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更新日:2025/05/15 Thu 10:16:29
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斎藤道三とは、戦国時代の武将の一人である。
松永久秀、宇喜多直家と並ぶ「戦国三大
梟雄」などと名高い。
【生没年】1494年/1504年~1556年
【出身地】美濃国
●目次
生涯
従来は明応三(1494)年生まれという説が強かったが、近年では永正元(1504)年生まれとする説も有力である。
最初は僧籍を得て京都の妙覚寺にいたが、後に「松浪庄五郎」名義で京の油商人となる。
彼は「一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたら料金を貰わない」という街頭パフォーマンスをしながら油を売って、富を蓄えた。
そうして武士になることを夢見て油商人から転身し、武者修行に励んだ。庄五郎は妙覚寺にいたころの弟弟子・日運の口利きで、美濃守護土岐家の重臣・長井長弘に仕官することに成功する。
日運は僧籍ながらも、斎藤氏の血縁者であったことで庄五郎の還俗に一役買うことができた。
庄五郎は文武両道に優れ、その才能を高く評価した主君の長弘から、断絶していた長井家臣西村氏の名を賜り、「西村勘九郎」と名乗った。
この頃には長井長弘の主君・土岐頼芸の信頼を得ている。
勘九郎が仕えていたころの土岐家は、先代の土岐政房が死去してからというもの、長男・政頼と次男・頼芸の両者が次期守護職の継承権をめぐって争っていた。
長井長弘は頼芸を次期守護職に推薦していた。勘九郎も長弘に従い、頼芸派であったため、享禄三(1530)年に長弘とともに政頼を越前へ追放したことで、お家騒動は決着を迎えた。
しかし、しばらくすると勘九郎は主君・長弘を「政頼と通じていた」とみなして殺害。
そうして、自ら殺害した主君の名跡を継いで「長井新九郎規秀」と名乗り、徐々に土岐家において発言力を増していった。
天文七(1538)年に美濃守護代・斎藤利良が病死すると、ついにその名跡を継いで「斎藤新九郎利政」と名乗った。
ただし、斎藤氏の名跡こそ名乗ったものの、守護代の職は継承していないことには留意されたい。
天文十(1541)年には利政は土岐氏の更なる弱体化を狙い、主君・頼芸の弟の頼満を宴の場で毒を盛り、殺害。これを契機として頼芸と利政は対立する。
頼芸は甥の頼純やその庇護者・越前朝倉氏と連携し、利政と敵対する姿勢を見せた。
その動きを察した利政はこの翌年、頼芸の居城・大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(後の土岐頼次)を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となった。
この時の利政の年齢は生没年から計算して、数え38歳~48歳ぐらいだったと推測されている。一介の油商人が、30年かけてついに一国を支配する武士となったのである。
……と、ここまでは従来の道三の功績とされており、「美濃統一は道三一人の成り上がりによるものである」という説が支持されてきた。
例えば、精度の高さは一次資料並みといわれる二次資料『信長公記』でもこの説でまとめられている。
しかし、現在の歴史学会においては、実際の美濃統一事業は親子二代によるものとする説が有力となっている。
油商人から僧侶に転身し、さらに伝手を頼って長井長弘の家臣となって頭角を現し、主君の信頼を勝ち取るまでの経歴は、道三の父親・長井新左衛門尉のものであることが、近江の大名・六角義賢の記した書状という一次史料の発見により判明したのである。
戦国時代当時に書かれた書状は、戦国史研究において非常に有力な証拠となりうるのだ。
長弘の殺害以降の経歴は従来通り、道三のものであることが現在ではほぼ確定的となっている。
とはいえ、創作においては「道三の成り上がりにより美濃が統一された」という従来の説が今もなお採用されている。
なお、新左衛門尉は利政が30歳になった頃に病死したと言われる。
