袁家三兄弟(三国志)

登録日:2015/03/23 Mon 01:42:00
更新日:2025/03/24 Mon 21:16:22
所要時間:約 20 分で読めます




アニヲタ諸氏は三国志で『兄弟』といえば誰を思い浮かべるだろう?

真っ先に思い浮かべるのはやはり劉備関羽張飛の義兄弟だろうか。
桃園の誓いで結ばれた彼らの絆は、血のつながりはなくとも何よりも強固だろう。
三国志前半は彼らの物語と言っても過言ではない。

孫家の兄弟も印象深い。
孫堅の跡を継ぎ領土を拡大した孫策と、それをさらに継いで良く治め、ついには皇帝にまで登った孫権
劉備の妻となった孫夫人も多くの人が知る通りであろう。

三国の英傑で言えば曹家の兄弟も負けてはいない。
父・曹操と共に「詩の三曹」と謳われた曹丕曹植、2人と異なり武勇で名を上げた曹彰も有名だろう。
曹昴…曹熊…曹沖…?

この三つに比べて地味なものの諸葛瑾諸葛亮兄弟も見所がある。
違う勢力に仕える立場上公私を混同しない様に接さなければならず、交わす会話すらも少なかった。
にもかかわらずお互いを理解し、かつ相手を気にかける心配りを失わなかった。
諸葛瑾「弟も私同様使えるべき君主を見出しました。私が蜀へ行かない様に弟も呉へ参る事はないでしょう」
この台詞は並大抵の意志や信頼では到底言えるものではないだろう。
さらに従兄弟ではあるが諸葛誕もいる。演義で目立たないためあまりフィーチャーされないが、彼もまた魏では有能で通った人物である。
反乱を起こして敗れたが、捕えられた部下たちは皆「諸葛公のために死ぬなら悔いなし!」と言って降伏より死刑を選んだ忠臣だったという。
諸葛亮は竜、諸葛瑾は驢馬虎に対し諸葛誕は「狗」に例えられたが、これは「功ある狗」という賛辞である。

他にも三国志には様々な『兄弟』たちが存在する。みな三国志を彩る英雄と呼ぶにふさわしい者たちだ。
韓徳の息子たち...?

………その反面、どうしようもなく救いようのない馬鹿兄弟もまた存在するのである。
その方面で有名なのが


袁 家 三 兄 弟

……である。





袁家三兄弟とはなんぞや?

袁家三兄弟とは、袁紹の子供たちである。
内訳は

長男:袁譚(えんたん)
次男:袁煕(えんき)
三男:袁尚(えんしょう)

実際には他にも子供たちがいることはいたが、空気だし特に書くこともないのでスルーする。
あと、袁は袁でも袁紹袁術・袁遺のことではない(この三人にも従兄弟同士説と兄弟説がある)。
父・袁紹と叔父・袁術については該当項目を参照。

さて、ではなぜ兄弟がいっぱいいるなかこの3人がフィーチャーされているのか?
それはこいつらがしでかしたお家騒動に由来する。


何があったん?

きっかけは偉大な父、袁紹の死である。
袁紹は河北を統一し、大陸一の勢力を有していたが、官渡の戦いで曹操に敗れてしまう。

その後袁紹の領内の各地で反乱が起きたが、袁紹が存命中はそれらをうまく鎮圧し、曹操が攻めてくることもなかった。
曹操側にとっては官渡の戦いは相手の隙を突く形のギリギリの勝利であり、圧倒的な国力を持つ袁紹との勢力地図はこの戦いに勝った時点では大して変わらなかった。

しかし袁紹が病没すると一気に状況が変わってしまう。袁紹は生前、自分の後継者を明確に指名していなかった。
そのため家臣が長男の袁譚派と三男の袁尚派の真っ二つに分かれてしまったのである。

「え、長男と三男? 次男は?」と思われるかもしれないが、ここでは何故か次男の袁煕は華麗にスルーされている
理由は元々袁紹に期待されていなかったとか家臣から支持されてなかったとか、そもそも最初から袁尚支持だったとか諸説ある。
しかしこいつは後述する甄皇后がらみでヘタすると一番有名かもしれない。袁煕本人はぜんぜん嬉しくないだろうけどな!

