考えなければ競走馬に失礼。そしてビジネスだけでも駄目。競走馬は無限に金の卵を産むガチョウでは無いのだから、無理使いさせたらキッチリ休ませるのは当たり前

追記・修正は競走馬の命について真剣に考えてからお願いします。

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最終更新:2025年03月30日 00:01

*1 当時は同じ開催なら何度も新馬戦に出られた

*2 G2に格上げされるのは1997年

*3 2025年現在でも3歳で札幌記念を制した牝馬は2014年のハープスターと2022年のソダシのみである。

*4 サファイヤS・ローズSどちらもエリザベス女王杯のステップレースとして1983年に創設。条件はどちらも芝2000mだが、格付けの他にサファイヤSは阪神開催・ローズSは京都開催という違いがあった。その後、1996年の秋華賞創設とそれによる秋の牝馬戦線体系改革により、ローズSは開催時期1か月繰り上げの上で阪神開催に変更、サファイヤSはその影響で廃止されている。

*5 1982年のスプリングSにて1番人気のサルノキングが極端な後方待機策から敗戦。勝利した2番人気のハギノカムイオーの馬主の一人がサルノキングの馬主でもあったため、騎乗していた田原に八百長疑惑がかけられた。現代に残された記録から読み解いた場合は「もともと本来のサルノキングの適性は後方待機・終盤に一気に差す競馬だった」「関東でのレースがことごとく引っ掛かって変なタイミングで加速してしまう展開になり、地元・関西での差し・追込系の展開がそもそも知られていない現地では『サルノキングは先行の馬』と誤解されていた(当時レース映像は基本的に「近所の」しか見られなかったことに注意)反面、田原や中村師は1回矯正を試みようとしたため極端に後ろにつけることで相談をまとめた」「案外お調子者の田原は『追込でごぼう抜きして勝てばサンキューの評判も上がるだろう』という一種の過信をしてしまった」というダメなピタゴラスイッチによるものとされる。

*6 自社批判を行った記者はその後フリーで記者を続け、現在は別誌にて看板記者として活躍を続けている

*7 先述したニシノフラワーの馬主。他にも1998年に皐月賞と菊花賞を勝利したセイウンスカイなど様々な活躍馬を所有していた

*8 特にイクノディクタスは引退まで一度も故障せずに走り続けたことから「鉄の女」と呼ばれている

*9 念のため言っておくが、古馬とはいえオペラオーの「年8回出走・内訳はGⅠが5回で残り3つ全部GⅡ・最後3レースは月に1戦ペース」も比較的過密ローテの部類である。だってこの馬はオペラオーだからとはいえ、それをやらせた人物ですらこういう風に考えている、の視点をも交えて読んでほしい