美濃統一を成し遂げた道三の名声は、各地に知れ渡っていた。野望のために手段を選ばない道三は「美濃のマムシ」と呼ばれた。
マムシは生まれてくる際に母親の腹を食い破るといわれるため、道三の主君殺しをそれにたとえたのである。
尾張に追放された頼芸は尾張の大名・織田信秀(信長の父親)を頼り、美濃守護代の座に復帰することを目論んで美濃に進攻することを決定。
南から信秀&頼芸、北から朝倉氏の挟み撃ちを受けかねない厳しい状況であったが、天文十三(1544)年、あるいは天文十六(1547)年の加納口の戦いでは織田軍を壊滅させて撃退。
とはいえ、利政も長期戦により国力の低下することを危惧して、一旦は頼芸と和睦。そうして、利政は機嫌取りのため、頼芸を美濃守護に復帰させたのであった。
しかし、利政は水面下で織田家や朝倉家との和睦を行っていた。特に織田家の和睦においては、娘・帰蝶(美「濃」から来たため後に「濃姫」と呼ばれる)を信秀の嫡子・信長に嫁がせることでこれを成功させた。
こうして、頼芸を孤立させた利政は、
「美濃守護に復帰させてもらったなどと、その気になっていたお前の姿はお笑いだったぜ」
とばかりに頼芸を再び追放。こうして、美濃統一を完遂した利政は家督を嫡男・高政(義龍)に譲り、出家して「道三」と号した。
しばしばこの時「道三は隠居した」といわれるが、『信長公記』には「隠居した」という記述がみられないので、これまで通り稲葉山城に住み続けたともいわれる。
しかし、嫡男・義龍との仲はあまり良くなく、道三自身は義龍を「無能」とみなし、次男・孫四郎や三男・喜平次を溺愛していた。
また、美濃には道三による支配を内心快く思っていない者も未だ多くいた。
弘治元(1555)年、伯父・長井道利と共謀した義龍は仮病を使い、道利を使者として孫四郎と喜平次を招いた。
罠にかかった孫四郎と喜平次の二人は、義龍の屋敷から生きて出ることは二度となかった______。
道三は突然の二人の愛息の訃報に狼狽し、美濃山県郡の山中にまで逃亡した。
翌弘治二(1556)年、長良川の戦いにてついに義龍と争うが、義龍軍との兵力差はいかんともしがたく、敗死する。享年63。
娘婿・信長も舅の危機に駆け付けるため、大良口まで出陣したが、勢いづいた義龍軍に攻められ、撤退を余儀なくされている。
逸話
娘・帰蝶の婚姻後のある日、道三は信長と聖徳寺にて謁見する事になるが、信長は長い朱槍と最新の鉄砲を装備させた800人の軍勢を引き連れてきたが、当の本人は袴も履かず、とてもラフな格好。
それをこっそり見ていた道三は鼻で笑い、平服で謁見する事になったが、到着後の信長はなんとそれまでとは真逆な正装であった。
信長は道三が見ていたのを知っていたのだ。
この時の信長を目にした道三は「俺の息子たちはいずれ信長の軍門に下るであろう」と呟いたとされる。
実際、義龍の息子で道三の孫にあたる龍興は信長により美濃から追放され、越前まで逃亡し、朝倉氏の滅亡に殉じている。
一方、道三の末子である利治は織田家臣となり、本能寺の変で光秀の襲撃を受け、二条城にて信長長男・信忠とともに殉じた。
実は、明智光秀からみて義理の叔父にあたるといわれる。
というのも、正室の「小見の方」は光秀の父親といわれる光綱の妹にあたるからである。なお、この「小見の方」は帰蝶の生母でもある。
長男・義龍とは折り合いが悪かったことから、義龍は道三の子ではなく、土岐頼芸の落胤であるとする説がある。
というのも、義龍の生みの親である側室・深芳野がもともとは頼芸の妾であったことから、「道三が深芳野を下贈された際、実は既に頼芸の子を妊娠していて生まれたのが義龍」といわれているのだ。
ただし「義龍の父親=土岐頼芸説」が見られるのは江戸時代に編纂された家系譜からなので、信憑性は低い。
近江の大名・六角義賢の書状には「義龍の父親が道三」と記されていたことから、「道三=義龍の父親」という説はほぼ確定的であるという。
前述のように、戦国時代当時に書かれた書状は、戦国史研究において非常に有力な証拠となりうるためである。
似たような話は「
始皇帝の母・趙氏は荘襄王に嫁ぐ少し前まで呂不韋の妾だった。始皇帝は呂不韋の子ではないか」「