あと、袁紹の甥として高幹という人物もいる。彼は并州の刺使だった。
彼もまた袁熙と同じく袁尚を支持したものの、一部では半ば独立勢力として動きを見せている。


具体的には?

『後漢書』によると、袁紹の死後、幕僚の郭図・辛評などが袁譚を擁立し、おおかたも長男である袁譚を後継者と目していた。
しかし幕僚の逢紀審配はその「奢侈贅沢」ぶりを袁譚に憎まれており、袁譚が後継者になると郭図らに粛清されると恐れて、
袁尚が生前の袁紹に寵愛されていたことを理由に無理矢理袁尚を擁立してしまう。
このとき審配らは袁紹の遺言を偽造すらしたともされている。
ちなみに、袁煕と高幹は全く後継者候補に挙がっていない。要は長幼の順にしたがって長男を立てるか、審配ら冀州の実力者にとって都合のいい後継者を立てるかの内部問題だったのだろう。


※袁紹陣営は袁紹が都から連れてきた「賓客組」と、冀州を乗っ取る時に活躍した冀州の「豪族組」の二派の対立が根深かったという説がある。
逢紀、許攸ら「賓客組」は袁紹との信頼関係は厚いが、自前の基盤を持たない
審配、沮授、田豊ら「豪族組」は地元であるため軍事・政治面に強い影響力を持つが、自党の利益を優先して袁紹の指示に従わないことがある
そのため袁紹とその意を受けた「賓客組」は「豪族組」の切り崩しを狙い、官渡でのあれこれや後継者問題のあれこれはこの対立に起因する…って説。
さらには、袁紹政権にはもう一つ「潁川組」とでもいうべき勢力がいる。それが郭図や辛評、荀諶といった面々で、曹操政権における荀彧党とは同郷ばかりである。
この「潁川組」が、上の二大派閥への一発逆転を狙って袁譚を擁立した。
こうした三大派閥が深刻な対立を起こした、というわけだ。
けど袁尚擁立をした逢紀は「賓客組」審配は「豪族組」とバラバラ(見ようによっては両派は折り合いをつけれたとも解釈可)なので、あんまりこの図式に当てはめすぎるのも危険なので注意してね。



さて、弟の袁尚が強引に後継を宣言したことに対し、袁譚は黎陽の地に駐屯し車騎将軍を自称する。
父の仇敵である曹操が虎視眈々とそっちを狙ってるのになにやってんだか…と思うかもしれないが、これは袁紹の官位が大将軍であり、車騎将軍は大将軍の格下であるためこの時点では袁譚が袁尚に翻意を見せたわけではないとも解釈できる。

その曹操さんは当然、袁紹が死んだタイミングを狙って攻め込んでくる。ただ、正史や後漢書の各記述を繋ぎ合わせると、どうもこの時は袁譚と袁尚は協力して曹操を撃退したようだ
例の一つとして「後出師の表」(諸葛亮が書いたとされるが信憑性は怪しい)にも曹操の敗北の一つとして袁兄弟に敗れたことが触れられている。
また、袁尚(記述によっては袁譚)は并州刺史高幹・河東太守郭援に命じて洛陽付近を攻撃させており、決して最初から対立していたわけではない。


しかし、袁譚が「今こそ力を合わせて曹操を追撃すべき」と袁尚に提案したのに対し、袁尚サイドは袁譚に兵をやれば反乱するのではないかと疑い拒絶
度重なる扱いに遂にブチ切れたのか袁譚は袁尚の本拠地である鄴に攻撃をして、対立は決定的になってしまう。
これは郭図・辛評の進言があったとされ、袁譚の監視役として付けられた逢紀はこの時に殺害されている。郭図なんかは「出ると負け軍師」なんて言われちゃってるし仕方ないね。
この流れに関しては郭嘉が事前に読み当てていたので引用しておきたい。

「急之則相持、緩之而後爭心生」
(事を急げば袁兄弟は団結するが、放っておけば争い始める)

目の前に外敵がいるうちはいいが、いなくなれば……というわけである。


しかし袁譚は袁尚の反撃を受け連敗、進退極まった挙句に曹操と同盟を結ぶ
袁尚は袁譚の本拠である平原に攻撃に向かうが、曹操がその隙をつき鄴を包囲。
鄴では審配が奮闘し曹操を苦しめるが、遂に陥落し審配は処刑。更に鄴を救援すべく反転した袁尚はその隙に袁譚に領地の大部分を掻っ攫われる。
さらに、帰還した鄴で曹操に撃破され、中山に逃走したところを袁譚にトドメを刺されて袁尚陣営はここで完全に崩壊
落ち伸びた袁尚は次兄の袁煕を頼って転がり込んでくる。

今までのお家騒動に関して袁煕が関わった形跡はないが、こんな疫病神は放っておけばいいのになぜか保護してしまう。
兄として弟を見捨てられなかったのだろうか?その心意気は評価してもいい……のか?
が、当然部下たちからしたらそんな厄介者拾って曹操に狙われるなんざたまったもんじゃなく、袁煕・袁尚を叩きだして曹操に降伏する。そりゃそうだ。


その後、追い出された袁煕・袁尚は北方異民族である烏丸(うがん)を頼る。
ちなみに袁熙は幽州の支配をしていたわけだが、地理的に袁熙は烏丸と付き合いがあったのかもしれない。
……が、曹操は烏丸の地までしつこく彼らを追ってきた。ただ、元々北方の異民族はたびたび国境を起こしてきたためメインはそいつらの討伐で、もはや自前の戦力を持たない袁家の兄弟はついでだと思われる。
余談だが烏丸はこの後も反乱をおこし、上述の曹操の子の1人である曹彰はそいつらを討伐して名を上げている。

まぁ、異民族の力を借りたくらいであの曹操を追っ払えたら苦労はしない。
当然のように負けては遼東の公孫康の下に逃げ込んで行く。(史書に性的不能と書かれてしまったことである意味有名な公孫恭の兄)

袁煕は自分たちをすんなり受け入れた公孫康を疑ったが、袁尚は公孫康の軍を奪い取る気だったので敢えて飛び込んで行く。
……「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とは言うが、それは相応の実力があれば成り立つのである。
当然公孫康は2人を捕えて斬首し、曹操に手土産として差し出してしまう。
この時建安12年(西暦207年)9月のことであった。

袁尚は斬首される直前、寒がって筵を求めたが、袁煕に

首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか

と窘められたという。
ただしこのセリフは公孫康が言ったという説もある。
というより、袁熙が己の死期を悟っていたとは思えず(それなら一人だけでも逃げるはず)、公孫康が「これからお前らを殺すんだよ」と言ったと考えたほうが自然だろう。


ちなみに袁譚は2人が死ぬ2年前に、曹操によって殺されている
打ち破った袁尚の軍を吸収して勢力を拡大したため、「盟約を違えた」と曹操を怒らせてしまったことが原因だが、最初から理由をつけて始末する気だったか…はわからない。歴史の勝者による後付けかもしれない。

なんだかんだで戦場では勇猛な袁譚は当初は曹操軍に猛攻を加えて被害を与え、曹操も一時は手を緩めようとしたのだが、従弟である曹純に叱責されたため、自ら鼓を打ち鳴らして陣頭に立つと戦線は逆転。
袁譚は曹純に追い詰められるのだが、そのとき吐いた命乞いの言葉が