曹丕の息子・曹叡の実父は
袁煕ではないか。甄氏は少し前まで袁煕の妻だった」など前例があり、「成り上がり」に対する誹謗中傷やスキャンダル目線としての物語としては定番のネタではある。
創作
シリーズ初期の頃からちょくちょく濃姫の回想に出てきたりEmpiresで操作できたりしていたが、4系列からはNPCながら一般のモブ武将とは異なるデザインを持った「固有武将」となる。
戦国無双chronicle3においては冒頭にて主人公に「泰平の世を創る」という目的を託した。最終的に有耶無耶になって忘れられたが。
最新作の5ではストーリー上での出番も増量。固有武将の扱いが無双武将に近くなったことで正式なプレイアブルキャラにもなった。
2から登場。仏像の前で肉を食らう剛毅な人物。
主人公と藤吉郎(
豊臣秀吉)のふたりにとっては「霊石」を買い取ってくれるお得意様であり、やがて主人公は義龍に攻め入られた彼の救助に向かうこととなる。
妖怪狩り集団の「ソハヤ衆」と何らかの関わりがあるようだが…
梟雄と呼ばれる存在らしく当然知略を筆頭にすべてのステータスが一級品。
本拠の稲葉山城も堅城で配下も優秀(特に時代によっては光秀もいる)おり、東海地方の平野部なので資源も豊富。
織田とは婚姻同盟を結んでおり、背後を気にする必要もないので素早く上洛しよう。もたもたしていると織田との同盟が邪魔になり詰んでしまう。
しかし、それ以上に目を引くのが
義理のステータスが1というところだろう。
当然、滅ぼして配下にした場合は忠誠の管理をしないとすぐに出奔されたり引き抜かれたりしてしまう。
また、出自が商人であるためか出自の概念がある作品ではほとんどの武将との相性も悪い。
ちなみに、信長の野望では一人での成り上がり説を採用している。
追記、修正は成り上がってからお願いします。
- いつもお疲れ様です!戦国武将項目増えてすごく嬉しい!! -- 名無しさん (2025-01-28 13:13:58)
- ゲーム:仁王2では嫡子共々重要なキャラに… -- 名無しさん (2025-01-28 15:43:48)
- 光秀の父が光綱ってのも「と、言われる」ってやつ。連日同様の指摘して申し訳ないけど、断言するのは慎重になったほうがいいよ。帰蝶といとこの関係ってのはネタとしておいしいけど。あとこの説に乗るなら道三は光秀の「叔父」。親の兄が伯父で親の弟は叔父 -- 名無しさん (2025-01-28 16:56:06)
- 長井新左衛門尉の最期は病死っぽい -- 名無しさん (2025-01-28 17:53:37)
- 松永久秀は「三好宗家には忠臣」で宇喜多直家も「暗殺そこまでやってない」とか実像見直されてるけど道三は当時から悪人ってのが補強されていくという(家臣にすら見捨てられる 大抵の梟雄は身内に優しいといった話多いのに) -- 名無しさん (2025-01-28 18:21:05)
- 義父のマムシ殿 -- 名無しさん (2025-01-28 18:21:32)
- ↑3 返信遅くなりまして申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。訂正させていただきました。 -- makinomantaro (2025-01-28 21:22:50)
- みんな大好きLifetime Respectでお馴染み三木道三の芸名の元ネタ -- 名無しさん (2025-01-29 16:25:30)
- *1 土岐頼芸って信秀を頼って一度美濃守護に復帰、またすぐ道三に追い出されて関東方面の親戚を頼って放浪、なんやかんやで武田家のお世話になってたら信忠に武田が滅ぼされて「なんでここに先守護が!?」ってなったんじゃなかったっけ。なので信長に頼れたのは1582年の3月から6月のごく一時期だけ -- 名無しさん (2025-01-30 06:50:02)
- 創作は仁王2の道三が一番好き -- 名無しさん (2025-01-30 20:40:59)
- 土岐頼芸の読みは「ときよりのり」って説が今は主流 -- 名無しさん (2025-02-01 12:37:51)
最終更新:2025年05月15日 10:16