私はおまえを富貴にしてやることができるぞ

……お前は何を言ってるんだ(AA略)
※原文は「咄,兒過我,我能富貴汝」で、異訳あり。

まぁ、最期だけ見るなら次男袁煕が一番マシ……かな。


さらにもう一人、従兄弟(袁紹の甥)の高幹だが、袁尚の指示を受けて河東太守郭援を従え、馬騰・韓遂や匈奴の単于・呼廚泉と連合し、別動隊として曹操を北から圧迫した。
だがその馬騰が曹操配下の鍾繇に説得されて寝返り(もともと曹操と組んでいたのが高幹に寝返り、さらに曹操側に寝返った)、
馬超と龐徳が郭援を戦死させ、さらに本隊である袁尚が本拠地の鄴を失陥したことで、いったん曹操に降伏。

しかし、曹操が袁尚・袁熙を追って烏丸追撃に出ると、再び決起(袁尚に呼応したわけではないらしく、その使者を殺そうとした)。
鄴を奇襲し、さらに河東・弘農などでも同時に挙兵させ、黒山賊を引き込むなど、かなり大規模な作戦を展開した。
が、この猛攻も曹操側の各地の指揮官たちが懸命に押しとどめたことで各個撃破され、高幹本隊も壊滅。
彼は劉表のもとに落ち延びようとしたが、追っ手に捕まり殺された。


余談になるが、後年曹操の後継者問題が浮上した際に曹操はこの兄弟の起こしたお家騒動を教訓に早々と自分の後継者を曹丕に指名したという逸話がある。
(これについて相談した賈クに「袁紹と劉表のことを思い返していた」と暗に窘められたという話も存在する)


ちなみに袁紹の部下たちもオブラートに包んで、どうにも我の強い連中が揃っている印象があるだろう。
史書でも高く評価されているのは田豊・沮授であり、曹操は「彼らの言う持久戦をやられたらこちらが負けていた」とも評した*1
だが田豊は献策を容れられず投獄され、挙句に官渡の戦いに負けたことが原因で「田豊のヤロウ、袁紹さまが負けたといって大笑いしてますよ」と讒言され処刑。
沮授も官渡で逃げ遅れ、曹操に捉えられてしまった。曹操に惜しまれたものの、逃げ出そうとしたためについに処刑される。

こうして二枚看板扱いされていた二人を失い、残った幕僚たちが愉快なケンカを起こし始めてしまった。

郭図…誰が呼んだか出れば負け軍師。袁譚は彼に脅されるように担ぎあげられていたらしく、時折一人涙を流していたとか。
辛評…郭図と共に袁譚サイドの戦犯として劉表などから批判されているが、本人のエピソードが少なく悪目立ちする郭図がいるため空気。弟は曹操に仕え栄達した。
許攸…袁紹の旧友だが官渡の際に曹操に寝返って敗戦の原因を作る。自分の才能を鼻に掛ける性格でやがて曹操に処刑された。
逢紀…荀彧いわく「向こう見ずで自分勝手」。勢力拡大時の進言は割と的中しており袁紹からの信頼は厚かったが、田豊を上記の通り讒言して死に追いやった張本人。ただし、同じく讒言されていた審配は庇っている。
審配…荀彧いわく「独りよがりで無策」。

袁尚についた審配だけは、鄴を攻められた時によく防戦し、捕らえられても最後まで忠義を守って死んだので一般的にそこそこ評価されているが、
遺言偽造により袁尚を担ぎあげた疑惑など、やはり袁尚サイドの問題児。また一族含めて巨万の富を持っており好き勝手に振舞っていたという。やっぱ五十歩百歩である

つっても、この時代「豪族」というものはどこでも審配のような輩ばかりだったとはいえるんだが。

劉表配下の蔡瑁・蒯越が典型例で、もともと劉表は地元豪族たちに阻まれて、任地の荊州に入ることさえできなかった。
それが、他の豪族たちを滅ぼしたいと企んだ蔡瑁・蒯越に擁立されて、やっと赴任できた(その後、この三人は他の諸豪族を滅ぼしている)。
そして劉表が死ぬと、彼らはその息子と遺領を曹操に降伏させ、そのまま曹操政権でも重役のポストを手に入れている。

審配たちがことさら傍若無人だったというより、当時の人間はたいていこんなものだった、というべきだろう。



兄弟について個別解説


長男:袁譚

官渡の戦い以前は青州を治めていたが、優れた人物を招いても上手く使うことができず、統治も上手くいっていなかったらしい。
が、元々青州は袁譚赴任以前から黄巾党の活動が最も盛んであり、青州No.2であった劉献が邪魔してきたなどの事情もある。
また、宿敵公孫瓚軍の青州刺史・田楷を倒し、北海太守である孔融を追い出し、海岸付近の海賊は官位を送って手懐けて青州一円の支配に成功するなど、軍事的には無能ではない
袁紹は官渡の戦い前の檄文で自分の軍と袁譚の軍と高幹の軍が曹操を襲うと語っており、ある程度の戦力は整えていたようだ。
(まあ残る袁熙は北の幽州担当なんだから、南方の曹操戦には最初から参加できないし、袁尚は初めから袁紹の元にいるため、袁譚と高幹だけしか檄文で触れられないのもある意味当然だが)
官渡の戦いで袁紹の側にいる記述が見受けられ、後継者の話はともかく軍事面では父から頼りにされていた様子である。

しかし、支持者の顔ぶれを見るとひざ元の青州出身者を除けば潁川出身者の郭図や辛評ばかりで、
実は一番肝心な河北出身者からの支持を取り付けられていない
また曹操に降伏するという外交策も、どう考えてもそのまま曹操配下でやっていけるはずがなく、軍事的にはともかく政略面や政治面ではイマイチだったようだ。

ちなみに劉備が曹操の下から逃げ出したとき、袁譚は劉備を厚くもてなして受け入れている。これは劉備が袁譚を官吏に推薦した過去があるからであった。
また、上記の様に曹操が攻めて来る事を懸念していたのか袁尚に協力を呼びかけたり、あえて格下の車騎将軍になって袁尚を立てる形を取ろうとしていた事から、人柄に関してはまっとうであり恩義に対する礼はそれなりに弁えていたとも取れる。



ただ、袁譚には最初から後継者の可能性はゼロだった、という説もある。
ことの発端は袁紹の出生にさかのぼる。

袁紹の父親は、袁成とも袁逢とも言われる。このうち、本来袁氏の当主だったのは兄の袁成だったが、早死にしてしまったために弟の袁逢が当主となった。
袁紹は、「本来当主となるはずだった袁成の息子」とも「袁逢の長男だったが庶子だったため廃嫡され、袁成の家を継ぐべく養子にされた」とも言われる。
いずれにせよ彼は袁成の家系を継いでおり、そしてこの時点で「袁氏当主・安国亭侯」の爵位は、袁逢の嫡長子・袁基が受け継いでいた。つまり袁紹は「袁氏当主」の座から外れていたのだ。
その袁基を含めた袁逢家は、反董卓連合の折に、あの董卓に絶滅させられており、宙に浮いていた。

そこに目を付けた袁紹は、袁譚に「袁基の養子」を名乗らせ、「安国亭侯」を受け継いで、袁氏宗家の座を奪わせたという。
すると、袁紹が獲得した「鄴侯」(もしくは「邟郷侯」とも)の爵位は、袁譚は継げなくなった。
袁紹が袁譚を「河北袁家の後継者」から外したのは、袁譚を「汝南袁氏の後継者」として扱っていたため、と言われている。
袁紹があと十年でも生きていれば、三男袁尚が「鄴侯」として大成し、袁譚は有力な分家として存続しえたかもしれない。
しかしその袁紹が早死にしてしまったため、袁譚に「汝南袁氏だけでなく河北袁家も収めてみせる!」と野心を抱かせたのか。
ただ結果的には、河北袁家を支える幹部たちが、袁譚側に付くことはなかった。


演義では史実の記述とは真逆に粗野で父親から嫌われていたとされ、無能さが強調されている。

黄巾党
 三国志の始まりとも言える黄巾の乱を起こした反乱軍。本隊はすぐ滅んだが、残党は各地に出没した。袁紹がかつて撃退し、その後高幹が引き込んだ黒山賊もそのひとつ。


次男:袁煕

幽州刺史だが、袁譚・高幹と違って刺史としての働きはほとんど書かれておらず、実力は未知数。
なので三兄弟のなかでは一番まともな可能性が微粒子レベルでなくもないと思われる……のか?目クソ鼻クソだけど。
幽州は公孫瓚に殺され、袁紹に協力した劉虞の残党の力が強く、あまり影響力を発揮できなかったのかもしれない。
しかし、その後袁尚・袁熙が烏丸たちの庇護を受けていたことを考えると、異民族からは評判がよかったのだろう
劉虞は異民族から厚く尊崇されており、袁熙が劉虞の政策を継承していたからこそ、異民族の支援を受けられた、とも考えられる。

そんなことよりコイツの特筆すべきことは、後の魏の初代皇帝、曹丕の夫人であり、二代目皇帝曹叡の母である甄皇后の前の旦那であることである。
そのため曹叡の父親が実は袁煕だったなんて説もあるが、あの疑り深い曹丕が他人の子である可能性がある子を後継ぎにするとは考え難いので、トンデモ説の域は出ていない、たぶん。

ちなみに袁熙には子供がおり、彼らは辛うじて生き延びた。
その子孫が、武則天の周を終わらせ唐を復活させた宰相、袁恕己である。
また、唐を滅ぼした朱全忠の甥で、朱全忠の後梁と、その次の後唐にまで仕えた袁象先もその子孫と称している。

某動画サイトの大百科では何故かこいつだけ記事がある。


三男:袁尚

生まれつき美貌の持ち主で武勇に優れていたとされるが、結末はご覧の有様だよ!
生前の袁紹からは寵愛されていたらしいが、袁紹死亡以前のことはほとんど史書に記載がない。…というか袁紹死亡以降もあんまり本人の行動・人柄を示す記載がない。
兄2人や高幹と違い刺史に任命された記録はなく、「幼かった」という記述もあり、下手すると後継者争いが勃発した時点ですら自分の意思を持てない年若の少年だったのかもしれない。
もしかすると主体性を持てず、単に袁譚・郭図に出し抜かれることを恐れた審配ら冀州の実力者から傀儡として担ぎあげられただけの哀れな被害者だったのかもしれない。
まあ数少ない人柄を示すエピソードである公孫康に殺される最期での言動はどうにもあれだけど。


しかし実は支持者の顔ぶれだけを見るともっとも支持層が厚かった人物でもある
袁紹側近組唯一の生き残りの逢紀を筆頭に、冀州豪族系の審配・沮鵠(沮授の子)、幽州を任された袁煕、并州を治めるいとこの高幹……
と、潁川組を除くほぼすべての派閥や幹部の支持を受けていた
さらには匈奴の単于、呼廚泉も彼からの依頼を受けている。
「衆目は袁譚を支持していた」というが、例によって袁紹一党を過剰に悪く書いている史書の記述であることは考えねばならないだろう。

また軍事面に関しても、袁譚が曹操に降伏するまでは袁尚のほうが圧倒していた。というより袁譚をして曹操に降伏させるほどに追い詰めたといえる
青州一つしか持たない袁譚と他の三州からの支援を受けれた袁尚とでは戦力差がかなりあったのかもしれないが、単純な能力でも兄より優れていた可能性はある。

上述した「汝南袁家当主と河北袁家当主の違い」を考えるなら、やはり「鄴侯」の次期当主としていろいろ袁紹から手続きを受けていた可能性がある。


演義だと曹操軍の史渙を一騎打ちで討ち取るという見せ場は一応もらえているが、その後は史実同様のグダグダ。


従兄弟:高幹

袁紹の甥だが、その姓が示す通り外甥(母親が袁紹の妹)である。
袁譚、袁熙らと並び、并州の支配を任されていた。

しかし親戚だから引き上げられたわけではなく、文武両道の才能にあふれ、かつ野心に満ちていた上昇志向の持ち主だったという。
結局曹操に滅ぼされたが、最初の攻撃時でも二度目の反乱時でも短期間のうちにかなりの規模の軍勢を同時に起こしている。案外前評判に偽りはなかったようだ
年齢的にも、袁譚と同じぐらいか、より年長だったかもしれない(官渡以前で袁紹が別動隊として頼りにしている)。
并州の支配も割合うまくいっていたようで、滅びるまでの七年間は卓越した治績を上げていたらしい(ということは正式に并州を支配したのは199年頃か)。

とはいえ、二度目の反乱の時には袁尚が送った使者を殺そうとしている。この頃には本家を凌いで自分が河北の支配者になろうとしていたようだ。


各メディアにおける袁家三兄弟

  • 横山光輝版三国志
まるっとカット。影も形も存在しない。

大抵のキャラがかっこよく描かれている蒼天航路では官渡の戦いまでは比較的マシ。
官渡の戦いの最中も袁譚と袁尚が対立している様が描かれている。
袁譚は愚直だが真面目で、比較的マシな人物像。しかし袁紹からは突き抜けたところがないと思われている。
袁尚を差して公孫康が言った「痛快なほどに図々しく蒙昧だ」は袁尚という人物を最も的確に表現しているかもしれない。しかし、袁紹からは王者ととしてのカリスマはむしろ袁尚のほうにあると思われていたようだ(突破力の差だろうか)。
あと最初はまともそうに見えた袁煕のハゲ散らかし方が見てて不憫になってくる。
なお単行本裏で本編と異なり三兄弟まとめて首を串刺しにされているが、これは当時流行っていた「だんご3兄弟」が元ネタ。

  • コーエー三国志シリーズ
SLGの方の三国志。3人(あと従兄弟の高幹も)全員が揃いも揃って見事にカスだが、カスなりに個性らしきものはちゃんとある。

袁譚
最も役立たず。能力的には三流武官そのもので、脳筋な上に筋肉さえ控えめ。義理関係の数値もやばいので本当にどうしようもない。
最近は普通の表情になった陶濬に代わって顔芸を始めたが、その姿は球場でヤジを飛ばすオヤジのようで、まるで品が無い。

なお劉備とのいきさつからか相性が劉備よりになっていることが多く、『11』の「官渡の戦い」シナリオでは独立したと思ったら勢力合併で劉備の傘下に入るというウルトラCを見せることも。
ギリギリ戦場に出せなくもない程度の能力はあるので、親愛補正の強い作品では劉備のお供としてそれなりに役立ってくれたりもする。

袁煕
三兄弟で唯一義理関係が普通。タイトルにもよるが、まあ一番使えるか。能力傾向としては文官よりの器用貧乏。
ただし妻の方が優秀なので、婚姻補正が妻の登用の邪魔になる場合、ほぼ殺される運命にある。
もっとも最近のタイトルだと 袁煕を殺すと甄氏に恨まれる (ついでに父親や兄弟にも恨まれる)のでそうもいかなくなってしまっている。

袁尚
長男に少しだけ上乗せした感じの低義理・無能。当然長男同様使えないが、魅力パラがある場合はわりと高めなことが多い。演義での一騎討ちの逸話により武力もまずまず。また父親の袁紹とは相互親愛なので戦場では連携が望める。
でも、だからどうしたといわざるを得ない。魅力や親愛がない場合はお察しください。
なお、作品によっては 袁紹が死ぬと優先的に後継者になる

高幹
袁煕と同じく義理関係は普通。武力は袁譚以下だが 統率は三兄弟の誰よりも高い 。統率が武力に統合されてるタイトル?察しろ。

  • 三國無双シリーズ
甄皇后が甄姫の名で初期からプレイアブルキャラである+後にプレイアブル参戦した郭嘉の最後の活躍のため、それ絡みでちょいちょいスポットが当たることがある。モブだけど。

3の外伝シナリオでは父親の袁紹が生き延びている状態ではあるものの、袁譚と袁尚の仲は悪いことからどちらか片方に取り入って味方化させてもう片方を討ち取る策を以て戦う(この時はまだ袁紹含め本隊はまだ到着してない)。どっちを味方にしても大して戦況に変化は無いのでぶっちゃけ気分で選んでいい。味方化すると下の台詞を言ってもう一方を罵倒してくる。
「いいだろう!あいつは気に食わんしな!」
「ふん、あんな奴もう兄でもなんでもない!」
で、そうやって討ち取った後に袁紹パパがご到着(ムービー付き)。寝返っている馬鹿息子に対してコラッ!と叱りつけ、味方になってた息子はご、ごめんなさい!して再度敵に。…最早なんというか。

かつては曹丕に勝って甄姫に選ばれることもあったが、現在は曹丕が超イケメンのプレイアブルキャラとなったため多分もう無理。


  • 三国志大戦
袁兄弟として3人そろって1枚のカード扱い。イラストは対立している袁譚と袁尚の間で袁煕が頭を抱えているというクッソ情けないもの。
…但しこれは旧作での話。

最新作では何と個別カード化。まあ馬鉄・馬休やリカクシも単独カードになったのでしょうがないか。十常侍?知らんちなみに全員EXカード。
そしてこのキャンペーンの目玉はその後に入手できる伏寿である為、大体の場合はついで入手だったり

ただ、スペックは全員1コスト3/3と思いのほか優秀。
袁譚は槍、袁煕は弓、袁尚は騎馬と兵種も見事にバラバラ。袁尚のみ征圧1。
計略は全員が「袁家の乱・〇」となっており、通常は武力+1だが、他の兄弟がいると武力+15かつランダム移動と化す。
効果は強そうだがランダム移動が痛く、袁尚は迎撃リスクが無駄に上がり袁煕は仕事しなくなる為、基本は袁譚が乱を起こす。
移動が制御できれば使いようがあるため、他の計略で強制前進させたりその場から動けなくしてしまうのが有効。
動かなければ袁煕も仕事できるし、しかもコンボ成立時の武力とコスパは呂布の天下無双に匹敵する。袁尚…

後、撤退台詞が親父共々やたら面白い。袁煕以外。
袁紹「ば…ば…馬鹿なっ!」
袁譚「か、金ならある!これで見逃しどわああああお!」
袁尚「馬鹿な馬鹿なそんな馬ぁ鹿なぁー!」
ちなみに袁煕の撤退台詞は上記の最期の再現で「万里の旅へ…」

なお、高幹もカード化された。
5/5/2無特技で、計略は袁紹軍らしく士気バック系の「栄誉の剛騎」。

そして袁譚と袁尚はまさかの2枚目が追加。
しかしスペック・兵種はなんと互いのEXの相互入れ替え。因縁ってレベルじゃねえ。
計略「血縁の争い」は「反逆の狼煙」に近いが、相方を斬らないとまともに武力が上がらないとこれまた因縁全開。
しかしそれだけやっても言う程武力は上がらず、使えなくはないが使いにくい。




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最終更新:2025年03月24日 21:16

*1 ただ、官渡の戦いは袁紹軍が多勢で遠征を仕掛けたわけで消耗が激しく、かつ黄河を挟んで兵站が伸び切り、長期戦は危険だった。また実際の官渡の戦いは持久戦にもつれ込んだ結果、袁紹軍が兵站を突かれて敗北している。